遠い記憶


 僅かな刺激臭が小出茉美の鼻を刺激していた。彼女は無意識のうちに、その臭いの正体を探るように鼻をピクッと動かした。
 耳には、虫の羽音のようなブーンという機械音が聞こえている。これも、今になって始まったというものではないようだった。
 彼女は聞こえるか聞こえないかの呻き声をあげると、首を左右に小さく振った。
 瞼が小刻みに震える。
 やがてゆっくりと開き始めた目に、白い天井が映ってきた。視線を静かに動かしてみると、まだボンヤリしている視界の中に、ほのかに灯っている青白い光が見えてくる。
 彼女の目が、二度三度と瞬いた。
 次第に目の焦点が合ってくると、その光が何かの機械に取り付けられているパイロットランプだということがわかった――そう思って改めて見回してみると、彼女の周りには、多くの機械が設置されているようだった。
「気分はどう?」
 不意に、機械の一つが口をきいた。それも、若い女性の声で。
 茉美は思わず、声を出したと思われる機械を見つめてみた。
 しかし、それが彼女の早とちりだということがすぐにわかった。機械の隙間から生身の人間が近づいてきて、声をかけていたのだ。
「ここは……どこですか?」
 機械が喋べったのではないことを知った茉美は、ホッとしながら、その人物に尋ねてみることにした。
「ここはF総合病院の集中治療室よ。あなたは五時間ほど前に救急車でこの病院へ運ばれてきたの」
 その女性は茉美が寝ているベッドの傍らに立つと、静かな口調で答えた。
 言われてみれば、さきほどから感じている刺激臭は病院特有の消毒薬の臭いのようだ。機械も、身体の様々なファクターを監視するためのものなのだろう。
「……覚えてる? あなたは交通事故に遭ったのよ」
「交通事故……?」
 麻酔が醒めきってないのか、頭の中には白い霧がたちこめているような感じだった。それでも、そう言われてみればそうだったような気もしてくる。
 茉美は上半身を起こしてみようとした。そうすれば、自分がどれくらいの怪我をしているのか、おおよその見当がつくと思ったのだ。しかし、妙な脱力感に襲われて、それはできなかった。首から下が、まるで自分の体ではないように思える。
 しばらくして、茉美は体を起こすことを諦めた。
 それほどひどい事故だったのだろうか? そう考える茉美の頭の中に立ちこめている霧の向こうに、数時間前の情景が仄かに見えてきたように思えた――。

 互いに追越しをかけながら、二台のスポーツカーが、周囲の車のことなどお構いなしのように道路を走っていた。ドライバーはどちらも若い男性だった。おそらくは、仲間同士で過激なドライブを楽しんでいるのだろう。
 不意に、その内の一台が大きなスキール音を周囲に撒き散らしながらリヤタイヤを滑らせた。急激なステアリング操作とブレーキのタイミングりため、意図しないドリフト状態になったようだ。
 その派手なスポーツカーは、そのまま歩道に乗り上げてきた。
 その日の講義が午前中で済んでしまい、大学からアパートへ帰る途中の茉美が、そこに通りかかっていた。そして、車のフロントバンパーが茉美の脚に当たり、彼女の体をなぎ倒していった。
 歩道と車道との境に植わっている潅木のためにスピードはかなり低くなっていたとはいえ、一トンを越す鉄の固まりがぶつかったのだ。茉美が無事ですむわけがなかった。ただ幸いなことに、その車は彼女の体の上を通過せずに、方向を変えて、再び潅木に突っこんでいった。そのため、茉美の頭や腹部には大した傷はつかずにすんだようだった。
 両脚の激痛に涙を流しながら耐えていた茉美も、しばらくして到着した救急車の隊員に痛み止めの注射をうたれ、痛みが和らぐにつれて、意識を失っていった――。

「で、私の体はどうなったんですか? 軽い怪我だったんですか?」
 ぼんやりとながら事故の様子を思い出した茉美は、硬い口調で尋ねていた。彼女の問いかけに対して、ベッドの傍らに立っている女性(改めて見てみれば、その女性が身に着けているものが淡いピンクの白衣だということがわかる。この病院の看護婦なのだろう)が、事務的な口調で説明を始めた。
「軽傷、とは言えないわね。車にはねられたショックで、両脚の筋肉の一部が伸びきったような状態になってるのよ。当分、歩くことはできないでしょうね」
「当分って……どれくらいの間なんですか? まさか、一生なんてことは……」
「それは大丈夫。リハビリの進度にもよるけど、一〜二ケ月くらいかしらね」
 看護婦の答に、茉美はホッとしたような表情を浮かべた。短い期間ではないものの、車にはねられたにしては軽くすんだ方だ。
「じゃ、今からでもリハビリを始めたいわ。そうすれば、それだけ回復が早くなるんでしょう?」
 茉美は軽い気持で言ってみた。
 看護婦も同意するように小さく頷いてみせた。が、そのすぐ後で、こう付け加えたのだった。
「……それはムリでしょうね。やられてるのは脚の筋肉だけじゃないのよ。内出血の血液が脊髄の上の方に入って、その中で固まってるみたいなの。そのせいで神経が圧迫されて、反応がかなり鈍くなってるわ。その血液の固まりがなくなるまでは、リハビリを始めようにも、体が自由に動かせないのよ」
 さっき体を起こせなかったのはそのせいか、と茉美は思った。だけど、それじゃ、いつになったらリハビリを始められるんだろう?
