研修 〜第二小児病院シリーズ6〜


 暦の上では秋だというのに、時おり吹く風はまだまだ夏の名残をとどめるような熱気を含んでいた。それでも最上階に在る応接コーナーの中はよくエアコンディショニングされていて、ここから外を見る限りでは、高く青い空が秋の始まりを告げているように思えるばかりだった。
 窓際に立った内田百合子は、建物の南側に広がる広大な庭の一角に目をやった。
 庭の西はずれにあるその一角では、残暑を吹き飛ばすかのように精力的な建築工事が進んでいた。離れているためによくは見えないが、何台もの建設機械に囲まれた作業員が熱い汗を流していることだろう。そして、流れた汗に応えるように、そこには八割方もできあがった建物が姿を見せていた。
 百合子がいる病院棟が白を基調にした色あいの角張った建物であるのに対して、できあがりつつある建物は柔らかな曲線で構成されていた。全体的には丸っこいフォルムを持ち、非常階段や玄関に突出している庇などの部分も、その機能を失わないように注意しながら曲線や曲面で覆われている。それに、百合子が見たことのある完成模型の通りだとすれば、外壁にはイエローやピンクなどの暖色系の塗装が施される筈だ――その模型を初めて見た時、百合子はディズニーのアニメ映画に出てくるお城を思い浮かべたものだった。
 その建物がそのようなフォルムと色彩を持つのには、一つの理由があった。
 病院棟には合理性と清潔感が必要であるために角張った形と白系統の色が良く似合う。それに対して、百合子が眺めている建物は赤ん坊を生活させるための施設だった。そのような建物には、生活する子供たちや訪問する者を暖かく包みこむような雰囲気が必要になる。街中に在る保育所や幼稚園でも、ディズニーのお城を想像させるような建物は少なくないものだ。
 『第二小児病院付属保育寮』と呼ばれることになるこの施設を完成させるために、百合子は日本中を駈けまわってきた。
 第二小児病院は、二十歳前後の若者の身体と精神に少しばかりの処置を施して、赤ん坊のような仕草しかできないようにしてしまう病院である。そうやって誕生した大きな赤ん坊は、日本全国から寄せられる依頼に応えて、その依頼主の家庭に引き取られて行く。赤ん坊を欲しがりながらも小さな赤ん坊を育てることへの不安を持っている人や、少々変わった母性本能を持つ人たちに対して、成人の身体を持つ大きな赤ん坊を斡旋するのが、この病院の事業内容だった。しかし或る日、事件が起きた。大きな赤ん坊を引き取った一人の女性が急死したのだ。大きな赤ん坊と新しい親とが養子縁組みをしているわけもなかった。そのため、その赤ん坊は遺産相続人にもなれず居場所がなくなって、この病院に戻されることになったのだ。
 今後そういった事件が続くかもしれないと考えた院長と院長秘書である百合子とが相談し、心ならずも病院に戻ってくる赤ん坊の面倒をみるための施設を造ることにした。その決定を受けて、病院から赤ん坊を引き取っていった人たちのところを訪問し、施設建造に協力を請うために百合子は日本中を巡ったのだった。
 その成果は目覚ましいものだった。資金の協力を申し出た人もいたし、職員などの人間をなんとか手配しようと約束してくる人もいた。そして、そんな人たちのおかげで、保育寮は完成を間近に控えることになったのだった。

 ドアがノックされた。
 どうぞ、とドアに向かって声をかけながら、百合子は窓際を離れてソファの方へ足を踏みだした。
 百合子の声に応えるようにドアが外側に開くと、そこには一人の若い女性が立っていた。女性は百合子の姿をみとめると両手を体の横に伸ばして頭を下げた。
「沢井志帆です。よろしくお願いします」
 しばらくして再び頭を上げた女性が、百合子の顔を正面から見ながら言った。
「院長秘書の内田です。どうぞ、ソファにおかけ下さい」
 百合子が、志帆と名乗った女性を室内に招き入れた。
 保育寮の建設はもうすぐ終了する。
 それに対して、完成する寮で働く職員はまだ定数に達していなかった。赤ん坊の引取先などからの援助を受けてそこそこの人数には達しているものの、それでもまだ不足気味であることは確かだった。
 そこで、百合子は職員を公募することにした。かなりの数の応募があり、その中から書類審査をパスした者が病院を訪れ、百合子の面接を受けることになる。
 ソファに座った志帆も、書類審査を通った者の一人だった。
