素直になって


 豪華な内装のリビングルームに据えられた革張りのソファに浅く腰かけた中年女性の正面に、彼女よりもかなり若い女性が背筋を伸ばして立っている。
「どうしたの、翠さん。そんなに緊張しちゃって。まあ、私の横におかけなさいな」
 中年の女性――浅野享子が、柔らかな声を目の前の若い女性にかけた。
 翠と呼ばれた女性は静かに首を横に振ると、いえ滅相もございません、と小さな声で享子の勧めを断わった。享子は翠の態度を気にするふうでもなく、そう、と呟き、翠の目を覗きこむようにして言った。
「で、お話っていうのは何かしら? お互いに忙しい体だし、用件を済ませちゃいましょうよ」
「……はい」
 それだけを応えると、翠の口は強張ったように動かなくなってしまった。それでも、そのまましばらく何かを思いつめるような表情を浮かべた後、決心したように固い口調で言葉を続ける。
「突然で申し訳ございませんが、おひまをいただきたいと思います」
「おひまを、って――じゃ、うちの家政婦を辞めるって言うの?」
「はい。申し訳ございません」
 翠は目を伏せた。
「そう。翠さんがどうしても、って言うんなら仕方ないけど……。でも、もしもよかったら理由を教えてもらえないかしら。翠さんが辞めたいって言うくらいだから、何か切羽詰まった理由があるんでしょう?」
「……いえ。これといった理由はございませい。私の身勝手です」
 目を伏せたまま、翠が小さく首を振る。
「そうかしら? とてもそんなことで辞めるような人じゃないと思ってたんだけど……」
 享子がソファから身を乗り出し、その真意を探ろうとでもするように、翠の顔をじっと見つめた。
 やがて享子は何かに気づいたようにハッとした表情を浮かべると、微かに宙に浮かせかけていたお尻を再びソファの上におろして言った。
「涼子ね? 涼子のことが原因なんだわ――違う?」
 それは……、と言いかけた翠の口が途中で閉じた。そしてそのまま、うなだれるように首を落す。
「……やっぱり、そうだったのね。あなたならなんとかなるかもしれないって思ってたんだけど、ダメだったのね……」
 享子は大きく息を吸い込むと、ソファの背もたれに体重を預けるような姿勢をとった。それから、諦めたような表情で天井を見上げ、ホーッと息を吐き出す。

 若い頃から鋭い感性を持つ服飾デザイナーとして高い評価を得ていた享子は、その才能が仇になって適齢期を逃し、結婚したのはかなり遅くになってからだった。相手は、ファッションショーを開く度に顔を会わせていた舞台デザイナーで、彼女よりも五歳ほど年下だった。
 結婚後、高齢での出産の危険性を充分に承知の上で生んだのが、一人娘の涼子だった。
 年齢の制約があるために次の子はつくらない、と決めていた享子は涼子をとても可愛がって育てた。ただ、可愛がって、とは言っても、仕事に忙しい身の享子には、実際のこまごました育児作業を自分の手で行うことは不可能だった。そこで涼子の世話はベビーシッターにまかせきりになり、享子にできるのは、それを埋めあわせるかのように、涼子が欲しいと言うものを盲目的に買い与えることだけだった。
 この時に涼子の性格が決定されたと言ってもいいかもしれない。母親の(いささか身勝手な)溺愛の中で育てられた子がよくなるように、我儘で他人への思いやりの乏しい性格の芽が、この時に育ち始めていたのだ。しかしその我儘さえ、享子の目には、素直な可愛いい自己表現としか映らなかった。
 そして、涼子が小学校三年生の時に決定的な事件が起きた。
 或る日、涼子の父親が舞台の最終チェックをするために乗っていたゴンドラが転倒し、天井の高さからステージへ墜落したのだった。父親はそのまま、救急病院へ運びこまれる前に息を引き取った。
