卒業


 いつもは仕事に忙しい辻本裕也だが、さすがに娘の淑子が中学校を卒業する日ばかりは休みを取り、体育館の床に並べられたパイプ椅子に座って、淑子が卒業証書を手にする場面をじっと見守っていた。彼の頭の中に、様々な思い出がまるで早送りのビデオのように映し出されては消えて行った。
 卒業式は一時間たらずで終了し、教室で開かれた担任との懇談会も終えて、裕也は淑子と並んで校門をくぐった。
「久しぶりにメシでも食いに行くか?」
 校庭の一角に植えられた梅の香りが微かに漂ってくるのを嗅ぎながら、裕也は少しばかり照れたような口ぶりで言った。
「そうね。パパと御飯を食べることなんて一年に何度もあることじゃないし……今日は特別な日だものね」
 淑子もちょっぴりはにかんだような表情で応える。

「じゃ、乾杯だ」
 バス道でタクシーをつかまえ、以前に何度か取引先を連れて来たことのあるレストランに入った裕也は、ランチのコースをオーダーした後、ワイングラスを目の高さに持ち上げた。それにつられるように、淑子もエビアンの入ったグラスを手にする。
「乾杯」
 二つのグラスが触れ合って、透明な澄んだ音色が心地好く耳をうつ。
「早いものだな。あの小さかった淑子がもう中学を卒業するんだからね」
 裕也は、グラスの中を覗きこむようにしてポツリと言った。
「……うん。ありがとう、パパ」
 なんとなく目を伏せるようにして淑子が応える。
 淑子の母親つまり裕也の妻である幸子は、淑子を生んで四年ほどしてから他界した。もともと病弱だった幸子だが、医者が反対するのにもかかわらず淑子を身ごもり、自分の命を削るようにして彼女を生み落したのだった。そして、淑子が幼稚園の制服を着た姿に満足そうに目を細めながら安らかに息を引き取ったのだ。そんなふうにしてこの世に生を受け、成長してゆく淑子を、裕也はまるで宝物のように扱い、心からいつくしんで育てた。そんな裕也の心に応えるように淑子もまっすぐに育っていった。ただ、裕也の庇護が強すぎたのか、どことなくはかなげで線の細い雰囲気があることも否めない。
「さ、食べようじゃないか。せっかくの御馳走が冷めちゃうぞ」
 なんとなくしんみりしてしまった雰囲気を吹き飛ばすかのように、運ばれてきた前菜にフォークを突きたてながら、裕也がわざと明るい声で言った。
 賑やかな食事が始まった。
 スープ、メインディッシュ、サラダ……。淑子はその年齢に相応しい食欲をしめして、運ばれてくる皿を次々に空にしていった。
 そしてデザートが終わり、二人の目の前にデミタスカップのコーヒーが置かれた。
「なあ、淑子」
 芳醇な香りのコーヒーを一口すすってから、裕也は真顔になって淑子に話しかけた。
「三月いっぱい、春日の叔母さんの処で暮らしてみないかね?」
「春日の叔母さん……でも、どうして?」
 淑子はカップを口元へ運ぼうとしていた手を止めると、訝しげな表情で尋ねた。
 春日の叔母というのは、裕也の姉・美恵のことだ。嫁ぎ先の姓が春日なので、淑子は小さい頃から「春日の叔母さん」と呼んでいる。正月や法事などで時々顔を会わせる程度のつきあいしかないが、厳しそうな人だなという第一印象が今も心に残っている。
「淑子は四月からソフィア女学院の生徒になるね。あそこは全寮制で躾も厳しいということだが、今の淑子を見ているとその躾に耐えられるかどうか、いささか心もとないように思えるんだよ。私が少しばかり甘やかしすぎたのかもしれないな――そこで、学校は違うがやはり女子高の先生をしている叔母さんの家でちょっと鍛えてもらってはどうかと思ってね……」
 カップを皿の上に戻し、細身のライターでタバコに火をつけながら裕也が言った。
 春日美恵は、或る私立の高校に勤めている。淑子が入ることになっているソフィア女学院と比べても躾の厳しさでは甲乙つけがたい女子高校で、いわゆる「お嬢様学校」の典型だが、美恵はそこで生活指導の主任を務めているのだ。淑子が抱いている「厳しそうな人」という印象はダテではない。
「……わかりました。パパがそう言うのなら、叔母さまのお家でしばらく生活してみます」
 淑子は小さく溜息をついてから小声で応えた。しかし、内心あまり乗り気でないことは、その顔に浮かんだ表情から明らかだ。
「そうか。叔父さんも昨日から出張でしばらくは帰ってこないから気楽にいらっしゃい、という叔母さんからの返事ももらってる。早速だが明日にでも送って行ってやろう。パパも、明日の休みはもう取ってあるんだ」
「……手回しのいいことね」
 淑子にしては珍しく、父親に向かって皮肉っぽい口調で言った。



 翌日、車のトランクから大きなバッグを取り出した裕也は、美恵の家の玄関に立ってインターフォンのボタンを押した。その背後に隠れるようにして、淑子は息をひそめるようにそっと立っている。
『はい、どなた?』
 かろやかな電子音が響いたかと思うと、すぐに女性の声がスピーカーから流れてくる。
「ああ、姉さん? 裕也です。淑子を連れてきたんですが……」
『あら、いらっしゃい。すぐに開けるからちょっと待っててちょうだいな』
 美恵の声がそう応えた後、ハンドセットを置いたのだろう、微かにガチャッという音が聞こえてしばらくして、ドアのノブがゆっくり回った。
 開いたドアから姿を現した美恵は挨拶もそこそこに二人を家の中に招き入れ、先に立って廊下を歩き始めた。
 二人が案内されたのは、清潔そうなダイニングルームだった。二人が木製の椅子に腰をおろすと同時に、美恵が、ティーポットからオレンジペコをたっぷり注いだカップを並べる。淑子がぎこちなく頭を下げた。
「急なことで申し訳ないんだけど、淑子のこと、よろしく頼むよ」
 淑子が頭を上げるのを待って、裕也が美恵に言った。
