第二小児病院の秘密 〜第二小児病院シリーズ1〜


 医療法人『天啓会』は四つの総合病院を経営している。そのどれもが最新の設備と充実したスタッフを揃え、優れた病院として高い評価を得ていた。しかし、それらの病院とは別に、N山の麓に『第二小児病院』と呼ばれる特殊な施設が存在することは一般には知られていない。




 最上階にある応接コーナーからの見晴らしは実に見事なものだった。北側の窓に目をやれば、雄大だが決して険しさを感じさせないN山が視界いっぱいに広がり、秋のこの時期には赤や黄など様々な色の広がりを見せている。N山の山腹につながる林はこの建物の三百メートル程度までに迫り、まるで色とりどりの絵の具にでも呑みこまれるような感じを受ける。反対側の窓辺に立って下を見下ろせば、そこには広大な庭が広がっていた。まだまだ緑を維持する芝生や丸い小石を敷きつめた小路、おそらく元々そこにあったものを埋めずにおいておいたらしい池と川などが配置された庭には、ベビーバギーを押す母親や、ボール遊びを楽しんでいる子供らしき姿が見えた。プライバシーを保護するためだろう、この病院の建物に入る玄関や道路からは、高い生け垣に阻まれて庭の様子は見えないようになっている。
 ドアがノックされる音を耳にした恭子は窓辺から離れ、さきほどまで座っていた革張りのソファに再び腰をおろした。
 開いたドアから入ってきたのは、白衣を着た恰幅の良い中年の男性だった。恭子はソファから立ち上がって軽く会釈をする。頭を下げ返したその男性に促されてソファに腰をおろし直した時、一人の女性がやはりドアから入ってきた。クリーム色のタイトなスーツに身を包み、右脇に一冊のファイルを抱えて背筋を伸ばしたその姿は、彼女の有能さを無言のうちに物語っているようだった。
「院長の野田です」
 女性が自分の斜めうしろに立ったことを確認すると、白衣の男性が名のった。それから、うしろの女性に視線をやって言葉を続ける。
「秘書の内田百合子です。具体的な内容については彼女が担当することになりますので、どうかよろしく」
「石井です。急にお邪魔いたしまして申し訳ございません」
 恭子は再度会釈して二人に応えた。
「早速ですが、石井さん。本題に入りたいと思います。よろしいでしょうか?」
 いつのまに座ったのか、内田百合子が恭子の横に腰をおろしていた。
「結構です」
「では、まず石井さん御自身の確認をさせていただきます。立ち入ったことを訊くこともあるかもしれませんが、規則ですので気をわるくなさらないで下さい――ご存じかと思いますが、この病院は完全に合法的な運営をされているとは申せませんので、依頼主の方の身元についても或る程度は調査させていただいた上でおこしいただくことになっておりますので」
 百合子はファイルを開き、最初のページに視線を這わせた。
「石井恭子さん、二五歳。都内のマンションに一人で暮らしてらっしゃる。御結婚は過去も現在もしてらっしゃらない。R大学の独文科を卒業後、K商事の欧州総合営業部に勤務。半年前に退社されてますね。以上、よろしいでしょうか?」
「……間違いありません」
 恭子は、百合子が口にした経歴を確認するように頷いて言った。
「次に、石井さんが当院に依頼をなさった事情について、よろしければ御自身で御説明いただけませんか?」
「そうですね……」
 恭子はしばらく考え、やがて言葉を整理し終えて話し始めた。
「さきほどの説明にもありましたように、私はK商事に勤めておりました……今になって考えるとどうしてそうしてしまったのかわからないのですが、その時の部長と愛し合うようになってしまったのです。彼の家庭を壊すようなことはしない程度の分別はあったのですが、ただ、どういう拍子なのか、妊娠してしまったのです。
 さして悩みもせずに地方都市の小さな病院で処置したのですが、そこの体制の不備だったのでしょうね、子宮に炎症をおこしたようです。ただ、その時にはそんなことに気付きませんでした。体の調子が戻らないため、都内の病院で診てもらったのですが、手遅れでした。子宮を摘出することで、なんとか他の内臓への影響を止めるのが精一杯でした。
 その後、その部長からまとまった額の手切れ金をもらい、職も捨てました。
 そういう事情ですし、結婚は諦めました。ただ、一生独身を通すと決心してみると寂しさが実感されるようになりました。ないものねだりなのか、どうしても子供が欲しくなってしようがなくなってきたんです。そんな私に、この病院のことを教えてくれた人がいたんです――望まれて産まれてくるのではない赤ん坊を、望んでも子供のできない人の実子として斡旋してくれる病院があることを。
 この病院で赤ちゃんを、できれば女の子がいいんですけど斡旋していただけますね?」
「……わかりました」
 そう言った百合子はソファから立上り、院長の背後に立って何か耳打ちした。小さく頷いた院長は静かに立上り、しばらくお待ち下さいと言うと、恭子を一人部屋に残して部屋から出て行った。
 残された恭子の胸を訳のわからない不安がよぎった。
 その不安を打ち消そうと、再び南側の窓辺に立って庭を見下ろしてみる。穏やかな風が、池に小さな波を立たせていた。高く青い空からの柔らかな日光がきらきらと反射する。そんな光景が恭子の心を次第に落ち着かせていった。