 その日以来、学校での涼子の立場が急変した。それまではどちらかというと他の生徒たちを従えていたのが、逆に苛められるようになってしまったのだ。本来子供が持っている残虐性に、母親が有名デザイナーだという妬みが加わり、父無し子になった涼子は恰好の標的にされたのだった。
 最初の頃は苛められる度に涙をこぼしていた涼子だったが、忙しく仕事に飛び回る母親に甘えることもできないまま、いつのまにか、寂しさや悲しさといった感情を自分の胸の奥深くにムリヤリ沈めてしまう術を身につけていった。そして同時に、自分という存在の一番大事な部分を守るために、心の中に硬い殻を作る術も覚えていかざるをえないのだった。元来の性格が、これを機会にますますいびつに歪んでいった。
 それから七年の時間が流れ、涼子が私立の女子高に入学した年、享子は現役から身を退いた。これでやっと涼子のことをかまってやれる――現役引退の記者会見を終えた享子は安堵の溜息を洩らしたものだった。
 だが、その時には、涼子の心は享子が手をつけられないほどに荒んでしまっていた。
 涼子の行動は、享子が知らぬ間に随分と攻撃的なものに変化していた。我儘で甘えんぼうで、父親が死んでからはどちらかというと自閉的な性格だったのが、他人に対して常に刃物を振りかざしているような、激しいものに変化していたのだ。
 その攻撃性は、享子や家政婦に対しても容赦なく向けられた。その度に、幾人もの家政婦が屋敷を去って行ったものだった。
 そして今また、翠が辞めようとしている。

 しばらくそうして天井を見上げていた享子が、不意に翠の顔をまっすぐに覗きこんだ。翠が僅かに気おされたように左足をうしろにひいたところへ、享子の思いつめたような声が追ってくる。
「どうしても辞めるつもりなら、それはそれで仕方ないわ。でも、後任の家政婦さんを雇っても同じことの繰返しになることでしょうね。だから無理を承知でお願いするわ――涼子の教育係として、もう少し屋敷にいてもらえないかしら?」
「教育係、ですか……?」
 翠が、要領を得ない、というように訊き返す。
 それに対して、享子が目を輝かせて応えた。その声には迫力さえ感じられるほどだ。
「そう、教育係よ。涼子の心をときほぐして、昔のように素直な可愛いい性格に戻して欲しいの。どうかしら?」
「……でも……」
「ね、お願い。方法は翠さんに全部任せるし、少々手荒なことをしてもかまわないから。そうそう、お給料も倍に……」
「いえ、お給料のことはおっしゃらないでください」
 翠が慌てて享子の言葉を遮った。それから、言葉を探すようにポツリポツリと言う。
「私に勤まるかどうかが心配なんです。今でも御屋敷から逃げ出そうとしている私に、そんな大役が……」
「大丈夫よ。前までの家政婦さんに比べれば翠さんはずっと若いから、涼子も気持を開き易いと思うわ。だから、ね?」
 自分の目を覗きこんでいる享子の視線から逃れるように、翠はそっと顔を伏せた。
 しかし彼女の心は、ほぼ固まりかけていた。現役を退いたとはいえ、あの高名なデザイナー・浅野享子が直々に懇願しているのだ。それをムゲに断わることは、翠には到底できないことだった。
 それに、方法は任せると言っていた。それなら――翠は心の中で頷いた。



 それから二週間後。
 屋敷の裏門に一台のトラックが停まった。運転席から身軽におり立ったドライバーが門のインターフォンのボタンを押すと、かろやかな電子音が流れる。そのすぐ後で、『どちら様でしょう?』という翠の声がスピーカーから響いてきた。
 その声に、ドライバーが愛想良く応える。
「家具店の者です。御注文の品をお届けにまいりました」
『ご苦労様です。門を開けますので、しばらくお待ちください』
