幼児への誘い・5



 早苗が腰をおろしたのは、真澄の隣の席だった。向かいには香奈が座っていて、香奈の隣、今はまだ空いている所が雅美の席だろうか。屋敷の主である美智子は全員を見渡すテーブルのもう一辺の席につくのだろうということはすぐにわかったものの、雅美の席と同様、その席はまだ空席だ。
「奥様は雅美お嬢ちゃまのお召し替えをなさっておいでです。お召し替えが終わり次第おみえになられますので、もうしばらくお待ちください。その間に音楽とロウソクの準備をいたします」
 紀子は香奈、真澄、早苗の順番にゆっくり視線を移しながらそう言うと、自動演奏機能の付いたピアノにフロッピーディスクを挿入してスイッチを入れた。ミュートにしてあるのだろう、あまり騒がしくない音量で、ハッピーバースデーのメロディが流れ出す。
 自動に動く鍵盤がゆったりしたリズムでメロディを奏でる中、紀子は、ケーキにロウソクを立て始めた。ピンクやブルーの鮮やかな色をしたロウソクではないし、かといって、真っ白というわけでもない。どことなく黄色がかった、早苗がこれまで見たことのない色のロウソクだ。
「あれはね、蜜蝋で作ったロウソクなの。甘い香りがするからって、誰かのバースデーパーティーでケーキに立てるならいつもこれって伯母様が決めてるの」
 じっとロウソクに目を凝らしている早苗の疑問を察した真澄が耳元に囁きかけて教えてくれた。
「ふぅん。やっぱりお金持ちはいろいろこだわりがあるんだなぁ。うちに帰ったら父さんに教えてあげようかな。ケーキだけじゃなく、いろんなロウソクも売るようにすればお客さんも喜んでくれるかもしれないし」
 早苗は納得して囁き返した。
 が、すぐにまた奇妙なことに気がついて真澄に尋ねる。
「お手伝いの紀子さん、ロウソクを二本しか立ててないよ。真澄ちゃんは四歳なのに、どうして二本だけなんだろ?」
 早苗の言う通りだった。紀子はロウソクを二本立てただけで、すっとケーキから離れて行った。その後も、ロウソクを追加する気配はまるでない。
「もうすぐわかるわよ。着替えが終わって伯母様が雅美ちゃんを連れてきたら、どうしてロウソクが二本だけなのか、早苗にもわかるわよ」
 うふふと含み笑いをしながら真澄が応えた。ロウソクを二本しか立てない理由を真澄が知っているのは明らかだった。

 それからさほど待つ間もなく、手をつないだ雅美と美智子がダイニングルームの入り口に姿を現した。
 二人がやって来たのに気づいて振り向いた早苗は、入り口に立つ雅美の姿に目を見張った。
 そこに立っているのは、ブルーのセーラースーツとセーラーキャップを身にまとった幼稚園児ではなく、パステルピンクのベビードレスとベビー帽子に身を包んだ赤ん坊だった。けれど、その赤ん坊は、まぎれもなく雅美だった。胸元にリボンをあしらい、肩口が丸く膨らんだ七分袖のベビードレスの裾から、イルカショーの観客席で取り替えられたイルカのアップリケのおむつカバーが三分の一ほど見えているから、雅美に間違いない。
 雅美は早苗と目が合うと恥ずかしそうに頬を赤らめながら、美智子に手を引かれるまま香奈の後ろを通って、空いている席の方に歩いて行った。その間、早苗の目は、雅美がおぼつかない足取りで一歩進むたびにふわふわ揺れるベビードレスの裾の下に見える、おむつで大きく膨れたおむつカバーに釘付けになっていた。
 雅美の体を美智子が抱き上げて席につかせようとした時、早苗は、そこに置いてある椅子が普通の椅子ではないことに気がついた。早苗たちが腰かけているような革張りの椅子ではなく、木製の、背の高い椅子だった。しかも、お尻を載せる板の端と背もたれとが幅の広いベルトでつながっているのが見える。