「ふん――あんたは昔からそうだったわね。いつだって、こちらの事情は何一つ考えずになんだって押しつけてきたんだから。あれは私が中学生の頃だったかしらね、小学生だったあんたが急に……」
 美恵が、なんとも表現しようのない流し目で裕也の顔を見つめ、やや皮肉っぽい口調で応える。
「そんな昔のことはもういいよ、姉さん――ほら、淑子が不思議そうな表情で見てるじゃないか。とにかく頼むよ」
 裕也は慌てて手を振り、微かに怒気を含んだような早口で言った。
「ま、いいわ。わかったわよ、ほかならぬ弟の頼みだもの。淑子ちゃんのことはまかせてもらいましょう。但し、四月になってこの子があんたの家に戻るまでは、私の教育方針に沿って生活させるわよ。口出しは一切無用だからね」
「……そのあたりはまかせる。姉さんのいいようにやってもらって結構だよ」
 尊敬してやまない父親が美恵にはいいようにあしらわれ、返す言葉も失っている。それを目の当たりにした淑子の心の中で、美恵に対して抱いていた「厳しい人」という印象がますます確固としたものになっていった。しかもその叔母は、淑子のことを『私の教育方針に沿って生活させる』と断言したのだ。この先、どんなに厳しい生活が待っていることだろう……。不意に、淑子は自分が囚人にでもなってしまったかのような錯覚にとらわれた。
 そして、それが美恵の目的だった。淑子の性格を鍛え直すには、まず彼女が自分の言うことには絶対に逆らわないようにすることが肝要だと裕也に伝え、自分が恐くて厳しい人間だという印象を淑子の心に植えつけるための芝居に協力するよう要請したのだ。裕也から聞いた話では既に淑子は美恵に対して厳しい人だという印象を持っているようなので、それを積極的に煽ってみることにした。美恵が裕也に対して居丈高な態度を取ったのは、そのためだった。

 美恵と裕也の会話をまるで別世界のことのように感じながら、喉の渇きを覚えた淑子は冷めたお茶を静かに飲み干した。
「お代わりは?」
 淑子のカップが空になったことに気づいた美恵がポットを持ち上げる。
「あ、いいえ。もう結構です」
 淑子はやや伏し目がちに応える。
「あら、そう?……どうかしたの、淑子ちゃん。元気がないみたいだけど?」
「……いえ、なんでも」
 元気がないのは叔母さんのせいよとは言えず、淑子はそっと首を振った。
「生まれてこのかた、淑子はずっと自分の家を出たことがありませんからね。他処で泊まったのは修学旅行くらいのものですよ。それが初めての家で何日も生活するんで緊張してるんでしょう」
 やはりお茶を飲み干してカップを置いた裕也が、淑子の表情をちらと見て言った。そして微かに笑いを含んだ声で言葉を続ける。
「それも、恐い恐い叔母さんの家だもの」
 淑子の胸がドキッと高鳴った。まるで胸の内を見透かされたようなショックを受けたのだ。慌てて顔を伏せながら美恵の顔色をうかがったが、彼女は裕也の言葉など無視するように淑子の方を見つめたままだ。
 不意に、さーてそろそろ、という裕也の声が聞こえたかと思うと、ガタッという音が響いた。顔を上げた淑子の目に、椅子から立ち上がる裕也の姿が映る。
「じゃ淑子、叔母さんの言うことを聞いてちゃんと暮すんだぞ」
 裕也は淑子に向かってそう言うと、見送りは要らないよと美恵に言ってからダイニングルームを出て行った。
 淑子は慌てて裕也を追いかけようとしたが、それはできなかった。こちらを見ている美恵の視線に射すくめられたように、身動き一つとれなかったのだ。
「淑子ちゃんの父さんも帰ったことだし、お茶の時間はおしまいにしましょうか――お片付け、手伝ってくれるわね?」
 美恵が言った。
「あ、はい……」
 淑子はおどおどした様子で応えた。元来が性格的にそう強くないところに、美恵が自分のことを睨みつけているのだから、とてもではないが堂々とした対応などできるものではない。
 淑子はいささか慌てた様子で何度も椅子に脚をぶつけながら立ち上がると、カップをお盆に載せようと手を伸ばした。が、突然、その手の動きが止まってしまう。同時に、体がブルッと小さく震える。
「どうかしたの?」
 そんな淑子の様子を目にした美恵は、少しばかり不審げな口調で尋ねた。
「……あ、いえ……なんでもありません」
「そう? じゃ、淑子ちゃんはカップを洗っておいてね。洗剤は流し台の下の収納庫に入ってるわ――私はあなたが使う部屋を片付けてくるから、あとはお願いね」
 淑子の返答を聞いた美恵はそれ以上淑子の様子を気にするふうもなく、ダイニングルームをあとにした。
 だが、なんともないと言った淑子の言葉は嘘だった。彼女は今、大変なピンチにみまわれている最中だった――美恵の家に着いた頃から感じ始めていた尿意が次第に激しくなり、今まさにピークを迎えようとしているのだった。玄関での挨拶の時、廊下を歩く時、そしてお茶の時間と、淑子はトイレがどこにあるかを尋ねようとタイミングを計っていた。しかし、それは意外に難しいことだった。初めての家でいきなりトイレへ行きたいなどと言い出してはしたない子だと思われるのがイヤだという思いもあったが、それ以上に、美恵の厳しそうな態度に気圧されてそのタイミングを逸していたのだ。
 叔母さまがダイニングルームに戻ってきたら今度こそトイレの場所を教えてもらおう。それまでは我慢するのよ――淑子は自分にそう言い聞かせると、やっとの思いでカップを載せたお盆を両手でささげ、流し台に向かって、なるべく体に衝撃を与えないように小さな歩幅でそっとそっと歩き始めた。
 流し台のすぐ前までなんとか辿り着いた淑子はシンクに水をはり、カップと皿を静かに滑りこませた。いかにも高価そうなカップに触れる緊張感からか、それまで感じていた激しい尿意を淑子は一瞬忘れた。そしてそのまま、収納庫の洗剤を取り出すためになにげなく屈みこむ。だが、その行動は今の淑子にはあまりにも無防備なものだった。