「微妙な部位だから、血液の固まりを取り除く手術は、先生もしたくないみたいだわ。おそらく二週間ほどで自然に溶けて流れ出すだろうから、それまで待ってみようってとこかしらね」
「そうですか……。仕方ないわね」
「そうね。全部で三ケ月もすれば終わるんだから、長い休暇だと思ってゆっくりすることよ」
 看護婦は、茉美を力づけるように笑顔を絶やさずに言った。自分よりも少しばかり歳上のように思える看護婦の言葉に、茉美は心が暖まるような気がした。
 そして看護婦は、
「改めて自己紹介しておくわね。私があなたの担当になります。名前は坂田美樹。よろしくね」
と自己紹介してみせ、右手を差し出してきた。茉美も体に掛けられている毛布の下から右手を差し出そうとしたが、その手は動かなかった。茉美の様子をみていた坂田美樹は、あっ、という声を出すと、慌てて自分の手を毛布の中にもぐりこませた。しっかりと茉美の手を握った美樹の手は、とても温かいものに思えた。
「ところで、御家族の方に連絡したいんだけど、電話番号を教えてもらえる?」
「あの……家族はないんです。私が高校生の時に……」
 そう言いながら、茉美はふと、旅行の途中に事故で亡くなった家族の顔を思い浮かべていた。

 それは彼女が高校三年の時だった。
 祖父と祖母の金婚式を記念して、旅行好きの叔父が親類揃っての一泊旅行を計画した。そのバスが、山道から深い谷底へ転落したのだ。
 たまたま体調がすぐれずに家で留守番をしていた彼女を残し、親族はその事故で全て死んでしまった。祖父や祖母、父と母も。それだけではない。仲の良かった兄や従姉妹、叔父や叔母までも、だ。一瞬にして、彼女は文字通り天涯孤独の身になってしまった。
 それでも彼女はくじけなかった。落ちこみそうになる心に、死んでいったみんなの分も自分が生きるんだと言い聞かせながら、志望大学の入試にパスし、高校の頃から憧れていた、計量経済学の第一人者である教授のゼミに入ったのだ。
 今は、大学近くのアパートで独り暮らしを続けている。

「……あ、ごめんなさい。ひょっとすると、いらないことを思い出させたかしら?」
 美樹は、わるいことをきいたとでもいうような表情を浮かべ、僅かに目を伏せた。
「いいんですよ、済んだことだし。じゃ、すみませんけど、アパートの管理人さんと、大学のゼミの先生に連絡しておいていただけますか。そうすれば、あとはなんとかなりますから」
「わかったわ。連絡は間違いなく入れておくわ」
 美樹は顔を上げ、再び明るい笑顔に戻って言った。それから、少し首をかしげるようにして、こう付け加える。
「御家族がいらっしゃらないとなると……付添いの人が要るわね。こちらで手配しておきましょうか?」
「……そうですね。じゃ、お願いします」
 そう言った後、茉美は瞼が重くなってきたように思った。思わず、小さな欠伸をしてしまう。
「まだ本調子じゃないのよ。確認しておきたいことはこれだけだから、もう一度ゆっくりと眠るといいわ」
 美樹の言葉が終わるか終わらないかのうちに、茉美の安らかな寝息が聞こえてきた。その体に毛布を掛け直しながら、美樹は、茉美の寝顔を見つめていた。



 次に茉美が目を開いた時には、部屋の様子がすっかり変化していた。
 彼女が眠っている間に最後の検査が行われ、危険な兆候が現われていないことが確認されたため、集中治療室から一般病室に移されていたのだ。
 茉美の目にぼんやりと、ベッドの傍らの椅子に腰かけている人影が映った。焦点が合うに従って、その人影が三〇歳前後の女性だということがわかってくる。ジーンズとトレーナーという動き易そうな服装の上に、清潔なエプロンを着けていた。
「気がついた?」
 茉美が目を開いた様子を感じたのか、その女性が親しみ易そうな声をかけてきた。
 茉美は、ベッドに寝たまま首を数度軽く振り、もう一度その女性の顔を見た。そして、小さな声で尋ねてみた。
「……あなたは?」
