復讐 〜第二小児病院シリーズ3〜


「……産んでもいいわよね?」
 早坂淑子が、コーヒーカップを持つ自分の指を見つめながら弱い声で言った。
 勝久の、幾らかの白髪が混ざり始めた髪の生え際には小さな玉になった汗が浮かび、テーブルの上に置かれたキャンドルの赤っぽい火にきらきらと輝いていた。
 とっくに食事は終わり、最後に運ばれてきたデミタスカップのコーヒーも、室温と変わらないくらいに冷めてしまっている。
 淑子の言葉を咀嚼し、胸の奥に沈め、その意味が広がってくるまでに、少なくない時間が経過していた。
「ダメだ。そんなことは絶対に認めない」
 勝久は、額の汗をしゃれたハンカチで拭きながら、一言一言を押し出すように言った。
「認知して、なんて言わないわ。ただ、あなたの子供が欲しいだけなの」
 淑子の声は少しばかりくぐもっているように聞こえた。
「だから……」
「何度言っても答えは変わらない。ノーだ」
「でも、あなたと私が愛し合ってできた子なのよ。それを……」
 勝久は不意に口を閉ざすと、上着の内ポケットから札入れを取り出した。その中から一枚のカードをつまみ出し、淑子の目の前に滑らせる。
「これは?」
 それがどういう意味を持つカードなのか薄々は気づきながらも、淑子は勝久に尋ねていた。
「大体のところはわかっているだろう?」
 勝久は冷めたコーヒーカップをテーブルの隅に移動させ、タバコを咥えながら冷たく言った。
「女房も知らない僕の秘密口座でね、少なくない残額がある筈だ。お腹の中の子供を処置するだけでは、とうてい使いきれないだろう。引っ越しの費用や当座の生活費としても充分な金額になるだろうよ」
「……そんな。私、そんな……」
「君とは違って、僕はそんなつもりなんだ。いくら認知しなくてもいいと言われても、子供ができるだけで、一つの家庭を壊しちまう充分な原因になるんだよ」
 勝久は手帳のページを一枚破り取る、そこに四桁の数字を書きこんでカードの上に置いた。
「暗証番号はその通りだ」
 淑子はカードと紙片を睨みつけたまま、口をへの字にして黙りこんだ。もはや、どう言ってみても勝久の心を動かすことはできないだろうということは痛いほどわかっていた。それでも、素直にカードを受け取ることもできる訳がない。
「そろそろ店を出ようか。タクシーくらいは捕まえてやるよ」
 勝久は強引にカードを押しやりながらポツリと言ったが、淑子の口からは返事はなかった。
「そうか……じゃ、僕はお先に失礼するよ」
 勝久は静かに立ち上がると、二度と振り返ることなく出口に向かった。
 勝久が立ち去ったテーブルの向い側には、目を伏せて肩を震わせる淑子の姿が、天井からの淡い照明に浮かんでいた。

 野村勝久は現在、中堅の食品商社『パシフィック・フーズ』の第一営業部長の地位にある。しかしながら、万事順調に今の地位に辿りついたわけではない。高校卒業の間近になって、両親が事故で亡くなったのだ。勝久は、入学を決めていた大学に対して入学辞退を申し出た。両親の生命保険や慰謝料が入ることにはなっていたが、彼にとってはその金は両親の生命そのもののように思え、そんな金を使ってまで大学へ進みたいとは思わなかったのだ。とはいっても、今から就職先を見つけることは難しかった。大概の会社は新卒者の入社を決めてしまっていて、新規に採用してくれそうな処が見あたらない状態だった。その時に骨を折ってくれたのが、高校の担任だった。大学時代の友人が人事部にいるという『パシフィック・フーズ』へ彼をなんとか潜りこませてくれたのだった。
 しかし、やっと入社した会社でも最初の頃は苦労の連続だった。普通科高校の卒業だから、簿記などの資格を持っているわけでもない。それに、配属先の営業課でも周囲は大卒ばかりで、高卒の彼には大きな仕事はなかなか与えられなかった。それでも、持前の粘り強さと、死んだ両親の墓前に誓った決意に支えられて、ゆっくりと成果を挙げていった。決して派手ではないが、絶対にミスをおかさないというスタイルの仕事ぶりがいつしか上司の目にとまり、大卒の同僚からも一目置かれるようになった。
 やがて自分に自信を持つようになった彼は、同期入社で、初めて顔を会わせて以来気になっていた女子社員にプロポーズした。人生の中には何事もがうまく運ぶ時というものがあるようで、彼女も二つ返事で承諾してくれた。それが今の妻である。家庭を持つことで精神的に安定を増した彼の仕事ぶりはますます冴えをみせ、いつしか、同僚の中でも出世頭とさえ言われるまでになっていった。
 そして、息子が高校に入学した昨年、部長就任の辞令が社長から手渡されたのだ。
 彼は有頂天になった。
 しかも、有頂天になるだけならまだしも、魔がさしたとしか思えない行動さえ取ったのだ。自分の部下である秘書に手をつけてしまったのである。
 それが早坂淑子だった。
 家庭というものを守ることがどれだけ難しいことかを、両親の死によって若いうちから味わった彼にしてみれば、自分の家族には決して苦労をさせないつもりだった。そのために、タバコも吸わず、酒も接待にしか口にしないという摂生をし、危険な所には近づかないようにまでしていた。一家の柱である自分がいつまでも家族を守っていけるようにするためだった。
 それが、よりによって、若い娘のとりこになってしまったのだ。
 この件が家族にバレてしまわないか、という苦悩を感じながらの不倫だった。しかしながら、その苦悩が逆に香りの高いスパイスのような作用をみせ、彼女との関係を精算するきっかけをいつまでも得られないでいたのも事実だった。
 それが、今日、妊娠していることを告げられたのである。彼の心はすぐに決まった。これ以上、この関係を続けることはできない。
 それが冒頭の会話だった。