 早苗は不思議そうな顔をして椅子を見つめたが、美智子が雅美をその椅子に座らせて、幅の広いベルトで雅美の太腿のあたりを固定するのを見て、ようやくそれが赤ん坊を座らせる椅子だということに気づいた。体の小さな幼児を食卓の高さに合わせて座らせ、ちゃんと座ることができずに幼児が誤って滑り落ちてしまわないよう体を固定する滑り止めの付いたベビーチェアだ。
(雅美ちゃん、どうしてあんな格好してるんだろう? それに、いくらあんよが上手じゃないにしても、赤ちゃん用の椅子だなんて、なんだか変なの。まるで、四歳の幼稚園児じゃなくて、赤ちゃんみたいじゃない。二歳くらいの赤ちゃんみたい)ふとそう思った早苗は、はっとしたようにケーキのロウソクに目をやった。(二歳の赤ちゃんみたい? ロウソクが二本? でも、でも……)
「お待たせしました。香奈ちゃんたちが埼玉から神戸へ遊びに来てくれた上、早苗ちゃんという新しい姉妹が加わりました。それで、一ケ月ほど遅いけど、あらためて雅美ちゃんのお誕生日を祝いたいと思います。紀子さんが丹誠込めて作ってくれたお料理と、早苗ちゃんちのケーキ、みんなでいただきましょう」
 雅美をベビーチェアに座らせ、自分も席についた美智子が、みんなの顔を見渡して言った。
「じゃ、最初に雅美ちゃんにケーキのロウソクを吹き消してもらいましょう。その後で乾杯して、それからお料理ね」
 美智子が続けてそう言うと、紀子がケーキのローソクに火をつけようとした。やはりロウソクは二本だけで、それ以上増えることはない。
「あ、あの、伯母様……」
 とうとう我慢できなくなって、早苗はおずおずと手を上げて美智子に呼びかけた。
「あら、どうしたの、早苗ちゃん。何かご用?」
 美智子は僅かに首をかしげて早苗の顔を見た。
「はい、あの、用っていうか、訊きたいことがあるんですけど」
 早苗はケーキのロウソクと、まるで赤ん坊そのままの格好をした雅美とをちらちらと見比べて言った。
「いいわよ。何を訊きたいの?」
 美智子は鷹揚に頷いた。
「あ、あの……どうしてケーキにロウソクが二本しか立ってないのかなとか、それに、雅美ちゃんが、なんていうか、その、赤ちゃんみたいな格好をしてるのが不思議で、あの……」
 不思議に思っていても、いざ面と向かって訊こうとすると、適当な言葉が出てこない。早苗は、しどろもどろになりながら、さっきから胸の中に渦巻いている疑問を口にした。
「ああ、そうだったわね。この家の人たちにはそれが普通でも、姉妹になったばかりの早苗ちゃんは事情を知らなかったわね。いいわ、説明してあげましょう。――ロウソクに火をつけるのは早苗ちゃんに事情を説明してからにします。いいわね、みんな」
 美智子は香奈と真澄、それに紀子の顔を順番に見て言った。
 言われて、三人は一斉に頷いた。ただ、ベビーチェアに座らされた雅美だけは恥ずかしそうに顔を伏せてしまう。
「まず、こちらから訊きたいんだけど、一緒にいて、雅美のことを早苗ちゃんはどう思った?」
 美智子はテーブルの上で指を組んで早苗に言った。
「どうって……お昼過ぎに知り合ってそれから一緒にいただけだから、一緒っていっても短い間だけなんですけど、とっても可愛かったです、雅美ちゃん。幼稚園の年長さんにしては背が高いんだけど、そのわりにあんよも上手じゃなくて、ごはんも普通のごはんじゃなくて哺乳壜のミルクだし、おしっこも言えなくておむつだし、でも、そんなところがみんな可愛かったです。おねえちゃんたちがいなきゃ一人じゃ何にもできない雅美ちゃん、なんていうか……守ってあげたくなるんです、そんな感じ」
 最初は言葉を探すみたいに口ごもったものの、あとの方はとびきりの笑顔になって早苗は応えた。
