再会 〜第二小児病院シリーズ2〜


 《K坂の上の田上御殿》といえば、この近辺では知らぬ者のない豪邸だった。
 明治初期に当時の当主が始めた漢方薬の販売が成功したのが、今日ある田上家のそもそもの始まりだった。大正時代には西欧から技術者を招き入れ、医薬品の本格的な開発・販売にのりだした。そして、地震や戦争といった、本来なら忌むべきことが起こる度に医薬品の需要が生まれ、田上家は潤っていった。
 田上家の名目上の当主は義明であるが、実際には四十歳になる息子・義輝が権限を握り、義明は隠居も同然だった。今や『田上製薬』を中核とする田上グループの総師として、義輝には恐れる物など何一つないように周囲からは思われていた。
 しかし、そんな彼にも、たった一つの悩みがあった――妻が子供を産めない体になっているというのが、それだった。結婚してすぐに子宮筋腫という病気のために子宮を摘出してしまい、妊娠することが不可能になっていたのだ。誰が悪いのでもない、と妻には優しく接するものの、自分の直系に田上家を渡せないと思う度に心が揺れるのを感じていた。妻にしても、常に接する夫の胸の内ははっきりと感じられ、最近は陽気な振る舞いはなりをひそめていた。
 そんなところに現われたのが飯田綾子だった。
 屋敷に居る三人の女中の一人が故郷に帰ることになり、その代わりとして雇われたのが綾子だった。
 女中とは言っても、単に家事や雑用をこなすだけでは田上家では勤まらなかった。プライベートの私邸だというのに頻繁にかかってくる仕事関係の電話には海外からのものも少なくなく、しかもかなり専門的な内容であることが珍しくないため、有能な秘書と同等の能力が求められることになるからだ。そんな訳で、これまでに勤めてきた女中は大学を卒業後、大手の商社などに勤めていた有能な女性を引き抜いてきた者ばかりだった。
 そんな中で、綾子は例外的に若かった。名の通った大学を卒業して大学院の経済学専門過程に進もうとしていた矢先に両親が相次いで亡くなり、就職先を探しているところに声がかかったのだから、若さに溢れている。
 その若さと、経験不足を補って余りある能力、更に持って生まれた美貌とが義輝の心を惹いたとしても不思議ではなかった。
 田上家に住みこんで働き始めてから数ケ月後、綾子は義輝に犯された。日頃の冷静な義輝からは想像もつかない乱暴なやり方に、綾子の力では抗うことはできなかった。
 更に二ケ月後、綾子が妊娠したことが判明した。そのことを告げられた義輝は、しかし、困惑するような表情も見せずに、よくやったと満足そうな言葉を彼女にかけたものだった。思えば、それが彼の真の目的だったのだろう――妻が子を作れない体であり、それでも子を欲するなら、他の女性に産ませるしか方法はない。かといって、田上家を引き継ぐことになるだろう子供を、どこの誰とも知れぬ女性に産ませることもできない。そこへ、若・美・知を揃え持った綾子が出現したのだ。数ケ月をかけて彼女の能力を確認し終えた義輝が、自分の子を産むにふさわしいと判断し、実力行使に踏みきったと考えるのが自然だった。
 妻の様子からも、そういった展開がうかがえた。いくら義輝が力にまかせてのこととはいえ、妻の立場なら綾子をも責めるのが当然なのに、それが全くなかったのだ。むしろ、丈夫な赤ちゃんを産んでね、といたわるような態度さえ見せたのだった。
 そして十ケ月後、少なくない現金を渡された綾子は、自分の産んだ女の子を残して屋敷を出た。その子は田上家の実子として育てられることになる。




 綾子が屋敷を出た日から十七年の時が流れた或る日、高校の生物の授業で遺伝に関しての説明があり、田上理沙は血液型判定の実験を行なった。少しビクビクしながら自分の耳たぶに針を刺し、少量の血液を採取する。その血液を試薬に反応させ、凝固反応が見られるかどうかで血液型がわかるようになっているのだ。
 その判定結果はB型となった。それは自分がこれまでに受けた健康診断での結果と一致するもので、彼女は妙に感心していた。それまでは漠然と、血液型判定などは専門家である医者にしかできないもの、と思いこんでいた。それが案外と簡単にできてしまい、驚きと同時に感心するような思いが浮かんでくるのだった。
 一通りの実験を終えた後、教師は更に興味深いことを教えてくれた。
「今の実験は実際の血液を使ってのものだったけど、現在の技術では血液は必要ないんだ。新聞なんかでも見かけると思うが、犯罪捜査では、煙草の吸殻についている唾液や、髪の毛一本からでも血液型が判定されている……もちろん、それには訓練された専門家が必要だけどね。だが、少し前に、こういう試薬が市販されるようになった」
 教師はそう言うと、教壇の上に小さなガラス壜を置いた。
「素人でも簡単に髪の毛や唾液から血液型を判定できるようになっている試薬だ。危険なものでもないから、遊びを兼ねた実験がてら、みんなに少しずつ分けてあげるよ。家族の血液型を調べて遺伝の法則を確かめてみるといい」
 屋敷に戻った理沙は早速、両親の寝室に忍びこんだ。ベッドサイドのテーブルに置いてある灰皿から吸殻を取り上げた後、母親のヘアブラシに絡みついている髪の毛を一本手にする。
 そうやって採取した試料と学校から持ち帰った試薬とを反応させながら、理沙の顔つきが微妙に変化していった。軽い思いつきで始めた実験から予想もしなかった重い事実を発見した科学者のように、その目は大きく開かれ、一点を見据えていた。

「ねえ、パパ?」
 家族三人での夕食を終え、お茶を飲みながら、理沙は義輝に話しかけていた。
「何だい? お小遣いならママに言った方がいいぞ」
 義輝がおどけた口調で応える。
「違うの……あのね……」
 自分から声をかけておきながら、理沙は言いよどんだ。
「どうしたね。ちゃんと言ってみなさい」
 娘の普段とは少し違う態度に、義輝は読んでいた新聞から顔を上げた。
「どう言えばいいかな……あのね、『PDP−7−M3』っていう薬なんだけど、知ってる?」
 理沙は考え考え言葉を進めた。
