大学時代の友人・山崎有紀から久しぶりの電話がかかってきたのは、八月もあと数日で終わろうかという暑い日の夕方だった。 「ああ、美咲? お久しぶり――どう、元気にしてる?」 「うん、って答えたいとこだけど……そうでもないわね。実は昨日、アルバイトをクビになったところなのよ」 私は受話器のカールコードを人差指に絡ませながら応えた。 それがきっかけで、昨日、私にクビを言い渡したファーストフードショップの若い店長の顔が頭に浮かんできた――ほんとにアイツったら、客がわるいのに、なんでもかんでも私のせいにしちゃってさ、ぶつぶつ……。 「あら、それはご愁傷さま。じゃ、って言うのもなんだけど、私からアルバイトを依頼したいの。いいかしら?」 「有紀が私に?」 「そうよ。美咲にはうってつけのアルバイトだと思うわ。どうかしら?」 「どう、って……とにかく、内容を教えてもらわなきゃ返事のしようがないわよ」 「……ああ、そうだったわね。あのね、子供の世話を依頼したいのよ。どう?」 有紀の言う通り、子供の面倒をみることなら、私は専門家みたいなもんだった。だって大学時代、私と有紀は教育学部に在籍してて、私は幼児教育を専攻したんだから(好奇心旺盛な有紀はいろいろな教室に脚を伸ばして、あれやこれやと単位を稼いでたわね。今は確か、どこかの女子高で英語の教師をやってるんだっけ)。 で、卒業してからは近くの幼稚園に勤めたんだけど、今年になって新しくやって来た園長とソリが合わなくって、結局、春に辞めちゃったんだ。それからはいろんなとこでアルバイトに精を出してるんだけど、さっき言ったような事情で、今はプータロー。 有紀の話は、渡りに船、っていう言葉そのままだった。私は考える間もなく、すぐに応えていた。 「いいわよ。他でもない有紀の依頼だもん、引き受けるわ」 「ありがとう。忙しい時にムリを言うようだけど、お願いね」 「で、どこへ行けばいい?」 「ああ、明日、私の家に来てちょうだい。実は、私が預かってる子の面倒をみてほしいのよ。今までは私が面倒みてたんだけど、もうすぐ夏休みが終わるでしょう? そしたら、私は学校へ出なきゃならないから」 「……そうだったの。でも、有紀のご両親は?」 そうだ。確か、有紀は大きな屋敷に両親と一緒に暮らしてる筈だ。 「このごろは仕事も人に任せちゃって、二人で旅行ばかりしてるわ。娘の私がみてても羨ましくなるほど、ね。だから、とてもじゃないけどアテにできないのよ」 「わかったわ。じゃ、明日の朝ね」 やっぱり持つべものは友達だわ。これで明日からどうやって生活したらいいか悩まなくてよくなったし、それに、有紀の家で子供の面倒をみるんなら、それほど気を使う必要もないだろう。 翌朝、私が有紀の家に着いたのは、もうすぐ十時という頃だった。蝉の声はもうアブラゼミじゃなく、ヒグラシになってるっていうのに、梅雨明けから続いている暑さはそのままだった。 私は額に浮かんだ汗をハンカチで拭うと、正門ではなく、裏口の方へ廻りこんだ。正門からだと、玄関に辿り着くまで余計に時間がかかるんだ。それに、裏口の方が木も多くって、少しは涼しいような気がするし。 裏門に取り付けられているインターフォンのボタンを押すと、すぐにスピーカーから有紀の声が流れてきた。 「ちょっと待っててね。すぐにロックを外すから」 同時に、門のロックが外れたのだろう、カチャンという音が小さく聞こえてきた。 私は門を押し開くと、敷きつめられた白い玉砂利を踏みながら屋敷の方に向かった。背後では、門が勝手に閉じる気配があった――どうやら、最新式のリモコンロックを取付けたようだわ。 正門から歩くよりは近いといっても、それでも、噴水を備えた池や様々な花が咲き乱れている花壇があったりで、屋敷まではかなりの距離があった。久しぶりにここを訪れた私は、なくとなくキョロキョロと辺りを見回しながら、ゆっくり歩いて行った。 もうすぐで屋敷、という所で、私は裏庭の外れに物干し場があることに気がついた。 そこは建物の屋根が張り出しているにもかかわらず、太陽が少し傾けばその光がまともに当たるようになっていて、洗濯物を干すには最適の場所のようだった。 私の目に、その物干し場に掛けられたロープに干されて、時おり吹く風にゆったりと揺れている洗濯物がとびこんできた。 そこには、有紀のものらしいブラウスや下着に混じって、いかにも幼児が着るような、可愛いいデザインのロンパースやベビードレスといったものが干されていたし、その隣には、動物柄や水玉模様のオムツが夏の日光を受けて色とりどりに輝いていた。 その時になって私は、世話をすべき子供が、まだオムツを必要とする赤ん坊だということに初めて気がついた(そういえば、昨日の電話じゃ、有紀はそんなこと教えてくれなかったっけ)。それと同時に、心の中に少しばかり不安な気持が芽生えてきた。というのも、私の専門は幼児教育だけど、それは幼稚園児くらいを対象にしたもので、赤ん坊となると、あまり自信がなかったからだ。 それでも私は自分で自分に気合を入れると、再び歩き始めた。