 下腹部に圧力が加わり、ほんの一時意識の外に逃げ出していた尿意が以前にもまして激しく高まる。淑子がハッとした表情を浮かべ、身構えた時にはもう手遅れだった。それまで尿が溢れ出すのを精一杯に耐えていた膀胱の筋肉にとって、一旦その力が抜けてしまった後は、再び緊張を取り戻すことはひどく困難なことだった。
 最初の一滴がおずおずと膀胱から溢れ出し、尿道を通り、まだ完全には生え揃っていないヘアにかろうじて覆われた泉から流れ出る。淑子が穿いている白のショーツに吸収されたその一滴はコットンの繊維に沿って素早く広がって行き、ショーツの股間を意外と広く濡らしてしまう。生温かく、微かに湿った感触が敏感な若い肌に表現しようのない違和感を覚えさせ、淑子の口からは思わず溜息とも喘ぎともつかない声が洩れ出る。淑子の背筋を、冷気にも似た気配が貫いた。ゾクッと体が震える。
 続いて二滴、三滴と溢れ始めたオシッコの雫は絡み合い、もつれ合ってやがて細い糸のようにまとまってゆく。その糸は次第次第に太く激しい奔流となって出口を求めて走る。淑子はギュッと目を閉じた。目を閉じて、再び下腹部に力を入れる。膀胱の出口が僅かにせばまり、尿道の肉壁が脈うつ。淑子は必死の思いで尿意と闘った――こんなところでオモラシなんて、あの叔母さまに何を言われるかわかったものじゃないわ。
 しかし、自分の頭の中に『オモラシ』という言葉が浮かんできたことに気がついた淑子は、却ってうろたえてしまった。その言葉はは、もうすぐ高校生になろうかという淑子の年齢にふさわしいものではないのだ。淑子の頬が桜色に染まった。同時に、下腹部の緊張が僅かに緩んでしまう。
 一旦そうなってしまえば、もうなす術はない。じわじわと秘密の泉から流れ出たオシッコはじわりとショーツに広がってゆき、次第にあますところなくぐっしょりと濡らしながら、やがてはショーツからも溢れ出し、淑子の白い内腿を伝って床に落ち始める。淑子は両手をギュッと握りしめ、唇をワナワナと震わせた。ああ、とうとう……。淑子の全身を羞恥が駈け巡った。
 が、それはほんの一瞬のことだった。不意に羞恥心が嘘のように消え去り、遠い記憶が甦ってくる――それは、まだ幼稚園に通うようになる前のことだろうか。殆ど布団の上で寝ていたばかりの母親がその日はどういうわけか体の調子がよく、思いがけないことに幼い淑子の遊び相手になってくれたのだった。母親に遊んでもらったことなどなかった淑子は有頂天になり、トイレへ行くことさえ忘れて遊び続けた。そして、物心つく頃にはオネショもオモラシもしなくなっていた筈の淑子が、その時だけは失敗したのだった。泣きじゃくる彼女の頭を撫でながら下着とスカートを着替えさせてくれた母親の温かい手。
 淑子はウットリしたような目つきになると、次第に体中の力を抜いていった。両膝をダイニングルームの床につき、左右の腕をだらしなく体の両側に伸ばしてしまう。トロンとした半開きの目は何を見ているのか、まばたきも忘れ、黒い瞳も少しも動かない。

 寝室の片付けを終えてダイニングルームに戻ってきた美恵はドアを開けるなり、流し台の前に座りこんでいる淑子の姿を目にし、慌てて彼女の側へ駈け寄ろうとした。なにかの拍子で淑子がケガでもしたのかと思ったのだ。だが、淑子を中心にして広がっている水溜りに気づくと、微かに不審げな顔つきになって淑子の周囲を改めて見渡した。しかしどこにも、食器を割った形跡も、水を入れていた容器を落したような気配も見当らなかった。
 淑子の姿を目の前にして思わず思案顔になった美恵の鼻が、微かに甘い香りにくすぐられた。甘いといっても、香水や花の香りのような爽やかなものではない。それでいてどこか懐かしいような、なんとも表現しようのない甘ったるい香りだ。美恵はしばらく逡巡したが、遂には決心したような顔つきになるとそっと身を屈めて、淑子の周囲に広がる水溜りに自分の顔を近づけた。そして、クンクンと鼻をひくつかせる。それは、明らかに尿臭だった。
 美恵の顔色が変わった。慌てて体を起こすと、水溜りに足を踏み入れないように注意しながら、ふぬけのようになっている淑子の耳元に口を寄せて声をかける。
「これはどうしたことなの、淑子ちゃん。いったい、何があったの?」
 その声で淑子は突然のように我に返った。
 驚いたような表情で美恵の顔を見上げ、なにかを言おうとするように口を開く。が、次の瞬間、自分のお尻の下に広がる、もうとっくに冷えきってしまったオシッコの感触に体を震わせ、なにも言えなくなって顔を伏せてしまう。
「黙ってちゃわからないわ。いったいどういうことなのか、叔母さんにちゃんと説明してちょうだい」
 美恵は語気を荒げた。それは、淑子に対して恐い印象を与えるための芝居ではなかった。高校生にもなろうかという姪がオモラシをしてしまった事実に戸惑い、混乱して思わずそうなってしまったのだ。
 しかし淑子にとって、美恵のその語気の強さは逆効果だった。美恵の言葉は容赦なく淑子を責めているように聞こえた。美恵に対して少なからぬ恐怖感を抱いている淑子はますます萎縮し、顔を伏せて、かたくななまでに口を開こうとしなかった。いや、口を開こうとしないのではなく、なにをどう説明していいのかさえわからず、口を開くことができないのだ。
「……私は叱ってるんじゃないのよ。ただ、もうすぐ高校生になる淑子ちゃんがどうしてオモラシをしちゃったのか、その理由を知りたいの。ひょっとしたらお医者様を呼ばなきゃいけないでしょう? だから、ちゃんと説明して欲しいのよ」
