ベビーシッター


 人材派遣会社『総合アシスト』の電話が鳴った。受話器を取り上げた事務職員の耳に、ベビーシッターの派遣を依頼する女性の声が聞こえた。
 最近の不景気のせいで企業への派遣業務が減少し、経営が苦しくなっている人材派遣会社が少なくないが、『総合アシスト』はそうではなかった。OA機器のオペレーターを企業に派遣する業務もあるにはあるものの、元来が家庭教師やベビーシッターを個人の家庭に派遣することを主に行なってきたため、景気の良い時でも大きくは儲からないが、景気の悪いときの落ちこみもさほどではない安定性を持っていた。
 電話を取った職員は依頼の内容を確認しながら、その内容を細かく受注伝票に記入していった――女性のベビーシッターを一人・子供の体格が大きいので、若くて元気なベビーシッターが必要・明日にでも勤務を始めて欲しい・かなり長期の住み込み勤務になる・等々。職員は受注伝票への記入を終え、必要な条件を目の前のキーボードに打ちこみ始めた。数秒後、『総合アシスト』のコンピューターに登録されている契約社員の内、条件に合致した者がディスプレイにリストされる。職員はそのリストに従って、契約社員に連絡を取り始めた。
 六番目にリストアップされていた佐伯芳美がOKの返事を返してきた時、職員は小さく安堵の溜息をもらした。近頃ではベビーシッターを引き受ける者はやや年配の女性が殆どであり、依頼のように若い女性には進んで受ける者が少なかったからだ。かなりのギャラでも、断わる者が少なくない。職員は芳美の気が変わらないうちにとでもいうように、勤務先の住所や名前、それに種々の契約条件を早口で伝え始めた。

 翌日、芳美は依頼主の家の前に立っていた。高級住宅地として名高いこの近辺でも、目の前に在る家は頭抜けていた。華美ではあるが大袈裟になっていない造作の洋風建築の屋敷と広い庭が見える門の前にしばらく立っていた芳美は、ゆっくりと歩いて裏門に向かった。とても正門から入る気になれないほど圧倒されてしまったのだ。かなりの時間を歩いてやっと辿りついた裏門だったが、それがそこいらの家の正門よりも立派だと気づいた芳美は、思わず溜息をついてしまっていた。一生をどう頑張っても、自分にはこの裏門にさえ匹敵する家に住むことも叶わないだろうと思ったからだ。
 なんとか気を取り直した芳美は、インターフォンのボタンを押した。小さく電子音が鳴った後、どなたかしら?と女性の声が聞こえた。
「『総合アシスト』から派遣されて参りました。ベビーシッターを御依頼の菅井様のお宅はこちらでしょうか」芳美はインターフォンに話しかけた。声が少々うわずっているのが自分でもわかった。
 少し待っててね、という声に従って二分間も門の前で待っていただろうか。やがてロックの外れる音が聞こえ、静かに門が開いた。その門から三十歳後半と思しい女性が姿を見せた時、芳美は、彼女が依頼主本人であろうと感じた。これほどの屋敷であれば、まずは女中が案内に出てくるかと予想していたのだが、彼女の身体から漂う気配は、生まれながらの血統の良さを感じさせるに充分なものだった。どう見ても女中には見えない、ならばここの住人、つまりは依頼主ということになる。
「御苦労様、菅井涼子です。まずは家に入って下さいな。詳しいことはその後で」芳美の身分証明書を涼し気な視線で一瞥してから、彼女が言った。

 菅井涼子に従って、芳美は廊下を歩いていた。階段を登り、二階の突き当たりの部屋の前で涼子が立ち止まった。
「ここがあなたの部屋です。家具類は揃っている筈だから、自由に使って下さい」厚い木のドアを開けながら、涼子が言った。「とりあえず、荷物を置いてしまいなさいな」
 慌てて御辞儀をしてから、芳美は部屋に足を踏み入れた。しばらく誰も使っていなかったのか、やや黴くさく感じたものの、芳美の使用に備えて掃除されたのだろう、塵ひとつ無い清潔な部屋だった。調度品も歴史を感じさせる質感のあるものばかりで、自分のアパートに置いてある家具とは比べ物にならないことが一目でわかった。
「一時間したら、また来るわ。それまでに荷物の整理をしててちょうだい」部屋に入ってから何の作業も始めない芳美の様子を見て、涼子が言った。
「あ、すみません。すぐに終わりますから」涼子の言葉に我に返った芳美は慌てて言ったが、涼子は気にしなくてもいいのよ、と優しく言って部屋から出て行った。
