幼児への誘い・5



 早苗は晴れやかな顔で客席に向かってぺこりと頭を下げた。一方、雅美の方は気が気ではない。(やだ、こんな高いステージに立ったら、スカートの中が下の客席から見えちゃうんじゃないかしら。みんな、私のこと、幼稚園の年少だと思ってる。仕方ないから、それはそれでいいわ。でも、おむつカバーを見られちゃったらどうしよう。幼稚園児のくせにおむつだなんて思われたたら、さっきみたいにみんなから恥ずかしい目で見られちゃう。大丈夫かしら、客席からスカートの中、見えないかしら)そのことが気になって気になって、ついついスカートの裾を引っ張り続ける雅美。けれど、実は、さほど気にすることはなかった。客席とステージとの間には円形のイルカプールがあってスカートの中を下から覗き込むような角度には決してならないから、スカートが捲れ上がってしまうようなことがない限り、雅美の年齢に似つかわしくない恥ずかしい下着を大勢の客に見られる心配はないのだった。それに、山風と海風とが入れ替わるこの時間、スカートを捲り上げるような強い風が吹く心配も殆どなかった。
『はい、大きな拍手をありがとうございました。それでは、可愛い姉妹とイルカさんに握手していただきましょう。最初は、おねえちゃんの早苗ちゃんからね』
 大げさな身振りで客席に向かって頭を下げた進行係は、ステージの中央からプールに向かってせり出した幅一メートルくらいのテラスに早苗を立たせた。そこへ、三頭の中で一番体の大きなイルカが泳ぎ寄って来る。
『お相手のイルカさんは、五歳のコービーです。じゃ、早苗ちゃん、そこに立ったまま、コービーって呼びながら右手を前の方に出してね。はい、いくわよ。せぇの……コービー!』
 進行係がイルカの名前を呼んだ。それに合わせて早苗も大きく口を開けて「コービー」と呼びながら、言われた通り、右手を大きく前の方に差し出した。
 テラスの正面の水面がぱっと盛り上がったかと思うと、無数の水滴と一緒に大きなイルカが水の中から姿を現し、器用に体のバランスを取りながら盛んに尾鰭を動かして、水の上に垂直に立ち上がった。そうして、慎重に狙いを定めるみたいにそのままの姿勢で早苗の方に近づいて、胸鰭をすっと早苗の右手に向かって差し出した。
『はい、握手〜』
 文字通り、コービーと呼ばれたイルカと人間の少女・早苗との握手だった。一瞬、客席がしんと静まりかえった。
 ほんの五秒ほどの握手だったけれど、感極まったかのように、早苗の顔は上気して真っ赤になっていた。感激のあまり、両目が潤んでいる。
「コービー、ありがとう。本当にありがとう」
 滑らかな身のこなしで水の中に姿を消したイルカに向かって、早苗は何度も何度も手を振った。それに応えるかのようにコービーは再び水面に姿をみせると、背泳ぎの姿勢になって、胸鰭を大きく振ってみせた。
 客席から一際大きな拍手が湧き起こった。
『さ、次は妹の雅美ちゃんです。雅美ちゃん、一人で立っちしてられるかな?』
 拍手が鳴りやむのを待って、ステージの後ろの方で壁に手をついて伝い立ちしている雅美を気遣うように進行係の女性が言った。
「あ、長い間は一人で立っちできないんです。私と一緒でもいいですか?」
 雅美を庇って応えたのは早苗だった。
「もちろん、いいわよ。じゃ、さっき早苗ちゃんがした通り、テラスに立ってね。できれば雅美ちゃんを少しでも前に立たせて――あ、そうそう、そんな感じ」
 進行係はマイクを切って肉声で指示を与えた後、雅美が所定の位置に立ったのを確認してあらためてマイクのスイッチを入れ直した。
『雅美ちゃんの握手のお相手は、三頭の中で一番小さなスマイリーです。四歳になったばかりの雅美ちゃんと、二歳になったばかりのスマイリー。可愛いさかりの一人と一頭、どんな握手をみせてくれるでしょうか。じゃ、いくわよ、雅美ちゃん』
