羞恥のレポート指導


 川井清美はやや緊張した面持ちで教授室の前に立つと、微かにためらうようなそぶりをみせてから木製のドアを力なくノックした。
「はい、どうぞ」
 ドア越しに聞こえてきたのは、この部屋の主で、清美が通っているR大学で幼児心理の講義を担当している前島洋子の声だった。四十歳になったばかりの若さで教授になった洋子だが、その声からは優秀な学者にありがちな冷たさは感じられず、むしろ暖かな、聞く者の神経を和ませるような明るさが含まれていた。その声に励まされるように、清美は意を決したような表情を浮かべると、冷たい金属製のノブを回した。
 僅かにギッと軋むような音をたててドアが開くのと、洋子が回転椅子ごとこちらへ振り向くのとがほぼ同時だった。洋子は清美の姿を見てしばらく何かを考えるような表情になったが、じきに清美のことを思い出したように顔を輝かせて言った。
「川井さん……だったわね? 確か、私の講義ではいつも最前列の席で熱心に聴講してくれているわね。で、今日は何か質問でも?」
「は、はい……あの……」
 清美は、まさか洋子が自分の名前を憶えているとは思ってもいず、少しばかり狼狽した。面と向かって名前を呼ばれると、こうしてわざわざ教授室までやって来た事情を口にするのがひどく恥ずかしく思える。
「どうしたの? そんなに緊張しないで、さ、言ってごらんなさい」
 洋子は相変わらぬ明るい声で促した。
 清美はなおもしばらくためらったが、それでも一度大きく息を吸いこむと、やっと決心がついたような顔つきになって改めて口を開いた。
「実は、先日のテストのことなんですけど……」
「先週に行ったテストのことかしら?」
「はい、そうです……それで、あの……私、そのテストを受けていないんです」
「あら、体調でも崩してたの? でも、それなら心配しなくてもいいわ。この大学の規則では、お医者様の診断書を添えて事務室に申請すれば追試が受けられるようになっている筈だから」
 洋子は清美の不安を吹き飛ばそうとでもするかのようにニコッと微笑んで、そう言った。そんな表情になった時の洋子はとても四十歳に手が届いているようには見えない。どうかすれば、まだ三十歳にもなっていないようにさえ思えるほどだった。が、洋子のそんな明るさとは裏腹に、清美はますます冴えない表情を浮かべて言った。
「それは知っています。ただ、私が試験を受けられなかったのは病気のせいじゃないんです……部屋を間違えて――いつもの講義が行われる教室だと思いこんでいたものだから……」
 大学では、普段の講義が行われる教室と試験の時の教室が違うことはさほど珍しいことではない。カンニングを防止するために、いつもの教室よりも広い部屋を使って学生どうしが広い間隔で座るようにしてみたり、いつもなら講義をサボる学生も試験となると出席してくるため、仕方なく別の教室も一緒に使ったりすることになるためだ。
 清美の言葉を聞いた洋子の顔が途端に曇った。
「そうだったの……でも、それは私にもどうすることもできないわね。川井さんも知ってるだろうけど、時間や教室を間違えたっていうのは正当な理由にはならないのよ。いつも真面目に聴講しているあなたにこんなことを言うのは酷だけど、もう一年大学に残って単位を取り直してもらうしかないようね」
「そう言われるだろうとは思っていました……でも、そこを曲げて、なんとかしていただけないでしょうか。なんとしても今年度中に卒業しないと……」
 不意に清美の瞳が潤んだ。洋子が慌てたように清美の顔を覗きこんだ。
「ちよっと川井さん、どうしたっていうの? そりゃ留年は大変なことかもしれないけど、でも、そんな泣くほどのことじゃ……」
 洋子の言葉に清美は激しく首を振り、唇を震わせながら、まるで訴えるような口調で言葉を続ける。
「……昨日までは、私も留年を覚悟してました。でも、どうしてもそれができなくなったんです」
「それはまた急に――どんな事情なの?」