「まあ、薬のことならパパは専門だからな。えーと、『PDP−7−M3』っていうのは……ああそうだ、パパの会社が開発したものだよ。警察関係からの依頼で開発した、少量の試料から血液型を判定するための試薬だ。それがどうかしたかね?」
「うん。そのお薬ね、間違った反応をすることなんてないよね?」
「うーん。そりゃ、完全な試薬なんてものはないが……それでも、間違う確率は想像もできないほど小さな数字だろうね」
「……そう。そうよね、パパの会社が開発したんだもの、間違いっこないよね」
 そう言いながら、理沙は顔を少し伏せた。そしてしばらくそうしていた後、不意に顔を上げた理沙はわざとのような明るい声で言った。
「じゃ、寝るわね。おやすみ、パパとママ」
 ああ、おやすみ、と応えた両親だったが、やがて強い不安が二人を襲ってきた。いつもは快活で言葉を濁すことなどない理沙の今日の態度が妙に気にかかり始めたのだ。そうして思い返してみれば、自分の部屋へ戻る時の精気のない歩き方といい、おやすみを言った時の奇妙な明るさといい、二人の不安を増幅させる材料は少なくなかった。
 そっと目を合わせた義輝と妻は慌てたように立ち上がると、理沙の部屋に向かって歩き始めた。
 自らを落ち着かせようとわざとゆっくり歩き始めた二人だったが、そうできたのは廊下の半ばあたりまでだった。そこから先は、まるで競争でもするかのように二人の歩速はどんどん早まっていった。そして最後には走りださんばかりになっていた二人だが、いざ理沙の部屋が近づいてくると、再びその速度は落ち始めた。不安を消し去るために早く娘の部屋に入って彼女の姿を確認したいという気持と、万が一にでも不安が的中してしまった時に襲ってくるだろう落胆とが心の中でせめぎあい、足取りも少しばかり頼りないものに変わっていた。
 部屋のドアの前でしばらくためらった後、義輝はノックをせずにノブを回した。
 いきなり何よ、という娘の尖った(しかし充分に愛敬のある)声を期待していた彼の耳には、何も聞こえてこなかった。再び妻と目を合わせると、彼はドアから娘の部屋に飛びこんだ。
 そこに部屋の主の姿はなかった。
 やがて、おろおろと見回す二人の目に、机の上に置かれた開きっぱなしのノートが映った。
 砂漠で喉を乾かせ、やっと辿りついたオアシスの泉の水をすくうように、義輝は急いでノートを持ち上げ、そこに書かれた文字を読んでいった。途中で何度も目を閉じながらもなんとか読み終えたノートを妻に手渡しながら、彼はノートの横に置かれたガラスの小皿に視線を移した。
 今度は妻の目が文字を追うノートには、次のような文章が書きこまれていた。
【今日、学校から『PDP−7−M3』を貰ってきました。その薬で、パパとママの血液型を調べてみました。軽い好奇心からです。まさか、こんな結果になるなんて思いもしませんでした。
 だから夕食の後、パパに尋ねたんです。『PDP−7−M3』で間違った判定結果が出ることはないの?って。だけど、間違いなんてないんだよね。
 でも、判定結果が間違いじゃなかったら、私はどうすればいいの?
 ああ、そうだ。実験の結果をここに書いておかなきゃ、パパもママも私が何を言いたいのかわからないよね。あのね、私が調べてみると、パパはA型、ママはO型だったの。AとOの両親から産まれる可能性のある血液型はAとOの二種類よ。今日教わった遺伝の法則ではそうなるの。
 そして私は、パパとママとの間には生まれない筈のB型だった。
 じゃ、私は誰なの?
 どこからか引き取ってこられた養女なの? それとも、父親か母親はパパかママでも、片親が違うの?
 どっちにしても……。
 ごめんなさい。ちょっと家を出ることにします。すぐに帰ってくるかもしれないけど、ずっと帰ってこないかもしれません。とにかく、今はパパやママと顔を会わせることができないの。ごめんなさい】
 ノートを読み終えた妻は、義輝が睨みつけているガラスの小皿を見た。その中は小さなガラス片でいくつかに仕切られ、吸殻と髪の毛の一部が入れられていた。
 そうしたまま時間が流れて行った。
 不意に我に返った義輝がポケットから折たたみ式のコードレスホンを取り出し、家人や女中に、理沙の姿を見なかったかと確認を始めた。一人の女中から、しばらく前に小さなバッグを持って玄関から出て行く理沙に出会ったという返事があった。しかし、友達の家に行ってくるという理沙の言葉に少しの疑いも抱かずに見送ったということだった。




 その日の仕事を終えて病院から宿舎へ帰る途中で、内田百合子は、それまでアクセルを踏んでいた右足を慌ててブレーキペダルにのせかえて力を入れた。ヘッドライトに照らされた道路に、不意に人影が現われたのだ。
 リヤタイヤを少し右に滑らせながら車が止まるのと、百合子がドアを開けて車から飛び出すのとが殆ど同時だった。バンパーから一メートルも離れていない路上に、ヘッドライトの光を受けながら一人の少女が座りこんでいた。
「大丈夫なの?」
 自分もしゃがみこみながら、百合子が声をかけた。普段の冷静な彼女からは考えられないような、息を弾ませた声になっていた。
 少女はのろのろと頷いた。
「ああ、よかった。急に飛び出してくるんだもの、てっきりはねちゃったと思ったわ」
 百合子は小さく溜息をつくと、強張っていた表情を僅かに緩めた。
「だけど何をしてたの――こんな時刻に、こんな所で? ハイキングしてるような格好でもないし」
「……すみません。御迷惑をかけました」
 少女はやっと我に返ったように、小さな声を出した。
「あの、大丈夫ですから、ほおっておいて下さい」
「ほおっとくって言ったって……。どこかへ行く途中なの? なんなら、車で送るわよ。ただでさえ辺鄙な所でバスも殆ど走ってない上に、こんな時刻だもの」
「行く先なんてありません。ただ……」
「……ああ、なるほど、そういうことか。じゃ、なおさらほおっておけないわね」
 事態を理解した百合子は少女の右腕を掴んだ。
「さっさと車に乗ってちょうだい。お気に召すかどうかはわからないけど、私の部屋に泊めてあげるわ」
 抵抗する少女を強引に助手席に乗せた百合子は車を発進させた。
