素直な子供


 今井和美がティーカップを置くと、テーブルの前の椅子に腰かけている加藤好子が、少しばかり首を左にかしげるようにしながら口を開いた。
「ねえ、和美さん」
「はい。何でしょうか、奥様?」
 それまでカップが載っていた銀色のトレイを両手で胸の前に抱えこむようにして、和美が応えた。
「一週間後に主人がヨーロッパの方へ出張するのは知ってるわよね――その出張にね、私も同行することになっちゃったのよ」
「まあ、急なお話ですこと」
「でしょう? なんでも、現地法人の幹部クラスの家を何軒か訪問するのに、私も一緒の方が都合がいいんですって……」
 好子の主人は或る電機メーカーで、海外企業との提携や合弁事業を推進するセクションの要職にある。そのためにこれまでも何度も海外出張を経験してきたが、そこで得たのが、夫人を同伴してのホームステイが案外と現地の人間との友好を深めるきっかけになる、というアイディアだった。そこで、今回のヨーロッパ出張には好子を連れて行くことにしたのだ。
「それは大変ですわね。じゃ、ちょうど夏休みの途中ですし、お嬢様もご一緒ですか?」
「ううん、美樹は連れて行かないわ」
「どうしてですか? お嬢様、さぞかし喜ばれることでしょうに」
「あら、和美さんとしては、美樹にこの家に残って欲しくないみたいね?」
 好子が、からかうように言った。」
「まさか、そんなことはございません。どうして私がそんなこと……」
 和美が、うろたえたように早口で言う。
「いいのよ、私にはわかってるわ。和美さんも、あの子にはつらい目に遭わされてるんじゃないの?」
 好子はそう言うと、カップに入っているミルクティーを銀のスプーンでゆっくりかき回した。そして小さな溜息をつくと、言葉を続ける。
「……美樹のこと、どう思う?」
「どう、と申されましても……」
「正直に答えて欲しいの。あの子の性格、あのままでいいと思う?」
「……」
「そうね、和美さんの口からは答えにくいわよね。じゃ、私が言うわ――あの子は私と主人の間にできたたった一人の子供だから、小さな頃から可愛がってきたわ。でも、今から考えると、可愛がり過ぎたみたいね。だから、あんな性格になっちゃったんじゃないかしら……我儘だし、協調性がないし」
 好子はそう言ったが、和美は頷くこともできなかった。実の親が我が子を批判するのは仕方ないが、この屋敷の使用人である和美にとっては、その意見に賛意を表すことは憚られることことなのだ。
 トレイを胸に抱えたまま黙っている和美の顔を、ちらと見てから、好子は続けた。
「かといって、私がいくら注意しても効果がないのよ。ほんと、高校生って難しい年頃だわ。そこで、和美さん。あなたにお願いがあるの」
 和美の表情が僅かに変化した。
「私が留守の間、あなたが美樹を再教育してくれないかしら? 血のつながっていないあなたの言うことなら、あの子も少しは聞くと思うんだけど?」
「……でも」
「言いたいことはわかるわ。『使用人の立場で、お嬢様にお説教はできません』って言いたいんでしょう?」
「……はい」
「でも、そこを押してお願いしてるの。私が許可します。だから、美樹のこと、お願い」
 和美は目を床に落すと、そのままの姿勢で思いを巡らせた。確かに好子の言うように、美樹の性格は素直ではない。我儘で短気で高飛車で……。そのために、この屋敷に勤め始めてから、和美も随分とつらい目に遭ったものだった。
 和美は不意に顔を上げると、決心したような口調で好子に言った。
「承知しました。やってみます。但し、方法は任せていただけますね?」



 それから一週間後、好子らの乗った飛行機は夕方に空港を飛びたった。
