甘美な罠


 今日も忙しい一日になりそうな予感をはらみながら、朝のミーティングが始まった。
 婦長がテキパキと指示を出し、夜勤明けの看護婦から伝達事項が申し渡される。それは、N市のほぼ中央に位置し、救急病院の指定を受けている『明命総合病院』二階の中央ナースステーションでは、毎日のお馴染みの光景だった。
 最後に事務長からの訓示を受けてミーティングが終了し、山崎美沙が、自分の持ち場である三階の外科フロアへ戻るために階段を昇りかけたところへ、落ち着いた女性の声が聞こえてきた。
「山崎さん、ちょっといいかしら?」
 ふと振り返った美沙の目に映ったのは、婦長の木下恵子の顔だった。美沙は僅かに首をかしげると、静かに応じた。
「はい、なんでしょうか?」
 恵子は美沙のすぐ横までやってくると、声をひそめるようにして話しかけた。
「ミーティングで夜勤からの連絡にもあったように、三〇五号室に日向祥子っていう女子高校生が緊急入院してるわ。この子がちょっとやっかいな患者らしいのよ。そのことを、三階の責任者であるあなたに報せておこうと思って呼び止めたの」
 ミーティングの時はそうでもなかったのだが、改めて恵子の口から聞くと、患者の日向という姓が妙に美沙の胸にひっかかった――日向というのは、この辺りでは珍しい苗字だ。でも、何故かよく耳にする苗字だわ。どこで聞いたんだっけ?
 それでも、今はそんなことを詮索している場合ではないことに気がつくと、美沙は緊張した声で問い返した。
「やっかいな患者――重傷なんですか?」
 だが、恵子からの返答は、美沙が予想もしていないようなことだった。
「ううん、そうじゃないの。怪我がひどいとかだったら、それは完全に職務上でのことだから問題じゃないわ。なんていうのかな……夜勤からの報告じゃ、その患者がとても我儘で、扱いに困る恐れがある、っていうの」
「我儘、ですか?……でも、怪我で緊急入院するくらいだったら、精神的にもパニックになりかかってたでしょうし、そんな状況では、私達が困るようなことを言うのも仕方ないんじゃないでしょうか」
「ううん、そういうことじゃないの。だいいち、怪我っていっても、たいしたものじゃないのよ。どうも、自宅の階段を滑り落ちて右足をネンザしただけみたいなの。それを大げさに、骨折だ大怪我だって叫んで救急車を呼んだらしいわ。救急車の中でも、もっと静かに運転しなさいよ、って怒鳴られたって救急隊員がこぼしてたそうよ」
「そんな……。ネンザくらいなら、家族に車で運んでもらえば……」
 運んでもらえば済むことだわ、と言いかけた美沙の言葉が不意に途切れた。突然、患者と同じ日向という苗字を持つ人物を思い出したのだ。それは現在のN市議会議長であり、次の選挙では国会にもうって出ようかという市の有力者だった。その、みるからに横柄そうな顔と、時おりテレビに映し出される、人を人とも思わない言動が美沙の頭の中に浮かんできた。どうしてあんな人間が市議会議長を勤めていられるのか美沙は不思議に思っていたものだったが、政治の世界は彼女のような『普通の』人間には到底理解できないものなのだろう、と考えて渋々納得していたのだ。――あんな人の娘なら、本来は緊急時に備えて配備してある救急車を我もの顔で呼びつけるかもしれないわね。
「……事情はわかったみたいね。それで患者なんだけど、昨夜からうるさいらしいわよ。やれ病室が狭いだの、食事がまずいだの、さんざ言いたいことを言ってるらしいわ。若い看護婦じゃ手に負えないだろうから、中堅のあなたがなるだけ担当してあげて欲しいの。私の話は、つまり、そういうこと」
「……わかりました。気をつけます」
 美沙はそう応えて頭を下げると、ゆっくりと階段を昇り始めた。