 洋子が、僅かに首をかしげるようにして問い質した。
「……昨日、隣の市に住む叔父が、私の就職先をみつけてきたと言ってやって来たんです――叔父は隣の市ではちょっと顔が利くようで、市立の或る幼稚園で教員に欠員ができそうだということを耳にして、その教員の後釜に強引に私のことを推薦してきたらしいんです。この就職難の時ですから、それを聞いた父も母もすごく喜んで……とてもじゃないけど留年するなんてこと口にできるような雰囲気じゃなくなって……」
 一旦は洋子の顔を正面から見上げたものの、次第次第に力なく顔を伏せ、遂には口の中でモゴモゴ言うように事情を説明した清美だった。
「そうだったの。そういうことなら、なんとしても留年は避けたいでしょうね……」
 洋子は微かに溜息をついて言った。
「ですから、先生のお力でなんとか……」
 清美はちらと上目遣いで洋子の顔を覗きこみ、すぐに目を伏せながら言った。
「でも、規則は規則だしね……川井さんの普段の聴講態度を見てると力になってあげたいんだけど……」
 洋子が困惑したように天井を見上げ、気まずい沈黙が訪れた。しかしやがて、そうだわと明るく呟く洋子の声が清美の耳に届き、思わず清美は顔を上げた。そこへ、洋子がニコニコと微笑みをたたえた顔つきで穏やかに話しかける。
「試験がダメでも、レポート提出っていう方法があるわ。無条件にレポートで試験の代替にする訳にはいかないけど、川井さんみたいに欠席もせずに熱心に聴講している生徒には特例として適用できる筈だわ」
「本当ですか……?」
 清美がおそるおそる問い返した。
「本当よ。但し、試験の代わりになるようなレポートなんだから、テーマは簡単じゃないわよ。ひょっとしたら留年してた方がマシだったなんて思うくらいに難しいテーマになるけど、それでもいい?」
「もちろんです。先生の講義の単位がいただけるなら、そしてそれで卒業できるなら、どんなに難しいレポートでも構いません。だから、お願いします」
 清美は、顔を上気させて早口で言った。
「わかりました。じゃ、私が直接指導してあげるから、一週間後に始まる教育実習期間の初日にこの部屋に来てちょうだい」
 R大学では、四年生の大部分の学生が教員免状を取得するために教育実習を体験する。しかし、大学付属の幼稚園や小学校がさほど大きくはなく、受け入れ側に余裕がないため、教育実習は二つのグループに分かれた学生が二週間ずつ交代で行うようになっている。その第一グループの教育実習が始まるのが来週の月曜日からだった。その間は教授や講師たちも普段の講義は休講にして、それぞれの研究テーマに没頭できることになっている。洋子はその時間を利用して、教育実習では第二グループに所属している清美がレポートを書くのを指導しようといってくれたのだ。
「わかりました。よろしくお願いします」
 ほっとしたような表情を浮かべた清美が深々と頭を下げた。



 最初のグループが教育実習に出発したためにやや閑散とした廊下を歩き、清美は洋子の部屋の前に立った。清美が右手でコンコンとドアをノックすると、川井さんね、どうぞと一週間と同じような暖かな声で返事が返ってくる。清美は背筋を伸ばしてドアを引き開け、教授室に足を踏み入れた。
「待ってたのよ。さあ、どうぞ」
 清美を部屋に迎え入れた洋子は、自分の隣の机を指差した。どうやら、そこが清美の席になるらしい。いくら直接指導を受けるといってもすぐ隣に座ることになるとは思っていなかった清美は緊張した面持ちになった。それを見た洋子は清美の肩にそっと両手を乗せ、優しい口調で言った。
「そんなんに緊張しなくてもいいわ。川井さんなら、きっと素晴らしいレポートを完成させることができるわよ」
 清美はムリに笑顔を作り、胸の中で深呼吸を繰り返してから椅子に腰をおろした。清美に続いて自分の席に着いた洋子はすぐに真面目な顔になると、手にした鉛筆の端で机の上を軽く叩くような仕種をしながら言葉を続けた。