 それから、人気のない山道を十五分も走っただろうか。まだまだ街には遠い場所にもかかわらず、周りの雰囲気にあまりそぐわない都会的な建物が見えてきた。百合子が車を乗り入れた正門の門柱には、『天啓会・第二職員宿舎』と書かれたプレートが掛っている。
 指定の駐車場に車を駐めた百合子は、少女を促して自分の部屋に入った。ここまで来て抵抗するのも馬鹿ばかしいと悟ったのか、少女は素直に従った。
 百合子が炒れたお茶を目の前に置くと、それまで身じろぎせずにダイニングルームの椅子に腰かけていた少女が頭を下げた。
「自己紹介しておくわ。私の名前は内田百合子。さっき、あなたを拾った場所の近くに在る病院で院長秘書を勤めてるの。で、ここは病院の宿舎の私の部屋。よろしくね」
 百合子はニコッと笑いかけて言った。
「あ、あの。私は理沙です。えと、あの……」 少女は顔を伏せて、言葉を探していた。
「『家出の途中です』って顔に書いてあるわよ」
 百合子はクスッと笑うと、からかうように言った。
「……そうです。すみません」
「謝ってもらわなくてもいいわ。ただ、身元だけはちゃんと確認しておきたいの。正直に言ってもらえるわね?」
「でも……」
「大丈夫よ。あなたがいいと言うまでは、お家に連絡なんてしないから。それは信じて欲しいわね」
「わかりました。御厄介になってるんですから、私の身元は正直に言います。だから、家の方には……」
「まかせてちょうだい」
 少女は、百合子が差し出した手帳に名前と住所を記入していった。手帳の上を走る理沙の手を見つめる百合子の目が妖しく輝く。
「で、どうして家出なんてしたの?」
 百合子が尋ねた。
 家を出て以後、自分の気持の整理がつかない理沙にとって、自分の言葉を聞いてくれる百合子は最良の相談相手のように思えた。今まで一人で胸の奥にしまいこんでいた孤独感や不安、人を信じることのできない苛立ちといったものが、次々に言葉になって口から飛び出していった。そういった、とりとめのない言葉を百合子は辛抱強く聞き続けた。

 翌日、出勤する百合子に従って、理沙も第二小児病院へ来ていた。理沙をひとりで宿舎に置いておけば勝手に抜け出すかもしれないと判断した百合子が連れてきたのだった。
「院長の野田です。よろしく」
 百合子が見知らぬ少女を連れて来たことにさして驚きもせず、簡単な説明を受けた院長が理沙に言った。
「田上理沙です。すみません、急に……」
「いやいや。内田君があなたと出会ったのも何かの縁でしょう。落ち着くまでゆっくりするといい」
 紳士然としたゆったりした笑顔を見せて院長が応える。そして、ゆっくりと視線を百合子に移した。
「今日は急ぎの用件もない筈だから、院内の見学にでも連れて行ってあげたらどうかな。赤ん坊の笑顔でも見ていれば精神的にも和んで心が落ち着くんじゃないかな?」
「そうですね。では、そういたします」
 百合子は院長の言葉に頷いた。その時、院長と百合子との間に無言のサインが交わされたことなど、理沙は全く知らなかった。
「じゃ、行きましょうか」
 百合子が理沙に声をかけた。
「え、いいんですか? でも、お仕事は?」
 理沙は戸惑ったように言葉を返す。
「いいのよ。院長も言ってたでしょ、急ぎの用件もないって」
「……じゃ、少しだけ」
「そうね――じゃ、まずは三階に在る新生児室へ行ってみましょうか」
 エレベーターで三階まで降りた二人は、並んで廊下を歩き始めた。途中に待合室と分娩室とがあったが、人影はなかった。今日は出産の予定がないのかしら、と理沙は漠然と思った。
 しばらくすると、壁の一部に大きなガラスが嵌めこまれた部屋の前についた。そこが新生児室になっているようだ。
 面会時刻になるとガラスの奥に掛けられたカーテンが開いて、親戚の人たちが産まれたばかりの赤ちゃんを見るようになってるのね、と理沙は思いついた。それは、テレビなどでもよく目にかかる光景だった――せっかく来たけど、まだ面会時刻じゃないみたいね。カーテンは閉ったままだもの――とりたてて期待をしていたわけでもないが、せっかく来たのに、と理沙は少しばかりがっかりした表情になっていた。
 そんな理沙の表情を目にした百合子が新生児室のドアを開けた。そして、こっちへいらっしゃいと手招きする。
「勝手に入っちゃっていいんですか?」
 理沙が、思わず百合子に声をかける。
 大丈夫よと百合子が頷くのを見た理沙は慌ててドアに近づいた。
 二人が部屋に入ると、百合子がドアを閉じた。その微かな物音に気づいたのか、室内にいる看護婦の一人がこちらを向く。
「なんだ、内山さんか。誰かと思ったわ」
 百合子の顔を見た看護婦はホッとしたような表情を浮かべて言った。そして、百合子が連れている理沙に気づく。
「あら、その子はどうしたの?」
 その声に、室内にいる残りの看護婦も理沙の方を振り向いた。もっとも看護婦とはいっても、白衣や帽子を身に着けているわけではない。一見したところでは普通の家庭の若い主婦としか見えないような格好をしているのだ。それは、赤ん坊や、時おり現われる見学者に対して威圧感を与えないための配慮だった。いくら気を使っても看護婦の制服は、それを見る人たちに、ここが病院だということを無言で知らせてしまう。そういうプレッシャーをやわらげるために、この病院の看護婦は手術等の緊急時以外は私服とも思える衣類を着用することになっている。
 この新生児室の内装も、そういった配慮のもとに仕上げられているようだった。病院を思わせる白い壁もリノリュームの冷たい床も、この部屋には見あたらなかった。明るい色調の壁の所々には動物やアニメキャラクターの絵が描かれ、床は温かい木目のフローリング仕上げになっている。
 室内を興味深げに見回していた理沙だったが、いくつかの視線を感じると、さすがに百合子の背後に隠れようかと思った。しかし、その必要はなかった。院長に対してしたのと同じような説明を百合子が看護婦たちにすると、彼女たちの視線が温かなものに変化していったからだ。
「そうなの。どんな理由かは知らないけど、家出なんてしちゃったら精神的にまいっちゃってるでしょ。可愛らしい赤ちゃんを見て心を解きほぐすといいわ」
