鈴の音


1998年 1月




[ たずね人 この人を捜してください ]

 いつもは気に留めることもない新聞のチラシが、なぜか気にかかった。 そのチラシが、コマーシャリズムからは程遠い、安っぽいピンクの紙に黒々と印刷してあったからかもしれない。 ピントのあっていない、白髪の黒い服の老女の写真が、 ( きっと、何人かで写った写真を引き伸ばしたものだろう。 ) まるで葬儀の時の祭壇の写真のように見えたからかもしれない。そのチラシは、警察と老人ホームが、 2日前から行方不明になっている老人ホーム入所者の、87歳の老女についての情報を求めるものだった。

[ 身長130cm 体重30kg位、背中が曲がっている、黒色上着、黒色ズボン、黒色運動靴、黒色手提げ袋。 ]

 私はその写真をしばらく眺めていた。すると、次第に写真の老女が立ち上がってきたのだった。 白いショートヘアをぴったり頭に撫で付けて、黒ずくめの衣装をまとい、背中を腰から90度に曲げて、 両手を腰の上で組んだまま、私をじっと見つめている。 その目は悲しそうでもあり、私を非難しているようでもあり、何か訴えているようにも見えたが、無表情のようでもあった。 そして、くるりと踵を返すと、すたすたと歩いていき、だんだん小さくなって消えてしまった。 手首にかけた黒い巾着が、歩くにつれて左右に振り子のように揺れ、巾着の口につけられた金の鈴が < リンリンリンリン > と鳴った。


 「 こんにちはー。先生、今日は清書の日 ? 」
いつも一番に来て、一番に帰っていくタカシくんが、今日も一番最初に飛び込んできた。
「 そうよ。気合を入れていいのを書いてね。もう三段なんだから、三段の字を書かなくちゃね。 」
「 えーっ、でも早く帰らせてよ。今日は友達と約束しているんだから。 」
「 清書ができたら、すぐ帰ってもいいよ。 」
「 えーっ、鬼 ! 」
「 はいはい、何とでも言ってちょうだい。 」
 近所の小学生に、習字を教え始めて3年になる。教えることが好きなわけでもないし、 子供だからといって、みんな可愛いというわけでもないので、生徒を増やそうという気はない。 ただ、頼まれれば断ることもできないで、 今は週2回自宅で教室を開いている。
「 先生、こんにちは。 」 「 こんにちは。 」 「 こんにちはー。 」 「−−−−−。」
学校から帰った子供たちが、次々にやって来て、それぞれが自分の課題を書いて、合格した順に帰っていく。
 「 キリコちゃんは、今日おやすみ ? 」
「 学校も休んでた。 」
「 病気なのかな ? 」
「 知らない。あの人暗いから、ケッコウ嫌われてるしね。時々学校休むよ。 」
「 いじめられてるってこと ? 」
「 べつに。いじめてないよねえ。 」 「 ねーえ。 」
「 習字休んだことないのに。 」
そのとき、タカシくんが、筆を動かしながらボソッと
「 あいつ、先生が好きなんじゃないの。 」
「 えーっ ! 女子が女の人好きになるの。変態じゃん。 」
「 別に変態じゃないよ。人が人を好きになるのは自然なことよ。 」
「 あの人やっぱり変よね。 」 「 ねーえ。 」
キリコちゃんと同じ五年生のマミちゃんとミサちゃんの、共犯の忍び笑いと紅潮した頬が、私を動揺させた。
< リンリンリンリン >