 バッグから取り出した衣類や小物を箪笥に整理してしまうのに十五分とかからなかった。ベビーシッターという仕事柄、フォーマルなスーツやドレスを持って来ているわけではない。カジュアルな服やスエットスーツばかりだから、それほどきっちりと整理する必要もなく、時間はかからないのが当然だった。さて、涼子が再びやって来るまでどうやって時間を潰そうかと芳美は考えた。初めて来た屋敷の中を見て廻るのはあまりにも不躾だし、テレビにしてもこの時間帯に興味のある番組はやっていない。
 することもなく、しばらくベッドの上で横になってから、芳美は窓際に立ってみた。その窓からは、正門に続く広い庭は見えなかったものの、こじんまりした中庭の様子がよく見えた。よく手入れされた芝が青々し、小さな池と噴水が設けられている。建物近くにはあまり派手でない花壇が在り、芳美の目を和ませた。その花壇よりも建物寄りの場所は洗濯物の干し場になっているのだろう、何本かの竿にかかった衣類が風に揺れている。
 何気なくその洗濯物を見ていた芳美の心に小さな疑問が生じた。涼子のものと思しき洗濯物や女中のものらしき衣類は有るものの、子供用の衣類が全く目につかなかったのだ。ベビーシッターを依頼してきたのだから当然、それを必要とする子供が居なければならないのに、その子供が着るような衣類の洗濯物が無いのだ。何故だろう、と考え始めた芳美は更に疑問点を思いついた。涼子についてこの部屋まで来る廊下でも、二人の女中とすれちがった。これほどの屋敷だもの、数人の女中が居ると考えるのが自然だ。それなら、わざわざベビーシッターを派遣させる必要も無いのではないか? どのような理由でか母親が子供の世話をできなくなったとしても、数人の女中が居れば子供の世話くらい、なんとかなりそうなものだ。
 しかし、芳美は考えることを中断した。この部屋の中でいろいろ考えてみても、答を得られないことに気づいたからだ。――すぐにでも子供部屋に案内される筈だ。そうすれば、疑問は簡単に解決されてしまうだろう。
 ドアがノックされた。
「そろそろ、いいかしら?」静かにドアを開けた涼子が声をかけた。
「はい。結構です」芳美が答える。

 涼子が芳美を連れて行ったのは、予想に反して子供部屋ではなく、浴室だった。
「子供部屋に行く前に、御手間ですけど汗を流してしまって下さいね」涼子は脱衣場のドアを指差して言った。
 大事な子供に触れる前に、体を清潔にしておくにこしたことはない。それに、馴れないお屋敷の雰囲気に緊張している心をほぐすには絶好のチャンスだった。ありがとうございます、と言って芳美は脱衣場に入った。
 熱い湯と冷たい水とを交互に何度か浴びると、疲れが溶けて流れ落ちるような気がした。そうしてから、頭の先から爪先まで丁寧に洗ってゆく。シャボンの泡をシャワーで流し、体の水気をバスタオルで拭き終える頃には、身も心も若返ったようにさえ思えた。
 バスルームのガラス戸を閉め、脱衣場で服を着ようとした芳美は、脱衣カゴに入れておいた筈の服が無くなっていることに気づいた。脱衣場にはカゴは一つしかなく、棚やロッカーのようなものは無い。床にも服は落ちていなかった。
 どうしちゃったのかしら、と思いながらバスタオルを巻いただけの格好で脱衣場のドアを開けてみると、そこに立っている涼子と目が合った。
「あなたの服を探してるのかしら?」芳美が尋ねる前に、涼子が声をかけた。
「そうです、脱衣カゴに入れておいたんですけど…」
「心配しなくてもいいわ。洗濯しておいてあげるから」
「でも…」
「いいのよ。それに、今から採用試験を始めるんだけど、それには服は必要ないのよ」涼子は意味あり気な視線を芳美に投げかけて言った。「そのままでいいわ、ついてきて下さいな」
 一瞬ためらった芳美だったが、涼子について行くしかないことをすぐに理解した。自分の部屋に戻ろうにも、この格好で廊下を歩かなければならないのだから。それにしても、と芳美は思った。会社から聞いた条件の中には、採用試験が行なわれることなど全く含まれていなかった筈なのに。
 やがて二人は一つのドアの前で立ち止まった。そのドアには子象やキリンなどのシールが貼られ、子供部屋だということが一目でわかる。涼子がドアを開け、芳美に入るように合図した。芳美が両足をその部屋に踏み入れた時、うしろでドアの閉まる音がした。振り返ってみたが、涼子は入ってきていないようだった。芳美は思わずドアのノブを回してみたが、ドアはロックされたのか、全く開こうとはしなかった。何かの手違いが起こったのだろうか、と考えた芳美は再度振り返り、部屋の中を見回した。
