希望 〜第二小児病院シリーズ5〜


 山口玲子の機嫌はとても良かった。
 内田百合子が玄関のベルを鳴らしてドアを開けてみると、もうそこに玲子の姿があった。そして百合子の姿を見かけると、嬉しそうな表情を顔中に浮かべてハイハイで近寄ってくる。
 思わず百合子も表情を和らげ、靴を脱いで廊下に上がりながら玲子の頬に軽いキスをした。玲子はその行為をとても気に入ったようで、キャッキャッと声をあげて喜んだ。
 その声に呼ばれたように、玲子の母親である美津子が廊下の奥から早足で現れる。
「あらまあ、お久しぶりだこと。その節はお世話になりまして」
 玲子が感じの好い笑顔を浮かべて頭を下げた。
「いえ、こちらこそ」
 しゃがみこんで玲子の頭を撫でていたのをやめ、慌てて立上りながら百合子も頭を下げ返す。
「こんなところじゃなんですから、さ、どうぞ」
 美津子が指を廊下の奥へ向けて広げ、百合子を促した。
 それじゃ、と百合子は美津子に従って歩き始める。玲子は母親の横をハイハイで並んで行く。ロンパースの上からでも、たくさんのオムツでモコモコと膨れたヒップラインがはっきりと見えていた。その大きなお尻が、美津子に遅れまいとハイハイで進む玲子の後姿をとても可愛いいものにしている。
 リビングルームに案内された百合子が座卓の前に座ると、その横に玲子が真似るように座りにきた。よほど百合子の来訪を歓迎しているのだろう。
 しばらくすると美津子がティーカップを座卓に並べてゆく。百合子と美津子の分だ。そして玲子の前には、ジュースの入った哺乳瓶。そのプラスチック製の透明な哺乳瓶には子猫のアニメが描かれていて、見ているだけでもほほえましいものだった。
 玲子は哺乳瓶を両手で握ると、顔の上で斜めに傾けた。そしてゴムの乳首を口にふくむと、ちゅぱちゅぱと音をたてて吸い始める。その視線が哺乳瓶に焦点を合わせているために二つの黒い目玉が真中に寄ってしまい、なんとも愛くるしい顔つきになっていた。哺乳瓶の中身が減るのにあわせてますます傾きを加え、やがて自分の体も弓なりにそらせ始める。そのまま見ていると、遂にバランスを崩して後頭部から床に倒れていった。
 それを見た百合子は少々慌てたものの、美津子は平然としていた。
「よくやることなのよ。大丈夫だから、慌てないで」
とクスクス笑いながら百合子に言ってから、仰向けに寝そべっている玲子の傍らに膝をつく。倒れながらもしっかりとゴムの乳首を咥えている唇の端から、細い一筋の流れになったジュースが顎の方へこぼれている。美津子がよだれかけでジュースを拭き取る間も、玲子はジュースを飲むのをやめない。
 やがてそのままの姿勢で哺乳瓶を空にしてしまった。
 やれやれ、と溜息をつきながら玲子の手から哺乳瓶をもぎとった美津子の顔つきに、何かを感じ取ったような表情が浮かんだ。まだ何かを欲しがっているように動く玲子の唇にゴムのおしゃぶりを咥えさせてから、美津子は右手をロンパースの股間からオムツカバーの中へ差し入れてみる。
「出ちゃったのね、玲子ちゃん?」
 右手をロンパースから抜きながら、美津子が百合子の耳にも聞こえるような声で言った。それから今度は百合子に向かって言葉を続ける。
「お茶の途中でわるいんだけど、この子のオムツ取替えちゃうわね。気をわるくしないでね」
「結構よ。どうぞ、気になさらずに」
 それまで静かに玲子と美津子の行動を見守っていた百合子が応えた。
 百合子の言葉に頷いた美津子は玲子を床に寝かせたまま立ち上がった。そしてドアを開いて廊下に出て行く。開いたままのドアから美津子の足音が聞こえる。その足音はじきに立ち止まったようだ。足音の代わりに、隣の部屋のドアを開ける音が微かに聞こえた。
 しばらくすると、藤製のバスケットとポリバケツを持った美津子がリビングルームに戻ってきた。手にしている荷物を玲子の側に置くと、バスケットから一枚のシーツを取り出す。黄色の醗水性の生地に子猫のアップリケが付けられ、裏地が防水加工されているそのシーツは大きなオネショシーツだった。市販されているオネショシーツよりも二回りほども大きなそのオネショシーツを玲子のお尻の下に敷きこんでから、美津子はゆっくりとロンパースに手をかけた。
 股間に五つ並んでいるホックを丁寧に外し、股間部分の布を玲子のお腹の上に捲り上げると、その中からレモン色のオムツカバーが現れた。鮮やかなレモン色の生地でできているオムツカバーのお尻の処には大きな子象のアップリケが付けられていて、玲子がお尻を動かす度にまるで笑っているように子象の表情が変化する。
 オムツカバーの腰紐がほどかれ、ボタンが外されて前当てが開かれると、腰を包んでいたサイドの部分もオネショシーツの上にゆっくりと広がっていった。すると、玲子のお尻をくるんでいるオムツが百合子の目に入ってくる。動物柄のオムツはたくさんの尿を吸いこんだことを示すように微かに黄色く染まり、湯気をたてながら玲子の肌に貼りついている。玲子の両足を持って高く上げると、美津子は慣れた手付きで濡れたオムツをお尻の下からどけてしまい、用意してきたバケツの中に放りこんだ。
 新しいオムツをカバーの上に敷きこむと、美津子は優しくベビーパウダーを玲子の下腹部にはたいてゆく。パフが動く度に、懐かしいような甘い香りが百合子の鼻をうった。その香りに百合子の心が思わずゆったりする頃には、美津子の作業は終了していた。
 玲子のお尻を優しく包むオムツカバーをロンパースの中にしまいこむと、美津子はそのお尻を優しくぽんぽんと叩いた。
「最初の頃に比べると、さすがに上手になったわね」