「雅美ちゃんのこと、甘えん坊だと思う?」
「どうなのかなぁ。……雅美ちゃん、大勢の人が見てる所で哺乳壜のミルクを飲んだり、おむつを取り替えてもらったりする時、とっても恥ずかしそうにしてました。そうですよね、もう幼稚園なのに哺乳壜とかおむつとか、そんなの恥ずかしいですよね。でも、雅美ちゃん、恥ずかしそうにしてるくせに、なんだか、嬉しそうな顔をしてるみたいにも見えたんです。真澄おねえちゃんに哺乳壜でミルクを飲ませてもらいながら香奈おねえちゃんにおむつを取り替えてもらってる時、おねえちゃんたちにそんなふうにしてもらえるのが嬉しくて嬉しくてたまんないみたいな。それって、やっぱり、おねえちゃんたちに甘えてるのかな。もう幼稚園だけど、でも、哺乳壜とおむつのお世話をしてもらってる間は思いきりおねえちゃんたちに甘えられるから嬉しそうな顔してたのかな。だったら、甘えん坊さんですよね、雅美ちゃん」
 早苗は、雅美が水族園で見せた表情を思い出しながら考え考え言った。
「雅美ちゃんのこと、よく見ていたのね、早苗ちゃん。知り合ってまだ間がないのに、そこまでわかるなんてね。そう、早苗ちゃんが言った通り、雅美ちゃんはすごい甘えん坊さんなの。甘えん坊で、おねえちゃんたちにかまってもらうのが大好きなの。幼稚園のくせにおむつが外れないから甘えん坊さんになったのか、それとも、甘えん坊さんだからおむつが外れないのか、どっちかはわからないけど、でも、おねえちゃんたちに哺乳壜でミルクを飲ませてもらったり、濡れたおむつを取り替えてもらってかまってもらうのが大好きなの。でも、幼稚園だと、そうはいかないのよね。いくら年少さんでも、幼稚園児は幼稚園児。ちゃんと規則は守らなきゃいけないし、先生の言いつけはきかなきゃいけない。だけど、甘えん坊さんの雅美ちゃんには、それがちょっぴり辛いみたいなの。だから、幼稚園がお休みになって私の家に遊びに来ている間だけでも、思いきり甘えさせてあげたいの。私の家では、雅美ちゃんは幼稚園児じゃなくなって、すごい甘えん坊の赤ちゃんに戻してあげたいの。だから、わざわざ特別に、雅美ちゃんの体に合わせたベビー服も揃えて、赤ちゃんの格好をさせてあげているのよ。おねえちゃんたちも私の気持ちをわかってくれて、この家の中じゃ、雅美ちゃんを赤ちゃんとしてお世話してくれるのよ」
 幼稚園児の雅美ちゃんを赤ちゃんに戻してあげる。『大学生』というところを『幼稚園児』というふうに言い替えたものの、雅美が美智子の家にやって来た日に美智子が浴室で雅美に話した内容そのままだった。
「だから、ケーキのロウソクの数もこれでいいのよ。――雅美ちゃん、お年はいくつかな? おばちゃんに指で教えてちょうだい」
 美智子は、右向かいの場所に置いたベビーチェアに座っている雅美の方を向いて言った。
 指で教えてちょうだいと言われて、雅美は、ぎこちない動作で右手の指を四本立ててみせた。全ての事情を知っている家族だけではない、雅美のことを幼稚園の年少だと信じて疑わない早苗もいるのだから、四歳というしかない。
 けれど、美智子は、雅美の答に大きく首を振った。
「違うでしょ? お外へ行った時は四つだけど、雅美ちゃん、本当のお年は違うでしょ? 雅美ちゃんの本当のお年を教えてちょうだい」
 そう言われて、美智子の真意をはかりかねる雅美は、四本立てた自分の指をおずおずと見つめるだけだ。
「難しいことじゃないでしょ? 雅美ちゃんの本当のお年を教えてくれればいいのよ。――本当のお年をね」
 美智子は『本当のお年』というところを殊更に強調して繰り返した。
 はっとした表情になって、雅美は美智子の顔を凝視した。それに対して、美智子が僅かに頷き返す。
