その日から


 大きなバッグを肩から提げた私を、叔母は玄関まで出てきて、なつかしそうに迎えてくれました。
「よく来たわね、サッちゃん。何年ぶりかしら」
 叔母はそう言うと、私のバッグを手に取って、家の中へ入るよう促しました。
 確かに、叔母と顔を会わせるのは随分と久しぶりです。五年ほど前のお正月以来じゃないかしら。その頃は、私はまだ中学生だった筈です。明けましておめでとう、って言いながら、でも、ちょっぴり寂しそうな表情(叔母がそんな表情になるのには、理由があるんです。その事情については、あとでふれますね)で、お年玉の袋を差し出してくれた叔母の顔が心の中に浮かんできました。
 その私が大学受験のために東京へやってくる程の時間が流れたというのに、出迎えてくれた叔母の顔は、そんな思い出の中の顔と全く変わっていないみたいです。

 叔母は母の妹です。十年前に、中学時代の同級生だった人と結婚して、実家のすぐ近くに住むようになったんです。私の母が結婚を契機に地方――つまり、私の父の家がある所ね――へ出て行っちゃったんで、東京に残った両親(私からみれば、おじいちゃんとおばあちゃん)の面倒をみる役が叔母の方へいったようです。
 そのうちに女の子ができました。その頃が、叔母にとっては最高の時だったと思います。このまま、幸せな生活が続く――そう思うのが普通です。だけど、信じられないような事件が起こりました。
 旦那さんの両親、叔母さんの両親、小さな女の子(私の従姉妹)、つまり、みんなで家族旅行に行ったんだけど、乗っていた観光バスが海に転落しちゃったんです。岩が突き出ている崖に向かって、バスは山肌を転がりながら落ちていったそうです。
 奇跡的に助かった人が何人かいました。そのうちの一人が叔母です。だけど、他の家族は還ってきませんでした。
 命は助かった叔母にしても、無傷ではありません。顔から胸にかけて、大怪我だったそうです。幸い、収容された病院には腕の良い形成外科の先生がいたために、上手に治療されました。今では、言われなければわからないくらいの傷しか残っていません。
 だけど、その日から、叔母の顔は少しも変化しなくなった、とみんなが言っています。その時の顔つきのまま、年をとらなくなったみたいです。

 亡くなった家族を弔うために、叔母はその事故のあと、ずっと一人で暮らしています。
 そして、東京の大学を受験するために三週間ほど下宿させて欲しい、という私の申し入れを、叔母は二つ返事で快諾してくれたんです。
 そうして、私は叔母さんの家での生活を始めることになった訳です。もっとも、受験のためだけならもっと短い日数でいいんです。でも、上京のチャンスなんてそんなに無いんだもの、少しは羽根を伸ばさなきゃねってことで。それに、叔母も、なるべく長く居てねって言ってくれたんだもの――やっぱり、寂しいんでしょうか。



 叔母に案内された私は、六畳くらいの部屋に通されました。
 この部屋よ、自由に使ってちょうだい、という叔母の言葉に従ってバッグの中身を取り出しかけた時、ふと気づきました――そうそう、お仏壇にお線香をあげてこなきゃ。
 私の申し出を聞いた叔母は、すぐにお仏壇のある部屋に案内してくれました。
 お線香をあげながら見上げると、数葉の写真が立っています。叔父に抱っこされているのが、小さいうちに死んじゃった従姉妹(確か、千秋という名前だったと思います)でしょうか。まだ、一歳くらいだったんじゃないかしら。