 壁にはピンク系の壁紙が貼られ、床にはベビー箪笥やベビーベッド、玩具箱が置かれている。ベッドの上の天井にはサークルメリーが吊られていた。棚にはテレビとビデオデッキ、子供向けアニメのビデオテープ等が収められている。しかし、そのどれもが新品で、使われたような雰囲気が全く感じられなかった。だいいち、この部屋には人の気配が全く無いようだった。
 世話をすべき赤ちゃんの居ない子供部屋で私にどうしろというのだろう?と思いながら、芳美はベビー箪笥に近づいてみた。何気無く引出の一つを引き開けてみる。そこには、水玉模様や動物柄のおむつがたくさん入っていた。その横にはピンク地に動物のアップリケがついたものや、花柄のプリントが施されたものなど色とりどりの可愛らしいおむつカバーがきちんとたたまれている。ただ、それらも新品ばかりのように汚れもなく、きれいなものばかりだった。
 別の引出を開けてみようと指をかけた時、ドアの開く音が聞こえた。振り返った芳美の目に映ったのは、涼子ではなかった。芳美と同じような年代の女性が一人、やはり芳美と同じようにバスタオルを体に巻いただけの格好で部屋に入ってきた。そして、ドアは忙しく閉じてしまう。
 芳美とその女性は互いに顔を見あわせた。やがて、二人の表情は途方にくれたものに変わっていった。
 しばらくそうしていると、どこからか涼子の声が聞こえてきた。二人がその声の方に顔を向けると、いつのまにかテレビのスイッチが入っていた。そして、その画面に涼子の顔が映っていた。
「今から、採用試験を開始します」テレビ画面の涼子が言った。「その前に、部屋に居るお互いの名前を知っておいた方がいいでしょうね。先にいたのが佐伯芳美さん、後から入ったのが宇野芹香さん。佐伯さんと宇野さんの二人でゲームをしてもらって、勝った方をベビーシッターとして採用することにします」
 芳美は少しばかり緊張していた。採用試験があることなど、ついさっき脱衣場で涼子に言われたばかりなのだ。しかし、このギャラの良い仕事を芹香に譲るわけにはいかなかった。どんな内容の試験なのだろうか。
「二人とも、緊張してるようね。でも、大丈夫よ。内容は簡単だから」涼子が笑顔で言った。この部屋のどこかに仕掛けられているカメラで二人の様子が見えるのだろう。「それに、試験に落ちた人にもベビーシッターとは違う仕事を用意してあります。違う、とは言っても似たような仕事だから心配しないでちょうだい」
 涼子の言葉を聞いた芳美と芹香との間に、明らかにホッとしたような気配が流れた。不採用ということがない、という言葉に緊張が少し緩んだようだった。

「試験内容を説明します。まず、二人ともベビー箪笥の前に行って下さい」涼子の言葉に従って、二人はベビー箪笥の前に立った。その箪笥の引出の一つはさきほど芳美が開けたままになっていて、中のおむつやおむつカバーが見えていた。
「どれでもいいからおむつカバーを一枚、引出から取り出して広げてみて」涼子が言い、芳美が、リスのアップリケがついたおむつカバーを手に取った。たたまれて箪笥の中にある時には気づかなかったが、広げられたそのおむつカバーは驚くほどの大きさだった。デザインこそ赤ちゃんにふさわしい可愛らしいものだったが、そのサイズはおよそ赤ちゃんに使えるものではなかった。有体に言えば、芳美や芹香のお尻を包むのに丁度よいサイズに仕上がっていたのだ。芳美と芹香は思わず顔を見あわせた。
「それじゃ、宇野さん。その上の引出を開けてみて下さい。それから、その中に入っているベビー服をどれか取り出してね」呆然としている二人に涼子が声をかけた。開いていた引出を閉め、その上の引出を芹香が引く。そこには、様々なデザインと色合いのベビー服が収まっていた。その内の一枚を芹香が取り出す。淡いピンク地のニットだろうか、柔らかそうな生地でできたベビードレスだった。胸から裾にかけて、レースのフリルがいっぱいついていて、可愛らしいとしか言いようのないデザインだった。但し、そのベビードレスもおむつカバーと同じように、赤ちゃんが着るには大きすぎることが明らかだった。