 百合子は感心したような声を美津子にかけた。
「そうでしょ。病院で初めてこの子にオムツをあててみた時は本当に難しく思ったんだけど、それが意外に早く慣れちゃうものね」
 美津子が少し照れたように応える。
「本当の小っちゃな赤ちゃんのオムツ交換だって最初は難しいのに、こんなに大きいんだものね」
 百合子のその言葉に、美津子は半年前のことを思い出した。

 世の中には、様々な事情や性癖のために普通の育児に満足できない人たちが存在する。育児の喜びは味わってみたいものの本当の赤ん坊を育てるだけの自信のない人や、少々異常な母性本能を持っている人たちだ。そんな人たちのために違法ながら事業を進める病院がある。それが『第二小児病院』だった。四つの総合病院を経営する傍ら、高い利益率を追及するために『天啓会』が秘密裡に設立した病院である。
 この病院は普通の産科・小児科病院ではない。前述のような人たちのために、大人を赤ん坊に変身させて引き取らせるシステムを持っている。もっとも、大人を赤ん坊に変身させるといっても、実際に成人の体格を赤ん坊のように縮めることなどできる訳がない。
 では、どうするか――体格はそのままで、赤ん坊のような身動きしかできないようにしてしまうのだ。
 まず、薬や外科的な手術によって対象者の筋力を弱めてしまう。よちよち歩きやハイハイしかできなくしてしまえば、この対象者は自由な行動が制限され、誰かの庇護のもとでしか生活できなくなってしまうだろう。大きな身体を持ちながらも、赤ん坊のようにしか振る舞えなくなるわけだ。
 更に、膀胱の神経を麻痺させる。ハイハイしかできない状態でも、おしっこをしたくなればなんとかトイレに辿りつくことができる。トイレで排泄する限りは、自由を奪われた身体ではあっても、受ける屈辱の度合いは強くはない。ところが、膀胱の神経を麻痺させられたらどうなるだろうか? トイレに行くべきタイミングをつかめなくなってしまうのだ。かといって、ずっとトイレにこもってもいられない。そこで、オモラシを繰り返すことになってしまう。
 身体の自由を制限され、その上でオモラシを繰り返す。しかも『保護者』は繰り返されるオモラシを口実に、オムツをあてることを強制する――いや、実際には口実も必要ではない。抵抗する力もない大きなベビーは、『保護者』が強制するオムツを勝手に外すようなこともできないのだ。一旦オムツをあてられてしまえば、誰かが外してくれるのを待つしか方法はないのだった。そして更に、オムツに似合う可愛らしいベビー服を着せられることになる。純白のベビー帽子にピンクのヨダレかけ、丈が短いためにオムツカバーが丸見えになってしまうベビーワンピースやレース製のソックスが『ベビー』の身を包むことになるのだ。
 こうなれば、強い屈辱感のために、正常な精神状態を保つことは至難のわざになる。理性は徐々に消え去り、『保護者』がそう扱うように、自分のことを赤ん坊だと思いこむようになる。それに、この傾向を増幅させるために向精神薬が使用されることも多い。化学的な催眠術とでも言うべき向精神薬と、赤ん坊として扱われることとが相乗効果を生み、対象者は心から赤ん坊へと変身してゆく。
 美津子は半年前に第二小児病院の存在を知り、大きな赤ん坊を欲して訪れたのだった。院長や院長秘書・百合子との面談を終えて『新生児室』を案内してもらった時に、その室内のベッドの一つにいたのが玲子だった。ささいなことで裕福な実家から家出し、繁華街をうろついているところを或る人身売買組織によって捕らわれ、第二小児病院へと連れてこられた。そこで前述のような処置を施され、美津子が訪れた頃には殆ど完全に赤ちゃん返りを済ませていた。そんな玲子の、はっきりした目鼻立ちとあどけなさとが入り混じった顔を見た美津子は一目で気に入ったものだった。
 それから十日ほど後には病院と取引のある家具業者から大きなベビーベッドやベビータンスが届けられ、衣類業者から玲子用の大きなベビー服とオムツカバーがこの家に配達されて、玲子を迎える準備は整った。
 そして実際に玲子が病院の車で連れてこられた時の美津子の喜びは、他に比較するもののないようなものだった。口に出せないような事情から、大きな事業を成功させながらも独り身を通してきた美津子の生涯の最も喜びに充ちた時がそれだった。まがいものとはいえ、やっと自分にも家族が、それも見るからに可愛らしい、自分の庇護の中でしか生きられない赤ん坊がやってきたのだ。
 その日以来、美津子は玲子を本当の赤ん坊のように可愛がり、それに応えるように玲子も美津子によくなついた。その玲子の仕草は赤ん坊のそれそのままであり、十八歳という玲子の実年齢を美津子が感じたことは一度もなかった。

 新しいオムツをあてられて気持よくなったのだろう、玲子が小さな欠伸をした。美津子は自分のブラウスのボタンを外すと、玲子のあどけない顔に自分の乳房を優しく押しつける。玲子は美津子の乳首を口にふくみ、静かに吸い始めた。やがて母親の乳房の感触に安心したように、玲子の目は静かに閉じられていった。
 眠ってしまった玲子を、百合子の協力を得た美津子が隣室のベビールームへ運びこんだ。部屋の片隅にある大きなベビーベッドのサークルを倒し、二人がかりで玲子をベッドの上に眠らせる。
 しばらく玲子の寝顔を見ていた二人だが、やがて目を見合わせてどちらからともなく微笑み合っていた。そして玲子が目を醒まさないように、静かな足取りでリビングルームに戻る。
「病院にいた時よりも、ずっと可愛いくなってるわね」
 再び座卓の前に座ってから百合子ニコッと笑ってが言った。