 見送りに行っていた美樹が家に帰ってきたのは、夜も随分と深くなった頃だった。
 美樹は玄関に靴を脱ぎちらかすと、出迎えた和美を無視するように、二階にある自分の部屋に向かってさっさと階段を登り始めた。そのうしろ姿に、和美が慌てて声をかけた。
「お嬢様、お食事は?」
「帰りに食べてきたわ。だから何も要らないわよ」
 美樹が、振り向きもせずに応えた。
 それに対して、和美が言葉を投げ返した。
「前からも申してますように、外食なさるならなさるで、前もって連絡を……」
 不意に美樹が立ち止まると、クルリと振り返り、和美の顔を睨みつけるようにして言った。
「うるさいわね。ママがいなくなったと思ったら、今度はアンタが文句をつけるの? もう子供じゃないんだから、いちいち指図しないでよ」
 美樹はそれだけを言うと、でも、と言いかけた和美の顔から視線を外して再び歩き始めた。
 この時、和美の決心が固まった。
 好子から指示を受けた時には、美樹の性格を直すことにまだ半分ほどは乗り気ではなかったが、ここで本気になったのだ――みてらっしゃい。今に、その生意気な口をふさいでみせるから。


 翌朝、ふと妙な感覚を感じた美樹は、目覚ましのベルが鳴る前に目を開いた。
 しかし、開いたばかりの目は、なかなか焦点が合おうとはしない。
 美樹は思わず人差指で瞼をこすろうとしたが、それはできなかった。右手を持ち上げようとしても、自由に動かせるのが、ほんの短い距離でしかないのだ。
 ものの三十センチも持ち上げると、不意に重くなってしまう。同時に、左手が何かに引っ張られるように持ち上がってしまう。これでは、瞼をこするどころではなかった。
 何か妙な状況になっているようだ、と思った瞬間、美樹の意識が急速に冴えわたってきた。体内にアドレナリンが大量に放出され、脳を刺激する。
 普段ののろのろした目醒めからは信じられないほどの速度で、美樹の体と意識は眠りを破った。そのまま上半身を布団の上に起こそうとする。だが、自由に手が動かせないために、それは難しい作業だった。
「あら、目が醒めたのね。おはよう、美樹ちゃん」
 なんとか腹筋だけで起きようとジタバタしていた美樹の耳に、若い女性の声が聞こえてきた。美樹がふとドアの方に視線を向けると、藤製の大きなバスケットを抱えた和美の姿があった。
「誰かと思ったら、和美さんじゃない。『美樹ちゃん』ていう呼び方はなんなの? ちゃんと『お嬢様』って呼んでちょうだい」
 和美の、自分への呼び掛け方が気に入らない美樹は、自由に動けない苛立ちも手伝って、大声で怒鳴った。
 しかし、そんな美樹の様子をおもしろそうに見ていた和美は、人差指をチッチッと振りながら、たしなめるように言った。
「朝からそんなに大声を出すもんじゃないわ。お隣にご迷惑でしょ」
 その言葉を聞いた美樹は、口をポカンと開いたまま、しばらく唖然としていた――今の言い方は何よ。使用人が私に向かって言うような口調じゃないわ。まるで、目下の者に言うみたいじゃない。
「そうよ。今日から、私は美樹ちゃんのお姉さんになるの。だから、私の言うことをちゃんと聞いて、素直ないい子になってちょうだいね」
 美樹の心の中を読み取ったように、和美が平然と言った。
「……何を寝呆けたこと言ってるのよ。アンタはこの家の使用人なのよ。ママがいなくなったからって、急になんなのよ」
 和美の態度に反発を覚えた美樹の上半身に力が入り、不意に起き上がった。その拍子に、体にかけられていたタオルケットがスルッと滑り落ちそうになったが、ツンと突き出した膨らみに引っ掛かったのか、胸の処でかろうじて止まった。