 翌日、淑子は出社してこなかった。
 それでも、大口の契約を取付けた後、どういう訳かエアポケットのように暇な日が数日続いており、秘書の淑子がいなくてもさして影響は受けないですんでいた。たまに決済の書類に判を押すだけだ。
 その翌日も、淑子は出社してこなかった。そして、彼女の辞表が郵送されてきた。勝久は小さな溜息をついた後、その辞表を人事部に回した。おそらくはこれで彼女との仲は片がついたのだろう、と勝久は考えた――ああそうだ、後任の秘書をまわしてもらわないといけないな。
 それからは、たいした事件もなく毎日が過ぎて行った。時おり淑子を失った寂しさを感じることはあったが、それも次第に時に流され、すっかり忘れてしまっていた。
 季節が巡った。




 その日、メーカーから受けた接待のために帰宅が遅くなり、家に着いたのは日が変わってからだった。
 そんな夜中だというのに、外灯があかあかと灯り、玄関の照明さえ消されずにあった。
タクシーからおりつつ、何かあったのだろうか?と考えながらふと見た腕時計の針は、一時を指していた。
 玄関の前に立った勝久は、ドアが少し開いていることに気がついた。全く無用心だな、と思いながらドアを引き開けると、明るい玄関の中に、男物の靴が二足あるのが見えた。彼が怪訝な表情でその靴を見つめていると、廊下の奥から誰かが小走りでやってくるような足音が聞こえてきた。顔を上げてみると、妻の美津子が彼の方へ走ってくるところだった。
「どうしたんだね、そんなに血相を変えて。何かあったのかい?」
 彼は、妻の顔つきが普段のそれと全く違っていることに気づいて尋ねてみた。
「ああ、あなた。よく帰ってきて下さったわ。会社の方へ電話してみたんだけど、接待で早目に社は出られたって言うし、どうやって連絡したものかと……」
 妻が息をはずませて言った。しかしそれは、彼の疑問に対する答えにはなっていなかった。それどころか、何かあったのか、という彼の不安はますます煽りたてられたのだ。
「……何か、あったんだな?」
 彼はそれだけを絞り出すように言うと、急いで廊下へ上がった。
 妻は、黙って小さく頷いた。
 そこへ人の気配がした。
 彼が見てみると、きちんとスーツを着た中年の男が二人、妻の傍らに立っていた。
「御主人ですね? 私どもはこういう者です」
 中年の男性の一人が、一冊の手帳を差し出した。その黒い表紙には、金色の菊の模様が描かれている。
「……警察の方が、どうして?」
 信じられないものを見た、というような表情を浮かべて勝久がボソボソと言った。
「ああ、あなた、私が連絡して来ていただいたの」
 妻が小さな声で言った。
「実は……勝義がまだ帰ってこないのよ。それで、あなたに連絡しようと思ったんだけど、できなかったでしょう? だから、私の一存で警察に知らせたの。そしたら、この刑事さんたちが来てくださって……」
 勝久は、なんとなくホッとしたような表情になった。今までに感じていた疑問の答えがやっとわかったからだ。しかし、じきに、その顔がこわばる――勝義がまだ帰っていない、だと。高校生がこんな夜遅くまで、何をしているんだ。
「これまで、奥さんから事情をお聴かせいただいていたんです。それが、御主人が帰ってらしたようでしたので、こうして奥さんについて玄関までやって来たというわけでして」
 手帳をしまいこみながら、さっきの刑事が言った。
「できましたら、御主人からも事情をお聴かせいただけますか?」
 四人は、ダイニングルームの椅子に腰をおろした。二人の刑事の前には湯飲みが置かれ、ついさっきまで事情聴取が行われていたらしいことが見てとれた。
「早速ですが、御主人。最近、息子さんの様子はいかがでした?」
 美津子が勝久の目の前に湯飲みを置くと、それを待っていたかのようなタイミングで刑事が切り出した。
「さあ、別に……これといって変わったことは思い当たりませんが……そうだな、美津子?」
「ええ。さっき私も刑事さんに申しあげたんですが、これといって変わった様子は」
「そうですか。ところで息子さんは、これまでにも帰宅が遅くなることはありましたでしょうか?」
「遅く、と言うか、塾のある日は九時か十時になることはありましたけど。でも、こんなに遅いことはありませんでした」
 美津子が、思い出し思い出ししながら答えた。
「塾というのは、進学塾ですか?」
「ええ。親の口から言うのもなんですが、勝義は頭の良い子でね、国立の医学部へ入れそうだというので、念のために塾へ通わせているんです」
 勝久が、少しばかり鼻を動かして答えた。自分が大学進学を断念したこともあり、息子が国立に入れそうだというので心から喜んでいたのだ。こういう状況でも、それを少し自慢げに話す癖は消えないようだった。
「そうですか。ま、いずれにしましても、当方も全力をあげて息子さんの消息を調べますので、お力を落とさないように」
「そうですね。親の私たちが弱気になってしまっては、どうにもなりませんからね」
 勝久は湯飲みの茶を一息で飲みほすと、わざとのような大声を出してみせた。しかし、それが空元気だということは明らかだった。
「ところで刑事さん、一つ聞きたいんですが……」
 湯飲みをテーブルに置いた勝久が声をひそめた。
「何でしょう?」
「ええと、ですね。わざわざ刑事さんがこちらまで出向いて来てくださったというのは……何か理由があるんでしょうか? 例えば、勝義が何かの事件に巻きこまれている可能性があるとか」
「いえ、それはなんとも申しあげられません。ただ、念のために、と御理解ください。今のところ身代金要求の電話もないようですし、誘拐ということはないと思うのですが……」
 誘拐、という言葉を聞いた瞬間、勝久の心の中に、どす黒い雲のような思いがむくむくと湧き出てきた。しかし、そんなことは表情にも表さずに、勝久は二人の刑事に向かって深々と頭を下げて言った。
「そうですか。承知しました。では、なにとぞよろしくお願いいたします」
 勝久の言葉が合図になったように、二人の刑事は椅子から立ち上がり、廊下へと向かった。
 勝久と美津子も玄関までやって来たが、刑事が玄関のドアから出てしまうと同時に、勝久が家から飛び出した。そして、ドアを激しく閉じると、刑事の前に立ちはだかった。
「おや、どうかしましたか?」
 一人の刑事が、驚いたような表情を浮かべた。
 勝久は、自分の心の中にふと芽生えた不安を刑事に話し始めた――勝義の行方不明はひょっとすると、営利目的の誘拐ではなく、恨みによる誘拐かもしれない。私に恨みを持つ人間が一人いる。その人物をチェックしてもらえないだろうか?
「わかりました。その人物の名は?」
「早坂淑子といいます。住所は――ひょっとすると引っ越しているかもしれませんが――山手台三丁目2−5山手台ハイツ三〇二号室です」
「どうして、さきほど教えていただけなかったんでしょうか?」
「この女は私の不倫相手だったんです。私から別れ話を持出しました。その恨みから、私の息子を誘拐したんじゃないかと恐れてるんです。こんな話、女房の前でできるわけがないでしょう?」
「……わかりました。重要な情報です。では、これで」

「どうしたのよ、あなた。いったい何を刑事さんに話してたの?」家の中に戻った勝久に、美津子が怪訝そうな表情で尋ねた。
「いや、別に。どうかよろしくってお願いしてただけさ」




 数日が経っても、勝義の行方は掴めなかった。
 勝久も新聞やテレビのニュースは目を皿のようにして見るのだが、勝義らしい年代の学生がなんらかの事件に巻きこまれたような様子は全くなかった。しかも、勝義からの連絡も全く入ってこないのだ。
 これが事件や事故なのか、或いは本人の意志による家出なのか、それさえもわからない日が続いた。