 百合子は志帆の正面にあるソファに腰をおろし、机の上に用意されていたファイルを広げた。前もって目を通していた内容だが、本人に確認しながら大まかな項目を読み上げてゆく。
「沢井志帆さん――出身はT県で、二年前にT県立の看護学校を卒業してらっしゃるのね?」
「そうです」
「卒業後は病院勤務じゃなく、U重工の医務室に企業ナースとして勤務ですね。もしもよかったら、病院に勤務しなかった理由を教えていただける?」
「あ、はい……」
 志帆はしばらく考えた後で百合子の質問に答えた。
「県立の看護学校を出ましたから、県内の幾つかの病院に勤務しようと思えば難しくはなかったと思います。ただ、故郷にずっといるつもりはなかったんです。いずれは大きな街に出たいと思ってました。それでこちらに出てきたんですけど、いざとなると、こちらの病院にはコネもありません。そんな時にU重工の企業ナースの募集があったものですから……」
「そう、わかりました。で、もうひとつ尋ねてもいいかしら?」
「どうぞ」
「故郷にずっといるつもりはない、って言ったわね。どうしてだったの?」
「……それは、いろいろと。どうしても答えなきゃいけませんか?」
「……ごめんなさい、無遠慮な質問だったようね。気をわるくしないでね」
「あ、いいえ。こちらこそ」
「それじゃ、これは尋ねてもいいかな? うちの募集に応募してみようと考えた理由は何かしら?」
「はい。いざ勤めた医務室なんですけど、小人数なんで、どうしても人間関係が難しくなりがちだったんです。些細なことで同僚とぎくしゃくしたりして。それで辞表を出してしばらくうろうろしてたところに、こちらの募集が就職雑誌に載ってましたので」
「そう。だけど、その募集記事には、幼児相手の仕事だって書いてあった筈ね。企業ナースだと、そういう経験はないんじゃないかしら?」
 百合子は、やや意地の悪い質問を口にしてみた。
「確かに、前の会社ではそういう経験は積んでいません。だけど、看護学校の授業の中には幼児心理や幼児教育も含まれていました。それに、個人的には子供が好きですから大丈夫だと思います」
 志帆は百合子の言葉に反論してみせた。
「わかりました。そういうふうに自信を持って言ってもらえると、こちらとしても気持がいいわ」
 百合子はニコッと笑って志帆に言葉をかけた。その声は、さきほどまでの事務的な硬いものではなくなっている。
「当方としては沢井さんを採用したいと思います」
「本当ですか?」
 志帆の顔も明るく輝いた。
「冗談なんて言わないわよ」
 百合子が笑顔のままで答える。
「だけど、沢井さんの意志はどうなの?」
「面接試験にまで来てるんです。ぜひともお願いします」
いまさら何を言ってるんだと少々呆れながら、志帆は声を大きくした。
「わかりました。でも、うちでの仕事内容については詳しくは知らない筈よね?」
 就職雑誌に職員募集の記事を掲載させた時、給与や勤務時間などの条件は書いたものの、勤務内容については明らかにしていない。ただ、病院付属の寮で子供の世話をする、というような大ざっぱな内容を掲載しただけだった。本当の勤務内容を書けば、なるべく目立たないように運営してきた病院の存在が、多くの人の目にさらされることになるからだ。
 だから、実際に面接に来た者にだけその勤務内容を現場で説明するという方針を百合子は立てていた。本当の勤務内容を教えられた受験生が、そのまま就職の意志を持ち続けるかどうかは本人次第なのだ。
「これから病院内を案内するわ。この病院に入ってる子供たちを見てから、就職の意志があるかどうかを結論しても遅くはないわ」
 ファイルの一部に何かを書きこみ、その表紙を閉じた百合子が言った。
「さあ、行きましょうか」

 志帆がエレベーターに乗りこむと、先に乗っていた百合子が のボタンを押した。
 軽い加速を感じながらしばらくすると、それまで下降を続けていたエレベーターがゆっくりと止まる。
 静かに開いた扉から出た二人は、小さな足音を立てながら廊下を歩き始めた。百合子から少しばかり遅れて歩く志帆の目に、幾つかのドアが映っては消えていった。
 やがて百合子が一枚のドアの前で立ち止まると、静かにノブを回した。『河上美沙』と書かれたプレートが掛かったドアを外側に開け、志帆を先に部屋に入れてから、百合子も足を踏み入れる。