「ねえ、サッちゃん」
 部屋に戻った私の目の前にティーカップを置きながら、叔母は遠くを見るような目をして話しかけてきました。
「もう十七年前だっけ、サッちゃんが生まれたのは。姉さんがこちらの実家へ戻って出産したおかげで、産まれたばかりのサッちゃんを随分と見たり抱っこしたりしたものだったわ」
「……そうらしいですね」
 私は、母が時々してくれた話を思い出しました。おじいちゃんやおばあちゃんの喜びようったらなかったのよ、なんて。でも、そのおじいちゃんもおばあちゃんも、もういません。
「それから八年後だったかしらね……私が結婚して、千秋が産まれたのは……」
 叔母は小さな溜息を落としました。
「産まれたばかりの千秋を見た時ね、叔母さん、ちょっとびっくりしちゃったの。だって、八年前のサッちゃんにそっくりだったんだもの」
 事故の後も、その話はいろんな人から聞いたことがありました。私と千秋ちゃんとは、従姉妹っていうよりも姉妹じゃないかって思うほどよく似てたって。さっき見た千秋ちゃんの写真、私の赤ちゃんだった頃によく似てるなぁ、なんて自分でも思ったくらいです。
 私が無言で小さく頷くのを見て、叔母は急に立上りました。そして、慌てて目を手でこするような仕草をしてから小さな声で言いました。
「ごめんね、昔の話なんかしちゃって。叔母さん夕飯の食事をするから、サッちゃんはゆっくりしててね」
 叔母は早足で廊下へ出ました。夕飯の支度なら手伝いましょうか、と言いかけたけど、その言葉を慌てて飲みこみました。へたに手伝ったりしたら、死んじっゃた千秋ちゃんのことをもっと思い出させることになるかもしれないと思ったんです。
 その夜は、なんとなく気まずい雰囲気の中で夕食を終え、早めにお布団の中にもぐりこみました。

 翌朝、私が目を醒まして台所に行くと、テーブルの上には朝食の用意ができていました。御飯におみおつけ、納豆とお漬物、それに魚の干物を焼いたのです。
「すみません、寝ぼうしちゃった」
 私はテーブルの上を見回した後、ぺこりと頭を下げました。私を待っていてくれたのか、叔母もお箸に手をつけていないようです。
「いいのよ。さ、いただきましょう」
 叔母はニッコリ微笑むと、御飯をよそったお茶碗を差し出してくれました。
「あ、すみません」
 私はお茶碗を受取ながら、ちょっと遠慮がちに声をかけました。
「あのね、叔母さん。明日からはトーストとインスタントコーヒーだけでいいわ」
「あら、どうして? 和食は嫌いなの?」
「ううん、そうじゃないんだけど。もしも私のためにわざわざお味噌汁なんて作ってくれてるんなら、お手間でしょう?」
「あら、そんなこと? それなら、いいのよ。私は毎日こんな朝食だから。一人分も二人分も、作る手間は同じよ」
「それならいいんですけど……」
 叔母の言葉を聞いた私は、箸を動かし始めました。私に気を遣わせまいと言ってくれてるのか、本当に毎日こんな朝食なのか、どちらともわかりません。だけど、私がこれ以上遠慮してみせれば、かえって叔母は気を遣うことになるでしょう。
 おいしい御飯を終えてお茶を飲んでる時です。あら?というような表情になった叔母が、私の顔に向かって手を伸ばしてきました。何だろう?と思いながらじっとしてると、叔母の指が私の頬から何かをつまみ取ったようです。
 その何かを私に見せながら、叔母は笑い声で言ったものです。
「ほら、お弁当がついてたわ。大きいくせに、サッちゃん、まだまだ赤ちゃんみたいね」
 そうです。私は、ホッぺに御飯粒を付けたまま、お茶を飲んでたんです。思わず、私の顔が熱くなりました。
 そんな私の様子を見て、叔母は相変わらずクスクス笑いながら尋ねてきました。
「お弁当を用意したくらいだもの、今日はどこかへお出かけね?」
 叔母の質問に、私は赤い顔で答えました。
「受験する大学までのコースを下見するつもりなんです。もう少し後でもいいかもしれないけど、慣れない道なんで、早目に済ませておこうと思います」
 叔母は真顔に戻りました。そして、うん、と頷くと、私の目を覗きこむようにしながら言葉をかけてくれたんです。
「その心意気よ。不安材料は、少しでも早いうちになくしちゃった方がいいわ。気をつけて行ってらっしゃい」