「でしょう。今じゃ会社は人にまかせっきりで、一日中、玲子の面倒をみてるの。ほんと、赤ちゃんと一緒の生活がこんなに楽しいものだなんて思ってもみなかったわ」
 心から嬉しそうな弾んだ声で美津子が応じる。
「よかったわ。ところで、少し相談したいことがあるんだけど……」
 百合子の声が少し硬くなった。




 添木冴子が和男のオムツを取替え始めた。
 和男がむずがらないように、百合子がガラガラであやす役をかってでる。からころとかろやかな音を立てるガラガラを右や左へ動かすと、和男はそれを追いかけるように枕の上の首を動かし、目をきょときょとさせる。
 その間に冴子が手際よくオムツカバーを開く。どうやらたくさんのオモラシをしてしまっているようで、オムツカバーの表地も濡れてしまった部分があるようだ。新しいオムツカバーの上に乾いたオムツを重ねると、濡れてしまったオムツの代わりに和男のお尻の下に敷きこむ。男の子にオムツをあてる常として前の方の吸水性を確保するようなたたみかたで和男の大きなお尻を包むと、ブルーの表地に動物のイラストが散りばめられたオムツカバーのボタンを留めてゆく。腰紐を硬く結び終えると、冴子はほっと小さく息をもらした。
「さすがにお尻が重いから、オムツの交換だけでもひと仕事ね」
 さきほどまで振っていたガラガラを和男の手に渡してしまった百合子が、冴子にねぎらいの言葉をかける。
「ほんと、そうよ。でも、お風呂に入れる仕事よりは楽だわ」
 冴子が軽いウインクと共に言葉を返した。

 和男も、第二小児病院で赤ん坊に変身した一人である。但し、他のベビーとはちょっと違う事情があった。
 第二小児病院へ寄せられる依頼としては、二十歳前後の女の子が欲しい、というものが圧倒的に多い。女の子の場合はすべすべした肌と愛くるしい顔つきで、赤ん坊の可愛らしさを発揮することが簡単だからだ。それに比べると、男の子はどうも冴えない。脛毛が生えているし体つきも筋肉質で、可愛らしさに欠けるのだ。それに、オムツをあてるにしても、成人の大きなペニスは邪魔になってしょうがない。だから第二小児病院で赤ん坊への変身処置を受けるのは殆どが女性である。まず、これが和男の特殊な事情の一点目だ。
 更に、第二小児病院での処置を受ける者は大概が強引に拉致されてきた者であるのに対して、和男は自分から希望して病院を訪れた、という事情も忘れてはならない。もともと、和男と冴子とは仲の良い夫婦だった。ところが結婚して七年が過ぎてもなかなか子宝に恵まれない。元来が子供好きの二人は諦めることなく励んだものの、どうしても冴子が妊娠する様子はなかった。そこで揃って産婦人科で診察を受けたところが、和男の精子数が一般よりも極端に少なく、しかも動きが弱いことがわかった。
 今後も子供ができる可能性は極めて小さいでしょうと宣言された二人だが、とてもではないが簡単に諦めることはできない。そんな時に第二小児病院の噂を耳にしたのだった。二人は話し合った。そして、どこの誰かも知れない大きな赤ん坊を引き取るよりは、子供ができない責任を取って和男が赤ん坊になることで意見がまとまった。そんなわけで二人で病院を訪れ、冴子が見守る中、和男は『分娩室』での筋無力化手術と膀胱の神経を麻痺させる処置を施されたのだった。更に対象者が男性ということで脱毛処置も施され、和男の肌は赤ん坊のようなつやつやしたものに変わった。
 和男が自ら希望したことではあるが、それでも分娩室から『新生児室』に移されて訓練を受ける時には随分と羞恥を感じたものだった。
 毎回の食事として与えられるのは哺乳瓶に入ったミルクだけである。妻の前でならそれも飲めるかもしれないが、新生児室にいる看護婦は自分よりも若い者ばかりなのだ。そんな若い女性に見られながら哺乳瓶を口にすることはなかなか難しいことだった――だがそれも、いつしかできるようになってしまっていた。哺乳瓶のミルク以外には食物も飲物も与えられないのだ。空腹と喉の乾きに襲われれば、目の前に差し出された哺乳瓶に手を伸ばすようになってしまう。そして、待ち受けていたようにゴムの乳首を口にふくんで吸い始めるのだ。目の前に用意された哺乳瓶に手を伸ばして嬉しそうにそれを吸う行為を繰り返しているうちに、心の中には自分が乳児だと思うような部分が芽生え、育ってゆく。
 排泄も同様だった。オムツを濡らしても、最初の頃はそれを取替えられないように抵抗していた。三十歳を越えた男が二十歳台の女性の手でオムツを取替えられることなど、容易に受け入れられるものではなかった。しかし、時が経つにつれて濡れたオムツの中に更にオモラシをし、その感触は耐えられないようなものになってゆく。遂にはオムツカバーの外へも漏れ出し、オネショシーツの上を流れて衣類や布団までも濡らし始めるのだ。いつかは、その不快感が羞恥を凌ぐようになる。看護婦がそんなタイミングを見計らってオムツを交換する。そうすると、取替えられた新しいオムツの柔らかく温かい感触に、オムツに対して持っていた嫌悪感がきれいに消え去ってしまう。新しいオムツの気持よさを一度味わえば、もうオムツの交換を嫌がることはなくなる。
 しかも日に一度〜二度は、特殊な手術を施された看護婦の乳首から母乳を飲む日課になっている。もちろん、母乳とはいっても本物ではない。母乳に近い成分の液体に向精神薬を溶かしこんだものを入れた有機タンクが看護婦の乳房に埋めこまれていて、その中の液体を飲むのだ。母乳の味と香り、乳房や乳首の感触を感じながら向精神薬を口にする和男の精神は速やかに赤ちゃん返りをおこしてゆく。