 最初に理沙を見つけた看護婦が優しい声をかけた。
 はい、と頷いた理沙はおずおずと戸口から部屋の中ほどへ歩いていった。それから、再びゆっくりと室内を見回す。
 フローリングの床の上にはベビーベッドが四つ据えられている。一つのベッドは空っぽだったが、残りの三つには赤ん坊が寝ているようだった。赤ん坊が寝ている三つのベッドの上には天井からサークルメリーが吊られ、その横には細いロープが張ってある。ロープには、動物柄や水玉模様のオムツ、カラフルなオムツカバー、可愛らしいデザインのベビー服などが掛けてあった。赤ちゃんたちが汚したのを洗濯して干してあるんだろうと思った理沙だったが、同時に、それがとても妙なことだという思いも胸の中に湧き上がってきた――清潔を最も大事にする新生児室の室内に洗濯物を干したりするだろうか? 室内を汚す恐れがあるし、それに、特に赤ちゃんの洗濯物はお日様の光に当てることが必要なんじゃないかしら。
 そう思いついた理沙は同時に、それ以上に奇妙なことも発見した。それは、その洗濯物のサイズだった。どう見ても、ロープに干してある衣類が普通のベビーウェアに比べて大き過ぎるように思えるのだ――あんなに大きなベビー服を着せられたら赤ちゃんが服の中に埋っちゃうわよ。いったいどうなってるのかしら? それに、そういえばベッドのサイズも普通じゃないみたい。充分に大人が寝られるほどだもの。
 理沙は、ゆっくりした足の運びでベッドの一つに近寄った。そして、その上に寝ている赤ん坊を静かに見下ろす。
 彼女の目に映ったのは、すぐには信じられない光景だった。
 そのベッドの上ですやすやと気持よさそうな寝息をたてているのは、一見したところは女の赤ん坊のようだった。後頭部から額にかけては淡いレモン色の柔らかそうな生地でできたベビー帽子に包まれ、胸のあたりは帽子とお揃いの色の吸水性のよさそうな生地に小さなフリルがつけられたヨダレかけに覆われている。ヨダレかけの下にはお腹を出してしまわないようになっているコンビドレスが着せられているが、そのドレスのお尻付近はもこもこと膨れていて、少なくない枚数のオムツがあてられていることが想像できた。
 けれども、その子が赤ん坊である筈はなかった。ベビー帽子から出ている長い髪や、ヨダレかけが窮屈そうに見える発達した胸といったものが、その子の本来の年齢を示しているのだ。しかも、身長は目測で百六十センチくらいと思える。百六十センチの身長を持つ赤ん坊がいるとは、理沙にはとうてい思えなかった。
 何かの冗談か悪戯だろうかと思った彼女は百合子の方を振り返ろうとした。その視線が看護婦の視線とぶつかった。すると、その看護婦は意味ありげに小さく笑い、ベッドに近づいてきた。
 理沙の視線が追う中、看護婦はベッドの横に立ち、そのサークルをゆっくりと倒していった。そして、大きな赤ん坊が着ているコンビドレスのボタンを静かに外し始める。ボタンを外し終えたドレスの、脚から股間の部分が看護婦の優しい手つきでシーツの上に広げられると、理沙が想像したように、大きなオムツカバーが現われた。ベビーピンクの生地に、デフォルメされた動物たちがプリントされたオムツカバーは、それを見る人の心をなんともいえず温かくさせるような可愛らしいものだった。
 思わず息をのむ理沙を意識してか、看護婦はわざとのようにゆっくりとオムツカバーのボタンを外し、腰紐をほどいてゆく。やがてカバーの前当てが開くと、その中に隠れていた水玉模様のオムツが見えてきた。その生地の大部分は元の白地が少し黄色く染まり、染まった部分からは微かに湯気が上がっているように見えた。それは、そこに現われたオムツが少なくない尿を吸収していることを示すものだった。
「あらあら、美保ちゃん、たくさんしちゃったのね。気持わるかったでしょ」
 看護婦はまるで我が子に語りかけるように、優しげな中に少しおどけた調子で言った。
 自分のことではないとわかっていながら、思わず理沙の頬が赤く染まった――いくら赤ちゃんのような格好をしているとはいっても、ベッドの上に寝ている女性(看護婦が呼んでいたところでは、美保という名前らしい)は私と同じ年齢か少し上に見える。そんな子がオネショなんてしちゃうんだろうか。それも、本当の赤ちゃんみたいにオムツの中に。そう考えると理沙の心が騒ぎ、顔が上気してしまうのだった。
 そんな理沙の表情を百合子が見守っていた。看護婦の作業から目を離すことができなくなった理沙は、百合子の意線にも気づかずに、ベッドの上をじっと見ている。
 同僚の看護婦が美保の両足を持って僅かにお尻を持ち上げるのと同時に、さきほどの看護婦が濡れたオムツをどけてしまい、新しい動物柄のオムツを敷きこむ。軽くベビーパウダーがはたかれてから、新しいオムツが美保のお尻を覆い、その上からオムツカバーが包みこむ。その手慣れた手順を見て、そういった作業が何度となく繰り返されてきたんだろうと理沙は思った。もしもそうなら、このできごとは理沙を驚かせるために仕組んだ冗談などではないことになる。つまり美保は、成人の体を持ちながらも、その生活の中身は赤ん坊のそれと変わらないということだ、と理沙は理解した。
 オムツカバーのボタンを留め、コンビドレスを着せ終えた看護婦が、どう?とでも言うように首を少し傾げ、理沙の顔を見た。
 何をどう言えばいいのか全く思いつかない理沙が目を伏せて美保の顔を見た時、その目がゆっくりと開いた。
 理沙を見た美保は体を小さくビクッと震わせ、今にも泣き出しそうな顔になりながら看護婦の方へ手を伸ばそうとしていた。それは、見知らぬ大人に見つめられて恥ずかしさを覚えた赤ん坊が母親に助けを求める動作そのものだった。
 求めに応じるように、看護婦は美保の首から背中へ右手を回し、上半身を抱き上げた。そのまま、左手で自分のブラウスのボタンを外し、ブラジャーのフロントホックを外す。恰好の良い乳房が顕になると、彼女は左手を美保の後頭部にまわして、その頭を更に高く持ち上げる。
