保健室にて

保健室にて


高木かおり



 トントンとドアをノックする音が、S女学院高校の保健室を担当している谷崎美代子の耳に届いた。
「はい、どうぞ」
 美代子は整理しかけていた書類の束を机の上に置くと、回転椅子ごとドアの方に振り返って声をかけた。
 微かに木の軋む音をたてて開いたドアから保健室に入ってきたのは、川田華奈という二年B組の生徒だった。
「せっかくのお昼休みに呼び出したりしてごめんなさいね。でも、あなたの担任の山田先生からちょっと気になることを聞いたものだから、それを確認しようと思って来てもらったの」
 美代子は壁際にあった木製の丸椅子を自分の正面に移動させ、華奈に勧めながら言った。華奈は少しためらった後、なんとなく渋々というような感じで椅子に腰をおろした。その時、美代子は華奈の下半身、特にヒップの辺りが妙に不自然なラインになっていることに気がついた。だが、美代子はそのことは口にせず、いつものおだやかな視線を華奈の顔に向けた。
 それに対して、華奈の方は少しばかり不審げな顔つきでぼそぼそと尋ねた。
「あの……気になることって何のことでしょうか?」
「実はね……」
 美代子は顎の下で両手を組み、しばらく華奈の顔を覗きこむようにしてから言った。
「昨日、ちょっと相談に乗って欲しいんですけどって山田先生が保健室にいらしたの。で、その相談の内容っていうのが『私のクラスの川田っていう生徒なんですけど、どうもこのごろ、落ち着きがないんです。ホームルームでも私の話を聞いていないようだし、他の先生からも、授業中にボーッとしていることが多いって言われるんです。これまではそんなこと、ちっともなかったものだから心配で……谷崎先生とは親しいようだし、ちょっと事情を聞いてやっていただけないでしょうか?』っていうようなことだったのよ」
 華奈は入学当初から成績も良く、素直な性格で、どの教師からも気に入られていた。
しかし全体的に線が細いというのか、すぐに体調を崩したり精神的に不安定になることがあり、その度に保健室を訪れては美代子の世話になることが多かった。そのためにいつしか華奈はプライベートなことも美代子に話すようになり、なにかといえば相談に乗ってもらうような間柄になっていた。華奈の担任である山田は二人のそういった親密さを知っていて、このごろちょっと様子のおかしい華奈に何かアドバイスをしてもらうつもりで美代子に相談をもちかけたのだろう。そして美代子は、山田の話しを聞いた途端に或る予感を覚え、早速華奈を呼び出して事情を聴くことにしたのだった。
「そうですか。やはり山田先生も気になさってらしたんですね……」
 華奈は軽く両目を閉じ、小さな溜息をもらして言った。
「で、どうしちゃったの?山田先生の話じゃ、体育の授業も見学ばかりだそうじゃない――どこか具合が悪いのかしら?」
「いえ、熱があるとか体がだるいとかいうことはないんです。ただ……」
「ただ?」
 美代子は少しばかり首を左にかしげ、華奈の顔を下から見上げるようにして訊いた。
 華奈は美代子の視線に耐えられなくなったように顔を伏せ、膝の上に置いた掌をギュッと握りしめた。いつしか肩が小刻みに震え出している。
 美代子は何も言わずに待った。
 やがて、握りしめた華奈のこぶしの上に、一粒の雫が滴り落ちた。続いてもう一粒、更に一粒……。それは華奈の流した涙だった。何かに耐えるように歯をくいしばっていた華奈も、一度涙がこぼれ落ちてしまえばもうダメだった。遂にこらえきれなくなった華奈は両手で顔を覆い、目の前にいる美代子のことも忘れてしまったように、まるで子供のように泣きじゃくり始めた。
 美代子は椅子から立ち上がり、華奈の後頭部を右手の掌で包みこむと、そっと自分の胸の方へ抱き寄せた。そして華奈の耳元に形の良い唇を近づけて、わざと明るい声で囁きかけた。
「いったいどうしたの?黙ってちゃわらかないわ。みんな私に話してごらんなさい――何があったのか知らないけど、一緒に解決方法を考えてあげるから」
「……」
 華奈は微かに頷いたようだった。だが、口は固く閉ざしたままだ。
「ね、川田さん――きっと私が力になってあげるから。何があったの?」
 美代子は、今度は両方の掌で華奈の頬を包みこみ、じっと目を覗きこむようにして尋ねた。
「……あの……」
 やっと華奈は口を開いた。不意に昂ぶった感情のために流れ出した涙も、いつもと変わらぬ美代子の優しい仕種に触れて止まったようだ。が、何から話せばいいのか迷っているようで、言葉が途切れてしまう。
「大丈夫。あせらなくていいから、ゆっくり考えて話すのよ」
 美代子は華奈に優しく微笑みかけ、頬に残る涙の跡を自分のハンカチで拭いてやりながら言った。
 しばらくして、華奈は再び口を開いた。そして、微かに震える声で、自分の体の上に起った異変についてぽつりぽつりと説明を始めた――。




 華奈の体に異変が起きたのは、三週間前の土曜日のことだった。その日、数日前に行われた実力テストの結果が手渡されたのだが、その一覧表には自分でも信じ難いほどひどい数字ばかりが記入されていた。これまで小学校、中学校、そしてこのS女学院高校でも優等生として過ごしてきた華奈にとって、目の前に並んだ数字は初めて見るような悲惨なものばかりだった。
 土曜日ということで昼過ぎには学校を出てすぐに家に帰った華奈だったが、昼食を食べる気にもなれず、さっさと自分の部屋に駈けこむと、バタンとドアを閉めて鍵をかけてしまった。普段なら華奈がそんな行動を取れば、教育ママの気のある母親に何かと詮索されるところだが、その母親が前日の夕方から気の合う友人と旅行に出かけていて、あれこれと問い詰められることを免れたのがせめてもの救いだった。中学二年生の妹もクラブ活動に忙しく、夕方まで帰ってこないだろう。それに、働き蜂の父親はせっかくの週休二日制というのにわざわざ自分から志願して休日出勤で仕事に精を出している。もっとも華奈から見れば、父親は仕事が好きというよりも、家庭内の細々したことに煩わされるのが嫌で仕事に逃げこんでいるように思えたのだが。
 ともあれ、ただでさえ落ちこんでいる時に家族の誰とも顔を会わさずにすんだのは幸いだった。
 華奈はカバンから取り出した成績表をもう一度眺めた。しかし、そうしたからといって結果が変わるものでもない。華奈は大きな溜息をつくと、成績表を机の引出の奥深くにしまいこみ、全く精気を感じさせない、放心したような顔でベッドに体を投げ出した。
 もうこのまま成績は下がるばかりなのかしら?もうすぐ三年生になるっていうこの大事な時期になって……。華奈はいつしか、疲れ果てたように急速に眠りにおちていった。


 不意に華奈は目を醒ました。
 自分がどれくらいの時間眠っていたのかはわからない。なんとも表現しようのない妙な感触が下腹部から伝わってきて眠りを破られたのだ。なにか湿っぽいような、生温かい感触だった。まだハッキリしない意識の中で、華奈はボンヤリ考えた――やだ、始まっちゃったのかしら?でも、変ねえ。つい先日終わったばかりなのに……そうよ。