「それじゃ、始めましょうか――先に言っておくけど、提出してもらうレポートの課題は一つじゃありません。いくつかのテーマについて考察してもらって、最終的にそれらをまとめてレポートに仕上げてもらうことになります。いいわね?」
 清美は無言で頷いた。
「結構です。じゃ、最初の課題を与えます――『幼児は自分の失禁に対して、如何なる程度の羞恥を感じるかを考察しなさい』っていう課題です。意味はわかる?」
「……はい、大体はわかるような気がするんですけど……」
 清美は自信なげな口調で応えた。
「少し補足をしておいた方がいいかしら?」
「できれば……」
「そうね――生まれたての赤ん坊は、いくらオモラシをしても恥ずかしいとは感じないわね。ところが幼稚園の年長組くらいの子だと、まちがってオモラシでもしようものならとっても恥ずかしそうな表情をするわね? 幼児の成長過程を視野に入れた上で、それがどのくらいの恥ずかしさなのかを幼児の立場に立って考えてみなさいっていう課題なのよ」
 『幼児の立場に立って』というところを妙に強調して洋子が言った。
 洋子の説明を聞き終えた清美は、少しばかり戸惑ったような表情を浮かべた。これまでの洋子の講義の内容を全て思い出してみたが、その課題に対する解答はおろか、ヒントになりそうなものもないことに気がついたからだ。清美は切羽詰まったような様子で、洋子に言ってみた。
「でも、先生……先生の講義の中には、そんなこと少しも……」
 だが、清美は最後まで口にすることはできなかった。清美の言葉を遮るように、洋子が口を開いたのだ。
「そんなことは私も知っています。だから言った筈ですよ――簡単なレポートじゃないわよって。そんなことは承知の上じゃなかったの?」
「……すみませんでした……」
 清美は力なくうなだれた。確かに、講義さえ聴いていればわかるような課題なら、なにもレポートにする必要はない。そんな簡単なことなら、学生はみんな、試験を受けるよりもレポート提出を選んでしまうだろう。そうさせないためにも、レポートの課題は難問である必要があるのだ。
 肩をすぼめた清美に、洋子は普段の暖かな口調で声をかけた。
「この部屋の蔵書や論文は全部自由に読んでもいいんだから、そう気を落とさずにまずは始めてみることね」
「……はい」
 洋子に言われるまま、のろのろと椅子から立ち上がった清美は、膨大な書物が収められた書架の前に立った。

 あれやこれやと表紙を開き、ページを繰ってみても、オネショが治らない子供の心理要因や、オモラシをしてしまった子に対する母親の接し方といった内容の書物はけっこう多くあるのだが、洋子から与えられた課題に関係ありそうな論文はなかなか見当らなかった。清美は自分が微かに苛立ち始めているのを感じて、二度三度と深呼吸を繰り返してみた。と、その鼻を、なにやら食欲をそそる香ばしい匂いがくすぐった。なにげなく目をやった腕時計の針が、昼食の時間が近いことを知らせる――やだ、もうこんなに時間が経っちゃったの? こんな調子じゃ、レポートが完成するのはいつのことになるかわからないわね。やれやれ……。
 その時、思わず溜息をこぼした清美の耳に、洋子が呼ぶ声が聞こえてきた。
「川井さん、そろそろお昼にしましょうよ。あまり根を詰めると体に毒よ」
 その声に、清美は読みかけのファイルを閉じて書架に戻し、軽く肩を揉みほぐしながら机の前に戻って行った。途端に、さっき鼻をくすぐった香りがますます強くなるのを覚えた。その香りはどうやら、教授室に隣接する給湯室から漂ってくるようだった。卒業論文提出の時期にもなると研究室に泊まりこんで論文を書いたり実験に取り組んだりする学生が少なくないため、それぞれの研究室には簡単な食事を作られるように給湯室にはガスコンロや流し台も備えられているのだった。
「どこかへ食べに行くの? それとも、お弁当かしら?」
 洋子の声も、同じ給湯室から聞こえてくるようだ。
 清美はバッグからハンカチに包まれた小さなランチボックスを取り出しながら、給湯室の方へ顔だけを向けて心持ち大きな声で応えた。