 どのくらいそうしていたろうか、何気無く振り返ると、院長と百合子が部屋に戻ってきていた。失礼しました、と言って恭子もソファに戻る。
「院長と相談したのですが……」
 恭子がソファに座るのを確認してから百合子が口を開いた。今度は恭子の横ではなく、向い側に座っている。
「当院のことについて、どうも誤解されている部分がおありのようですね。当院では、実子に偽装した養子を斡旋する、というようなことはいたしておりません」
「え、でも……」
「どなたからお聞きになられたのかは存じませんが、石井さんが考えてらっしゃるようなことは当院ではしていないのです」
「じゃ、私の要望はいれていただくことはできない、と?」
「そういうことになります」
 百合子は冷たく言いきった。しかし、次の瞬間には、温かみを感じさせる声で言葉を続ける。
「但し、石井さんの要望を直接お受けすることはできないものの、多少似たようなシステムを当院が持っていることは事実です。よろしければ、そのあたりをご覧になりますか? その上で、その方法でよいということでしたらお力になることができるかもしれません」
 恭子はしばらく目を閉じていた。しかし、考えても仕方がないことは痛いほどわかっているのだ。そのシステムというのを実際に確かめてみて、それが自分に合わなければ断わればよいことだった。

 エレベーターは五階で止まった。先におりた百合子につづいて恭子も廊下に足を踏み出し、微かな足音を立てながら歩き始める。
「当院の病室は殆ど個室になっているんです。それぞれの部屋の面積もかなり広くとってあるし、簡単なものだけど流し台や水道も設置してあるから、入院してる子供たちと保護者が同居できますわ」
 歩きながら百合子が説明を始める。
「だから子供たちも少しは寂しさから逃げられるし、うちとしても看護婦の数を少なくできるんですよ――それに、ここに入院してる子供たちの保護者はほんとに子供好きな方ばかりでしてね、離れ離れになったら、子供よりも先にまいっちゃうかもしれませんわ」
 しばらく歩いた後、百合子は『矢野弘美』の表札がかかったドアの前で立ち止まった。軽くノックすると、はあい、という女性の声がドア越しに聞こえてくる。しばらくするとドアが開き、四十歳台と見える女性の顔が現われた。
「あら、内田さん。その節はお世話になりまして。今日は?」
 矢野弘美の保護者だろうか、その女性が百合子の顔を見て言った。
「突然ごめんなさい。実は彼女にこの病院を見学していただいてるんだけど、病室の例としてこの部屋を見せていただけないかと思って」
 百合子が応えた。
 恭子は小さく会釈する。
「なんだ、そんなこと? いいわよ、さ、どうぞ」
 女性が入室を促した。そして、恭子に対しても気さくに声をかける。
「そちらの方も遠慮なさらないで、どうぞお入りくださいな」
 病室に足を踏み入れた恭子は驚いていた。その部屋の壁にはアニメキャラクターの壁紙が貼られ、床は毛足の長いカーペットで覆われている。調度品にしても、普通の家庭のベビールームそのままだった。病室という言葉から連想される白い壁もリノリュームの床も、そこには見当らなかった。
「どう、自然な感じでしょ?」
 百合子が恭子に同意を求めた。それから、女性の方に向き直って言葉をかける。
「ところで、弘美ちゃんの具合はどうなんですか?」
「まあまあね。手術は要らないらしいの。お薬と精神療法でいけるって先生が言ってくださったわ」
 女性が二人に椅子をすすめながら答えた。そして、改めて気づいたように恭子に向かって自己紹介をする。
「はじめまして、矢野里子といいます。入院している弘美の母親です」
「ご挨拶が遅れました、石井恭子です。病室にお邪魔しまして恐縮です」
「いいんですよ。内田さんのお客様のようですから、何も遠慮なさらないで」
「で、弘美ちゃんの担当はK先生でしたっけ?」
 百合子が話を再開した。
「あの先生なら大丈夫ですよ。特に、泌尿器科は専門ですもの」
「そのようですね、よかったわ。ここの産科から退院してお家に帰ってからも、弘美ったらオシッコもウンチもまともにしなかったでしょ、心配したんですよ。一週間ほどは仕方ないかなって思ってたんですけど、それが過ぎても治らないんだもの、どうしようかと思ったわ」
 矢野里子は、百合子に手振りを混ぜながら話し始めた。娘の症状がよほど心配だったのだろう。しかし、それも思ったより軽くすみそうだという診たてが出て話にも力が入っているようだ。
「おしっこが膀胱に溜ってるのは本人にもわかってるのに出ないだもの、苦しかったでしょうね」
 百合子が相槌をうった。弘美という子の事情に詳しいようだ。
「でも心配いりませんわ。そういう患者さんは割と多いし、特にK先生は馴れてらっしゃるんですから」
「それでも、やっぱり心配でしたよ。おしっこが溜る頃にオムツを外して、こよりで尿道を刺激してやらなくちゃならなかったんだもの」
 話の最中に小さな電子音が鳴った。それをきっかけに、里子は腕時計を見る。
「あら、ミルクの時間だわ。よかったら、弘美の顔を見てもらえますか?」
「そうね、じゃ、久しぶりに会っていこうかしら」
 百合子は椅子から静かに立ち上がってベビーベッドの方へ歩き始めた。
 それに続こうとした恭子だが、なんともいえない違和感に襲われてふと立ち止まってしまった。なんだろう?と考えながら、その違和感の原因を探るために周囲を見回す――だが、ベビーベッドとベビータンスが据えられ、天井からはメリーサークルがぶら下がっている。床の上にはヌイグルミやベビー玩具が転がり、白鳥の形をしたオマルと歩行器が置いてあるだけだった。おかしな物は見当らなかった。