 志帆の目に映った室内は病室というよりも、まるで普通の家庭の子供部屋のようだった。よそよそしさや潔癖さを強く感じさせ過ぎるような造作ではなく、暖かさや楽しい雰囲気を感じさせるような内装になっているのだ。
 壁の所々に描かれたイラストや天井に吊ってあるメリーサークル、淡いピンクに塗られたベビータンスといったものが、ここを病室の堅苦しさから遠ざけていることを百合子は感じた。
「いらっしゃい」
 二人の気配を感じたのだろうか、花柄のエプロンを着けた若い女性が部屋の奥から現れた。
 女性と目を会わせた志帆は、私よりも年齢は少し上かな?と考えながら軽く会釈した。顔を上げると、その女性が何かの布地を手に持っているのが見えた。赤ちゃんの衣類を整理してたのね、と志帆は考えた――じゃ、この人が入院中の赤ちゃんのお母さんなんだろうか。
「例の職員募集の面接に来られた方なの。院内を見学してもらってるんだけど、かまわないかしら?」
 百合子が女性に声をかけた。
「結構ですよ。どうぞ、ゆっくりご覧になって下さいな」
 百合子の言葉に、女性がニコッと微笑んで応えた。それから志帆の方に視線を移して言葉を続ける。
「神埼といいます。ここの看護婦なの。よろしくね」
「沢井志帆です、よろしく」
 改めて名乗ってから、少し何かを考えるような仕草を見せて志帆が言った。
「……看護婦さんなんですか? 私はてっきり赤ちゃんのお母さんだと思ってました」
「……ああ、この格好のことね」
 神埼と名乗った看護婦が、志帆の言葉の意味を理解したように明るく言った。
「この服装じゃ、看護婦には見えないでしょうね。だけど、この病院じゃ、みんなこうなのよ」
「神埼さんの言う通りなのよ」
 看護婦の言葉を百合子が引き取って、志帆に説明を始めた。
「病院なんて所は、だだでさえ消毒液の臭いや堅苦しい雰囲気があって、喜んで行く気にはならないでしょ? 大人だってそうなのに、子供たちは尚更だわ。だから、そういった雰囲気を少しでも和らげるために、看護婦さんたちは普通の家庭のお母さんって感じの服装をすることになってるの。部屋のつくりもそういう内装になってるでしょ」
 百合子の説明に志帆は納得した。そして、なるほどね、と答えようとしたが、その言葉は口からは出なかった。言葉を口から出そうとした時に、妙なことに気づいたからだ――百合子が説明をしている間に、看護婦は手にしていた布地をたたみ終えていた。動物柄のその柔らかそうな布は輪型に縫われていて、それがオムツだということは志帆にはすぐにわかった。ただ、そのサイズが妙に大きいように思えたのだ。
 思わず、志帆は看護婦の手元を凝視してしまった。
 その視線に気づいたのか、看護婦は意味ありげに小さく笑うと、たたみ終えたばかりのオムツを志帆の方に差し出した。
 志帆は、受け取ったオムツを広げてみた。思った通り、そのオムツは普通のサイズではなかった。看護学校時代に手にしたことのあるものと比べると、二回りほども大きいように思える。
「そろそろ、美沙ちゃんのオムツが濡れてる頃かしらね。沢井さん、そのオムツを持って私についてきてくれる?」
 手にしたオムツのサイズに呆気にとられたような表情を浮かべている志帆に、看護婦が優しげな声をかけた。
「……あ、はい」
 我に返った志帆が、慌てて看護婦の後をついて行く。
 入口付近から部屋の中央に在るベビーベッドの所まで歩きながら、志帆はきょろきょろと視線を動かしてみた。窓を通して見えるベランダには水玉模様や動物柄のオムツがたくさん干してあったが、それらはどれも志帆が持っているオムツのように、大きなサイズに縫製されたもののようだった。そういえば、オムツと一緒に干してあるロンパースやベビードレスといった衣料も普通のサイズではないように思える。そして、自分がそれに向かって歩いているベビーベッドも異様に大きく造られていることに志帆は気がついた――その長さは二メートル近くもあるのではないだろうか。
 なんのためにこんなに大きなベビー用品が必要なんだろう?という志帆の疑問は、大きなベビーベッドの上で眠っている赤ん坊の姿を見た瞬間に氷解した。
 ベッドの上で安らかな寝息をたてているのは女の赤ん坊だった。