 首の辺りでタオルケットの中に隠れていた美樹の両手が現われた。自分の両手が見えた瞬間、その手が自由に動かせない理由が理解できた。突然の和美の出現と態度の変化のために意識の片隅に追いやられていた疑問が、突如として氷解したのだ。
 美樹は大きく開いた目で、自分の両手をマジマジと見つめた――どちらの手も、花柄の生地でできた大きな袋に包まれている。五本の指が全く独立していない手袋を着けているのだ。
 やがて美樹は、家庭科の授業で観たビデオに、これと同じ物が映っていたことを思い出した――確か、保育の単元のビデオだった。そうそう、生まれたばかりの赤ちゃんの両手が、これと同じような手袋で包まれてた。ミトンっていうんだったっけ。
 でも、どうして私の手にミトンが?と思いながらボンヤリとその袋のような手袋を見つめる美樹の目に、左右のミトンをつないでいる三十センチほどの毛糸が映った。どうやらこの毛糸のせいで左右の手がつながってしまい、自由に動かせなくなっているようだ。
 美樹はミトンから手を抜き出そうとした。しかし、五本の指が袋の中に包みこまれている状態では、それを脱ぐことは不可能だった。しばらく悪戦苦闘していた美樹も遂には諦めざるをえないことに気づき、今度は、毛糸を歯で噛み始めた。こんな細い毛糸くらい、簡単に噛み切れる筈だと思ってのことだった。
 が、いくら頑張っても、それもできなかった。
「ムリよ。その糸は特殊な繊維でできてて、ペンチでも使わなきゃ切れないわ」
 和美の、嘲笑うような声が美樹の耳に響いてきた。
 ハッとして毛糸から口を離した美樹は、怒りで顔をまっ赤に染めると、絞り出すような低い声を出した。
「アンタね。これ、アンタの仕業でしょう? いったい、どういうつもりなの?」
「そう、私よ。こうでもして体の自由を奪っておかないと、美樹ちゃんが逃げ出すかもしれないもの」
「なんのために……」
「さっきも言った筈よ――美樹ちゃんには素直ないい子になって欲しい、って。その躾のためのちょっとした道具ってわけね」
「なにが躾よ。アンタ、自分を何様だと思ってるの?」
 美樹は顔をますます赤く染め、不自由な両手でタオルケットを払いのけると、その場に立ち上がった。それは、そのまま和美に掴みかかっていきそうな勢いだった。
 そんな美樹の体の前に、和美が姿身を置いた。今にも手を伸ばそうとしていた美樹の動きが止まった。
 やがて、その大きな鏡に写る自分の姿を見ていた美樹は唖然としたような表情を浮かべると、半ば開いてしまった口をパクパクと動かした。そこに写っている自分が、お気に入りのピンクのストライプのパジャマを着た馴染の深い姿ではなく、思いもかけないような格好をしていたからだ。
 二重のフリルで縁取りされた黄色の生地に小花の刺繍がほどこされたベビー帽子が頭をスッポリと覆い、首から胸にかけては、純白の吸水性のよさそうな生地にリスのアップリケが付けられたヨダレかけが巻き付けられている。ヨダレかけの下に着ているのは、コンビドレスというのだろうか、短い白地の襟が付けられた首から肩、そして裾口に飾りレースがあしらわれた三分袖へとかけて優しい曲線がつながり、カボチャのような形になっているお尻の下には幾つかのボタンが並べられた、幼児が着るようなデザインの服だ。ソックスはピンクのレース製なのか、涼しげなデザインと可愛らしさが調和した、なんともいえない仕上りになっている。
 鏡の中の美樹は、その大きな体格さえ無視すれば、育児雑誌の写真ページから抜け出してきたような、可愛らしい赤ん坊そのものだった。
 不意に我に返った美樹はキャッという悲鳴をあげると、鏡の前から後退しようとして左足を引いた。その瞬間、彼女は体のバランスを大きく崩し、大きな音をたてて尻餅をついていた。