 結局、違和感の原因を見つけることができないまま、恭子はベッドに近寄った。
 そして、赤ん坊が落ちないように立てられているサークルに手をかけようとした時、急に頭に閃くものがあった――大きいのだ、なにもかもが。ベビーベッドも、オマルや歩行器にしても、それらは大き過ぎて赤ん坊が使用することは不可能に思えた。敢えて言うなら、大人が使うことを前提に作られているようなサイズになっているのだ。
 これは一体どういうことだろうと思いながらベッドの上に視線を移した恭子の目に、そこに寝ている赤ん坊の姿が映った。髪の毛は頭の左右二ケ所で大きなピンクのリボンで束ねられていて、胸のあたりは白いよだれかけで覆われている。そのよだれかけの下に着ているベビー服はレース製だろうか、フリルがいっぱいついたとても可愛らしいものだった。ベビー服の丈は短めで、レモン色のオムツカバーが半分ほど見えている。小さなリボンのついたソックスを履いた脚はややO字に開いていた。
 しかし、すぐにそれが赤ん坊ではないことに恭子は気づいた。膨れた胸と発育したお尻や体、そしてその顔つきはその子の年齢が二十歳前後であることをハッキリ示していたのだ。
「弘美ちゃん、お腹すいたでしょ。ミルクですよ」
 恭子が奇妙な表情で見守る中、里子は哺乳瓶の乳首を弘美の口にふくませた。弘美はゴムの乳首を吸い始めた。唇の端から少しこぼれるミルクをヨダレかけで拭きとりながら、里子は手にしていた哺乳瓶を弘美の両手に握らせた。弘美は哺乳瓶を顔の上で支え、一心にミルクを飲み続ける。
 その間に、里子は弘美のオムツカバーを開いていた。腰紐をほどき、ボタンを外して前当てを開くと、ぐっしょり濡れた水玉模様のオムツが目に入る。弘美の膝を折ってお尻を上げさせた里子は濡れたオムツをお尻の下からどけ、新しいオムツを手早く敷きこんだ。そしてベビーパウダーを下半身にまんべんなくふり、オムツをT字の型にあててからオムツカバーでお尻を包みこむ。
 濡れたオムツをベッドの下に置いてあるバケツの中に投げ入れてから、里子は再び弘美の顔の方に戻った。まだミルクを飲み続けている弘美の髪を優しく撫ぜてやる。
「そろそろ出ましょうか。あまり長居するのもわるいわ」
 呆然とした表情で矢野親子を眺めていた恭子に、百合子が声をかけた。
「ああ……そうね」
 百合子の声に我に返った恭子が頷いた。
 またいらして下さいね、という里子の声に送られて二人は病室から廊下に出る。
 何をどう尋ねればよいのか、頭の中を整理できないまま、恭子は百合子と並んで歩き始めた。その顔を見て、百合子がクスッと小さく笑う。
 しばらく歩いてから二人が立ち止まった部屋の比較的大きなドアには『遊戯室』と書かれたプレートがかかっていた。百合子がドアを引き開けると、その中には四組の親子連れの姿があった。百合子に気付いた母親らは頭を下げ、百合子もそれに会釈を返していた。矢野里子に対して行なったと同じ説明をここでもしてから、百合子は恭子を紹介した。
 紹介が終わるのを計っていたように、百合子のスーツから小さな呼出音のようなものが聞こえた。
「内田です」
 百合子はスーツのポケットから折りたたみ式のコードレスホンを取り出すと、部屋の隅の方へ歩きながら耳に当てた。
「……はい……わかりました。すぐにまいります」
 百合子はコードレスホンをポケットに戻すと、恭子が立っている場所に戻ってきて言った。
「ごめんなさい、急用ができちゃったの。三十分ほどで戻ってくるから、ここで待っていてもらえるかしら?」
 それからしばらく考えて、言葉を続ける。
「あなたの感じている疑問を、ここにいる人にぶつけてもらってもかまわないわよ。詳しく教えてくれると思うわ」

 百合子が部屋から出て行くのを見送ってから、恭子は改めて部屋の中を観察した――赤ん坊とその保護者らしい人間が、それぞれ四人ずつだった。赤ん坊のうち二人はハイハイで競争していた。オムツで膨れたお尻が大きく揺れている。あとの二人は、保護者に手伝ってもらいながら積木や滑り台で一人ずつ遊んでいた。そして、ここにいる赤ん坊たちもさきほど見た弘美と同じように、二十歳前後に達しているとしか思えない体格を持っているのだった。
「……あの、突然すみません、ここの病院の内部を見学してるんですけど、どうもよくわからないことがあるんです。お手間をとらせますけど、教えていただけませんか?」
 質問事項をなんとか整理した恭子は、一番近くの女性の傍らに立った。
「よろしいですよ、私にわかる範囲のことなら御説明いたしましょう」
 その女性は、横に立った恭子の方に顔を向けて答えた。
「で、どういったことをお訊きになりたいのかしら?」
「えーと、そうですね……私は或る事情のためにどうしても子供を欲しくなりました。そこで、この病院で実子として赤ちゃんを斡旋してもらえるということを聞いて来たんです。でも、どうもそうじゃないらしいんですね。ただ、それに近いことはしている、とも教えられたんですけど……実のところはどうなんでしょうか?」
 恭子は、女性の顔をちらちらと覗き見するようにしながら尋ねた。
「それと、ここにいる赤ちゃんたちはみんな、とても大きいですわね? これがどういうことなのかも」