 レースの縁取りと小花の刺繍が施された純白のベビー帽子が頭をすっぽりと包んでいる。首から胸にかけては、帽子とお揃いの生地でできたよだれかけが覆い、その下には、ピンクの生地のベビーワンピースが着せられていた。よく調整されたエアコンのおかげで室内は快適で、お腹の上にはタオルケットが一枚かけられているだけなのでワンピースの裾からはブルマーに包まれたお尻が見えている。そのブルマーの上からは、もこもこと膨らんだヒップラインがよくわかり、ブルマーの下にはオムツとオムツカバーがあてられていることが想像できた。
 その姿は、育児雑誌の写真コーナーに投稿したくなるような可愛らしいものだった。ただ、ひどく不自然なことが一つだけあった。その赤ん坊の体格がべらぼうに大きいのだ。身長は一六〇センチもあるのではないかと思える。そしてその赤ちゃんの異常な体格が、疑問に感じていたような大きなベビー用品が要る理由だったのか、と志帆は妙に感心しながら納得したのだった。
 納得したが、しかし、次の瞬間には新たな疑問が生まれていた。
 志帆は先ず、「この赤ちゃんはどうしてこんなに大きいんだろう?」と思った。そして、もういちど赤ん坊をしげしげと見回してみた。そうしているうちに、不自然なのは体格だけではないことに気づいた――ただ単に赤ん坊の体格を拡大した、というようなものではなかったのだ。ヨダレかけが窮屈そうに見えるほどに発達した胸や、ベビー帽子からこぼれている長い髪などは、どうみても赤ん坊のものではなかった。「この子は本当に赤ん坊なんだろうか?」志帆の疑問は、そんなふうに変化していった。
 しかし、そんな志帆の疑問に構うふうもなく、看護婦は慣れた手つきで大きな赤ん坊のブルマーを脱がせ始めていた。赤ん坊(ドアにかかっていた名札によれば、美沙という名前なのだろう)の眠りを破らないように優しく、それでいて手早くブルマーが脱がされると、その中に隠れていたオムツカバーが志帆の目に映る。
 ピンクのキルティングでできた表地には大きな小熊のアップリケが付けられていて、裾ゴムの一部からオムツが少しはみ出しているのが見えた。
 看護婦はおむつカバーの前当てを開かずに、裾の方から静かに右手をカバーの中に差し入れた。カバーの中の感触を確かめると、小さく頷いてから、差し入れていた手を抜いてゆく。
「思った通りだったわ。美沙ちゃんのオムツはぐっしょり濡れちゃってるみたい」
 看護婦は、志帆に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「じゃ、沢井さん、この子のおむつを取替えてみてくれる?」
「……え、私が、ですか」
 志帆は、看護婦の顔と手に持っているオムツとを交互に見比べながら、戸惑ったような声を出した。
「そうよ。あなたがこれから面倒をみるようになる子供たちは、この美沙ちゃんみたいな子ばかりなのよ」
 いつのまにか志帆の背後に立っていた百合子が言った。その声はいたって真面目なもので、志帆が立ち会っている状況が冗談でも悪戯でもないことを物語っている。
 百合子の言葉を聞いた志帆は、しばらく迷っていたようだが、やがて、小さいながらも力強い頷きを見せた。

 病室から出た百合子と志帆は、三階の『分娩室』の前に設けられている待合室のソファに向い合って座っていた。その場で、百合子が志帆に対して、第二小児病院の事業内容や保育寮を建造することになった経緯を説明したのだ。
 「――ということなの。だから、あなたが相手にするのは本当の子供じゃないの。どう、勤まりそう?」
 説明を終えた百合子が、志帆の意志を再確認した。
「お世話になります」ためらうそぶりもみせずに、志帆はすぐに応えた。
「そりゃ、初めて美沙ちゃんを見た時には驚きました。でも、驚きと同時に、なんて可愛らしいんだろう、とも思ったんです。これまで大きな赤ちゃんの存在なんて想像してみたこともなかったのに、一目見た瞬間に気に入っちゃったんです。これからも、そんな子供たちの面倒をみたいと思います」
「そう、ありがとう。特に美沙ちゃんのことは最初に見せておきたかったの。あの子がね、引取手の急死で病院に連れ戻された子なのよ。保育寮が完成すれば、すぐにでも病室から寮に移されることになってるの。つまり、寮の職員にとっては、最初の入寮児ってことになるわ。よろしくね」
「はい、頑張ります」
 志帆は力強く応えた。しかしすぐに、やや力の抜けたような声に変わって言った。
「あの、ちょっと尋ねたいことがあるんですけど……」
