秋風のように


 もうすぐ九月も終わろうかというのに、涼しい風はなかなか吹いてこないようだった。
 僅かに汗ばんだ額を木綿のハンカチで拭いた佐藤由子は、鉄でできた門の横に取付けられているインターフォンの呼出ボタンを押した――家の中でチャイムが鳴る音が微かに聞こえてくるのに、いくら待っても返事はなかった。由子はそれから数度ボタンを押してみたが、結果は同じだった。
 それでも、留守かな、と思った由子が軽く押してみると、その頑丈そうな門扉は抵抗もなく開いた。
 由子はそのまま門扉を大きく開くと、そっと庭に足を踏み入れた。それから、開いたばかりの門扉を静かに閉じる。
 キョロキョロと周囲を見渡しながら建物に向かって歩いて行く由子の耳に、なにやら衣ずれのような音が微かに聞こえた。彼女はふと立ち止まると、その聞こえるか聞こえないかの小さな音を聞き逃すまいと耳をそばだててみた――やがて、その音がどうやら建物の裏側から聞こえているようだ、と判断すると、音の聞こえてくる方に向かって再び足を運び始めた。
 玄関の立派なドアに、ちらと目を向けただけで、彼女はそのまま左に進路を取った。その辺りからは、足の下の感触が玉砂利から芝へと変化し、彼女の足音は急に静かなものになった。それでも、勝手に他人の家の敷地に忍びこんでいる、という思いからか、彼女の足取りはますます慎重なものになっていた。
 しばらくそうして歩いて行くと、不意に、カタンというような、何かが触れ合うような音が響いてきた。
 彼女は建物のかげに身を寄せると、首だけをそっと伸ばして、物音の聞こえてきた方に視線を向けてみた。
 そこはどうやら物干し場になっているようで、一人の女性が洗濯物を取りこんでいる最中だった。カタンという音は竿と竿とが触れ合ったもので、衣ずれのような音は、その女性が乾いた衣類を竿から外す時にたつものだろう。
 そのうしろ姿をじっと見つめていた由子はホッとしたように小さな溜息をつくと、建物から離れて、竿から一枚の布地を取りこんだばかりの女性の方に向かって歩き始めた。
「おばさん」
 女性のすぐうしろに立ち止まった由子は、悪戯っぽく大声で呼びかけた。
 するとその女性は、キャッ、と小さな悲鳴をあげると、おそるおそるといった様子で、声の方へ体ごと振り向いた。そして声の主が由子だとわかると、戸惑ったような表情を顔に浮かべて口を開いた。
「……由子さん?」
「ごめんなさい、ビックリさせちゃった?」
「あ、ううん。それはいいんだけど、どうしてここに?」
「あの……インターフォンのボタンを何度も押してみたんですよ。だけど返事がなくって、留守かな、なんて思ったんだけど、門が開いてたもんだから……」
 由子はちょっと慌てたように、早口で説明を始めた。無断で侵入したことを咎められた、とでも感じたのだろうか。
「……ああ、ここで洗濯物を取りこんでたから、チャイムが聞こえなかったのね」
 女性は小首をかしげると、納得したようにそう応えた。しかし、それからすぐに言葉を続ける。
「あ、ううん、そうじゃなくって、由子さんがこの家に来てくれた理由を訊きたいのよ。随分と久ぶりだわ」
「あ、そのことですか」
 自分がトンチンカンな答を返していたことに頬を染めながら、由子は改めて、この家を訪れた理由を説明し始めた。
「……啓子の具合、どうなんですか? それが気になって来てみたんです」
「まあ、そうだったの。そうよね、長いお休みだものね……」
 女性(つまり彼女は、啓子の母親ということだ)は僅かに目を伏せると、口ごもるように言った。
「ええ。二学期が始まってもうすぐ一ケ月だっていうのに、ずっと学校に出てこないし、先生に尋ねてもハッキリしないんです。二年生の二学期っていったら、高校生活の中でも一番大事な時期なのに――それで来てみたんです。啓子、どうなんですか?」
「心配してくれてありがとう。でも、今の啓子の状態を説明するのはとても難しいわ」
「……よくないんですか?」
「よくない、っていうか……うまく説明できないのよ。せっかく来てくれたんだけど、今日は帰ってもらった方がいいかもしれないわね」
「そんな……。じゃ、説明が難しいのなら、直接会わせてください。そうすれば、啓子がどんな具合か、わかりますから」
「でも……」
 啓子の母親は不意に口を閉ざすと、そっと足元に目を向けた。
 その時、まだ夏の熱気を含んだ風が吹いてきて、母親が持っていた洗濯物が手から離れた。
 彼女は慌てたように顔を上げると、風にさらわれた衣類を追いかけ始めた。もちろん、由子もその後を追う。
 やっとのことで衣類を拾い集めると、由子は丁寧に砂をはたき落しながら、大きなカゴの中に入れていった――啓子の父親のものらしいランニングシャツとワイシャツがあったし、母親のものだろうか、地味なスリップやブラウスもある。それから、可愛いい動物柄のオムツ。
 由子の手の動きが止まった――どうしてオムツなんかがあるんだろう?