 進行係は雅美に呼びかけながらも、目配せは早苗に向かってしてみせた。ここは、保護者である早苗に合図を送った方が確かだと考えたのだろう。実は生物学科の大学生である雅美よりも、小学生の早苗の方が頼りになると判断した進行係を、けれど誰も責めることはできない。外見だけから判断すれば誰でも同じことをするに違いないのだから。
 進行係の合図に合わせて、早苗が雅美の右手をプールに向かって差し出させた。
 体の小さなイルカが泳ぎ寄ってきて、ざばっと水しぶきをあげながら姿を現し、器用に尾鰭を使って水の上に立ち上がった。そこまでは、コービーと同じだった。ライブショーの仲間入りをしてまだ日が経っていないのに、ベテランイルカに混じって堂々とした演技だった。
 けれど、目測を誤ったのか、タイミングを取り損ねたのか、雅美の右手に向かって差し出した筈の胸鰭の先が雅美のセーラースーツの裾に引っかかるような形になって、そのままスマイリーが胸鰭の高さを雅美の手の高さに合わせようとしてすっと体を伸ばしたものだから、スカートが大きく捲れ上がってしまった。
 一瞬、何が起こったのかわからずに、ぽかんとした顔で、すぐ目の前にあるイルカの顔と自分が着ているセーラースーツのスカートを見比べる雅美。
 そうして、一言
「いや〜」
と叫ぶと、慌てて両手でスカートを押さえようとした。
 けれど、スカートを押さえようとして早苗の手を振りほどいたものだから、普通の地面でも一人で立っているのが難しいのに、水に濡れて滑りやすくなっているテラスの上だ。つるっと足を滑らせて、そのまま、テラスの上に尻餅をついてしまう。
 倒れる時にスカートが空気を含んでふわっと舞い上がったために、丈の短いセーラースーツが水に濡れることはなかったものの、スカートはそのままお腹の上まで捲れ上がったままになってしまう。
 その姿勢だと、本当ならスカートの中が見える角度ではない観客席からも、雅美のおむつカバーが丸見えになってしまう。
 なのに、雅美は、スカートの乱れを直すことも忘れて呆然としている。あまりの羞恥に我を忘れたのか、それとも……。
 ピピピ。
 小さな電子音がポケットから聞こえてきた。
「うふふ、雅美ちゃんたら、こんなにたくさんの人が見ている前でおもらししちっゃたんだ」
 ゆっくりポケットに手を突っ込んで受信機のボタンを押しながら、香奈は隣の真澄に向かって小さな声で言った。
「あ、それで、なかなか立ち上がらないのかな、雅美ちゃん。そうだよね、おしっこをおもらししてる途中で体を動かすなんてできないよね。出ちっゃた後なら動かせるけど」
 香奈の言葉に、真澄も小さな声で囁き返した。
 ステージの上では、尻餅をついたままの雅美に早苗が手を差し出していた。
 けれど、雅美はいやいやをするように力なく首を振るばかり。
 そこへ、立ち泳ぎをやめて普通の泳ぎ方に戻ったスマイリーが静かに泳ぎ寄ってきて、雅美を気遣うみたいに、長い嘴を雅美の脚にすり寄せた。何度も何度も嘴をすり寄せ、つぶらな瞳でテラスの雅美を見上げる様子は、まるで、スマイリーが雅美をあやしているようにも見える。
 その光景に観客席から拍手が起こり、拍手の音が次第次第に大きくなってゆく。
 早苗がもういちど両手を差し伸べた。
 その手をつかんで、ようやく雅美が立ち上がる。
 やっとのことでテラスの上に立ち上がった雅美に向かって背泳ぎで大きく胸鰭を振ってみせてから、スマイリーは、他の二頭の所へ戻って行った。
 客席の拍手が一段と大きくなる。
『はい、ありがとうございました。早苗ちゃん、雅美ちゃんの姉妹でした。ちょっとしたハプニングはあったけど、イルカさんと仲良しになってもらえたと思います。二人には記念品をお渡しして帰っていただきます。本当にありがとう、早苗ちゃん、雅美ちゃん』