 ドライバーが助手席に向かって軽く頷くと、左側のドアが開いて若い助手がおりてくる。
 二人が荷台のシートを外し終えた頃、重い音を立てて門が開いた。振り向いた二人の目に、にこやかな翠の顔が映る。
「お待たせしました――こちらへお願いします」
 翠は門を開いた状態で固定すると、二人を案内するように先に歩き始めた。二人はそれぞれに荷物を担ぎ、翠のあとに従う。
 勝手口から屋敷の中に入った翠は、時折うしろの二人を気遣うように振り返りながら、木目の美しい廊下を進んで行った。
 やがて、一枚のドアの前で翠が立ち止まった。
 翠がポケットからキーを取り出し、ドアを開けている間、なにげなく隣の部屋の方に顔を向けたドライバーの耳に、微かにドラムスの音が聞こえてきた。時折、調子が外れたようなベースの音が混ざる。
「ここです。さ、どうぞ」
 翠が、二人を促すように部屋の中に手を向けた。
 それに応じて二人が部屋に入り、担いできた荷物をそっとおろす。それから再び廊下に出て行きながら、ドライバーが言った。
「じゃ、あと三回ほど往復して荷物を部屋の中に運んじゃいます。その後で組立にかかりますので」
「お願いします」

 隣の部屋から聞こえる音が大きくなったのは、家具屋が組立作業を始めて間もなくの頃だった。時折使う金槌の音や二人の掛け声に対抗するように、ドラムスやベースの音が、お腹を揺するほどの音量で響き始めたのだ。
 二人は思わず、しかめつらを見合わせた。
「ごめんなさい――ここのお嬢様がステレオのボリュームを上げたんですわ。ちょっと注意してきますから、待っててくださいね」
 翠は慌ててそう言い残すと、バタバタと廊下に走り出た。
「お嬢様、隣の部屋で家具屋さんがお仕事をなさってるんです。少し静かにしていただけませんか?」
 ステレオの激しい音に負けまいと、翠がドアをノックしながら大声で言った。
 不意に、音が消えた。
 同時にドアが開き、その隙間から涼子が顔を突き出した。そして、いかにも面倒臭そうな口調で翠に言った。
「うるさいのは、そっちだろう。せっかくツレが来てるんだ、ステレオの音くらい我慢しなよ」
 涼子はそれだけを言うと、でも、と言いかけた翠を無視するように、バタンと大きな音を立ててドアを閉めてしまった。その一瞬の間に、翠は部屋の中にいた人物の顔を確認した。それは涼子の言うように、女子高の中でも涼子と妙に気の合う、品行の良くないグループのリーダーらしかった。
 やれやれ、と小さく肩をすくめた翠の耳を最大音量のエレキギターが襲った。
 肩を落した翠がさっきの部屋に戻ると、家具屋が笑顔で迎えてくれる。
「あんたも大変だね。ま、こっちのことは気にしなくていいからさ。このくらいの音、工場で慣れてるよ」
 家具屋はそれだけを言うと、騒音を気にとめるふうでもなく、黙々と作業を再開した。
 そんな二人の様子にホッとしながら、翠は心の中で涼子に向かって叫んでいた――今にみてなさい、二度とその生意気な口をきけないようにしてあげるから。
 この時、翠は自分が本気になったことを実感した。それまでは享子の頼みだからと渋々行動していたのが、今の件でやる気になったのだ。それに、これまで受けてきた嫌がらせや屈辱に対する復讐心が少なからず含まれていることも否定はできない。



 明日から学校が長期休暇に入るという日の夕方、最近では珍しく、享子と涼子が並んで食卓についていた。朝食も夕食も自分の部屋に持ってこさせて摂るのが涼子の癖になっていたのが、大事な話があるから、と享子が強引にダイニングルームに誘ったのだ。
「……で、なんなのよ、大事な話って?」
 不貞腐れたように夕食をかきこみ、薬でも飲むような表情でお茶を飲み終えた涼子が、じれったそうに享子に言った。