 由子はオムツを手に持ったまま、ふと物干竿に目を向けてみた。その目に、まだ取りこまれずに竿にかかったままになっている水玉模様のオムツが風に揺れている様子が映った。更に見渡せば、オムツだけではなく、ロンパースやヨダレかけといったベビーウェアが由子の目にとびこんでくる。
 由子は視線をベビーウェアに向けたまま、おずおずと啓子の母親に尋ねてみた。
「ねえ、おばさん。啓子に弟か妹ができたんですか?」
 由子の問いかけを耳にした母親はハッとしたような顔になると、由子の視線を辿ってみた。そこにあるのがベビーウェアだということに気づいた母親は無言のまま、何かを考えるように目を閉じた。
 やがて目を開いた彼女は決心を固めたような表情を浮かべると、固い口調で由子に語りかけた。
「……啓子に会ってちょうだい。だけど、ビックリしないでね」

 残りの洗濯物の取りこみも中止して、母親は由子を家の中へ案内して行った。
 玄関から少し奥まった所に有る階段を昇って、二階の廊下を突き当たると、啓子の部屋が有る。
 母親が静かにドアを開くと、どうぞ、というように由子に手招きしてみせた。
 開いたドアの前に立ち、部屋の中の様子を見渡した由子の目が大きく開き、唇が歪んだ。その部屋が啓子の部屋だと言われても、どうしても信じることができなかった。
 床には、明るい色の水玉模様がプリントされたビニール素材のカーペットが敷きつめられているし、その上に置かれたベッドは、周囲にサークルを備えた白いベビーベッドだった。おまけに、ベッドの上には、サークルメリーが天井から吊ってある。部屋の隅に置かれたタンスにしても、淡いピンクに塗られていて、両サイドには子リスの絵が大きく描かれた可愛いいものだった。更に、その横に置かれた玩具箱には、布製のボールやガラガラなど、幼児用のオモチャが詰めこまれているのだ。
 高校二年生の啓子に似つかわしいものなど、ここには一つもないように見えた。その部屋はどう見ても、赤ん坊を生活させるための育児室だった。
 しかし由子の驚きは、それで終わったわけではない。
 母親に促されてなんとか部屋に足を踏み入れた由子は、部屋の中央にいる啓子の姿を見つけた。その瞬間、由子の驚きが更に激しく膨れあがった。
 啓子の頭には、純白の生地に小花の刺繍をあしらわれたベビー帽子がスッポリ被せられ、ツンと突き出した胸は、吸水性の良さそうな淡いイエローのヨダレかけに覆われていた。ヨダレかけの下には、ピンクの柔らかそうな生地に飾りレースがふんだんに付けられた、見るからにあどけないデザインのベビーワンピースを着ている。しかもそのベビーワンピースの裾からは、その中にたくさんのオムツがあてられているのだろう、モコモコと膨らんだレモン色のオムツカバーが見えていた。
 啓子は、そういったベビーウェアに身を包まれて、熊のヌイグルミを抱いて床の上に座っていた。
 由子は思わず息を飲むと、その場に立ちすくんだ。
 それでも由子の目は、磁石にでも吸い付けられるように、まるで赤ん坊のような啓子の姿をじっと見つめたままだった。
 由子の視界の中で、何かが動いた。
 それは、啓子の母親だった。彼女は由子に、ちらと視線を投げかけると、オムツで大きく膨れたお尻を床におろしている啓子に近づいて行った。
 啓子は気配を察したのか、それまであちら側に向けていた顔を、ゆっくりこちらに向けた。その目に、母親の顔が映った。啓子は慌てて体の向きを変えると、嬉しそうに母親めがけてハイハイで進んできた。
 母親はそんな啓子を優しく抱き上げる(もちろん、本当の赤ん坊のように軽々と、とはいかないが)と、自分の膝の上に座らせた。啓子は大きく伸びをしてみたり、母親の胸に顔を埋めてみたり、と上機嫌だった。
 母親は啓子の頭をそっと撫ぜた後、小さなレースのフリルが付いた裾からオムツカバーの中に右手を差し入れ、様子をみるように、その手をゴソゴソと動かした。
 やがてオムツカバーから手を抜いた母親は、あらあら、と言いながら、抱っこをせがむ啓子の体を床の上に横たえさせた。
 由子が唖然とした表情で見守る中、母親は啓子のオムツカバーを手早く開いていった。そして、ぐっしょり濡れたオムツを啓子のお尻から剥ぎ取ると、ベビータンスの最下段から取り出した新しいオムツを敷きこんだ。それは、物干竿にかかっていたのと同じ、水玉模様のオムツだった。