 そんな或る日、勝久のデスクの電話が鳴った。
 電話器に取り付けられている液晶パネルの表示では、社内の交換を経由したものではなく、外部から直接かかってきたもののようだった。勝久の胸が高鳴った。ここへ直接電話がかかってくるとしたら、それは悪い報せであることが多いからだ。例えば得意先からのクレームの電話だったり、穀物相場が予想よりもひどい混乱状態に入ったという報せだったりすることがよくある。
 勝久は、いつものように呼吸を整えてから受話器を取った。そこからは、聞き覚えのない男の声が流れてきた。
「もしもし、野村さんですね?」
「……そうですが、あなたは?」
「N署の武田です。先日はどうも」
 勝久はホーッと息を吐いた。勝義が行方不明になった日、わざわざ家まで事情聴取にやってきた刑事の一人だった。
「実は、早坂淑子さんの件なんですが……」 野村刑事が話し始めた。
 女房には絶対に内緒にしてくれという彼の願いを聞き入れて、わざわざ会社の直通電話にかけてきてくれたようだ。勝久は声が少しでも漏れないようにと受話器を強く耳に押し当てた。
「御主人に教えてもらった住所、そうです、山手台ハイツ。ええ、そこに住んでらっしゃいますよ。今のところ重要参考人でもありませんので近所の方から詳しく聞いたわけじゃないんですが、息子さんが監禁されてるとか、そういう気配はありませんね」
「……そうですか。違いますか」
「ええ。それに、早坂さん、もうすぐ御出産のようですね。近所の奥さん連中の話ですと、大きなお腹をして買物袋を提げて帰ってきてるようだし、つい先日も、ベビーベッドや箪笥が運びこまれてたようですよ――これは私の個人的な意見なんですがね、出産を間近に控えた人が誘拐なんてことに関わることはないと思いますよ、ええ」
 勝久は無意識のうちに受話器を置いていた。その顔は蒼ざめ、脂汗がにじんでいた。
 彼は宙を睨みつけたまま口を固く結んで、一個の石にでもなったかのように身じろぎ一つしなかった。
 まっ白になった彼の頭の中を、刑事の言葉が飛び回っていた――もうすぐ出産ですね。
 では、淑子は子供を処置しなかったのか? あの時強引に渡した金で処置をして、どこか遠くへ引っ越していたのではなかったのか?
 勝久の心は二つの懊悩を抱えることになった。一つは、行方不明になっている息子の安否。もう一つは、かつての愛人の出産(その子の父親は、おそらくは自分なのだ)。
 室内にいる部下が、ちらちらと自分の方を見ていることに気づくと、彼はデスクから立ち上がった。そして、これからのスケジュールをキャンセルするように秘書に伝えると、逃げるように部屋から廊下へ飛び出した。このままでは到底、仕事なぞできる精神状態ではないと判断したのだ。
 社の建物をあとにした彼は、早くから開いている居酒屋に向かった。普段は自分から酒を呑むなどということはしない彼だが、今日ばかりはアルコール漬けになってしまいたいと思ったのだ。

 出社しても仕事にならない日が続いた。どう鎮めようとしても、彼の心に立つ波は治まろうとはしなかった。
 精気がみなぎった鋭い顔つきに、急に皺が目立つようになっていた。部下の中には、他のセクションへの配置転換を人事部に願い出る者も現われるようになっていた。部長があの調子では第一営業部の将来は見えてるさ、というのが彼らの言いぐさだった。
 彼自身にしても危機感は持っていた。昨日も常務室に呼ばれて、激励を受けたところだ。いや、激励といえば聞こえはいいが、このままの状態が続くようなら左遷もやむをえないぞという通告だった。それでも、自分でも情けなくなるくらいに、いろいろなことに対する意欲というものが湧いてこないのだった。
 今日も、うつろな目で窓ガラスを見つめているだけだ。
 その時。
 電話のコール音が聞こえた。
 彼はのろのろと受話器に手を伸ばしかけたが、途中で、そのコール音がデスクの電話のものではないことに気がついた。
 彼は、カッターシャツの胸ポケットを見つめた。そこには携帯電話が入っている。コール音は、その携帯電話のものだった。
「おひさしぶりね。私が誰だか、わかる?」 携帯電話からは、若い女性の声が流れてきた。途端に、だらんとしていた勝久の顔が引き締まり、とろんとしていた目が輝き出す。
「淑子か?」
 彼は、誰にも聞こえないくらいの小声で叫んだ。
「あら、憶えててくださってたんですね。嬉しいわ」
 皮肉を含んだ声だった。
「今更、何の用だ?」
「ちょっとお知らせしとこうと思って――あのね、もうすぐ赤ちゃんができるの。もちろん、あなたの子よ。産まれたら教えてあげるけど、今日は先にそれだけ言っておこうと思って電話したの。じゃ、ね」
 彼が、待てと言った時には、電話は切れていた。