 受験する予定の二つの大学までのコースを下見した後、古本屋さんを何軒か見て回ってから帰ってきました。
 玄関を開けようとしたんですが、鍵がかかっているようで、開きません。どうやら、叔母は買物にでも出たようです。
 鍵は預かってないし、どこかの喫茶店にでも入って待ってようかと思っていたところへ、息をきらした声が聞こえてきました。
「ごめんなさいね。もっと早くに帰ってくるつもりだったんだけど、お買物に手間取っちゃって」
 そう言いながら、両手に大きな袋を提げた叔母が走ってきました。息がゼイゼイいってます。きっと、玄関前で待ってる私の姿を見て大急ぎで走ってきたんでしょう。
 玄関を開ける時に、叔母は袋を一つ地面に置きました。叔母の後から家に入ろうとした私は、その紙袋を持ち上げました。大きさの割には少し軽いみたい。洋服か何かでしょうか。
 叔母は、食べ物の入ったスーパーの袋を台所に置いた後、残りの袋を私が使っている隣の部屋に運びこみました。私も手に持った袋を置くためにその部屋に入ろうとしたんだけど、それはできませんでした。叔母が袋を受取って、自分で部屋の中に持っていっちゃったんです。
 私は少しムッとしましたが、すぐに思い直しました。どこの家にも、他人に見せたくない場所は有る筈だもの。特に、あんなにたくさんの荷物を運び入れちゃうような部屋なら、物置として使っているのかもしれません。そんな部屋はたいてい、他人に見られたくないものです。
 今日も叔母の心尽くしの夕飯を食べた後、お風呂をいただきました。歩き回った疲れが綺麗に洗い流されたように思いました。
 脱衣場でパジャマに着替えて出てくると、冷たいミルクが入ったコップを持った叔母が待っていました。
「わー、すみません」
 母からはこんな心遣いを受けたことがない私は、恐縮するのと同時に感激しちゃいました。
「いいのよ。それよりも、受験じゃ頑張ってね」
 ミルクを飲み干した私は部屋に戻ると、問題集を開きました。そうです。叔母の心遣いに応えるためにも、勉強するつもりになったんです。
 けれど、そうはいきませんでした。昼間の疲れのせいか、一問も解かないうちに、うつらうつらし始めたんです。なにくそとは思っても、睡魔はますます強く襲ってきます。とうとう私は、適当な口実を見つけ出して布団に入ってしまいました――受験まで一ケ月もあるわけじゃないし、いまさら頑張っても遅いのよ。今は、体と心を休めておくべき時期なんだわ。どうしても問題集を解かなきゃならないにしても、明日の朝、早起きすればいいのよ。

 だけど翌朝は、問題集を解くどころじゃありませんでした。
 私が起きてくるのが遅過ぎるって気になった叔母が部屋にやって来て肩を揺すって起こしてくれたみたいなんだけど、その後が大騒ぎだったんです。
 しまった、寝過ごした、とか言いながら布団から跳ね起きたんだけど、お尻の辺りに妙な感触を感じたんです。何かしら?と目をやった私は、声も出ませんでした。信じられない光景が目に入ってきたんです。
 悪い夢でも見てるんだろうか?と思いながら叔母の顔を見てみると、叔母の視線も私の下腹部に向けられたまま、ピクリとも動きません。この叔母の様子だと、これはどうも本当のことのようです。
 念のためにこれまで寝ていた敷布団も見てみましたが、そこにはクッキリと証拠が残っていました。
 私は、耳の先から指先までがまっ赤に染まるのを感じました。
 ううん、これは何かの見間違いよ。一度目を閉じて、もう一度開けた時には――だけどムダでした。さっきと同じです。
 この年になって、私はオネショをしちゃったんです。幼稚園に入る頃には失敗なんてしなくなってた筈の、この私が。
 私の足から力が抜けてゆきました。
 そのまま布団の上にしゃがみこもうとした時、叔母の手が私の体を支えてくれました。
「大丈夫よ。急に環境が変わったせいだから、気にしない方がいいわ」
 叔母はそう言うと、放心状態になっている私のパジャマを優しく脱がせ始めたんです。
 ウロがきてしまった私には、何をどうすればいいのか、さっぱりわかりません。ここは、叔母の手に全てを委ねるしかないみたい。
 しばらくしてやっと我に返ってみると、私は全裸でした。部屋には叔母の姿はありません。
 床を見てみると、私が寝ていた布団もなくなってました。汚しちゃったパジャマと下着もです。私の衣類とシーツは、今頃、洗濯機の中でしょう。布団は物干し場かしら? いずれにしても、叔母が部屋から持ち出して、後始末をしてくれている最中でしょう。
 私はバッグから新しい下着と洋服を取り出すと、ノロノロと着替え始めました。
 着替えが終わってからも、部屋から出ようとする気にもなりません。やだなー、この年になって――なんてぶちぶちと独り言を繰り返すばかりです。
 そんなところへ、台所から呼んでるのか、叔母の声が廊下を渡って聞こえてきました。
「何してるの、御飯が冷めちゃうわよ」
 その声は、何事もなかったような、ごく自然なものでした。環境が変わったせいよ、という叔母の言葉が思い出されました。
 そうです。このまま落ちこんでいても、どうにもなりません。私は、わざと明るい声で答えました。
「はーい、すぐ行きまーす」