「わかったかしら? そのベビー箪笥に入ってるベビー用品はどれも、本当の赤ちゃん用のものじゃないの。言ってみれば、大人用のベビー用品なのよ――あなたたちが身に着けられるようなサイズになってるの」涼子は、二人の反応を待つように一呼吸おいた。「いよいよ、本題よ。試験方法を説明します。二人の内、どちらがベビーシッターとしての技術が優れているかをみるために、赤ちゃんに服を着せてもらうことにします。――わかってるだろうけど、本当の赤ちゃんじゃないわよ。
 佐伯さんは宇野さんを、宇野さんは佐伯さんを、それぞれ赤ちゃんに見たてて服を着せっこして下さい。お互いが同時に始めて、先に赤ちゃんの格好にされた方が負け。
 赤ちゃんの格好としては、ベビー帽子・よだけかけ・ベビー服――これはベビードレスでもロンパースでもいいし、カバーオールでもいいわ・おむつ・おむつカバー・ソックス、以上です。これだけのものを相手に着せた方が技術が優れているとみなして、ベビーシッターとして採用します。
 着せようとするのを妨害するのはいいけど――ほんとの赤ちゃんでも逃げまわるものね――、一度着たものを脱ぐのは反則として、その時点で負けとします。
 わかったかしら?」
 芳美は納得した。こんなことをするために、自分がシャワーを浴びている間に脱衣場の服を隠してしまったのだろう。そして思った。涼子の本当の狙いが何なのか(本当にベビーシッターの採用試験として、こんな馬鹿げたことをする筈はないもの)しらないけど、こんなことにつきあう必要はない。ギャラは諦めて、この屋敷から出よう。
 しかし次の瞬間、この屋敷から出ることが不可能だと気づいた。それどころじゃない。ドアのロックが外れない限り、この部屋からさえ一歩も出られないのだ。芳美は、ふと芹香の方を向いた。芹香も同じことを考えていたのだろう、肩をすくめてみせた。
 二人が涼子に逆らう方法は、一つしか残っていなかった。二人が争わずに、おとなしくしていることだ。揃ってゲームに参加しなければ、ゲームそのものが成り立たなくなる筈だった。声に出して相談することもなく、自然に二人はそうしていた。
 そのまま、二時間ほどが経過した。
「そうすることは予想していたわ。だから、もう一つ条件を加えることにします」それまで黙っていた涼子がクスクス笑いながら言った。「勝負がつくまでは、ドアのロックは外れないのよ。二人とも、いつまでオシッコを我慢できるかしらね? 先にオモラシしちゃった方も負け、ということにするわ。赤ちゃんみたいにオモラシしちゃうベビーシッターなんて、聞いたことないものね」
 芳美と芹香は、再び顔を見あわせた。二人の目は、やるしかないようね、と言っているようだった。涼子の思い通りに事態が進むことがイヤなために『採用試験』に参加することを拒んではいたものの、いずれにせよ決着がついてしまうものならば、自分が勝者になる方が望ましいものだ。それに、涼子の言うように、芳美は尿意が高まり始めているのを感じていた。
 芳美は体に巻いていたバスタオルをほどいた。少しでも動きの邪魔になるものは体から外しておく必要がある。そして、芹香の動きを目で追いながら、箪笥からベビードレスとソックスを取り出した。おむつを相手にあてるのは難しいと思えたので、まずは比較的簡単なものから始めるつもりだった。
 しばらく芹香の顔を睨んでおいてから、芳美は不意をつくようにジャンプした。芳美の急な動きに戸惑った芹香が態勢を崩している隙に足払いをかける。芹香が思わずうつぶせに倒れるところに馬乗りになる。そのまま両脚の太腿を自分の膝で抑えこんだ芳美は、芹香の足にソックスを履かせることに成功した。更に、自分の体を芹香の腰にのせながら両脇を持って、芹香の上半身を反らせる。浮いた体と床との間に足を差し入れて固定し、その間に、ベビードレスを頭からかぶせてしまう。両手をドレスの袖に通して、背中のファスナーを閉じてしまえばできあがりだった。
 芳美は静かに立ち上がって、次のベビー用品を取るためにベビー箪笥の方に向かった。その時、隙ができた。首と顎を肘で締めつけられた、と思った時には頭に淡いイエローのベビー帽子を被せられ、その紐が顎の下で強く結ばれていた。芳美は少し慌てながらも、背後の芹香をなんとか突きとばした。その衝撃で、芹香は手に持っていたよだれかけを床に落してしまった。それを見た芳美は手早くよだれかけを床から拾い上げ、痛そうにお尻をさすっている芹香の胸に着けてしまう。
 今度は隙を見せないように、芹香の動きを見ながらゆっくりと後ずさった芳美は、手さぐりで箪笥からベビー帽子を取り出した。それは芳美が被っているものとは違って、まっ白の生地に小花の刺繍が所々にあしらわれたデザインのものだった。抵抗しようとする芹香の右手を軽く払うと、彼女は諦めたのか、床に座りこんでしまった。その頭にベビー帽子を被せて紐を結ぶのは、困難な作業ではなかった。