 雅美は少しだけ迷って、おそるおそるというふうに、今度は指を二本突き立ててみせた。一浪して大学に入った雅美だから、誕生日が過ぎた今、年齢は二十歳だ。それを指で示そうとすると、そうするしか思いつかない。
「はい、よくできました。そうね、幼稚園とかお外じゃ四歳だけど、この家じゃ雅美ちゃんは二歳だものね。雅美ちゃんは、本当は二歳の赤ちゃんだものね。まだおむつの外れない、二歳の赤ちゃんなんでちゅよ、雅美ちゃんは」
 相好を崩して雅美に言った美智子は、あらためて早苗の方に向き直った。
「これでわかってもらえたかしら。雅美ちゃんがこんな格好をしている事情も、ケーキにロウソクが二本しか立ってない理由も」
「はい、わかりました。そういうことだったんですね、雅美ちゃん」
 ようやく早苗は晴れやかな顔になって大きく頷いた。
(違う。私、二歳じゃない。私、二十歳なのに。二歳の赤ちゃんじゃなくて、二十歳の大学生なのに)美智子が早苗にした説明に、自分の指を呆然とした目で見つめながら雅美は胸の中で叫んだ。けれど、それを口にすることはできない。早苗は、指を二本立てた雅美の姿をにこにこ笑って見ている。雅美の指の数が本当は二十歳を意味していることなどまるで気づかずに。
「さ、それじゃ、ロウソクに火をつけましょう。それで、雅美ちゃんに吹き消してもらいましょうね」
 まだ自分の指を見つめている雅美をちらと見て、美智子はわざと大きな声で言った。
 その声に、まるで結婚披露宴のキャンドルサービスで使うような銀色の細長い器具を使って紀子がロウソクに火をともして照明を落とした。
 蜜蝋の甘い匂いが微かに漂うほの暗いダイニングルームで、自分の椅子から立ち上がった香奈が雅美の体を抱き上げて顔をケーキに近づけさせた。
「さ、お願いをしながらロウソクを吹き消すのよ。一息で吹き消すことができたらお願いがかないまちゅからね。――みんな、雅美ちゃんは何をお願いすると思う?」
 にこやかな笑顔で美智子は、食卓を囲んで座る姪たちの顔を見まわした。
「やっぱり、早く大きくなれますようにってお願いするんじゃないかな。大きくなって、一人であんよできるようになりたいって」
 最初に言ったのは真澄だった。
「だよね。それと、おもらし癖が治りますように、かな。いつまでもおむつじゃ恥ずかしいから。早苗はどう思う?」
 真澄の言葉を受け継いだ香奈が食卓越しに早苗の顔を見た。
「おねえちゃんたちに逆らうけど、私は、雅美ちゃん、大きくなりないなんてお願いしないと思う。だって、水族園でおむつを取り替えてもらうの、全然いやがってなかったもん。恥ずかしそうだったけど、ども、嬉しそうだったもん。雅美ちゃん、いつまでもおむつの外れない赤ちゃんでいたいってお願いするんじゃないかな」
 早苗は目を細めて、ロウソクの炎にゆらめく雅美の影を見つめた。
「そうね、そうかもしれないわね。いつまでも赤ちゃんでいるのが雅美ちゃんにとっては一番の幸せかもしれないわね」
 赤ちゃんになって高志のお嫁さんになるのがねという言葉は胸の中に秘めて、美智子は早苗の言葉に相槌を打った。
「さ、ロウソクの火を吹き消しまちょう、雅美ちゃん。ちゃんとお願いをしながら吹き消すんでちゅよ」
(私の本当の願いごとって何なのかしら。みんなの前で赤ちゃん扱いなんて羞ずかしくてたまらない。でも、赤ちゃんになって思いきり甘えたいのも本当。私は本当は何を願ってるんだろう。私、本当は……)
 心定まらないまま、躊躇いがちに雅美は唇を尖らせてロウソクの炎を吹き消した。
 拍手の音が鳴り響いて、照明が戻った部屋がぱっと明るくなる。