 そうして赤ん坊へと変身した和男は冴子の夫ではなく、あどけない赤ん坊として数ケ月前に退院してきたのだった。

「で、どうなの? 腕力も要るし大変だけど育児は楽しい?」
 百合子が優しい声を冴子にかけた。
「もちろん……産婦人科で診察の結果を聞いた時には随分と主人を恨んだものよ。この人のせいで赤ちゃんに恵まれないんだものね。でもね、今は逆なの。だって、こんなに可愛らしい赤ちゃんが手に入ったんだから。この人はもともと私の赤ちゃんになるために私と知り合ったんだ、って最近は思うようになったわ。違うかしら?」
 百合子は冴子の表情をとても眩しく思った。その顔は、妻の喜びと母の強さと女の威厳を揃え持ち、太陽のように輝いていた。
「よかったわ。ところで、少し相談したいことがあるんだけど……」
 百合子の声が少し硬くなった。




 三浦利絵は人見知りをするようになっていた。
 百合子が玄関のチャイムを鳴らしてしばらく待つと、ドアが内側からゆっくりと開いた。いらっしゃいませ、という明るい三浦葉子の声に迎えられて玄関に入ると、廊下には歩行器に乗せられた利絵の姿があった。葉子に挨拶を返した百合子が廊下に上がって近づこうとすると、利絵は泣き出しそうな顔になってしまうのだった。
「ごめんなさいね」
と言いながら葉子が利絵の歩行器の傍らに立った。
「このごろ、どうも人見知りがひどくって」
「そう……どうしたのかしら?」
 小首をかしげ、なおも百合子は利絵の処に近寄ろうとする。
 すると利絵は慌てたように足を動かし、葉子の背後に隠れようとするのだった。葉子は自分の背後に移動してきた歩行器を百合子の方に押し出しながら、利絵の耳許であやすような声を出した。
「あらあら、どうしたの? 百合子お姉ちゃんのこと、忘れちゃったのかな? 病院にいる時はあんなに仲良しだったのに」
 そうだった、第二小児病院にいる時はとてもなついてくれたのに、と百合子は一年前のことを鮮明に思い出した。

 葉子が第二小児病院を訪れたのは一年前のことだった。依頼主とは必ず院長と百合子が揃って面談をすることになっているのだが、その場で初めて葉子を見た百合子は、葉子の若さに少々驚いていた。冷静を装いつつ葉子のプロフィールが記入されているファイルを確認すると、確かに若かった。二十五歳という年齢がそこには記されていたのだ。
 第二小児病院への依頼主は、大概が中年以降の女性である。その理由は二つある。
 一つ目の理由としては、若い頃に子供に恵まれず、或る程度の年齢になってから子供を欲しがる人が依頼してくるケースが多い、ということが挙げられる。
 本人の、或いは周囲の事情によって子供を産むのに適した年齢の時に子供を産めなかったり、生涯子供を授かることはないと判断されながら、年齢を重ねるにつれて独り身の寂しさから子供を欲しがるようになる人は少なくない。しかしその頃には、小さくて頼りない赤ん坊をまともに育て上げる自信は失せている。子供を欲する本能と育児への不安とが相半ばし、どうすればよいのかわからなくなる。そんな時にこの第二小児病院のことを耳にすれば、そんな方法もあるのか、と素直に受け入れてしまうものだ。大人の身体を持つ赤ん坊なら、それほど神経質な育児をせずにすむ。それでも本当の赤ん坊のようにオムツを濡らし、母親の乳房を求めるという、育児の雰囲気を味わわせてくれるのだ。
 だから、これからいくらでも子供を産むことのできる若い女性からの依頼は滅多にないものだ。
 第二の理由は、依頼主が病院へ支払う料金が高いことだ。
 赤ん坊へと変身させる者を確保することは簡単なことではない。そのために第二小児病院は或る種の人身売買組織とのつながりや、いくつかの裏ルートを持っている。それらを維持し、更に病院自身も利益を上げようとすると、どうしても大きなコストが必要になる。それが結局は依頼主からの料金で賄われるのだから、依頼主が支払う金額は並のものではないのだ。そして、若い女性がそのような金額を扱える場合は極めて少ない。そのような金額を自由に扱えるのは、大抵は裕福な金満マダムである。
 それでも葉子が院長と百合子に対して語った説明を聞くうちに、その疑問は氷解していった。
「私は一度結婚に失敗してるんです」
 この病院を訪れた理由を直接本人の口から説明して欲しい、という百合子の言葉に従って、葉子がゆっくりと話し始めた。
「別れた主人の家は、かなりの資産家でした。詳しいことは聞かなかったんですけど、戦前まではずっと続いた名門の家柄だそうです。それが戦後のゴタゴタで没落しちゃったそうで……」
 没落したといっても、それまでの蓄えはかなり残っていた。普通の生活を送る者の目から見れば、立派な資産家と呼ばれるレベルだったのだ。それでも当の笠井家の者の心の中には、世が世なら、という拗ねたような気持が潜んでいた。
 そうした気持を強く持っている者の一人が、葉子の夫の母親だった。
 葉子から見れば姑にあたるその女性は笠井の家に嫁に入ったのではなく、元々が笠井家の者だった。男兄弟がなく、妹たちも次々に結婚して家を出たため、長女である姑が養子をとって家を継ぐことになったのだ。幼少の頃から持ち続けてきた家を何よりも大事にする思いと、結局は自分が家の犠牲になったという思いとがない混ぜになり、いつしか姑の心は自分の息子にばかり向けられるようになった。せっかく産まれた男の子という意識が強く、跡継ぎである息子と家そのものとを重ねて見るようになっていたのかもしれない。
 そんな母子関係の中へ葉子が割って入ったのだから、姑が葉子をどれほど苦々しく見ていたものか、容易に想像ができる。