「お弁当を持ってきました――先生の指導を直々に受けてレポートをまとめるって言ったら、頑張ってらっしゃいってわざわざ母が作ってくれましたから」
「そう、それはよかったわね。じゃ、ちょっと待っててね。私もすぐに行くから」
 洋子がそう言うのと同時に、カチャカチャと食器が触れ合う快い音が部屋の空気を僅かに震わせた。ほどなく、純白のカップを二つ載せたトレイを両手に抱えた洋子が部屋に現われた。そのカップから淡い湯気がゆらりと立ちのぼり、あの香ばしい匂いが立ちこめる。洋子は一つのカップを清美の目の前に置き、もう一つを自分の机に置くと、年齢を感じさせない例の笑顔になって言った。
「さ、どうぞ。温かいスープがあれば、お弁当はずっとおいしくなるわ」
「あ、あの……ありがとうございます」
 清美にしてみれば思ってもみなかった洋子の心配りに、まともな言葉にならない礼を言うのが精一杯だった。
 そんな清美に、洋子はクスッと笑って応えた。
「いいのよ、そんなに気を遣わなくても。これまでずっと一人で生活してたから、研究室で作るスープでも、誰かに飲んでもらえるなんて、却ってこちらが嬉しくなるわ」
「あ……先生、お一人なんですか?」
「ええ……いろいろあってね、この年齢になってもまだ独身なのよ」
 洋子が、ふと遠くを見るような目つきになった。だが、じきに我に返った洋子は、小さく頭を振って言葉を続けた。
「ごめんなさいね、余計なことを言っちゃったみたい――さ、冷めないうちにどうぞ召しあがれ」
「あ、はい。じゃ、いただきます」
 清美はランチボックスのハンカチをほどき、目の前でおいしそうな湯気を立てているカップを両手で抱えた。そして、フーッと息を吹きかけて唇を近づける。
「あ、おいしい。先生、これ、とってもおいしいですよ。今度、作り方を教えてくださいね」
「うふふ、気に入ってもらえて嬉しいわ。作り方ならいつでも教えてあげわよ。こう見えても、昔は普通の奥さんになって、娘と一緒に料理を作るのが夢だったんだから」
「へーえ、そうだったんでか。でも先生、意外とその方がお似合いだったかもしれませんね」
 清美は思った通りのことを口にした。実際、洋子の持つ暖かな雰囲気は、学者よりも家庭の主婦にふさわしいものかもしれない――でも、それなのにどうしてまだ独身なんだろう? 過去に何かあったのかしら……ま、いいわ。あまり他人の私生活に興味をしめすものじゃないっていうから。
 清美は再びスープを啜った。と、何かツルンとした物が口の中に流れこむ感触があった。クルトンにしては妙な感触だったわねと思いながらも、清美はさして気にもせず、スープを喉に流しこんだ。
「ところで、レポートの方はどう? 最初の課題に対するアプローチの方法はみつかったかしら?」
 清美がスープを飲みこんだのを確認した洋子が、目を細めて尋ねた。
「いえ、それがまだ……」
 清美は、細い箸でおかずの卵焼を口に運ぶ手を止めて応えた。
「……なかなか、ヒントになりそうな文献もみつからないような状態で……」
「そう――でも、焦る必要はないわ。もしも文献がみつからないなら、実験で確かめるっていうこともできるんだから」
 清美の顔に視線を固定したまま、洋子は面白そうに言った。
「実験、ですか? でも、こんなこと、どうやって実験をすればいいのかも……」
 清美は、要領を得ない顔つきで言った。
「うふふ、大丈夫よ。もうすぐ、その実験の第一段階が始まることになってるの。あなたはその結果をまとめさえすればいいのよ」
 清美の顔に向けられた洋子の目が妖しく輝いた。なんとはなしに、清美は背筋をゾクッと冷たいものが駈け抜けたように感じ、体をこわばらせた。
 その直後、清美は手にしていた箸を机の上におろし、ウッというような呻き声を洩らして顔をしかめた。そんな清美の様子を満足げに眺めている洋子が、唇の端を歪めるような奇妙な笑顔を浮かべた。だが、清美は洋子の表情の変化に気づく余裕もないようで、いつのまにか蒼白になった顔にうっすらと汗をにじませ、小刻みに体を震わせ始めた。