「この病院と契約している会社から派遣されてきた付添い婦で、名前は田上千恵。リハビリが終了するまでは、この病室に泊まりこみでお世話をするから、なんでも言ってちょうだいね」
「……ああ、そういえば、看護婦さんにお願いしたんだっけ。小出茉美です。よろしく」
 茉美は集中治療室での美樹との会話を思い出しながら言った。あれからだいぶ眠っていたのか、頭の中がスッキリし、霧が立ちこめているような感じは綺麗になくなっていた。
 千恵は茉美の言葉に静かに頷くと、ベッドの枕元にあるスイッチに手を伸ばした。
 小さな呼出し音が鳴り、しばらくすると、スピーカーから女性の声が流れてきた。
『はい、ナースセンターです。どうされました?』
「小出さんの意識が戻りました。それを知らせておこうと思いまして」
 千恵が、スピーカーからの声に応えた。
『わかりました。すぐにそちらへ行きます』

 開いたドアから入ってきたのは、美樹だった。
 彼女は千恵に軽く会釈すると、茉美が寝ているベッドの方に近づいてきた。そして、茉美の顔をのぞきこむようにして、
「顔色は良さそうね。一応、脈と体温を計っておくわね」
と言うと、茉美の脇の下に、白衣のポケットから取り出した体温計を挾みこんだ。同時に、左の手首に自分の人差指と中指を当てる。
 しばらくして、脈と体温をカルテに書きこみながら、美樹は茉美に微笑みかけて、穏やかな声で言った。
「異常は無いようね。あとは、のんびりと回復を待つことだわ」
 それから美樹は、彼女の背後に立っている千恵の方を振り返って、言葉をかけた。
「できれば検尿をしておきたいの。小出さんのオシッコが出るようなら、連絡をお願いします」
 茉美は、美樹のその行動を不思議なもののように見ていた――オシッコを採取するなら、本人である自分に言うのが本当だ。それなのに、どうして付添い婦に言うんだろう?
 しかし、茉美の疑問はすぐに解けていた。体を動かせないからこそ、千恵が付添っているのだ。そして、おそらくは、下の世話も千恵がすることになる。だからこそ、美樹は千恵に依頼したのだ。
 その解答に思い至ると同時に、茉美の顔がまっ赤に染まった。それまでは、『付添い婦に世話をしてもらう』ということがどういうことなのか、具体的には考えてみなかった。それが、ひょっとすると随分と恥ずかしいことかもしれない、と今になって思いついたのだ。
 考えてみれば、下のことだけではなかった。食事にしても、水を飲むことにしても、茉美には何一つ自分ではできないのだ。ナースコールのボタンを押すことさえ。
 茉美は改めて、自分の置かれている状況を思いしらされたように感じた。
 が、そんなことを考えていられるうちはまだ、それを現実のこととして受け取ってはいなかったのかもしれない。そう。もっと差し迫った事態になるまでは――美樹の『検尿』という言葉に誘発されたのか、実際に尿意がおそってきたのだ。
 それでも、そのことを千恵に告げるのは躊躇われた。生まれてこのかた、他人に下の世話を依頼した経験などあるわけがない。それに、もう一人の他人である美樹が病室にいることもあっただろう。美樹が病室を出るまでは我慢しよう――茉美はそう考えていた――恥ずかしい姿を見られるのは、なるべく少ない目の方がいい。
 しかし。
 茉美のその思いは叶えられなかった。
 感じ始めた尿意は思いがけない程の急激な高まりをみせ、茉美に襲いかかってきたのだ。遂に彼女は、そのあまりにも強い尿意に抵抗しきれなくなっていた。もう、恥ずかしいなどとは言っていられない状態だった。
 茉美は、千恵に声をかけようとした。
 その口が半分も開かないうちに彼女の顔がこわばり、目が大きく開いた。
 股間が濡れてゆくのを感じたのだ。
 彼女の意志とは無関係に、膀胱の力が抜けてしまったようだった。
 彼女は口を半ば開いたまま、とめどなく溢れ始めたオシッコの流れを感じていた。それは股間からお尻を濡らし、下腹部いっぱいに広がってゆくように思えた。