 今、芳美が身に着けているのはベビー帽子だけだった。対して、芹香はベビー帽子・よだれかけ・ベビードレス・ソックスを既に身に着けている。圧倒的に芳美が優勢だった。
「ここまできちゃったんだもの、諦めてくれないかしら?」芳美は、一組のおむつとおむつカバーを手にして、芹香に言い聞かせるように声をかけていた。「どうみても私の方が優勢だわ。もうケンカをやめて、おとなしくおむつをあてさせてくれないかしら?」
 しばらく考えていた芹香が、諦めたようにこっくりと頷いた。
「そう、芹香ちゃんはいい子ね。」幼児をあやすように、芳美は芹香のお尻の下におむつを敷きこんだ。
 その時、おとなしく開いていた芹香の脚が曲がり、芳美の下腹部に蹴りこまれた。諦めたふりをしていた芹香の奇襲だった。床に寝たままの態勢からのキックはさほど強いものではなかったが、徐々に高まってくる尿意を我慢していた芳美には効果的だった。
 芳美は思わずかがみこみながら、膀胱の筋肉を緩めてしまった。何も着けていない芳美の股間から一条の奔流がほとばしり始めた。
 それまでの圧倒的な優位からの逆転、オモラシを他人に見られる羞恥、結局は涼子の思い通りに動かされてしまった屈辱、それらがない混ぜになった感情が芳美の心をまっ白にしてしまった――オシッコの流れを止めることもできずに、芳美は失神していた。

 目を覚ました芳美が最初に見たのは、自分の顔の上の空間で踊っている人形だった。
 どうして、人形がこんな所で踊ってるんだろう?と不思議に思った芳美は、目を更に開いてみた。徐々に焦点がしっかりしてきた目に映った人形は、空間に浮かんでいるのではないことがわかった。それは天井から吊られたサークルメリーに付いているものだった。つまり、芳美の顔の上でサークルメリーが軽やかな音楽を奏でながら優しく回っているのだった。
 そのことに気づいた芳美は慌てて上半身を起こした。芳美の体にかけられていた布団が滑り落ち、着ている服がはっきりと見えた。
 その姿を確認した芳美は、頬がまっ赤に染まるのを感じていた。自分が芹香に着せたものと同じような、大きなよだれかけと可愛らしいベビードレスが目に入ったからだった。
 芳美は掛布団を全てどけてみた。ベビードレスの丈は短く、お尻の半ばまでしかなかった。そのため、芳美が着けている下着が丸見えだった。その下着を見た瞬間、芳美の頬は更に赤くなり、顔中から火が出る思いを味わった。破廉恥な下着だったからではない。それは、とても可愛らしいものだった。可愛らし過ぎるために、羞恥を感じるのだった。それは成人した者ではなく、乳児にこそ似つかわしい下着――おむつカバーだった。そのおむつカバーの裾からは芳美のお尻を優しく包んでいるおむつの一部がはみ出ているのが見え、彼女の羞恥をいや増していた。そして、レース製だろうか、フリルがいっぱいのハイソックスが両足に履かされている。
 鏡を見るまでもなかった。芳美の今の格好は、体格さえ無視すれば、一歳くらいの赤ん坊そのままだった。
 芳美は、思わずよだれかけを外そうと、背中の結び目に手をかけようとした。しかし、すぐにそれが不可能なことに気づいた。芳美の両手には分厚い生地のミトンが着けられているのだった。それぞれの指が分かれていないその手袋は、芳美が何かの手作業をしようとしても、ほぼ完全に妨害してしまうようになっている。本当の赤ん坊にミトンを着ける目的は、赤ん坊が手の爪で自分の顔等の皮膚に傷をつけるのを防ぐことことだが、芳美が着けているそれには別の目的があるようだった――芳美が勝手にベビー服を脱いだり、おむつを外してしまわないようにするためだった。
 更に。せめて、このベッドから抜け出せないかと思っても、そのベビーベッドのサークルは高く頑丈だった。乗り越えることも、壊してしまうことも不可能なようだった。
 芳美は悟った。
 どんな目的と理由でかはわからないものの、自分が自由を奪われた赤ん坊として、ここに閉じこめられていることを。
 しばらくして、ドアの開く気配がした。芳美の目に、涼子と芹香の姿が映った。