 勝久が淑子からの電話を受けた直後、勝久の自宅の電話が鳴った。
 美津子は電話のベルの音にビクッと体を震わせると、おそるおそる受話器に手を伸ばした。勝義が行方不明になってからというもの、電話が鳴る度に、美津子はドキッとし続けているのだ。
「もしもし、野村さんのお宅ですね?」受話器から聞こえてきたのは、若い女性の声だった。
 美津子はホッと溜息をついた。おそらく、何かの勧誘の電話だろうと思ったのだ。
「はい、さようですが?」
「奥様ですね? 私、早坂と申します」
「はい?」
「実は、どうしても御相談したいことがございまして。これからでも、うちの方へおいでいただけないでしょうか?」
 美津子は唖然とした。電話で急に相談したいことがある、と切り出してきたのだ。しかも、自分の方へ来いなどと言っている。
「失礼ですが、初めての方のお宅へうかがうようなことはいたしませんので」
 美津子は、精一杯冷たく応えてみせた。
「そうですか? でも、本当に大切な用件なんですのよ」
 心なし、相手の口調が笑いを含んでいるように美津子には思えた。
「いえ、結構です」
「残念ですわ。息子さんのことなんですけど……」
 美津子は、受話器を力いっぱい握りしめた。息子の――勝義のことですって?
「どういたしましょう? そちらがどうしても拒否なさるのでしたら、私もおとなしく電話を切らせていただきますけど」
 受話器からの声は、ますます笑うような調子になっている。
「待って……待って下さい。行きます。そちらへうかがいますから、場所を教えてください」
 美津子は、相手の声にかぶせるように叫んでいた。
 本当に息子のことを知っているのかどうかも怪しいものだとも思ってはみたものの、今はこの電話以外にめぼしい情報は全く入ってこないのだ。結局はたちの悪い悪戯だったとしても、今の美津子はこの電話に賭けるしかないのだった。
「メモの用意はよろしいかしら? では、こちらの住所を申しあげます。私がいるのは山手台三丁目2−5山手台ハイツ三〇二号室、『早坂淑子』と書かれた表札が掛っています――今からすぐに出発なさいますか?」
「はい、すぐにでもこちらを出ます。タクシーなら三十分もかからないでしょうから待っていてください」
 美津子はメモの住所を確認しながら、すぐにでも電話が切れてしまうのではないか、と恐れるような早口で言った。それから、何かを思いついたように言葉を続ける。
「あの、こちらから何かお持ちするようなものがありますでしょうか? 例えばお金とか……」
「いいえ。別段、何も持って来ていただかなくても結構ですわ。奥様を御招待するのはそういう目的ではありませんから」

 小一時間後、美津子は山手台ハイツの前に立っていた。彩色レンガを上手に使った、洒落た建物だった。
 美津子がガラス戸に手を触れると、その大きなドアが音もなく開いた。美津子はエントランスホールの片隅にある郵便受けを見つけると、そこに書かれている名前をチェックしてみた――確かに、三〇二号室には早坂淑子の名があった。
 美津子はエレベーターを使わずに、階段をゆっくり昇り始めた。なにかしら、その方が落ち着くような気がしたからだった。
 やがて彼女は、一枚のドアの前で立ち止まった。『早坂淑子』という表札を何度も確認した後で、右手の人差指をインターフォンのボタンにかける。心なし自分の指が振るえているのを意識しながら、彼女はボタンを押してみた。
 少しばかり間があって、インターフォンのスピーカーから、『はーい』という声が流れてきた。その声は、ついさっき電話で聞いた女性の声に違いなかった。
「あの、野村です。さきほどお電話をいただいた」
 美津子は、まるで近所に聞こえるのを恐れるような、細い声で応えた。
「ようこそ。今開けますから、少しお待ちください」
 声が聞こえてからしばらくするとロックや防犯チェーンを外す音が聞こえ、やがてドアが内側から静かに開いた。「どうぞ、お入りください」という声に従って玄関に入った美津子は、そこに立っている若い女性の姿をみとめた。
 フワッとしたピンクのワンピースを着ており、そのお腹は大きくせり出しているようだ。そのゆったりしたワンピースはマタニティドレスのように思えた。
「早速ですが、息子はどこにいるんでしょうか?」
 美津子は、早々と来訪の目的を口にした。
「あら、随分とお急ぎのようですわね。まあ、お上がりくださいな。お話はお茶でも飲みながらにいたしません?」
 淑子が、せっかちな美津子をやんわりとたしなめた。
「でも……」
「いいじゃありませんか。落ち着いてお話したい大事なことですし」