 最後の一滴が出てしまうまでの時間は、彼女にとっては永劫とも思える長いものだった。その長きにわたって、『自分がオモラシをしてしまうなんて……』という思いが繰返し繰返し頭の中を巡っていた。
 それでもいつしか流れが止まり、彼女は体をピクッと小さく震わせた。
 まっ赤に顔を染めながら、彼女は、死んでしまいたいような屈辱を味わっていた。しかし次の瞬間、今すぐに答を出さなければならない問題に自分が直面していることに気がついた。それは、この事実をどのように千恵に告げればよいのか、ということだった。
 まさか、小さな子供のように泣きじゃくればすむとも思えないし、かといって、ありのままを報告するだけの勇気もなかった。
 こわばっていた茉美の顔が緩み、その口から小さな溜息が漏れた。
 すぐにでも解答を見つけだして千恵に報告しなければ、オシッコが広がり、ベッドや毛布の大部分を濡らしてしまうだろう。しかし、うまい答は簡単にはみつからない。
 あれこれと思いを巡らせている茉美の耳に、不意にピピピという小さな電子音が聞こえてきた。
 茉美は、その音が聞こえる方に首を向けてみた。
 そこには千恵の姿があった。千恵がエプロンのポケットから取り出した小さな箱から、その音が流れているようだった。そして千恵が小箱の一部を押すと同時に、それまで聞こえていた音がピタリとやんだ。
 千恵は小箱をエプロンのポケットに戻しながら、なんとも奇妙な笑い顔になって、美樹に向かって声をかけた。
「検尿のオシッコなら、今すぐに採取できるわ。ちょっと待っててくれる?」
 千恵の言葉を聞いた茉美の心臓が高鳴った。なぜかは知らないものの、茉美がオモラシしてしまったことに千恵は気づいたようだ。千恵の言葉からは、そうとしか考えられないのだ。手さえ自由に動かすことができるなら、頭の上から毛布をスッポリと被ってしまいたいたい、と茉美は思った。
 そんな茉美の気持も知らないように、千恵は美樹から離れ、ベッドの間近に立つと、茉美の体にかけられている毛布を静かに剥ぎ取った。
 茉美は、僅かに首を持ち上げるようにしながら、視線を自分の体に向けてみた。かろうじて、胸からお腹にかけての部分が目に映った。
 その茉美の様子に気づくと、美樹がベッドに付いているコントローラーを操作した。すると、モーターの小さな唸り音と共に、茉美の上半身がゆっくりと起き上がり始める。電動ベッドになっているのだ。
 ベッドが起きてゆくのにつれて、茉美の目には、自分の体が広く映るようになっていった。
 茉美は先ず、自分が身に着けているものを見つめた。それは地味なグレーの生地でできた長袖のパジャマだった。おそらくは病院に備え付けのものなのだろう。
 ふと視線を動かすと、千恵はいつの間にか、茉美のお尻の近くに移動していた。そして、茉美のパジャマのズボンを静かに脱がせ始めている。
 やがて茉美の目に、信じられないようなものがとびこんできた。
 それは、すっかり脱がされてしまったズボンの中に着けている下着だった。その下着が、どう考えてみても茉美の年齢にふさわしいものではなかったのだ。
 淡いレモン色の生地に小熊のアップリケが付けられ、両脚が出ている裾には、白いレースのフリルがあしらわれている。腰紐が強く結ばれ、幾つかのホックが並んでいるその下着は――どう見ても赤ん坊が身に着けるようなオムツカバーだった。もちろん、赤ん坊のオムツカバーでは小さ過ぎて、茉美のお尻を包むことはできない。だから、それは大人用のサイズに作られたものだろう。が、それでも、そのデザインはオムツカバー以外の何ものでもなかった。
 茉美の顔が再びこわばった。
 そんな茉美の表情を面白そうに眺めてから、美樹が千恵に言っていた。
「あら、可愛いいオムツカバーね。私が集中治療室で小出さんに穿かせたのとは違ってるわ」