 啓子のお尻にベビーパウダーをつけ、新しいオムツで包みこんでしまうまでに、たいした時間はかからなかった。それほどに、母親はこの作業に慣れているようだ。つまり、啓子は何度となくオムツを汚していたことになる。
 自分のことでもないのに、由子の頬がポッと赤くなった。同級生がまるで赤ん坊のようにオムツを汚し、それを取替えられる場面をずっと見守るうちに、激しい羞恥が由子の心の芽生えてきたのだ。
 由子のそんな心の動きも知らぬように、母親は啓子の手を引いて立ち上がらせると、ベッドの方へ誘導して行った。啓子は母親に素直に従って、ベッドの上で横になった。母親はベッドの周囲のサークルを引き起こすと、サークルメリーの紐を引いた。かろやかな音楽が流れ始め、人形が踊りだすと、啓子は横になったまま大きな欠伸をした。やがて、人形の動きを追っていた目が静かに閉じて、安らかな寝息が聞こえてくる。

 ベビーベッドの上で眠りについた啓子を部屋に残して、母親と由子は階段をおりて行った。その間も、廊下をダイニングルームに向かって歩いて行く間も、由子は無言だった。訊きたいことが多過ぎて、却って言葉にならないもどかしさを感じながら、由子は母親のあとに従った。
 ダイニングルームの椅子に腰をおろした由子の目の前にティーカップを置き、自分も腰かけた母親が先に口を開いた。
「啓子のこと、聞きたいんでしょう?」
 由子は無言で頷いた。
「そうね。啓子のあんな姿を見せておいて説明もなしじゃ、由子さんも混乱するだけだものね」
 母親は独り言のように呟くと、ミルクティーをスプーンでかきまわしながら、ぽつりぽつりと説明を始めた。
「あれは八月の中頃だったわ――」



 夏休みも後半に入り、進学塾の授業も佳境に突入したようだ。それまでもあまり自分の部屋から出てこなかった啓子が、塾から帰るなりさっさと部屋に入ると、そのまま閉じこもりっきりになってしまった。
 そろそろ夕食だというのに姿を見せないことにふと心配になった母親は、啓子の様子をみてみようと、階段を昇り始めた。そして二階の踊り場に立った時、啓子の部屋の方からなにやら激しい物音が響いてくることに気がついた。
 不安を感じた母親が慌ててドアの前まで駈けて行くと、その激しい物音がドアの中から聞こえているのだ、ということがハッキリした。何かが壊れるような音や、ドアに教科書かなにかがぶつかる音が聞こえてくる。
 母親はノックもせずにドアを開けた。
 部屋の中では、信じられないような光景が広がっていた。
 素直で聞き分けの良い(付け加えるなら、学年でもトップクラスの成績を維持している)啓子が、参考書やペンケースを周囲に投げ散らかし、ゴミ箱を床の上にひっくり返しているのだ。部屋の中には様々な文具や衣類が雑然と散らばり、窓のカーテンはボロ布のようにズタズタに裂けていた。
 母親が大声をかけても、啓子の動きは止まらなかった。それどころか、母親に向かってまでノートを投げつけてくる始末だった。
 あまりのできごとに我を忘れた母親は、ノートや教科書が体に当たる痛みも感じずに、啓子に向かって突進して行った。
 なんとか啓子の側に辿りついた母親が、やめなさい、と怒鳴りながら彼女の体を抱きすくめると、それまでの暴れようが嘘のように、啓子の体がグニャリと折れ、母親の手の中に倒れこんでいった。
 自分よりも大きな娘の体をなんとか支えた母親は、啓子の体を引きずるようにして、壁際に据えられたセミダブルのベッドまで運んで行った。
 ベッドに横になった啓子は、蒼ざめた瞼をピクピクと震わせながら、静かに眠りに入っていった。
 やれやれ、と溜息をついた母親は啓子の体にタオルケットをかけてから、静かに部屋を出た――ちょっと気分が昂ぶってただけよ。今夜ぐっすり眠れば、元のおとなしい啓子に戻るでしょう。

 しかし、母親の期待は見事に裏切られた。
 翌日から啓子は塾へも行かなくなった。それどころか、部屋から一歩も出なくなってしまったのだ。といっても、机に向かっているわけではない。
 母親が様子を見に行っても、ベッドの端に腰をおろして、ボーッとした目で壁を見つめているだけだった。そして、母親が手を引いて部屋から連れ出そうとすると、信じられないくらいの力で抵抗するのだ。