 淑子の伏せた顔に怯えたような表情が浮かんでいることにやっと気づいた美恵は、軽く咳払いをしてから口調を変えて言った。淑子がオモラシをしてしまった事情はわからないにしても、これで美恵は淑子の決定的な弱点を握ったことになるのだ。完全に主導権を手にしたからには、なにも厳しい言葉で脅す必要はない。
「……でも……でも、説明なんて……なんて言ったらいいのか、そんなのわからなくて……」
 美恵の口調が変化したことを知った淑子は上目づかいにちらと美恵の顔を見てから、再び慌てたように視線を落としながら口ごもった。まさか、叔母さんが恐くてトイレの場所も訊けなかったとは言えない。それに、床の上にしゃがみこんでオモラシをしている最中に感じた懐かしい感覚――それをどのように説明すればいいのか……。
「そう……じゃ一つだけ教えてね。淑子ちゃんはこれまでにもオモラシをしたことがあるの?」
 美恵がそう尋ねるのに対して、淑子は無言で首を横に振った。淑子が憶えている限りでは、彼女がオモラシをしてしまったことなど、ついさっき頭の中に甦ってきた光景の中でだけだ。それ以外には、一度だって失敗したことはない。
 美恵は何かを考えるような顔つきをしていたが、やがて苦笑いのような表情を浮かべると、軽く溜息をついてから言った。
「わかったわ。それじゃ、これは何かの間違いね。お医者様を呼ぶのは、もう少し様子をみてからにしましょう――淑子ちゃんのお父さんにも内緒にしておくから、気にしなくていいのよ。わかったわね?」
 淑子はコクリと頷いた。

 オモラシの後片付けを、美恵は無言で続けた。家中の雑巾やバスルームから持ってきたタオルをダイニングルームの床に広げた後、オシッコを吸ってびしょびしょになった淑子の靴下を脱がせて寝室へ連れて行って肌に気味悪く貼り付くスカートとショーツを脱ぐのを手伝い、バッグから着替えを取り出す。その間、美恵は淑子に対して責めるような言葉は全く口にしなかった。
 だが、いい年をしてオモラシの不様な姿を見られた淑子の恥ずかしさはそう簡単に消えるものではない。それ以上美恵と顔を会わせているのがつらくなった淑子は夕食を辞退した。美恵もそんな淑子の心中を察したのか、何も言わずに寝室へと案内したのだった。
 昼間のうちに美恵が日光に当てていたのだろう、ベッドの上にかけられた布団はふかふかで、とてもいい匂いがした。欝々とした気分に胸を充たされていた淑子も、気持の良い布団にもぐりこむと同時になんとはなしに落ち着いた気分になり、いつしかその目は閉じられていった。ついで、安らかな寝息が聞こえてくる。
 眠りについた淑子は久しぶりに母親の夢を見た。それは、ダイニングルームでオモラシをしている最中に頭に浮かんできた光景と同じものだった。ここしばらくは入学試験に向けての勉強に忙しく、眠っても夢を見ることもなかったのが、ソフィア女学院への入学を待つばかりになった今、心にゆとりができたのだろうか。それとも、昼間のショッキングな経験がきっかけになって幼い時のことを思い出したのか。あるいは、着替えを手伝ってくれた美恵の手の予想外の柔らかさが母親を思い出させたのかもしれない。いずれにしても、夢の中の母親はあいかわらず若く、優しかった。淑子は母親に抱かれたような心の安らぎを感じながら、深く甘い眠りにおちていった。



 翌朝、淑子は目覚まし時計のベルよりも先に目を開いていた。時計の青白いディジタル数字は午前六時をしめしている。
 ひどく不快な感触を覚えて目を開いてしまったのだ。だが、目を開いたばかりで意識がはっきりしない淑子には、その不快感の正体がつかめない――喉が渇いてる訳じゃないし、お腹が空いてるんじゃない。寒いとか暑いとかいうのでもないんだけど、ただなんとなく湿っぽいみたいな……。
 ぼんやりした頭でそこまで考えた時、淑子の意識が急に冴えわたった。思わずハッとしたような顔つきになって上半身を起こし、右手をおずおずとお尻の下に持って行く。
 淑子の顔から血の気が退いた。
 お尻の下でモゾモゾと動かしていた右手をおそるおそる鼻のすぐ下に持って行くと、クンクンと小犬のように鼻を鳴らす。
 淑子の顔はますます青褪めた――間違いない、これはオシッコの匂いだわ。私ったら昼間にオモラシをしちゃった上に、今度はオネショまで……。
 淑子は肩を落とした。体がブルブルと震え出すのをどうしても止められない。それは冷えたオシッコの感触のためだけではなかった。まだ早い春の明け方の冷気の中、淑子は両腕で自分の体を抱きすくめるような格好をしたまま、ベッドの上で途方にくれた。
 不意に、目覚まし時計がかろやかなベルの音を響かせた。知らぬまに時間だけが流れていたようだ。淑子は体をひねるようにして手を伸ばし、目覚まし時計のボタンを押しながら、ふと考えた――このままじゃ叔母さまにオネショがみつかっちゃうわ。いくらなんでもオモラシに続いてオネショなんて、どんなにだらしない子かと思われちゃう。それに、あの恐い叔母さまのことだもの、大変なオシオキが待ってるかもしれない。
 淑子は静かになった時計の数字を見つめた。午前六時三十分。七時には朝食にするわよって昨日言ってたから、叔母さまはもう準備を始めてる筈だわ。それなら、へたに動き回ってあやしまれるよりも……。淑子は、べっとりと肌に貼り付くショーツの冷たい感触に耐え、再び体を倒すと、頭からすっぽりと布団をかぶった。
 耳を澄ませてみると、布団とドアを通して、美恵が朝食の準備をしているらしい物音が微かに聞こえてくる。ベーコンを焼いているのか、ジューッと油のはぜる芳ばしそうな音に続いて、カチャカチャと食器が触れ合う澄んだ音色。そして、ジューサーを回しているのだろうか、ガーッという機械音が耳にとびこんでくる。