「そりゃそうよ。病院に備え付けのオムツカバーなんて、ベージュかクリーム色の地味なものばかりでしょ。小出さんみたいに若い子には、もっと可愛いいのを用意してあげなきゃ。だから、彼女が眠ってる間に、私がここへ来る時に持ってきたのと取替えておいたのよ」
 千恵が微笑みながら応えた。それから茉美の方に顔を向けると、言葉を続けた。
「ねえ、小出さんも、どうせなら可愛いい方がいいよね?」
 茉美の唇がピクピクと震えた。何をどう言えばいいのかわからないまま、それでも何かを言おうとしているのだ。
 やがて、しばらくは震えてばかりだった唇がやっと開き、かすれた声が洩れてきた。
「……どうして、どうして私がこんな格好をしなきゃいけないんですか? 私は赤ちゃんじゃないんですよ。早くオムツを外しちゃってください」
 美樹と千恵が顔を見あわせた。そして、呆れたような表情を浮かべた美樹が、幼児に言い聞かせるように説明を始めた。
「でもね、小出さん。前にも説明したように、あなたの神経は圧迫を受けてて、反応がものすごく鈍くなってるのよ。だから、手や腰も自由に動かないでしょ? そしてそれは、膀胱も同じなのよ。わかる? 今のあなたは、膀胱の筋肉をコントロールできない状態になってるの。つまり、いつオモラシするかわからないってこと。だから、今はオムツが必要なの。わかるわね?」
「……」
「覚えてないだろうけど、救急車でこの病院へ運ばれてきた時にもオモラシしちゃってたのよ。その後すぐ、病院に置いてあるオムツをあててあげたの。現に今だって、オムツをあててなきゃベッドは大洪水になってた筈だわ」
「だけど……」
 茉美が反論しようと口を開いた。
 そこへ、千恵が言葉をかぶせて言った。
「だけど、じゃありませんよ。病院にいる間は、病院からの指示に従うことです。でないと、結局は自分のためにならないのよ」
 茉美は口を閉ざして目を伏せた。
 その目から一粒の涙がこぼれ、細い条になって頬を流れる。
 美樹がティッシュでその涙を拭き取り、茉美の肩に手を置いた。
 茉美はしばらく逡巡してから、それでも、コックリと小さく頷いた。
 美樹と千恵はホッとしたような表情を浮かべ、互いに目配せをしてみせた。
「それじゃ、オムツを取替えちゃいましょうね。このままじゃ気持わるいものね」
 千恵は、オムツカバーの腰紐を慣れた手つきでほどいていった。ボタンを外し、前当てを茉美の股間に広げると、オムツカバーは左右に大きく開く。
 たくさんのオシッコを吸収して茉美の肌に貼り付いているオムツを千恵が優しく一枚一枚はがしてゆくと、薄いカードのような物がその中から現われた。
 千恵の手の動きを見守っていた美樹が、あら?というような表情になって、そのカードを見つめた。
「ああ、これ?」
 美樹の視線に気づいた千恵が、カードを美樹の目の前にかざしてみせた。そして、ニコッと笑うと、楽しそうな声で説明を始めた。
「さっき、私がエプロンから取り出した箱があったでしょう? あれの発信機が、このカードなの」
 千恵の説明を聞くと、美樹が納得したような表情を浮かべて言った。
「ああそうか。それでさっき、小出さんがオモラシしちゃったのがわかったのね」
 目を伏せていた茉美の耳に、美樹のその言葉がとびこんできた。思わず茉美も目を開けて、千恵の持っているカードを見つめた。
 茉美の視線に気づいたのか、千恵はカードをゆらゆらと揺らしてみせながら、美樹の言葉に応えていた。
「そうなの。オムツが濡れたことを感知するとこのカードから電波が出て、それをキャッチした受信機が音で報せてくれるのよ。便利でしょう?」
 茉美の心が暗くなった。
 それは確かに便利な物かもしれない。ナースコールのボタンさえ自分で押すことのできない茉美のような患者の付添いをするには、特に役立つだろう。しかし、茉美の立場からみれば、それは容赦のない密告者だった。いくら隠そうとしても、オモラシを隠しておくことができないのだ。気持わるいことさえ我慢すれば、オムツを取替えられるという恥ずかしい行為の回数をいくらかでも減らすこともできるだろうに、この機械のせいで、オモラシを常に監視されることになるのだ。