 結局、母親は啓子を部屋から連れ出すことを諦めざるをえなかった。
 それでも、そのまま放っておくこともできない。母親は、食事を啓子の部屋に運ぶことにした。それなのに、啓子は空腹を感じないのか、母親が運んできた食事に手を付ける気配さえ感じられなかった。このままでは衰弱してしまう、と思った母親がムリヤリ食べさせようとしても、啓子の口は頑固なまでに固かった。
 そして、啓子が全く食事を摂らないことに焦りを感じた母親の心の中に、突如として別の悩みが湧きあがってきた。それは、トイレをどうするか、ということだった。
 しかしこの問題については、母親は意外と楽観的な見方をしていた――いくらなんでも、トイレに行きたくなれば、部屋から出てくるでしょうよ。
 だが、その希望も微塵に打ち砕かれてしまった。
 いくら時間が経っても啓子がトイレにおりてこないことを不審に思った母親が部屋に入ってみると、僅かに異臭が漂っていた。それがアンモニアのような臭いだということに気づいた母親は、まさか、と思いながら啓子の下半身に目を向けた。
 母親の目に映ったのは、広い範囲にわたって濡れてしまったベッドのシーツと、大きな滲の付いた啓子のスカートだった。
 母親は大急ぎで啓子を床に上に立たせると、ベッドの横に置いてある整理タンスから下着とスカートを取り出した。母親が着替えさせている間も、啓子はまるで人形のように、虚ろな瞳で壁を見つめるだけだった。とにかく、誰かが部屋から連れ出そうとしない限りは、彼女は何にも興味をしめさずに、ただボンヤリしているだけだった。
 シーツと下着を洗濯機を放りこんだ母親は、唇を前歯で噛みしめると、何かを思い出すような表情を浮かべて、庭の隅にある物置に向かった。
 そこには、彼女の記憶通り、白い木馬の形をしたオマルが収納されていた。啓子が幼児の時に使っていたものだ。
 母親はそのオマルを抱え上げると、何かを思いついたように、その隣にあったダンボール箱も持ち上げた。

 綺麗に洗ったオマルを目の前に置いても、啓子はボンヤリしたままだった。
「いいわね、トイレに行きたくなったら、このオマルにしなさい。ママが適当に見にきて、洗ってあげるから。わかったわね?」
という母親の言葉さえ、啓子の耳に聞こえているのかどうか怪しいものだった。
 シーツと下着を竿にかけてから買物に出かけ、大きな袋を提げて帰ってきた母親が啓子の部屋に入ってみると、オマルは彼女が置いた場所にそのままあった。そして、さっき着替えさせたばかりのスカートに、再び大きな滲が付いていた。念のためにとお尻の下に敷いておいたバスタオルのおかげでベッドのマットが無事だったことが、せめてもの救いだろうか。
 しかし、今度は母親は慌てなかった。
 彼女は啓子をベッドの上に寝かせると、スカートと下着に手をかけて静かに脱がせていった。それから、買物袋に手を入れると、クリーム色の下着のような物を取り出した。ただ、それは普通の下着などではなく、大きなオムツカバーだった。
 ひょっとしたら、という予感めいたものを感じた母親は、この成人用のオムツカバーを買うために薬局に行ったのだ――その予感は見事に的中してしまったようだ。
 母親は床の上に大きなオムツカバーを広げると、オマルと一緒に物置から持ち出してきたダンボール箱のテープを剥がした。そこには、啓子が赤ん坊の時に使っていたオムツが収納されている。
 母親は箱から取り出した動物柄のオムツを目の前で広げてみた。うまい具合に、優れた密閉性と換気性とを併せ持った物置のために、虫喰の穴も、小さな埃も、そのオムツには付いていないようだった。
 オムツカバーの上にオムツを広げると、母親はそれを啓子のお尻の下に敷きこんだ。啓子は微かに体を震わせたようだったが、特に抵抗するふうでもなく、相変わらず、ボーッと天井を見ていた。
 マジックテープと腰紐を調整すると、オムツカバーは啓子のお尻にうまくフィットした。裾ゴムも適度な張りで、オシッコが洩れる心配はないようだ。
 お尻を大きなオムツカバーに包まれた啓子の姿を見つめながら、母親は呟いた。
「やれやれ、この歳になって、またオムツをあてることになるとは思ってもみなかったわ。ほんと、どうしちゃったのかしらねえ」
