潜入 〜第二小児病院シリーズ4〜


 内田百合子は、向い側のソファに腰をおろした若い女性から手渡された履歴書に一通り目を通すと、にこやかな笑顔を崩さずに話しかけた。
「簿記は一級の資格もお持ちなのね、結構です――ところで、木内さんはどうしてこの病院のことをお知りになったの?」
「はい、それは……」
 その女性――履歴書には木内美登里という名が記されていた――は僅かに口ごもった後、軽くまばたきをしてから言葉を続けた。
「……知人の紹介なんです。友人の一人が天啓会の総務に勤めてまして、彼女から、第二小児病院で経理担当の事務員を募集していることを聞きましたので……」
「ああ、そうでしたの」
 百合子は美登里の説明を聞くと、それ以上は問い返さずに再び履歴書に目を遣った。美登里は微かに高なる鼓動を鎮めるため、百合子に気づかれないよう努めながら二度三度と深呼吸を繰り返した。
 美登里が口にした『天啓会』というのは或る医療法人の名で、幾つかの総合病院を経営している。百合子が院長秘書として勤務しているこの第二小児病院も、そんな病院の一つだ。だから、美登里の友人が天啓会の総務部に勤めているなら、傘下の病院が事務職員を募集していることを知っていても不思議ではない。
「では、他に問題もないようですから採用させていただくことにしましょうか」
 履歴書を見ながらしばらく何かを考えるような顔つきをしていた百合子が、静かに顔を上げて言った。
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。ところで、勤務はいつからできます? こちらとしては早い方が助かるんだけど」
「はい、私は明日からでも構いませんけど」
「そう。じゃ、早速だけど明日からお願いね――となると、今日のうちに荷物を移動させる必要があるわね。車と人間を手配するからちょっと待っててね」
 百合子はそう言うと、自分のデスクの上のインターフォンのボタンに手をかけた。
 それを目にした美登里が、少し慌てたような早口で百合子に問い質した。
「え、あの……荷物の移動って、なんのことでしょうか……?」
 その言葉を聞いた百合子はボタンを押そうとしていた手の動きを止め、不思議そうに美登里の顔を見て言った。
「なんのことでしょうって――ひょっとすると木内さん、宿舎のことはお聞きになってないのかしら?」
「え? ええ、まあ……」
 美登里は曖昧に応えた。
「変ねえ。天啓会の職員をなさってる方なら誰でも知ってることなのよ。だからてっきり、木内さんの友人の方がもう話してあるとばかり思ってたんだけど」
「あ、ああ……そうだったんですか? あの、ひょっとしたら聞いてたけど忘れちゃったのかもしれませんね」
「そう……じゃ、まあいいわ。改めて言っておきましょう。第二小児病院の職員は全員、ここから車で十五分くらいの所にある病院付属の宿舎に住むことになっているのよ。でないと、入院してる子供たちに何かあった時、とっさの対応ができないと困るからね」
「……ああ、言われてみれば……友人からそんなことを聞いたことがあるような気がします、ええ……」
 美登里は聞き取りにくい声で応えた。
 その曖昧な返答を耳にした百合子の目が一瞬妖しく輝いたが、美登里はそんなことには気がついていないようだった。
「じゃ、車を手配するからそれに同乗して荷物を……」
 百合子の指が再びインターフォンのボタンにかかった。
 が、その動きを強引に押しとどめようとするかのような美登里の声が百合子の言葉を遮る。
「いえ、あの、それには及びません。どうせ今の賃貸マンションにはたいした荷物もありませんし、着替えだけ取って来れば充分ですから。それならわざわざ車も要りませんし」
「でも……」
「いえ、本当にいいんです。必要な物はお休みの日にでも買い足せばすむことですし」
「まあ、本人がそう言うならいいけど……本当にそれでいいのね?」
 百合子は、なにか不思議な物を見るような視線を美登里の顔に這わせてから指をボタンから離した。
 それを見た美登里が、なにやらホッとしたような表情で応える。
「はい、結構です――それよりも、もしもよろしければ病院の内部を見学させていただけないでしょうか? こうして面接に来たのはいいけれど、まだどんな所なのか全く知らなくて……」
 それはまるで、強引に話題を変えようとするかのようなわざとらしい口調のように百合子には思えた。
 百合子はほんの一瞬、スッと目を細めると、なにかを考えるようにしながら言った。