 その思いに、茉美の肩が小刻みに震えていた。
 それを見た千恵が、慌てたような声を出した。
「あら、いけない。早くオムツを取替えてあげなきゃ。小出さん、震えてるわ」
 千恵が茉美のお尻からオムツを剥ぎ取ると、美樹がビニール袋に入れていった。そして、部屋番号や茉美の名前を書いたシールを、その袋に貼り付けてゆく。それが検尿に使われることになるのだろうか――その思いもまた、茉美の心に大きな波紋を投げかけるものだった――医者や看護婦とはいえ、赤の他人に、自分が汚してしまったオムツを見られるのだから。
 茉美は、ぎゅっと目をつぶった。
 茉美の沈みがちな心とは対照的に、千恵の動作はてきぱきしていた。濡れたオムツをどけてしまうと、すぐに腰をかがめて、ベッドの下からプラスチックの衣装箱を引き出していた。
 千恵がその蓋を外すと、衣装箱の中に詰めこまれている様々な布地が美樹の目にとびこんできた。箱の中身を見ながら、美樹は少し驚いたような声を出した。
「すごいわね。これ全部、田上さんが用意してきたの?」
「そうよ。さっきも言ったでしょう、『病院に備え付けのものは地味だ』って」
千恵は、衣装箱から大きなオムツを取り出しながら答えていた。それは、さっきまで茉美があてていたような純白のものではなかった。ウサギや子鹿などの動物柄がプリントされた可愛いいものだった。
 ふと開いた茉美の目に、そのオムツが映った。その瞬間、茉美は激しい羞恥におそわれた――仕方なくオムツをあてるにしても、柄のない純白のものの方が、まだしもマシだった。病院に備え付けの純白のオムツなら、それは医療行為だと納得もできる。それに比べて、こんな模様のついた可愛いいオムツだと、それこそ自分が幼児に戻ってしまったようで、恥ずかしさが増すのだった。
 しかし、千恵が用意してきたものはオムツだけではなかった。
 新しいオムツで茉美のお尻を包み終えた千恵が衣装箱の中から取り出した物を見た時、茉美の目の前が赤く染まった。全身の血が顔に集まってくるような思いがする。
 淡いピンクの生地でできたその衣類には大きな胸当てがあり、幅の広い肩紐がボタンで留められるようになっている。大きなカボチャのような形をしているお尻の下には、ボタンが並んでいた――それは明らかに、幼児が着るようなロンパースだった。
「ねえ、坂田さん」
 千恵は、衣装箱から取り出したロンパースを茉美の体に当ててサイズを確認しながら、美樹に声をかけた。
「よかったら、手伝ってもらえるかしら? ついでだから、パジャマもこのロンパースに着替えさせちゃおうと思うのよ」
「いいわよ」
美樹は簡単な返事をした。
 それに対して、まっ赤な顔を更に赤くしながら、茉美が震える声で反論した。
「やめてください。私はこのパジャマでいいんです。だから、このままで……」
 しかし、二人は茉美の言葉には耳も貸さずに作業を始めていた。
 抵抗する術を持たない茉美のパジャマのボタンを外し、力の入らない体から剥ぎ取ってしまう。その代わりにレモン色の生地にアニメキャラクターがプリントされたTシャツを着せ、その上にさっきのロンパースを着せてゆく。
 美樹が肩紐のボタンを胸当てに留めている間に、千恵は股間のボタンを留めながら言った。
「これなら、オムツを取替える時にパジャマのズボンを脱がなくてもいいから小出さんの負担も少なくなるわ。お腹も冷えないようにもなってるし」
 そして、悪戯っぽくペロッと舌を出して言葉を続けた。
「私の仕事も楽になるし、ね」
 そうして茉美の着替えを終えると、美樹が茉美の体をゆっくりと見回し、クスクス笑いながら言った。
「可愛いくなったわよ、小出さん……ううん、『小出さん』なんて他人行儀だから、『茉美ちゃん』って呼ぼうかしら。その方が、お似合いだものね」