 しかしその声には、どこか、今の啓子の姿をいとおしく思っているような調子が含まれているようでもあった。
 やがて母親は、そうそう、と手をうつと、再び買物袋に手を入れた。そして、リスのイラストが描かれた哺乳瓶を握ると、その手を袋から引き抜いた。母親は哺乳瓶の包装を取ると、やはり袋から取り出した牛乳のパックを傾けた。トクトク……と音をたてながら、ミルクが哺乳瓶に満たされてゆく。
 八分目ほどミルクが入った哺乳瓶を右手に持った母親は、ゴムの乳首を啓子の唇に当てると同時に、その唇を左手の指で開かせた。
 食事とは違って、これは大丈夫のようだった。ブクブクと泡をたてながら、哺乳瓶の中のミルクがゆっくり啓子の口に流れこんでいった。
 ミルクだけでも飲んでいれば、そんなにひどく衰弱することもないだろう、と思った母親は、ホッと溜息をつきながら、啓子にミルクを与え続けた。
 母親の頭の中で、オムツをあてられて哺乳瓶からミルクを飲む啓子の姿と、幼い時の彼女の姿とが二重写しになって浮かんでいた。



「――というわけで、啓子は勉強もしなくなっちゃったし、人並みの生活さえ、できなくなっちゃったのよ」
 啓子の母親が、スプーンを皿の上に戻して言った。
「……そうだったんですか。でも、お医者様には?」
「もちろん診てもらったわ。主人の高校時代の友人に精神科の先生がいてね、家まで来ていただいたの。だけど、ダメ。その先生の言うことには、『お嬢さんは自我の周囲に厚い壁を作ってしまっているようで、それをムリヤリ壊すことはできないでしょう。強行すれば、廃人になってしまう可能性もあります。このまま、様子を見るしかないでしょうね』だって」
「そんな……。それじゃ、このまま治らないんですか?」
 由子は母親の顔を睨みつけるようにして言った。
「ううん。そんなこともないだろう、って。最初の頃はポケーッとしてるだけだったのに、いつ頃だったか、窓の外から赤ちゃんのガラガラの音が聞こえてきたのよ――誰かが赤ちゃんを散歩させてたのかしらね。その音が聞こえてきた途端、啓子ったらベッドから起き上がって、窓の方に駈け寄って行ったわ。それからね、少しずつだけど、いろんなものに反応し始めたの」
「つまり、生まれたばかりの赤ちゃんが少しずつ刺激に反応するみたいに、っていうことですか?」
 由子は言葉を探しながら、訊いてみた。
「……そういうことかしらね。受験とか人間関係とかでストレスを受けた心が自分を守るために、外界からの情報を遮断する壁を作ったんだけど、それに少しずつ穴が開き始めたんでしょうね」
「じゃ、もうすぐ治る……」
「さあ、それはどうかしら? 今、あの子は生まれて一年くらいの赤ちゃんの状態ね。それが順調に育ってくれればいいんだけど……」
 由子は視線をティーカップに移すと、両手でカップを抱くようにしながら言った。
「ねえ、おばさん。今夜、泊めていただけませんか?」
「え……?」
「今夜、啓子と一緒に寝てみたいんです。ひょっとしたら、私が啓子と一緒にいることで、啓子の心が少しでも早く元に戻るんじゃないか、って思うんです」
「……そうね。仲のよかった由子さんが近くにいてくれれば、いい刺激になるかもしれないわね。明日は日曜日だし、こちらからお願いしたいくらいだわ」

 じゃ洗濯物を取りこんできちゃうわ、と言って母親が裏庭に出て行くと、由子は一人で啓子の部屋に戻った。その時も、啓子はスヤスヤと気持よさそうに眠り続けていた。
 由子は啓子のあどけない寝顔を見ると、思わず微笑んだ。もう、さっきのような驚きや戸惑いはすっかりなくなってしまっていた。
 由子は、母親がしていたように、啓子のオムツカバーに手を差し入れてみた。その掌に、濡れたような感触が伝わってくる。
 由子は慌てて手を引き抜くと、その手と啓子の顔を交互に見比べて、クスクス笑った。それから、ベビータンスの前に膝をつくと、最下段の引出を開いた。そこには、様々な模様のオムツがぎっしりと詰めこまれていた。
 由子はその内の一枚を取り出すと、床の上に広げてみた。赤い金魚の柄が描かれたそのオムツは、普通に赤ん坊にあてるものと比べると、ずいぶん大きく縫ってあるようだった――最初の頃は啓子が赤ちゃんの時のを使ってたんだろうけど、これは違うみたいね。おばさんが新しく縫ったのかしら?