だいたい、実力テストの成績が悪かったのも普段よりひどい生理痛のせいもあったんだから。
 実力テストという言葉が頭に浮かんだ瞬間、華奈の意識は現実に引き戻された。同時に、自分の下腹部に感じる感触が生理によるものではないことにも気がつく。もっと広範囲に濡れているし、なんというか水のようにサラリとした感触だ。
 華奈は慌てて毛布を跳ね上げると、おそるおそる下半身に視線を向けた。
 華奈の表情が凍りついたようにこわばった。一目見ただけで、状況は明らかだった。だが、華奈の心はそのことを素直に信じようとはしない――まさか、そんな。私は小さな子供じゃないのよ。それなのに……。
 それでも、華奈の目に映ったのはまぎれもない現実だった。華奈のお尻がある辺りを中心に大きな滲みになっているシーツと、その上に、ぐっしょり濡れて重そうに広がっている制服のスカート。その中に穿いているショーツがびしょびしょに濡れて、気味悪く下腹部の肌に貼り付いている感触がおぞましく伝わってくる――まさか、この年齢になってオネショだなんて。いったいどうしてこんなことになっちゃったのかしら?……ううん、今はそんなこと考えてる場合じゃないわ。とにかく、誰かにみつかる前になんとかしなきゃいけないんだから。
 華奈は体をブルッと震わせ、上半身を起して、助けを求めるような視線を部屋中にさ迷わせた。その目に、机の上に載っているディジタル時計の数字がボンヤリ映った。
午後四時――妹が帰ってくるまで、まだ二時間近くあるわね。パパが帰ってくるのもそれくらいかしら。ママが旅行から帰ってくるのは明日だから……片付けちゃうなら今しかないわ。
 華奈は、オネショで濡れたスカートが他の物に触れないよう気をつかいながら、ゆっくり床におり立った。幸いと言うにはあまりに惨めなことだったが、スカートからもショーツからも尿の雫は滴ってはこず、カーペットに恥ずかしい滲みを作ることだけは避けられた。華奈はそのまま静かに部屋を横切り、壁際に据えてある整理タンスの前に立つと、腰を不自然にかがめるような姿勢で最下段の引出を開けて、その中にしまってある大振りのスポーツタオルを取り出した。
 スポーツタオルを床の上に広げた華奈は、その上に立ってから、微かに震える指先でスカートのファスナーをそっと引き下げた。スカートのウエスト部分を押えていた左手を離すと、華奈の尿をたっぷり吸いこんで重くなっているスカートは、ドサッというような音をたててスポーツタオルの上に落ちて行った。華奈はしばらく、ついさっきまで身に着けていたスカートをなにか不思議な物を見るような目つきで見つめていたが、やがて小さな溜息をついてから、今度は、純白の生地に大きな滲みが広がってしまっているショーツに手をかけた。ゴムを両手で引き伸ばすようにしながらずり下げるのだが、オシッコでぐっしょり濡れたショーツは華奈の肌に貼り付いてしまい、簡単にはおりて行かない。華奈は下唇を噛みしめ、半ば泣き出しそうな顔つきで、ショーツをくるくると丸めるようにしながらムリヤリ肌から剥がし、やっとの思いでスポーツタオルの上に脱ぎすてた。
 その後、これも最下段の引出から取り出した厚手のタオルで丁寧に下腹部を拭ってやっと人心地ついたのか、微かながらホッとしたような表情を浮かべた華奈は、すぐ上の引出から新しいショーツをつまみ上げた。そして、更に上の引出からジーンズを取り出す。
 ブラウスも厚手のトレーナーに着替えた華奈は、ちょっと考えてから、机の横に掛っている袋に手を入れて、白いビニール袋を取り出した。ゴミを捨てたりちょっとした物を入れておくのに便利だからと、時おり行くスーパーやコンビニのビニール袋を、いつでも使えるようにまとめて机の横にぶらさげていたものだ。華奈はスポーツタオルの上に無造作に広がっているスカートとショーツ、そしてベッドの蒲団から外したシーツを、少しばかり顔を赤らめながらビニール袋に詰めこむと、更にそれを大きな紙袋に入れて部屋を出た。そして家の外に足を踏み出した華奈は、玄関に鍵をかけると、できるだけ平静を装うように努めながら、大きな紙袋を手に提げてコインランドリーに向かう道を歩き始めた。


 華奈はコインランドリーの一番奥にある洗濯機の前に立ち、ちらちらと他の客の様子をうかがいながら、ビニール袋に詰めてきたスカートとショーツ、それにシーツを洗槽の中に落としこんだ。それから、店内の自動販売機で買った洗剤をふりかけ、静かに蓋を閉じてコインをスリットに滑りこませる。水道のコックが開いて水が流れ出る音が聞こえ始めた頃になって、華奈は少しばかり安心したような表情を浮かべた。
 洗濯機が止まり、乾燥機のタイマーが切れる頃には他の客は全て帰ってしまい、ほかほかと温かいスカートを丁寧にたたむことができた華奈は胸を撫でおろし、明るい表情を取り戻してコインランドリーを後にした。
 その華奈の顔が再び曇ったのは、コインランドリーから三軒目にある薬局の前を通りかかった時だった。このごろはどこの薬局でもそうなのか、赤ん坊用の紙オムツばかりでなく、成人用の紙オムツも店の外に『特売』の札を付けられて他の商品と一緒に並べられているのだが、それを目にした瞬間、自分がオネショをしてしまったという忌まわしい記憶が改めて甦ってきたのだ。華奈はふと足を止め、積み上げられた紙オムツのパッケージにちらちらと目をやりながら考えこんだ――どうしよう。もしも昼間みたいなことが続くようなら、紙オムツが要ることになるのかしら……ううん、まさか。あれはたまたま体調も悪くて精神的にもまいってたからああなっちゃっただけで、もう大丈夫よ。高校生にもなってオネショが続く筈があるもんですか……でも、ひょっとしてひょっとしたら、どうしよう。もしも今夜もオネショをしちゃったら、今度はパパも妹も家にいるんだからごまかせないかもしれない……ええい、私ったら何を考えてるのかしら。私は赤ちゃんじゃないのよ。もう大丈夫だって……でも、本当にそうかしら。大丈夫だとは思うけど、でも……。
 華奈は微かに頭を振り、なんとはなしに店の中に目をやった。と、カウンターの中にいた、白衣を着た店員らしい若い女生と目が遇ってしまう。華奈は戸惑ったように目をそらし、慌ててその場から離れようとした。が、華奈が歩き出すよりも一瞬早く、その店員が店から出てきて華奈の傍らに立った。
「ねえ、さっきから気になってたんだけど――何か要る物があるんじゃないの?そんなにおどおどしてないで、私に言ってごらんなさいな」
 店員は、人の好さそうな笑顔をみせて言葉をかけた。
 だが、華奈の方は微かに頬を赤く染めて小さく首を振るだけだ。そんな華奈に向かって、店員は優しい声で尚も話しかけてくる。
「嘘おっしゃい。あなたが店の外に積んである商品を気にしてちらちら見てたの、知ってるのよ。ひょっとして言いにくい物かもしれないけど、何も気にすることはないんだから。ここは薬局で、あなたはお客様なんだから、もっと堂々としていいのよ」