 やがてそれらの音がピタッとやんだかと思うと、ペタペタとスリッパと廊下が触れ合う足音が徐々に近づいてくる。淑子の胸の鼓動が次第に激しくなる。
 コンコン。ドアがノックされた。淑子は布団の中に丸まって、そのノックの音を無視した。コンコン。再びノック。淑子からの返答を待っているのだろう、しばらくの静寂。
 カチャッという金属音が寝室の空気を微かに震わせた。ギッとドアが開く音が聞こえ、美恵が足を踏み入れる気配が続く。
 毛足の長いカーペットのおかげで美恵の足音は全く聞こえないが、それでもベッド目指してまっすぐに近づいてくる気配は布団越しにも淑子には痛いほど感じられた。やがて、ベッドのすぐ側で立ち止まる気配。
「もう七時を過ぎてるわよ。目覚まし時計はちゃんと鳴ってた筈なのに、どうして起きてこないの?」
 美恵の厳しい声が淑子の耳にとびこんできた。
 淑子は布団の中からモゴモゴと返答したが、それがちゃんとした言葉になって美恵の耳に届いているとは思えない。
「え、なんですって? 何を言ってるのかわからないわ。布団から出てきてちゃんとおっしゃい」
 美恵は少しばかり苛立ったような口調で問いただした。
 淑子は観念したように顔だけを布団から出すと、わざと苦しそうな声で応えた。
「すみません……あの、風邪をひいちゃったみたいで……だから今日は……」
 風邪をひいたと言えば布団から出る必要はなくなるだろう。そのままベッドに寝ていて、美恵が勤めに出てから後始末をすればいい。それなら美恵にオネショのことを見つかることもない筈だ。そう考えついた淑子の精一杯のお芝居だった。
「あら、そうだったの。まあまあ、風邪だなんて知らないものだから叱るみたいな言い方になっちゃって。ごめんなさいね」
 美恵の口調が急に、わざとのような優しいものに変わった。
 淑子は美恵に気づかれないように胸の中でホッと溜息をついた――やれやれ、この調子ならなんとかごまかせそうだわ。
 だが、淑子がホッとしたのも束の間。美恵は淑子に向かって言葉を続ける。
「ちょっと待っててね。体温計を持ってくるからお熱を計ってみましょう」
 美恵の言葉を聞いた淑子はアッと思った。考えてみれば、風邪をひいたとなれば熱を計ってみようとなるのは簡単に予想できることだ。そんな簡単なことが、焦りながらなんとかお芝居を思いついた淑子の頭の中からはすっぽりと抜けおちていた。かといって、体温計を拒否することもできない。そんなことをすれば余計にあやしまれることになる。
 様々な思いが淑子の頭を駈け巡っている間に、体温計を手にした美恵が寝室に戻ってきた。意を決した淑子は自ら上半身を起こして体温計を受け取った。ここでグズグズして美恵がムリヤリ布団を剥いでしまっては、それこそ元も子もない。それなら、素直な態度を取った方がまだしもだろうと判断したのだ。淑子は体温計を左の腋の下に差しこむと、慌てて布団を体に巻き付けた。
 しばらくして、ピピピ……という電子音が響きわたる。淑子が体温計を腋の下から抜き取って目の前に持ってくる。数字は三十六.四度だった。僅かに高いかもしれないが、問題になるほどではない。
「あら、おかしいわね。これなら平熱の範囲だわ」
 数字を覗きこんだ美恵が意味ありげな口調で囁いた。
 もとより、風邪をひいている訳でもない淑子の体温が高い筈はない。だが、淑子は尚も言い募ろうとする。
「これは……きちんと差しこんでなかったみたいですね。もう一度計ってみるから待っててくだ……」
 待っててくださいねという淑子の言葉は途中で途切れた。淑子が再び腋の下に持って行こうとした体温計を美恵が無言で取り上げたからだ。美恵は無表情で体温計をケースに戻すと、淑子の顔を見おろして言った。
「何度やっても同じだと思うわよ――だって、風邪ならともかく、オネショじゃ熱は出ないでしょうからね」
 淑子の口が、あっとでも言うように半ば開いた。頬が赤く染まり、その色はみるみるうちに顔中に広がってゆく。
「知ってたんですか……?」
 微かに語尾を震わせて淑子が言った。
「気づかないとでも思ったの?――やれやれ、呆れた子だこと」
 美恵の口調が再び変化していた。それはまるで、オネショを隠すために底の知れた嘘をつく幼な子に対するような、少なからぬ怒気と嘲りを含んだ声だった。
 美恵が淑子のオネショに気づいたのは、淑子が言い訳をするために布団の中から頭を出した時だった。小さな隙間から、それまで布団の中に閉じこめられていたオシッコの匂いが美恵の鼻に届いたのだ。淑子はずっと布団の中の狭い空間の中にいたため、その中に充ちていた匂いに慣れてしまっていたのだが、美恵はそうではなかった。朝の清々しい空気の中に混ざる異臭は彼女の鼻を鋭く刺激したのだった。
「オモラシにしてもオネショにしても、それは仕方のないことかもしれないわ。環境が変わったり体調が悪かったり、いろんな要因でついそうなることもあるでしょう。だから私はそのことは叱りません――だけど、どうしてそれを黙ってたの? もしも私の目をごまかそうという魂胆なら、私は絶対に許しませんからね。さあ、きちんと説明してもらえるわね?」
「それは……」
 それきりで淑子は口をつぐんでしまった。
 どうしてオネショなんてしてしまったのか自分でもわからないもどかしさ、ごまかさずに正直に打ち明けていればこんなことにならなかったのかもしれないという自省、叔母を完全に怒らせたかもしれないという怯え、そういったものがない混ぜになり、言葉としてまとまることなく淑子の頭の中で激しく渦巻いた。
「どうしたの? 何か言ってもらわなきゃわからないわよ」
 美恵が、ねっとりした口調で促す。その冷たい目に見おろされた淑子は自分が虫けらにでもなったように思え、おずおずと顔を伏せた。そこへ、美恵の言葉が尚も迫ってくる。