 階段を昇り終え、三階ナースステーションのドアを開けようとした時、何かが壊れるようなガチャンという音が聞こえてきた。
 音のした方へ慌てて駈け始めた美沙の耳に、廊下を渡って甲高い叫び声が響いてくる。
「なんなのよ、この朝ごはんは!私はね、毎朝ウエッジウッドのミルクティーとグレープフルーツって決めてるのよ。こんな牛乳と食パンなんて要らないから、さっさと私の朝ごはんを持ってらっしゃいよ!」
 誰が叫んでいるのか、その内容から美沙はすぐに理解した。そして、その声がどの部屋から聞こえてくるのか迷うことなく、美沙はまっすぐに三〇五号室を目指した。
 病室にとびこんだ美沙の目に映った室内の様子は、それはひどいものだった。ドアのすぐ横の壁には牛乳のパックが投げつけられたのだろう、白い滲みが広がり、その下の床には、握りつぶされたような食パンが投げ捨てられている。金属製の薄いトレイは「く」の字に曲がり、ベッドの手摺りに小さな傷が付いている。
 今日の配膳係の、この春に配属されたばかりの若い看護婦は、どうしていいのかわからず、祥子の叫び声にただただ体をすくめているばかりだった。
「日向さん!」
 美沙は強い調子で祥子の名を呼ぶと、つかつかと足音をたててベッドに近づいて行った。祥子の顔には一瞬怯えたような表情が浮かんだが、それも僅かの間だけで、すぐに元のきかん気の強そうな顔に戻った。
 美沙は若い看護婦を庇うように自分の背後に回らせると、祥子の顔をじっと見つめ、ムラムラと湧きあがってくる怒りをムリヤリ抑えつけて言った。
「ここは病院なんですよ。自分の家じゃないんです――ここに入院している限りは、ここの規則に従っていただきます」
 しかし祥子は二度と怯むような気配はみせず、彼女の顔を見つめている美沙の目を逆に睨み返して言った。
「なによ、あんたは。そんな偉そうな口をきけるのも、今のうちよ。私が誰だか知ったら、そんなに高飛車な言い方はできな……」
「あなたが誰かくらいは知っています。でも、それとこれとは別問題なのよ。とにかく、病院の規則を守れないなら、即刻退院していただきます」
 祥子の言葉を遮って、美沙が言葉をかぶせた。
 祥子はギリッと奥歯を鳴らし、怒りで顔をまっ赤にすると、噛みつくように言葉を返した。
「なによ、ここの病院は!大怪我をした患者を治療もせずに追い出そうっていうの? そんなら、それでいいわよ、やってごらんなさいよ――パパに言いつけて、議会や新聞で問題にしてもらうから」
 なんてことを……、と美沙が言おうとした時、バタバタと騒々しい足音をたてて事務長が部屋にとびこんできた。どうやら、騒ぎを聞きつけて慌ててやってきたらしい。もっとも、この病室にいるのが日向の娘でなければ、この事務長がわざわざ来ることもなかっただろうが。
「山崎君、君の声は廊下でも聞こえていたが、なんという口のききようだね。日向さんの大事な娘さんにそんな失礼な言い方をして、どうおわびするつもりだね。もういいから、この部屋から出て行きなさい」
「でも、事務長……」
「いいから、さっさと出て行きたまえ」
 事務長からそう言われては、美沙には反論することもできなかった。
 美沙は、騒ぎが大きくなったのが自分のせいだと言わんばかりに泣き出しそうになっている若い看護婦の背中に右手を回し、形だけの御辞儀をしてから部屋を出た。
 なんともいえない敗北感のようなものを感じながら廊下を歩いて行く美沙の耳に、祥子に対してしきりにおべっかをつかい、ことなかれと取り成す事務長の声がいつまでも聞こえていた――まあまあ、あの看護婦には厳重に注意しておきますから、どうぞお怒りを鎮めて。は、お嬢様のおっしゃる通りです。さようですね、考えておきます。え、もっと広い部屋ですか? はい、しかしそれは……。いえ、わかりました。いましばらくの御辛抱を、はい。入院中の患者を移してでも、このフロアで最も広い個室を用意いたしますので。ですから、お父さまにはなにとぞ……。
 それを聞く美沙の胸は、やりばのない怒りで充たされていった。

 祥子の傍若無人な振舞は改まろうとはしなかった。むしろ、午後になって祥子の母親が面会にやって来てからは、事務長が母娘の言いなりになってしまったため、身勝手な要求はエスカレートする一方だった。そのために、若い看護婦などは何人もが目にうっすらと涙を溜めるほどだった。
 そんなこんなで、勤務時間が終了する直前のミーティングが終わるのを待ちかねたように、美沙は恵子を人気のない廊下の隅へ誘って窮状を訴えることにした。
「……あの子は、私の手には負えないかもしれません。これまでいろいろな患者と接してきましたけど、あれほど我儘で身勝手な患者は初めてです」
 薄暗い廊下に立って状況を説明した後、美沙はつい弱音を吐いてしまった。
 それに対して、恵子は美沙の肩に温かい掌を載せ、軽く叩くような仕草をしながら、温かい声で言った。
「あなたの口からそんな弱音を聞くとは思わなかったわ。それだけ、手強い相手だってことかしら――仕方ないわね、例の手を使いましょうか」
 その言葉を聞いた美沙は、思わず恵子の顔をまじまじと見つめ、やがて小さく頷いた。その時、祥子の部屋から追いたてられるように出て行く時に耳にした事務長の言葉が不意に思い出され、その内容を恵子に伝えておくことにした。
「ああ、そうだ。あの子は事務長にいろいろと言ってましたけど、もっと広い部屋に移れるようにも要求してましたわ」
 それを聞いた恵子の顔が、それまでの事務的なものから、なんともいえない笑顔に変化した。そして、恵子は目を細めて言った。
「それは、ますます好都合だわ。新しい部屋は私達が用意してあげることにしましょう――例の部屋を、ね」
 いつのまにか美沙も顔を輝かせ、それまでの消沈ぶりが嘘のように声を弾ませた。
「そうですね。薬と特殊病室――二つを組み合わせて使えば、効果も満点でしょうね」
 二人は、妖しく輝く目を見合わせた。



 今朝は、事務長の計いで自分用の朝食が特別に用意されたことで、祥子の機嫌はまあまあ良い方だった。
 それに、昨日はあれだけ自分の行動を非難した美沙が、朝食後の検温の時には意外と素直に謝罪の言葉を口にしたことも、祥子の心を和ませる結果につながったようだ。しかし、美沙の謝罪が本心からのものではなく、祥子を油断させるために行われたことに、この時の祥子が気づく訳はなかった。
 いかにも申し訳なさそうな表情で謝罪の言葉を述べた後、美沙は体温計の数字と脈拍数をカルテに記入し、カプセル剤が入った金属製の皿をワゴンから持ち上げると、それを祥子の目の前に差し出しながら穏やかな口調で言った。
「食後に服用していただくことになっているお薬です。カプセルに入ってるから、飲み易いと思いますわ」
 本来、祥子は薬というものが苦手だったが、昨日とはうってかわって低姿勢の美沙の言葉をムゲに断わるのも躊躇われ、薬が苦手だということを知られるのもシャクだということもあって、薬と一緒に美沙が差し出したコップの水で流しこむように、一気に飲んでしまった。
「結構です。それでは、ごゆっくり」
 祥子が薬を飲み下したのを確認した美沙はそう言うと、頭を下げて部屋から出て行こうとした。
 そこへ、高飛車ではあるが昨日よりはずっと落ち着いた声で祥子が話しかけてきた。
「昨日事務長にも言っておいたんだけど、もっと広い部屋へは、いつになったら移れるのかしら?」
「はい、なるべく早く移っていただけるよう事務長が調整しているようですので、もうしばらくお待ちください。それまでは、この部屋で辛抱なさってください」
「そう。ま、仕方ないわね。お家の部屋に比べたら犬小屋みたいな病室だけど、我慢してあげるわ。それはそうと、山崎さん――だったわね、あなたも、今日みたいに言葉遣いに気を使ってくれれば私も怒ったりしないのよ。これからも、気をつけてちょうだいね」
「……おそれいります」
 美沙は、なにを調子のいいことを言ってるのよ、と言う台詞をグッと胸の奥に沈めて深々と頭を下げた