 いったんは鳴りやんだ拍手がもういちど大きく鳴り響く中、早苗は晴れやかな表情でお辞儀をし、雅美はぎこちなく頭を下げた後、係員から渡された記念品を手に持って、香奈と真澄が待つ客席に向かってステージをおりた。

「えへへ、こんなの貰っちゃった」
 客席に戻るなり、早苗は、係員から渡された記念品を二人に見せた。記念品は二つあって、一つはイルカを形取ったカンバッジ、もう一つは、早苗がコービーと握手しているところを撮ったインスタント写真だった。
「よかったね、早苗。いい記念品じゃん」
「うん、二学期が始まったら友達に自慢するんだ。雅美ちゃんも、記念品、おねえちゃんたちに見せてあげたら?」
 本当に嬉しそうな笑顔になって、早苗は、すぐそばに立っている雅美を促した。
「え、でも……」
 早苗とは違って、なぜか雅美は記念品を二人に見せるのを躊躇っているようだ。
「どうしたのよ、雅美ちゃん。雅美ちゃんの記念品も見せてよ」
 記念品を持つ手を背中の方にまわす雅美の様子を訝しく思って、真澄は、雅美が背中に隠した記念品をさっと取り上げた。
「や、返して。返してったら」
 雅美は慌てて取り返そうとするけれど、真澄が、記念品を持った手を高々と差し上げたものだから、小柄な雅美がどんなに頑張っても指先も届かない。
「残念でちゅね、雅美ちゃん。取り返したかったら、おねえちゃんに負けないよう大きくなりまちょうねぇ」
 からかうみたいな口調で言って、真澄は、雅美から取り上げた記念品を高々と差し上げたまま見上げた。
 一つは、早苗のと同じカンバッジ。もう一つは、やはりインスタント写真だった。ただし、写真に写っているのは、雅美がスマイリーと握手している光景ではなく、スマイリーの胸鰭がスカートを捲り上げて、水玉模様のおむつカバーが丸見えになってしまっている雅美の恥ずかしい姿だった。
「なぁんだ、この写真が恥ずかしくて私達に見せたくなかったのね。でも、大丈夫よ。お客さんはすごく喜んでたし、私達が見てもとっても可愛らしかったから」
 くすっと笑って、真澄は記念品を雅美に返した。
「そうよ、雅美ちゃん。スマイリーとも仲良くしてたじゃない。あ、でも、あのせいでおむつが濡れちゃったね」
 真澄につられてくすっと笑いそうになって、でも、急に心配そうな表情を浮かべた早苗が、周りの様子を気にしながら小さな声で言った。テラスで尻餅をついたせいでおむつカバーが濡れてしまったことを心配しているのだ。
「そうね、おむつ取り替えなきゃダメね、雅美ちゃん」
 早苗の囁き声に応えたのは香奈だった。
「おむつカバーはお水で濡れちゃったし、おむつカバーの中のおむつはおしっこで濡れちゃってるもんね」
 香奈の言葉を引き継いで真澄が言った。
「え? 雅美ちゃん、またおもらししちゃったんですか? 屋上のベンチでおむつを取り替えてもらってからあまり時間が経ってないのに」
 早苗は香奈と真澄の言葉にちょっとびっくりして、声をひそめるのも忘れて訊き返した。
 けれど、早苗の声を気にする観客はいなかった。プールでは、ショーのラストを締めくくる迫力あるイルカたちの演技が始まっていて、観客の目は全てそちらに向いていた。時おり、わっと歓声があがって、早苗の声が掻き消されてしまう。
「仕方ないのよ。おしっこが近くて我慢できないからおむつなんだもの。長い間我慢できるなら、おむつなんて要らないもの。それに、急にイルカにスカートを捲り上げられてびっくりしちゃったでしょうから、そのせいでおもらししちゃったのかもしれないし」
 香奈はそう言って、早苗に手をつないでもらって通路に立ったままの雅美の体をひょいと抱き上げた。
「さ、おむつを取り替えまちょうね。よかったわね、紀子さんが替えのおむつカバーも用意しておいてくれて」