 それでも、最初の頃は葉子と姑とは案外うまくやっていた。なんだかんだといっても縁あって結ばれた人の母親だという思いから、何かがあっても葉子がまず折れるということを続けた。そうされれば、姑としても表だって無茶を言うこともできなかった。とにもかくにも、表面上は仲の良い関係が続いていたのだ。
 しかし葉子の妊娠を契機に、そんな関係が崩れ始めた。
 葉子の妊娠を知った姑は、まず喜んだ。そしてこれまでの表面上の優しさではなく、心からのいたわりを葉子に示すようになっていった――やれ重い物を持ってはいけない、やれ掃除は私がしてあげようとさえ言い、実行したのだ。
 だが、姑のいたわりが自分に向けられていたのではないことが、出産を終えた葉子には痛いほど感じとれた。授乳のために子供を胸に抱く葉子の病室を訪れた時、姑の目は彼女など見てはいなかったのだ。その視線はひたすら赤ん坊に注がれていた。葉子はその目を見た時に、姑のいたわりがこの子に向けられたものだったことを理解した。無事に出産を終わらせるためだけに姑は葉子に優しくしていたのだ。
 授乳を終えて赤ん坊が新生児室に戻されると、姑はガラス越しにでも更に孫を見ようと病室を出て行った。
「結局、私はあなたの子を産むだけのために必要な女だったの?」
 葉子がぽつり、病室に残った夫に尋ねた。
 否、という答えを期待していた葉子の耳に聞こえてきたのは予想もしていない言葉だった。彼女の疑問に、夫はこう答えたのだ。
「……お袋にすれば、そうかもしれないな。笠井の家と僕とを溺愛してきたお袋にすれば、笠井家の跡取りさえできれば、それで満足なのかもしれない」
「……そうなの……でも、あなたは違うわよね?」
「こんなことは言いたくないんだけど……どうやら僕も心の底ではお袋と同じかもしれないんだ。君に結婚を申し入れた時は、僕は君のことを愛していると思っていた。だけど……こうやって子供が産まれてみると、どうもそうじゃないような気がしてきたんだ。正直に言うと、子供を産んでくれる女性として君を愛したのかもしれないね……」
 夫はそれだけを言うと、葉子からの返事を待たずに病室を出て行った。
 結局はあの姑に育てられた人だった――葉子はそう思うと、いっそさばさばしたように感じた。今までになんとなく感じていた見えない壁のようなものの正体がはっきりしたように思えた。そして、葉子は壁を乗り越えようと決心した。自身と亭主との間を隔てている壁ではなく、笠井家という壁を。
 子供に情が移ると決心がぐらつくと思い、葉子はその日から母乳を与えることをやめた。しかし、姑も亭主もそんな葉子の行動を非難しなかった。それどころか、彼女が子供との関係を絶つことを歓迎してさえいるようだった。そうなれば、その子は葉子の影響を受けなくなる。純粋に笠井家の後継者としての教育を施せばよいのだ。
 「――身体の調子が戻ると同時に、私はその家を出ました。その時、多額の慰謝料をもらいました。だけどそれは慰謝料というよりも、私の子供を買い取る代金のように見えました。それ以来、私は赤ちゃんや小さな子供を見ても可愛いいと思えなくなったんです。結婚までは人一倍子供が好きで、近所の公園で見かける赤ちゃんを抱かせてもらったりしてたのに……」
 葉子の声が不意に途切れた。顔を伏せ、両肩が小刻みに震えていた。
 それでもしばらくそうした後、何事もなかったかのような顔を二人の方に向けた。百合子が小さく頷くと、葉子が説明を再開した。
「そして或る日、本屋で雑誌を立ち読みしてたんです。ファッション雑誌に混じって、風俗関係の雑誌が置いてありました。なにげなくその雑誌のページを開いた途端、私は強いショックを受けました。カラーページにうつってた写真が私の目にとびこんできたんです。私は最初、その写真の意味がわかりませんでした――だって、二十歳前後の女性が赤ちゃんみたいな格好をさせられてる写真なんて、どう見ても異常でしたから。でも、異常だと思いながらも、私の心はその写真に強く惹かれてしまったんです。
 恥ずかしさもなにもありませんでした。レジで代金を払うと、慌ててマンションに帰りました。震える手で袋を開け、そのページを開きました。今度はゆっくりと写真を見ました。そして、初めてその写真を見た時に感じた『魅力』の正体に気づいたんです。それは『可愛らしさ』でした。小さな子供を見ても感じなくなっていた可愛らしさを、その写真に感じたんです。
 それ以来、私は大きな赤ちゃんのとりこになったようです。自分が産みながら育てることができなかった赤ちゃんの代わりに、写真のような大きな赤ちゃんを手に入れたいと思うようになっていたんです。そんな時に、こちらの病院の噂を聞きました。笠井家からもらった慰謝料はまだ殆ど残っています。そのお金で私の依頼に応えていただけますね?」
 院長と百合子は快諾した。
 そして、百合子が葉子を『新生児室』へと案内した。
 その部屋で訓練を受けている大きな赤ん坊は今のところ、利絵だけだった。一週間前に、街中を徘徊していた少女暴走族のリーダーが、いい仕事があるから、という人身売買組織の甘い言葉に誘われて第二小児病院へ連れてこられた。それが利絵だった。いい仕事という言葉に嘘はない。ただ、それは利絵にとっていいのではなく、組織にとってのいい仕事だった。
 抵抗しようとする利絵は強引に麻酔をかけられて手術を施された。それから新生児室で訓練を受けているのだ。