 祥子の病室を出た美沙は、他の患者からのコールに応えたり、ルーティンワークで手が離せない時以外は、なるべくナースステーションにいるように務めた。そして、幾つか並んでいるモニターのうちの一つをじっと監視し続ける。そのモニターには、病室にいる祥子の様子がクッキリと映し出されていた。もちろん祥子本人は、自分を監視用のカメラが狙っていることなど、全く気づいていない。他の病室もそうだが、監視されていることを患者本人には気づかれないように、カメラは天井の一部に巧みに偽装されているのだ。
 美沙が出てきてから三十分ほどが経過した頃、それまで退屈そうにテレビを観ていた祥子の様子が変化し始めた。しきりに体を伸ばしてみたり、アクビをこらえるように口を両手で押えたりする動作が現れるようになったのだ。
 やがて祥子はウーンというように両手を高く上げると、そのままテレビのスイッチを切って、ベッドの上に横になってしまった。殆どそれと同時に、長い睫毛を震わせて瞼がゆっくりと閉じてゆく。
 祥子が眠りこんでしまったことを確認すると、美沙はニヤリと笑い、近くの机でカルテの整理をしている看護婦を呼び寄せた。
「ねえ、中田さん、ちょっと来てくれる?」
 中田と呼ばれた若い看護婦はすぐに美沙の目の前にやって来ると、僅かに緊張した面持ちで口を開いた。
「はい、主任。どういう御用件でしょう?」
 その生真面目な態度に顔をほころばせ、美沙は優しい声で指示を与えた。
「リネン室へ行ってね、ベッドメーキングの用意を一組持ってきて欲しいの。あまり急がないから――そうね、実際に必要になるのは五時間ほど後になるかしら、手の空いた時にでもお願いね」
「はい、承知しました……でも、急にどうしたんです? いまのところ、交換が必要なほどベッドが乱れてる患者さんはいない筈ですけど……」
「いまにわかるわよ――五時間後には面白い光景が見られるし、寝具の交換が必要になるの。その時にはあなたにも手伝ってもらうことになるから、よろしくね」
 そう言いながら、美沙はニコッと微笑んでみせた。

 その後も、祥子はコンコンと眠り続けていた。
 昼食を持って来た看護婦がいくら起こそうとしても、祥子の体はピクリとも動かなかった。その様子に、まさか、と不安になった看護婦が脈を確認してホッと溜息をついたくらい深い眠りだった。
 病室にやって来た美沙が、祥子が眠っている間に検温を済ませ、廊下に出ようとした時、ドアが開いて中年の女性が入ってきた。その女性の、年齢を感じさせない引き締まった体の上には、美しい中にもどこか冷たさを感じさせる、祥子に良く似た顔が載っていた。
 軽く頭を下げて美沙が出て行こうとするのを呼び止めて、その女性が尋ねた。
「娘の容体はどうなのかしら?」
「はい。ご覧のように、すっかり落ち着かれて眠ってらっしゃいますわ。もう、心配はございません」
 容体もなにも軽いネンザだけですよ、と言いかけた口を慌てて閉ざし、美沙は小さく咳払いしてから静かに応えた。最初の日なら正直に答えて自宅に連れて帰らせようとしただろうが、今は違っていた。そんなことをすれば、これから始まる面白い見せ物がオジャンになってしまうのだ。
「そう、わかったわ。じゃ、今日も面会時間一杯までいても差し支えないわね?」
「はい、結構です」
 祥子の母親は美沙の答えを聞くと、もう用は済んだというようにプイと顔をベッドの方に向け、軽い足取りで歩いて行った。

 ナースステーションに戻った美沙が、やれやれと椅子に腰をおろそうとした時、ナースコールのベルが聞こえてきた。三〇五号室を示すランプが赤く点灯している。
 美沙は、どうしました?とマイクで問い返しながら、モニターに目を遣った。その四角い画面には、祥子の体にかかっている毛布を剥ぎ取り、予想外の何かを見つけたようにオロオロしている母親の姿が映っていた。
『来てちょうだい。とにかく、ここへ来てちょうだい』
 スピーカーから、母親の慌てふためいた声が流れてきた。それは、ついさっきの落ち着きはらった態度からは想像もできないような慌てようだった。
「何があったんですか? 状況を教えてください」
 何があったのか、それは美沙にはハッキリわかっていた。だが、母親を困らせてやろうとして、わざと困惑したような声を作って訊き返す。
『いいから、とにかく来てよ。でないと、どうすればいいのか……』
 母親の声は、いつのまにか泣き出しそうなものになっていた。
 その声を聞いた美沙はクスッと笑うと、ムリに固い声で応えた。
「わかりました。すぐに行きます」