 やがて看護婦の乳首と美保の口が同じ高さになると、美保はその乳首にむしゃぶりついた。体格を無視すれば、母親に甘えながら母乳を飲む赤ん坊としか見えない光景だった。そして実際、看護婦の乳首からは母乳が出ているようで、美保の唇の端からは細く白いものが僅かにこぼれ落ちていた。時おり、よだれかけで美保の唇から顎を拭きつつ、看護婦はしっかりと彼女を抱き続けていた。
 二十分ほどもそうしていると、次第に美保の目がトロンとしてき、遂には瞼が閉じられる。
 看護婦は美保をベッドに戻してから、理沙の方をちらっと見た。理沙は腰をかがめて美保を見すえていたが、呆気にとられたように、その口は半ば開いていた。
 それを見た看護婦は悪戯っぽいウインクを百合子に送ると、半開きの理沙の口に自分の乳首をふくませた。すると、理沙の唇が看護婦の乳首を咥え、力を入れて吸い始める。自分が見てきた光景の異常さに唖然としてしまい、物事を理性的に考えられなくなりかけていた理沙の反射的な行動だった。
 しかし次の瞬間、口の中に広がる甘い味覚と香りが刺激となって、理沙は我に返った。
「どうかしら、久しぶりの母乳の味は?」
 理沙の唇が離れた乳房をブラジャーにしまいこみながら、看護婦が理沙の耳元で悪戯っぽく囁いた。
 理沙は一言も口をきかずに、顔から火の出る思いを味わっていた。何かを言おうとしても言葉にならず、唇を動かす度に看護婦の乳首の感触と母乳の味が思い出される。
「いろいろと尋ねたいことがあるでしょうね。説明してあげましょうか」
 いつのまに来ていたのか、百合子の声がすぐ近くから聞こえた。理沙は赤く染まったままの顔で小さく頷いた。それを見た百合子が言葉を継ぐ。
「立ち話も疲れるわね。分娩室の前に待合室があったでしょ。あそこのソファに腰をおろしましょう」

「さて、何から話せばいいかしら……」
 理沙がソファに腰かけて深呼吸をし、落ち着いた頃を見計らって百合子が言った。そして、少し何かを考えるような素振りを見せてから言葉を続ける。
「世の中なんて、不公平なものよね。経済的な余裕がないために子供が要らないって思ってても、奥さんが妊娠しちゃうことなんてよくある話だわ。その逆に、いくら子供を欲しがっても恵まれない人も大勢いる」
 百合子が少し間を取った。その短い時間に、理沙は胸の痛みを感じた。自分が養女かもしれないという理由で田上の家を飛び出してきたけれど、今まで何の不自由もなく育ててくれた両親の愛は偽物ではないように思えるからだった。そう、世の中なんて本当にうまくいかないものだ。自分が田上の実の娘でありさえすれば、家出なんてせずに済んだ筈だもの。理沙は一瞬、家に帰ろうかとも思った。しかし、今いだいている疑問を解決したいという欲求も強かった。理沙は、百合子の言葉の続きを待った。
「子供が欲しくて欲しくてしかたないのにできない人はどうすると思う? 諦める人も、もちろん多いわね。でも、養子をもらう人もたくさんいるの。歓迎されて産まれてくるのではない子供たちでも、そういった人たちに引き取ってもらえるなら、それはそれで幸せになれるかもしれない。もしもそんな組み合わせばかりなら、世の中も案外うまくできてるんだ、って言いたくなるわよね。
 でも、うまくばかりはいきっこないよね。養子を引き取る余裕のない人だって少なくないわ。そして、やっと養子を迎えようとした時には、完全な育児をする自信が失くなってる」
 百合子は、外人がよくするように、おおげさに肩をすくめてみせた。
「その時に、家を継がせるだけの目的で成人を養子として迎え入れる人もいる。だけどね、育児の楽しみを味わってみたいという人もいるのよ。自分の手で赤ん坊を育ててみたい、って思うのは当然の感情だと思うわ。だけど、もう、本当の小さな傷つきやすい赤ちゃんを育てることなんてできない。
 そんな人のためにね、人形やペットがよく売れてるの。それでも、そんなのは偽物だわ。動かない人形なんて、赤ちゃんの代わりをできる筈なんてない。いくら可愛らしくたって、犬や猫は人間にはなれない。
 それでね、少しくらい間違ったことをしちゃっても大した影響を受けない、丈夫な赤ちゃんがいないものか、って考えたの。
 答は簡単だったわ。大人を赤ちゃんにしちゃえばいいのよ。大人なら、少しくらい変な物を食べても、少々手荒な扱いを受けても、死にはしないし病気にもならないわ……」
 理沙は、百合子の言っていることがわかりかけてきた。だけど、大人を赤ちゃんにしちゃうってどういうことなのかしら? それにだいいち、大人の養子じゃ、育児の楽しみなんてないんでしょ。理沙は、疑問をこめた視線を百合子に投げた。
「……そうね、大人を相手に育児を楽しめる筈なんてないっていうのが常識でしょうね」
 理沙の無言の疑問を感じ取ったのか、百合子が小さく頷いて言った。
「でも、それを実現するのがこの病院なのよ。いくら身体が成人でも、ずっとオモラシやオネショをしちゃう人を大人って思えるかしら? ちょっとしたことでママに甘えてオッパイを欲しがる人はどうかしら?」
 百合子の言葉に、理沙はさきほどの『新生児室』での様子を思い出した。その部屋の大きなベビーベッドの上で眠っていたのは、成人の身体を持ちながらも赤ん坊のようにしか振る舞えない人たちだった。それは確かに大きななりはしていても、『ベビー』と呼ばれるにふさわしい状態なのかもしれない。
「わかってもらえたようね。この病院ではね、成人した人の身体をちょっといじって、赤ちゃんみたいにしてるのよ」
 そう言って、百合子はクスクス笑った。
 百合子が何を言っているのか、しばらくは理沙には理解できなかった。そして、やっと理解した時には無性に腹がたっていた。
 そんなひどい事が許されるものですか、と言って立ち上がろうとした理沙だが、それはできなかった。いつのまにか彼女の背後に立っていた人物が、ガーゼのハンカチで鼻と口を覆ってしまったからだ。そのハンカチからは妙に甘い香りが流れ、その香りを嗅いだ理沙の目は徐々に閉じられていった。意識を失ってゆく途中、理沙は百合子の言葉を聞き続けていた。