「……そうね……その方がいいでしょうね……じゃ、ちょっと待ってて。あなたの採用報告を庶務課に回してから私が案内してあげるわ」




 エレベーターの扉が開き、百合子が先に廊下に歩み出た。少しばかり緊張した面持ちの美登里があとを追う。
 しばらく廊下を歩き、やがて百合子が立ち止まったのは、『新生児室』と書かれたプレートが貼ってあるドアの前だった。
「まずは、この病院の主役であるベビーたちに会っていきましょう。そのあとで分娩室や一般病室にも案内するわ」
 百合子はドアのノブをそっと廻しながら美登里にそう言った。
 百合子が開けたドアの隙間から新生児室に足を踏み入れた美登里は、ちょっとした違和感を覚えた。その室内の様子が、他の産科医院のそれと大きく違っていたからだ。普通、新生児室というのは白く清潔な壁に囲まれた中を白衣を身に着けた看護婦がテキパキと働いているものだが、この第二小児病院の新生児室には看護婦らしき姿が全く見当らないのだった。この部屋には、純白のブラウスの上に花柄のエプロンを着けた、どこかの若い主婦のような女性が一人いるだけだった。
 その女性がドアを開く音を聞きつけたのか、ふと振り返る。そして百合子の姿をみとめると、にこやかに笑いかけながら言った。
「あら内田さん、いらっしゃい……そちらの方は?」
 最後の方は美登里の顔をちらと見てそう尋ねた女性に対して、百合子は美登里の体を僅かに前に押し出すようにして応える。
「今度、経理職員としてうちで働いてもらうことになった木内さんていうの。今日は病院の中を案内しようかと思ってね。で、手始めにこの新生児室におじやますることにしたのよ」
「あら、そうだったんですか。じゃ自己紹介しておこうっと――私は吉田玲子、この病院の看護婦なの。よろしくね」
 改めて美登里の方に体を向け、右手を伸ばして女性が言った。
 美登里もつられるように手を差し出し、軽く握手を交わした。だが、彼女が看護婦だと聞いて思わず訊き返してしまう。
「看護婦さん?……あの、でも、その服装は……」
「ああ、これ? 初めて会う人にはよく訊かれるわ。どうして白衣じゃないのかって。でも、それがこの病院の方針なのよ」
 玲子は澄ました顔で応えた。
「方針……?」
 だが美登里はまだ要領を得ない顔をしている。
「私から説明するわ」
 百合子の声だった。
「普通、病院っていったら白衣を着た看護婦が大勢いるわよね。でも、その白衣が子供たちにプレッシャーを与えることも少なくないの。自分が病院にいることを強く意識させちゃうのね。で、そのへんの雰囲気をやわらげるために当院では基本的に白衣を身に着けないようにしてるの。もちろん手術や傷の手当てをする時には白衣に着替えるけど、こうして赤ちゃんたちの世話をする時には普通の家庭っぽい服装にしてるのよ」
「ああ、そうだったんですか。言われてみればもっともですね」
 百合子の説明を聞いた美登里は晴れ晴れした顔になった。
 が、それと入れ替わりのように、今度は百合子が少しばかり顔を曇らせて言った。
「でも残念ね。せっかく来たけど、今は赤ちゃんが一人もいないみたいだわ。みんな退院しちゃったのかしら?」
 百合子の言う通りだった。室内に据えられた四つのベッドはどれも空で、赤ん坊の姿は全く見当らなかった。
 だが、玲子は明るい声でこう応えた。
「大丈夫ですよ。もうすぐ分娩室から赤ちゃんが一人やって来ることになってるんです。その準備のために私がここにいるんですよ」
「ああ、そうだったの。じゃ、その生まれたての赤ちゃんに御挨拶することにしましょうか――もう少し待っててね、木内さん」
「はい、せっかくですから……」

 しばらくして、さっき美登里たちが入ってきたドアが開いた。そして、三人の看護婦に取り囲まれるようにして一台の移動寝台が室内に入ってくる。
 その移動寝台の上には一人の少女が全裸で横たわっていた。年齢は十六〜十七歳くらいだろうか。少女は安らかな寝息をたてて目を閉じていたが、ショートカットの髪とややぽっちゃりした顔が愛くるしく、それに加えて全身の肌が白いために、美登里の目にはその少女の姿がまるで人形のように映った。
 自分の目の前を横切って移動寝台がベッドの一つに近づこうとしている間、美登里は吸い付けられるように少女の体を見守っていた。だが、胸の中にふとした疑問が湧き上がってくるのを感じて視線を百合子の顔に移動させる――この少女は何者なの? いったい何のために全裸の少女が新生児室へ運びこまれてきたの?