「や。こんな所でおむつ、や」
 雅美は抗議の声をあげたものの、香奈はそんなことまるでおかまいなしに、客席になっているベンチに雅美の体を横たえさせた。
「や。こんな所でおむつ、恥ずかしいの」
 雅美には、弱々しい声で繰り返すことしかできなかった。大声をあげたり、手足をばたつかせたりすれば、せっかくステージの方に集まっている観客の目がこちらに向けられる恐れが多分にあるのだから。
「ダメよ、駄々こねちゃ。濡れたおむつのままどこかよその所へ歩いて行ったりしたら、おむつからおしっこが滲み出て、あんよまで濡れちゃうのよ。それでもいいの?」
 香奈がそう言うと、渋々みたいに雅美は黙りこんだ。おむつカバーの裾から滲み出たおしっこの雫を滴らせながら人混みの中を歩く自分の姿を想像すると、黙るより他になかった。
「真澄、新しいおむつとおむつカバー用意しといてね」
 雅美が静かになったのを見届けて、香奈は真澄に言った。
「うん、わかった」
 真澄は、香奈に言われるまま、雅美がステージに向かう時に置いていったアニマルリュックの蓋を開けた。そうして、リュックの中を覗き込んだ途端、ぱっと顔を輝かせると、新しいおむつカバーをいそいそと取り出した。
「見て見て、おねえちゃん。紀子さん、こんなおむつカバーを用意してくれてるのよ。今の雅美ちゃんにぴったりじゃん」
 真澄が香奈の目の前に差し出したのは、雅美が着ているセーラースーツと同じような色使いの薄いブルーの生地にイルカのアップリケをあしらったおむつカバーだった。
「へーえ、ほんとだ。よかったね、雅美ちゃん。イルカさんのおむつカバーでちゅよ」
 真澄が新しいおむつカバーを雅美にも見せるのに合わせて香奈は言ってから、海水で濡れてしまったおむつカバーの前当てに指をかけながら真澄に言いつけた。
「じゃ、そのおむつカバーの上に新しいおむつを重ねて準備しておいて。今と同じ六枚でいいわ。あと、こっちのおむつを外したら発信器を渡すから、それも重ねておいてね」
「ん、わかった」
 香奈の言いつけ通り、真澄は新しいおむつカバーをベンチの上に広げて、リュックから新しい布おむつを引っ張り出しては、いそいそと重ね始めた。
 その間に香奈は雅美のおむつカバーの前当てに指をかけてマジックテープを剥がし始める。
 香奈がおむつカバーの前当てと横羽根を広げ、雅美の足首をつかんで持ち上げようとした時、一人の人物が近づいて声をかけてきた。
「お取り込みの最中に申し訳ありません。少しお時間をいただけますか?」
 突然のことに、えっというふうに振り返った華奈の傍らに立ったのは、髪をショートにしてメタルフレームの眼鏡をかけた、三十歳を幾らか超えていると思われる年回りの女性だった。
「私、こういう者です」
 雅美のおむつを取り替える手を止めて振り返った華奈に女性が名刺を手渡した。
「Mテレビのディレクターの浅見さん……?」
 名刺に書いてある内容を確認するように聞き返した香奈の顔に、テレビ局のディレクターが何の用だろうというふうな戸惑いの表情が浮かぶ。
「はい、主に報道番組の現地レポートを担当しています。本当はイルカショーが終わってからゆっくりお話できればいいのですが、あいにく、少しでも早く次の取材現場へ移動する必要があって、それで、妹さんのお世話をしてらっしゃる手を止めさせることになってしまいました。本当に申し訳ありません。妹さん、大丈夫かしら」
 眼鏡のレンズ越しに雅美の方をちらと見て、浅見と名乗った女性は言った。
「あ、ええ、少しの間なら」
 戸惑いの表情を浮かべた香奈は曖昧な言葉で応えた。