 それから、なんとか気を取り直して勉強を始めました。
 とはいっても、参考書を見つめなきゃならない私の目は、すぐに窓の方にいっちゃいます。机は窓際に置いてあるんだけど、その窓からは、物干し場が見えちゃうんです。
 そして、そこには、私の下着やパジャマと並んで、布団が干してあります。家の周りの塀はそんなに背が高くないから、道を歩く人にもよく見えるんです。もっとも、布団が干してあるなぁ、と思われるくらいで、オネショの始末だと思う人もいないでしょう。でも、そうとは思いながら、本人の私としてはついつい気がかりで、ちらちらと物干し場に目をやっちゃうんです。
 なんとか今日の分のノルマを仕上げた時には、夕方を過ぎてました。普通のペースならもっと早くに終わって、気分転換に散歩したりジョギングしたりするんだけど、オネショ騒ぎでペースが落ちちゃったみたい。
 私を励ますためでしょう、今日の夕食は私の大好物が並んでました。
「わ、すごい。いいんですか?」
 思わず大きな声できいちゃいました。
「どうぞ、たくさん召しあがれ。姉さんに電話して、サッちゃんの好物をきいたのよ」
 叔母がニコニコ笑いながら答えます。
 私ったらよっぽど単純にできてるのか、好物ばかりの夕食を食べ終えた時には、心の中はサッパリしてました。そして思ったものです――そうよ、幸子(あ、これが私の名前です。だから叔母は私のことを、サッちゃんて呼ぶんです)。いつまでもクヨクヨしてたら、受験にも悪い影響を及ぼすだけよ。
 お風呂からあがって入った布団はフカフカで、いい匂いがしました。お日様の光をたっぷり吸収したからでしょう。ほこほこと暖かい布団の中で、知らないうちに瞼が閉じていました。