一旦引き受けた仕事を今になって断わることもできないのだから。 屋敷の勝手口に、こっちよー、と言いながら両手を振っている有紀の姿があった。 右手に大きなバッグを提げている私は、左手だけをちょこっと肩の上で振りながら、有紀のいる方を目指した。 ふーやれやれ、と汗を拭きながら私が廊下の上におろしたバッグを抱えると、有紀は、こっちよ、とでも言うふうに手招きをして、さっさと歩き始めた。相変わらずマイペースだこと、と少し苦笑した私は、履いていたサンダルの整理もそこそこに、有紀のうしろ姿を早足で追った。 少し歩いた処で追いつくと、有紀が改めて微笑みながら、横に並んだ私に顔を向けて言った。 「早速だけど、美咲の荷物を部屋に運んじゃいましょう」 「そうね。でも……」 私は、裏庭の隅に干されていたオムツを見ながら感じた不安を有紀に言ってみようかと思った。赤ん坊相手なら、あまり自信はないわよ。それでもいいの?って。 だけど、その言葉を口にする前に不意に有紀が立ち止まったおかげで、私は半ば開いていた口を閉じることになった。 「この部屋よ」 どうやら、これから私が暮らす部屋に辿り着いたようだ。 有紀がノブを回すと、木製のドアが音をたてずに、内側に向かって大きく開いた。 有紀が先に部屋に入り、私が続いた。 そこは八畳もありそうな広い洋間で、壁にはクローゼットが作り付けになっているし、真新しいドレッサーやタンスまで用意されていた。 「ほんとに、私がここを使っていいの?」 私は自分の安アパートの部屋を思い浮かべながら、半信半疑って口調で尋ねていた。 「もちろんよ。そのために家具だって用意しておいたんだから。どうぞ、自由に使ってちょうだい」 それから、少し笑い声になりながら言葉を続けた。 「その代わり、家賃は高いわよ」 私は思わず、有紀の顔を睨みつけてしまった。その顔には、さぞかし情けない表情が浮かんでいたことだろう。 有紀は私の顔を見るなり、ぷっと吹き出すと、ケタケタ笑い出した。どのくらいそうしてたろう。 やっと笑いが収まった有紀は、それでもまだ唇を少しヒクヒクと震わせながら、 「やーだ、嘘よ」 と言ったものだ。 私はちょっぴり頬を膨らませてアッカンベーをしてみせた。 その時だった。 壁の方から、なにやらガサゴソという音が聞こえてきたのだ。 私は真顔に戻ると、音が聞こえてくる方へ、そっと足を踏み出してみた。 私の様子を見ていた有紀もその音に気づいたのか、壁の方に視線を移した。けれど、彼女の表情はいたって平然としたもので、その音の正体を知っているかのように、悠然とした態度を崩しはしなかった。 私は壁の方へ歩くのをやめて、有紀に確認してみることにした。 「ねえ、有紀。壁の方から聞こえてくる音なんだけど……あなたは、その正体を知ってるわよね?」 有紀は小さく頷いた。心なし、彼女の顔色が蒼ざめているようだ。 「じゃ、教えてちょうだい。あの音は何なの?」 「教えてもいいけど……後悔しないわね?」 有紀は陰鬱な声を出した。 私は内心ビクッとしたけど、ここまできたら、怖がってもいられない。いいわよ、教えて、と少しばかり震える声で応えた。 有紀はニタアと笑うと、低い声で話し始めた。 「今聞こえてる音は、壁の中から出てるものじゃないわ……おそらくは、隣の部屋から聞こえてるんでしょうね」 私は、ゴクリと唾を飲みこんだ。有紀は暗い目で私の顔を見てから、言葉を続けた。 「この家に住んでるのは、私と両親。でも、その両親は旅行中よ。それに、犬や猫も飼ってないわ」 私は、両脚がガクガクと震え始めたことに気がついた。顔色は、有紀のそれよりもずっと蒼くなっていることだろう。 「もう一度確認しておくわ――本当に音の正体を知りたいの? やめるなら、今のうちよ」 そう言う有紀の唇が歪んだ。 脚から力が抜けてしまい、私はフローリングの床の上にペターッと座りこんでしまった。それでも、今更逃げ出すこともできない。 有紀は口を開くと、彼女のまっ赤な舌で唇を湿した。そして、その唇を私の耳元にそっと寄せてくる。 突然、耳元で、 『ワッ』 という大声が響いた。 私はキャッと悲鳴をあげると、両手を頭の上に回して床の上にうつぶせで身を投げた。 誰かが私の肩をトントンと指で突く気配があった。 私は、ヤダヤダと喚きながら、肩の指を払いのけようと、体を左右に激しく動かした。 私は耳朶に温かい感触を覚えた。誰かが息を吹きかけているようだ。 もう、言葉を出すことさえできなくなっていた。それでも、耳にかかる息は徐々に強くなってくる。 遂に我慢できなくなった私は、おそるおそる目を開くと、顔を横に向けてみた――そこにあったのは、おもしろそうな表情を浮かべて、私の耳に息を吹きかけている有紀の顔だった。 「……有紀?」 私は思わず、その顔に向かって問いかけていた。その声はとても震えていて、今にも泣き出しそうなものだった。 「驚いた?」 有紀は私の顔を見つめながら、満足そうに訊いてきた。 私はコクンと頷いた。その瞬間、これが有紀の悪戯だということに、やっと気づいた。 