 美登里の視線に気づいたのか、百合子がちらと美登里の方を見た。そしてクスッと笑ってみせると、「まあ、黙って見ててごらんなさい」とでも言うように再び少女の方に無言で顔を向けた。
 移動寝台は、ベッドのすぐ横に並んで停まった。玲子が部屋の奥に消え、しばらくして大きなバスケットを抱えて戻ってくると、そのベッドの傍らに立って、バスケットから取り出した布地をベッドの上に広げ始めた。美登里はそっと歩を進め、部屋の中央付近に立って玲子の作業を見守ることにした。
 玲子がベッドの上に広げているのは動物柄の布オムツだった。それも、美登里が知っているようなオムツと比べると随分と大きく縫製されているように思える。まさか――美登里の胸の中で、これまで思ったこともないような異様な予感が頭を持ち上げた――まさか、そんなことが……。
 だが、何枚かのオムツを広げてしまい、その下に玲子が敷きこんだオムツカバーを目にした瞬間、自分の予感が的中したことを美登里は明確に感じ取った。そのオムツカバーもまたオムツと同様に尋常ではないサイズに仕上げられていたからだ。生地こそ、小花の模様があしらわれた可愛いいデザインの、赤ん坊のお尻を包むにふさわしいものだったが、そのサイズは普通のオムツカバーを二回りも三回りも大きくしたようなものだった。それほどのオムツカバーが赤ん坊のために用意されたとは、美登里には到底思えなかったのだ。では、ベッドの上のオムツとオムツカバーとは誰のために?――答は明らかだった。
 オムツを用意し終えた玲子は寝台の横に移動すると、他の看護婦たちと共に少女の体の下に両手を差し入れた。そして、そのまま少女の体を静かに持ち上げてベッドの上に移し替える。ベッドに横たえられた少女のお尻の真下には、玲子が用意したばかりのオムツが広がっていた。
 玲子は慣れた手つきで少女の下腹部を大きなオムツでくるんでしまい、更にその上をオムツカバーで包みこんでいった。内腿のオムツをオムツカバーの中に押し入れる手つきも、前当てのホックを留めて腰紐を結ぶ作業も少しばかりの淀みがなかった。それは、玲子がこれまでにもそんな大きなオムツやオムツカバーを誰かにあててきた経験を持つことをハッキリとしめしていた。
「さ、これでいいわ」
 玲子はそう言うと、オムツで大きく膨れた少女のお尻を軽くぽんぽんと叩き、悪戯っぽい目を美登里に向けた。
 赤ん坊ではない、おそらくは高校生だと思われる少女のお尻がオムツカバーに包みこまれる様子を目の当たりにした美登里は、それが自分のことではないと知りながらも、なぜか動揺を抑えることができず、激しい羞恥が胸の中を充たすのを感じた。顔が熱くほてるのがハッキリわかる。
 美登里のまっ赤に染まった顔をしばらくみつめていた玲子だったが、不意に表情を引き締めると、看護婦の一人からファイルを受け取りながら小さく頷いた。それから、手にしたファイルの内容を確認するように声に出して読みあげる。
「名前は芦原久美、年齢は十七ね。処置内容はいつもの通りで、執刀は木谷先生か――じゃ間違いないわね。引取先は?」
 ふと顔を上げた玲子は、ファイルを手渡してくれた看護婦に向かって尋ねた。看護婦は軽く首を振ってみせる。
 それを見た玲子は
「そう、まだ決まってないのね」
と言うと、再びファイルに目を遣った。
 そのまま内容の確認を終えた玲子はファイルを閉じて看護婦に返しながら、なにげない口調で百合子に言った。
「今度の獲物を手に入れたのは例の組織? あそこはいつも可愛いい子をうまく見つけてくるわね」
 玲子が口にした『獲物』や『組織』という言葉を聞いた美登里の顔が微かにこわばった。だが、玲子に話しかけられた百合子は美登里の表情の変化には気がつかなかったようだ。あるいは、気づかないふりをしているのか。百合子は玲子に対して無言で頷くと、唇を僅かに歪めるような笑顔を浮かべて言った。
「そうね。幾つかある組織の中でも、この子をさらってきた組織は特別だわ」
 さらってきた?――美登里がビクッと肩を震わせた。
 さすがにそれには百合子も気がついたようだ。百合子は面白そうな表情を浮かべると、美登里に向かって言った。