 やがて清美は机の端に両手をつくようにして立ち上がり、ゆっくりとドアの方へ振り返ると、そろりそろりと歩き始めた。それを見咎めた洋子が、叱責するように言う。
「川井さん、どこへ行くの? 食事の最中ですよ」
 それに対して、清美はおずおずと首だけを洋子の方に向けて口の中でぼそぼそ応えた。
「いえ、あの……ちょっと……」
「ちょっと……じゃわかりません。食事中にどうしたっていうんですか。ちゃんと説明してごらんなさい」
「その……すみません、トイレなんです。どうしてもオシッコがしたくなって……」
 清美は微かに顔を赤らめて応えた。清美にしても、それがひどく行儀の悪いことだということは承知している。だから、ちゃんと説明できなかったのだ。
「トイレですって……?」
 洋子は険しい表情で問い返した。
「そうです……あの、突然のことで自分でも驚いてるんですけど……どうしてもガマンできそうにないんです」
 そう言う清美の顔はますます赤く染まってきた。よほど激しい尿意を覚えているのだろう。そうでなければ、若い女性が食事中にトイレに立つ訳がない。
 が、そんな清美の窮地を知ってか知らずか、洋子は冷たい口調で言った。
「ダメです。トイレへ行くことは許可しません」
「え……」
 清美は信じられない思いで立ちすくんだ。そこへ、更に激しい尿意が襲ってくる。清美は思わず両手の掌で股間を押え、体をブルッと震わせた。それを目にした洋子が、尚も冷たく言葉を続けた。
「そうよ。そうやって、食事が終わるまでガマンすることね」
「でも……でも、もう……」
 清美は体をくねらせ、すがるような口調で洋子に訴えた。だが、洋子の態度はこれっぽっちも変化しそうにない。
「考えてもごらんなさい――あなたはこれから幼稚園の教員になろうとしているのよ。そうなれば、食事中のトイレがどれほどお行儀の悪いことなのかを園児に教えなければいけない立場になるのよ。そのあなたが食事中に席を外してトイレへ行こうだなんて、絶対に許されることじゃない筈よ。違う?」
「でも……でも……」
 清美の口からはもう、洋子への反論は聞かれなかった。洋子の言うことが正論だと清美もわかっているのだ。しかし、かといって……。
「さ、わかったら席に戻りなさい。食事が終わってから自由にすればいいんだから」
 洋子は清美の肩に手を置くと、強引に椅子に座らせた。既に耐え難いまでの尿意が高まっている清美には、洋子の手を振り払うだけの力は残っていなかった。清美はまるで母親に叱られた幼児のように、いかにも情けなさそうな表情を浮かべたまま、洋子のいいなりに椅子に腰をおろした。
 清美のお尻が木製の椅子に触れた瞬間、尿意はピークを迎えた。清美が必死になって両手で股間を押えても、それはなんの効き目もしめさなかった。むしろそれがきっかけになったかのように、清美の膀胱が不意に緊張を失った。
 膀胱から溢れ出し、尿道を流れ、ショーツの中にほとばしり出る生温かい液体の感触を覚えた瞬間、清美は呆けたように口を半ば開き、うつろな目を壁に向けた。体はまるで金縛りにかかったようにこわばり、小指一本さえもピクとも動かせない。
 やがて、ショーツからも溢れ出した尿は清美の内腿を伝い、細い足首に沿って一条の流れとなって白いソックスを濡らしながら床の上に滴り始めた。そして同時に、厚地のスカートからも滲み出した尿が椅子の上に広がり、ポタポタと音を立てて床へ落ちて行く。
 清美の足元には、いつしか大きな水溜りができていた。それも、生温かい湯気をたて、若い女性の体液の匂いを周囲に振りまく、羞恥と屈辱の水溜りが……。
 永遠とも思える時間が流れ去り、最後の一滴をショーツの中に放出し終えた清美は、ワッと声をあげて机の上につっぷした。
 そのワナワナと波打つ肩や小刻みに震え続ける体を冷たい視線で眺め回してから、洋子が、わざと心配げな声で言った。