「えへへ、恐かったでしょう? でも、さっきの美咲の顔ったら、なかったわ」 「よくもやったわね」 私の顔に血の気が戻ってきた。私は頭の上に回していた両手を振りほどくと、その手で体を起こしながら、有紀の顔を睨みつけて言った。 「ほんとによくも……」 でも、あとの方は言葉にならなかった。あまりに強い緊張が不意に緩んじゃったせいで、目から涙がこぼれ始めたのだ。これじゃ、抗議もできやしない。 私が突然涙をこぼし始めたことに少し戸惑ったような有紀だったけど、すぐに我に返ると、私の目の前にハンカチを差し出しながら、悪戯っぽい声で言った。 「あらあら、こんなことで泣かないでちょうだいな。ベビーシッターがそんなことじゃ、安心して子供を預けられないじゃないの」 そうだった。有紀のその言葉で、私はここへやってきた理由を改めて思い出した――子供の面倒をみるために、この屋敷へやってきたんだ。その私がピイピイ泣いていては、お話にならないわね。 私は涙を拭くと、床の上に伏していた上半身を起こした。 私が少しは元気になったようだと判断した有紀は、ニコッと微笑むと、もう大丈夫ね?とでもいうように、小さく頷いてみせた。 私も、有紀の仕草に合わせて、コクンと頷いてみせる。 「本当のことを教えてあげるわ」 有紀は私の目の前に座ると、私の目をのぞきこむようにして口を開いた。 「さっきから聞こえてる音は確かに隣の部屋からのものよ。でも、この家に美咲と私しかいないっていうのは嘘なの。考えてもごらんなさい――少なくとも、美咲が面倒をみてくれることになっている子供がどこかにいる筈だもの、ね」 ああ、そうか。私はテレ隠しのようにアタマをポリポリ掻くと、顔を赤く染めた。確かに、有紀の言う通りだったわ。 「じゃ、その子のいるのが、隣の部屋ってわけね?」 私は恥ずかしさを感じながら、口の中でもごもごと訊いてみた。 「そうよ。で、その子の動き回る音が聞こえてただけなのよ」 私はホッと溜息をつくと、おずおずと有紀と目を会わせた。それからわざとらしい笑顔を作ると、これもわざとらしい明るい声で言ったものだ。 「私の部屋がその子の部屋と隣どうしなんて、なかなか便利だわ。いろいろ気を使ってもらっちゃってるわね」 有紀は、いいえどういたいまして、と応えると、私の方に手を伸ばして言った。 「それじゃ、隣の部屋へ行ってみましょうか。華奈ちゃんを紹介するわ」 「華奈ちゃん……?」 「あなたに面倒をみてもらう子の名前よ。さあ、行きましょう」 私は伸ばされた有紀の手を握ると、床の上に立ち上がろうとした。 だけど、それはできなかった。 腰が抜けちゃったとか、脚が痺れてる、とかいうんじゃない。 なにやら、股間からお尻にかけて、いやーな感触が広がってるんだ。ジクジクと湿っていて、温かいのか冷たいのかわからない、なんともいえないような感触だった。 私は握っていた有紀の手を離すと、自分の右手をそっとスカートの中に入れてみた。その掌をおヘソから下腹部へとモゾモゾと動かして行くと、指がショーツに触れる。私はハッとしたように、掌全てでショーツに触れてみた。 私の掌からは、ぐっしょり濡れちゃってるショーツの感触が伝わってきた。 私は体を硬直させながらも、掌を床の上に移動させてみた――そこも同じだった。私が座りこんでいる辺りの床が、ビショビショに濡れているのだ。 おそらくは、有紀が大声を出した時、それまでの恐怖が頂点に達して、無意識の内にオシッコを洩らしてしまったのだろう。そう考えるより他に、ショーツと床がこんなに濡れてしまう理由など、思いつきはしなかった。 私の目から再び大粒の涙が溢れ始めた。 事情を察した有紀はもう一度ハンカチを差し出すと、ちょっと困ったように言った。 「子供のオシッコだけじゃなく、自分のオシッコの世話もちゃんとしてちょうだいね?」 私はうなだれたまま、有紀の差し出すハンカチを受け取らずに、自分のバッグの方へ這って行った。もちろん、替えのショーツとスカートを取り出すために。 私が這った跡には、オシッコの筋が、ナメクジが這った跡のように残っていた。 有紀の目の前で恥ずかしい着替えを終え、床を雑巾で拭いた私は、隣の部屋の前に立っていた。 ドアには小熊の人形がぶら下がっていて、その人形が着けている白いエプロンに、『華奈のお部屋』という字が書いてある。 有紀はドアを開けると同時に、その部屋に足を踏み入れた。そして、私を促すように小さく手招きをしている。 私は部屋に入ると、その中の様子をざっと見渡してみた。これからは、ここが私の仕事場になるのだ。少しでも不都合なところがありそうなら、今のうちに有紀に言っておかなければならない。 まず、床はOKだった。私の部屋と同じ広さのこの部屋の床にはビニール素材のカーペットが隅から隅まで敷きつめられている。これなら、毛足の長い絨毯や畳と違って、赤ん坊がジュースや水をこぼしても、すぐに拭き取ることができるだろう。それに万一、オシッコがこぼれたとしても、だ(このことを考えた時には、さっきの自分の醜態を思い出してしまって、さすがに赤面しちゃった)。それに、そのカーペットには色とりどりの大小の水玉模様がプリントされてて、部屋の雰囲気を明るくさせる役目もしっかり果たしている。 