 昨日のように叔母に起こされた私は、絶望的な気分になっていました。
 昨日と全く同じだったんです。
 私の目から涙が溢れました。昨日は恥ずかしがるだけですんだけど、さすがに二日も続けてオネショしちゃうと、自分が嫌になっちゃいます。恥ずかしさと悔しさとが混ざって、胸の中で渦巻いてるようです。
 それでも、私は自分に気合をかけました。叔母がパジャマを脱がせようとしてくれたんだけど、私は自分で脱ぎ始めたんです。涙をポロポロ流しながらも、自分のやったことは自分で始末するしかありません。
 私がやってあげるわよと言う叔母の手を振りきって、洗濯機のスイッチを入れました。その間に、部屋から布団を運び出して、物干し場に持って行きます。地図が描かれてる方を建物(つまり、道路からは見えない側)に向けて干すことは忘れませんでした。
 作業を終えた私は、朝食も摂らずに家を出ました。しばらく間をおかないと、叔母と顔を会わせることができないような気分だったんです。
 喫茶店に入ったり、本屋さんで雑誌を立ち読みしたりしてる間に、お昼を過ぎたようです。まだ心のざわつきは治まってないけど、そのざわつきをなんとか鎮めて、家に戻ろうと決心しました。このままじゃ、せっかく好意で下宿させてくれている叔母に心配をかけるだけだもの。
 トボトボと歩いて帰ってはきたものの、それでも、玄関の前で逡巡しました。どうしようかな、やっぱり、もう少し後から戻った方がよかったかな、なんて。
 不意に玄関が開きました。
 中から叔母が開けたんです。きっと、私の気配がしたんでしょう。
「こんな所で何をしてるの。早く入りなさいな」
 家から出てきた叔母は、私の背中を優しく押しました。
 コックリと小さく頷いてから、叔母の手に押されて家の中に入りました。
 どこへ行ってたの?と言う叔母の言葉に、ごめんなさいって答えただけで、私は部屋に向いました。
 机の前に座っても、参考書を開く気にもなりません。ホーッと溜息をつくと、顎を机の上に載せて、ぽけっとしてました。
 しばらくそうしていてから、私は、昨日のように物干し場に目をやりました。どうしても、布団や下着が気にかかるんです。
 物干竿にかけられた下着やパジャマは、もうすぐ春という柔らかな光の中でゆらゆらと風に揺れています。その横には布団が干してあって、そのまた横には――え、あれは何かしら?
 見覚えのない布が何枚も風に揺れてるのが見えたんです。
 私は目を凝らしてみました。
 白い長方形の布で、動物か何かの柄がプリントされてるみたい。その隣のは、水玉模様みたいです。
 更に目を大きく開いてよく見ると、形は長方形じゃないようです。輪っかみたいになっていて、それが竿にかけられてるから長方形に見えるんだと気づきました。
 そういえば、あんな形のものを見たことがあるわ。私は、少しずつ記憶を辿り始めました。
 やがて思い出したものは――赤ちゃんがあてるオムツです。そうそう、そういえば、高校の家庭科で保育の授業に使ったことがあります。それが丁度、私の目に映ってるものと同じでした。
 だけど、どうしてオムツなんて干してあるのかしら?
 私の心の中を『?』が羽根を広げて飛びまわりました。
 うーん、と首をかしげていると、ドアが開く気配がします。
 振り返ってみると、叔母が部屋に入ってくるところでした。手には銀色のトレイを持っています。
「お昼御飯、まだでしょう? これを食べるといいわ」
 トレイを私の目の前に置きながら、叔母が言いました。
 見ると、トレイの上には、サンドイッチのお皿と、ミルクティーのカップが載っています。それを見るなり、私のお腹が小さく鳴りました。
 聞こえちゃったかなと思うと、顔が赤らみました。
 すぐにサンドイッチを頬張るのは恥ずかしいので、まずはティーカップを手にとることにします。唇に触れたカップからいい香りがたちこめ、その香りに誘われるように、ミルクティーをすすりました。
 ゆっくりとミルクティーを飲みながら、私は、傍らの叔母に尋ねることにしました。
「ねえ、叔母さん。ちょっとききたいことがあるんだけど……」
「あら、何かしら?」
 叔母は、私の顔を横から見ました。
「布団の横に干してあるの、あれって……赤ちゃんのオムツじゃないの?」
 私は物干し場を指差しました。
「ええ、そうよ」
 叔母は頷きました。そして、少し間をおいて言葉を続けました。
「千秋が使ってたものなの。サッちゃんが出かけた後で、物置にしまってたのを出してきて洗濯したのよ」
「千秋ちゃんの……ですか」
 私の胸がかすかに痛みました。
「どうして今頃になって千秋のオムツを出してきたのか、ききたいんでしょう?」
 私の心の中を覗きこんだように、叔母が言いました。
 はい、と頷く私の耳に入ってきた叔母の言葉は、私が予想もしていなかったものでした。叔母は、ニコニコ笑いながら、こう言ったんです。
「あれはね、サッちゃんにあててあげようと思って物置から出してきたのよ。でも、そのままじゃ埃が付いてるから、ああやって洗濯しておいたの」
 私の口がポカーンと開いたまま、閉じなくなりました。私のためにオムツを洗濯したんですって?
「どうしたの? そんな顔して。私、何か変なことを言ったかしら?」
 叔母は右手の人差指を自分の頬に当てて、少し首をかしげました。
「だって……。私は十七歳の立派な乙女ですよ。そんな私にオムツなんて」
 私は、両手で頬を包むようにして言いました。頬が赤く染まってるのがわかります。
「そうかしら。でも、すぐに、オムツが要るってことが自分でもわかるようになると思うわ」
 叔母は、悪戯っぽいウインクをしてみせました。そして、ドアの方へ歩き始めます。「そろそろ乾いた頃でしょう。取りこんでくるわね」
 叔母の後姿を見送る私の顔には、唖然とした表情が浮かんでいたことと思います。
 不意に、お腹の虫が大きく鳴きました。気がつくと、叔母との会話の間にミルクティーは冷めちゃったみたいです。私はサンドイッチを頬張ると、ミルクティーで喉の奥へ流しこみました。
 物干し場を見ると、叔母がオムツを取りこんでいるところです。その表情が、なんとなくウキウキしたような楽しそうなものに見えるのは、私の気のせいでしょうか。
 トレイのサンドイッチがきれいになくなった頃、私の頭がボーッとしてきました。ここ二日ほど夜の寝付きもいいし、たっぷり眠っている筈なのに、どうしたんでしょう?