 何か変だ、と感じ始めてから、キリコちゃんを観察している。道具は全部あるべきところに置いているのに、何もしていない。 両手をひざの上において、白いままの半紙の上に顔を俯けている。時々上目遣いで私を見ている。 視線を感じて彼女を見ると、さっと下を向く。 声をかけようかと思いながら、次々に書いた半紙を持ってくる子供たちの方に手を取られて、結局、キリコちゃんだけが残った。
「どうしたの ? まだ何も書いてないんじゃないの。」
「今日は書きたくない。」
「どうして ? 習字しに来たんじゃないの。」
「習字しなくちゃ、来てはだめ ? 」
「そりゃ、ここは習字教室だもの。」
黙って下を向いてしまったキリコちゃんの首が、痛々しいほど細く、血管が透けて見えるほど皮膚が薄いことに気がついて、 それが私を苛立たせた。 そこに何か強情な意思が透けて見えるような気がしたのだった。
< だいたい、この子は人の気持ちを忖度しているような、人の心を透かして見るような、ひねくれた感情を持っているんだわ。 こちらを試して、自分に注意を向けようとしているのが、見え透いてて嫌らしい。 >
 私は習字教室に来る子供たちに、深い感情移入をしているわけではないが、やはり多少の好き嫌いがある。 元気で明るい屈託のない子供の方が、おとなしく自分を表現しない子供より、扱いやすいし、話して楽しい。 元気で明るい子供というのが、現実にいるのかといえば、そんなのはこちらの幻想に過ぎないのだろう。 私が一番気に入っているタカシくんだって、この教室に来始めた二年生のころは、チビッコギャングそのままに、 エネルギーが自分の小さな世界から溢れ出すように見えたものだったが、五年生の今は、私との間に垣を作っているのがよく分かる。 それでもタカシくんの表現はストレートで、私にとって負担の少ない子供であることに変わりはない。
 キリコちゃんは挨拶以外は、自分から口をきくことがない。 話しかければ答えるが、それもほんの一言だけで、表情も硬いまま笑顔を見せることもない。 それなのに、もう三年も、一回も休まず教室にやってくる。習字が好きなのかとも思うが、熱心に書くわけでもない。 このところ、ますますやる気のない態度で、クズクズと最後まで残っていることが多くなった。
 壁の時計に目をやると、五時四十五分を指している。
< ああ、もうこんな時間。今から書かせると何時になるか分からない。 >
「 キリコちゃん、今日は書かなくていいから、片付けなさい。 」
キリコちゃんは俯いたまま、何も反応しなかった。私はその態度にカッと熱くなってしまった。 机の上の道具類をさっさと片付けながら、彼女に対する怒りを外に漏らさないようにするのが精一杯だった。 キリコちゃんはその間も身動きひとつしないで俯いていた。道具をしまったバッグを渡しながら、
「 ハイ、もういいから帰りなさい。 」
しかし、彼女はやはり俯いたまま動こうとはしなかった。私は怒りを抑えながら、
「 それじゃ、好きにしていいから。先生は夕ご飯の支度をするので、もう向こうに行くからね。 」
 それから三十分ほど経ってから、和室のふすまを開けると、キリコちゃんはいなかった。 私は怒りの余韻の中で、彼女の白く細い首筋を思い出していた。
< しかたなかったのよ。何も言わないから、分からないし。 >
しかし、後ろめたい想いを拭い去ることはできなかった。