 由子はオムツのサイズを確認すると、タンスから更に四枚を取り出した――これで大丈夫かな。
 それから、オムツの隣に収納してあるオムツカバー。オムツカバーも、可愛いいデザインのものがたくさん用意されていた――どれにしようかな? あ、このキャンディの柄のがいいかしら。
 由子はキャンディの模様が散りばめられたピンクのオムツカバーの上に金魚柄のオムツを広げると、それを持ってベッドに向かった。ベッドの上の啓子はまだ目を醒まさないようで、時おり楽しそうな笑顔を見せながら、寝息をたてている――どんな夢を見てるのかしら? それにしても、オネショでオムツが濡れちゃってるのに目を醒まさないなんて、本当の赤ちゃんみたいね。
 由子は啓子のオムツカバーの腰紐に指をかけた。蝶々結びになっている腰紐をほどくと、手を下の方に移動させて、並んだボタンを外してゆく。最後のボタンを外して前当てを啓子の両方の脚の間に広げ、左右の横羽根を静かに開くと、さっき母親が取替えたばかりの水玉模様のオムツが見えた。
 由子は啓子の足首を掴むと、高く持ち上げようとした。保育実習で試した赤ん坊とは違い、啓子はずいぶん重かったが、それでもなんとか、オムツを交換できる程度には持ち上げることができた。
 濡れたオムツをオムツカバーごとどけると、その代わりに新しいオムツを敷きこむ。
 由子は啓子のお尻をそっとおろすと、掴んでいた足首から手を離し、両脚を大きく広げた。
 なんとかオムツでお尻を包んでしまい、オムツカバーのボタンを留めようとし始めた時、啓子の目がうっすらと開いた。
 啓子は、オムツを取替えているのが母親ではないことに気づくと、大きく体を震わせ、大声で泣き始めた。その無心な泣き声は高く澄みきったもので、とても高校二年生の少女が出しているものとは信じられないほど純粋なものだった。
 由子は慌ててガラガラを持つと、啓子の目の前で振ってみせた。そのかろやかな音に、啓子は僅かだが、泣き声を弱めた。由子は更に強くガラガラを振ると、啓子の顔をのぞきこむようにして言った。
「ほーら、泣かないの。啓子ちゃんはいい子ね。だから、泣かないのよ――私のこと、誰だかわかるかな?」
 由子の言葉が理解できたのか、啓子は大きく目を開くと、由子の顔をマジマジと見つめた。
 啓子はしばらくそうしていたが、やがてキャッキャッと嬉しそうな声を出すと、上半身を起こして由子にとびついてきた。由子のことを思い出しでもしたのだろうか。
 由子は啓子の肩を抱くと、頬に軽くキスをしながら、優しく言い聞かせた。
「あらあら、オムツが外れちゃうから、そんなに暴れないでちょうだい。さ、オムツをあてちゃってから遊ぼうね」


 夜になって、夕食を食べさせる(最初の頃はミルクしか飲まなかった啓子も、今では柔らかい離乳食なら口にするようになっているらしい)と、由子は啓子の衣類を脱がせて、二人でバスルームに入った。
 湯船の中でも啓子は由子に甘え、オモチャの金魚やジョウロで遊んでやると、自分が裸だということも気にせずに、様々なポーズを取って喜びを表現した。
 そうしているうちに、由子のまだ固い乳房が啓子の頬に触れた。その途端、啓子は目を輝かせて、
「ぱいぱい」
と言いながら乳首を口にふくんでしまった。
 由子はとっさに啓子の体を押しのけようとしかけたが、途中で思い直したようにその動きを止め、啓子の後頭部に手を回すと、彼女が乳首を咥え易いような姿勢を取った。
 自分の乳首を口にふくんで満足そうな表情を浮かべている啓子の顔が、由子にはとてもいとおしく思えた。できることなら、いつまでもこうしていたい、とさえ無意識のうちに考えるほどだった。
 しかし、ガラス戸越しに聞こえてきた母親の声が、由子を現実に引き戻した。
「啓子のお風呂あがりの準備ができたから、いつでもいいわよ」
 不意に我に返った由子は啓子の口から乳首を離した。まだそうしていたい、と不満そうな目で由子の顔を見つめる啓子の顔が、上気したようにまっ赤になっていた。どうやら、長湯をし過ぎたらしい。