 初めて新生児室で麻酔から醒め、自分の格好を見た利絵は随分と驚き、戸惑った。そして面会に訪れた百合子の顔を見た途端、手術で弱められた手足の力を振りしぼって暴れようとしたものだ――組織によって病院に連れてこられた時に彼女を受け取ったのが百合子だった。だから、自分が今味わっている屈辱が百合子によってもたらされたものだと利絵が思っても仕方がないことだった。だが、いくら暴れようとしても力は入らず、鎮静剤の注射をうたれてゆっくり目を閉じていった。
 その頃のことが嘘のように、葉子と百合子の目の前にいる利絵はおとなしかった。看護婦が濡れたオムツを取替えている間も、天井から吊られたメリーサークルの音楽に耳を澄まし、音楽に合わせて踊る人形の動きを目で追いかけている。
 オムツの交換を追えた看護婦が利絵のお尻を軽くぽんと叩くと、その目が百合子の方に向けられた。そして百合子の顔を認めると、よくなついている近所のお姉ちゃんと顔を会わせた赤ん坊のように、笑窪をつくって笑いかけてくるのだった。精神の赤ちゃん返りもほぼ完了しようとしている今の利絵にとって、百合子は成人だった自分を居心地の良い赤ん坊へと戻してくれた優しいお姉さんという存在だった。
 葉子は利絵を一目見て気に入ったようだった。暴走族のリーダーをしていた時(とはいっても、葉子はそんなことは全く知らないが)には髪を染め濃い化粧をしていたのが、赤ん坊になった今は元来の愛らしい顔つきを見せている。その姿は、葉子が夢に見ていた大きな赤ん坊のイメージにぴったりだった。
 早速手続きを終え、利絵は葉子に引き取られてきたのだった。

 葉子の案内で、百合子は利絵のためのベビールームに足を踏み入れた。室内を見渡した百合子の顔に、なんともいえない表情が浮かんだ――床にはヌイグルミや玩具が散らかっているし、部屋の隅に置いてあるベビータンスには何かがぶつかったのか、大きな傷が付いている。
「ひどいでしょ?」
 利絵を歩行器からおろし、その大きな体をベビーベッドに寝かせてから、ベッドの上の天井に吊ってあるメリーサークルのスイッチを入れた利絵が言った。
「……そうね。一体どうしたの?」
 かろやかな音楽が流れる中、小首をかしげて百合子が尋ねた。
「利絵がやったの……あの子ね、最近、何かにいらつくみたいに暴れることがあるのよ。普段はおとなしいのに、急に大声をあげて玩具を箪笥に投げつけたりするの。今はおとなしくしてるからいいんだけど、いつ暴れるかわからないのよ」
 話しながら、葉子がほっと小さな溜息をつく。
 葉子の話を聞きながら、百合子には思い当たることがあった。それを確認するために、葉子に質問する。
「ちょっと聞きたいんだけど……利絵ちゃんが最初に暴れ始めた時期と人見知りを始めた時期とは同じ頃じゃない?」
「そういえば……そうだったような気がするわ」
 目を伏せて何かを思い出し、葉子は小さな声で答えた。
「でも、それが何か?」
「そう。関係あるのよ」
 百合子はこっくりと頷いた。そして急に思いついたように言葉を続ける。
「利絵ちゃん、オムツは大丈夫かしら?」
「あら、そうだったわ」
 百合子の言葉で気づいたように、葉子が両の手をうった。
「三時間ほど前に取替えたままだったわ。見てみなくっちゃ」
 大きなベビーベッドの傍らに立った葉子はサークルを倒して、利絵のブルマーに手をかけた。丈の短いベビーワンピースとお揃いのピンクの水玉模様のブルマーを脱がせると、利絵のお尻を包んでいる大きなオムツカバーが現れた。ベビーピンクの表地にはアニメキャラクターのプリントが散りばめられ、裾ゴムの周囲にはレースの小さなフリルが付けられている。
 そのオムツカバーの中に右手を差し入れ、しばらくしてその手を引きながら、葉子は利絵に向かって優しい声をかけた。
「あらあ、たくさん出ちゃってまちゅねえ。待っててちょうだいね、すぐに取替えあげるから」
 その言葉を聞いた途端、利絵がイヤイヤをするように首を振った。それだけではなく、葉子がオムツカバーを開けられないように逃げようとする素振りも見せる。
「どうしたの、利絵ちゃん。ママを困らせないでちょうだい」
 じたばたと動く利絵の足をベッドに抑えつけ、耳許であやすように言い聞かせる。
「それに、濡れたオムツのままじゃ気持わるいでしょ」
 それでも利絵はおとなしくならなかった。それどころか、枕元に置いてあるガラガラを葉子に投げつけようとさえする始末だった。
 それを見た百合子は、葉子の腕を掴んでベッドから離れさせた。そして、暴れる利絵が落ちてしまわないように、ベッドの頑丈なサークルを立ててロックする。サークルの中でも利絵は暴れていたが、そのまましばらくすると大きな欠伸をしてやがて寝入ってしまった。
「落ち着いて私の話を聞いてちょうだい」
 利絵の態度にオロオロするばかりの葉子をドアの前に引っ張ってきた百合子は、彼女の肩を押さえて床に座らせて低い声で言った。
 しばらくすると、我を見失っていた葉子も、百合子の言葉に次第に落ち着きを取り戻してくる。
「利絵ちゃんみたいな状態になった子のことは、これまでにも幾つかの例があったの。その例からわかったことを今から説明してあげるわ」
 百合子は葉子の目を真正面から見て説明を始めた。
「利絵ちゃんが人見知りするようになった、って言ってたわね。だけど、それは人見知りじゃないの……さっき急に暴れ始めたでしょ、あれと同じことなのよ。暴れるか、それとも人見知りしているような態度を見せるか、それはどちらも同じことを表現してるのよ。ただ、時と場合によって、どちらかの行動が現れるかだけの違いなの。
 思い出してみて――利絵ちゃんが暴れたり人見知りしたりするのは、どんな時だった?