「あらあら、大変なことになっちゃったわね。さ、そんなに泣いてばかりいないで早く着替えないと、風邪をひいちゃうわよ」
 が、清美は洋子の言葉など耳に入らぬげに、ただ泣き続けるばかりだった。
 洋子は自分の椅子から立ち上がると、コツコツと足音をたてて清美の背後に廻りこみ、だらしなく机の上に伸ばされた両手をつかんで引くと同時に、清美の耳元に唇を寄せて囁いた。
「聞こえなかったかしら? 早く着替えなさいと言ったのよ」
 耳朶にかかる温かい吐息に、清美はやっとのことでハッとしたように顔を上げ、洋子の顔を振り仰いだ。そして、涙に潤む黒い瞳で恨めしそうに洋子を睨みつけ、かすれた声を洩らした。
「……ひどい……先生のせいで、こんな……この年齢になってオモラシなんて……それにだいたい、着替えなんて持ってきてないし……」
「あら、着替えを用意してこなかったの?」
 清美の言葉を耳にした洋子は、わざと驚いたような口調で言った。
「だって……だって、こんなことになるなんて、夢にも思わなかったし……」
「オモラシは仕方ないわ。川井さんにしても予想外のことだったでしょうから――でも、レポートが完成するまでは研究室に泊まりこむことになるのよ。だから、それなりの準備はしてきてる筈じゃないの?」
「え……でも先生、泊まりこみだなんて、一言もおっしゃってなかった……」
「あらあら、困った子ね。私が研究室で直々に指導してあげるって言った時に気がついてもらわなきゃ。お家から通いながら完成するような簡単なレポートじゃないことくらい、予想できなかったの?」
「あ……」
 清美は言葉を失った。言われてみれば、確かにそうかもしれない。まだ最初の課題に対するヒントさえ手に入れられないのに、このまま家に戻ってもレポートが書ける筈はないだろう。
「ようやくわかったようね――いいわ。着替えは私がなんとかするから、あなたはシャワーを浴びてらっしゃいな。とにかくこのままじゃ、食事もレポートもできたものじゃないわ」
「……はい……」
 力なく頷いた清美の手を洋子が引いて、そっとその場に立たせた。
 清美はうなだれたまま、給湯室の隣にあるシャワールームにトボトボと向かった。清美が脚を動かす度に、ショーツに滲みこんでいた尿が一雫、二雫と滴り落ち、歩いた跡に小さな滲みを作っていったが、今の清美がそんなことにまで気がつく筈もなかった。
 清美の姿がシャワールームに消え、勢いのいい水音が聞こえ始めた時、洋子はシャワールームの前にある狭い更衣室に足を踏み入れた。そして、そこに置いてあった清美の衣類を黒いビニール袋に詰めこむと、その代わりに、どこからか持ってきた衣類を置き、薄く笑いながら教授室に戻って行った。
 やがてシャワーの音が止み、更衣室からゴソゴソという物音がした後、なにやら戸惑ったような清美の声が聞こえてきた。
「あの、先生……着替えっていうのは、これのことなんですか?」
 洋子が振り向くと、シャワールームに備え付けになっていたものらしい小さなタオルで下腹部を隠し、空いたもう一方の手で衣類を抱えた清美が、おどおどした様子で更衣室に続くドアから体を半分ほどのぞかせていた。
「そうよ。それがなにか?」
 洋子は平然とした様子で応えると、清美の前に立って、清美が抱えている衣類を受け取り、それらを清美の目の前で改めて一枚ずつ丁寧に広げてみせた――最初に広げてみせたのは、淡いピンクのブラウスだった。といっても、それは大学生の清美にふさわしいシックなものではなかった。袖はさほど長くない五分袖で、柔らかな曲線で仕上げられ、幅の広い丸襟の周囲はフリルで縁取りされている。袖口と胸元には白い飾りレースがあしらわれ、襟のすぐ下に付けられた小さなリボンとあいまって、ひどくおさないムードが漂っていた。しかもボタンは全て背中の方に付けられていて、全体として見れば、幼稚園に入園したばかりくらいの幼女に似つかわしいようなデザインに仕立てられている。次に洋子が手にしたのは、レモン色のスカートだった。このスカートも、肩紐で体に吊るような作りになっていて、その肩紐がスカート自体に縫い付けられている胸当ての部分には、可愛らしくデフォルメされたキリンのアップリケがあしらわれた、先のブラウスと同様、幼い少女が喜びそうなデザインになっていた。