「どうしても口を閉ざしたままのつもりなのね。わかったわ――オネショをした上に嘘をつくような子に着せる服なんてありませんからね。そのまま、オシッコで濡れたパジャマを着てるといいわ」
 淑子は思わず上目づかいに美恵の顔を睨むような仕草をしてしまった。が、美恵も恐い顔で淑子を睨み返す。
「そんな顔をしてもムダよ。今日は一日、あなたはそのままの格好でいるのよ。オシッコの滲ついたそのパジャマのままでね」
 美恵はそう言うと、不意に踵を返した。そして、整理タンスの横に淑子が置いておいたバッグをつかみ上げると、それを持ったまま寝室から出て行く。
「あ……」
 淑子は泣き出しそうな表情で美恵のうしろ姿を見送った。美恵が持って行ってしまったバッグには、昨日の騒ぎのせいでまだタンスに移していない衣類が入ったままになっている。それがなければ、美恵の言うように淑子は下着一枚も着替えることができなくなってしまう。美恵はドアを出る前に一度だけちらと淑子の方を振り返ったが、すぐに再び顔を前に向け、そのまま廊下に足を踏み出した。
 二人いる息子が一昨年、昨年とたて続けに独立してしまい、それまでも仕事のために留守がちだった夫の出張回数が急に増え始め、最近の美恵は、心の中にいつも隙間風が吹いているように感じていた。そのために生徒たちに接する態度もギスギスした感情的なものになることが多く、心ない陰口をたたかれることも少なくなかった。そんなところへ、淑子をしばらく預かって欲しいという裕也からの電話があったのだ。美恵にとって、それは願ってもない申し出だった。この広い屋敷で一人で暮す孤独感から開放される上に、欲しくてたまらなかった『娘』との生活が僅かな時間とはいえ現実のものになるのだ。「淑子の性格を鍛え直して欲しい」という裕也の願いを実現するという名目で、美恵はこの愛らしい姪の疑似的な母親になることができるのだ。そのためにこそ、美恵は淑子に対して完全な主導権を握る必要があった。昨日のオモラシは予期しない出来事で驚きもしたが、それはそれで淑子の弱点を握ることにもなり、美恵にとっては喜ばしい誤算でもあった。
 そして、このオネショだ。美恵は思わず天に感謝した。もうすぐ高校生になる年頃の娘を預かるのもわるくはないが、どうせのことなら幼児の段階から世話をやいてみたいと無意識のうちに考えていた美恵にとって、このオネショはその願いを叶えてくれるきっかけになるのだ。淑子のオネショに気づいた美恵は咄嗟にそう判断し、そして、まるで本当の幼児に対するようなオシオキを与えることにしたのだった。
 美恵自身も気づかぬ心の奥深い所で、妖しい悦びの火が微かにゆらめきながら燃え上がろうとしていた。

 ベッドの上にボンヤリと腰をかけたまま、淑子は何度も溜息をついた。その度に、冷たくひえたショーツが肌にまとわりつき、自分の惨めな姿を思い出させる。
 やがて淑子はそっと床に足をおろすと、力なく立ち上がった。もう一度大きく溜息をついてから、両手をのろのろと動かしてパジャマのズボンに指をかける。まるで大変な重労働でもしているかのようにゆっくりと左脚をズボンから抜き、続いて右脚に移る。まだ乾ききっていないお尻の布地が右脚の内腿に触れ、思わず顔をしかめてしまう。だが、そんなことをしているうちにも時間はどんどん経過してしまう。淑子は小さく舌打ちすると、続けて手を動かした。乾いた部分など全く残っていないショーツだ。白いショーツがオシッコに濡れ、肌に貼り付いているため、薄い布地を通してまばらなヘアが透けて見えている。それを目にした淑子の顔に突然血の気が戻り、今度は熱く火照ってくる。淑子はギュッと目を閉じて力まかせにショーツを肌から剥ぎ取った。
 下半身が丸裸になってしまった淑子は、まっ赤な顔のまま、整理タンスの引出を次々に引き開けてみた。ひょっとしてショーツの一枚くらい入っているのでは、という虚しい思いが彼女の体を動かしていた。最上段は空だった。二段目、三段目、次の四段目も同じことだ。そしていよいよ最下段。ここもムリだろうと思いながら弱々しく引き開けた引出だったが、そこには一枚の布地が収められていた。淑子の手が無意識のうちにその布地をつかみ上げ、床の上に広げてゆく。
 それは、やや大振りのスポーツタオルだった。淑子はスポーツタオルの両端を持つと、丸裸のお尻の周りに巻きスカートのように巻き付けてみた。バスタオルよりは小さいものの、まだ発育途中の淑子のお尻を隠してしまうには充分のようだった。淑子はタオルの両端を腰の上で互いに絡ませてから手を離してみたが、多少動き回ったくらいでは落ちてしまうことはないようだった。淑子の顔に微かな安堵の色が浮かんだ。
 だが、これで全てが済んだ訳ではない。淑子は決心を固めたように軽く頷くと、ひらひらとはためくスポーツタオルを左手で押さえつけながらゆっくり歩き始めた。ドアのノブに手をかけて静かに回し、足音を忍ばせるように廊下に歩み出る。
 淑子が目指しているのは、廊下の突き当たりにあるトイレだった。夜中にオネショをしてしまったとはいえ、朝のトイレへはまだ行っていないために尿意が高まってきたのだ。
 途中、ダイニングルームの前を通ったが、テーブルの上に淑子のために用意されたらしいベーコンと目玉焼の皿、グリーンサラダのボウルが載っているだけで、そこには美恵の姿はなかった。淑子のバッグをどこかにしまいこんでしまって、もう勤めに出たのかもしれない。
 冷たい廊下を素足のままでトイレの前に辿りついた淑子は、ホッとしたような思いでノブに手をかけた。カチャッという音をたててノブが回る。そのまま引けば――あれ? どうしたのかしら。ドアが開かないわ。