 それはね、誰かが利絵ちゃんを赤ちゃん扱いした時だった筈よ。私はこのマンションに着いた時、歩行器に乗っている利絵ちゃんの頭を撫ぜてあげようかと思って近づいた。その途端に人見知りするようにあなたの背中に隠れちゃったわね。さっき急に暴れ出した時は、あなたがオムツを取替えようとしたからなのよ――オムツを取替えられる行為は、赤ちゃんであることを最も意識させるものだものね。普段はそれもいやがらないかもしれないけど、今日は私という他人がいたから余計に反応したんでしょうね。
 どう? これまで利絵ちゃんが暴れ出した時はどうだったか、思い出した?」
 百合子の言葉に、葉子は小さく頷いた。それを見た百合子は更に言葉を続けた。
「利絵ちゃんの心がね、赤ちゃん返りから醒め始めてるの。第二小児病院で施された精神への処置が徐々に破れ始めてるんだわ。これまで心の奥深くに閉じ込められていた大人の意識が目覚めてきて、赤ちゃんのように扱われることを拒絶しようとしてるのよ」
「……じゃ、利絵はどうなるの? そのまま大人に戻って、私から離れちゃうの?」
 百合子の言葉の意味するところを考えていた葉子が、独り言のようにぽつりと尋ねた。
「このまま放っておけば、ね。でも、大丈夫よ」
 百合子が葉子の両肩に自分の手を置くと、ぽんぽんと叩くような仕草をしてみせた。そして、バッグから携帯電話を取り出してボタンを押し始める。しばらくすると目指す相手につながったのか、電話に向かって落ち着いた声で話し始めた。
 そのまま十分ほども話しこんでいただろうか。携帯電話をバッグに戻した百合子は葉子に向かってウインクしてみせてから口を開いた。
「うちの病院のT先生――ほら、利絵ちゃんの処置の時の執刀医の先生よ――に相談してみたんだけど、すぐにでも病室を確保しておいてくれるらしいわ」
「利絵を入院させるんですか?」葉子の表情はひどく不安げなものになった。
 「そうよ……心配ないってば。精神療法と向精神薬の併用で、十日もあれば利絵ちゃんの心をまた赤ちゃんのように戻してみせるって保証してくれたわ。それに、これまでの例でも治療に失敗した例はないのよ。母親のあなたが落ちこんでどうするの、しっかりしなさい」
 百合子の言葉が、砂にしみこむ水のように、葉子の心に広がっていった。その言葉が葉子の心の不安をきれいに流し去ってしまったようだ。それまでとは違った、凛とした顔を百合子に向けた葉子が力強く言った。
「そうね。利絵の心を治療するためにも、私が頑張らなくちゃね。明日にでも病院に連れて行くわ。その時はまたよろしくね」
「それでいいのよ。ところで、少し相談したいことがあるんだけど……」
 百合子の声が少し硬くなった。




「よかったわ。ところで、少し相談したいことがあるんだけど……」
 百合子の声が少し硬くなった。
 百合子のそれまでの穏やかな口調とは違う雰囲気を感じ、岩田夏代は座布団の上に改めて座り直した。
「何かしら。なにか事件でも起こったの?」
 夏代は百合子の顔を睨みつけるようにして尋ねた。
「事件っていうほどのことじゃないんだけど……あのね、変なことをきくようだけど、夏代さんが亡くなったりしたら、有理ちゃんはどうなるの?」
「どう、って?」
「実は一ケ月前のことなんだけどね、うちの病院でお世話した赤ちゃんの引取先――自分で事業をしている独身の女性なんだけどね――が急に亡くなったの。いざ亡くなると、それまで音信不通だった親類がどこからともなく現れてきたわ。遺産のおこぼれにあずかろうとしたんでしょうね」
 百合子は深い溜息をついた。
「でね、自分が死ぬなんて思いもしなかったらしくて、その女性は遺言状も全く書いてなかったのよ。そうなると、病院から引き取られていった赤ちゃんは悲惨なものよ。元々の身上がわからないから正式な養子縁組みはしていないでしょ、身上がわかったとしても本来の家族が取り戻そうとするから、どうせ無理なんだろうけど。
 それで、赤ちゃんの居場所はどこにもなくなっちゃったのよ。まあ、その女性が残していた書類から病院のことがわかったらしくて、親類から連絡が入ったために病院で引き取って面倒をみてるんだけど、うちの職員が引取に行くまでは、相当ひどい扱いを受けてたみたいね。だって、職員が到着した時には、濡れたオムツを取替えてももらえず、それどころか飲物も殆どもらえなかったようでぐったりしてたそうだもの。
 仕方ないっていえば仕方ないわね。どこの誰ともしれない若い女性がいすわってるんだもの。しかも、それが赤ちゃんみたいな格好と仕草をするんだもの、普通の人がどう扱えばいいのか、わかる筈がないわ。でも……」
「……そういうことなのね、さっき私にした質問の意味は」
 夏代は隣室で昼寝している大きな娘・有理の姿を思いながら顔を下げ、親指の爪を噛んだ。
「そういうことなの。ああ、でも質問には答えなくってもいいわ。実はね、その解答になるかもしれないちょっとしたアイディアを持ってきたの。そして、それについて相談したくって、うちの病院から大きな赤ちゃんを引き取ってくれた人たちのところを訪問に廻ってるのよ」