次は、壁だ。どうやらこれも大丈夫みたいね。あまり派手にならない程度の明るい色の壁紙が張られた壁には小さな突起もなく、釘やピンも見当らない。しかも、触ってみてわかったんだけど、壁紙の中にはウレタンか何かの柔らかい素材が貼ってあるようで、少々頭をぶつけても、それほど痛くはなさそうだった。これなら、赤ちゃんが怪我をする可能性も大きくはない筈だ。 さて、家具の方はどうかしら? ドアと反対側の(つまり、窓側ね)壁際には淡いピンクに塗られたベビータンスが置いてあった。取手もカラフルに塗ってあるし、両サイドにはバンビの絵が描かれてて、とても可愛らしい仕上りになっている。中に入っている物は、あとで見てみることにしよう。 その横には、タンスとお揃いの色に塗られたワゴン。そのワゴンは二段式になっていて、上の段には哺乳瓶やオシャブリ、ガラガラといった小物が載せられていた。その下の段には藤製のバスケットが載っている。そのバスケットに入っているのは、ここからだとハッキリとは見えないけど、どうやらオムツとオムツカバーのようだった。なるほど、あまり着替えさせる必要のないベビー服と違って、いつ必要になるかもしれないオムツはああしてワゴンに載せてると便利だわ。 それから、ワゴンのこちら側には、玩具箱が置いてある。その玩具箱には、布製の柔らかなボールや、ヌイグルミといったオモチャが、それこそ溢れんばかりに詰めこまれていた。 部屋の中央よりも少し窓寄りに据えてあるのが、白く塗られたベビーベッドだった。その上にはピンクのカバーがかけられた柔らかそうな枕や、小鳥の絵が可愛いいタオルケットなどが置いてある。更に、枕の上の天井には、カラフルなプラスチックリボンと人形がたくさん付いたサークルメリーが吊ってあるのが見えた。 この部屋は、文句の付けようのないベビールームだった。育児雑誌のグラビアにモデルルームとして掲載されてもおかしくないほどの作りになっているのだ。 私の心の中に残っていた不安が軽くなったように思えた。これなら、慣れない赤ん坊相手でも、なんとか任務を果たすことができるように思えたのだ。 ただ、不安が小さくなるのと裏腹に、なんとはなしに、違和感のようなものが胸の中に芽生えたことも感じていた。それがどういう種類の違和感かは言葉にできないものの、なぜとはなしに、この部屋が普通のベビールームとは根本的に異なっていることを私の心が感じ取ったようだった。 しかし私は、自分の心の中に芽生えてきた感情を無視しようと努めた。有紀に確認してみようにも、何をどのように言えば彼女がわかってくれるのかさえ、私にはわからなかったのだから。 部屋の内装や調度を確認し終えた私の目は、この部屋の主を探し始めた。 ベッドの上に寝ていないなら、床の上にいる筈なんだけどな、と思いながら、私は視線をゆっくりと移動させていった。 やがて私の目に、壁に手をついて伝い歩きをしている赤ん坊の姿が映った。どうやら、内側に開いたドアに遮られるような格好になっていて、すぐには見つけられなかったらしい。 その赤ん坊(確か、華奈という名前だったっけ)は、後頭部をスッポリと覆ってしまうような純白のベビー帽子を被っていた。そのベビー帽子には小花の刺繍があしらわれ、周囲はフリルで縁取りされているようだ。首から下には(コットンだろうか)柔らかそうなピンクの生地でできたベビーワンピースを着せられていて、その背中には、ヨダレかけを胸にとめているのだろう、二本の白い紐が結ばれていた。ただ、そのベビードレスは丈が短いようで、その中に着けているレモン色のオムツカバーが半分ほど、裾から出てしまっていた。オムツでモコモコと膨らんだオムツカバーがベビードレスの裾から見えている様子がなんとも可愛らしく、私は思わず微笑んでしまった。 華奈は体重を壁に預けて倒れないようにしながら、部屋に入ってきた有紀とは反対側に向かっているようだった。そして私の目には、オムツカバーの裾から出ている両脚をチョコチョコと動かし、ゆっくりと歩いて行く華奈の姿が、何故か、有紀から逃げようとしているように映ったのだ。 それだけではない。 さっき頭の中から追い出した筈の違和感が、華奈の姿を見た瞬間に、さっきよりも大きくなって再び心の中に湧き上がってきたことが感じられた。 私は、自分の心の動きに戸惑いを覚えた――どうして華奈が有紀から逃げているように思えるんだろう? それに、さっきから感じているこの違和感は何だろう? 私は、それまで華奈の動きを追っていた目を有紀の方に向けてみた。 有紀はそれまで華奈の行動を見守っていたようだが、たった今、華奈に近づこうと足を踏み出したところだった。 有紀が近づいてくる気配を察したのだろうか、それまで壁の方を向いていた華奈の顔がこちらを向いた。 その華奈の顔を見た瞬間、私の口はだらしなく開き、目は点になっていた。 華奈の顔つきは、どう見ても、赤ん坊のそれではないのだ。少しばかり童顔で、幼く見える顔立ちではあるけれど、その顔は決して一五歳よりも下ではないだろう。 