「自分から進んで赤ちゃんになりたがる人なんていないわ。だけど私たちには、そんな人たちが必要なの。いろんなルートで見つけ出してくるんだけど、あなたの場合はラッキーだったわ。自分から私の手の中に飛びこんできてくれたんだもの。そうそう、心配しないでちょうだいね――あなたの希望に沿って、家出したあなたがここにいるは家族には連絡しないから……」

 気を失った理沙は、数人の男に抱えられて分娩室に連れこまれた。そして、身に着けている衣類を全て脱がされた姿で、分娩室に据えられている固い手術台の上に横たえられる。その顔を透明のマスクが覆い、それに連結されているチューブの中に麻酔用のガスが流された。
 しばらくすると、手術台の周囲に数人の人影が立った。全員、手術用の白衣を身に着けている。リーダーらしい人物の合図によって、手際良い作業が始まった。
 分娩室のドアに取付けられた『処置中』のランプが点灯している間、その中の監視コーナーから手術の様子を見つめている四十歳前後の女性の姿があった。その横には内田百合子が立っている。
「早速に連絡を頂きまして、本当にありがとうございます」
 女性が頭を下げる。
「いえいえ。こちらこそ、こんなに早くお客様のご希望にそえて嬉しいですわ」
 百合子が笑顔で応える。
 二週間ほど前のことだった。
 その女性が第二小児病院を訪れたのは二週間前のことだった。或るルートからこの病院の存在と事業内容を教えられ、矢も盾もたまらずにやってきたということだった。
 院長と百合子の面談に応じて、彼女は身上を説明していった――若い時に勤めていた屋敷の主に犯され、妊娠までした。その時に産んだ子はその家に引き取られ、彼女は屋敷を出た。その後、屋敷を出る時に渡された現金を元に事業を興した。そしていつしか少なくない資産を持つようにまでなったものの、屋敷での事件が心に深い傷を作り、結婚はせずに通してきた。しかし、いつまでも独り身を通すことができるほど人間は強い生き物ではないようだ。結婚する気にはなれないものの、なんとか子供だけは欲しいと思うようになっていたのだ。できれば、自分が産んだ子と同じような年頃の子を、赤ん坊として育ててみたい、と。
 ご希望にそえそうになったら連絡しますと応えて女性帰らせた後、百合子はめぼしい獲物を求めるために動き回ることになった。そこへ偶然にも現われたのが、理沙だった。家出中の理沙を自分の車に乗せた時には、百合子の企みは成功したも同然だった。
 そして、いよいよ理沙を赤ん坊に変身させてしまう手術を始める際に、その旨を依頼主である女性に連絡したのだ。それは儀式のようなものだった。これから自分の赤ん坊になる者がそのための手術を受けている様子を見守ることこそ、第二小児病院では『出産』という行為に相当するのだった。少しではあるが流れる血を見守り、その痛みを想像することで、新しい我が子への深い愛情が増すというのが院長と百合子の考えだった。そのため、引取先が決まっている場合には、手術にはできる限り立ち会ってもらうよう努めていたのだ。
 女性は目をそむけずに、理沙の身体に施される処置を見守っていた。
 まず行なわれたのが、両手と両脚の筋肉への処置だった。数ケ所の腱にメスをいれ、随意筋の一部を切断する。そうすることで、理沙の両手脚の筋力は著しく弱められ、普通に歩くことは不可能になる。元来の筋力による個人差はあるが、よちよち歩きか伝い歩きしかできなくなる場合もあるし、立つことができずに、ハイハイしかできなくなる場合も少なくない。ただ、この時に執刀医が最も気にかけることは、いずれは筋肉が回復する程度に切断することだった。切ってしまうのは簡単なことだが、。しかし無思慮にそうすれば、手術を受けた者の筋力は一生回復しない。それでよいとする依頼もあるが、いずれは回復する程度にという依頼が殆どだった。筋力が回復する過程を、ハイハイしかできなかった赤ん坊が徐々に立ち、歩くようになるという発育の過程とみなすことで、より育児のリアリティーが増すからだった。
 両手脚の処置の後は、細い針を使っての、膀胱に対する処置だった。針がかなり深く下腹部に刺さり、見た目には痛そうだったが、訓練された医師の技術は理沙に僅かの苦痛も与えなかった。そして、膀胱の数ケ所のポイントに刺しこまれた針に電流を流す。この電流が膀胱内の神経を麻痺させ、膀胱内に溜っている尿の量を脳に伝達する経路がブロックされる。膀胱内に或る程度の尿が溜ると脳に信号が行き、トイレへ行きたくなるというメカニズムが、この処置によって麻痺することになるのだ。その結果は容易に想像できることだった。本当の赤ん坊のように、いつオモラシをしても不思議ではない体になってしまう、つまり、常にオムツが必要な体になるのだった。この処置についても、いつか神経の麻痺がとけるように調整される。今はオムツが必要でも、普通に歩けるようになる頃の幼児はオムツが外れるものだから。
 一時間ほどで手術は終了し、移動寝台に乗せられた理沙が、監視コーナーで待つ女性の傍らに運ばれてきた。執刀医の腕が良いのか、メスがいれられた跡は、よほど注意深く見ないとわからないほどだった。その傷もいずれはきれいに消えることだろう。
 監視コーナーの奥に在るドアが開き、女性と移動寝台とが進んでいった。そこは浴室のような造作になっていて、手術を終えたばかりの理沙の体を女性が清めることになる。それが『産湯』だった。
 温かいお湯でピンク色になった理沙を浴槽から抱き上げた後、女性は優しく衣類を身に着けさせていった。純白のレースでできたベビー帽子と、お揃いのソックス。やはり純白のベビードレスを着せてから、リスのアップリケがあしらわれたオムツカバーと、三色の水玉模様のオムツでお尻を包む。ピンクの生地の周囲にフリルがつけられたヨダレかけの紐を背中で結ぶと、理沙は本当に産まれたての赤ん坊のようにあどけなく見えた。
 その作業が終了する頃、ドアの外に大きな乳母車が運ばれてきていた。職員の手を借りて眠ったままの理沙を乗せた女性は、その乳母車を押して新生児室へ向かう。