「どうぞ、何かしら?」
「私はここで働く気になったからいいんですけど……面接に来ておいて、院内を見学した後で、やっぱりやめる、って人はどうなるんですか?」
「どう、って?」
「ええと……この病院は合法的なものじゃありませんよね。そうすると、ここの秘密を知った上で就職を断わったりしたら、無事に帰ることができないんじゃないか、と……」
 志帆は言いにくそうに、少し口ごもりながら言った。
「ああ、そういうこと?」百合子が志帆の言いたいことを理解し、説明を始める。
「それは大丈夫よ。思い出してみて――あなたから応募書類を送ってもらってから、書類審査の結果を返送するまでにかなりの時間がかかってたでしょ?」
「そうですね。私が書類を送ってから返事をいただくまでに二週間くらい待ったかしら。もうダメかな、なんて思いました」
「その間にね、うちと関係のある組織が応募者を徹底的に調査してたのよ。過去から現在の経歴や家族との連絡密度、趣味や癖なんかも徹底的に。そうやって調べて、この人なら就職してくれそうだって人だけを書類審査にパスさせたの。だから、断わる人は滅多にいないわ」
「でも、『滅多に』ってことは、断わった人もいるんですね?」
 志帆は、百合子の言葉を聞き逃さなかった。「その人はどうなっちゃったんですか? まさか……」
「よしてよ。いくらうちが非合法の組織でも、殺人まではやらないわよ」
 志帆の顔つきを面白そうに眺め、百合子が笑いながら言った。
「じゃ、断わった人がどうなったか、見せてあげるわ」

 百合子に従った志帆が辿り着いたのは『新生児室』だった。
 百合子が、美沙の病室でしたのと同じ説明を室内の看護婦たちにし、志帆も簡単な自己紹介をした。
 挨拶の後で看護婦の一人が案内してくれたベッドには、『斎藤奈保』の札がかかっていた。
 斎藤奈保の機嫌はよくないようで、看護婦がいくらあやしても、いっこうに笑顔を見せなかった。ガラガラを握らせてもすぐに放り出すし、メリーサークルのスイッチを入れても目を固く閉じてしまうのだ。しかも、百合子の顔を見ると、ぷいと顔を横に向けてしまう始末だった。
 「この子は難しいですねえ。この新生児室に入ってもう一週間にもなるのに、なかなかなついてくれませんわ」
 二人を案内してくれた看護婦がぽつりと言った。
「沢井さん、この奈保ちゃんがね、さっき話してた人なの」
 ベッドから離れながら、百合子が志帆の耳許で囁いた。思わず百合子の顔を見る志帆に、百合子はゆっくりと頷いた。そして、説明を続ける。
「一週間前にね、沢井さんのように面接に来てくれたの。だけど、ここに勤めることを拒否したのよ。さっきの質問に答えましょうか……病院の秘密を知った人をそのまま帰すわけにはいかない私たちは、奈保ちゃんをベビーに変身させちゃうことにしたの。薬を嗅がせてから分娩室に連れこんで、肉体にいくつかの処置を施したのよ――」
 肉体に処置を施された者は、その後、この新生児室で精神的な処置を施される。この部屋では対象者は本当の赤ん坊として扱われ、それと同時に、今の自分の置かれている状況を素直に受け入れるように向精神薬を服用させられるのだ。普通、そうした処置のおかげで、十日もしないうちに対象者の精神は赤ん坊のようになっゆくものだ。
 しかし、奈保にはその処置が効かないようだった。精神科医の診たてでは、赤ん坊のような行動しかできないように手術を施されたという百合子への恨みがすこぶる強く、精神的な赤ちゃん返りを妨げているらしかった。それに加えて、奈保はやや特異な体質を持っているらしく、向精神薬が効果を示さないようでもある。
「――これでいいわね? 就職を断わってたらどうなるか、わかったでしょう」
 新生児室から廊下に出、歩きながら百合子が説明を終えようとしていた。
「……わかりました。もしも断わっていたら、私も……」
「そういうことね」
 百合子が応えた。そして次の瞬間、、何かを思いついたように両の手を打つと、志帆の目を覗きこんで言った。
「あなたが奈保ちゃんをしつけてみない? 保育寮が完成するまでは新しい職員は病室や新生児室での研修を受けることになるんだけど、それを兼ねてやってみるといいわ」
「私が、ですか?」
 志帆は足を止めて問い返した。
「そうよ、それがいいわ。あの子をなつかせることができたら、今後どんな子が入寮してきてもうまくやれるわ。ちょっときついかもしれないけど、いい経験よ」