「あらあら、木内さんも私たちの仲間になるんだから、こんなことくらいで驚かないでちょうだいね。この病院じゃ、みんな知ってることなんだから――でも、外部の人には絶対に秘密よ。わかるわね?」
 美登里は、何もかも見通してしまいそうな百合子の不思議な色の瞳に引きずりこまれるように、思わず
「はい……」
と応えた。
 だが、じきに自分の目的を思い出した美登里は身を固くした。

 美登里がここ第二小児病院へやって来たのは、経理職員として採用されるためではない。それはあくまで、怪しまれることなくここへ入りこむための方便でしかなかった。
 美登里が第二小児病院を訪れたのは、この病院で何か違法な行為が行われているらしいという情報をつかんだからだ。フリーランスの記者として業界では少しばかり名の通っている美登里は、ここ数年に渡って行方不明になる若者が増えている(それも圧倒的に女性が多かった)事件を追っていたのだが、その事件と第二小児病院での違法行為が関係あるかもしれないと直感したのだ。そして、この病院を包む厚い秘密のベールを一枚ずつ丁寧に剥がすようにして、やっとの思いで職員応募という名目で百合子に会うところまで辿りついたのだった。
 美登里は最初、職員として採用された後にじっくりと院内の様子を調べあげるつもりだった。だが、採用が決まった時に百合子から宿舎への移動を指示されて当初の計画を変更せざるを得なくなった。病院付属の宿舎というのは結局、病院の秘密が職員の口から世間に漏れるのを防ぐための施設だということを直感してのことだった。もしも指示に従って宿舎に入ってしまえば外部との自由な接触を断たれ、せっかく手に入れた情報を伝えることができなくなるだろうと考えたのだ。だから、早々に院内を見学したいと百合子に申し入れたのだった。
 だがまさか、これほど早く違法行為を目にすることになるとは予想もしていなかった。百合子たちの話が本当なら、目の前のベッドで眠っている少女は或る組織によってさらわれてきたらしい。だがその目的は……?
「あの、ちょっと訊いてもいいですか?」
 美登里は舌で唇を二度三度と湿らせてからおずおずと言った。
「いいわよ……あの子のことね?」
 百合子が、ちらと少女――芦原久美――の方に目を遣って応えた。
「はい。あの子はどうして眠ったままなんですか? それも、赤ん坊でもないのにオムツが要るなんて……意識が戻らないってことでしょうか? それにだいいち、ここは新生児室の筈でしょう? それなのに何故、あの子が寝られるような大きなベッドが用意してあるんです?」
「うふふ、一度にたくさんの質問ね。木内さんたらまるで何か焦ってるように見えるわ。それとも、私の気のせいかしら?」
 美登里の心臓がドキンと高鳴った。自分の正体を見破られたかと思ったからだ。だが、百合子はそんなことにはお構いなしに、美登里の目を覗きこむようにして言葉を続ける。
「まあ、いいわ。教えてあげる――とっても簡単なことなのよ。実は、あの久美っていう子が新生児、つまり生まれたばかりの赤ちゃんって訳なの。だから、久美ちゃんはこの新生児室に運びこまれてきたんだし、オムツも必要なのよ」
「え……あの子が赤ちゃん……どういうことですか?」
 百合子の説明を聞いた美登里はますます混乱したような顔つきになって、口の中でもごもご言った。
「まあ続きを見てらっしゃいよ。玲子さんの作業が終わってから、もう少し詳しいことを教えてあげるわ」
 百合子は美登里の質問を撥ねつけるようにそう言うと、再びベッドの方に視線を向けた。仕方なく、美登里も玲子がこれから何をするのか見守ることにした。
 久美の引き渡しを終えた三人の看護婦は再び美登里の目の前を移動寝台を押して部屋を出て行った。
 玲子は再びベッドの側に立つと、久美のお尻を包みこんでいるオムツカバーの様子をもう一度じっくり点検してから小さく頷き、傍らの椅子の上に置いたバスケットに手を伸ばした。玲子が今度バスケットの中から取り出したのは、淡いピンクの生地でできたネグリジェのような衣類だった。だが、それが普通のネグリジェでないことは一目でわかる。七分袖の柔らかな曲線といい、胸元や裾にあしらわれた飾りレースのフリルといい、それは年頃の女性が着るにはあまりにも可愛らしく子供っぽいデザインだったからだ。いや、子供っぽいというよりも、まるで赤ん坊が着るベビードレスのような仕立てになっているのだ。玲子はその大きなベビードレスを両手で持ち上げると、美登里に見せつけるように大きく広げてから、久美の頭にすっぽりと被せた。それから、久美の頭や体を少しずつ持ち上げるようにしながら、頭から被せたベビードレスの裾を引っ張り、ゆっくりと全身を包みこんでゆく。ベッドに寝たままの人間に衣類を着せるのは想像以上に困難な作業の筈なのだが、玲子の動きは極めて滑らかなものだった。