 細く開いた私の目に、天井の木目が映りました。
 どうして私はこんなところで寝ているんだろう?と思ったのは少しの間だけです。
 徐々に記憶が戻ってきました。
 机の前で急に眠くなった私は、どうしても我慢できなくなって、畳の上に横になったんです。寒くないようにと、ジャケットを体にかけたところまでは覚えてるんだけど、その先はダメです。多分、眠りこけちゃったんでしょう。
 横になったまま、うーん、と腕を伸ばしました。それで少しは頭がスッキリしたみたい。今、何時頃かしら?
 ノロノロと目の前にもってきた左手の腕時計を見て、私はびっくりしました。ディジタルの数字が午後六時を示しています。そういえば、部屋の中もだいぶ暗くなってるようです。私が横になったのは――二時前だったかしら? もしもそうなら、四時間以上も眠ってたことになります。いったい、どうしちゃったんだろう?
 私は上半身を起こしました。
 体にかかっていた毛布が滑り落ちました。
 あれ? 確か、ジャケットを体にかけてた筈なのになぁ。私は部屋の中を見回しました。すると、そのジャケットがハンガーに掛けられて、机の横に吊るされているのが見えました。
 多分、叔母でしょう。私が寝入った後に叔母が部屋にやってきて、ジャケットを整理して毛布をかけてくれたんでしょう。叔母は今、台所でしょうか。私は台所に向かって小さく、ありがとうと呟きました。
 蛍光灯のスイッチを入れるために立ち上がろうとした時、私は下腹部に妙な感触を覚えました。なんていうか、ジクジク湿っているような、いやーな感じです。
 その正体をつきとめるためにも、私は立上りました。そして蛍光灯のスイッチを入れたんです。
 目が明るさに慣れてくると、枕許に、きちんとたたまれたジーンズとスキャンティが置いてあるのが見えました。これは、私が穿いていたものの筈です。それじゃ、叔母はジーンズも(それだけじゃないや。スキャンティも、だ)脱がせちゃったんでしょうか。でも、なんのために?
 何かしら胸騒ぎを感じた私は、慌てて自分の下半身に目をやりました。
 そこには、信じられないものがありました。スキャンティの代わりに私が身に着けているのは、私の年齢にはあまりにも似つかわしくないものでした。
 それは、ピンクの生地でできた大きなオムツカバーだったんです。裾には小さなレースのフリルがあしらわれて、お臍のすぐ下に小熊のアニメのアップリケが付けられたそれは、どう見ても赤ちゃんのお尻を包むためのオムツカバーです。それが、私のお尻を包んでいるんです。もちろん、赤ちゃん用のオムツカバーが私の大きなお尻にフィットするわけがありませんから、それは特別に大きく縫製されたものでしょう。
 目を点にした私は、そのまま視線を下げてみました。
 すると、畳の上にカラフルなシーツのようなものが敷いてあるのが見えます。私はそのシーツの上に寝ていたのでしょう。
 何かしら?としゃがみこんで見てみると、それはオネショシーツでした。黄色の撥水性の生地に子猫のアップリケが付けられたそのシーツは、赤ちゃんのお尻の下に敷くオネショシーツだったんです。
 更によく見ると、私がお尻を載せていた辺りには、小さな滲みが幾つかあるようです。
 その滲みを目にした途端、ジクジクした感触を再び思い出しました――まさか。そんな、まさか。
 私の頭の中は完全にパニックです。
 私は、オネショシーツの上に座りこんでしまいました。
 その時、ドアが開きました。
「あら、目が醒めたのね」
 叔母の声が聞こえました。
 私はゆっくりと、声のする方に振り向きました。そこには、叔母の姿があります。手にはポリバケツと、何かバスケットのようなものを持ってるようです。
 部屋に入ってきた叔母は手にした荷物を床に置くと、私の傍らに膝をつきました。
 それから、不意に私のお尻を包んでいるオムツカバーの中に手を入れてきたんです。
 私は、ビクッと体を震わせてしまいました。なんとか叔母の手をどけさせようと体をよじったんですけど、思い通りにはいきません。
 しばらくそのままオムツカバーの中の感触を確かめるようにしてから、叔母は手を抜きました。そして、目を輝かせて私に言ったんです。