 美沙が病室に行ってみると、母親はあいもかわらず、剥ぎ取った毛布の端を握りしめ、祥子の下腹部の辺りをじっと見つめているばかりだった。それでも、美沙が入ってくる気配を察したのか、おずおずと振り返ると、それまで自分が見つめていた辺りを見てみるよう、美沙を促した。
 美沙の目に、シーツの上に大きく広がった滲みがとびこんできた。よく見てみれば、祥子のパジャマのズボンもぐっしょりと濡れていることがわかる。祥子がオネショをしてしまったことは明らかだった。だが、自分がそんなことをしてしまったことにも気づかないように、祥子は安らかな寝息をたてている。
「あなたが部屋から出て行った後も、祥子ったら、いくら呼んでも目を醒まそうとしないのよ。それで、毛布を剥いで起こそうとしたの。そしたら……」
 その後は言葉にならないようで、母親はそれだけを言うと、ワナワナと震える唇を閉じてしまった。病室に入って来る時の表情と今のそれとがあまりにかけ離れ、その落差の大きさに、美沙は秘そかに加虐的な悦びを感じていた。
 「奥様――とりあえず、お嬢様の目を醒まさせてください。でないと、寝具やパジャマの交換ができませんので」
 美沙は、自分の感情を気づかれないように事務的な声を作って母親に指示を与え、ナースコールのボタンに手をかけた。
 ブーッというブザーの音が聞こえ、すぐに若い女性の声がスピーカーから流れてくる。
『はい、どうされました?』
 その声が誰のものかをすぐに判断すると、美沙は簡潔な指示を与えた。
「山崎です。その声は、中田さんね?――ちょうどいいわ。寝具の交換をするから、予備を持ってきてちょうだい」
『……あ、はい。すぐに持って行きます』
 祥子が服用した薬の正体を知らない中田喜子は、いずれ寝具を交換することになる、という美沙の言葉が現実になったことに軽い驚きを感じながら、あらかじめリネン室からナースステーションに運びこんでおいた寝具を抱え、慌てて病室に向かった。

 決して軽くはない寝具一式を引きずるようにして喜子が病室に辿りついた時には、祥子が、うっすらと目を醒まそうとしていた。深い眠りをムリヤリ破られたことに腹をたてたように呻き声をあげながら、それでも、眠りを破ったのが母親だということにボンヤリとながら気づくと、声をひそめて、祥子はゆっくりと目を開いていった。だが、意識は完全には戻っていないようで、焦点の合わない、トロンとした目をキョトキョトと動かすばかりだ。
 しかし、不意に祥子はビクッと体を震わせると、突如として上半身を起こし、目を大きく見開いて、その視線を自分の下腹部に向けた。下腹部から伝わってくる、じとじとと湿り、冷たく冷えた感触が脳に緊急信号を送ったのかもしれない。
 しばらくの間、信じられないものを見たとでもいうように自分の下腹部をじっと見つめていた祥子が、ぎこちなく首を回して、おずおずと母親の方に目を向けた。
 母親は祥子の両肩の上にいたわるように手を載せ、何か言おうとしかけたが、何をどう言ってやればいいのかわからず、無言のままだった。
 美沙は、そんな母娘を気遣うように(内心はともかく)口調だけは優しく、
「さ、このままじゃ風邪をひいちゃうわ。寝具を取替えるから、ベッドからおりてちょうだい。ついでに、パジャマも着替えておくといいわ」
と言った。
 さすがにこの状況では祥子は素直に小さく頷くと、母親に体を支えられて、肌に気味悪く貼り付くショーツやパジャマを気にしながら、ゆっくりとベッドからおりていった。
「あの、主任……?」
 主のいなくなったベッドのシーツやマットを外し、新しい物と交換しながら、喜子は祥子や母親に聞こえないよう、小さな囁くような声で美沙に話しかけた。
 それに対して、うん?と応えて喜子の顔に目を遣った美沙は、喜子が何を言いたいのかをすぐに覚り、ニコッと笑うと、やはり小声でヒソヒソと言葉を返した。
「どうして日向さんのオネショが予想できたのか、訊きたいんでしょう?――簡単なことよ、私が仕掛けたんだもの」
「主任が……?」
 喜子は、信じられないことを耳にした、とでもいうように早口で問い返した。
「そうよ。どういうことか、教えてあげるわね……」
 祥子のオネショの原因が美沙だ、というのは本当だった。昨日、美沙と恵子が地下の廊下で話し合っていた内容を思い出してみることにしよう――『例の手を使いましょう』と恵子が言っていた筈だ。それこそが、昼食後に美沙が祥子に与えた薬だった。強力な睡眠剤と利尿剤を組み合わせ、一つのカプセルに混入した薬剤。それが、美沙と恵子の切り札だった。
 だが、娘がそんな薬を服用したことなど、母親が知る訳がない。いや、祥子自身にしても、まさかあの薬がそんな内容のものだとは思いもしないだろう。
 美沙はその種明かしを喜子に説明したのだった。
 真相を知った喜子は、納得したように頷いた。しかしすぐに、どうも腑に落ちない、という表情で再び質問をしてくる。
「でも、なんのために、そんなことを……こうして寝具の交換をするような手間を、どうしてわざわざ増やす必要があるんですか?」
 それに対して美沙はクスッと笑うと、病室の隅で母親に手伝ってもらいながらパジャマを着替えている祥子にちらと視線を投げてから応えた。
「今の日向さんの様子、どう思う? 昨日とは別人みたいにおとなしいわね――いくら身勝手な患者でも、オネショなんてものをしちゃえば、そうそう強気じゃいられなくなるわ。つまり、あの薬は、生意気な患者をおとなしくさせるためのものなのよ」
「あ、そうか。言われてみれば、そうですよね。ふーん、なるほどなあ」
 美沙の説明に、喜子はしきりに頷いた。
 しかし美沙は、そんな喜子に釘をさしておくことも忘れなかった。
「でも、これは非常手段の一つだからね。婦長の許可がなきゃ、使っちゃいけないのよ。そのことは忘れないでちょうだい」