「こんなに可愛いい洋服なのに、なにか不満なの?」
 洋子は手にしたブラウスと清美の顔を交互に見比べながら言った。
 それ対して、清美は不思議なものを見るような目つきで洋子の顔を眺め、口ごもるように言った。
「でも……でも、こんな子供服、私の体に合う訳が……」
「そう思う?」
 清美の言葉に、洋子はクスッと笑って、両手で広げていたブラウスを清美の裸の上半身に押し当てた。と、てっきり子供服としか見えなかったそのブラウスが、サイズだけは清美の体に合わせて作ったかのようにピッタリとフィットするのがわかる。それはブラウスだけではなく、幼児用としか思えないデザインのスカートも同様だった。
「ほーら、丁度いいわよ」
 洋子は尚もクスクス笑いながら言った。
「そんな……そんな……」
 清美はあっけにとられたような顔つきになり、そう言ったきり黙ってしまった。
 そこへ追い討ちをかけるように、洋子が白い下着のようなものを清美の目の前に差し出しながら言葉を続けた。
「もちろん、これもね」
 それは一見したところでは、ズロースのような形をした下着だった。だが、よく見てみると、普通のズロースに比べるとひどく生地が厚く、腰や腿のゴムの幅が広いことがわかる。それに、お尻の部分にはアニメキャラクターのプリントが付けられているのだ――それは、オシメが外れたばかりの幼児が穿くトレーニングパンツだった。それも、ブラウスやスカートと同じように、清美のヒップにフィットするサイズに縫製された、大きなトレーニングパンツだった。
「……」
 清美は押し黙ったまま、羞恥で赤く上気した体だけを震わせていた。
「さ、早く着替えましょうね。風邪をひいたりしたら大変よ」
 洋子は、幼児をあやすように優しげな声を清美にかけた。
「……いやです。そんな、小さな子供が着るような洋服……しかもトレーニングパンツだなんて、私のことを何だと思って……」
 清美は首を左右に振りながら、微かに震える声で言った。
「あら、まだわからないの? 私はさっきも言った筈よ――もうすぐ実験の第一段階が始まるって」
「実験の……第一段階?」
 清美は怪訝そうな表情で問い返した。
「そう。『幼児は失禁に対してどの程度の羞恥心を覚えるか』っていう課題を考察するための実験が、ね」
「……まさか、先生は最初から私にその幼児みたいな格好をさせるつもりで……」
「うふふ、やっとわかったようね。あなたに与えた課題は、どんな文献にも解答なんて載ってないものなのよ。だから自分自身を実験台にして結論を得るしかないの。そのためには、あなたが幼女に変身するのが一番の近道だわ。私はそのための衣類を用意しておいてあげたのよ。このトレーニングパンツだって、知り合いのベビーウェアメーカーにお願いしてわざわざ特注で作ってもらったんだから」
「でも、それにしたって、この格好は……」
 清美はもう一度トレーニングパンツをちらと見て顔を赤くした。そして、少しばかり言いにくそうに言葉を続ける。
「……これを着るくらいなら、私が家から着てきた洋服のままの方がマシです。スカートは汚れちゃったけど、でも水で洗ってしぼれば、なんとかガマンして……」
「残念だけど、それはムリね」
 清美の言葉を遮って、洋子が面白そうな口調で言った。
「あなたがシャワーを浴びてる間に、私が処分しちゃったもの。今頃はダストシュートを通って、焼却炉の中で灰になってる頃よ」
「え……」
 清美は唇を震わせた。
「だからね、今のあなたには、これしか身に着ける物がないのよ。それとも、レポートが仕上がるまでずっと丸裸でいる? 私は別にそれでもいいけど」