 今の理沙のように身体への処置を終えたばかりでは、赤ん坊として完全ではない。ハイハイしかできないし、常にオムツを必要とするようにはなっても、精神は大人のままだからだ。赤ん坊が可愛らしいのは何故だろう? 見た目の可愛らしさもあるものの、それだけで充分というわけではない。その無意識の振る舞いや邪気のない笑顔こそが、つまりは純粋な無垢の心こそが、赤ん坊の可愛らしさの原点といえるものだった。肉体の処置を終えた理沙は、心から赤ん坊になるために、これから新生児室で精神の処置を受けることになる。
 看護婦の一人がドアを押し開いている間に、乳母車を押した女性が新生児室に入る。そのまま空っぽのベッドの一つに近づくと、車輪をロックし、乳母車とベッドの間に立った。そこへ看護婦たちがやって来ると、女性を手伝うように理沙を抱き上げて静かにベッドに横たえさせる。少し乱れた理沙の衣類を女性が整えている間に看護婦たちは静かに散って行った。そして、そのうちの一人が部屋の奥から藤製のバスケットを二つ運んで来る。
「こんなものでいかがでしょうか? 私なりに選んでみたんですけど」
 中に入っている物が女性の目に見えるようにバスケットをそっと床におろして看護婦が言った。
 バスケットの中身を確認した女性は目を輝かせると、しゃがみこんで手に触れてみる。そして、その柔らかな感触を楽しむように、静かに広げたりたたんだりしていた。その後、丁寧にバスケットの中に戻す――バスケットの一つに入っているのは、水玉模様や動物柄のオムツと、楽しげな絵柄がプリントされた表生地のオムツカバーだった。残りの一つには色とりどりの生地でできた様々なデザインのベビー服がたくさん収納されている。
 どうやら、この看護婦が理沙の担当になるようだ。それで前もって理沙に似合うような衣類を揃えておいてくれたのだろう。そう思った女性は温かな口調で応えた。
「ありがとう。これならとっても良く似合うでしょうね。これからよろしくね」
 女性と看護婦が二言三言交わした時、理沙の目がゆっくりと開いた。
 自分がどんな状況に置かれているのか理解しようと、理沙は開いた目をきょときょと動かし、上半身を起こそうとした。しかし、それはできなかった。上半身を支えようとする腕はさきほどの手術のために自由に動かず、背筋だけで起きあがるだけの筋力は元来持っていない。
 それでも、首を動かし、視線を移しして捉えた状況から、ここが数時間前に見学した新生児室であることに気づいたようだった。
「私はどうなったの? いったい、私の体に何をしたの?」
 理沙は大声をあげた。しかし、大声と思ったのは彼女だけだった。手術前に吸いこんだガスのためだろう、その声は実際には細く弱いものだった。
「あらあら、目が醒めたのね。よくネンネしてたわね、理沙ちゃん。大丈夫よ、お姉ちゃんはここにいるからね」
 理沙の質問には答えず、看護婦が幼児をあやすように声をかけた。それから女性の方を指差して言葉を続ける。
「ほーら、ママもいるでしょ」
 看護婦の言葉が理解できずに、理沙は一瞬呆然とした表情を浮かべた。その後、何かに気づいたように、お尻をもぞもぞさせる。理沙の表情が変化した。顔じゅうをまっ赤に上気させ、体が小刻みに震え始める。
「どうしたのかな、寒いのかな?」
 看護婦がわざとらしく顔を理沙の顔に近づけて言った。
 理沙が小さく首を振る。ちがうの、とも、こっちへこないで、ともとれるような仕草だった。
「ああ、そうか。ちっこ出ちゃったのね。すぐにオムツ取替えようね」
 看護婦が理沙の耳許で囁く。
 理沙の顔がますます赤く染まった。
 オムツカバーにかかる看護婦の手を振り払おうとするように体をくねらせたが、今の理沙にはそれだけの力は残っていない。
 看護婦はオムツカバーの腰紐をほどき、前当てのマジックテープを外した。マジックテープの外れる大きな音が理沙の心に深く突き刺さる。広げられたオムツカバーの中から、理沙のお尻を包む水玉模様のオムツが現れた。さきほど女性の手であてられたそのオムツはぐっしょりと濡れ、多量のおしっこを吸いこんでいるようだった。
 看護婦が理沙のお尻を持ち上げている間に、女性がオムツの交換を終える。その間、固く閉じた理沙の瞼には、数時間前に見た大きな赤ん坊の姿が映し出されていた。あの時、まさか自分が同じ格好をすることになるとは思ってもみなかった――そう思うと、理沙の瞼から悔しさと情けなさとが入り混じった涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
 やがてオムツの交換が終わったのか、理沙はお尻に感じていた気持わるさが消えていることに気づいた。しかも、新しい柔らかなオムツに包まれたお尻には気持よささえ感じられるようだった。そう思いながら、理沙は戸惑った。ひょっとして自分はオムツに快感を覚えているんだろうか、まさかそんな、そう考えた理沙の鼓動が早まった。
 うろたえながら開いた理沙の目に、予想もしていなかったものが映った。瞬間、その白いものが何なのかわからなかった。
 目を皿のように見開いて見つめつつ、しばらくして、その正体に気がついた。それはブラウスから飛び出た看護婦の乳房だった。理沙の視線に気づくと看護婦はニッコリ微笑み、ベッドに横たわっている理沙の唇に乳首を押しつけてきた。
 最初は逃げようとしたが、唇が触れた瞬間、自分でもどうしてかわからないうちに、その乳首にむしゃぶりついていた。
 口の中に甘い味覚とほのかな香りを感じると、理沙は吸う力を増していた。もう、力を入れて吸い始める自分を止めることはできなくなっていた。
 呼吸をすることさえ忘れて理沙は乳首を吸い続けた。そのためにむせてしまい、唇の端から白い一条の筋が流れ落ちる。
 こぼれた母乳をヨダレかけの端で看護婦に拭き取ってもらいながら、理沙の意識は朦朧としてきた――自分は十七歳の高校生だ、ちょっとしたことで今は家出の途中だ、と今までは自分を認識してきた。それなのに、今は全く違った考えが頭の中を占めようとしている――ひょっとすると自分は生まれたばかりの赤ん坊ではないのか。現にこうしてオムツを濡らし、乳房に顔を埋めて母乳を飲んでいる。十七歳の自分は、赤ん坊である自分の夢の中に現れた幻なんじゃないだろうか。
 本当はどっちなんだろう?