 今までなかったのに、黒っぽい塊がそこにあることに、今気がついた。目を凝らすと、それは生き物のように感じられた。 無機物じゃないという感じ。何なのだろうとますます目を凝らすと、動いているようだ。気味が悪い。一体なんなの。 でも動けない。どうしたんだろう、私まるで金縛りにあったみたい。逃げ出すこともできないし、目をそらすこともできない。 黒い塊は次第に膨らみ、朝のチラシの老女になった。 < リンリンリンリン > と鈴が鳴る。なんなの ? 私に何か用事があるの ?  問いかけたのに、自分の声が聞こえない。どうしようもないパニックに襲われて、ギャーと叫んだ。途端に目が覚めた。嫌な夢。 昔から、嫌な夢を見ると、ギャーと叫んで目が覚める。
 スタンドをつけて隣のベッドを見ると、夫も眉を寄せて、あまり幸せそうではない表情で眠っている。 やりきれない気分が眠気に取って代わった。ローブをひっかけて、キッチンに下りていき水を飲んだ。眠れそうな気がしない。 どうして、あのおばあさんの夢なんか見たんだろう。 あのチラシを見たとき、老人性痴呆のおばあさんが、自分の居場所は老人ホームではないと思っているんだろう、 きっと、自分の居るべき場所を探しに出かけたんだろう、と思ったのだった。それがどうして、あんなに気味の悪い夢になるのかしら。 あの鈴の音も気に障ってしかたない。
 私は一つのことに拘り始めると、それが自分の中で解決してしまうまで、そのことから逃れられない。 こんなとき、それにかかわるのを後回しにしたり、ただ忘れようとしても、自分の心の深い場所にそのままの形でとどまり、 思いがけないときにスーッと表面に浮かび上がってくる。 自分の中で解決しない限り、いつまでもそれは私をチクチクと刺激するのだった。 この頃はそういうことも分かってきて、自分の心が何かを発信してきたときには、それが何なのかを見極めようとする。 居場所を探しているおばあさん。居場所、居場所、誰もが持っていると錯覚している居場所。 もし持っているとしても、ひどく不安定で脆いもの。 キリコちゃんの首のような。 ああそして、あの小さなJRの駅の ( あのころは国鉄と言ったっけ。 ) 待合室の木のベンチに座っていた結城小夜子のように。


 1970年2月 夜10時 学生ばかりが住むアパートの共同台所。真ん中の大テーブルの周りに5人の女子学生が座っている。
「 警察から大家さんのところに電話があったんだって。このあたりの学生アパートの大家さん全部に連絡したらしいよ。 」
「 どうして全部に ? 」
「 何にも言わなかったらしい。駅員さんがいろいろ訊いたけど、一言も答えなかったんだって。それで困って警察に連絡したって。 」
「 彼女、今どうしてるの ? 」
「 家の人が迎えにきて帰ったのよ。家に。今日の午前中。 」
「 昨日のいつ頃のこと ? 」
「 何時ころに来たかは分からないらしい。気がついたのは7時過ぎていたみたい。 ずっと同じ場所に座っている女の子がいるなあって、思い始めたのがね。思い出せば、夕方の混雑していたころにはいたような気がするって。 」
「 彼女、どうするつもりだったんだろう。家に帰りたかったのかしら ? 」
「 それなら、帰るんじゃない ? 子供じゃないんだから。 」
「 じゃあ、どうして駅にいたの ? 」
「 どこかに行きたかったのかも。でも、行くところはなかった。 」
「 どこかって、どこよ ? 」
「 そんなこと知らないわよ。どこかここじゃないところ。 」
「 それより、大家さんから聞いたこと全部話して。駅員さんが7時過ぎに彼女に気がついて、それからどうしたの ? 」
「 それから、気にして観察していたらしい。彼女、待合室の木のベンチに座って、身動きもしないで、自分の手を見ていたんだって、 膝に置いた。その様子が少し変だと思って、近くまで行ってみたけど、バッグも持っていないし、人の気配に目も上げないので、 やっぱり変だと思って、声をかけたらしいの。 『 誰かを待ってるの ? 』 とか、『 電車に乗るの ? 』 とか。 でも、何にも答えないどころか、全然反応しなかったので、困って、警察に電話したのよ。 それで、警察官と一緒にいろいろ訊いたけど、やっぱり何にも反応しないので、きっと**大学の学生だろうけど、 大学の事務の開いている時間じゃないから、この近辺の学生アパートの大家さんに電話して、特徴を言って、 心当たりのある大家さんに駅まで来てもらったんだって。 」
「 ふーん、ここの大家さん心当たりあったんだ。 」
「 ううん、そうじゃなくて、女子学生に貸している大家さんは、みんな行ったのよ。 」
「 そう、それじゃこのあたりは、今この話で持ちきりだろうね。 」
「 ねえ、それで、彼女は結局何にも言わなかったの ? 」
「 言わなかったのよ。大家さんの話では、目がうつろで誰のことも分からないようだったって。 」
「 そういえば、彼女、この頃少しおかしかったと思うな。 」
「 うん、私もそう思う。突然夜中に大掃除始めたこともあったわ。 あんまりうるさいからドア開けてみて、びっくりした。夜11時過ぎなのに、部屋の中のもの全部廊下に出しているの。 なにしてるの ? って訊いたら、掃除よって平気で言うの。掃除は昼間したほうがいいんじゃない ? って言ったらね、 今しないと息ができなくて死んでしまうって。 」
「 そうそう、洗面所でよく手を洗っていたね。ひたすら手を洗うって感じ。くっついて取れない汚れがあるみたいに。 」
「 そうなの。私、そんなこと全然知らなかった。 」
「 彼女、あなたの部屋、時々訪ねていたんじゃないの ? 」
「 来てたけど、私、彼女のことあまり気にしていなかったのよ。 なにか気に障ることばかり言って、こっちがむっとすると、さっと帰ってしまうの。 」
「 気に障ることって ? 」
「 私に対する非難。 」
「 どんな非難よ ? 」
「 たとえば、大学サボって、デートばかりしているあなたみたいなのが、大学の品位を落とすんだとか、講義に出ないで単位を取るのが許せないとか、 あなたにどうして彼ができるのか不思議だとか。 」
「 かなり強烈だね。 」
「 だからあまり気にしていなかったのよ。彼女がなに考えてるのか、興味なかったの。一風変わった人なんだと思っていたから。 誰にもあんなふうなんだと思ってた。 」
「 一風変わっていたのは確かだけど、私の部屋を訪ねてきたことはなかったよ。 」
「 私のところも。 」
「 彼女、あなたのところしか行かなかったんじゃない ? 」
「 そうなの ? それじゃ、私にも責任があるのかしら ? もっと親身に彼女を受け入れなくてはいけなかったのかしら ? 」
「 それなら、それなりの態度があるんじゃないの ? 子供が駄々をこねて、人の注意を引こうとするようなことばかりしてたんでしょう ? 付き合いきれないわよ。 」
「 そうそう、気にすることはないわよ。 」
「 そうかなあ。本当にそうかなあ。 」
「 ーーーーーーーー 」