「さ、乾杯しましょう。みんな未成年だから本当はお酒はいけないんだけど、今日は特別な日だから一口くらいはいいでしょう。とっておきのシャンパンを用意しておいたから、それをいただきましょう。ただし、お代わりはダメよ。あとはジュースでね」
 香奈が雅美をベビーチェアに戻して滑り止めの金具を留めるのを待って美智子が言った。
 紀子が、テーブルの上に置いた銀色のワインクーラーからシャンパンの瓶を持ち上げて栓を抜く。ポンという音が鳴って再び拍手が湧き起こる中、紀子は、美智子、香奈、真澄、早苗、そして自分の目の前のグラスにシャンパンを注ぎ入れた。微かに琥珀色をした透明の液体の表面に無数の泡が湧き上がっては、パチンパチンと弾け飛ぶ。
「あれ、雅美ちゃんの分は?」
 雅美の目の前にはシャンパンのグラスが用意してないのに気づいて、早苗は気遣うように言った。
「いくら特別の日でも、雅美ちゃんにはシャンパンは飲ませられないわよ。小学校高学年の早苗ちゃんだったら一口くらいは大丈夫でも、赤ちゃんの雅美ちゃんにお酒を飲ませるわけにはいかないわ。その代わり、飲み物はちゃんと用意してありますよ」
 美智子がそう言うと、シャンパンを注ぎ終えた紀子が、雅美の目の前に哺乳壜を置いた。
(みんなシャンパンなのに、私だけ哺乳壜なんだ。本当のバースデーパーティーの時は妹二人はジュースで私だけワインだったのに)
 目の前の哺乳壜を見ながら雅美は胸の中で溜め息をついた。一ケ月ほど前の七月十日、雅美が二十歳になった誕生日ということで、日頃は忙しい両親が揃って早めに帰宅し、家族でバースデーパーティーを開いた。厳格な父親は、雅美が未成年の間は、大学の新入生歓迎コンパに行っても絶対にアルコール類は口にしないよう言いつけていた。それが、誕生日には、大人の仲間入りだといって、わざわざ酒屋に立ち寄ってワインを買って帰ってきてくれたのだ。そうして、一口でいいから私たちも飲んでみたいと言う妹二人の訴えを無視して、雅美のグラスにだけワインを注いでくれたのだった。あの日、雅美は確かに大人になった筈だった。そうして、いくら体が大きくても、妹は妹だった。なのに今は、雅美だけが哺乳壜のジュースだった。しかも、妹たちを『おねえちゃん』と呼んでいるのだ。
「いつもはぬるめのミルクだけど、よく冷えた飲み物を用意してあげたのよ。本当はあまり冷たい飲み物は体によくないんだけど、今日だけは特別だものね。体が冷えておもらししちゃっても、今日はお世話をしてくれるおねえちゃんが一人多いし。――じゃ、みんな、グラスを持ってちょうだい。あ、紀子さんは雅美ちゃんの哺乳壜を持ってあげてもらえるかしら」
 雅美の胸の内に気づいているのかいないのか、美智子は一息入れてみんなの顔を見渡すと、自分のグラスを目の高さに捧げ持って大声で言った。
「乾杯」
 あとに姪たちや紀子の声が続き、カチンとグラスを触れ合わせる音が聞こえて、うわ、おいしいと口々に言い合う歓声が沸き上がった。
 けれど、すぐに、歓声に混ざってピピピという電子音が響き渡って、途端に、部屋の中が静まり返ってしまう。
 全員の目が雅美に集まった。丈の短いベビードレスの裾から見えている、イルカのアップリケが可愛いおむつカバーに。
「あらあら、お世話をしてくれるおねえちゃんが今日は一人多いって確かに言ったけど、でも、言ってるそばからおもらししちゃうなんて」
 静寂を破るみたいにくすっと笑って美智子は言った。
「でも、仕方ないんです、伯母様。雅美ちゃん、イルカショーの途中でおむつを取り替えてあげてからは失敗してないんです。だから」
 取りなすように香奈が言った。