 淑子は何度も何度も試してみた。だが、どうやってもドアは開かない。中に誰かいるのかと思ってノックをしてみても、返事はなかった。そうしている間にも、尿意は更に高まってくる。早春の朝の冷気の中、お尻をスポーツタオルで隠しただけの格好では、尿意の高まりも普段よりもずっと早い。
 淑子は両手をドアのノブにかけ、渾身の力を振り絞ってドアを引いた。しかし、ムダな努力だった。淑子の顔に脂汗が浮かび、呼吸が荒くなってくる。
 遂に淑子は、両手で股間を押さえるような格好をしてその場にしゃがみこんでしまった。へんに力を入れたりしたら昨日の二の舞になってしまいそうだ。かといって、このままここにいても結局は同じことになる。どうすればいいの?――淑子は今にも泣き出しそうな顔つきになった。
 ペタペタという足音が近づいてきたのはその時だった。誰? 淑子はふと顔を上げ、足音が聞こえてくる方に目を遣った。そこには、てっきり外出したとばかり思っていた美恵の姿があった。手には、なにやら白い物を持っている。
「叔母さま……助けて……トイレのドアがどうしても開かないんです……」
 淑子は、喘ぐような声を出した。
 しかし美恵は平然とした様子でゆっくり歩いてくると、淑子のすぐ目の前で立ち止まり、クックックッと低く笑ってから面白そうな口調で言った。
「ドアが開かないって?――そりゃそうでしょうね。私が鍵をかけちゃったんだもの、開く筈がないわ」
 それを聞いた淑子は唖然とした表情を浮かべて美恵の言葉を繰り返した。
「鍵? 叔母さまがドアに鍵をかけたっていうの……?」
「そうよ。だからトイレは使えないわ――でも、心配することはないのよ。淑子ちゃんのトイレはこうして代わりを用意してきてあげたんだから」
 美恵はそう言うと、手にしていた物をそっと廊下に置いた。
「……」
 それを目にした淑子の目が大きく見開き、言葉を失った。
「うふふ……。どう、可愛いいでしょう? 一夫や雄二が赤ちゃんの時に使ってたのを物置から持ってきたのよ。今日から淑子ちゃんのトイレはこれにしましょうね」
 一夫と雄二というのは美恵の息子たちの名前だ。そして、その息子たちが赤ん坊の時に使っていたオマルを今、美恵は淑子の目の前に置いたのだった。
「……そんな……私、赤ちゃんじゃありません。もうすぐ高校生なんです。だから、オマルなんて……」
 淑子は顔をまっ赤に染めて、今にも消え入りそうなかぼそい声で反論した。
 だが、そんな淑子の声を無視して、美恵は再びクックックッと笑いながら言った。
「あら、そうかしら――昨日、オモラシしちゃったのは誰だったかしらね? それにオネショまでしちゃうんだもの、立派な赤ちゃんじゃないかしら?」
「でも……」
 淑子は口をつぐんでしまった。確かに美恵の言う通りで、反論のしようがない。
 そんな淑子の姿を、美恵は妖しく輝く目で見つめた。美恵の心の奥にともった尋常ならざる悦びの火が、いつのまにか無意識の領域を抜け出して彼女の精神を支配しようとしていた。常に冷たい隙間風に吹きつけられ、いつしか無数のヒビが縦横に走ってしまった美恵の心の殻を破り、歪んだ欲求が姿を現そうとしていた。今まで手塩にかけてきた息子たちは手元を離れ、夫は仕事を口実に(そうよ。どれだけが本当の仕事かわかったものじゃないわ)家へ戻らず、美恵だけが、生徒たちから疎まれながらも生活の糧を得てこの古い屋敷を守っていた。その間に滓のように胸の底に溜めこんだ不満やストレスといったものが、愛らしい姪との生活を始めたことがきっかけになって、異様にねじれた形を取って吹き出そうとしているのだ。
 今、美恵の胸を充たしているのは異形に歪んだ母性本能だった。姪である淑子を年齢相応に扱うのではなく、まるで幼児のようにみたてて再び『育児の喜び』を得ようとしている異常な心の動きだった。淑子がオモラシやオネショをしなければ、美恵の異様な母性本能が姿を現すことはなかったかもしれない。しかし、今更そんなことを言っても手遅れだった。淑子のオモラシが美恵の心の奥底の小さな火種に火をつけ、それに続いたオネショが、くすぶりかけていた火種に新しい空気を吹きこむ結果を招いてしまったのだ。
「さあ、どうするの? そのままじゃ、またオモラシが待ってるだけよ。もっとも、淑子ちゃんがオシッコを垂れ流す姿も可愛らしいけどね。うふふふ……」
 美恵が、淑子の羞恥心を存分にくすぐるような言葉を投げかけた。
「……お願いです、叔母さま……トイレのドアを……」
 淑子は耳朶までまっ赤に染めながら、唇を震わせて尚も懇願した。
「あらあら、まだそんなことを言ってるの? よほどオマルはイヤみたいね――じゃ、仕方ないわ。オマルはなしにしてあげる」
 淑子の顔が輝いた。やっと、私の気持をわかってくれたのね。
 が、それは淑子の早合点だった。美恵はトイレのドアを開けようとするどころか、淑子のすぐ前に両膝をつくと、彼女のお尻を覆い隠しているスポーツタオルをあっという間に剥ぎ取ってしまったのだ。
「な、何をするんです……」
 淑子は思わずあとずさり、怯えた声を出した。
「オマルはイヤなんでしょう? かといって垂れ流しも可哀想だからオシメをあててあげることにしたのよ。さ、暴れないでじっとしててちょうだいね」
 美恵はクスッと笑って応えた。
「オ、オシメ……?」
「そうよ。ちょうどいいものがあるじゃないの」
 美恵は、剥ぎ取ったばかりのタオルを淑子の目の前で広げてみせた。言われてみればそのタオルは、西洋の赤ん坊のお尻を包んでいるような形に折りたたむのにはもってこいのサイズかもしれない。
「ひ……」
 淑子は声にならない声をあげ、更にあとずさった。しかし、トイレのドアがじゃまになってそれ以上は動けない。