 病院から支給されたブラウスやエプロンを身に着けた志帆は、深呼吸を数度繰り返してから〈405号室〉のドアを開けた。
 部屋の中央よりも少し窓寄りの場所にベビーベッドが置かれ、その横には、新生児室で奈保の担当だった看護婦が立っていた。昨夜のうちに、奈保は新生児室からこの病室に移されて来たのだ。今日からは、ここが志帆と奈保との生活の場になる。
「さあ、新しいママが来たわ。仲良くするんですよ?」
 志帆の姿を見た看護婦が、幼児に対するように優しく奈保に言い聞かせた。しかし、奈保は何の反応も示さなかった。
「大変だろうけど頑張ってね」
 奈保の無表情な顔にニコリと微笑んでみせてから、ドアの前に立っている志帆の横に並んで看護婦が声をかけた。
「私ひとりで大丈夫でしょうか?」
「心配ないわよ。あなたが少々ヘマをしたくらいじゃ怪我もしないわよ。だって、こんなに大きい赤ちゃんなんだもの」
「でも……」
「大丈夫だって。何かあったら、すぐに連絡してちょうだい。いつでもとんで来るから」

 看護婦が出て行ってしまうと、志帆は何から手をつけるべきか考えこんでしまった。生まれてこのかた、赤ん坊の世話をしたのは、看護学校での実習でしかない。それが突然、こんなに大きな赤ん坊の面倒をみることになったのだ。しかも、この赤ん坊は体格が大きいだけではなく、精神状態も成人のままなのだ。そんな状況をあっさりとのみこんでしまえる人間は、そう多くはいないだろう。
 それでも、志帆が頭を抱えていたのは、ほんの二〜三分ほどだった。持前の楽天的な性分が頭をもたげ、どうにかなるわ、と開き直ってしまった。
「おはよう、奈保ちゃん。私が新しいママよ。よろしくね」
 まずは自己紹介からと思った志帆は、ベッドの上から自分の顔を奈保の目の前までおろして言った。顔には、ニコッとした笑顔を浮かべておく。
 反応はなかった。
「奈保ちゃんは赤ちゃんだからまだお喋べりできないのね。でも、嬉しそうな顔だけでも見せて欲しいわ」
 笑顔を崩さずに志帆が言う。
 反応はなかった。
「奈保ちゃん、笑ってみせて?」
 しつこく言う志帆の言葉に、奈保はとうとうダンマリを破った。しかしそれは、笑顔で応えるというような可愛らしい反応ではなかった。
「うるさいわね。少しくらい静かにできないの?」
 奈保は、目の前にある志帆の顔に向かってこう言ったのだ。体格こそ成人だが、その格好は可愛らしい赤ん坊である。その格好に似つかわしくない、それは鋭いトゲを含んだ口調だった。
 志帆は体を小さくビクンと震わせ、それまでの態勢のまま固まってしまったようだった。唇が半開きになり、目が点になる。
「奈保ちゃん、あなた、喋べれるの?」
 志帆は、意外そうな表情を浮かべて問い返した。初めて奈保を見た新生児室でも一言も喋べらなかったし、これまでも口を開くところを見たことがないため、てっきり薬の作用か何かで口がきけないのだとばかり思いこんでいたのだ。
「見ての通りよ。意外だったかしら?」
「……だって、だって……赤ちゃんが喋べっちゃおかしいわ」
「本当の赤ん坊なら、ね。でも、私は赤ん坊じゃないわ。れっきとした成人よ」
「ちがうわ……あなたは赤ちゃんよ」
 驚きがゆっくりと退き、なんとか平静を取り戻した志帆が腰を伸ばしながら言った。
「そうね。確かに、私は自由に動くことはできない……あの忌まわしい手術を施されたおかげでね。でも、心は成人のままよ。その心の内を表現するための口も、この通り自由に動くわ」
 奈保は、苦々しげに口を歪めてみせた。
 『分娩室』での手術は奈保から手足の筋力を奪い、膀胱の神経を麻痺させた。しかし、唇や舌の動きを阻害するような処置は施されていない。へたにそのような処置を施した場合、哺乳瓶のミルクを吸う力さえ奪ってしまう可能性があるからだ。そうなってしまえば大きなベビーの命を奪うことにもなりかねないため、その処置は見送られている。それに、大きな赤ん坊が自由に喋べるといっても、それは数日の間だけだ。その期間を過ぎてしまえば、新生児室での処置に応じて、本当の赤ん坊のように幼児語を話すようになってゆくのが常だった――これまでは、奈保以外は、そうだったのだ。


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