そしてそのことに気づくと同時に、さっきから感じていた違和感が、私の心の中でその正体を露にしていた――それは、ベビーベッドや華奈の体が異常に大きいことを、無意識のうちに感じ取っていたためのものだった。 普通、ベビーベッドの長さは一二〇センチくらいのものだ。それなのに、この部屋に用意されているものは、ベビーベッド以外の何物でもないデザインに仕上げられているくせに、その長さは目測で二〇〇センチを超えるのではないかというようなサイズになっている。そして、華奈の体格だった。初めて見た時にはその可愛いい格好のために気がつかなかったのだが、赤ん坊にしては(いや、子供としても)あまりに発育が過ぎた体格を持っているのだ。 それらが違和感として感じられたに違いなかった。 私は無言のままで、華奈の顔を見つめていた。 華奈も初めて見る私の顔に驚いたのか、目を大きく見開いて、じっとこちらを見つめている。 華奈に向かって歩みを続けていた有紀も、それ以上は近づこうとはせず、華奈と私の顔を交互に見比べていた。 どれくらいの間、そうしていただろう。 不意に華奈が壁から手を離すと、クルリと体を回して、私に向かって歩き始めた。 正面から見る華奈の胸はヨダレかけが窮屈に思えるほどの膨らみを持っていたが、その膨らみがベビー服に付けられている飾りレースを浮き立たせて、少女とも乳児ともつかない、妙な魅力を漂わせているように思えた。 しかし、華奈は私の立っている所に辿り着くことはできなかった。 一歩目を勢いよく踏み出したものの、その後が続かず、妙な具合に脚をもつらせて、うつぶせに倒れてしまったのだ。更に、立ち上がることも非常に困難なようだった。脚が思うように動かない上に、両手までが絡みあってしまったのか、上半身を起こすことさえままならないようだった。 私は慌てて、華奈が倒れている所に向かって駈け出した。 有紀はまだ、私たちの様子を見守っているだけだ。 華奈の傍らに駈け寄った私は両膝を床につくと、彼女の胸とお腹に手をかけて、そのまま、仰向けになるように彼女の体を半回転させた。 華奈は私に対して何かを言おうとしているようだが、口に咥えたオシャブリがジャマになって、まともな言葉にはならなかった。彼女が唇を動かす度に、唇とオシャブリとの隙間からヨダレが溢れ出し、細い条になって顎から胸へと流れて行った。それでも、流れたヨダレは彼女の胸を覆っている淡いイエローのヨダレかけに吸い取られ、それ以上に衣服を汚すことはないようだった。 私は彼女の口を塞いでいるオシャブリを親指と中指でつまむと、それを引き抜こうとしてみた。けれども、そのオシャブリは彼女の口から出てこようとはせず、私が力を増せば増すだけ、華奈が苦しそうな表情を浮かべるのだった。 オシャブリを取り除くのは諦めた方がいい、と判断した私は、とりあえず、華奈の上半身を起こしてやろうとした。 そのために彼女の背中と腰に手をかけようとした時、彼女の両手が自由に動かせない理由を発見した――両方の掌はそれぞれ、一つの袋になっているような手袋(たしか、ミトンとかいう名前だったっけ)に包まれているのだ。これでは、指を自由に使えるわけがなかった。しかも、左右のミトンが短い毛糸でつながっているため、両方の手が自由に動き回れる範囲はごく短い距離でしかなくなっている。私は左右のミトンをつないでいる毛糸を引きちぎろうとしたが、それはただの毛糸ではないようで、私の力では歯が立たなかった。 私はふと或る予感に襲われて、彼女の下半身に視線を移してみた。 そこには、膝から下が純白のソックスに覆われた、形の良い脚が伸びていた。私はソックスにじっと視線を注いでみたが、そこには予想通り、ミトンをつないでいるような、細い毛糸が見てとれた。おそらくはその毛糸のために脚の動きが阻害され、まるで幼児のような歩き方しかできないようになっているのだろう。 私は憐れみの視線を華奈に投げかけた。 華奈は私の目をじっと見返すと、何度かゆっくりと瞬きをしてみせた。それはまるで、ここから助け出して、と言っているように私には思えた。 私は、呆れたような目つきで有紀の顔を見た――おそらくは、有紀が華奈をこんな境遇に置いたのだろう。 有紀はこちらに向かって静かに歩いてこようとしていた。 やがて私たちのすぐ側にやってきた有紀に向かって、私は低い声で尋ねた。 「この子は何なの……どうしてこの子を赤ちゃんみたいに扱ってるの?」 有紀は唇を少し歪めるような笑い顔になると、私たちを見おろして応えた。 「それは後で説明してあげるわ。でもね、その前にするべきことがあるんじゃなくて?」 有紀はそう言うと華奈のお尻の近くに膝をつき、不意に左手を華奈のオムツカバーの中に差し入れた。華奈は体をビクッと震わせて何かを言おうとしたが、やはり声にはならず、ヨダレかけを汚すだけだった。 やがて有紀はオムツカバーから手を引き抜くと、クスクス笑いながら私に言った。 「やっぱりオムツがぐっしょり濡れてるわ。このままじゃ、気持がわるいでしょうね。