 そう、その日も結城小夜子は、私の部屋を訪ねてきたのだった。彼女は、私が出かけるのを見計らったように、私の部屋のドアをノックした。 彼女のノックの仕方は変わっていて、最初の1回がドンと大きく、その後気の抜けたようなトントンという音が続く。 しかも最後のトンは、叩いたか叩かないか分からないような消え入りそうな音になる。 私はそのノックを聞くと、いつも大きな土の塊を飲み込んだように、胸の中に黒くて重い物質が広がっていくのを感じた。
< また来た。私が出かけるのを邪魔するつもりなんだ。約束の時間まであと1時間しかないのに。どうせなかなか帰らないんだろうなあ。 >
ドアを開けると、いつものように目に皮肉な光を宿らせて、顎を突き出して私を見ている結城小夜子がいた。
 「 悪いけど、私今から出かけるの。何か用 ? 」
彼女は一瞬私を見つめたが、気を取り直したように、
「 ケーキを買ってきたのよ。一緒に食べようと思って。 」
私は、自分の狭量を恥じて、彼女を部屋に招じ入れた。きっと、30分くらいで帰ってくれるだろう、と期待しながら。 30分あれば、約束の時間に少し遅れるくらいで着くだろう、彼はきっと待ってくれているだろう、と。
 インスタント・コーヒーをいれ、小夜子の買ってきたケーキを皿に移してテーブルに置いたが、 その間小夜子は何もしゃべらず、キョロキョロと部屋の中を見回していた。
「 じゃあ、ケーキ頂きます。 」
「 ねえ、あのジャケット買ったの ? 」
小夜子の視線の先を追うと、出かけるときに着るつもりで、ハンガーに吊るして壁にかけておいた、鮮やかなブルーのジャケットがあった。
「 うん、バイトのお金が入ったのでね。 」
「 きれいな色ね。ちょっと着てみていい ? 」
「 いいよ。」
嬉しそうにジャケットを着て、ためつすがめつしている小夜子を見ていると、私は次第に不安な気分に落ち込んでいった。 小夜子はしばらくそうしていたが、急にぴたりと動かなくなり、じっと自分の買ってきたケーキを見ていた。 私はますます不安になり、
「 ねえ、もういいでしょ ? それ買ったばかりで、今から出かけるときに初めて着るのよ。 」
と言うと、小夜子はすっとケーキから目を上げて、
「 これ、私にちょうだい。ケーキと交換。 」
< ああ、やっぱり、そうくるだろうと思った。いつもいつもそうなんだ。私の嫌がることばかり思いつく。 >
私は押し潰された気分を引き立てるようにして、
「 だって、あなた素敵な紺のジャケット持ってるじゃない ? 」
「 あれあげるから、これちょうだい。私の方がこれ似合うわ。 」
「 お願いだから、いい加減にして。私、出かけたいのよ。悪いけど帰ってくれる ? 」
「 じゃあ、これもらって帰る。 」
小夜子は憎々しげに言うと、立って帰ろうとした。 私は怒りがふつふつと沸き上がるのを感じて、後ろからジャケットのベルトをつかんだ。小夜子は重心を失って、床に尻餅をついた。 そして、その姿勢のまま、動こうとはしなかった。私は怒りと動揺で何がなんだか分からなくなり、逃げるように自分の部屋から飛び出した。
 その日約束していた男は、退屈な会話と見え透いた下心で、私の気分をますますい苛立たせた。 自分のアパートに誘うのを振り切って、アパートに帰ってみると、私の部屋に小夜子はいなかった。 いる訳がないと分かっていたのに ( あれから、3時間もたっているのに、いる訳がない。 ) 、 もしかすると、倒れた姿勢のまま、まだいるんじゃないかと半分恐れ、半分期待していた。 いないのが分かるとほっとして、部屋を見回すと、ブルーのジャケットがきちんと畳んで置いてあった。 その畳み方の神経質な繊細さに、私は胸がつぶれるような気がした。