 由子は先に湯船からとびでると、啓子の両手を引いた。やっとのことで出てきた啓子の体は、まるで茹蛸のようになっていた。
 由子は自分の体にバスタオルを巻き付けると、もう一枚のタオルで啓子の体を拭き始めた。しばらく、拭いても拭いてもふき出してくる汗と格闘した後、びっしりと水滴の付いたガラス戸を開けた。
 脱衣場の床には、白地に動物のイラストが散りばめられたオムツカバーが広げられ、その上に動物柄のオムツが重ねられていた。そしてその横には、ウサギのアップリケが付いたコンビドレスが用意されている。
 バスルームから出てきた啓子の体を脱衣場の床に寝かせ、お尻の下にオムツとオムツカバーを敷きこんだ母親は、僅かに首をかしげると、由子に向かってこう言った。
「啓子ったら、お湯に入り過ぎちゃったみたいね。飲物を用意してくるから、着る物をお願いできる?」
 由子が、いいですよ、と答えると、母親は小走りで脱衣場から出て行った。
 啓子は、オムツをあてられ、ベビー服を着せられる間もじっとはしていなかったが、それをなんとかなだめすかし、由子はコンビドレスのボタンを留め終えた。その頃には、由子の目には、啓子はその大きな体格にもかかわらず、本当の赤ん坊のように見えていた。最初に感じた驚きが消えてしまっただけでなく、少女とも幼女ともつかない啓子の姿に、由子の心はすっかり魅せられてしまったようだった。
 そして由子は、自分のそんな心の動きに戸惑いを覚えた――私がこの家に泊まるのは、啓子の心を少しでも早く元に戻すためなのよ。それなのに、何を考えてるの。
 しかし、戻ってきた母親が冷たいジュースを啓子に飲ませている間も、一旦芽生えた由子の感情は消えることはなかった。そんな自分の心の内を押し隠すように、由子は啓子の顔をじっと見つめていた。
 しばらくして哺乳瓶が空になると、母親が慌てたように言った。
「あら、いけない。由子さんの着る物を持ってこなくちゃね――啓子のだけど、かまわないかしら?」
 啓子の顔を見つめていた由子は、急に声をかけられたことにうろたえながら、口の中でモゴモゴ応えた。
「あ、はい。あの、なんでもいいです……」

 由子の言葉を聞いた母親は静かに脱衣場から出ると、しばらくして、藤製のバスケットを抱えて戻ってきた。
 母親はバスケットを床に置くと、その中身を丁寧に取り出し始めた。
 床に並べられてゆく衣類を見ていた由子は、思わず、母親の動きを遮るように言った。
「ちょっと待ってください、おばさん。これを私が着るんですか?」
「そうよ。さっきも確認したでしょう――『啓子の着てるものでいいわね』って」
「でもあれは、啓子のパジャマかネグリジェを貸してもらえると思ったから……」
 そう言いながら、由子はもう一度、母親が並べた衣類に目を向けた――啓子が着けているのとお揃いのオムツカバーとオムツ、それに、ピンクの生地でできたロンパースにベビー帽子といったものが由子の目に映った。
「さ、そのままじゃ風邪をひくわ。私が着せてあげるから、横になりなさい」
 母親は、それまでの口調とはうってかわった、有無を言わさぬ強い調子で言った。
 母親の厳しい口調に思わず頷くと、由子はのろのろと自分のお尻をオムツの上にのせていった。その柔らかな布の感触は想像以上に由子の羞恥心を刺激し、彼女は膝をガタガタと震わせた。
 それでも、由子の心の中に、その感触を待ち望んでいた部分があることも否定できない事実だった。彼女自身はまだ気づいていないかもしれないが、赤ん坊のような啓子をいとおしく思ったのは、啓子そのものをいとおしく感じたのではなく、自分もそうしてみたい、という願望を無意識のうちに抱いたからだった。赤ん坊のような啓子を初めて見た時の驚きが僅かな時間のうちに消えていったのも、つまりは、自分の心に芽生えた願望のためだったのだ。
 そうでなければ、母親からどのように強く命令されたとしても、自らオムツの上にお尻をおろすという行為ができるわけがない。