 リビングルームに案内された美津子は、大きなガラス製のテーブルの前に腰をおろした。そこへ、淑子がティーカップを運んでくる。
「どうか、おかまいなく。私は息子の居場所さえうかがえば、すぐに帰りますから。それに、大きなお腹をしてらっしゃる方にお気遣いいただくのも、なんですから」
 美津子は、早く話に入りたいという自分の心をそう表現した。それに、自分も十数年前に出産を経験した身としては、淑子の体を気遣ってのことというのも嘘ではない。
「そうですか。それじゃ、本題に入ることにしましょうか」
 淑子が美津子の向いに腰をおろしながら言った。
「でも、その前にお茶をどうぞ。知り合いからもらった珍しいハーブティーなんですよ。心がとっても落ち着きますわ」
 わざわざ逆らうこともあるまいと思った美津子は、ティーカップに口をつけてみた。確かに珍しいもののようで、これまでに嗅いだことのない、なんとも不思議な香りが鼻をうつ。カップから唇を離した美津子の口から思わず溜息が出るほど、その一口のハーブティーは芳醇なものだった。
「いかがかしら?」
 淑子が、少し首をかしげるようにして美津子に話しかけた。
「これは……どう言えばいいのかしら? とにかく素晴らしい香りだわ」
 美津子は一瞬、ここへ来た目的も忘れてウットリした表情で答えていた。
「では、落ち着いて私の話を聴いてくださいね」
 淑子は微笑みを浮かべながら、ゆったりした口調で話し始めた。
「私は以前、会社で御主人の部下でした。そして、いつしか、男と女の関係になったんです」
「……」
 美津子は無言だった。突然の告白に、どう対処していいのかわからなくなっていたのだ。ただ目を大きく開いて、淑子の口元を見つめるばかりだった。
「御主人は家庭をとても大切にされる方でしたから、私の存在を奥様に知られることをひどく恐れてらっしゃいました。だから、本当に慎重に、私の存在に気づかれないように行動なさったことと思います」
 そうだ。今の今まで、あの人が不倫していたなんて、これっぽっちも思ってもみなかった――美津子はこわばった表情のまま、頭の中で考えた――それをわざわざなんのために、この女は私にその事実を知らせようとしているのかしら?
「或る時、月のものがやってこないことに私は気づきました。最初は、ちょっとズレてるのかなと思っただけです。でも、それから何日しても、それはやってきませんでした。思いあまって病院へ行ったんですが、そこで妊娠を告げられました……私は、御主人の子供を宿したんです」
 美津子は、大きく開いた目を淑子のお腹に向けた――そうか、その大きく膨れたお腹の中には、うちの人の子供が入っているのか。
「御主人は処置するよう、私に言いました。少なくないお金を渡して、どこか遠くへ行ってしまえとも。でも私はそれを拒否しました。私は、勝久さんの子供が欲しいんです」