 その言葉に少しは勇気づけられたのか、華奈は眩しい物を見るような表情になって店員の顔を見上げた。改めて目にした店員の顔つきはとても優しげで、華奈は胸の中が微かに温かくなったように感じた。そして同時に、今まで揺らいでいた心がやっとのことで固まった。
「……あの……」
 華奈は口ごもりながら、目だけを商品の山に向けた。
「……ああ、あれだったのね?」
 華奈の視線を追った店員は、そこに積んである成人用の紙オムツに気づき、小さく頷いた。
「確かに、若い女の子が大人用の紙オムツを買うにはちょっと勇気が要るかもしれないわね。でも、そんなに恥ずかしがることはないのよ――病気の方がいらっしゃるのね。サイズはどうしましょうか?」
「それは……」
 咄嗟のことに、ええ祖母が寝たきりでというような気の利いた言い訳も思いつかず、華奈は顔中をまっ赤に染めたまま、口を閉ざしてしまった。
 そんな華奈の様子を目にした店員は、やや困惑したような表情を浮かべた後、華奈の耳元に唇を寄せて小さな声で囁いた。
「ひょっとして間違ってたらごめんなさい――紙オムツが必要なのは、あなた自身なのかしら?」
 華奈は、ますます赤くなった顔を伏せてしまった。そして、今にも泣き出しそうな表情になった顔を両手で覆ってしまう。
「そうだったの。ごめんなさい、余計なことを訊いちゃったみたいね……でも、それなら尚のこと、お店に入ってちょうだいな。今なら他のお客様もいないから、誰にも気づかれないようにしてあげられるわ」
 店員は、顔を伏せたままの華奈の肩を抱き、いたわるように店の奥へ連れて行くと、ちょっと待っててねと言い残してカウンターの横にあるドアを開けて倉庫の中に消えて行った。華奈は、店員に勧められた椅子に腰をおろしもせず、その場に立ち尽くしていた。
 やがて倉庫から戻ってきた店員は、右手に大きな包みを抱えていた。店員はその包みを華奈の目の前に差し出すと、声をひそめるようにして言った。
「店の前に積んであるのと同じ紙オムツよ。あなたなら多分Mサイズで合うと思うから、それを包んできたの。こうしておけば、あなたが何を買ったのか誰にもわからないわよ」
 華奈にも、その店員の気遣いが充分に感じられた。店の前の道を行き交う人々たちに華奈が紙オムツを買ったことを知られないために、店前に積んである物ではなく、わざわざ倉庫から持って来てくれたのだ。それも、前以って包装をして。しかし、今夜からでも自分の下腹部を包むことになる大きな紙オムツのパッケージをいざ目の前にすると、華奈の胸は炎のように激しい羞恥に充たされてしまう。華奈は店員の心遣いに対して礼を言うことも忘れて、まるで放り出すようにして代金を支払った後、店の外に飛び出してしまった。そんな華奈の後ろ姿を、店員は穏やかな笑顔で見送っていた。


 洗濯物の下に紙オムツの包みを押しこんだ紙袋を手にした華奈が家に戻ってみると、門柱の明かりが灯り、玄関の鍵も外れていた。華奈はそっと玄関のドアを開き、廊下への上がり口の手前に無造作に置いてある靴を確認してみた――どうやら、父親と妹が既に帰ってきているらしい。
 華奈は足音を忍ばせて廊下に上がり、静かに足を運んだ。と、不意にダイニングのドアが開いて妹が顔を出す。華奈は慌てて紙袋を自分の体で隠すようにした。
「あら、お姉ちゃん。今帰ってきたの?いつもなら机に向かって勉強ばかりしてるのに、今日は珍しくお出かけだったのね」
 妹は、華奈が咄嗟に隠した紙袋のことなど気にするふうもなく、明るい声で言った。
「うん、ちょっと……」
 華奈は言葉を濁した。
「ねえねえ、早く御飯にしましょうよ。お父さんがね、松屋寿司でお鮨を買ってきてくれてるのよ。早く食べようよ、お姉ちゃんが帰ってくるのをずっと待ってたんだから」
 妹の声が妙に弾んでいる理由がそれでわかった。父親は休日に出勤すると、決まって駅前の寿司屋でお土産を買って帰ってきていた。それは、仕事ばかりで滅多に家庭を顧みない父親のせめてもの罪滅ぼしのつもりなのだろう。だがそんな、言ってみれば家族をごまかすために買ってくる物であっても、松屋寿司のお鮨と聞けば普段の華奈なら妹と一緒に喜んでほおばるところだ。しかし今日の華奈は、夕食を口にするのさえ億劫に思えた。華奈は曖昧に頷いただけで、ダイニングへ足を踏み入れようともしなかった。
 そんな華奈の様子が気にかかったのか、食卓の前に座って夕刊を読んでいた父親が、華奈の方に顔を向けて言った。
「どうしたんだ、あまり食欲がないみたいだな。具合でも悪いのか?」
「え、ううん……そうじゃないけど……」
「それじゃ、早いとこ夕食にしようじゃないか。さ、こちらへ入ってきなさい」
「……はい……」
 このままかたくなな態度を取り続けて何があったのかと問われても困ると考えた華奈は観念したように頷くと、おずおずと自分の席についた。手に提げていた紙袋は、二人の視線から隠すように食卓の下に押しこんでしまう。
 本来なら楽しい筈の土曜日の夕食(それも、豪勢に松屋寿司の握りだ)だというのに、華奈には味が全く感じられなかった。雪のように口の中で溶けそうなトロも、微かな苦みと甘みが入り混じって絶妙の味である筈のウニも、その日の華奈には、まるで砂を噛むような味気ないものだった。このまま夜になって紙オムツをあてて眠るのかと思うと意識がそちらにばかり向いてしまい、せっかくの夕食も喉を素通りしてしまうのだ。
 夕食を終えた華奈は、まるで逃げ出すようにダイニングルームをあとにした。そして、紙袋から取り出した大きな包みの包装を解き、タンスの横に置いてあるビニール製のファンシーケースの一番下に、他の衣類で覆い隠すようにして押しこんだ。それから、やはり紙袋から取り出したショーツやスカートを丁寧にたたむと、整理タンスの引出に収め、ベッドの上にシーツを広げた。これで、恥ずかしい失敗をした痕跡は微塵もなく消え去る筈だった。そうしてから華奈は、やっと一息ついたように穏やかな溜息を洩らすのだった。
 だが、お風呂から上がり、いざ大きな紙オムツをベッドの上に広げてみると、華奈の胸は再び激しく高鳴った。知らず知らずのうちに顔が上気し、熱くほてってくる――昼間は確かに失敗しちゃったわ。でも、私は高校生なのよ。まさかそんなにオネショが続く筈ないわよ。だから、こんな紙オムツなんて……。華奈は紙オムツに手を触れてみて、その意外に柔らかい感触に何故かドギマギしながら、紙オムツなど必要ないと自分に言い聞かせてみた――だけど、そうは言っても、万が一ってこともあるわ。もしもまた失敗しちゃったら、今度こそ隠れて処置することはできないのよ。それなら、どんなに恥ずかしくても紙オムツをあてておいた方が安全だわ。そうして様子を見て、あれが二度とない一度きりの失敗だってわかったら紙オムツを処分して普通のショーツで眠ればいいのよ。
 華奈の心は、一旦はケリがついた筈の二つの思いを再び行ったり来たりした。初めて経験する屈辱的なできごとに、答えはなかなか求められなかった。それでも、長い長い葛藤の末、華奈は結局、とりあえずその夜だけ紙オムツをあててみようと自分に言い聞かせてみた。もしも紙オムツを拒んで失敗してしまえば、それこそ取り返しのつかないことになるかもしれないという恐怖にも近い不安がそうさせたのだ。