 やがて、理沙は考えることを中断した。そんなことは、どうでもいいことだ。今は柔らかな乳首を吸い続けていればいい。それだけで充分に満足なんだから。
 やがて理沙の瞼がゆっくりと閉じられると、看護婦は乳首を理沙の唇から離し、ブラウスの中にしまいこんだ。
 その光景を見ていた女性が、少し驚いたように尋ねた。
「失礼なことを尋ねるようだけど、ごめんなさいね……あなた、子供がいるの? でなきゃ、母乳なんて出ないわよね?」
「ああ、そのことですか」
 看護婦はニコッと笑って答える。
「この仕事に就く時に手術を受けたんです。いくら大きな赤ちゃんでも、哺乳瓶からのミルクだけじゃスキンシップが足りないでしょ。だから、母乳が出るような身体に変えてもらったの。これはこの病院の規則なんですよ……それに、乳首から出てるのは本当の母乳じゃないんです。母乳に近い成分だけど、大人の体を持った赤ちゃんにはもっとたくさんの栄養が必要になるでしょ、そんなのを調合してあるんです。それだけじゃなくって、向精神薬も混ざってます。それを保存する有機タンクを乳房に埋めこんであるんです」
「まあ、そんなにまでして……」
「ええ。その分、ギャラもわるくありませんしね……あら、お客様に言うことじゃありませんでしたわね。今のこと忘れてください、企業秘密みたいなものですから」
「わかったわ。それより、さっきの話に出てきた『向精神薬』っていうのは何なの? よかったら教えてもらえるかしら?」
 女性が興味深そうな声を出した。
「そうですね……私も詳しくは知りませんけど、知ってる範囲の説明でよろしければ」看護婦がかいつまんだ説明を始めた――。
 精神病を治療する際、精神分析や心理テストなどの方法が一般に用いられる。更に、薬物を用いる場合も少なくない。それらの薬物が向精神薬と呼ばれるものの一種であることが多い。要するに、脳の一部に作用して昂奮させたり鎮静化させたりするような薬剤だ。そして『第二小児病院』で開発されたものは一般に知られている向精神薬とは違った効果――自分の今ある状態を無条件に受けいれさせる、という効果を持っている。例えば理沙の場合は、オムツを汚し看護婦の乳首から母乳を飲むといった状況を素直に受け入れてしまうことになったわけだ。一度や二度のことではこの効果は消えてしまうが、十日ほども繰り返せば、受け入れた状況を現実のことだと心に刻み込むようになる。つまり、オムツやミルクを当たり前のこととして受け入れるようになるということだ。言い換えれば、それらがなければ生活できないようになる。
 更に、理沙に施される処置はそれだけではない。自分が汚したオムツやベビー服は洗濯された後、ベッドの上に張られたロープに掛けられることになっていて、目を開けている間は、いやでもその光景が目に入ってくる。そのため、股間のオムツの感触と相まって、自分が赤ん坊の格好をしていることを一時も忘れることはできない。食事にしても、固形物は一切与えられない。哺乳瓶から飲むミルクか、さきほどのように看護婦の乳首にむしゃぶりついて飲む母乳だけだ。適度に空腹を感じるタイミングで与えられると、哺乳瓶にしても乳首にしても、待っていたように手を伸ばしてしまう。目の前に現れた哺乳瓶に慌てて手を伸ばして吸いつくといった行為を繰り返していれば、自分が乳児だという錯覚にとらわれるようになってしまうものだった。
 ――そういった説明を聞いた女性は、他のベッドの上でおとなしくしている大きなベビーの姿を見回した。
 百合子から簡単な説明を受け、理沙の身体に施される手術にも立ち会ったものの、女性の心にはまだ完全には納得できない部分が残っていた。しかし、現場の職員である看護婦からの説明を受けながら新生児室にいる他のベビーの様子を見れば、そんな疑問もきれいに消えていった。
 私の赤ちゃんも、もうすぐ完全な赤ちゃんになる。そう理解した女性は、よろしくね、と静かに看護婦に頭を下げた。


 気づかれた読者も多いことと思う――理沙を引き取り、赤ん坊として育てようとしているこの女性こそ、実の母親・綾子だった。綾子も理沙も、仲介を勤めた百合子も、その事実は知らない。娘を想う綾子の情念が、長い歳月を超えて二人を再開させたと言うしかなかった。
 十七年の長い歳月の後、愛に満ちた真の育児の時間が今まさに始まろうとしていた。


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