 香奈が言った通り、イルカショーの途中でおむつを取り替えられた後、美智子の車に乗ってこの家に帰ってくるまで、雅美はおもらしをしていない。だから、膀胱には少なからずおしっこが溜まっている筈だ。そんなところへ哺乳壜で冷たいジュースを飲んだものだから、とうとう我慢できなくなっておむつを汚してしまうのも仕方ないことだった。
「いいのよ、華奈ちゃん。私は雅美ちゃんのことを叱っているんじゃないから。ただ、言ったそばからおむつを汚しちゃう雅美ちゃんが可愛らしくてしようがないだけ」
 美智子は、食卓の隅に置いておいた受信機のボタンを押しながら穏やかな声で言った。
「さようでございますよ、香奈お嬢様。奥様が雅美お嬢ちゃまをお叱りになるわけがございません」
 たしなめるように紀子が言って、そのまましばらく哺乳壜でジュースを飲ませた後、そろそろいいかしらと呟いて哺乳壜を食卓に置いて雅美の体を抱き上げると、毎日の食事のたびにミルクを飲んでおもらしをする雅美のためにあらかじめダイニングルームの一角に広げてあるバスタオルの上に横たわらせた。
「お食事の最中に申し訳ございませんけど、ここでおむつを取り替えさせていただきます。雅美お嬢ちゃまを別のお部屋にお連れして寂しがられますとお可哀想ですので」
「気にしなくていいですよ、紀子さん。私たちも雅美ちゃんが別の部屋に行っちゃうと寂しいもん。本当なら私たちがおむつを取り替えてあげなきゃいけないのに、こちらこそ申し訳ありません」
 如才ない香奈の受け応えだった。
「それでは失礼して」
 紀子の手が雅美のベビードレスの裾に伸びてお腹の上まで捲りあげた。
 食卓を囲んで座っている全員がシャンパンのグラスを置いて雅美の下腹部に視線を集める中、紀子がおむつカバーの前当てに指をかけた。
 本当なら二十歳になったことをあらためて祝福してもらう筈の二度目のバースデーパーティーは、美智子と紀子の企みで、雅美が二歳の赤ん坊に戻ったことを妹たちに披露する羞恥に満ちた誕生パーティーに変貌してしまった。しかも、抗う術を何一つ持たない雅美は、おむつ姿をさらすことで、そんなパーティーを更に盛り上げる役を自らかって出たようなものだった。おしっこでぐっしょり濡れたおむつは、雅美が赤ん坊返りしたことを無言で、けれど、これ以上はないくらいはっきりと、その場に立ち会った全ての人に告げていた。




 浴室のガラス戸も脱衣場の引き戸も開け放してあるのだろう、少女たちの賑やかな嬌声が、廊下を伝って、育児室にいる美智子と紀子の耳にも届く。
「奥様、雅美お嬢ちゃまの水着、これでよろしゅうございますか」
 華やかな嬌声に思わず微笑み合ってから、紀子が一着の水着を美智子の目の前で広げてみせた。
 美智子は、姪たちや早苗に、明日は海水浴に連れて行ってあげると約束していた。香奈と真澄は埼玉から自分の水着を持ってきていたし、早苗も、あらかじめそう言っておいたから、パジャマや着替えと一緒に水着も持ってきている。あとは雅美の分だけだった。そこで二人は、夕飯を兼ねたパーティーが終わってすぐ姪たちと早苗を入浴させて、その間に、育児室に造りつけになっているクローゼットで明日雅美に着せる水着を選んでいるのだった。
「あ、それ、いいじゃない。デザインは紀子さんがしたの?」
 紀子が広げた水着を目にするなり、美智子は両手ぽんとを打ち合わせた。
「いいえ。デザインは、量販店に売っている幼児用の水着をそのまま使っています。ただ、幼稚園児が着るような水着ですと、おむつをあてないことを前提に寸法取りしていますので、そのあたりだけこちらで寸法を変更して仕立てさせました」