 オムツをあてられ、まるで幼児が着るような、股間にボタンが並んだロンパースを着せられ、純白のベビー帽子で頭を覆われる間、由子はギュッと目をつぶって、顔をまっ赤に染めていた。だが、その赤く染まった顔は、羞恥のためだけではないようだった。
「はい、できたわ。おとなしくしてたわね。由子ちゃんは本当にいい子だわ」
 オムツカバーの上からお尻をポンと叩くと、母親が優しい声をかけた。
 しかし由子は返事をせず、目も開けようともしなかった。
 しばらくそのままでいた由子の唇に、何か柔らかい物が押し付けられる感触があった。
 思わず目を開いた由子の目に映ったのは、哺乳瓶を彼女の唇に押し当てている母親の右手だった。母親は目を開いた由子にウインクしてみせると、こう言った。
「いい子だったから、ご褒美にジュースをあげるわね。たくさん飲むといいわ」
 由子はそのゴムの乳首を咥えると、深呼吸をしてから、ゆっくり吸い始めた。ベビーウェアを受け入れた今、哺乳瓶を拒否する理由はないのだ。由子は、口の中に爽やかな味が広がるのを感じながら、唇の力を強めていった。
 それまでは少しばかり強張っていた母親の表情が、由子が素直に哺乳瓶の乳首を口にふくむと、ぱっと明るくなった。そして、それまで由子が考えてもみなかったようなことを喋べり始めた。
「本当のことを言うとね、私としては、啓子にこのまま赤ちゃんでいて欲しいの。主人は出張ばかりで、家の中はいつも寂しかったのよ。夏休みには啓子がいたけど、ずっと自分の部屋に閉じこもってたわ。だから、いてもいなくても同じ。それに、夏休みが終われば学校へ行っちゃうものね。
 だけど、あんなことで、啓子が赤ちゃんみたいになったでしょう。その時、実を言うと、とっても嬉しくなったの――これで、啓子は私とずっと一緒にいる、ってね。
 だけど、啓子が赤ちゃんになったのは嬉しかったけど、そのまま友達もなくなっちゃ寂しいだろうな、とも思ったわ。そこへ現われたのが由子ちゃん、あなただったの。あなたなら学校でも仲のいい友達だもの、赤ちゃんになっても仲良くしてくれると思ったわ。そんなところへ、泊まります、なんて自分から言ってくれたんだもの。その時の嬉しさったら、なかったわよ。
 さ、ジュースを飲み終わったら、啓子と一緒にネンネしましょうね」
 最初は予想外だった母親の言葉も、いつしか、由子の耳には子守歌のように心地良く響いていた。睡眠薬が混ぜられたジュースの入った哺乳瓶の乳首を口にふくみながら、由子はウトウトし始めた。

 夜中にふと目を醒ました由子は、人の気配を感じた。
 横を見てみたが、啓子は相変わらず安らかな寝息をたてて眠っているようだ。
 由子は辺りをうかがうように、静かに首を動かしてみた――由子のお尻の近くに人影があった。
 由子はその正体をつきとめようと、上半身を起こした。その途端、天井の蛍光灯が眩しく輝いた。
 由子は目を掌で覆いながら、人影を見つめた。すると、その人影の方から、優しそうな声が聞こえてきた。
「ごめんね、起こすつもりはなかったのよ」
 それは紛れもなく、啓子の母親の声だった。母親は由子の傍らに膝をつくと、謝るように言葉を続けた。
「ちょっと、様子を見にきただけなの」
「様子……?」
 由子が聞き返した。
「そう。こっちの様子を、ね」
 母親はそう言うと、由子のロンパースの股間のボタンを二つ外して、その隙間から手を差し入れ、更に、オムツカバーの中にもぐりこませた。
 ビクッと体を震わせた由子の耳に、母親の嬉しそうな声が聞こえてきた。
「あらあら、こんなに濡らしちゃって。もうこれで、由子ちゃんもすっかり赤ちゃんになっちゃったわね――明日から、二人分のオムツの洗濯で忙しくなりそうだわ」
 そう言った母親は、ニコッと微笑みを浮かべた。
 その笑顔は、もうすぐ吹いてくる筈の秋風のように、とても爽やかなものだった。


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