 やがて、玲子はその大きなベビー服の形を整え、久美の乱れた髪をそっと撫でつけた。少しばかり丈の短いベビードレスの裾からオムツカバーを半分ほどのぞかせた久美の姿は美登里の目にはとても可愛らしく映り、一瞬とはいえ、目の前にいるのが本当の赤ん坊だという錯覚さえ覚えてしまう。玲子はバスケットから別の布地を取り上げた。周囲を縁取りするフリルがあしらわれ、四本の長い紐が縫い付けられたその純白の柔らかそうな布地は、一見してヨダレかけだということがわかった。ベビードレスの上から玲子は更に大きなヨダレかけを久美の首に巻き付けようとしているのだ。
 そして、ヨダレかけの後はベビー帽子だった。ヨダレかけと同じ柄の生地でできたベビー帽子が久美の頭をすっぽり包みこみ、そこから黒い髪が僅かにのぞく。
 最後にサクランボのようなボンボンが付いたソックスを久美の両足に履かせると、玲子は美登里の方を振り向いた。それを待っていたように、百合子が美登里に話しかける。
「つまり、こういうことよ」
「……いったい何が『こういうこと』なんですか?」
「まだわからない? じゃ、もう少し詳しく説明してあげた方がいいかしら」
「……」
 美登里は無言で頷いた。
 その時、プププ……という電子音が響き渡り、百合子は、ちょっと待ってと言うように左手を軽く挙げてから右手をスーツのポケットに差し入れ、小型のコードレスホンを取り出した。
「内田です――ええ、それで――はい、承知しました。では」
 耳に押し当てたコードレスホンに向かってそう応えると、百合子はやや申し訳なさそうな表情を浮かべ、美登里に向かって言った。
「ごめんなさいね、ちょっと急用ができちゃったの。それほど時間はかからないと思うんだけど、戻ってくるまでちょっと待っててもらえるかしら?」
「……ええ、それはいいですけど……」
「そう、ごめんなさいね。じゃ、もう少しゆっくりできる場所に案内するから一緒に来てくれる?」
 百合子はそう言うと、美登里の返答も待たずにドアに向かって歩き出した。美登里が慌ててその後にしたがう。




 百合子は美登里をエレベーターで五階へ連れて行った。
 廊下に沿って並んでいるドアには各々の部屋番号が書かれ、入院患者のものと思われる名前が書かれたプレートが掛っている。
 百合子は廊下の最も奥に位置する五〇一号室の前で立ち止まった。そして手馴れた様子でドアを開け、美登里を招き入れながら言った。
「私はちょっと院長と打合せをしてきますから、木内さんはその間、この部屋で待っていてくださいね」
 美登里は百合子の言葉に従って部屋に足を踏み入れたが、その顔には要領を得ないような表情が浮かんでいた。美登里は思わず百合子に尋ねてしまう。
「でも、ここは病室でしょう? どうしてこんな所で……」
「大丈夫よ。この病室は今は空いてるし、当分は使う予定もないから」
「いえ、私が訊きたいのはそういうことじゃなくて……」
「じゃ、ゆっくり待っててね」
 百合子は美登里の言葉を遮るようにそう言うと、やや強引に美登里を部屋に押しこみ、外からドアを閉めてしまった。

 木製のドア越しに、百合子が廊下を遠ざかる足音が聞こえてくる。美登里は大きな溜息をついてから、改めて室内の様子を見回してみた。
 それは、美登里が知っているような『病室』という場所とは随分かけ離れた雰囲気を漂わせていた。白い壁も冷たいリノリュームの床もそこにはなく、その代わりに、所々にアニメキャラクターが描かれた明るい壁と、ビニール系の厚いカーペットに覆われた柔らかそうな床に囲まれているのだ。しかも窓際にはレモン色に塗られたベビーベッドが置いてあり、その横には、同じ色のベビータンスが据えてある。しかもベビーベッドの真上の天井には、カラフルなサークルメリーが吊ってあるのだ。その様子は、病室というよりは、どこかの家庭のベビールームを思わせた。