 やがて二人がベッドメーキングを終え、濡れたシーツや毛布をリネン室へ運んで再び病室に戻ってくると、母親がすがるような声で話しかけてきた。
「あの……、このことは、どうか他の看護婦さんや患者さんには御内密に。誰かに知れたとなると、この子は……」
「わかっています。患者さんが少しでもリラックスした気分で治療に専念できる環境を作ることが私たちの仕事です。このことは誰にも話しませんから、御安心ください」
 美沙が、母親の言葉を遮って言った。
 だが、母親と祥子がホッと胸を撫でおろしているところへ、こんな台詞を付け加えることも忘れはしない。
「但し、それも患者さんの協力があってこそですわ。あまりにも目につくような身勝手な行動をされますと、どこから噂が広まるとも限りませんので……」
 それは、祥子と母親にとっては厳しい警告だった。
 二人はそっと顔を見合わせた後、美沙に向かって小さく頷いた。それに対して美沙が頷き返すと、二人はやっと表情を緩め、大きな溜息をつくのだった。
 しかし、それで全ての不安が消え去った訳でもない。母親はおそるおそるというふうに美沙の顔を覗きこむと、ポツリポツリと話しかけた。
「それで、あの、この子のオネショなんですけど……階段を滑り落ちる時に体を打って神経をいためたとか、なにかそれに近い原因があるんでしょうか?――幼稚園の頃から今までオネショなんて憶えがないもので、とても心配なんですが……」
「いえ、それは大丈夫でしょう。ここの先生は優秀な方ばかりですから、そんなことがあれば救急車で運ばれてきた日の検査でわかっていたと思います。多分、急な環境の変化のためでしょう。少し慣れれば平気だと思いますわ」
 美沙は、不安げな母親を励ますように、温かい声で応えた。だが、その胸の中では赤い舌をチロッと出していることが、隣で聞いている喜子には手に取るように感じられた。