「そうね……私の経験をお話しすればわかっていただけるかもしれないわね」
 少し考えてから、女性は答えた。
「ま、立ち話もなんだし、座りましょうか」
 カーペットの上に座りこんだ女性は、自分の体験談を語り始めた。




 私は疲れていた。
 比較的大きな会社の跡取りである主人と結婚し、新婚旅行から帰ってきてからは、私はこの家から出たことが殆どなかった。買物やちょっとした用事はメイドが済ませてしまうし、髪のセットにしても美容師が家まで出張してきた。元来、外に出ることが好きというわけでもない私はそんな生活にさして苦も覚えずにいた。そして、子供ができてからはますます外に出る機会も少なくなっていた。
 そして、育児と家の雑事に追われているうちに、気がつくと、結婚して二十年が過ぎていた。
 二人いる息子の弟の方も、この春に地方の国立大学に入り、一人での生活を始めた。それをきっかけに、子供に手がかからなくなった時にはやってみようと思っていたことを早速始めてみた。まずは英会話教室と水泳だった。しかし、どちらも一ケ月も経たないうちに通うのをやめていた。陶芸教室や絵画教室も、ジャズダンスも同じような状態だった。
 学校を出てすぐに政略結婚に近い形で今の夫と結婚させられた私は、家庭以外の空気というものに馴染めない体質になっていたのかもしれなかった。
 夫は相変わらず帰宅も遅く、帰ってきたところで話題のあるものでもなかった。外の空気に馴染めず、ただ広いだけの家の中で私は心がひからびてしまうかと思っていた。
 そんな時、学生時代の友人の一人から電話がかかってきたのだ。
「この年齢になって離婚しちゃってね」
 友人の第一声は思いもよらないものだった。ただ、その声には沈んだ様子は少しもなく、学生時代そのままに陽気な楽天家をイメージさせるものだった。
「主人の家から出てマンションを借りたんだけど、それがたまたまあなたの家の近くだって思いついてね。どうしてるかと思って電話してみたのよ」
「元気よ、と言いたいんだけど、ちょっとね――」
 私は、これまでの経過を彼女に話した。誰かに話せば少しは気が紛れるかと思ったのだ。そして、不意に思いついて話題を変えた。
「――ああ、ごめんなさい。私の愚痴ばかりになったようね。本当なら私が聞き役に回らなきゃならない状態なのに」
「いいわよ、気にしないで」
「それで、生活費なんかはどうしてるの? そもそも別れた理由は何なのよ?」
「理由ねえ……結婚してから五年ほど経った頃だったかしら。いっこうに私が妊娠する様子がないものだから、二人で病院に行ったのよ。結果は、私の方に原因があるっていう診たてだったわ。主人もその親も人一倍子供好きな人たちでね、私が一生子供ができないってわかってからは目に見えるほど態度が一変したわ。それでもなんとか結婚生活は続けていたんだけど、一年前に主人が言ったの。別の所にいる女性に子供を産ませてたんだって。できれば、その女性と、大きくなっている子供を引き取りたいって。主人の親も、はっきりとじゃないけど、そうしたいようだったわ。結局、土地や貸しビルなんかの資産をかなり持ってる親から少なくない慰謝料をもらってね、別れることにしたのよ。生活費もマンションの家賃もそこから出して充分にたりてるわ」
 友人の声は、いっそせいせいしたとでも言うように張りのあるものだった。
「そうだったの。色々あったのね」
「まぁ、今日はこのへんにしておくわ。ああ、そうだ。一度遊びにいらっしゃいよ。さっきの話じゃないけど、家の中にばかりいると、ほんとに精神がまいっちゃうわよ」
 それから彼女は、二日に一度くらいの割合で電話をかけてきてくれた。短い会話だったが、それが私の心をリフレッシュしていることが実感された。そして、一度見せたいものがあるから、という言葉に誘われた私は彼女のマンションを訪問することにした。
 ドアを開けて私を迎えた彼女は、私と同じ年齢とはとても信じられないほど若々しく見えた。化粧はおさえめにしているようだが、内面から輝くようなエネルギーというか精気のようなものが感じられた。
 とても元気そうね、とお世辞ではなく言った私を彼女はリビングルームに案内した。お茶の準備をするから、と言って彼女が部屋から出て行った後、私は何気無く部屋の様子を眺めていた。そして、ある筈のないものが部屋の隅に転がっていることに気付いたのだ。まさかと思いながら手にとってみたが、それは確かに赤ちゃん用の玩具だった。プラスチックでできた輪で、振ると音が鳴るようになっているそれはガラガラの一種だった。更にその横には、おきあがりこぼしが私の顔を見つめるように立っていた。
「子供ができないから離婚したって言ってたのは本当なの?」
 トレイの上にティーカップを載せて部屋に戻ってきた彼女が座るのを待ち兼ねて私は尋ねていた。手に持ったガラガラを彼女の顔の前に差し出した。
「それは本当よ」
 カップをテーブルに並べながら、彼女は静かに応えた。
「だけどね、一生を一人で過ごすなんて寂し過ぎると思わない? だから、養子をもらったのよ」
「そう……」
 私は納得した。しかし、それでも確認しておかなければならないことがあった。
「でも、今から赤ちゃんを育てるのは大変よ。今まで育児の経験もないのに、この年齢になって大丈夫なの?」
「それは大丈夫よ。少々手荒に扱っても壊れないとっても丈夫な子なの」