 その水着も、特注のおむつカバーやベビー服、幼稚園の制服を縫製したのと同じ業者に仕立てさせたものだった。いかにも幼稚園児くらいの年回りの女の子が喜びそうな、胸元に細いリボンをあしらい、やや濃い色のパレオとセットになった愛らしいデザインのワンピースの水着だ。ただ、紀子が言うように、お尻のラインが普通の水着よりもぷっくり膨らんで、ロンパースのように股間にボタンが並んでいるのが見える。
「いいわ、それを持って行きましょう。それと、明日もお弁当をお願いね」
「承知しました。やはり、雅美お嬢ちゃまの分は哺乳壜のミルクでよろしゅうございますね」
 広げた水着を丁寧にたたみながら、紀子は念のためというふうに言った。
「それで結構です。当分の間、雅美ちゃんには離乳食も早いでしょう。赤ちゃんになってまだ一ケ月そこそこしか経っていないのですから」
 美智子は、唇の端を吊り上げるような笑みを浮かべた。
「じゃ、あとは、今夜のニュースを視るよう高志にメールを送るだけね。高志ったら、テレビに映る雅美ちゃんの姿を見てどう思うかしら。うふふ、楽しみだこと」
 美智子は独り言のように呟いて、慣れた手つきで携帯電話のボタンを押し始めた。

 浴室の方から、いや〜という雅美の叫び声が聞こえた。入浴の最中におもらししてしまったのか、それとも、香奈に抱っこされておしっこさせられているのだろうか。香奈の叫び声に続いて、きゃっきゃっいう嬌声が聞こえる。そんな声だけ聞いていれば、三人の姉が幼い妹の面倒をみているとしか思えない。まさか、その幼い妹というのが実は大学生で長姉だと思う者はいないだろう。
「高志おぼっちゃま、たしか、二週間ほど前に、お盆のお休みもこちらには帰らないと連絡をしてこられたのでございましたね」
 携帯電話のボタンを押し続ける美智子の手元を何気なく覗き込みながら紀子が言った。
「面倒くさいんでしょうよ。どうせ、神戸に帰ってもガールフレンドが待っているわけじゃない、母親がいるだけだと思うと、九州で遊んでいたいんでしょう。でも、テレビで雅美ちゃんの可愛らしい姿を目にすれば……」
(あの姿を目にすれば、高志は絶対に帰ってくるわ。高志が赤ちゃんみたいな女の子を好きだっていう紀子さんの報告が本当なら、放っておくわけないもの。そうして、いずれは高志と雅美ちゃんは結ばれるのよ。となると私は伯母じゃなくて、今度は姑になるわけね。でも、絶対に『お義母様』なんて呼ばせない。可愛い雅美ちゃんには『ママ』って呼んでもらわなきゃつまらないものね。高志と雅美ちゃんが結婚したら、子供もできるわね。今度こそ、女の子がいいわね。男の子は高志だけでこりごり。やっぱり、可愛い女の子がいいわね。でも、その子は雅美ちゃんには育てさせてあげずに、みんな私が世話してあげるのよ。だって、結婚しても、雅美ちゃんは赤ちゃんだもの。赤ちゃんが赤ちゃんを育てられるわけないもの、だから私が育ててあげなきゃいけないのよ。育てて、その子が幼稚園に行く頃になったら、今度はその子に雅美ちゃんのことを妹だって教えてあげましょう。そうね、それがいいわ。雅美ちゃんには、その子のことを『おねえちゃん』て呼ぶよう言いつけましょう。だって、雅美ちゃんはいつまでもおむつの外れない赤ちゃんですもの。子供がおむつ離れしても、雅美ちゃんはずっとおむつのまま。いつか、私と子供とで仲良く雅美ちゃんのおむつを取り替えてあげられたら素敵でしょうね。うふふ、早くそんな日が来ないかしら)
 美智子の親指が動いてメールの送信が終わった。
 浴室からは相変わらず嬌声が聞こえてくる。
 大人びた三人の声に混じって聞こえる幼い嬌声が雅美の声に違いない。美智子に誘われるまま永遠の幼児への道を歩み始めた雅美の声を美智子が聞き違えるわけがない。



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