 それをなだめながら、やはりお茶を飲み終えた享子がニコッと笑って応えた。
「明日から急なお仕事で家を留守にすることになったの。二週間ほどで帰ってくるから、それまで翠さんと仲良くしててね」
「大事な話って、そんなこと?」
 涼子は、いささか呆れたような表情を浮かべ、ちらと翠の顔を見てから言った。
「ママが家にいないことなんて、しょっちゅうじゃないの。今更どうってことないよ。いっそ、せいせいするわ」
「でも、それは前の家政婦さんの時だわ。翠さんと二人での生活は初めてでしょう? だから、前もって言っておこうと思ったのよ」
 涼子はフンと鼻を鳴らすと、無言で立ち上がった。そしてそのまま大きく伸びをしてから、足を引きずるようにして廊下へ出て行った。
 それを見送りながら、享子と翠はそっと顔を見合わせた。


 翌朝、目を醒ました涼子の右手が、無意識のうちに瞼をこすろうとして動きかけた。が、その動きはすぐに止まってしまう。何かに引っ張られたように、不意に重くなったのだ。
 体に異常を感じた涼子は慌てて上半身を起こすと、体にかかっていた毛布を撥ねとばした。そして、そっと右手の掌に向けた目に、不思議なものが映った。
 それは花柄の生地でできた大きな袋のようなもので、すっぽりと掌から手首を包みこんでいる。更に、手首のあたりからは細い毛糸が伸びていて、同じように左手を包みこんでいる袋につながっているのだ。
 この袋と毛糸のせいで手が自由に動かせないのね――そう判断した涼子は、なぜ自分がそんなものを着けているのかを詮索するよりも、まず袋を取ってしまおうと考えた。しかし、両手を覆われた状態でそんな作業ができないのは明らかだった。そこで涼子が試したのは、両手をつないでいる毛糸を噛み切ることだった。この毛糸さえなくなれば両手はかなり自由になる、と思ってのことだった。だが、その細い毛糸がなかなか切れようとはしなかった。
 そんなバカな、と思いながら何度も何度も毛糸に歯を立てていた涼子の耳に、ドアが開く微かな音が聞こえてきた。
 ハッとして顔を上げると、享子が部屋に入ってくるところだった。そのあとには翠がつづいている。
 翠は、涼子のベッドに近づいてくると、静かな口調で言った。
「お嬢様、その毛糸は特殊な繊維でできてるんです。だから、噛んだくらいで切ることはできませんわ」
「……あんたね? これは、あんたがやったことなのね」
 翠の言葉を聞いた途端、涼子は恐い顔をして大声で叫んだ。
「そうです。お嬢様の手にミトンを着けたのは私ですわ」
 翠は、涼子の大声を気にするふうでもなく、平然と応えた。
 言われて改めて見てみれば、涼子の掌を包んでいるのは、確かにミトンという幼児向けの手袋だった。それも、幼稚園児くらいが着けているような、親指だけは独立しているものではなく、乳児の手を覆うような、指は一本も独立して動かせない種類のものだった。本来その手袋は、乳児が自分の手の指で体に傷を付けることを防ぐためのものの筈だ。
 そんなものがどうして私の手に?――涼子の胸を、嫌な予感が走った。涼子は突然顔を上げると、翠の横に立っている享子に助けを求めるように言った。
「ママ、翠が変なものを私に着けさせたの。ねえ、これを取ってちょうだい。それから、翠を叱ってちょうだい」
 しかし享子はゆっくりと首を横に振ると、幼児に言い聞かせるような口調で涼子に声をかけた。
「昨夜も言ったように、ママはこれから出かけるの。翠さんの言うことをよく聞いて、いい子にしててね」
「……そんな。ねえ、ママったら……」
「あら、今日は随分とママに甘えるのね? いつもそうだと嬉しいのに」
 享子はそう言って右目で小さくウインクしてみせてからドアの方に振り向くと、年齢を感じさせない足取りで歩き始めながら言葉を続けた。