 彼女は意味ありげにクスッと笑った。
「今はお昼寝してるの。起きたら会ってちょうだいね」
「わかったわ……私に見せたいものがあるって言ってたのはそのことだったのね?」
 私は小さく頷いてからティーカップに手をかけた。
 飲み干したティーカップをトレイに載せた私はダイニングルームに入った。後片付けくらい手伝うわよと言って持ってきたのだ。それに、初めて訪れる友人の新居にも興味があった。特に主婦の端くれとしては、よその台所を観察しておきたいと思ったのだ。キッチンに移ろうとした私は、ダイニングルームからガラス戸を通ってベランダに出られることに気づいた。
 そのガラス戸越しに、ベランダで風にはためく洗濯物が目に入ってきた。彼女のものはあまりなく、殆どが彼女の養女――ゆかりという名だと彼女は言っていた――のもののようだった。雪花や麻の葉、水玉などのさまざまな柄のオムツや数枚のヨダレかけ、ベビードレスやロンパースなどが穏やかな風にのって静かに揺れていた。
 彼女がそれらを干している様子を微笑えましく想像しながらキッチンで洗い物を済ませた私に、ごめんなさいねと彼女が声をかけてきた――せっかくのお客様に洗い物なんかさせちゃって。私は、いいのよ、気にしないでと応えてからダイニングルームの椅子に腰をおろした。
「ねえ、あの洗濯物だけど……」
 再びベランダに目をやった私は、ふと疑問を感じて尋ねてみた。
「……オムツの数が随分と多いんじゃないの。あんなに汚しちゃうの?」
「そうなのよ、普通の子の何倍も汚しちゃうの。おしっこの量がすごいの」
 クスクス笑いながら彼女が答える。
「それともうひとつ。ベビー服もヨダレかけもすごく大きいように見えるんだけど、気のせいかしら?」
「ちょっと待ってて」
 そう言った彼女は椅子から立ち上がると、ガラス戸を開けてベランダへ出て行った。そして洗濯物の中からオムツカバーとロンパースを手にすると、それを持って戻ってくる。
「はい、実物よ」
 彼女は手に持っていたものをテーブルの上に広げてみせた。
「……すごいサイズね」
 動物がプリントされたピンクのオムツカバーを手にとりながら私は呟いた。
「こんなに大きなオムツカバーがどうして要るのかしら」
「そろそろ、ゆかりが目を覚ます頃だと思うわ。子供部屋へ行ってみましょうか。実際にゆかりの姿をを見ればあなたの疑問は解けると思うわ」
 彼女は立上り、私を促した。

 よく空調の行き届いた部屋のまん中に置いてあるベビーベッドに、大きな赤ん坊がお腹にタオルケットをかけて寝ていた。淡いレモン色のベビー帽子とヨダレかけ、お尻のところが膨れたピンク地のロンパースという格好は確かに赤ん坊だったのだ。だが、その体格と顔つきからは、その赤ん坊の年齢が一歳や二歳というようなものではないことが明らかだった。どう若く見積もっても十六〜十七歳というところだろうか。
「紹介するわね。これがゆかり、私の娘よ」
 彼女はニコッと微笑んでベッドの上を指差した。
「どう? この子なら、新米ママの私が少々手荒に扱ってもなんとかなりそうでしょ。おしっこが多い理由もわかってもらえたかしら」
 彼女の声が聞こえたのか、ゆかりの目が細く開いた。彼女と私の顔を交互に見てから、彼女の方に手を伸ばそうとする。何か言おうとしているのだが、『ばぶばぶ』というような幼児語にしか聞こえなかった。
「あら、目が醒めたのね。よしよし、大丈夫よ、このおばちゃんはママのお友達なの。恥ずかしがらなくてもいいのよ」
 彼女はゆかりの背中を優しくさすりながら、耳許でゆっくりと言い聞かせた。
 それから、ゆかりの口から流れた一筋のヨダレをガーゼのハンカチで拭き取ると、天井に吊ってあるメリーサークルのスイッチを入れた。かろやかな音楽が流れ始め、人形とリボンが回り出す。ゆかりの目が人形を追いかけ始めたことを確認した彼女は、ロンパースの股ホックを外していった。ホックが全て外れると、ブルーとイエローの水玉模様のオムツカバーが現われる。そのオムツカバーの腰紐をほどき、マジックテープを外して広げると、おしっこでグッショリ濡れた動物柄のオムツが目に入ってきた。
「たくさん出ちゃってるわね。すぐに新しいオムツと取替えてあげようね」
 彼女は慣れた手付きでオムツの交換を終え、ロンパースのホックを閉じた。気持よさそうな表情に変わったゆかりの頭を両手で胸のところまで持ち上げ、彼女は自分のブラウスのボタンを外した。ブラジャーのフロントホックを外して乳首をゆかりの口にふくませると、ゆかりはチュッチュッと音をたてて吸い始めた。
 十分ほどもそうしていると、ゆかりの目が再びとろんとしてきた。オムツを取替えられ、母親の乳房に顔をうずめたことで安心したのか、また眠くなってきたようだ。彼女が静かにゆかりの頭をベッドに戻し、お腹を軽くぽんぽんと叩くと、ゆかりの目は徐々に閉じられていった。そのゆかりを見守る彼女の目は優しさにあふれていた。
「……この子は何なの?」
 私は、ゆかりの目が完全に閉じられたことを確認すると、小さな声で彼女に尋ねた。
「うふふ……びっくりしたでしょ? 今、教えてあげるわ――この子の年齢は十九歳なの。赤ちゃんて年齢じゃないことは確かよね。だけど、その振る舞いは赤ちゃんそのものでしょ? 知能障害とかそういうのじゃないのよ。私たちが言うことはちゃんとわかるし、一般的な知識も持ってるの。だけどね、赤ちゃんみたいな行動しかできないようにされてるのよ。