「あら、おっきしたのね、芳美ちゃん。よくねんねしてたわね」ブラウスにジーンズスカートという服装の上に花柄のエプロンをつけた芹香が、幼児をあやすような口調で芳美に話しかけながら近づいてきた。そして芳美が座っているベビーベッドのすぐ横に立つと、サークルを倒して、手に持っていたおしゃぶりを芳美の口に咥えさせようとした。何気無く咥えてしまった芳美だが、すぐに気がついて吐き出した。
「あらあら、いやなの? そうか、お腹がすいてるのかな。これでどう?」おしゃぶりを吐き出した芳美の唇に、芹香は哺乳瓶の乳首を咥えさせた。芳美が吐き出さないように、芹香がしっかりと手で支えていた。その乳首の感触に、喉の渇きを感じていた芳美は思わず力を入れて吸い始めた。ほどよく温められたミルクが舌の上に流れ出した。そうやって哺乳瓶で飲まされるミルクは芳美の心の深い部分を心地良く刺激し、知らずしらずのうちに、全てを飲み干していた。
 芳美が哺乳瓶の乳首から口を離すと、芹香がよだれかけの端で唇を拭いた。その後、芹香が再び差しだしたおしゃぶりを、今度は嫌がらずに芳美は咥えた。次に芹香はガラガラを取り出して、芳美の顔の前で小さく振ってみせた。その軽く優しい音に、芳美は思わず手を差し出してガラガラを握ろうとしたが、途中で我に返ったように、その手を止めた。
 芹香はガラガラを背後の涼子に預けると、その右手を芳美のおむつカバーの中に差し入れた。突然のことに驚いた芳美が体をビクッと震わせた時、芹香が言った。
「芳美ちゃん、おむつがびしょびしょよ。気持わるいでしょ、取替えてあげるわね」
 目を覚ましてから、何がなんだかわからない状態になっていて気がつかなかったが、芹香のその言葉に、芳美はお尻の冷たさを改めて感じ始めた。
「いやよ。私がどうしてこんなめにあってるのか、納得できるように説明してもらうまでは、冷たいおむつのままで結構よ」咥えていたおしゃぶりをベッドの上に落しながら、芳美が叫ぶように言った。自分が何故こんな格好をしているのか、しかも、何故おむつの中にオネショをしてしまっているのか理解できないうちは、芹香におむつを取替えられることに同意はできなかった。
「そんなわがまま言っちゃダメよ。ママとお姉さんを困らせないでちょうだいね」芹香が、芳美の頬を人差指でつんつんしながら言った。そして、ベビードレスの裾を腰まで捲り上げようとした。
 いや、と大きな声を出して抵抗しようとした芳美の腕を、今まで静かに見ているだけだった涼子が掴んでいた。更に、その手を芳美の胸に押し当てたまま、芳美の上半身をベッドに押しつける。
 いくら抵抗しようとしても、二人の力にはかなわなかった。芳美のおむつカバーの腰紐が解かれ、ボタンが外されて前当てが開かれると、オシッコでぐっしょり濡れた動物柄のおむつが現われた。そのおむつがお尻の下から外されると、芳美はブルッと体を震わせた。それは寒さだけのせいではなかった。悔しさと情けなさに、芳美の目から涙があふれた。 それを見た涼子が自分の舌で、芳美の頬に流れる涙を拭き、おでこに軽くキスをした。その瞬間、芳美の心の中の屈辱や情けなさ、羞恥や怒りといった感情が蒸発してしまうように思えた。どういうつもりで自分にこんなことをしているのかはわからないものの、それが嫌がらせや意地悪からのものではなく、いとしさや優しさ、愛情といったものが動機になっていることが芳美に実感された。涼子の心のひだが、皮膚を通じて感じられたように思ったのだ。
 その後は、芹香が新しいおむつをお尻に敷きこむ時も、おむつカバーのボタンがとめられる時も、芳美はおとなしくしていた。涼子が再び口にふくませてくれたおしゃぶりを音をたてて吸い、涼子が振るガラガラの音に聴き入っているようだった。
「さ、できたわよ。いい子にしてたわね、芳美ちゃん」芹香が言いながら、芳美のお尻をおむつカバーの上からポンポンと軽く叩いた。
「お姉ちゃんにおむつ取替えてもらって、気持よくなったでしょ」涼子が、芳美の耳許で優しく言った。その言葉に、芳美は小さく頷いていた。
「それじゃ、ママがパイパイあげようね」涼子は自分のブラウスのボタンを外し、ブラジャーのフロントホックを外した。年齢から想像されるよりもずっと若々しい形の良い乳房が現われた。芳美はしばらくためらった後、おずおずと右の乳首を口にふくんだ。実際の母乳こそ出てこないものの、その柔らかな感触は芳美が忘れた筈の遠い昔の記憶を呼び覚ますようだった。涼子の乳首を吸っているだけで、芳美は心の中に温かな何かが湧き出てくるのを感じていた。