 次の日の朝も、祥子のパジャマはぐっしりょりと濡れていた。だが祥子は、それが夕食の後に服用した薬のせいだとは微塵も思わない。自分の体は一体どうなってしまったのだろうという情けない気分で胸が充たされるだけだ。
 しかも、下着やパジャマを濡らしていても、誰かに起こされるまで目が醒めない、ということが尚更に祥子にはつらかった。たとえオネショをしてしまったとしても、その時に目が醒めれば誰にも気づかれずに処理することもできるだろうに、お尻を濡らしたままスヤスヤと眠り続け、朝食を運んできた看護婦に起こされて初めて自分のオネショに気づくのだ。うら若き祥子にとって、これほど惨めなことはなかった。
 そんなことは知らない配膳係の看護婦が朝食のトレイを置いて出て行ってからも、しばらく祥子は逡巡していた。だが、このまま放置しておく訳にもいかない。
 祥子はナースコールのボタンをしばらく睨みつけてから、その白いボタンに向かっておそるおそる右手を伸ばしていった。
『はい、どうしました?』
 スピーカーから聞こえてきたのは、祥子が聞いたことのない若い看護婦の声だった。祥子は胸の中で軽く舌うちした後、おずおずと尋ねてみた。
「あの、山崎さんはいらっしゃいますか?」
『ああ、主任ね。ちょっと待ってて』
「はい、すみません」
 まさか自分が、『すみません』などというしおらしい言葉を口にするとは思ってもみなかった祥子だが、二度も続けてオネショをしてしまった後とあっては、つい後ろめたさを感じ、知らず知らずのうちに下手に出てしまうのだった。
『お待たせ。どうしました?』
 しばらくして聞こえてきたのは、まぎれもなく美沙の声だった。なんとなくホッとしたような気分になった祥子は、他の看護婦に聞かれるのを恐れるように、口をマイクのすぐ前までもっていって、小さな声で呟いた。
「あの……また、やっちゃったんです。寝具の交換をお願いします」
『わかりました。すぐに用意します』
 こうなることはお見通しだった美沙は、落ち着いた口調で応えた。
 ほどなく喜子と一緒に病室に入ってきた美沙は、テキパキと作業を進めていった。そして、喜子がシーツの交換をしている間に、大きな怪我でないとはいえ片足が不自由な祥子の体を支え、タオルで股間を拭き、新しいショーツを穿くのを手伝ってやった。その間、祥子は、他人に下腹部をさらけ出し、タオルで拭かれることに激しい屈辱と羞恥を感じていたが、二人が患者と看護婦という立場であることを務めて意識するようにして、なんとか平静を取り戻そうと努力した。
「さ、終わったわ。これで大丈夫ね」
 全ての作業を終え、祥子の体をベッドの上に横たえさせた美沙は、ニコッと微笑んで祥子に話しかけた。その顔は、初めての日に祥子に対して説教をした時の険しい表情は僅かながらも想像できないような、いたって優しいものだった。それは、今や自分の方が圧倒的に優位な立場にあるという余裕が生み出す微笑みなのかもしれない。祥子に対する言葉遣いにしても、いつのまにか、妹にでも対するようなものになっている。
 そんな美沙に向かって、祥子は少しばかりおどおどしたような表情で言葉を返した。
「ねえ、私のオネショ、いつまで続くのかしら――このまま治らないなんてこと、ないわよね?」
「昨日も言ったでしょう、大丈夫よ。すぐに治るわよ」
「……そうかしら……」
「そうよ、心配しないで……ああ、でも、このままじゃちょっと拙いことになるかもしれないわね」
「拙いこと……?」
 祥子が、不安げな声で問い返した。
「うん……。こう何度も寝具を持ってきたり持って出たりしてたんじゃ、他の病室の患者さんに気づかれるかもしれないでしょう?」
「あ、そう言われればそうだわ。どうしよう……」
「そうねえ……でも、こんなに嵩張るものを隠して持ち運びするなんてことは到底できないしねえ……」
 美沙は、右手の人差指で顎の先を叩くような素振りをし、何かを考えるように目を閉じてみせた。
 美沙はしばらくそうしていた後、祥子の不安が頂点に達する頃合いを見計らったように目を開くと、静かな声で言った。
「確か、日向さんは病室を移りたいって言ってたわよね? それなら、近くに殆ど人がいない病室があるんだけど、そこに移ってみる? そうすれば、オネショのことは簡単にはバレないと思うんだけど」
「そんな病室があるんですか?」
「ええ。普段は使ってないんだけど、特別な事情で婦長の許可がおりれば使えるのよ」
「じゃ、そこをお願いします……あの、婦長さんへはどうやって申請すればいいんでしょうか?」
 祥子のその言葉を耳にした時、美沙は思わず、背中の辺りがくすぐったくなるように感じた。初日の態度からは、とてもではないが、こんなに丁寧な物言いをするようになるとは想像もできなかったからだ。
 しかし、美沙はそのくすぐったさを押し殺して、わざと事務的に応えた。
「婦長からは私が伝えておきます。但し、理由も正直に言うわよ。いいわね?」
 美沙の言葉に祥子はポッと頬を赤らめたが、すぐに、仕方ないとでもいうように小さく無言で頷いた。
「わかったわ。じゃ、許可はすぐにでもおりると思うから、それまでゆっくり休んでなさいな」
 そう言って美沙が部屋を出ようとした時、ドアがノックされる音が響いてきた。
 祥子がどうぞ、と言うと、やや遠慮がちにドアが開き、事務長が入ってきた。
 事務長は不思議そうに美沙の顔を見つめたが、すぐに慌てたように言った。
「山崎君じゃないか――ああ君……なんというか、お嬢様に先日のような失礼なことは言ってないだろうね?」
「冗談言わないでくださいよ、事務長。今じゃ、彼女と私は大の仲良しなんですから。ね、日向さん」
 美沙は、意外なことを聞いたとでもいうように笑うと、祥子に向かって小さくウインクしてみせた。
 祥子が、僅かにぎこちない動作で小さく頷いた。
 それを見た事務長は、不審げな視線を美沙に投げかけながらも、エヘンと咳ばらいをして、
「まあ、いいでしょう――ところで、お嬢様。三一二号室が明日にでも空くことになりましたので、それをお報せに参上した次第です。その部屋は、外科フロアはもとより、この病院の中でも最も広い個室ですので、お気に召していただけるかと存じます。ですから、もうあと本日だけ、この部屋で御辛抱いただきたいのですが」
という報告を、祥子に向かって猫撫声でしたものだった。
 その報告を聞いた祥子は、複雑な視線を美沙に向けた。広い個室への移動は願ってもないことだが、美沙が言うように、いくら広い個室に移ることができても、他の患者の目が数多く光っている場所では、いずれオネショの件が知られてしまう。どうすればいいのかしら? 祥子の目は、そう問いかけているようだった。
 そんな祥子の思いに応えるように美沙は小さく頷くと、あの……、と軽く手を挙げて事務長に声をかけた。
「お言葉ですが、事務長――さっきも日向さんと話していたんですが、彼女としては、私どもが用意する部屋への移動を希望しているようなんです……」
 それは、決して自分の意見を無理強いしているような調子にならないよう、かなり抑制の効いた口調だった。
 それでも事務長にしてみれば、自分がわざわざ用意した部屋を美沙ごときに断わられた、という思いが胸をよぎるのを抑えることはできない。事務長はあからさまに嫌な表情を浮かべると、低い声で美沙に尋ねた。
「ほー、私の知らない空き部屋があったとは初耳だ……誰が用意した病室かね?」
「婦長です」
 美沙は、間髪を入れずに答えた。
 すると、それまでの表情から一変して、やや戸惑ったような顔つきになると、事務長は苦々しげな口調で言った。
「婦長――木下君か。ふん……それじゃ、まあ、仕方ないだろう。お嬢様がそれでいいとおっしゃるなら、そうするがいい」
 若手や中堅クラスには偉そうにしている事務長も、病院設立時からの生え抜きである恵子は煙たい存在らしく、彼女の名前を聞いただけで、美沙の言葉に渋々だが従う気配をみせるようになった。
「承知いたしました。では早速、手続きをしてまいります。じゃ、日向さん、ちょっと待っててね」
 最後の言葉は祥子に、これでいいわね?と確認するようにかけながら、美沙は病室から出て行った。



 祥子が実際に病室を移ることになったのは午後になってからだった。
 昼食を摂り、例の薬(但し、美沙はこの時の薬には睡眠剤は混入せず、利尿剤だけにしておいた)を服用してから、美沙と喜子に付き添われて三〇五号室を後にした祥子は、車椅子がエレベーターホールに到着する頃になると、やや不安そうな声を美沙に向かってかけた。
「ねえ――そろそろ、どこの病室へ行くのか教えてくれてもいいでしょう?」
 しかし美沙は、祥子に気づかれないように、車椅子を押している喜子と目配せを交わすと、楽しそうな口調でこう言うだけだった。
「さあ、どこかしら――行ってみてのお楽しみよ」