 結局、結城小夜子は大学に戻らなかった。あれから噂さえも聞かなかった。まるで結城小夜子という人間が、存在しなかったかのように。 彼女とは学部も違い、共通の友人もいなかったし、アパートの学生たちも、あれから誰も彼女の話題を出さなかった。 私は、自分に大きな責任があると感じていたが、 しかし一方で、彼女自身の問題で私には責任のとりようがないという、自分の中の声を聞きたがっていた。 彼女のその後を知りたいという思いはあったが、彼女にとらわれたくない気持ちが、自分から話題にすることを避けていた。 そのうち、彼女の部屋に新しい学生が入ると、私の意識の表層から次第に彼女は消えていった。
 あれから27年が過ぎて、私は今日まで一度も、結城小夜子のことを思い出さなかったことに気がついた。 今となれば、彼女は実態を持たない、印象だけの存在でしかない。 ただほんの一瞬、私の青春の時間を共有した、数多くの男や女の中の一人に過ぎない。 それが何故、今、私は戸惑っていた。彼女がJRの小さな木のベンチに座って、じっと自分の手を見つめている姿が、 実際に見たわけではないのに、ありありと目に見えるのだった。あの時、彼女は何処に行こうとしていたのだろう。 私の部屋から逃げ出して。彼女は何故私の部屋に来るようになったのだろう。来た時はいつも、硬い表情のままほとんど笑わなかった。 話題もなく、黙ったまま部屋の中を見回していた。 時々、アパートの学生たちの噂話をしたが、誰かの顔が気に入らないとか、誰かの洋服が野暮ったいとか、そういう他愛もないことを、 憎しみを込めてはき捨てるように言った。私が反論のようなことを言うと、ヒステリックに私を非難した。 あの集中攻撃のような私への非難は、私をいつも滅入らせたのだった。だから、私は彼女に心を開かなかったのだ。 なるべく彼女に会わないように、アパートにいる時間を少なくしようとしたし、部屋にも入れないように理由を作った。 私はいつも彼女を避けて、その存在を無視しようとしていたのだ。彼女はそれに傷ついていたのだろう。 私の心の表層に、自分の爪あとをつけようとしていたのかもしれない。 しかし、私は、それを拒み続け、最後には暴力で自分を守ろうとした。自分の何を守ろうとしたのだったか。 自分の日常のリズム ? 自分の心の平安 ? そうやって守り続けて、今の日常があり、平安がある。 気味の悪い夢を見て、明け方のリビングに、一人眠れないで座っている平安な日常。