早く取替えてあげた方がいいわよ、ベビーシッターさん」 しかし私には、有紀の言葉に従うことはできなかった。とてもじゃないけど、華奈のオムツを取替えることなど、できる気分ではなかったのだ。 やがて、私が何の行動も起こさないことを知った有紀が、じゃ私がやるわ、と言うと、華奈のオムツカバーに手をかけた。そして、腰紐をほどき、ボタンを手早く外してゆく。その慣れた手つきは、これまでも何度も有紀が華奈のオムツを取替えたことがあるということをハッキリと示していた。 有紀の手が、ぐっしょり濡れた動物柄のオムツを華奈の肌から剥ぎ取ってしまい、股間が露になると、私はハッと息を飲んだ。華奈の股間がまるで童女のようにツルツルで、眩しく輝いているように見えたからだ。 何かに魅入られたように、華奈の股間から視線を外せなくなった私の耳に、おもしろそうな口調の有紀の声が聞こえてきた。 「生まれながら、ってわけじゃないわ。私がヘアを処理してあげたのよ。だって、赤ちゃんにはそんなもの、必要ないものね」 華奈は両目をギュッとつぶって、自分の恥ずかしい格好に必死で耐えているようだった。有紀の今の言葉が、そんな華奈の胸にどれだけ深く突き刺さっただろう、と考えてみたが、彼女の受けた屈辱は私には想像もできないように思えた。 新しいオムツでお尻を包まれた華奈をベビールームに残した私たちは、ダイニングルームの椅子に腰をおろしていた。目の前に置かれたグラスの中で、大きな氷が触れ合って、チーンと涼しげな音をたてていた。 びっしょりと汗をかいているグラスを見つめながら、私が先に口を開いた。 「……華奈ちゃんのこと、説明してくれるわね? でないと、あの子の世話をする気にはなれないわ」 「そうね。華奈の部屋で約束した通り、説明はしておくわ。 ……あの子はね、私が勤めている女子高の三年生なのよ。三週間ほど前だったか、両親と一緒に急にこの家にやってきたわ。相談したいことがある、って」 有紀は少し間を置くと、グラスの氷をストローで静かにかき混ぜてから言葉を続けた。 「仕事の都合で、両親が一年間、外国へ出張になったらしいのね。でも、華奈はついて行くことはできない――受験を控えた大事な時期だものね。そこで家で独り暮らしをすることにしたんだけど、時おり、生活ぶりをチェックするために華奈の家を訪れてくれないか、っていうのが相談の内容だったわ」 私はふと、華奈の顔を思い浮かべてみた。その顔は高校三年生というには幼く、やはり第一印象のように、一五歳くらいにしか思えなかった。それは彼女が童顔だったためだし、身に着けていたベビー服のせいかもしれなかった。 私は無言のままだったが、有紀は静かな口調で説明を続けていた。 「私は少し考えたわ。そして、こんなふうに言ったの。『それなら、私の家に下宿すればいいわ。この広い家に今は私しかいなくて、寂しい思いをしてたところだもの』 両親も本人も、思いもかけなかった私の提案に戸惑ったみたいだけど、私が是非そうなさいよ、と勧めるうちに、とうとう受諾したわ。 どうしてそんな提案をしたかって? 美咲も知ってるだろうけど、私は一人っ子なの。この広い家に、両親とたった三人で生活してたのよ。だから、いつも思ってた――可愛いい妹がいればなあ、って。 しかも、このごろは両親は旅行ばかりで殆ど家にいないでしょう? だからどうしても華奈を家に引き取って、妹のようにしてみたくってたまらなくなったのよ」 「……それで、華奈ちゃんはこの家にやってきたのね」 私はポツリと言った。 「そうよ。一週間前に、華奈はやってきたの。そしてその日のうちに、仕掛けのついたソックスとミトンを強引に履かせて、彼女の自由を奪ったの。その後は、オムツをあてるのも、ベビー服を着せちゃうのも簡単だったわ」 有紀は、その時の様子を思い出したのか、肩を小さく震わせてクックッと笑った。 私はどうしても有紀に尋ねずにはいられなかった。 「でも、どうしてそんなことをするの? 妹として可愛がるにしても、別の方法が幾らでもあるっていうのに」 「……さあ、どうしてかしらね。これは自分でもわからないわ。でも、華奈を引き取ることになった時、私の心の中には、彼女を赤ちゃんにしちゃおう、っていう思いしか浮かんでこなかったわ。ずっと一人だった私には、妹っていうのは、赤ちゃんと同義語だったのかしらね? でも、ムリヤリそんなことをしたせいだろうけど、華奈は私になかなかなついてくれないのよ。だから、美咲にお願いしたいの――なんとか華奈を素直な赤ちゃんに仕上げてくれないかしら」 私は少し考えた。 そして、やがて決心を固めると、グラスの中のアイスティーをストローも使わずに飲み干してから、有紀に向かって言った。 「わかった。この仕事、引き受けることにするわ。でも、あまり大きな期待はしないでちょうだいね」 自分の荷物の整理を終え、日用品の置いてある場所などを有紀から聞いて、その日の夕方から私は華奈の面倒をみることになった。 手初めは洗濯物を取りこむことだった。 有紀の衣類は彼女が自分で整理するんだけど、華奈の衣類は私の役目になったのだ。 