 そこへ、手にしたタオルをこれみよがしに広げたまま美恵が迫ってくる。
 淑子は身をよじって美恵の手を振りほどこうとした。が、その無理な動きがきっかけになってオシッコがじわりと洩れ出してくる。淑子は泣き出しそうな表情になり、両手で股間を押さえようとした。その隙に美恵が、三角形に折ったスポーツタオルを淑子のお尻の下に敷きこむ。
 淑子は唇を噛みしめて観念した。このまま抵抗していても、いつかはオモラシをしてしまう。それも、その瞬間を美恵に直視されるのだ。いくら血のつながった叔母とはいえ、それだけは絶対にイヤだった。それならば、タオルででも秘部を隠しての方が少しでもマシかもしれない。
 淑子は両手を股間からおずおずと離し、体の両側に動かした。力いっぱい目を閉じ、顔を横に向ける。
 美恵は、ややぎこちない手つきでスポーツタオルで淑子の下腹部を包みこんでいった。厚手のタオルの柔らかな感触が淑子の肌をくすぐり、激しい羞恥をかきたてる。淑子は思わず声をあげそうになり、慌てて指を噛んで辛抱した。美恵はそんな淑子の姿を目にすると、
「おやおや、やっぱり淑子ちゃんは赤ちゃんじゃないの。指を吸う癖がまだ治ってないんですものね」
とからかうように言い、すっかりタオルで包まれたお尻をポンポンと軽く叩くのだった。
 上着のポケットから取り出した安全ピンでタオルを留めて、美恵の作業は終了した。
「さ、できたわよ。これでいつオモラシしてもいいわ」
 美恵はそう言って淑子の手を取り、上半身を引き起こした。
「淑子ちゃんも自分の目で見てごらんなさい。とっても可愛いい赤ちゃんのできあがりよ」
 その言葉につられるように、淑子は固く閉ざしていた目を細く開いた。その目に、自分の下腹部を包みこむピンクのスポーツタオルがとびこんでくる。大きな安全ピンで留められたそれは、まるで本当のオシメのように見えた。
 だが不思議なことに、『オシメ』をあてられた今、それまであれほど激しく淑子に襲いかかっていた尿意は微塵も感じられなくなっていた。オシメをあてられた屈辱と羞恥が頭の中を充たしてしまい、尿意がどこかへ吹き飛ばされてしまったのかもしれない。
「我慢しなくてもいいのよ。さ、遠慮なくオモラシなさい」
 美恵はそう言うが、淑子は弱々しく首を振るだけだ。
「どうしたの、我慢してると体に毒よ――出ないなら、私が手伝ってあげようか」
 なんとなく事情を察した美恵はそう言うと、不意に両手を伸ばした。
 美恵の右手は淑子の首にからまって自由を奪い、左手はオシメの裾から、生えそろっていない茂みの中に差し入れられる。
「あ……」
 淑子は思わずうろたえ、美恵の手を振り払おうとする。だが、その時には美恵の左手は既に淑子の秘部に達し、一匹の虫のように蠢いていた。
 淑子の力がふっと弱まり、呻くような声が美恵の耳に届く。最初は規則正しかった呼吸が次第に乱れ、ハアハアという、声ばかり高いくせに充分に空気を吸収しきれない不規則な息づかいになってゆく。美恵の左手の指は、それぞれが独立した生き物のように時には激しく時にはねっとりと蠢き、まだ固い淑子の秘部にこれまで経験したことのない悦楽の感触を与える。同時に、淑子の首に回された右手がいつのまにか下に伸びて、ツンと上を向いた乳首を求めて首筋から胸元へと這って行った。淑子の呼吸はいつしか泣き声のような喘ぎに変わり、何かを求めるように右手が宙に向かって伸ばされる。
 淑子の泉から愛汁が溢れ出す気配が美恵の左手に伝わり、次に、それよりもサラッとした液体が流れ出す感触が続く。美恵はニヤリと笑いながら左手をオシメの中から抜き出した。乳首を愛撫していた右手もパジャマの中から抜き出して、淑子の顎を支えるように伸ばされる。
「ほーら、見てごらんなさい。淑子ちゃんは今、オモラシをしてる最中なのよ。オシメがだんだん濡れてくるのが見えるでしょう? あれがみんな、淑子ちゃんのオシッコなのよ」
 美恵は、淑子の耳元で甘い声で囁いた。
 淑子はまるで催眠術にでもかかったように、焦点の合わない目を自分の下腹部に向けた。美恵が言うように、美恵の泉から溢れ出したオシッコはタオルのオシメに吸収され、次第に滲を大きくしてゆく。
 それをボンヤリと目にする淑子の頭に、再び幼い頃の光景が映し出されていた。幼い淑子を抱く若い母親の姿と美恵の姿が、次第に重なって二重写しになってゆく。
 淑子のオモラシは際限なく続いた。遂には分厚いタオルにも吸収しきれなくなり、床におろしたお尻の辺りからどんどん周囲に流れ出るまでになってしまう。それを楽しそうに見ていた美恵は、優しい笑みを浮かべて言った。
「あらあら、とうとうオシメからも溢れ出しちゃったわね。やっぱり、即席のオシメじゃダメなのかしら――今から街に出てオシメの生地を買ってくることにしましょう。それでちゃんとしたオシメを縫ってあげるから、待っててね」



「ああ、裕也?――うん、大丈夫よ。淑子ちゃんとはすっかり仲良しになったわ。とっても素直に私の言うことを聞いてくれるわよ」
 或る日の夜、美恵は電話の受話器に向かってそう話しかけていた。
「――そうよ。だから心配は要らないわ。あんたも仕事で忙しいんだから、あとのことは私にまかせておけばいいのよ――ええ、そうね。わかったわ。それじゃ、今度は淑子ちゃんを迎えにくる時ね。うん、じゃ」
 美恵が電話で裕也と話している間も、動物柄のオシメでぷっくり膨れたお尻を水玉模様の大きなオシメカバーで包まれた淑子は、柔らかな生地でできた小熊のヌイグルミを抱いてベッドの上で安らかな寝息をたてていた。淑子がオモラシとオシメから卒業する日は二度とやってこないかもしれない。


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