 布団の上にお尻をおろした美樹は、鏡に写る自分の姿と現実の自分の姿を見比べるようにおずおずと視線を動かしていたが、やがて、顔をまっ赤に染めてしまった。ただ、今度のそれは怒りのためではなく、強い羞恥のためのようだった。
 それでも、深呼吸を数度繰り返した美樹は顎の下に両手を持っていくと、そこで結ばれているベビー帽子の紐をほどこうとした。しかし、ミトンに包まれた手には、その作業は到底できることではなかった。
 ヨダレかけの紐も、コンビドレスのボタンも外すことができないとわかった美樹は、急にオロオロし始めた。それは、普段の美樹からは想像もできないようなうろたえぶりだった。
 美樹は和美の顔に、ちらと視線をはしらせると、懇願するような口調で言った。
「ねえ、お願いだから、この格好をやめさせてよ。とっても恥ずかしいのよ」
「ダメよ。パパとママが出張から帰ってくるまで、美樹ちゃんはそうしているのよ」
「どうして、こんな……」
「考えてごらんなさい。生まれたばかりの赤ちゃんはみんな、とっても素直でしょう? だから、美樹ちゃんも一度赤ちゃんに戻るといいの。そうすれば、その頃にそうだったように、素直な子に戻れるのよ」
「どうしても?」
「そうよ」
「……じゃ、せめて、このソックスだけでも脱がせてよ。これを履いたままじゃ、あまりにも不自由だわ」
 美樹は、両足のソックスを顎で指して言った。ミトンと同じように、左右のソックスも短い毛糸でつながっている。さっき、歩こうとした美樹が倒れてしまったのも、その毛糸のせいだった。
 和美は無言で首を横に振った。
 それを見た美樹の顔から血の気がひいた。彼女は泣きそうな声で懇願を続けた。
「ねえってば、お願い。もう我儘は言わないし素直になるから、ソックスだけでいいから脱がせてよ。お願いだから……」
 和美の頭に、ピーンとひらめくものがあった――どうやら、トイレに行きたがってるみたいね。それならなおさら、だわ。
 和美は、美樹の言葉を遮るようにして言った。
「なんといってもダメよ。これまでのこと、もっとちゃんと反省しからでなきゃ、ね」
「……いいわよ。もう頼まないわ」
 そう言うと、美樹は頬を大きく膨らませ、不意に立ち上がった。
 それから、ゆっくりと右足を踏み出す。続けて左足。そこまではなんとかうまくいったが、次の一歩で失敗してしまった。
 両脚をもつれさせながら、美樹はうつぶせに倒れていった。不自由ながらもなんとか両手で体重を支えたようで、それほどの痛みは感じていないようだが、目には涙がたまっている。
 歩くことを諦めると、美樹は、そのままの姿勢でハイハイを始めた。これなら、少々失敗しても倒れることはない。
 突き出たお尻を左右に振りながら床の上をゆっくりハイハイでドアまで辿り着いた美樹は、なんとか伸ばした手でノブを掴むと、ドアに体重を預けて伝い立ちをした。その姿はまるで、やっとタッチができるようになった赤ん坊のようにぎこちないものだった。

 ドアを開いて廊下をハイハイで進んで行く美樹のあとを和美が追った。
 やがて、最大の難所である階段にさしかかった。
 美樹はその前でしばらく思案していたが、強い尿意に刺激されると我慢できなくなり、階段をハイハイの姿勢でおり始めた。
 だが、慣れない姿勢で階下まで辿り着ける筈もなかった。
 あと三分の一を残すところで手を滑らせると、絵に描いたような格好で下まで滑り落ちて行った。
 慌てて駈けおりた和美が差し出した手を振り払った美樹の目から涙が溢れ、股間からは小川のせせらぎのような小さな音が聞こえていた。
 まるで幼児のように廊下に座りこんでオモラシを続けながらも、美樹は奇妙なことに気づいていた――これほどオシッコを出しちゃってるのに、どうして服も廊下も濡れてないんだろう?