 気がつくと、小鳥が囀り始めている。カーテンのグリーンとオレンジの縞を朝日が洗い、幻想的な美しさを見せている。
「ああ、きれい。」
口に出して言ってみると、気に入ってかけたカーテンが、私の知らない生き物のように感じられた。 光の魔術で、命を与えられたのだ。カーテンの裾の方だけに当たっていた光が、次第に上の方に上っていき、 部屋全体がオレンジの光に満たされていった。 まるでカーテンがオレンジの色の光を発しているような煌めきが部屋の中に満ちて、私はその美しさに圧倒されていた。  光の魔術は、朝日が昇りきると終わりを告げ、カーテンもいつもの見慣れた物に戻ってしまった。 そして、光は、いつもの見慣れた部屋を浮き上がらせ、いつもの日常を思い出させた。 しかし、私は、そのカーテンを、今までの物としてではなく、特別な物として感じるようになっていた。 その上、なぜか、黒い老女や、結城小夜子や、キリコちゃんが、特別な存在として私の中に住み始めたのを感じていた。 もう誰からも逃げ出さないで、面と向かおうと思っていた。

 墨の香りが立ち始めた。硯と墨に水を与えると、初めはギクシャクとお互い馴染みにくそうにごつごつ当たりあっているのに、 それでも水を良い加減に補いながら磨り続けると、次第に滑らかに墨が動き始める。 水は初めの透明な硬さから、次第に薄ねずみ色に変わり、濃い墨色の柔らかな墨液へと変わっていく。
<ああ、墨を磨るのは、こんなに気持ちが穏やかになることだったんだ。>
子供に教えるようになってから、いつも墨汁を使ってきた。時間がないことを理由に、楽な方へと流れてきた。 それは時計の時間を稼ぎ出してはくれたが、内部の自分自身の時間を磨り減らしてきたのではなかったか。 ぎすぎすと時間を気にして、子供たちを追い立て、締め切りを気にして、子供の時間をもぎ取ってきたのではないか。 キリコちゃんが、習字をそれほど好きでもないのに、三年もの間一回も休まず、自分の所に通ってきてくれたことを、 喜ぶことのできない自分を恥じた。 墨ばかりではなく、お手本も、自分で書いたものを子供に渡したことはない。毎月、私の師から人数分のコピーが届く。 コピーでは、字の形や配置は分かるが、字の息遣いのようなものは伝わらない。 私の書いた字の息遣いを、キリコちゃんに感じてほしいと、墨を磨っている。 五年生の新しい課題は、
「 新光 」
目を閉じて、「 新光 」 に意識を集中すると、オレンジとグリーンの光が交錯して、グリーンの野に煌めく朝日が見えてきた。 草の葉にきらきらと水滴が遊んでいる。ひんやりと冷たくて透明な光、鮮やかな光、命を与える光。 目を開いて、深呼吸をして、「 新光 」 を書き始める。イメージが薄れないうちに、一気に書いた。白い半紙が、黒い線に切り取られていく。 字からイメージを与えられる時には、字が半紙から起き上がってくる。