 華奈は、ベッドの上に広げた紙オムツの上にそっとお尻を載せてみた。暖房の入っていなかった部屋に置かれたファンシーケースの奥にしまいこまれていた紙オムツは随分と冷たく、若く張りのあるお尻に、ゾクッとするような感触が伝わってきた。華奈はギュッと目をつぶり、今にも泣き出しそうになりながら、手探りで紙オムツのテープを留めていった。翌朝には、こんなことが笑い話ですむようになることを祈りながら……。




 ――華奈の説明を聞き終えた美代子は胸の前で腕を組み、窓の方に視線を向けた。
窓ガラス越しに見えるグラウンドでは、穏やかな日差しの中、数人の生徒がバレーボールに興じていた。やがて美代子はフーッと息を吐き出してから再び華奈の方に顔を向け、おだやかな口調で問いかけた。
「で……ダメだったのね?」
「はい……」
 華奈は、今にも消え入りそうな声でぽつりと答えた。
 その日の夜、華奈の悪い予感が当ったのだ。翌朝になって目を醒ました華奈は、自分の下腹部を包みこんでいる紙オムツがぐっしょり濡れていることに気づいて気が遠くなりそうになったという。
「……それに、紙オムツを汚したのは、その日だけじゃなかったんです。その夜以来、眠る度にオネショをしてしまって……」
 華奈は鼻をスンと鳴らして、微かに震える声で言った。華奈の目から再び涙がこぼれ落ちそうになる。
「そうだったの――それでわかったわ。オネショのことが気になって勉強にも身が入らなかったという訳なのね」
 美代子は自分の予感が的中したことに満足しながらも、そんなことはおくびにも出さず、いたわるような視線を華奈に投げかけた。そうして、次の瞬間にはいつもの笑みを浮かべ、わざと明るい口調で言葉を続ける。
「大丈夫、気にすることはないわ。多分、軽い受験ノイローゼでしょう。毎年、受験が近づいてくると、三年生のうちの何人かは今の川田さんみたいになっちゃうのよ。なんの理由もなく突然大声を出したり暴れたりする子もいるし、急に学校に来なくなる人もいるの。あなたは感受性が強い分、三年生になる前からもうノイローゼになりかかってるんでしょうけど、ちょっと気晴らしをしたり受験のことを忘れるようにすれば割と早く治るわよ。だから、あまり思い詰めないことね」
 カウンセラーを兼ねてS女学院高校の保健室を任されている美代子は、これまでに様々な生徒を目にしてきた。その中には、受験の重圧に耐えかねて精神に変調をきたす者も毎年、数人はいた。目の前に迫ってくる受験を直視できなくなり、精神が一時的に現実から逃避しようとするのだ。とはいっても、それは深刻な精神病などとは違い、ちょっとした立ち直りのきっかけを与えてやれば嘘のように治ってしまうものが殆どだった。最悪の場合でも、受験のシーズンが終わってしまえば、(例え大学には入れなくても)ケロッとしてしまうのだ。美代子は、この学校に着任した年に出会った或る生徒のことをさりげなく付け加えた。
「五年前のことなんだけどね、川田さんと同じように、オネショが始まっちゃったって泣きながら相談に来た生徒がいたの。でもその子も、第一志望だったK大学の合格通知を受け取った日からは失敗しなくなったわよ」
 しかし、華奈は美代子のそんな説明を聞きながら、次第に陰鬱な顔つきになっていった。そして、涙をこぼすことだけはなんとか避けながらも、頬をヒクヒク震わせ、こぶしをギュッと握りしめて言った。
「……それだけじゃないんです……」
「え……?」
 華奈の言葉を耳にした美代子は、僅かに首をかしげて問い返した。
「それだけじゃないって――どういうことなの?」
「……私が授業に集中できないのは、オネショのせいだけじゃないんです。もっとひどいことに……」
「もっとひどいことって一体なにが……話してくれるわね?」
 華奈はコクッと頷いた。そして、助けを求めるような目で美代子の顔を見上げ、ゴクリと唾を飲みこんで言った。
「……オネショが始まってから一週間が過ぎた日曜日のことでした。その頃には、慣れたというのは変かもしれませんけど、朝になって紙オムツが濡れてても以前よりは冷静でいられるようにはなってたんです。もっとも、冷静っていっても、錯乱して机の上の物を壁や窓にぶつけるのだけはガマンできるようになったっていうだけで、体から火が吹き出るような恥ずかしさは同じだったんですけど――それでも、このまま落ちこんでばかりじゃいられない、成績を戻さなきゃって思って、朝食の後、机に向かったんです。ムリヤリ精神を問題集に集中して一時間くらい経った頃、トイレへ行きたくなったんです。それで椅子から立ち上がってドアの方へ歩き出した途端……」
 その後に自分の身の上に起った羞恥に充ちた記憶が鮮明に甦ってきて、華奈は目を閉じた。そして華奈はゆっくり深呼吸を繰返し、唇を震わせて再び口を開いた。
「……急に下半身の力が抜けちゃうような感じになって……いつのまにか、オシッコが……」
 それ以上は口にできなかった。華奈は両肩をガタガタ震わせ、唇を噛みしめて顔を伏せた。
 美代子は、感情を押し殺したような平板な口調で問いかけた。
「それじゃ、今も?」
 その問いかけに、華奈は無言で頷いた。美代子は改めて、目の前に座っている華奈の下半身に目を向けた。華奈に椅子を勧める時に感じたように、椅子の上におろしているお尻のラインはやはり不自然だった。華奈の言う通りだとすれば、それは、スカートの下にショーツの代わりに着けている紙オムツのせいだということになる。華奈が心ここにあらずというような様子でいるのは、オネショだけが原因ではなかったのだ。
 それを知った美代子の胸の中に、妖しい火がちろちろと燃え上がった――そうだったの。オネショだけじゃなかったのね。この子は高校生にもなってオモラシ癖のために、昼間でも紙オムツが手離せなくなってるんだわ。
「体育の授業を見学ばかりしているのも、そのことが原因だったのね?」
 美代子は、念を押すように言った。
 華奈はすがるような目つきで美代子の顔をちらと見てから再び顔を伏せ、小さく頷いた。それから、蚊の鳴くような声で弱々しく応えた。
「……そうです。みんなと一緒に着替えれば紙オムツをあててることを知られちゃうし、かといって一人だけ別の部屋で着替えてもあやしまれるだけだし……だから体調を崩してるとか生理だとか理由をつけて見学にしてもらってたんです。でも、体育の先生ももうそろそろ……」
「そうね。体育の先生にしても、ちょっと変だなと思い始める頃かもしれないわね」
 華奈はもう二週間も体育の授業に参加していないことになる。それでは、いくらなんでも言い訳の材料も尽きることだろう。美代子は心の中でクックックッと低く笑い、それでも、表面上は優しい教師を演じるために穏やかな口調で言った。