 しかし美登里は、それが決して『普通の』ベビールームではないことにも気づいていた。窓際のベビーベッドが異様に大きいのだ。普通、ベビーベッドの長さは百二十〜百三十センチくらいのものだが、目の前にあるベビーベッドは二百センチ前後もあるように美登里には見えた。かといって、周囲にサークルが立てられ、可愛らしい動物のイラストが描かれたそのベッドが大人用のベッドである筈もない。
 美登里の頭の中に、さっきの『新生児室』で目にした久美の姿が鮮やかに甦ってきた。十七歳の少女がオムツをあてられ、大きなベビー服を着せられた上にヨダレかけで胸を覆われて、まるで赤ん坊のような姿にされていた光景だ――そういえば、あの少女が横たわっていたのも、これと同じようなベッドだったんじゃないかしら。
 この病院では、いったい何が行われているのだろう? さらわれてきた少女を確かに私は見た。だから、若者の行方不明事件と無関係ということはないだろう。でもどうして、あの少女は赤ん坊のような姿にされる必要があったのか?――考えれば考えるほど美登里の頭は混乱するばかりだった。

 虚しい時間だけが流れて行った。
 部屋の隅にあった椅子に腰をおろしていた美登里が不意に立ち上がった――トイレはどこかしら?
 美登里は廊下へ出ようとしてドアに手をかけた。そのまま左へ滑らせれば……あれ? このドア、どうなってるんだろう。さっき内田さんが開けた時はあんなにスムーズだったのに。そうよ、それに、閉めた時だって。なのにどうして――まさか?
 美登里は渾身の力を振り絞ってドアを開けようとした。右へ押し、左へ押し、遂には拳で叩いてもみたが、一見したところではそう頑丈そうにも見えないそのドアがビクとも動かない。
 美登里の心に次第に焦りが生じてきた――ひょっとすると、正体がバレて閉じこめられたのかもしれない。でも、私はこの病院で何が行われているか調べあげてないんだ。なんとか脱出しなきゃ。そうよ、なんとしてでもこの部屋から抜け出して、この病院の正体を暴いてやるんだ。それにだいいち、ここから出られなきゃトイレへも……。
 だが、そんな美登里を嘲るように、木製のドアは全く動こうとはしなかった。仕方なく美登里は今度は窓の方に近づいてみた。が、どうやら嵌め込みになっているようで、これも開けることができない。それに、もしも窓を開けることができたとしても、その外には小さなベランダも何もないのだ。遥か下の地面まで、ただ外壁が垂直に立っているだけだった。
 美登里は唇を噛んだ。尿意は次第次第に高まってくる。おそらく、ガマンの限界も近いだろう。
 美登里は未練がましくもう一度ドアの前に立つと、右足で蹴ってみた。しかし、それでどうなるわけでもない。美登里は今にも泣き出しそうな表情で肩を震わせた。
 クックックッ……不意に、美登里の背後から低い笑い声が響いてきた。
 美登里はハッとしたような表情を浮かべ、慌てて振り返った。が、誰もいない。
 美登里は声の正体を探るために部屋中を見渡した。そんな美登里の様子を嘲笑うように、低い声は尚も続いている。
 蒼褪めた顔でキョロキョロと視線を動かし続けた美登里がやっと見つけた声の主は、ベビータンスの上に置かれたテレビだった。十四インチくらいのさほど大きくないテレビがタンスの上にあって、笑い声はそのスピーカーから流れ出しているのだ。そしてそのブラウン管に映っているのは、まぎれもなく百合子の顔だった。
「内田さん……?」
 美登里は思わずテレビに向かって呼びかけた。
 それに対して、テレビの中の百合子がスッと目を細めて応える。
「やっと気がついたようね、木内さん……いいえ、ここは本名で林田翠さんと呼ぶことにしましょうか」
 美登里の胸の中が冷たくなった――ではやはり、私の正体がバレていたんだ。
 美登里の本名は、百合子が口にした通り、林田翠という。木内美登里というのは、第二小児病院へ提出した履歴書に書いた偽名だった。それがバレたということは……。


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