「ああ、見送りは要らないわ。じゃ、涼子のことをお願いしますよ、翠さん」
「はい。あとのことはお任せください」
 翠はハッキリした口調で応え、享子のうしろ姿に向かって深々と頭を下げた。

 享子が出て行った部屋の中では、憤然とした表情を浮かべた涼子が、両足をベッドから床へおろしていた。
「あら。どこかへ行くの、涼子ちゃん?」
 涼子が床に立った気配を察した翠が、それまで下げていた頭を戻して言った。
 その翠の言葉に反発を感じたように、涼子は声を荒げた。
「『涼子ちゃん』ですって……なによ、その呼び方は。ちゃんと『お嬢様』って呼びなさいよ。ママがいなくなった途端に、その態度はなんなの!」
「これでいいんですよ。だって今日から、私は家政婦じゃなく、涼子ちゃんのお姉さんになるんだから――奥様からそのように指示をいただいています」
 翠はニコニコ笑って応えた。
 涼子は翠の顔をしばらく睨みつけていたが、不意にプイッと顔を横に向けると、左足を踏み出しながら低い声を出した。
「他の部屋を探せば、このミトンを外す道具くらい見つかる筈だわ――その後は覚悟して……」
 覚悟しておきなさいよ、と言うつもりが、ドシンという大きな音が部屋中に響き渡ると同時に、涼子の言葉が途切れた。
 翠の目に、何かにつまずいたのか、床の上にうつぶせに倒れている涼子の不様な姿が映った。翠は、涼子に気づかれないようにクスッと笑うと、わざと驚いたような声を出して涼子のもとに駈け寄った。
「あらあら。涼子ちゃんたら、アンヨがダメなのね。さ、お姉ちゃんが起こしてあげるわね」
 涼子は、翠のまるで幼児に言うような言葉に頬を赤くしながら、抱え起こそうとしている翠の手を振り払った。その拍子に、自分が両足に履いているレース製らしいソックスが目にとびこんでくる。
「……」
 涼子は、呆然としたような表情でそのソックスを見つめた――眠る時にソックスを履く習慣なんて、私にはないわ。じゃ、これも翠がやったことね。でも、なんのために?
 だが、その疑問の答はじきに解けた。じっとソックスを凝視していた涼子の目が、ミトンと同じように両足のソックスをつないでいる毛糸を見つけたのだ――どうやら、翠は私の自由を奪うために、こんなミトンやソックスを着けさせたようね。
 しかし、すぐに次の疑問が涼子の心を覆った――でも、なんのためにそんなことをするの? それに、さっきのママの様子じゃ、ママも翠がやったことを黙認してるみたいだった。私が知らないうちに、二人で何を企んだのかしら?
 涼子は様々な疑問を感じたまま、のろのろと体を起こした。それから、翠の顔をキッと睨みつけた後、今度は歩幅を小さくしてゆっくりとドアに向かって歩き始めた。
 足もとを見つめ、倒れないように気をつけながら長い時間をかけてなんとかドアの前に辿り着いた涼子だったが、その場で絶望的な気分に襲われて立ちすくんでしまった。やっとの思いで辿りついたものの、大きなミトンで覆われた手では、ノブを回すことも引くこともできないことに気がついたのだ。
 ちら、と翠の方に目を遣ると、さあどうするの?とでも言うように薄く笑っている。
 脚で蹴破ることもできず、涼子は呆然と立ちつくすだけだった。
 互いに無言のまま二人はしばらく顔を見合わせていたが、先に沈黙を破ったのは涼子の方だった。
「……これじゃ、まるで囚人じゃないの。ミトンやソックスにしたって、見かけは可愛いいけど、手錠や足伽と同じじゃないのよ。いったい、どういうつもりなの?」
「その通りよ。ミトンもソックスも、涼子ちゃんの自由を奪うためのものだものね」
 涼子の檄昂した声とは対照的に、翠はさらりと言葉を返した。