「いいわ、それは私にまかせてちょうだい。オモラシのことは言わないように気をつけながら、何か適当な理由をつけてこれからも見学ですむようにしてあげるから。大丈夫、保健室を管理している私から言えば、体育の先生だって納得するわよ」
「……はい……」
 美代子が口にした『オモラシ』という言葉に顔を赤くした華奈が、聞き取れるかどうかというような声で曖昧に返事をした。
「じゃ、それはいいとして……でも結局は、オモラシが治らないことには根本的な解決にはならない訳ね……」
 美代子は少しばかり困ったような顔をつくって天井を見上げた。
 保健室の中に沈黙が訪れた。


 昼休みの終了を告げるチャイムの音が聞こえてきた。
 華奈は不意に我に返ったようにハッとした表情で顔を上げると、ガタッと音をたてて椅子から立ち上がった。そして美代子に向かってペコッと頭を下げ、慌ててドアの方に体を向ける。それはまるで、華奈が一刻も早くこの場から立ち去ろうとでもしているように美代子には思えた。もっとも、それも仕方のないことかもしれない。いくら親しいといっても結局は他人である美代子に、思春期の女性にとっては耐えられないような屈辱と羞恥に充ちた秘密を話してしまったのだ。これ以上、この狭い部屋の中で美代子と顔をつき遭わせていることに華奈はガマンできなくなったのだろう。
 ここは無理強いしない方がいいかもしれないわね。ふとそう思った美代子は無理に華奈を引き留めることもせず、ニコッと微笑みかけて優しく言った。
「今日のところはこの辺で切り上げた方がいいみたいね。でも、これだけは忘れないでね――私はいつでもあなたの味方よ。近いうちにまた一緒に話し合いましょうね」
 華奈は、体をドアの方に向けたまま再び頭を下げた。そして、ぎくしゃくした動きで足を踏み出そうとする。しかし、不意に華奈の足が止まった。アッというように口を半ば開いたかと思うと、体をブルッと震わせて、その場に立ちすくんでしまう。
「どうかしたの?」
 美代子は思わず椅子から立ち上がり、華奈の後ろ姿に声をかけた。だが、華奈からの返事はない。
 美代子が華奈の方へ歩き出そうとするよりも僅かに早く、華奈は下腹部に両手を押し当てるようにしながら再び椅子の上に座りこんだ。そしてそのまま、ウウッと呻いて体を丸めてしまう。美代子は改めて華奈の正面に足を運び、その場に膝をつくようにしてしゃがんで、華奈の顔を覗きこんだ。と、その時、華奈の股間から小川のせせらぎのような音が小さく聞こえてくることに気がついた。
「……ダメ……私の側に来ないで……私の顔を見ないでください……」
 華奈は美代子の視線から逃れようとするかのように、それまで自分の股間を押えていた両手を顔に押し当て、首を振った。
 華奈が今、突然の尿意に襲われ、スカートの下に着けている紙オムツを汚している最中だということは明らかだった。両手の隙間から僅かに見える華奈の顔は、それこそ胸の内の羞恥が炎となって吹き出しているのかと思えるほどにまっ赤に染まり、心なし瞳も潤んでいるように見えた。だが美代子が見守っている中、華奈の表情は次第に変化していった。華奈の顔から徐々に緊迫感が消えて行き、目つきもなにかうっとりしたような、とろんとしたものに変わってゆく様子を、美代子の目は見逃さなかった。華奈は恥ずかしさのあまり泣き出しそうになっているのではなく、何かに満足したように瞳を潤ませているのだということに美代子は気がついた。美代子の胸の中で燃え上がりつつあった妖しい火が、そんな華奈の表情を見るにつけ、ますます激しく燃え盛った。
 しばらくして、小刻みに震えていた華奈の肩の動きがおさまった。美代子は静かに立ち上がり、僅かに目を細めて華奈に言った。
「出ちゃったのね?」
 華奈は顔を両手で覆ったまま、無言で小さく頷いた。
 そんな華奈が美代子にはたまらないほどいとおしく思えた。この場で、その細い体をギュッと抱きしめたくなる。
「替えのオムツは?」
 美代子は自分の胸の内を悟られないよう、わざと冷静な口調で華奈に訊いた。
「……教室のカバンの中です……」
 華奈は微かに震える声で応えた。
「そう――濡れたオムツのまま教室に戻す訳にはいかないわね。もう午後の授業も始まってるから目立っちゃうでしょうし……」
 美代子が独り言のように呟いた。そして、しばらく何かを考えるような顔をした後、薬や包帯が並べられた木製の収納庫の前まで歩いて行き、上から二段目の引出を開けて何かを探すようにゴソゴソと掻き回してから言葉を続けた。
「いい物があったわ。これで、わざわざ教室まで戻らなくてもよくなるわよ」
 美代子の言葉を耳にした華奈が思わず顔を上げた。そして、美代子が引出からつかみ上げた物を確認しようと、それまで顔を覆っていた両手を膝の上に置き、視線をおずおずと美代子の右手に移す。美代子が取り出したのは、透明のビニール袋だった。
だが、そのビニール袋が天井の蛍光灯の光を反射して、中に何が入っているのか、華奈の目にはハッキリとは映らない。
 美代子は微かな笑みを浮かべ、ベリッと音をたててビニール袋を破くと、その中から取り出した花柄の生地でできた下着のような衣類を華奈の目の前に差し出した。それを目にした華奈の顔から血の気がサッと退き、唇がワナワナ震え出す。
「……これは……」
 華奈には、そう言うのが精一杯だった。
 しかし、そんな華奈の様子には気がつかないかのように美代子は平然と応えた。
「そう。見ての通り、これはオシメカバーよ。でも、赤ちゃんが使うものじゃないわ。だって、こんなに大きなオシメカバーじゃ赤ちゃんにはブカブカだものね」
 美代子が華奈の目の前に差し出したのは、花柄の柔らかなそうな生地でできた大きなオシメカバーだった。前当てと横羽根はマジックテープで留められるようになっていて、ムレを防ぐために中がネットになっている様子が、見開いたままの華奈の瞳にクッキリと映っている。美代子はオシメカバーの腰紐のすぐ下に付いている小さなラベルを指差して言葉を続けた。
「川田さんには、このMサイズがピッタリだと思うわ」
 華奈は思わず顔をそむけようとした。しかし華奈の意志とは全く無関係に、その目は大きなオシメカバーに吸い寄せられたようにじっとみつめたままだ。仕方なしに華奈は二度、三度と肩で息をつくと、絞り出すような声で美代子に尋ねた。
「……どうして、こんな物が保健室に……」
 それに対して、美代子はこともなげに答えた。
「あら、ここにオシメカバーが準備してあることが意外だったかしら?でも、それはむしろ当然のことなのよ――学校の保健室っていうのは、いってみれば小さな医院くらいの施設を備えているのが本当なのよ。だって、これだけの多人数を預かってるんだもの、何があるかしれないものね。突発の事故に備えて薬や包帯もあるし、松葉杖だって備品に含まれてるんだもの、オシメカバーがあっても不思議じゃないわ。もちろん、オシメもね」
 そう言ってから美代子はオシメカバーをベッドの上にそっと置くと、再び収納庫の前に立ち、オシメカバーを取り出した引出に両手を差し入れた。美代子が両手に抱えるようにして取り出してきたのは、何枚もの動物柄の清潔そうな布地だった。美代子は布地の山をオシメカバーのすぐ横に置いて、その内の一枚をつまみ上げて華奈の目の前で広げてみせた。