「そうなの?……正直言うとね、内田さんから訪問の連絡をもらった時には、何かがあったのかと思ってちょっと不安だったのよ――例えば、有理を返さなきゃいけなくなったとか」
 夏代はそれまで爪を噛んでいた指を口から離し、それでも話の展開が完全には見えてこない状況に少し不安そうに言った。そして不安げな気持を吹き飛ばそうとするように、ニコッと笑ってみせてから言葉を続ける。
「話の途中でわるいんだけど、ちょっと有理の様子を見てくるわ。待っててね?」
 そう言うと夏代は立ち上がり、ドアから出て行った。すぐに隣のドアが開く気配があり、夏代はその部屋で何かの作業を始めたようだった。
 しばらくしてから、夏代が戻ってきた。
「有理ちゃん、どうだった? まだ目を醒ましてない?」
 戻ってきた夏代に向かって百合子が訊く。
「ええ、まだ。オムツは濡れてたんだけど、それでもぐっすり」
 クスクス笑いながら、夏代が答えた。
「そう。でも、私たちの話し声でおこしちゃったら可哀想ね……お天気もいいし、お庭に出ましょうか」

 夏代の住む邸宅は、高級住宅地として全国に知られている地域の一角に建っている。家と家との間隔はたっぷりとってあって、新興住宅地のように隣家との境が塀だけ、というような狭くるしさはない。
 玄関から出た二人の目に、初夏の日差しにきらめく芝生が映った。緑に輝く芝はよく手入れされ、庭のどこを見ても、枯れている部分はないようだった。
 それまで部屋にいたために、空からの光と、それを反射する芝とがとても眩しく感じられ、二人は目の上に手をかざした。けれどその眩しさは目を突くような刺激的なものではなく、目に入る全てのものの存在をくっきりと彩る輝きだった。太陽からの光を受けて生命あるものもないものも等しく存在を主張する、その逞しさが眩しく思えるのだった。
 やがて瞳孔が調節され、かざしていた手を静かにおろすと、二人はゆっくりと歩き始めた。しばらくそのまま、無言で歩んで行く。
 百合子がふと右手の方を見ると、やや奥まった場所でゆらゆらと風になびいている洗濯物が見えた。そこは渡り廊下の庇が大きく張り出している場所で、雨が降ってきてもひどくは濡れないだろう。しかもこの時刻なら、太陽からの光も庇に遮られずに洗濯物に優しく当たっている。有理が汚したのだろう、大きなロンパースやカバーオール、ヨダレかけ、水玉模様や雪花柄のオムツなどが、ゆったりと吹く風に揺れていた。
「話の続きなんだけど……」
 しばらく洗濯物を見ていた百合子が、その揺れ方に合わせるようなゆったりした口調で話を再開した。
「さっき言ったような、行先のなくなっちゃった大きな赤ちゃんのために、病院に保育所を併設しようかって院長と話し合ったの。さっきの子はとりあえず病室で面倒みてるんだけど、それだってそんなに多くは空部屋があるわけじゃないのよ。だから、そんな子がこれから増えてくるとしたら、専用の施設が必要になるだろう、ってことで意見が一致したわ」
 百合子の言葉に自分も賛同するように、夏代は静かに頷いた――確かにそうだ。有理は一九歳、そして私は三九歳。いずれは有理の面倒をみられなくなる日がやってくるのは間違いない。その時のために、そういう施設はぜひとも必要になる。
「施設が必要になる理由は、もう一つあるの……引取先に何かがおきたために赤ちゃんの世話ができなくなるっていうことの他に、引取先が世話を放棄するっていう可能性もあるのよ」
 百合子は、夏代の頷く姿を見てから言葉を続けた。
「ひどい話なんだけどね、可愛いいと思って引き取った赤ちゃんだって、そのうちには年をとってゆくわ。二十歳前後なら、まだまだ可愛らしさは充分よ。だけど、四十歳くらいになったらどうかしら? そうなっちゃえば、いくらオムツをあててたって、いくら可愛らしいベビー服を着てたって、赤ちゃんらしさが弱くなっちゃうのもしかたないわよ。その時に、赤ちゃんを手放す親が現れるかもしれないの。それでも赤ちゃんにすれば、どうしようもないわ。いまさら大人に戻るには、赤ちゃんとして生活してきた時間が長過ぎるもの。そんな子たちも、新しく併設する保育所で生活させたいの」
 百合子は立ち止まって、夏代の目を覗きこむようにした。それは心の中まで見透かそうとでもするような、強くまっすぐな視線だった。
「内田さんの言いたいことはわかったわ」
 夏代も百合子に負けず、強い意志をこめた視線を送り返した。
「で、私は何を協力すればいいの?」
「ありがとう。それじゃ……」
 二人は庭に立ったままで相談を始めた。
 自分たちが必要としたために強引に赤ん坊へと変身させられた人たちに、今後の生活を心配させるわけにはゆかない。悩みや心配というものほど、赤ん坊にふさわしくないものはないのだ。子供たちの目は常に希望を見続けなければいけないのだから。
 相談を続ける二人を太陽が照らし続けていた。陽炎の中の二人の影はゆらゆらと揺れながら、その目は揃って同じ方に向けられていた。
 相談を終えた二人がふと見上げた青空に、一条の飛行機雲が浮かんでいた。限りなく広がる大空に、白い飛行機雲はどこまでもまっすぐに伸び続けていた。


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