お日様の光を充分に吸収した柔らかなオムツは、改めて自分の手で触れてみて、想像していたよりもずっと大きいサイズだということに気がついた。動物柄や水玉模様、雪華模様と、様々な柄のオムツがあるんだけど、どれもがとっても大きく縫製してあるのだ。確かにこれくらいのサイズがないと、華奈のお尻を包むことはできないだろうし、赤ちゃんと違って大量に排泄されるオシッコを吸収しきれないだろうとは思うんだけど、それでもちょっとビックリしちゃう。 それから、これもやっぱり大きなベビー服。さっき華奈が着ていたようなベビードレスもあるし、大きなカボチャみたいな格好をしたお尻の部分にボタンが並んだロンパースもあった。これなら、濡れたオムツを取替えるのにズボンを脱がせる必要はないから楽だろうけど、股間にボタンが並んだ衣類なんて、まさしく幼児用のものだ。これを高校三年の華奈が着ているところを想像すると、なんとも妙な気分になってしまう。 そのあと、大きなヨダレかけやベビー帽子なんかをたたみ終えると、大きなバスケットに入れて、華奈のいるベビールームに向かって廊下を歩き始めた。 ベビールームでは、ベビーベッドの上に寝かされた華奈に、有紀が哺乳瓶でミルクを飲ませているところだった。 その光景を目にした私は、思わず浮かんできた疑問を口にしていた。 「ねえ、有紀。華奈ちゃんはあなたになついてない筈なのに、ミルクを飲む時にはおとなしいの? それに、華奈ちゃんが咥えてたオシャブリ、どうやって口から離したの?」 「ああ、そのこと?」 有紀はクスクス笑いながら私の顔を見ると、華奈のお腹を軽くぽんぽんと叩いて言った。 「まず、オシャブリの件ね。あのオシャブリはちょっと特殊な素材でできててね、普段は普通のオシャブリと同じような大きさなんだけど、口にふくむと、唾液を吸収してとても大きく膨らむの。だから、いくら引っ張っても、華奈の口からは出てこないの。それを元の大きさに戻すのは、ほら、そのワゴンの上に有るでしょう――そうそう、その小さなポンプ。それで唾液を吸い取っちゃうのよ」 私は、ワゴンの上に置いてあるオシャブリとポンプに目を向けた。そうか、そういう仕掛けになっているのか。 私がワゴンの上のポンプを見つめている間にも、有紀は言葉を続けていた。 「だからね、私がポンプを操作しないと、華奈はずっとヤシャブリを咥えたままになるのよ。その間、もちろん食事も摂れないわ。で、いよいよ空腹が我慢できなくなった時だけ、この子は私に甘えるようなそぶりを見せるの。その時の表情が可愛いくってね、ついついオシャブリを外して、こうしてミルクをあげることになるのよ」 なるほどね、と小さく呟いた私は、バスケットを抱えてベビータンスの前に歩いて行った。有紀がミルクを飲ませている間に、洗濯物をタンスに収納しようと思ったのだ。 オムツとオムツカバーは最下段、トレーニングパンツやヨダレかけは二番目……というふうに、有紀から言われたように洗濯物を収納していると、不意に背後から悲鳴のような声が聞こえてきた。 思わず振り返った私の目に、ミルクを飲み終えたばかりの華奈の顔が映った。その声は、大きく開いた華奈の口から出ているようだった。 「もうイヤです。もう、こんな生活、したくありません。私をお家に帰してください。お願いだから……」 しかし華奈の声は、途中で途切れた。 私が、ワゴンの上のオシャブリを華奈の口に押しこんだからだ。華奈はオシャブリを吐き出そうとしたが、私の手が、華奈の口を塞ぐようにオシャブリを押しこみ続けた。しばらくして華奈の頬が僅かに膨れたように見えると、彼女は諦めたようにグッタリとなった。唾液を吸収したオシャブリが口の中で膨らみ、彼女の舌を押さえつけたのだろう。 「なかなかのベビーシッターぶりね」 おとなしくなった華奈と私を見ながら、有紀が、からかうように言った。 「そりゃそうよ。いざ仕事をするって決めた以上は、本気でやらなきゃ」 私は右目でウインクしてみせながら、明るく応えた。そして、昼前に有紀がそうしたように華奈のオムツカバーに手を差し入れると、華奈の顔を見て言った。 「さあ、オムツは濡れてないかな?」 華奈はプイと横を向いた。 ひょっとしたら助けてくれるかもしれないと思っていた私が、有紀の手伝いをすることになったのを知って、裏切られたように感じているんだろう。 私はオムツカバーに手を入れたまま、ちら、と有紀の行動を確認してみた――うまい具合に、有紀は大きな伸びをしながら、窓から庭を見ているようだ。 私は唇を華奈の耳元に寄せると、早口で囁いた。 「私の言うことを聞いて――なんとかして、あなたをこの屋敷から連れ出してあげるわ。だから、有紀に気づかれないように、それまではおとなしくしてるのよ。いいわね?」 この言葉こそ、私の本心だった。有紀の寂しさはわからないでもないが、そのために屋敷に監禁され、まるで赤ん坊のような生活を強要されている華奈の方が、より同情すべき存在なのだ。私はなんとか華奈をここから逃してやりたいと考えた。そのために敢えて、ベビーシッターを引き受ける、と返事したのだ。 