 血の気が退いて蒼褪めていた華奈の顔に赤みが差したかと思うと、今度は逆にまっ赤に染まった。家庭科の保育実習で使ったことのあるものと比べると一回りも二回りも大きなサイズに縫いあげられた柔らかそうな布オシメを実際に目の前に突きつけられて羞恥心が激しく刺激されたのだ。いつのまにか華奈の心臓は早鐘のように高鳴り、息も荒くなっている。
 だが、「保健室にオシメが用意してあるのは当然よ」という美代子の言葉は嘘だった。いくらなんでも、幼稚園や保育園ではない、れっきとした高校の保健室にそんな物がある筈がない。それに、もしも仮りにそれが本当に保健室の備品だとしても、花柄のオシメカバーや動物柄のオシメである筈がなかった。せいぜいが、医療用のブルーやクリーム色のオシメカバーとまっ白のオシメというところだろう――実は、美代子が取り出してきたオシメやオシメカバーは、彼女が個人的に用意していたものだった。デパートのベビー用品売場で買い求めたオシメ地を大きく縫いあげ、雑誌でみつけた通信販売を通して可愛らしい大きなオシメカバーを購入したのは、美代子が学校に黙って勝手にしたことだった。
 しかし、何故そんなことをしたのか?
 その答えは五年前にあった。
 美代子がこのS女学院高校に着任した年の秋、受験ノイローゼのために突如としてオネショをするようになってしまった生徒がいた。その生徒は美代子に相談を持ちかけたが、まだ大学を出たばかりで経験の浅い美代子には、高校生にもなってオネショをしてしまう生徒がいるということ自体が信じ難いことだった。それでも、本当のところを確認するためにその生徒の家を訪れ、一晩を共にしてからは彼女の言葉を信じるしかないことに気づいた。それからはあれやこれやと相談にも乗り、できるだけのことをして、結局は大学合格の日にオネショが治ったところまで見届けることになった。だが、生徒からオネショが治ったという報告を受けた時に、一安心すると共に、なにか物足りなさを感じたのも事実だった。
 それが、美代子が大きなオシメカバーとオシメを買い求めるきっかけだった。元来が男嫌いというのかレズっ気があるのが高じて女子高の養護担当の教諭になった美代子だ。それが、どちらかといえば美代子の好みに近い小柄で華奢な女生徒が毎晩のようにオネショをしてしまうという事情を知ったことで、妙に心が昂ぶり、妖しい昂奮を覚えてしまった。だからこそ、その生徒のオネショが治ったことに、教師としての美代子はホッとしながらも、個人としての美代子は満たされぬものを感じてしまったのだった。それ以来、まだ幼さの残る女生徒たちがオネショをする様子を想像しては切ない吐息を洩らすようになった美代子だった。そしていつしか美代子は、オネショ癖を持つ生徒が再び現われることを心待ちするようになっていた――もしも今度そんな子が現われたら、その時こそは……うふふ、そうよ。その時こそは、私の可愛いいペットに変身させてあげましょう。そうそう、オネショの治らないベビーにはオシメも用意してあげなくちゃね。


 五年前に泣きながら保健室を訪れた生徒の顔を思い出しながら美代子はクスッと笑うと、ベッドの上に置いたオシメカバーを丁寧な仕種で毛布の上で広げ、その上に数枚の布オシメをTの字の形に広げていった。目の前で美代子が用意しているオシメが自分の股間にあてられるのだと思うと、華奈は思わずこの場から逃げ出したくなった。
紙オムツも充分に恥ずかしい物だが、それでもそれは医療行為だと言い訳ができないこともない。が、それが布オシメとなると全く違ったものになってしまいそうに華奈には思えた。華奈の意識の中では、布オシメはあくまでも赤ん坊の下着だった。それを着けることは、自分が何もできない幼児へと戻ってしまうことを意味しているように感じられるのだ。
 しかし、実際に華奈が保健室から逃げ出ることはなかった。このまま教室に戻っても、次の休憩時間になるまで濡れた紙オムツを取替えることもできず、その間に尿臭を放ってクラスメイトたちにあやしまれる恐れがあったからだ――華奈は、自分自身にそう言い訳をした。
 が、華奈が保健室から飛び出さなかった本当の理由はそんなことではない。ベッドの上にオシメを用意している美代子の姿を見ているうちに、華奈自身にもわからない、これまで感じたことのないような、なんとも表現しようのない奇妙な感覚が心の中にムクムクと湧き上がってきて、その奇妙な感覚が、華奈が保健室から足を踏み出すことをためらわせているのだ。その感覚がどんなものなのかを正確に言い表わすことは到底できないが、それでも、その感覚が胸の中に浮かび上がってきた瞬間、華奈は金縛りに遇ったように体を硬直させ、次第に形を整えてゆく布オシメをじっと見守ることしかできなくなった自分に気づいたのだった。
 華奈のオシッコをたっぷり吸い取った紙オムツはぐっしょり濡れて気味悪く下腹部の肌に貼り付いているのに、今の華奈はそんなことを全く気にしなくなっていた。いつのまにか華奈の体は熱くほてり、吐く息も熱く切なく、そして妙に甘いものに変わっていた。自分の心の動きを理解できなくなった華奈は、激しい不安にかられた。しかしそんな華奈の不安をよそに、脳髄から股間へと背筋を稲妻が駈け抜けたように下半身が疼き、意識が白い霧に溶けこもうとする。華奈の目に映る世界は次第に輪郭を崩し、グニャリと溶け始める。華奈の意識は、ひどく甘美で淫媚な匂いのする異世界へと漂い出ようとしていた。
 華奈が我に返ったのは、こちらを振り返った美代子が声をかけたからだった。
「さ、いいわよ。川田さん――川田さんったら。どうしたの、ボーッとしちゃって?」
 オシメの用意を終えた美代子は、ボンヤリした顔つきで椅子に座っている華奈の肩を揺すりながら呼びかけた。と、華奈はハッとしたような表情になって慌てて美代子の顔を見上げる。
 美代子は華奈の顔を覗きこむと、少し首をかしげて言った。
「大丈夫?顔が赤いけど、熱があるんじゃないの?」
「……いえ、大丈夫です……」
 華奈は美代子の視線から逃れるように僅かに顔をそむけてぽつりと応えた。顔が赤くほてっているのが熱のせいではないことは華奈にはよくわかっていた。かといって、目の前に広げられてゆくオシメに対する羞恥のためばかりでもない。美代子に声をかけられ、意識を取り戻した華奈は、それまで自分の心がたゆたっていた異世界が何であったのか、唐突に気づいてしまった。それは、勉強に疲れた後などに時おり耽るオナニーの絶頂期に垣間見る快楽と悦びの世界だった。こんなことをしていてはいけないという後ろめたさと、それとは全く正反対の、この世のものとは思えない甘美な悦びとが渾然と混じり合い、一瞬だけ現われる別世界。美代子が用意しているオシメを目にしながら、華奈の意識は知らぬ間に、その快楽の園へと入りこんでいたのだ――だけど、どうして私ったらそんなことを……?