「そうですか。では、単刀直入に申しあげます。――さきほどのイルカと妹さんの握手のシーンを今夜のニュース番組で全国放映したいと思います。ただ、事件の報道ではありませんので、放映にあたっては当事者の了承をいただく必要があります。それで、保護者であるお姉様にご了承いただければと思いまして」
 浅見は落ち着いた声で言った。
「全国放映のニュース? この子たちとイルカの握手を?」
 思いがけない申し出に、ますます戸惑いの色が濃くなる。
「ええ。ただ、決して事件報道ではありません。ニュース番組とはいっても、午後十時から始まる一時間の番組の中には、ニュースの他に、全国各地の今日の様子を伝えるコーナーもあるんです。特に、学校が夏休みに入ってからは、《日本列島・夏本番》というコーナー名で、各地の観光スポットの様子を紹介しています。それで、今日は京阪神の観光スポットの様子を紹介することになっているんです。別のチームは京都の川床と大阪のUSJを取材していて、私たちのチームは、この須磨海浜水族園でイルカライブの様子を取材した後、夜景を撮影するために六甲山へ行くことになっています。イルカライブも、イルカの演技だけではありきたりな構図になりがちなんですけど、妹さんが二人して華を添えてくれたおかげでいい画になりました。だから、どうしてもあのシーンを紹介したいんです。ご了承いただけないでしょうか」
 浅見は、すり鉢状になっている観客席の上の方を見上げた。
 観客席の最上段で、ちょうど華奈たちの真後ろの柱の横に立っている、家庭用のホームビデオとは違うことが一目でわかる大きなビデオカメラを肩に載せたカメラマンが右手の親指を突き立てて、にっと笑ってみせた。カメラマンなりに、満足できる撮影ができたと伝えているに違いない。
「私はかまいませんけど、本人はどうかしら」
 浅見の言っていることがようやくわかった香奈は、屈託のない顔つきでカメラマンに手を振っている早苗の方をちらと振り返った。
「あ、私はOKです。イルカと握手できて、記念品も貰っちゃって、それだけじゃなく、テレビに出られるなんて、友達に自慢できることが増えて、すっごい嬉しいもん」
 香奈と浅見の視線を受けて、ちっとも迷うことなく早苗は応えた。
「それでは、保護者の方とご本人、両方からご了承いただいたと考えてよろしいですね。突然の申し出に快くご対応いただいたこと、心から感謝します」
 相手は高校生でも一応はこの場の保護者ということで、浅見は丁寧な口調で香奈に言った。
 それから、ぐっしょり濡れた動物柄の布おむつが丸見えの雅美の顔を見たけれど、
「妹さんのおむつを取り替える手を止めさせてしまって申し訳ありませんでした。どうぞ、続けてあげてください」
と香奈に言っただけだった。本当なら雅美も当事者だから、放映に当たっては雅美の了承も取りつける必要がありそうなものだが、おもらしでおむつを濡らしてしまうような小さな子供の意志など確認する必要もないと思ったのだろう。
 そうして浅見は、早苗の方に振り向くと、
「このコーナーは午後十時三十分くらいから始まる予定だから、みんなで視てね」
と急に人なつこい顔つきになって付け加えた。
「うん、絶対に観ます。雅美ちゃんも視ようね」
 早苗は力いっぱい頷いてそう言ったけれど、急に気がついたみたいに
「あ、でも、そんな時間、雅美ちゃんはおねむかな。そうよね、小っちゃい子がそんな夜遅くまで起きてちゃいけないもんね」
と言って、てへへと頭を掻いてみせた。
「それでは、私たちは次の取材地に移動しますので」
 浅見が言って合図を送ると、観客席の最上段に待機していたカメラマンとアシスタント、それに、リポーターらしき若い女性も一緒に出口に向かって歩き出した。
「でも、びっくりしちゃったね。早苗と雅美ちゃんがテレビに出るだなんて」
 急ぎ足で会場を後にする浅見の後ろ姿を見送りながら、どこか呆れたような顔で真澄が呟いた。