「……なんのために?」
「いいわ、教えてあげる――さっきも言ったように、これは奥様の指示なのよ」
「ママの……?」
「そうよ。奥様は、今のあなたの性格をとても心配してらっしゃるの。このままじゃ、まともな生活を送れなくなるんじゃないか、ってね。それで、私に指示が出たのよ――あなたを昔のように素直な子にしてくれ、って」
「……」
「私は奥様の指示に従うことにしたわ。そして、まずそのためには涼子ちゃんが屋敷から逃げ出さないようにすることが肝腎だと気づいたの。ミトンやソックスは、そのためのものなのよ」
 翠の説明を聞きながら、涼子はギリッと奥歯を噛みしめていた。
「これでいいわね? じゃ、朝食を持ってくるから、ちょっと待っててちょうだい」
 説明を終えた翠はにこやかな表情を浮かべると、そう言って部屋をあとにした。

 しばらくして戻ってきた翠は、両手で銀のトレイを支えていた。そのトレイに載せられた食器を見た涼子の頬に、サッと赤味がさした。
 翠は、涼子の視線を意識するようにわざとゆっくりと、ベッドの横に据えておいた小さなテーブルの上に食器を並べてゆく。そして、全てを並べ終えてからトレイを床の上に置くと、ニコッと微笑んで言った。
「可愛いいでしょう? この前買物に出た時、涼子ちゃんのために買っておいたの」
 テーブルの上には、パンダの絵が描かれた皿や、リスの絵が取手に付いたスプーンなどが並んでいた。が、涼子にしてみれば、それらを可愛いいと感じている余裕はない。むしろ、そういった幼児用の食器が自分のために用意されたことに強い屈辱を覚えるばかりだった。
 涼子は、食器に向けていた視線を翠の顔に移し、穴が開くほど睨みつけてから、僅かに震える声で言った。
「どういうこと?――この食器はいったいどういうつもりなの?」
「あら、わからない?」
 翠は面白そうにそう言うと、クスッと笑ってから言葉を続けた。
「さっきも言ったけど、私の役目は涼子ちゃんを素直な子にすることなのよ。そのために、涼子ちゃんには子供の頃に戻ってもらうことにしたの――小っちゃな子供の頃は誰だって素直で可愛いいものだわ。もう一度その頃に戻って、その時の素直さを思い出して欲しいのよ」
「……でも、だからって……」
「この食器じゃ不満なの?」
「……」
 涼子は無言で顔を横に向けた。
 翠は僅かに肩をすくめ、プラスチックの皿から柔らかそうなペーストのような物をスプーンですくうと、涼子の口の前に突きつけた。それを避けるように、涼子の顔がますます横を向く。
 それでも追ってくるスプーンを不自由な手で振り払うような仕草をしてから、涼子は叫んだ。
「要らないわよ。こんなゴハン、誰が食べるもんですか」
「そう。じゃ、仕方ないわね」
 涼子の叫びに意外に素直に応じた翠は食器をトレイに戻し、テーブルを部屋の隅に片づけた。
 そして、トレイを持って立ち上がると、ドアを開けながら言った。
「掃除や洗濯があるからしばらくは部屋に戻ってこれないけど、何かあったら呼んでね。そんな手でも、インターフォンのボタンくらいは押せるでしょう?」
 翠が出て行った部屋で、涼子は大きな溜息をついた。同時に、自分が空腹だということに改めて気がついた。だが、そのことを、インターフォンのボタンを押して翠に伝える気にはなれなかった。そんなことをすれば、翠は喜んでさっきの食事を持ってくるだろう。そうして、まるで幼児にそうするように、絵のついたスプーンに離乳食のような食物をすくって涼子の口に運ぶだろう。そんな屈辱的なことをされてまで、食事を摂る気にはなれなかった。
 グーッと小さく鳴るお腹をミトンで包まれた掌でさすりながら、涼子はベッドの上に横たわった――自由を奪われた手足でできることは、ただただ眠ることだけだった。目を醒ましたばかりで眠くなるわけがないことがわかっていながらも、涼子はムリヤリ目を閉じてみた。