「そう?それならいいんだけど……」
 美代子は尚も心配げな表情を浮かべ、華奈の額にそっと掌を押し当てた。そして、少しばかり安心したような顔つきになって言葉を続ける。
「ほんと、熱はないみたいね――じゃ、オムツを取替えましょうか。靴を脱いで、ベッドに上がってちょうだい」
 華奈は椅子からお尻を浮かせた。だが、じきに激しくかぶりを振り、大きく息を吸うと、曖昧に笑ってみせてから美代子に言った。
「いえ……オムツの交換は自分でしますから……あの……」
「ダメよ。ここは保健室なんだから、そんなに恥ずかしがらなくてもいいの。それに、紙オムツと違って、布オシメとオシメカバーを自分であてるのは簡単じゃないわ」
 美代子は真剣な表情で応えた。
「でも……だって……」
「あなたは病気なのよ。だから、私の言うことには素直に従ってちょうだい。わかるでしょう?」
「でも……私は病気なんかじゃ……」
「ううん、あなたは病気にかかってるの。体じゃなくって心のだけど、でも、それは確かに病気なのよ。だから、ね?」
 抗弁する華奈に、美代子はまるで幼児をあやすように優しく言い聞かせた。
 しかし、華奈は決して首を縦に振ろうとはしなかった。だがそれは、ぐっしょり濡れた紙オムツを美代子の目にさらし、まるで赤ん坊のように新しいオシメをあてられることに対する羞恥のためばかりではなかった。オモラシという恥ずかしい癖を美代子に話してしまった今となっては、いつまでもオムツの交換を拒んでいられるものではないことを華奈も知っている。ただ……。
「いつまでグスグズしてるの?――いいわ、川田さんがそういう態度を続ける気なら、私にも考えがありますよ」
 なかなか言うことを聞かない華奈に業を煮やしたのか、美代子が少し苛立ったような声を出した。それは、それまで華奈が聞いたこともないような厳しい口調だった。
華奈は怯えたようにビクッと肩を震わせ、ちらと美代子の顔に目をやった。
「……あの……」
「担任の山田先生に全てをお話しすることにします。川田さんがオモラシ癖のせいでオムツをあててることも何もかも」
「あ……」
 華奈の顔がひきつった。もしもそうなれば、華奈がオムツを手離せないという評判はいずれ学校中に広まってしまうだろう。そんなことになったら――華奈は下唇を前歯でギュッと噛みしめ、観念したような表情を浮かべて言った。
「……わかりました、ベッドに上がります。だから……」
「わかってるわ。私だって、あなたが憎くて叱ってるんじゃないのよ。ただ、早く新しいオシメに取替えてあげたいだけなの」
 美代子は、さっきの口調がまるで嘘だったかのように優しく応え、華奈の手を取って僅かに力を入れた。それに誘われるように華奈のお尻が椅子から浮き、その場に立ち上がる。美代子は華奈の右側に立つと、スカートのサイドファスナーをそっと引きおろした。
「あ、そんなこと自分でできますから……」
 華奈は美代子の手から逃れようとしたが、もうその時には、美代子の手はスカートのウエストにかかっていた。そして目を細めて薄く笑い、有無を言わさずにスカートをずり下げてしまう。パサッと乾いた音をたてて華奈のスカートが床に落ちた。
 華奈のお尻を包む、白い撥水性の表地に覆われたパンツタイプの紙オムツが現われた。前当てと横羽根とを留めるテープはしっかり固定されているのだが、たっぷり吸収したオシッコの重みに耐えかねるようにウエストのベルト部分がよれ、ずり下がりかけている。それでも、裾のギャザーが華奈の腿を締めつけているため、尿洩れは免れているようだ。
「うふふ……川田さんのオムツ姿、思ってた以上に可愛いいわ」
 スカートを脱がされてしまい、紙オムツをあらわにした惨めな姿の華奈が、もうこれで自分の手の内から逃れられなくなったことを知った美代子は、華奈の下半身にじっと目を向けたまま、赤い唇を舌で舐めた。華奈の背筋をゾクッと冷たい物が走った。
「濡れたオムツのままじゃ風邪をひいちゃうわ。早くベッドに横になりましょうね」
 美代子は、あやすように言った。
 華奈は無言でおそるおそる頷き、ベッドの端にお尻をおろした。その拍子に、腿のギャザーにでも溜っていたのか、オシッコが一滴、華奈の内腿を伝ってスーッとこぼれ落ちて行った。華奈はハッとして顔を床に向け、美代子の方は、らんらんと輝く瞳で華奈の内腿に残るオシッコの跡をじっとみつめた。
 やがておずおずと顔を上げた華奈は、針のように鋭く突き刺さる美代子の視線を感じながらのろのろと体を動かし、ベッドの上に横たわった。そこへ美代子の手が伸びてきて、紙オムツのテープを外し始める。
 ベリッという意外に大きな音が静かな保健室の空気を震わせ、それを耳にした華奈の両脚が羞恥に赤く染まる。が、美代子はそんなことを気にとめるふうもなく、残りのテープを次々に外していく。その度に、下半身に感じていた締めつけられるような感覚が消えて行き、華奈は思わず、自分の下半身が丸裸にされようとしていることも忘れて、開放感さえ覚えた。華奈の頭の片隅に、ちらと奇妙な思いが浮かんだ――赤ちゃんも、濡れたオムツを外してもらう時にはこんな気持になるのかしら?