 いつのまにか、自分では意識しないまま、美津子は淑子に向かってとびかかっていた。
 突然知らされた夫の浮気。しかも、その相手から堂々と妊娠を告げられる屈辱。
 美津子の頭の中は、まっ白になっていた。何も考えられなくなった頭の中に、「この女を殺してしまうんだ」という思いだけが、まるで本能のように浮かんできた。そして今、美津子にできるのは、その思いに従って行動することだけだった。
 美津子は、淑子の腹を強く蹴った。淑子が仰向けに倒れた。美津子は力を緩めることなく、大きく天井に向かって突き出ている淑子の腹を二度三度と蹴り続けた。
 淑子を殺すなら、そんなことをするよりも首を絞めた方が早いだろうことは、霞がかかったようになっている美津子の頭にもわかっていた。しかし、どうしても、腹の子をも殺したいという思いが、美津子にそうさせているようだ。
 どれくらい、そうしていただろう。
 不意に我に返ったように、美津子は動きを止めた。
 床に倒れたままの格好で、淑子がうっすらと笑っているのに気がついたのだ。
 今度は、美津子は怯えたように、壁の方へとびすさった。
 それを追うように、淑子が身を起こした。そして、壁にへばりつくようにしている美津子の方へと歩いてきた。
 美津子の体に触れ合わんばかりに近づいた淑子はニタリと笑うと、ピンクのマタニティードレスを脱ぎ始めた。
 いったい何をする気なのか?と思いながら見ている美津子の目の前に、裸になった淑子の腹が現われた。しかしそれは、淑子の肉体ではなかった。呆気にとられたように見つめる美津子の目に映ったのは、布や樹脂でできた膨らみだったのだ。
「もう気がすみましたか?」
 淑子が、地の底から響いてくるような声をかけた。
 美津子は、首を大きく横に振った。なにがどうなっているのかわからないまま、どうしようもない恐怖のようなものを感じるばかりだった。
「来ないで。私に近づかないで」
 美津子は叫びながら、うしろへさがろうとした。しかし、背後の壁のため、それ以上は動けなかった。
「いいことを教えてあげるわ」
 淑子が、美津子の目をのぞきこむようにしながら言った。
「あなたがたった今殺そうとしていたお腹の子供は、とっくにいなくなってるのよ――勝久さんから別れ話を持ち出された後、私はボンヤリした状態で歩道橋の上に立ってたわ。強い風が吹いててね、私の頬を流れる涙を全部吹きとばしてくれた。しばらくそうしていてから、私は歩道橋の階段をおり始めたの。どこへ行くあてもない、とにかく目の前に階段があったから、おりようとしたのね。そして……足を滑らせたのよ。誰かが通報してくれたのか、すぐに救急車が来たわ。幸い私の傷は小さなものだった。でもね……お腹の赤ちゃんには致命的なショックだったらしいわ。私の子供は外界の様子を一目も見ることなく命を失ったのよ。
 だけど、私は勝久さんの子供が欲しかった。だからこうして、お腹の周りに布きれを巻きつけたりして、妊婦のような振る舞いをしてたのよ……だから奥さん、安心していいのよ。私のお腹にいた勝久さんの子供は、もう、この世にはいないわ」
 美津子の体は、壁に背をつけたままズルズルと崩れ落ちた。肩を震わせながら息をするのがやっとだった。体中から力が抜け出てしまった。
 心がひどく冷たく固まってしまうように思えた。しばらくの間、美津子はそのままの格好で肩で息をしていた。
 不意に、心のどこかに熱い火がともるような感覚があった。床に手をつきながら、美津子は、自分の心に芽生えた火の正体を探ろうとした。それは生まれて初めて味わう、不思議な感覚だった。
 しかし、いくら考えてみても、その正体を知る手がかりさえ彼女には見つけられなかった。そのくせ、その火は、枯草の中に捨てられたタバコの吸殻のように、徐々に火勢を増してくるのだ。やがて、心の中の火が外へ飛び出してきたのかと思えるくらい、体が火照っていることに美津子は気がついた。その火照りは体中で感じられたが、特に、下腹部では尚ひどかった。
 美津子の体は、おこりにでもかかったように激しく震え出し、目はランランと輝き始めた。それは人間の目というよりは、何か獰猛な獣の目のような光をたたえていた。