 茉美の体がカッと熱くなった。
「じゃ、このオムツからオシッコを採取して検査しておくわね」
 美樹がそう言ってオムツの入ったビニール袋を茉美の目の前に突き出した時には、茉美の屈辱は頂点に達していた。



 美樹が病室から出て行ってから小一時間が過ぎた頃、ドアがノックされた。
 千恵がドアを開けてみると、そこには若い看護婦が立っていた。手には、プラスチック製の四角のトレイを持っている。そのトレイを千恵に見せながら、その看護婦が言った。
「検尿の結果、食事を摂っても大丈夫だということになりました。それで、これを運んできたんですけど……」
 看護婦の言葉に、千恵が頷いた。そして、トレイを受け取ると、ベッドに作り付けになっている簡易テーブルを引き起こして、その上に静かに載せる。
 看護婦を見送った千恵に上半身を起こしてもらい、テーブルの上に並べられた食物を見た瞬間、茉美は不満そうな表情になっていた。そのトレイの上には、歯ごたえのありそうなものは一つもなかったのだ。食器の中身はスープや野菜のペースト、魚のすり身といった、柔らかそうなものばかりだった。思わず、小さな声で愚痴をこぼしてしまう。
「何なの、これ。こんなんじゃ、お腹が膨れないわよ」
 それを耳敏く聞いた千恵が、たしなめるように言った。
「仕方ありませんよ。ここは病院なんですよ、好き嫌いはいけません」
「好き嫌いを言ってるんじゃないわ。もっと硬い、歯ごたえのありそうな物を食べたいだけなのよ」
「でも、内臓の負担を減らすために用意されたものでしょうからね、我慢なさい」
 そう言う千恵の口調は、茉美が目を醒まして初めて交わした挨拶から比べると、随分と高圧的なものに変化しているようだった。
 その千恵の言葉に、茉美は口を閉じた。どう逆らってみても、自分では何もできないということを改めて知らされた思いがした。
「それじゃ、いただきましょうね。私がスプーンで口へ運ぶから、ちゃんと食べるのよ」
 茉美が静かになると、千恵の態度もガラリと変わった。彼女の口調は、まるで小さな妹にでも言うように優しくなっていた。
 そうして、銀色のスプーンに野菜のペーストをすくうと、茉美の口元にそっと寄せてきた。
 さほど食欲を感じていない茉美だったが、体のためにとムリに口を開けて、千恵が運んできたスプーンを咥えてみた。その途端、今までの食欲の無さが嘘のように、胃や腸が食物を欲していることが実感された――考えてみれば、それはごく当然のことだった。事故のショックで神経が昂ぶり、食欲を感じないとしても、もう丸一日も何も口に入れていないのだ。体が食物を欲さないわけが無いのだった。
 一口目を食べた後は、茉美の口は早い動きをみせるようになった。素早くスプーンを動かす千恵の手が間に合わないほど、茉美は食物を次々に口に入れていった。それは、噛みもせずに呑みこんでいるのではないかとさえ思えるほどのスピードだった。
 しかし、やがて、茉美の口の動きがピタッと止まった。
 唇を閉じ、頬を膨らませながら、茉美は赤い顔をしていた。目には涙さえ浮かべているようだ。
 茉美の変化に気づいた千恵は、しばらく考えた後、その原因に思い当たった――おそらく、あまりにも早く食物を呑みこんだために喉を詰まらせてしまったのだろう。
 千恵はクスッと笑うと、ほどよく冷めているスープの入ったカップを茉美の唇に押し当てた。スープを飲む茉美のその動作もまた、慌ただしいものだった。そのため、今度はスープにむせ、大きな咳と一緒にスープを吹き出す羽目になってしまう。幸い、茉美の口から飛び出したスープの大半は床に落下し、ベッドや衣類が汚れることはなかった。
 しかし、茉美はゴホゴホとむせ続けていた。千恵は慌ててカップをテーブルに戻すと、茉美の背中を優しくさすり始めた。


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