「たくさん出ちゃってるわね、サッちゃん。さ、オムツを取替えようね」
 私は激しく首を振りました。
 眠っている間にオムツをあてられていることだけでも充分なショックなのに、それを汚しちゃったんです。しかも、叔母はそのことをわざわざ口に出すのですから。
「どうして、こんなことを……」
 私はあとずさりしながら、震える声で叔母に言いました。
「だから言ったでしょう? オムツが必要になるって」
 叔母は平然と答えました。
「ここ二日間、サッちゃんはオネショを続けちゃったわよね。なんとかしてあげたいなと考えてるところに、千秋が使ってたオムツが残ってたことを思い出したの。パジャマや布団を濡らしちゃえば体中が気持わるいでしょう? だけどオムツをあてておけば、お尻だけですむのよ」
「でも、だって……それなら、どうして前もって相談を……」
「相談なんてしたら余計に恥ずかしがると思ったのよ。それにだいいち、相談した後じゃ今のオネショには手遅れだったんじゃないかしら?」
 叔母の言葉が私の胸に突き刺さりました。叔母が勝手にオムツをあてたからこそ、私は畳と毛布を汚さずにすんだんです。それは認めます。でも……。
「わかったら、こっちへ来てちょうだい。濡れたオムツのままじゃ風邪をひいちゃうわ。新しいオムツと取替えましょうね」
 そう言うと、叔母は私の両手を掴みました。そして、オネショシーツの上へ私の体を引き戻そうとします。
「……わかりました。叔母さんの言う通り、眠る時にはオムツをあてます」
 私は体中をまっ赤に染めて、決心したように言いました。こうでも言わないと、叔母は私を開放してくれないような気がしたからです。そして一旦はそうして叔母の言葉に従ってみせてから、交換条件を出すことにしました。
「だけど、私はもう目が醒めました。だから、新しいオムツはもう要りません」
「そうね……。サッちゃんの言うことは、もっともだわ。じゃ、濡れたオムツだけ外しましょうね」
「はい。あ、でも……自分でしますから」
 私は慌てて手を振りました。
「うふふ、何を遠慮してるのよ。サッちゃんが赤ちゃんの頃は私もよくオムツを取替えてあげたのに――恥ずかしくなんてないわよ」
 叔母はクスクス笑いながら言いました。
 でも……と私が言いかけた時には、叔母の手がオムツカバーの腰紐にかかってました。
 どういうわけか、なんとなくそれ以上に抵抗を続ける気がふにゃっとなくなってしまい、半ばやけくそみたいになった私は、叔母に抗うことをやめてしまいました。このまま押し問答を続けていれば濡れたオムツが冷えきって、本当に風邪をひくかもしれないとかいう気になったのかもしれません。そうなれば、受験に失敗しちゃうのは容易に想像できるんですから。
 私のお尻から剥ぎ取ったオムツとオムツカバーをポリバケツに放りこむと、叔母は持ってきたバスケットからパイル地のバスローブを取り出して私に差し出しました。
「お風呂を沸かしておいたから入ってらっしゃい。オネショをきれいに洗ってくるのよ」
 私はバスローブをさっさと身に着けると、逃げるように部屋を出ました。その時、ちらとバスケットを見たんですけど、そこにはバスローブだけじゃなく、いろんな柄のオムツやオムツカバーが入ってました。あのまま叔母の言う通りにしてたら、今頃はあの大きなオムツカバーを着けることになってたんでしょうか。

 浴室に入った私は、まず、シャワーを浴びました。眠気をとるために、思いきり熱いやつです。そのすぐあとに冷水を浴びると、身が引き締まって、それまで体の中に澱んでいた眠気はすっかり消えちゃいました。
 洗い椅子に座って体を洗い始めた時、浴室に立ちこめている湯気が微かに揺らめきました。同時に、少し冷たい風が流れてきます。
 何かしら?と振り向くと、私のすぐうしろに叔母の姿がありました。
 何か用ですか?という私の問いかけを無視するみたいに、叔母は無言で私の背後に座りました。そして私が手にしていたスポンジを取りあげると、私の背中をこすり始めたんです。


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