「ママがどうして芳美ちゃんにこんなことをしたのか、教えてあげるわね」芳美の背中に手を回し、上半身を支えながら涼子が話し始めた。「見ればわかるだろうけど、ママのお家は立派でしょ。だからね、お金だけを目当てにする男の人がたくさん、私に言い寄ってきたの。その中の何人かは口も上手でね、あっさり騙されて一緒に暮らしたこともあるの……」しかし、何ケ月か一緒に居れば、その男が涼子本人に魅力を感じたのか、財産が目当てなのかは察しがつく。そうやって何人かに騙されたあげく、涼子は男性不信に陥り、一生独身を貫く決心を固めた。しかし、そう決心してみると、心の中に寂しさが嵐のように吹き荒れた。女中が居るのだから生活そのものには困らないとはいうものの、年をとって身内に看取られずに死んでゆく自分の身を予想してしまうのだった。
 涼子は、養子をとる決心をした。ただ、小さな子供から育てることは、経験の無い涼子には無理だろうと自分でも思えた。そこで、成人した女性を養女として迎えることに決めた。知り合いに縁組を頼もうかとも思ったが、知り合いでは、自分の財産を狙って言いなりになりそうな人間を連れてくる可能性があることに気づいた。
 そこで、何の縁もない人物を探すことにした。それは他人から見ればバクチにも等しい無謀とも思える方法だったが、男性不信(というよりも、人間不信に近い)に陥っている涼子には最良と思える方法を採用することにした――無作為に選んだ人材派遣会社から、適当な若い女性を派遣してもらって、その人物が涼子のおめがねにかなえば、彼女を養女にしてしまおうというものだった。勿論、養女を派遣して下さいという依頼に応えてくれる人材派遣会社など在る筈はない。
 そこまで考えた時、涼子の心に新たな欲求が湧き出した。成人の養女を迎えるにしても、少しは育児の楽しみを味わってみたい、という欲求だった。その欲求は、養女として迎えた女性を一時期でも赤ちゃんとして扱ってみたい、というように歪んだ母性本能として大きくなっていった。但し、いくら成人ではあっても、赤ちゃんとして扱うには、それなりの知識と経験が必要になるだろうこともわかっていた。
「……だから、芳美ちゃんと芹香ちゃん、二人に来てもらったの。そして、ゲームに負けた方を赤ちゃんに、勝った方を、ママの育児を手伝ってくれるベビーシッター兼お姉ちゃんにしようって考えたのよ」涼子は、視線を芹香の方に移して言った。「芹香ちゃんはわかってくれたわ。どうせ故郷に帰っても待っている人も居ないから、芳美ちゃんのお姉ちゃんとして育児を手伝ってくれるって言ってくれたの」
 芳美は涼子の乳首を咥えたまま、芹香の方を見た。その視線に気づいたのか、芹香はニコッと微笑んで芳美の顔を見つめた。
「わたしは…」芳美は唇を涼子の乳首から離し、戸惑った視線を床に落としながら言った。「…どうすればいいのか、まだわからない。故郷で待っている人は、わたしにもいない。それは芹香ちゃんと同じだけど、でも、大人になったわたしがもう一度赤ちゃんに戻るなんて、とっても恥ずかしいし……」
「すぐに決めなくてもいいわ。だから、しばらくの間、赤ちゃんとしての生活を試してみてくれないかしら?」涼子は今は、幼児にではなく、ちゃんとした人格を持った成人に話しかけるように、芳美の目を見つめて言った。「そのうえで、あなたがどうしても無理だと言えば無理強いはしなしわ。ちゃんとお家に帰してあげます。ギャラも支払ってね。ただ、私としては、あなたは可愛いい赤ちゃんになれると思ってるの」


 芳美の、赤ちゃんとしての生活が始まって何日かが過ぎていた。
 朝、目を覚ました芳美の日課は、おむつを取替えられることから始まる。夜中に芳美がオシッコをしたくなっても、部屋の中にはトイレなど無い。部屋から出ようとしても、そのドアにはロックがかかっていて勝手に出ることはできなかった。だいいち、芳美の横にはたいがい涼子か芹香のどちらかが添い寝しており、芳美がベッドから起き上がることさえ難しい状態だった。更に、万が一トイレに行けたとしても、両手のミトンが邪魔になって、自分ではおむつを外すことができないのだった。結局は、おむつの中にオモラシしてしまうしかなかった。その濡れたおむつの交換にしても、芳美が寝入っている間に済ませておいてくれれば羞恥を感じずにいられるのだが、涼子も芹香も、必ず芳美が目を覚ましてから行なうようにしていた。それは芳美に、自分が夜中におむつを汚してしまう幼児であることを自覚させるためだった。