「本当だわ。でも、いいチャンスじゃない。全国放映だって言ってたからお母さんにも連絡して雅美ちゃんの元気な姿を見てもらえるんだもの」
 あらためて雅美の足首を高々と持ち上げた香奈は、おしっこを吸って重くなったおむつを手元にたぐり寄せながら言った。
「あ、そうか。お母さん、雅美ちゃんが伯母様の家に来てから、写真しか見てないんだもんね」
 香奈から受け取った濡れたおむつとおむつカバーを厚手のビニール袋に入れて、その代わりに新しいおむつとおむつカバーを渡して真澄が言った。
「よかったでちゅね、雅美ちゃん。埼玉のお母さんに元気な雅美ちゃんを見てもらえまちゅよ。おむつ姿でイルカさんと遊んでるところを見てもらえるんでちゅよ。お母さん、きっと喜んでくれまちゅよ」
 そう言われて雅美が頬を真っ赤に染めたそのすぐ後、イルカショーがいよいよクライマックスを迎えたらしく、客席が歓声に包まれた。雅美のスカートを胸鰭で捲り上げておむつカバーを丸見えにしたスマイリーも、小さな体を踊らせて、年長の二頭に交じって健気に大ジャンプを繰り返していた。けれど、雅美の方は、おぼつかない足取りでよちよち歩きをするのが精一杯で、年下の三人に取り囲まれておむつを取り替えてもらうしかできないでいた。一浪して大学に入って一ケ月ほど前に誕生日を迎えた雅美だから、本当はもう二十歳になる。二歳のスマイリーと、二十歳の雅美。その姿はあまりにも対照的だった。




 夕方の六時とはいっても、夏のこの時期だから、まだ暗くならない。停車スポットに入ってくる美智子の車を見分けるのは簡単なことだった。
「お待たせ。さ、帰りましょう。香奈ちゃん、雅美ちゃんをチャイルドシートに座らせてあげてね」
 運転席からおり立った美智子は、チャイルドシートに近い左側後部のドアの取っ手を引いた。
「こんにちは、橘のおばさん」
 ドアを引き開けて振り返った美智子に向かって、早苗がぺこりと頭を下げた。
「あらあら、誰かと思ったら、《パティシエ・ミヤウチ》の早苗ちゃんじゃないの。早苗ちゃんも水族園に来てたの?」
 すぐに声の主が早苗だと気づいた美智子は、優しそうな笑顔で応じた。
「はい。夏休みの宿題の自由研究で毎日ここに来てるんです。それで――」
「それで、私達と仲良しになったんだよ。雅美ちゃんが苛められてるところを助けてくれたの」
 横合いから真澄が早苗の言葉を引き継いだ。そうして、水族園であったことを楽しそうに美智子に説明した。今日だけ早苗と姉妹になったこと。早苗が雅美を抱っこして哺乳壜でミルクを飲ませたこと。早苗の膝の上で雅美がおむつを濡らしちゃったこと。イルカショーで早苗と雅美がイルカと握手したこと。その様子がテレビで全国放映になること。
「そう、それはよかったわね。雅美ちゃんと遊んでくれてありがとう、早苗ちゃん。じゃ、お礼にお家まで車で送ってあげましょう。一緒に乗ってちょうだい」
 真澄の話に耳を傾けていた美智子は、とびきりの笑顔で言った。
「え、でも……」
「遠慮なんてしなくていいのよ。お礼にだなんて言ったけど、本当は、早苗ちゃんとこにお願いしておいたバースデーケーキを受け取りに行く予定になっているの。つまり、ついでみたいなものなのよ。だから、ほら、遠慮しないで」
 ほらほらと言って、美智子は、右側のドアから早苗を雅美の隣の席に押しやった。
 早苗に続いて真澄が後部座席に乗り込み、香奈が助手席につくと、美智子の滑らかな運転で車が動き出す。
「バースデーケーキって、香奈おねえちゃんか真澄おねえちゃんのですか? おばさんもお手伝いさんも、お誕生日は秋でしたよね?」
 走り出した車の中、早苗が美智子に訊いた。
「あら、よく憶えてくれてたわね。そうよ、私も紀子さんもお誕生日は秋よ。私が十月で紀子さんが十一月。でも、香奈ちゃんのでも真澄ちゃんのでもないの。早苗ちゃんとこにお願いしておいたのは雅美ちゃんのバースデーケーキなのよ」