 美樹にとっては永遠とも思われる時間に渡ってオシッコを溢れさせる間中、その思いがずっと頭の中にあった。
 しかし、その疑問はすぐに解けた。
 美樹が最後の一滴を出し終えて体をブルッと震わせたのを確認した和美は美樹の部屋に戻ると藤製のバスケットを持って美樹がしゃがみこんでいる所へ戻ってきたのだが、そのバスケットの中に、疑問への解答が収納されていたのだ。
 和美がバスケットから取り出したものは、レモン色の生地に動物の柄が散りばめられたオムツカバーだった。それも普通のオムツカバーではなく、ずっと大きく縫製されたものだ。和美はそのオムツカバーを美樹の傍らに広げると、その上に、やはりバスケットから取り出した動物柄の大きなオムツを何枚も重ねていった。
 和美がバスケットから取り出してくる物を目を丸くして見ていた美樹が、あっ、という声を出した。その声こそが、自分がオモラシをしてしまったのに廊下やコンビドレスが濡れていない理由を見つけたということを表していた――私は外見だけではなく、下着までも赤ちゃんと同じようにされているんだわ。きっと、このコンビドレスの中には、大きなオムツを着けているんだろう。
 新しいオムツとオムツカバーの準備を終えた和美は、美樹の体に手を回して、静かにその場に横たえさせようとした。美樹は抵抗しようとしたが、両手と両脚の自由を奪われている身には、なにほどのことができるわけがなかった。
 和美は横になった美樹のコンビドレスの股間のボタンに指をかけると、一つ一つを丁寧に外し始めた。
 パチンパチンという音が、美樹の羞恥を強く刺激した。本来、そんな所にボタンが付いているような衣類など、高校生にもなった美樹には必要ないものなのだから。
 美樹は首を横に向け、ギュッと目をつぶった。
 和美は股間のボタンを外し終えると、ドレスの裾をお腹の上に捲り上げ、中から現われたピンクの水玉模様のオムツカバーの腰紐に手をかけた。
 腰紐をほどき、マジックテープを外して前当てを開くと、左右の横羽根がゆっくり落ちていった。
 和美は美樹の顔の方に移動すると、強く閉じている目をムリヤリ開けさせた。そして、大振りの手鏡を美樹の顔の上に持ってくる。
 美樹の目は、手鏡に写る自分の下腹部に釘付けになってしまった。見たくない見たくないと思いながらも、何かに魅入られたように、自分のお尻を包んでいるぐっしょり濡れた水玉模様のオムツから目が離せなくなってしまったのだ。やがて、美樹の頭の中がまっ白に輝いた。
 しばらくの間そうして美樹に自分の姿を確認させておいてから、和美はオムツの交換を再開した。

「さ、できたわ。おとなしくって、とってもお利口さんだったわね」
 和美は新しいオムツに包まれた美樹のお尻をぽんぽんと叩くと、コンビドレスのボタンを留めながら満足そうに言った。
「これからは、いつもそうしていてね」
 虚ろな目で天井を見つめながら、美樹はコクンと頷いた。赤ん坊のようにオムツを汚し、そのオムツを取替えられた相手に対して、他にどのような反応ができるだろう。
 死んでしまいたいほどの羞恥と屈辱を通り越してみると、そこにはおそろしく素直になった自分がいたのだ。
 だから和美が、
「私についてきてごらん」
と言って廊下を歩き始めると、美樹はオムツで膨れたお尻を大きく振りながら、すぐにハイハイでついて行った。
 和美は或る部屋の前で立ち止まると、そのドアを静かに押し開いた。
 和美に続いて部屋に入って行った美樹の目に、その室内の様子が映った。そこはビニール素材のカーペットが敷かれ、ベビータンスや大きなベビーベッドが置かれた育児室だった。壁にはアニメキャラクターの壁紙も貼ってあるし、天井にはサークルメリーも吊ってある。
 和美は美樹の頭をそっと撫ぜてから、優しげな声で言った。
「ママとも相談して用意しておいた、美樹ちゃんの部屋よ。さ、ママが帰ってくるまで、ここで赤ちゃんになりましょうね――ひょっとしたら、ママが帰ってきてからも、ずっと赤ちゃんのままかもしれないけどね」
 美樹は頭の中で、これから育児室で送ることになる赤ん坊としての生活を想像してみた。それは、心を研ぎすませる必要もなく、何かに対して身構えることもない、ゆったりした生活のように思えた。眠りたい時に眠り、オシッコをしたければオムツの中にオモラシすればいい。
 美樹はニコッと笑うと、あどけない表情で大きく頷いた。



 その日から、赤ん坊のいない筈の屋敷の庭に掛けられた物干竿でオムツやベビー服が風に揺れている光景が道行く人々に目撃されることになった。
 時おり、赤ん坊のものらしい、キャッキャッという笑い声も風に流れてきたが、それはこれまでに聞いたことのないような、純真で透明な声だった。


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