 そして、顔をタオルで拭いてもらってから朝食をとる。昼食も夕食もそうだが、固形物は一切用意されなかった。野菜ペーストやシチュー等の離乳食が幼児用の食器に入れられ、それをスプーンですくって食べさせてもらうようになっていた。芳美にできることは、二人が運んでくるスプーンを、大きな口を開けて待つこと。それに、ジュースやミルクを哺乳瓶から飲むことだけだった。
 その後はテレビの時間。幼児用のアニメや人形劇を、涼子や芹香の膝に抱かれて観ることになる。最初の頃はばかばかしく思えた内容も、いつしか引きこまれ、声を立てて笑っていることもあった。そんな時、涼子と芹香は、揃って優し気な視線を芳美の顔に移していた。
 それから、遊びの時間だった。いつも部屋の中で運動不足になるといけないから、ということで天気の良い日は中庭で遊ぶことになっていた。部屋の中で特製の大きな歩行器にのせられた芳美は、そのまま、廊下をゆっくりと歩行器を転がして行った。その途中で女中に出会うこともよくある。偶然というよりも、その時間に合わせて廊下に待機するように、涼子が女中に指示していたのだ。涼子と芹香には馴れた芳美でも、全くの他人である女中たちにベビースタイルを見られることには羞恥を感じてしまう。涼子の狙いはそこにあった。そうやって、徐々にベビースタイルを他人の視線に曝すことに馴らしてゆけば、芳美は心の奥から乳児に戻るのではないか、と期待していたのだ。その涼子の目論見は外れてはいないようだった。女中の中には、学校を出たばかりの若い娘もいた。そんな、自分よりも年齢が下の娘に、廊下で初めて出会った時に「わー、芳美ちゃん、可愛らしいわね。今度、お姉さんが遊んであげようね」と言われた時には、芳美は顔から火の出る思いがしたものだ。それが何日か経った頃には、その女中に頬を指でつんつんされたり、背中を撫ぜられても嫌がるようなことはなく、そうされることを待つようにさえなっていた。
 出口から中庭までは、大きな乳母車に乗せられての移動だった。玉砂利を敷きつめた上を乳母車を押して行くのは力の要る作業だったが、涼子はその日課を嫌がりはしなかった。それどころか、その困難な作業を通して、母親としての愛情が深まってゆくようにさえ思えたものだ。
 中庭の芝生の上で、芳美は思う存分、走ったり寝転がったりした。こうして部屋の外に出られるのは、この数時間ほどだけだったからだ。お日様の光がとても気持よく感じられた。特に、今日は遊びの相手として、若い女中が一緒だった。いつのまにか大好きになってしまっていた女中と豊かな芝生の上で転げ回るのは心地良く、時間の経過も忘れてしまうほどだった。いつもなら部屋に帰る時刻になっても、芳美のその楽しそうな表情を見た涼子は、そのまま遊ばせておくことにした。
 それから一時間ほどが経過したろうか。突然、芳美の表情が変化した。おむつを濡らしてしまったのだった。普段なら部屋に帰ってから白鳥のオマルにするオシッコが、遊びの時間が長くなったために、途中で出てしまったようだ。その芳美の表情に気づいた芹香が芝生の上に大きなタオルを敷き、そこに新しいおむつとおむつカバーの準備を整えた。しかし、タオルの上に横になった芳美のロンパースの股ボタンに手をかけたのは芹香ではなく、若い女中だった。
「田舎に小さな妹がいるんです。芳美ちゃんと遊んでると、その妹を思い出しちゃって。芳美ちゃんのおむつ、私に取替えさせてもらえませんか?」女中の言葉に、涼子と芹香は優しく頷いた。
 ロンパースの股ボタンを外し終えた女中はおむつカバーの腰紐をほどき、前当てのマジックテープを外した。その時の案外と大きな音が芳美の羞恥心を少しくすぐり、その頬が僅かに赤くなった。芳美のオシッコを吸いこんで重くなったおむつをおむつカバーと一緒にお尻の下からとり、そこに新しいおむつとおむつカバーを敷きこんだ。ブルーとピンクの水玉模様のおむつが芳美のお尻を包み、その上から、純白の生地に色とりどりの原色で小さな動物がプリントされたおむつカバーが包みこんだ。その頃には、芳美の赤かった頬は元に戻り、その表情は少しの曇りも無いあどけないものに変わっていた。

 芳美と芹香が涼子の正式な養女になったのは、その翌日だった。
 今日も、芳美が汚したおむつを涼子と芹香が取替え、若い女中が愛情こめて洗濯している姿が中庭にあった。


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