 車椅子でも乗降し易いように広い開口部を設けているエレベーターのドアは、一階に到着すると同時に静かに開いた。
 ふと、祥子の頭に疑問が湧きおこる――一階には受付窓口や薬局があるだけで、入院できるような病室はなかった筈なのに?
 すると、祥子の心の内を読み取ったのか、美沙が耳元で囁いた。
「そうよ。建前としては、このフロアには病室はないことになってるわ」
 建前として?と祥子は声に出して訊き返したが、それ以上は美沙は答えようとしなかった。その代わりに、僅かに細めた目をまっすぐ正面に向け、微かに顎を引く。
 遮音材がまんべんなく張られた廊下を進み、いくつかの角を曲がり、祥子が自分の居所をわからなくなってきた頃になって、廊下の奥に一枚のドアが見えてきた。美沙と喜子は、祥子の乗った車椅子を、そのドアに向かって一直線に誘導して行く。
 ふと、妙な胸苦しさが祥子を襲った。なにやら得体の知れない不安な気分に襲われたのだ。
「……待って」
 祥子は車椅子の車輪にブレーキをかけ、小さな声で停止を依頼した。
 美沙が、何があったの?と慌てて顔を寄せて尋ねる。
「あ……ううん……」
 祥子は口ごもった。まさか、漠然とした不安だけで車椅子を停止させた、とは言えるものではない。心の中で脂汗をかきながら、祥子は上手い口実を探そうと頭をひねった。
 そして、なんとか見つけた口実にホッとしながら、恥ずかしそうに答えるのだった。
「あの……オシッコをしたくなったものだから……受付窓口の近くにトイレがあったでしょう――わるいんだけど、あそこまで戻ってもらえないかしら?」
 美沙と喜子はやれやれというように顔を見合わせたが、それでもじきに、ここまでやってきた廊下を戻るために車椅子の向きを入れ替えた。
 車椅子がUターンをしたと同時に安堵のような感覚を覚えた祥子だったが、ホッとしている暇はなかった――たんなる口実の筈だった尿意が実際に襲ってきたのだ。
 しかも、その高まり具合は、これまでに経験したことのないような激しいものだった。知らないうちに感じ始めた尿意が、短い時間の間に、膀胱が体の中のどの辺りに在るのかを感じられるように思えるほどに強くなる。
 それが利尿剤のためだということを知らない祥子は慌て、知らず知らずのうちに、車椅子を押す喜子に対して叫んでいた。
「早く、早くしてちょうだい。もっとスピードを上げるのよ」
 祥子の言葉がまんざら嘘でもなく、いよいよ利尿剤が効果をしめし始めたことに気がついた美沙は胸の中でニヤリと笑ったが、自分の胸の内を覚られまいと、わざと冷静な口調で喜子に言った。
「ダメよ、中田さん。あまりスピードを上げて、もしものことがあったらどうするの。車椅子は規則通りの速度で押してね」
 祥子の要請に応えて車椅子を押す力を増そうとしていた喜子だったが、美沙の言葉を聞いた途端、ハッとしたような表情になり、手の力を抜いた。しかし喜子がそうしたのは、規則を順守するためという理由からだけではない――トイレへの到着をなるべく遅らせて祥子を苦しめるのよ、という美沙の言外の指示を敏感に感じ取ったのだ。
 わざとゆっくりとトイレへ向かう車椅子の上で、祥子の表情が変化し始めていた。最初の頃はムリにでも余裕を取り繕おうとし、それもなんとか成功していたのが、次第に顔色も蒼ざめて見え、プツプツと脂汗さえ浮かんでくるようになっていた。祥子は歯をくいしばり、ギュッと目を閉じてみた。だがそんなことで、激しく迫ってくる尿意を忘れることができる筈もない。
 やがて車椅子は迷路のような廊下の奥深くから抜け出し、外来患者が時間待ちのために思い思いの恰好でソファに座っているロビーまでやってきた。その頃には我慢も限界がすぐそこまで近づいてきており、祥子は、外来患者が見ていることも忘れて、両手の掌で股間を押えるような恰好をしていた。それは、普通の状態ではとてもできない惨めな恰好だろうが、今はそんなことを気にとめている余裕もない。
 自分で自分を励まし、もうあと少しでトイレという所までやって来た時になって、不意に車椅子の動きが止まった。
 急にどうしたのよ?と思ってうしろを振り返った祥子の目に映ったのは、青い表紙のファイルを手に、こちらへ近づいてくる中年の看護婦の姿だった。彼女を待つために喜子が車椅子を停止させらしい。
 しかし、その一刻のために取り返しのつかないことになるかもしれないのだ。祥子は、早く動かしてよ、と喜子に言おうとした。だが、祥子よりも一瞬早く、中年の看護婦が美沙に声をかけた。そのために祥子の言葉は遮られ、開きかけた口も途中で動きを止めてしまう。
「山崎さん、病室の使用許可証を渡しておくわ。さっきは、口頭で伝えただけだったものね」
「すみません、いただきます。そうそう、ついでって言うのはなんですけど、ちょうどいい機会だから紹介しておきますわ――こちらが病室を使うことになった日向さんです。日向さん、こちらは婦長の木下さん」
 恵子は軽く頭を下げて、よろしくと言ったが、祥子にしてみれば、そんなことはどうでもいいことだった。なによりもまず、トイレへ行くことが先決なのだ。
 それなのに、美沙は祥子の胸の内も知らぬげに、受け取ったファイルをおもむろに開くと、その中に書かれた内容を一字一句確かめるように、ゆっくりと目を走らせ始めた。
 それを目にした瞬間、祥子は或る決心を固めた――このまま待っていてもラチは開かない。ちょっと不自由だけど、ここからなら一人で歩いて行ける距離だわ。
 しかし、その決心は、いささか遅過ぎたようだ。あまりに激しい尿意のために下腹部に痛みを感じるようにまでなっている今の祥子には、車椅子から立ち上がって不自由な片足を庇いながらトイレまで歩いて行くことなど、到底できる相談ではなくなっていたのだ。それどころか、手を股間から離して手摺りに置き、体重を支えるためにグッと力を入れるだけで、オシッコが洩れそうになるのが感じられるほどだった。
 祥子は慌てて再び両手を股間に遣り、尿道の辺りを押えつけた。一旦出かかったオシッコを我慢するのがどれほどつらいことか初めて実感しながら、祥子は必死になって膀胱の口を閉じようと努力した。顔色は赤から青へ、青から赤へと、まるで交通信号のようにめまぐるしく変化する。
 しかしやがて、祥子のムダな努力を嘲笑うように、遂に最初の一滴が膀胱から溢れ出した。ギュッと閉じている筈の膀胱の口から尿道へ、尿道から尿道口へ、そして、祥子の黒い茂みを掻き分けて最初の一滴が流れ出してしまえば、あとは止めようがない。
 いつのまにか祥子は股間を押えていた手を離し、呆けたような表情を顔に浮かべて、自分の股間から溢れ、パジャマを濡らして足元へと滴って行く流れをじっと見つめていた。