 やがて、四つのテープを全て外してしまった美代子は、幼児に対するような口調で華奈に声をかけた。
「さあ、これからオムツを外しますよ。ちょっと寒いかもしれないけど、おとなしくしててね」
 美代子が言うと同時に、紙オムツの横羽根が華奈のお尻の左右に開かれた。そして今度は、美代子の手が前当てをつかむ感触が伝わってくる。華奈は思わず前当てを両手で抑えつけようとした。しかし、すぐに美代子の手に振り払われてしまう。
 いよいよ、華奈の秘部を覆い隠していた前当てが持ち上げられた。美代子は華奈の羞恥心をくすぐるように、わざとゆっくり前当てを開いていった。ガサガサという小さな音をたてながら、華奈のオシッコをたっぷり吸いこんだ紙オムツが徐々に開かれる……。
 突然、美代子が手の動きを止めた。そして、紙オムツの中をじっと覗きこんだかと思うと、不意にクックックッと低い笑い声をあげ、華奈の耳元に唇を寄せて囁いた。
「うふふ……オムツが濡れてるのは、オシッコのせいだけじゃないみたいね。他のお汁がたっぷり滲み出てるわよ」
 美代子が目にしたのは、今まさに開こうとしている紙オムツの前当てと華奈の秘部との間につながっている、ねっとりした透明の糸だった。そして、同じような粘りけのある液体が華奈の黒い茂みに、まるで朝露のようにまとわりつき、下腹部をしとどに濡らしている。それが華奈の秘密の泉から溢れ出た愛汁だということは、美代子の目にも明らかだった。
 華奈はギュッと瞼を閉じ、力なく顔を横に向けた――華奈が美代子の手で紙オムツを外されるのに抵抗したのは、それを美代子に見られることに激しい羞恥を覚えたからだった。美代子が用意しているオシメを見ながら、何故かオナニーの時のような悦びを感じ、はしたなくも股間を愛汁で濡らしてしまったことを美代子に知られたくはなかった。もしもそんなことになれば、美代子は華奈に対してどんなにか恥ずかしい言葉を投げかけるかもしれないのだから。
 そして事実、美代子は華奈が恐れていたようなことを口にした。
「ねえ、川田さん――ううん、華奈ちゃん。どうやら華奈ちゃんは、オシメをあてられて、その中にオモラシをすることが好きになっちゃったみたいね?でなきゃ、紙オムツの中にこんなに恥ずかしい洪水が溢れる訳ないわ」
 華奈の顔がカッと熱くなった。言い訳をしようにも、その惨めな姿を見られては、何も言えない。
 美代子にしてみれば、華奈が紙オムツの中に恥ずかしい蜜を溢れさせているだろうということは薄々ながら予想していたことだった。ついさっき、椅子の上に座りこみながらオモラシをしてしまった華奈の表情。それを目にした瞬間、美代子は華奈が無意識のうちに、オムシの中にオシッコを洩らすという行為に密かな悦びを覚えるようになっているのだということをありありと理解したのだった――おそらく、最初のオネショは、テストの結果が激しく華奈の心を揺さぶったためだろう。そしてそれがきっかけになって、その日以来のオネショが始まってしまったのだ。しかし、オネショのためにイヤイヤあて始めた紙オムツに対して、華奈はいつしか甘い郷愁を感じるようになっていた。ともすれば受験の重圧にくじけてしまいそうになっていた華奈は、自分の心を癒してくれる温かい家庭を求めていた。だが実際に彼女の周囲にいるのは、教育熱心なだけの母親と、仕事にばかり熱中する父親だった。そんな家族に充たされぬものを感じた華奈が、幼い頃の優しい母親の手を思い出させてくれるオムツに対して、切ないほどの思いを抱いても何の不思議はなかった。それが、華奈が重苦しい現実から逃げ出すために選んだ方法だった。華奈の心はいつのまにか、幼児の頃へと戻ろうとしていたのだ。しかしその思いはストレートに発散されぬまま、充分に発育した華奈の体の中で奇妙な形に歪められ、性的な欲望へと変貌していった。そのために、華奈はベッドの上に用意されるオシメをみつめながら恥ずかしい悦びを覚え、こうして股間を愛汁でぐしょぐしょにしてしまったのだ。
「でも、大丈夫よ。誰にも言わないから安心しなさい。これは、私と華奈ちゃんだけの秘密なんだから。いいわね?」
 再び手を動かしながら、美代子が甘く囁いた。
 華奈は体を小刻みに震わせながら、小さく頷いた。
「そう、それでいいのよ。さ、新しいオシメをあててあげましょうね」
 美代子は、華奈のお尻の下に布オシメとオシメカバーを敷きこんだ。初めて触れる布オシメの柔らかく温かな感触が、華奈の羞恥を激しく刺激した。華奈の口から、微かな喘ぎ声が洩れ出した。




 数日後、放課後の保健室で、二人の女性が話しこんでいた。一人は美代子。そして美代子の向い側に座っている、クリーム色のスーツを着た三十歳前後の女性は、華奈の担任をしている山田だった。山田は、華奈が美代子と話し合った日から落ち着きを取り戻したことを報告し、礼を言うために保健室を訪れたのだ。
「ありがとうございました、谷崎先生。おかげで、川田さんの様子も以前と同じようになってきているようです――ところで、川田さんにはどんな治療をされたんですか?」
「いいえ、とりたてて申し上げるほどのことはしてませんのよ……」
 華奈はあの日の保健室でのできごとを思い出しながら、穏やかな口調で応えた。そして、念を押すような感じで言葉を続ける。
「ただ、前にも申しましたように、川田さんの症状はまだ完全に安定している訳ではありませんので、これからも日に数度は保健室に来てもらうことになると思います。さして長い時間ではありませんから、よろしくご了承ください」
「はい、それは承知しています。保健室に行きたくなったら授業中でも構わないから、とは本人にも言ってありますので……」
「それで結構です。まだ授業中にソワソワするかもしれませんが、保健室に来た後は落ち着く筈ですから」
 美代子の言うように、華奈は時おり、授業中に体をブルッと震わせ、その後はなにかソワソワした態度を取ることがあった。だが、そのまま保健室を訪れ、教室に戻ってきた時にはすっかり落ち着きを取り戻しているのだ。ただ、その時の華奈はどういう訳か、顔が赤く上気していることも少なくないようだったが……。
「あの――なにか暗示をかけるとか、そういったことですの?」
 山田は、漠然と思いついたことを確認するように訊いてみた。
「いいえ、暗示ではありませんわ。もっと別の……」
 美代子は軽く首を振った。実際に保健室で行われているのは、山田が思ってもみないことだった。華奈は、授業中に汚してしまったオシメを取替えてもらうために保健室を訪れていたのだ――あの日、初めてあてられた布オシメのとりこになってしまった華奈は、それ以来ずっとスカートの下に布オシメを着けて生活している。そして、オモラシでオシメを汚してしまう度に保健室に行き、美代子の手で取替えてもらう毎日が続いているのだ。しかし、そのことを華奈が誰かに話す訳がないし、美代子も決して口外することはなかった。
「……もっと素敵な治療ですのよ。ひょっとすると川田さんは、これからもずっと私の治療を受け続けることになるかもしれませんわね」
 美代子はそう言うと、ニコッと笑ってみせた。





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