「熱い。熱いわ。誰か、助けてちょうだい」
 美津子はしらずしらずのうちに着ている洋服を破き、髪を振り乱しながら、大声で叫んでいた。
 そんな美津子の変化を、淑子は平然と見つめていた。熱い熱いと言いながら自分の着ている衣類を次々に破り捨ててゆく美津子に視線を浴びせつつ、淑子の顔には冷たい笑いが浮かんでいた。
 やがて、美津子は一糸まとわぬ姿になっていった。それでも、熱い熱いと喚きながら、身をよじり続けている。
 淑子は、テーブルの上に置いてある小物入れから、奇妙な形をした道具を取り出した。スイッチを入れると、いやらしげな音をたて、淑子の手の中で、その道具は身をくねらせ始めた。それが黒い樹脂製の体をうねうねとくねらせる様子は、直視することをはばかられるようなみだらな動きだった。
 淑子は、道具を持った右手を美津子の下腹部に持って行った。途端に、美津子は大きく口を開いて、体をのけぞらせた。その口に負けじと下の口も大きく開き、淑子が持っている道具を咥えこむ。
 美津子は自分の乳房を鷲掴みにすると、腰を左右に振り始めた。そして、オウオウと獣のような声をあげながら、自分の乳首を口にふくむように両手を持ち上げてゆく。片方の乳首を美津子が自ら舐め始めると、傍らに立った淑子が、残りの乳首の周囲を猫のように舐めまわす。
 両の乳房と下腹部を同時に責められた美津子の心の中の火は消えることなく、遼原に広がる炎のように彼女の心を焼きつくそうとするばかりだった。

 どのくらいの時間が経ったろうか。
 全裸になった淑子と美津子とが、床の上で仲良く横になっていた。
 淑子が伸ばした手を枕にして、美津子が淑子の胸に顔を埋めるようにしている。時おりクスクス笑いながら、美津子は淑子の肌に唇をつけているようだった。
 淑子が右手の人差指と中指を美津子の下腹部を探るように動かすと、美津子は体をそらせ、その手足がピクピクと震える。
 やがて、淑子が唇を美津子の耳元に寄せて囁いた。
「いかがでした、奥さん? 御主人と、どちらがよかったかしら?」
「……ああ。奥さんなんて呼ばないでちょうだい。美津子って呼んで」
「じゃ、美津子さん。正直に答えてごらんなさい。勝久さんと私、どちらがよかったかしら?」
「女どうしのセックスがこんなに凄いなんて、知らなかったわ。もう私、どうなってもいい……淑子さんの方が素敵よ」
 美津子は、ためらいもせずに応えた。
 夫の不倫の相手。そして、同性。そんなことは、もうどうでもよくなっていた。これが原因で地獄へ落とされるなら、それはそれでも構わないとまで思った――それにしても、いったいぜんたい、どうして私はこれほどまでに感じてしまったのだろう? それも、私よりもずっと年下の娘のテクニックに。
「そう、嬉しいわ。それじゃ、ずっとここで生活してみない? 美津子さんさえよければ、勝義君もここに連れてきてあげるわ」
 淑子が、美津子の耳朶に息を吹きかけた。
 勝義と聞いて、美津子は顔を上げた。そうだった。もとはといえば、息子の消息を知るためにこのマンションを訪れたのだ。
「やっぱり、勝義の居所を知ってるのね?」
「もちろんよ。そのために、美津子さんをここへ呼んだんだから。どう? 仲良く三人で生活してみない?」
「……わかったわ。正直に言うとね、淑子さんのテクニックに私は骨抜きにされちゃったみたいなの。もう、あなたから離れることなんて、できないみたいよ。勝義と一緒にいられるなら、それでもいいわ」
「じゃ、そういうことね。私と一緒にいれば、いつでも、さっきみたいに感じさせてあげるわよ」
「……でも、どうして私、あんなになっちゃったのかしら? もしも知ってるなら、それだけは教えてほしいわね」
「うふふ……ハーブティーよ。話を始める前にハーブティーを飲んだでしょう。あれが強力な媚薬としての効能を持ってるの」
淑子はクスッと笑ってみせた。
「じゃ、最初から、仕組んでたのね?」
「そういうことになるわね。でも、もしそうだとしたら、私のこと嫌いになる?」
「……ううん、もういいわ。経過はどうあれ、私があなたのとりこになっちゃったのは事実だもの」
 美津子は再び、淑子の胸に顔を埋めた。