 僅かにウツラウツラしかけていた涼子の目が不意に開いた。顔には明らかに動揺の色が表れている。
 涼子は上半身を起こすと、壁にかかっているインターフォンをじっと見つめた。そのボタンを押そうか押すまいか、涼子の心の迷いを表現するように、大きな黒い目玉が左右に揺れた。
 しばらくしてから、涼子は強引に視線をインターフォンから自分の手元に移した。そして、その大きなミトンを恨めしそうな目つきで睨みつける。やがて、涼子は大きく口を開くと、ミトンの生地を強く噛み始めた。前歯の次は糸切歯、更に奥歯で噛みつき、丈夫な生地を引きちぎろうとする。
 それはまるで、すぐにでもミトンを手から外さなければ大変なことになる、とでもいうような焦りようだった。実際、涼子の目は微かにだが血走り、頬は紅潮している。
 しかし、翠がどこからか探してきた生地は異常なまでに強く、涼子がいくら噛み切ろうとしても、小さなホツレ一つもできはしなかった。
 遂にミトンを脱ぐことを諦めた涼子の目が、再び壁の方におずおずと向けられた。
 涼子はベッドからゆっくりおりると、倒れないように気をつけながら、インターフォンに向かって歩き始めた。時おり歩幅を大きくし過ぎてよろめく度に涼子の顔に汗が吹き出したが、それは倒れまいとする緊張だけが原因ではなかった。今、もっと切実な問題が涼子を襲っていて、そのために脂汗がドッと吹き出してくるのだった。
 なんとか壁際に辿りついた涼子は急いで呼び出しボタンを押そうとしたが、自由に動かない手と焦りのために、なかなかうまくいかないようだった。それでも、何度か試みた後に、やっとボタンを押すことができた。
 小さな電子音の後、『何かご用かしら?』という翠の声がスピーカーから流れてくるのを待ちわびたように、涼子は怒鳴るように返答した。
「急いで来てちょうだい。大至急で」
『いったいどうしたっていうの? 大至急って言われても、どんな用件なのか教えてもらわなきゃ、それなりの準備もあるんだから』
「急いでるのよ。とにかく、ここへ来てよ。説明はそれからで間に合うわ」
『ダメよ。先に用件を聞かせてもらわなきゃ、そっちへは行ってあげないわよ』
「そんな……」
 涼子は、今にも泣き出しそうな表情で顔を伏せた。が、すぐに気をとり直したように顔を上げ、硬い声で説明を始める。
「オシッコが……トイレへ行きたいの。だから早く来て、このミトンとソックスを脱がせてちょうだい。お願いだから急いで……」
『やれやれ。そんなこと、恥ずかしがらずにさっさと言えばいいのに。すぐに行くから待っててちょうだい』
 翠が受話器を置いたのか、ガチャンという音が聞こえた後、スピーカーが急に静かになった。涼子は安堵の表情を浮かべ、ヘナヘナと床の上に座りこんでしまった。

 ドアが開く気配に気づいて顔を上げた涼子の目に、部屋に入ってこようとしている翠の姿が映った。涼子はホッと息を洩らし、ミトンを外してもらおうと両手を差し出しかけたが、その動きが突然止まった。翠が何か大きな物を抱えていることに気づいたのだ。
 そして、翠が手にしている物の正体を確認した涼子の顔から血の気が退いた。
 翠が抱えてきたのは、白鳥の形をしたオマルだった。プラスチック製だろうか白いスベスベした本体の上に握り棒の付いた首が伸び、黄色の嘴が開き気味になっている、幼児が排泄の訓練に使う便器だった。
 まさか、これを――近づいてくる翠から逃げるように体を退く涼子の目には、狼狽の色が浮かんでいた。


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