 或る所にね、ひとつの病院があるの。私のように、赤ちゃんは欲しいけど本当の赤ちゃんを育てる自信のない人や、ちょっと変わった母性本能を持ってる人のために、大人を赤ちゃんとして斡旋してくれる病院なのよ。但し、私がどうやってその病院を知ったかは秘密ね。教えてくれた人に迷惑をかけたくないから。
 その病院に依頼して斡旋してもらったのがゆかりなの。かなりの数の赤ちゃんを扱ってるみたいよ。
 これでわかってもらえたかしら?」
 彼女の説明を聞いた私の胸の中に、希望のようなものが湧いてきた。生き甲斐というものを失ってしまったように思っていた私だったが、今からでも『育児』という目標を取り戻すことができるのだ。
 私は彼女にその病院の連絡先を尋ね、その日のうちに連絡を取ることにした。




「……そうして、私も赤ちゃんを手に入れることができたのよ」
 その女性の説明はほぼ終盤にさしかかろうさしていた。
「だけど、私の赤ちゃんは、まだ赤ちゃんとして完全じゃなかったの。心のどこかに大人としての部分が残っていたんでしょうね。恥ずかしさが胸に広がって、オムツの中での排泄ができなかったのよ。おしっこがしたくなっても、オムツの中にはできずに、オムツを外した拍子に出しちゃうようなことを繰り返していたの。だから、もう一度この病院に入院させて治療してもらってたの。それもなんとか治ったようで、明後日には退院できるようになったわ。これでやっと、本当の赤ちゃんになったってことね」
 最後の言葉を聞いた恭子は、さきほどの病室にいた弘美のことを思い出していた。あの子も同じ症状だったのだろうか。
 ありがとうございました、と女性に頭を下げて立ち上がった恭子は、部屋の隅でその説明を反芻してみた。それは、恭子が想像もしてみなかったような奇妙な話だった。
 どうしたものだろう、と思いを巡らせているところに百合子が戻ってきた。
「お待たせしました」
 百合子は少し弾んだ声で言った。
「で、誰かから当院の説明をしてもらえたかしら?」
「ええ――実子に偽装した養子を斡旋するんじゃなく、信じられないような話だけど、大人を赤ちゃんとして斡旋しているのね?」
 恭子はおそるおそる確認するような口調で言った。
「そういうことなのよ。それを理解していただいたところで、次の場所を見学しましょうか」

「ここが産科になるの」
 待合室のソファに腰をおろした百合子が説明した。エレベーターで三階まで降りてから廊下を歩いてやって来たのが、この待合室だった。ふと見ると廊下の奥には『分娩室』と書かれたドアがある。
「本当の赤ちゃんが産まれるわけでもないのに、分娩室なんて要るの?」
 ドアの文字をちらと見ながら、恭子は尋ねてみた。
「訊かれると思ったわ」
 ソファから立ち上がった百合子が言った。「どんな所かお見せするわ。ついてきて」
 百合子が『分娩室』の厚いドアを引いた。恭子は、そのままドアを支えている百合子の前を通って部屋に足を踏み入れた。その瞬間、恭子の鼻と口が何かに覆われた。恭子は必死でその何かを剥がそうとしたが、それはできなかった。そうしているうちに恭子の頭の中が白くなり、体中の力が抜けてゆく。
 ――気がつくと、恭子の体は固い台の上に寝かされていた。手を動かそうとしたが、どうしても力が入らない。それは脚も同じだった。何かの薬のためだということだけは漠然と理解できたが、それが何のためなのかはわからなかった。
「御気分はいかが?」
 不意に百合子の声が聞こえてきた。その声のする方に顔を向けようとしたが、その動作は緩慢なものだった。手足ほどではないものの、首の力も殆ど入らないのだ。なんとか視線を百合子に向けた恭子は口を開こうとした。どうしてこんなことをするの?と尋ねようとしたのだ。だが、唇が僅かに動いただけで言葉にはならなかった。
「ここが分娩室よ。そして、あなたは処置台に寝ているの」
 百合子が説明を始めた。
「この部屋に入った時、気を失ったでしょ。あれは、ここのスタッフがホルマリンを嗅がせたためなのよ。そうして気を失ったあなたを処置台の上に寝かせた後、この病院で開発した筋肉弛緩剤を投与したの。今あなたの体が動かせないのは、その薬が効いているからなの。
 どうしてこんなことをしたのか教えてあげるわ。
 あなたは赤ちゃん欲しさにここに来た。だけど、ここではそれは不可能だと知った。だって、ここには本当の赤ちゃんなんていないんだものね。それでも、あなたは私の言葉にのってこの病院を見て回ることになったわね。私が何故そうしむけたか、わかる?――それはね、あなたをこの部屋に誘いこむためだったのよ。
 当院では大人を赤ちゃんに変身させているんだけど、その人間をどうやって確保するかが難しいところなの。そのために、はっきり言っちゃうと、それなりの組織を通して人身売買なんてこともしてるのよ。そんなところにあなたの出現は願ってもないことだったの。好奇心につられて、ここまでのこのこついてきちゃったんだものね。それに私たちの調べでは、故郷の家との連絡も途切れてるようだし――ちょっと年齢はいってるけど、顔つきも可愛らしいし、きっと可愛いい赤ちゃんになれるわよ」
 百合子の言葉を聞いた恭子は、心の底に冷たい何かが固まっていくように感じた。