 肩を落とし、大きな目からぼろぼろと涙をこぼし続ける祥子を乗せた車椅子は再び、廊下の突き当たりにあるドアの前までやって来た。
 なにげなく振り返った喜子の目に、廊下に点々と続く水滴の跡が映った。それは廊下の遥かむこうから、目の前の車椅子の真下まで途切れることなく続いていた。そして車椅子の真下の水跡は、今も刻々と大きくなってゆく――それは、祥子のパジャマやショーツの中にまだ溜っているオシッコが小さな滴になって滴り落ちて行く痕跡だった。
 喜子の脳裏に、ついさっきの騒ぎの様子が鮮やかに甦ってきた……。
 あと少しというところで、車椅子に座ったままオモラシをしてしまった祥子。異変に気づいたのか、祥子を遠巻きに見つめる外来患者たち。車椅子のシートを濡らし、ステップを伝って流れ落ちるオシッコ。「あのお姉ちゃん、オモラシしてるよ」という、幼児の驚いたような声。遠くを見つめるような、焦点の合わない祥子の目つき。そして、人垣を掻き分けるようにして車椅子を廊下の奥に移動させる美沙や喜子。

 今や、祥子の心はボロボロだった。オネショを他人に知られたくないからこそ病室を移ろうとしていたのに、その移動の途中で、大勢の人間が見守る中、オモラシをしてしまったのだ。
 ――あの日、家の階段をちょっと踏み外してネンザをした瞬間、これで学校をサボる口実ができたと思い、怪我を大げさに見せるために救急車を呼んだ。そして、病院に入ってからも、日向の娘だということで事務長を味方につけることができた。そこまでは、祥子の計画通りだった。それが何故かオネショをしてしまい、今は衆人監視のもとでオモラシまでしてしまったのだ。
 事態は知らないうちに祥子のシナリオから外れ、どんどんひどい方向に向かっているような気がした。
 それじゃ、これ以上ひどい事態になる可能性もあるのかしら? 祥子の胸に突如としてそんな思いが浮かび上がり、それまで閉じていた目が思わず開かれた。
 その目に、正面にあるドアにキーを差し入れてロックを外そうとしている美沙の姿がとびこんできた。その途端、祥子の胸がドキンと高鳴った。ひどい不安が祥子を襲う――普通、病室のドアには鍵なんて付いていない筈だわ。それがどうして、この病室のドアには付いてなきゃいけないの?
 不安げな目つきで祥子が見守る中、ロックを外した美沙がノブを回すと、ドアは滑らかに開いた。眩しい光が祥子の目を襲う。
 仄暗い廊下の照明に適応した目が部屋の蛍光灯の明るさに慣れ、細々した内装までもが見えてくるにしたがって、祥子の顔がピクピクと痙攣するようにひきつった。
 何が祥子をそうさせたのか、部屋の様子を覗いてみることにしよう――。
 その室内は、思った以上に明るい雰囲気に仕上げられていたが、それはどうも、病室というイメージにはほど遠い雰囲気でもあった。四方の壁にはアニメキャラクターが描かれた壁紙が貼られ、床には、同様のデザインのビニールカーペットが敷きつめられている。窓際に置かれたベッドの上に広げられているシーツや毛布は淡いピンクで統一され、可愛らしい模様があしらわれている。しかも、本来は簡単な収納庫が据えられている筈の場所にあるのは、白く塗られた木製の(両サイドには動物の絵まで描かれた)タンスだった。
 それはどう見ても、どこかの家の子供部屋としか言いようのない内装だった。
「どう、気に入ってもらえたかしら?」
 不意に美沙が、からかうような口調で祥子に声をかけた。
「……これは、どういうことなの? 新しい病室に連れて行ってくれる筈だったんじゃないの?」
 祥子の声は震え、うわずっていた。
「そうよ。だから連れて来てあげたんじゃない――ここが、あなたの新しい病室よ」
「バカなことを言わないでよ。こんな、まるで赤ちゃんの育児室みたいな処が私の病室だなんて、そんな……」
「あら、それでいいのよ。オネショやオモラシをしちゃうようなあなたには、お似合いの部屋だわ」
「……」
「時々だけどね、あなたみたいな患者さんがいるのよ。そんな人たちのために特別に用意してあるのがこの病室なの。ここでなら、オネショやオモラシをしても気にならないわよ――だって、赤ちゃんがオネショやオモラシをしちゃうのは当たり前のことだもの」
 美沙は、祥子の手を引くために両手を伸ばしながら言った。
「……冗談じゃないわ、私は帰るわよ。誰がこんなバカみたいなことにつきあってられるもんですか」
「そう。本人がそう言うなら仕方ないわね――でも、そのオモラシで濡れたパジャマのままで廊下を戻るつもりなの?」
 祥子が、ハッとしたように自分の下腹部に目を遣った。そこには、まだ濡れたままの、そして僅かに変色した滲みが付いたパジャマのズボンがあった。


目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き