 書いた半紙を紙ばさみに入れ、キリコちゃんの家を訪ねた。もう、学校から帰っている時間だった。 郊外の新興住宅街の一画、小さく切り取られた地面の上に、こまごまといろいろなものがひしめき、 人の欲や情念が透けて見えるようで、外から家を眺めるのに、いつまでも慣れることができない。 そんな中の、一軒の家のチャイムを押すと、キリコちゃんのお母さんがドアを開けた。 少し驚いたような顔のお母さんは、キリコちゃんの目を持っていることに初めて気がついた。
「 こんにちは。昨日、キリコちゃんお習字お休みだったので、どうしたのかと思いまして。 」
「 まあ、わざわざそのためにいらしてくださったんですか。申し訳ありません。 」
「 いいえ、それに新しいお手本が届きましたので、それも届けに。キリコちゃん、帰っていますか ? 」
「 ええ、いることはいるんですが。 」
躊躇した様子で、言葉を濁しながら、
「 少し、お待ちくださいね。 」
と、お母さんは、二階へ上がっていった。しばらくして戻ってきたお母さんは、申し訳なさそうに、
「 すみません。どうしても会いたくないって言うんです。本当に申し訳ありません。 」
私は、自分が自分本位に浮かれていたことに気がついた。拒否されるとは思っていなかったのだ。 お母さんは、私の様子を見ていて、思い詰めたように、
「 実は、学校も休んでいるんです。もう四日になるんですが、どうしても学校に行かないと言いまして。 担任の先生もお友達も来てくれたんですが、会おうとしませんし。昨日は、お習字だけは行くかと思ったんですが。 お習字はとても好きなようでしたから。 」
私はそれを聞くと、心臓をぎゅっと掴まれたような気がして、自分の顔から血の気がなくなったように感じた。 自分の動揺に気づかれまいとして無理に笑ったら、口の周りがぴくぴく動いた。 気持ちを引き立てるようにして、持ってきたお手本を渡しながら、
「 お家で書いて持ってきてもらってもいいですし。来週は待っているからと伝えてください。 」

 何も知らないお母さんが、詫びと感謝の言葉を浴びせる中を辞した私は、傷ついていた。
< リンリンリンリン >
と耳鳴りがする。団地の坂道を足早に下りながら、
< こんなことするんじゃなかった。あの子のことなんかほっとけばよかった。 >
と思っていた。
 そのとき、フーッと風が頬を撫でた。五月のキラキラした風が私の足を止めさせた。 空を見上げると雲一つない青が広がっている。自分の心が、弱くちっぽけだと笑われているような気がした。 拒否されることに慣れていない自分に気がついた。拒否されるような立場に自分を置かないように、生きてきたのだ。 自分が拒否することによって。そのために結城小夜子を傷つけ、キリコちゃんも傷つけたのだった。 誰かと関わるということは、お互い少しずつ傷を分かち合うということなのかもしれない。拒否されることにも慣れなくちゃ。 一回だけじゃなく、キリコちゃんがまた習字教室に来てくれるまで、毎月お手本を書いて持っていこう。 そう思うと、耳の中の空気がポンッと抜けた。


 その日の新聞の地方版に、小さな記事が載った。
[ 今月5日に、** 町の老人ホーム 「 長寿園 」 から行方が分からなくなっていた林イクさん ( 87才 ) が、7日午前11時ごろ、 ** 山中で、無事保護された。警察・消防・地元のボランティアが、6日から** 山を捜索していて見つけた。 林さんは衰弱しているが、命に別状はない模様。 ]










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