華奈は驚いたように私の顔を見つめたが、やがて私が本気だということがわかったのか、小さくコクンと頷いた。 私は顔を華奈の耳元から離すと、大きな声で言った。 「あらあら、びっしょりね。待っててね、今、取替えてあげるから」 恥ずかしそうな表情を浮かべる華奈をわざと無視して、私はワゴンからオムツの入っているバスケットを取り上げた。 いよいよ八月も最後の日になった。 明日から始まる新学期の打合せがあるから、と有紀は朝から学校へ向かった。願ってもないチャンスだった。 私は自分の衣類を収めたバッグを抱えると、ベビールームにとびこんだ。 私がサークルを倒すと、それまでベビーベッドの上で目を閉じていた華奈が急に上半身を起こした。 私は急いでポンプを作動させると、華奈の口を塞いでいるオシャブリに透明のチューブをつないだ。ウーンというモーターの作動音が高まって、チューブの中を、オシャブリから溢れ出したヨダレが細い筋になって流れて行くのが見える。 しばらくして、チューブの中に何もなくなると、私はポンプを止めてから、オシャブリを指でつまんだ。華奈がゆっくり口を開くと、オシャブリはなんの抵抗もみせずに引き出されてきた。 その後、華奈の手からミトンを外し、足伽になっているソックスを脱がせると、自由になった手を使って、華奈は自分でベビー帽子の紐をほどき、ヨダレかけを胸からむしり取っていた。私はその間にロンパースの股ボタンを外し、胸当てと肩紐を留めているボタンを外していった。 最後に残ったオムツを外すと、私がバッグから取り出した衣類を、華奈は大急ぎで身に着けていった。 やっと準備が整い、さあ部屋から出ようとした時だった。 何の前ぶれもなくドアが開いた。 思わず息を飲んだ私たちの前に現われたのは、勤め先に行っている筈の有紀だった。 有紀はニコッと笑うと、わざとらしく優しげに声をかけてきた。 「あら、お二人でどこへ行くつもりだったのかしら?」 私は口を閉じたまま、ドアに向かって歩き始めた。このまま有紀を無視して、部屋から出ようと思ったのだ。私がそうすれば、華奈もついてくるだろうと考えた。そうなれば、有紀が妨害してきても、二対一だ。こちらが勝てる、と咄嗟に判断したのだ。 だけど、華奈がついてくる気配はなかった。今になって臆病風に吹かれちゃったのかな、と思った私は、華奈の手を掴もうとした。 その私の手に、チク、と痛みが走った。 何かしら?と思いながら痛みを感じた手首を見てみると、そこには、小さな注射器が突き刺さっていた。そして、その注射器を握っているのは、華奈の右手だった。 呆然としている私の目の前で、華奈は注射器のピストンをゆっくり押し下げていった。 やがて薬液を全て私の血管に注入し終えた華奈は、そっと注射器を私の手から抜いた。 私の意識が唐突に白く濁り始めた。 朦朧となってゆく意識の中に、勝ち誇ったような有紀の声が流れこんできた。 「残念ね、美咲。華奈を連れて逃げることはできないわ。 どうしてあなたの計画が私に知れたと思う?――華奈が教えてくれたのよ。あなたが、この屋敷から逃してあげる、ってこの子に話した日の夜にね、本人から私に報せてくれたの。華奈は言ったわ。『この屋敷から逃げ出しても、いつ有紀さんが追ってくるかとビクビクしながら生活することになる。それなら、身代わりを用意するから、ここから正式に出して欲しい』って。 わかったわね? その身代わりっていうのが、美咲、あなたなのよ」 徐々に意識が戻ってきた私は口の中になにやら異物感を覚えて、それを吐き出そうとした。しかし、柔らかい何かが口の中一杯に広がって、なかなか吐き出せそうにはなかった。私は何度も試してみたが、遂には諦めざるをえなかった。 そのすぐ後で、唇から顎へかけて冷たい何かが滴るような感触があった。そのなんとも不快な感触に、私は思わず目を開いた。 細く開いた私の目の前には、ニヤニヤ笑っている有紀の顔があった。その隣には、トレーナーとジーンズというラフな格好をした華奈の姿もある。 ハッと思った私は慌てて上半身を起こそうとしたが、両手が自由に動かせず、それはなかなか実現しなかった。それでもなんとか腹筋と背筋の力で起き上がった私の目に、見憶のあるベビー服で身を包んだ自分の体が映った――そのロンパースは、そして(首を曲げても一部しか見えないが)首に巻き付けられているヨダレかけは、さっきまで華奈が身に着けていたものだった。 「わかったわね? あなたは華奈の身代わりとして、これから私の小さな妹になるのよ。心配しなくていいわ――ベビーシッターなんて他人には任せずに、私と華奈が交替で面倒をみてあげるからね。 今日から美咲は、毎日の生活を心配しなきゃいけない大人の生活からバイバイするの。そして赤ちゃんに戻って、長い長い夏休みを始めるのよ。さ、オムツは大丈夫かな?」 有紀はそう言うと、ロンパースのボタンを幾つか外して、オムツカバーの裾から手を差し入れてきた。私は体をビクッと震わせると、細く開いていた目を再びギュッと閉じた。 |
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