 ここで、少し時を遡ってみることにしよう。そうすれば、勝義が行方不明になった状況を読者のみなさんに知っていただくことができることだろう。

 その日、塾の授業が終わろうとしていた時、塾の事務室の電話が鳴った。電話からの声は、野村勝義を呼び出すよう依頼した。受話器を受け取った勝義の耳に届いたのは、父親が交通事故に遭ったという報せだった。そして、その電話の主は言葉を続けた。今から車で塾へ迎えに行くから、その車に乗り込んで病院へ向かって欲しいと。
 十分ほどで、黒塗りのセダンが塾の前に駐まった。その車に乗った勝義は、病院へ向かうことになった。しかしその病院は、父親が入院している病院などではなく(父親は交通事故になど遭っていないのだから)、N山の麓にある『第二小児病院』だった。
 第二小児病院は普通の小児・産科病院ではない。世の中には、いろいろな性癖を持った人間がいる。その中には、立派に成長した若者を赤ん坊にみたてて可愛いがることで満足を覚えるような、少々変わった母性本能の持ち主もいるのだ。そういった人の要望をみたすべく『天啓会』が秘密裡に設立したのが、この第二小児病院である。とはいっても、自ら進んで赤ん坊になりたがる若者がいるわけもない。そこで、第二小児病院は幾つかの裏組織とのコネクションを持っている。そして、その組織が、いずこからともなく若者を拉致してくるのだ。
 拉致されてきた者は、まず、『分娩室』で肉体的な処置を受ける。手足の筋肉にメスが入れられ、力を弱められるのだ。こうすることによって、その若者は、ハイハイやヨチヨチ歩きしかできなくなってしまう。更に、膀胱の神経にも細工が施されて、尿意を感じないようにされてしまう。そのため、いつオモラシをするかもしれない状態になる。
 まともに歩けず、いつオモラシするかもしれない――この状態は、赤ん坊そのものといっても過言ではない。
 このようにして、この病院では成人を赤ん坊に変身させ、安くはない依頼料を払う希望者のところへ送り届けるのである。

 その夜のうちに、勝義に対する手術が行われた。
 だが、その手術には、いつもよりも長い時間がかけられた。それは、手術がうまくいかないからというような理由からではない。手術を受けるのが男性だからである。
 第二小児病院で赤ん坊に変身させられるのは圧倒的に若い女性が多い。男性に比べて見た目が可愛いいため、依頼主の殆どが女性を注文してくるのだ。それでも、男性の注文がなくもない。現に、勝義はそうなのだ。そして男性に対しては、女性の場合よりも手術の工程が幾つか増えることになる。
 その余分な工程とは、全身の脱毛処理と美肌処置だった――赤ん坊に変身させる対象が若い女性なら、この処置はごく簡単に済んでしまう。若い女性の肌はもともと、男性のそれに比べればツヤツヤしてムダ毛も少なく、そのままでも赤ん坊の肌に近いからだ。せいぜい脇毛とアンダーヘアの脱毛処理だけで済んでしまう。しかし、男性の場合はそうではない。胸や脛などの体毛が多いため、それらの毛根をつぶすだけでも、それなりの時間が必要になるのだ。更に、肌を赤ん坊のそれのようにスベスベしたものにする美肌処置も丁寧に行われる必要がある。そのために比較的長い時間をかけての手術だったが、強力な麻酔のために、勝義が途中で目覚めることはなかった。


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