「心配しなくてもいいわ、すぐに終わるから。手足の筋肉にちょっとだけメスを入れてね、力が入らなくするだけなのよ。ハイハイとかヨチヨチ歩きくらいならできる程度の力は残しておくわ。大丈夫よ、傷が残ったりはしないわ。大事な赤ちゃんに傷をつけたりしたらこちらも損だものね。痛みもないのよ、麻酔をかけてほんのちょっと切るだけだもの。
 それから、膀胱の神経にも少しだけ細工をさせてもらうわね。或る程度までおしっこが溜るまでは、おしっこが溜ってることを脳に伝えないようにしておくのよ。そして、おしっこが溜ったと感じた時には、すぐに出ちゃうようにするの。わかるでしょ、ほんとの赤ちゃんと同じような状態にするのよ。
 そんなに心配しないでいいわ。ちゃんと訓練すれば、おしっこに気づいてから出ちゃうまでの間隔を少しずつ長くできるから。赤ちゃんがオムツを外す練習をするでしょ、あれと同じよ。あなたを引き取ったお母さんが上手に訓練してくれれば、いつかあなたのオムツも外れるかもしれないわ。
 ――わかったでしょう? この部屋で大人を赤ちゃんに変えちゃうのよ。赤ちゃんができる部屋だもの、ここが『分娩室』って呼ばれてもおかしくはないわ。
 さ、始めましょうか」
 恭子の顔を透明なマスクが覆った。そこから甘い香りが流れてきたと思った時には、さきほどと同じように頭の中がまっ白になっていった。




 恭子は縁側に座って、庭先に干してある洗濯物を見ていた。自分が汚してしまった動物柄のオムツや大きなオムツカバー、ベビー服やソックスといったものが風に揺れている。
 恭子の周りには幾つかのベビー玩具が置かれ、すぐ近くで『ママ』が優しく恭子を見守っている。やがて、風に揺れるオムツを見ながら眠気を感じた恭子は『ママ』のところへハイハイして行き、その膝を枕にして眠りについた。
「お、恭子は寝ちゃったのか」
 奥の部屋から縁側へ出てきた『パパ』がママに話しかけた。その声は少し不満気な調子を含んでいた。
「仕事が一段落ついたんで、せっかく遊んでやろうと思ったのに」
「仕方ありませんよ。昨夜はあなた、広報の方と遅くまでお酒を召しあがっていたでしょう」
 恭子のお腹に毛布をかけながら、『ママ』が『パパ』を睨んだ。
「その声が大きくて、恭子はなかなか眠れなかったんですよ。今のうちにお昼寝させておかなきゃ」
「そうだったか、それは悪かったな」
 『パパ』は神妙な顔つきになって言った。
「どうも、あれだな。赤ん坊ができると嬉しくなってしまって、ついついと……」
 「お気持はわかりますけど、でも、恭子のことはあまり人様に話さない方がよろしいですよ。あの広報の方は古くから担当していただいてる人で口も固いからよろしいですけど、それでも恭子を初めて見た時には驚いてらしたでしょう」
「そうだな――これからは、恭子を見せたくて人を家に誘うのはよしておくとするか」

 『パパ』はあまり売れない放送作家だった。一般受けする作品を書く気はないのか、いつも普通の人が興味をしめさないような奇妙な話題や怪しげなネタをテレビ局に持ち込むばかりだから、さして仕事が回ってこないのだ。そんな『パパ』が嗅ぎ回る情報の中に第二小児病院の話があった。夫婦そろって子供好きのくせに今まで子供に恵まれなかったパパは、第二小児病院のことはテレビ局には内緒にしたまま、『ママ』に教えてやった。話を聞いた『ママ』は乗り気になって、早速病院を訪問することにして連絡を取り始めた。
 その頃、分娩室での処置を終え、体についた幾つかの傷も消えた恭子は、『新生児室』に移されていた。身体に処置を施す分娩室とは異なり、新生児室では専ら精神的な処置が施される。つまり、赤ん坊としての生活を徹底的に憶えこまされるのだ。
 大きなベビーベッドの上に寝かされた恭子は、力の入らない手をなんとか上に伸ばそうとしていた。今日の昼食は、看護婦が恭子の顔の上で手に持っている哺乳瓶のミルクだけだった。制限時間内にその哺乳瓶を手に取れなければ昼食は諦めるしかなかった。最初の頃は、必死になって哺乳瓶を手にしようとする行為が幼児のそれのように思えてプライドが傷つき、わざと無視していた。しかし、そのミルクの中には様々な栄養素が溶かしこまれていることを教えられ、実際に飢えと渇きに襲われた経験をしてみると、必死にならざるを得ないのだ。
 なかなか上がらない自分の腕にいらつきながら、思わず恭子は涙を流していた。涙が頬を濡らすのを感じながら、右手で左手を支えるようにして持ち上げていく。やっとの思いで哺乳瓶を受け取った時には思わず『ぱいぱい』と言葉にしていた。薬の影響なのか、舌の感覚が鈍っていて言葉がはっきり出せなくなっていた。そのゴムの乳首を力いっぱいに吸い始めた時、よくできたわね恭子ちゃん、と言って看護婦が頭を撫ぜた。その優しい手の動きに、恭子は小さく頷いてしまった。必死になって哺乳瓶を求め、ゴムの乳首を思いきり吸う行為は、恭子の心の一部に、自分が乳児になったような錯覚を芽生えさせるに充分なものだった。
 あまり強く乳首を吸ったため、ミルクが気管に入って恭子は少しむせた。咳をする恭子の背中をさすり、口から溢れたミルクをヨダレかけで拭き取った看護婦は微笑みながら、恭子の頬を人差指で軽くつついた。