 ルームミラーで早苗の顔と雅美の顔をちらと見ながら美智子は言った。
「え? でも、雅美ちゃん、七月十日がお誕生日だって、イルカショーの司会のお姉さんに言ってましたよ」
 早苗は要領を得ない顔つきになった。
「そうよ、雅美ちゃんの誕生日は七月十日だから、もう過ぎちゃってるわね。埼玉のお家でパーティーを開いてもらったでしょうね。でも、せっかくだから、うちでもお祝いしてあげたいのよ。私の家、今は高志もいなくて寂しいから、たまにはにぎやかなことをしたいの。だから、一ケ月ほど遅いけど、もういちど雅美ちゃんのバースデーパーティーを開こうかなって。お手伝いの紀子さんも大張り切りでテーブルの飾り付けしてたわ」
 国道から脇道に車を進めながら美智子は説明した。
「あ、そうだったんですか。よかったね、雅美ちゃん。何度もお祝いしてもらえて」
 ようやく納得した顔になって、早苗は、隣のチャイルドシートに座っている雅美に微笑みかけた。
「それで、早苗ちゃん。もしもよかったら、雅美ちゃんのバースデーパーティーに参加ししてもらえないかしら。今日は四人で姉妹なんでしょう? あなたも今日は雅美ちゃんのおねえちゃんだから、参加してくれたら雅美ちゃんも喜ぶと思うの」
 早苗の表情をルームミラーで窺いながら美智子は言った。
「え、いいんですか? 本当に私もパーティーに混ざっていいんですか?」
 どちらかといえば控えめだった早苗の笑顔が、見る間に、ヒマワリみたいな明るい笑みになった。
 フロントガラス越しに、あまり派手ではない《パティシエ・ミヤウチ》の看板が見えてきた。
「もちろんですよ。みんな、いいわよね?」
 美智子は車の速度を落としながら香奈と真澄に同意を求めた。
「いいに決まってますよ、伯母様」
「あったりまえじゃん。早苗と私たちは仲良し姉妹だもん」
 二人が美智子の提案を断るわけがなかった。
「やったぁ、雅美ちゃんのバースデーパーティーだぁい。……あ、でも、夜のお出かけなんて、父さんも母さんも許してくれないかな」
 喜び勇んで両手を振り上げた早苗だったが、父親と母親の顔を頭に浮かべると、途端にしょぼんとした表情になってしまう。
「大丈夫ですよ。私にまかせておけばいいから心配しないで。みんなは車の中で待っていてちょうだいね。私と早苗ちゃんとで早苗ちゃんのお父様とお母様にお願いしてくるから」
 力づけるように言って運転席からおり立った美智子は、早苗の前に立って《パティシエ・ミヤウチ》のドアを押し開けた。

「いらっしゃいませ、橘様。ご注文いただいたケーキ、腕によりをかけて作らせていただきました。どうぞご覧ください」
 ドアを押し開けて店内に足を踏み入れた美智子の顔を見るなり、早苗の父親が、ガラス製の陳列棚の上に置いたデコレーションケーキを掌で指し示した。
 フルーツ、特にベリー類をたっぷり使った、見た目にも鮮やかなケーキだ。イチゴの鮮やかな赤とワイルドベリーの少しくすんだ赤が綺麗なグラデーションになっているところに、ブルーベリーの青とラズベリーの紫とがアクセントをつけて、食べるのがもったいないほど綺麗なケーキだった。
「さすがは宮内さんですこと。急なお願いなのに、こんなに素敵なケーキを作ってくださって、本当にありがとうございます」
 美智子は優雅な仕種で頷いた。
「おそれいります。いつもご贔屓いただいている橘様、どのようなことでもお申しつけください」
 人の好さそうな父親は笑顔で頷き返した。
「それじゃ、もう一つお願いしてもよろしいでしょうか」
 父親の言葉を聞くなり、美智子は、それまでとは微妙に違う笑みを浮かべて言った。
「どうぞ、なんなりと」