「それは……」
 清美は再び恨みがましい目で洋子の顔を睨みつけた。だがじきに、洋子の平然とした態度に気圧されるように顔を伏せ、観念したような口調でぽつりと呟いた。
 そうしているうちに洋子が清美の背後に回りこみ、ピンクのブラウスを清美の頭からスッポリとかぶせてしまう。清美は洋子の手を振り払おうとしたが、それも一瞬だけだった。これしか身に着ける物はないのよと言った洋子の言葉が頭の片隅に浮かび上がってくると、思わず体の力が抜けてしまうのだ。清美が諦めて手から力を抜いてしまえば、あとは洋子のなすがままだった。洋子は清美の頭からかぶせたブラウスの裾を軽く引っ張って形を整えると、背中に並んだボタンを丁寧に留めてゆき、その後、これもやはり頭の上からスカートをかぶせた。そして、スカートの生地よりも僅かに淡い色の肩紐を胸当てにボタンで留めてしまう。洋子が手にしていた時には清美の体にピッタリのように見えたスカートだったが、実際に肩紐を留めて穿いてみると随分と丈が短いようで、清美がちょっと体をかがめたり大股で歩いたりすれば、スカートの中が丸見えになってしまうほどだった。
 スカートを穿かせ終わった洋子は、清美に両手を壁に付かせて片足を上げるように指示した。そして清美がためらいがちに左足を上げると、洋子はトレーニングパンツのウエストのゴムを両手で広げるようにしながら、上がった足に通し、今度はもう一方の足を上げさせて爪先から穿かせていった。
 あどけないデザインのブラウス、中の下着が丸見えになりそうなほど短い吊りスカート、そして、オモラシをしても大丈夫なようにと穿かされた厚手のトレーニングパンツ――洋子が用意していた衣類を身に着けた清美は、まるで幼女のような姿に変身していた。しかも、トレーニングパンツは見た目はゴワゴワした感じなのに実際に身に着けてみると肌に当る部分はひどく柔らかな素材でできていて、その思ってもいなかった感触が妙に清美の羞恥心を刺激するのだった。
「これでいいわ。もう、川井さんは小さな女の子になったのよ。下着もトレーニングパンツだし、心おきなくオモラシができるわね。さ、幼児の心理になりきって、立派なレポートを書いてちょうだいね」
 幼児の装いをこらした清美の姿を頭の先から足の爪先まで眺めまわし、満足そうに頷いた洋子が、いつもの明るい声で言った。だが清美の方は身じろぎ一つもせずに、その場に立ちつくすだけだった。

 しかし、清美もいつまでもそうしていられる訳でもなかった。突如として、予想もしていなかった激しい尿意が再び訪れたのだ――やだ、ついさっきオモラシをしちゃったばかりなのに。自分の脳裏に浮かんだ『オモラシ』という言葉に頬を染めながらも、清美は突然の尿意にひどく戸惑った。さきほどのオモラシからまだ三十分も経っていないのだから、清美が戸惑うのもムリはない。
 しかし清美はまだ、その尿意が洋子によって仕組まれたものだとは気づいていない。昼食の時に飲んだスープの中に、洋子が即効性の利尿剤を溶かしこんでいたのだ。昼食の途中で突然尿意に襲われたのもその利尿剤のせいだったのだが、洋子がそんなことを知る由もない。そして一度服用した利尿剤は、一度や二度の排泄で効果が消え去るものではなかった。
 清美は壁際から離れ、廊下に通じるドアに向かって静かに歩き始めた。
「どこへ行くの?」
 洋子が背後から呼びとめた。
「あの……トイレです……」
「あらあら、またオシッコなの? 本当に小さい子みたいにオシッコが近いのね――でも、せっかく特製のトレーニングパンツを穿かせてあげたんだから、そのまましちゃいなさいな。でないと、実験にならないわよ」
「……」
 洋子の言葉には応えず、清美はそのまま部屋を横切ろうとした。そこへ、洋子が意味ありげな口調で声を投げかけた。
「そのままの格好で廊下に出るつもり?」


目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き