 この新生児室には現在、二人の『ベビー』がいる。恭子と、もうひとり男の子がその部屋で育児されているのだ。看護婦は一人のベビーに専属の三人がつき、交代制で面倒をみている。その服装は白衣などの看護婦らしいものではなく、家庭の主婦と同じようなものだった。いかにも看護婦らしい格好をしていると、この部屋のベビーが病院にいることを意識してしまい、なかなか自然に振る舞わないためだった。
 部屋の内装もそのように造作されていた。ベビーベッドの上にはメリーサークルが天井から吊られ、ベッドのすぐ横に専用のベビータンスが置いてある。壁もまっ白ではなく、明るいピンクを基調にした明るい色調に塗られていた。
 洗濯されたオムツやオムツカバー、ベビー服の一部がベッドのすぐ上に干されていて、自分が赤ん坊の格好をしていることを常に意識させるようになっている。四つあるベビーベッドの間には遮るものはなく、お互いが見えるようになっている。そのため、ベッドの上に干された洗濯物と同様、自分のベビースタイルを忘れることはできなかった。
 空になった哺乳瓶を枕許に置いた看護婦はベッドのサークルを倒して、恭子のオムツカバーを開き始めた。オムツを取替えられるのを嫌がっていたのは、ほんの二日間ほどだけだった。抵抗しようにも体にそれだけの力が入らないことを実感し、それでも下手に抵抗して濡れたオムツのまま長時間放置されることの不快感を味わうよりは素直に新しいオムツに取替えられる方がよほど良いと思うようになるのに、二日もあれば充分だった。更にこの頃では、新しい柔らかなオムツをあてられる度に自分の心が徐々に乳児に返っていくことを感じていた。それは決して嫌な感じではなく、温かい何かに包まれるような心地良いものだった。
「恭子ちゃん、たくさん出たのね」
 看護婦がわざとらしい大声を出した。まだ心の中に残っている大人の部分がその声に反応し、顔がまっ赤に染まった。
 微かに甘酢っぱい匂いが漂ってきた。それが恭子のうんちの匂いだった。この新生児室に移ってからは、大人の食べるようなものは全く口にしていなかった。どろどろしたベビーフードと栄養素を溶かしこんだミルクばかりを食べたり飲んだりしているため、うんちの匂いも赤ちゃんのそれのように極めて弱いものになっている。看護婦は嫌な顔をせず、お湯で濡らしたタオルで恭子のお尻を拭き、新しいオムツとオムツカバーを敷きこんだ。ベビーパウダーがつけられ、新しいオムツをあてられてすっきりしたお尻の感触に満足した恭子は、思わずニコッと笑っていた。
 その恭子のおでこに看護婦が優しくキスをして、メリーサークルのスイッチを入れた。ミルクでお腹がふくれ、お尻も気持良くなった恭子の目はメリーサークルの人形を追いながら次第にとろんとし、閉じられていった。

 院長との面談を終えたパパとママは、内田百合子に案内されて新生児室に入って行った。女の子の方がいいわねというママの希望を聞いた百合子は、二人を恭子のベッドに連れて来た。
「もう殆ど赤ちゃんになりきってますよ」
 恭子のオムツを取替えながら、看護婦は百合子に報告した。
 おしっこで濡れたオムツを取替えられている間、恭子は手に持ったガラガラをさかんに振って音を聞いていた。そして、百合子の顔を見た恭子はその手を止めて『ばぶばぶ』と嬉しそうに声を出し、百合子の方に手を伸ばした。
「久しぶりね、恭子ちゃん。元気にしてたかな」
 伸ばしてきた恭子の手を優しくさすりながら、百合子は耳許で言った。
「今日はね、恭子ちゃんの新しいパパとママを連れて来たのよ。よかったね?」
「この子ですか、まぁ可愛いい顔をしてること」
 初めて恭子を見たママは、一目で気に入ったようだった。恭子の両頬を手で包むようにしながら撫ぜまわしている。
「ねえ、あなた、この子どうでしょうね?」
「おまえが気に入ったのならいいじゃないか。私としても異存はないよ」
 パパも僅かに相好を崩して答えていた。

 こうして恭子はパパとママのところに引き取られることになったのだが、恭子が実際に家にやって来るまでの二人の騒ぎは大変なものだった。
 病院と取引のある業者に注文した特製のベビーベッドとタンスをベビールームとして用意した部屋に運び、天井からはメリーサークルを吊り下げた。ママがいそいそとオムツを縫っている間に、パパは部屋がいっぱいになってしまいそうなほどの玩具を買ってきた。ベッドと一緒に運ばれてきた大きな歩行器を持ち上げようとしたパパがぎっくり腰になったり、たくさん買い過ぎた特注のベビー服をなんとか箪笥にしまおうとしてママが汗をかいたりしたものだった。
 病院の車が玄関に駐まってベビーバギーに乗った恭子が家に入ってきてからも、騒ぎは収まらなかった。病院の職員が帰るや、パパは恭子を抱っこしようとしたし、ママは自分の乳首を恭子の口にふくませようとした。先の、パパがママに注意されるシーンもそんな騒ぎの中のささやかなエピソードの一つだった。
 何日かが経って騒ぎが静まってから、恭子はやっと自分のいるべき場所に落ち着いたように思った。赤ちゃん欲しさにあの病院へ行った私だけれど、その願いは叶わなかった。だけど、私自身が赤ちゃんになることができた――言ってみれば、この世で一番可愛らしい赤ちゃんを手に入れたようなものだ。パパもママも優しそうな人だもの、私は赤ちゃんとしてこの人たちに甘えていればいいのよ、そう思った恭子の心には、春の穏やかな日差しのような、温かな何かがあふれていた。


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