 さして深く考えることなく父親が応える。
「じゃ、入ってらっしゃい」
 美智子は、ドアの向こうで待たせていた早苗を呼び込んだ。
「え? ひょっとして、早苗、橘様と一緒だったのかい?」
 どこかおどおどした様子で店に入ってきた早苗を見て、父親は驚きの声をあげた。
 その声に、店の奥で別のケーキを包装していた母親も慌ててこちらにやって来た。
「お二人お揃いで丁度よろしゅうございます。実はお願いと申しますのは、早苗ちゃんを今夜一晩、うちにお貸しいただきたいということなんです」
 美智子は、早苗の後ろにまわりこむと、早苗の両肩に掌を置いた。
「早苗を橘様のお宅に……ですか?」
 急な申し出に、父親も母親も、あっけにとられた顔つきになる。
「ええ。実は、姪が三人、埼玉から遊びに来ていまして、その三人がたまたま須磨海浜水族園で早苗ちゃんと知り合ったそうなんです。それで――」
 美智子は真澄から聞いた説明を二人の前で繰り返した。それから、今夜のパーティーに早苗を招待したいと思っていること、できるなら早苗をそのまま今夜は美智子の家に泊めたいと思っていることを付け加える。
「でも、ご迷惑じゃありません?」
 美智子の説明を聞いて先に口を開いたのは母親の方だった。
「迷惑だなんてとんでもない。さきほども申しました通り、うちは少しでもパーティーが賑やかになった方がよろしいのですから」
 美智子は軽く首を振ってみせた。
「そうですか。橘様がそんなにおっしゃってくださるなら、私どもとしましてもお断りする理由はございません。ご迷惑でなければ、どうぞパーティーに参加させてやってください」
 まだ考えこんでいる父親などおかまいなしに母親が言った。こういう時、決断が早いのはたいてい女親の方だ。
「ありがとうございます。これで姪たちも喜ぶことでしょう。それと、もう一つお願いしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「明日、姪たちを海水浴に連れて行こうかと思っています。なにせ、海の無い埼玉からやって来たものですから、海水浴を楽しみにしておりまして。それで、その時、早苗ちゃんも一緒にお連れしてよろしいでしょうか? ええ、必ず夕方にはお家に送り届けますので」
「承知しました。でも、少しでもご迷惑でしたらご連絡ください。こちらから迎えにあがりますので。――いいわね、早苗。くれぐれも橘様にご迷惑かけるんじゃありませんよ」
 わざと怖い顔で母親は言ってから、愛想のいい顔になって美智子に向き直った。
「正直言いますと、夏休みになってもこの子をどこへも遊びに連れて行ってやれなくて気になっていたんです。橘様のお申し出、心から感謝いたします」
「では、お互い様ということでよろしゅうございますね? お許しが出てよかったわね、早苗ちゃん」
 美智子は早苗の肩を掌で優しくぽんと叩いて言った。




 美智子の家のダイニングルームは、早苗が想像していたよりもずっと広かった。このダイニングルームで二人だけで食事するなんて本当に寂しいだろうなと思わず思ってしまうほど広かった。
 その広いダイニングルームの真ん中に据えてある大きなテーブルの上に《パティシエ・ミヤウチ》のケーキが置いてあって、その周りを、見るからにおいしそうな料理の皿が取り囲んでいる。
「早苗お嬢様はこちらの席におつきください」
 紀子が椅子を一つすっと退いて早苗をダイニングルームに招き入れた。そんな呼び方に慣れていない早苗は『お嬢様』と呼ばれるたびに体がくすぐったくなるのだが、雅美たちと姉妹ならこの呼び方しかできませんと紀子に強く言われて押し切られてしまったから仕方ない。



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