酒とワインと


 
1.濃縮と希釈   化学と生物, 37(7), 481 (1999)

 2.アル添   化学と生物, 37(8), 561 (1999)

 3.原産地呼称   化学と生物, 37(10), 652 (1999)

 4.名酒のブランド   化学と生物, 37(11), 757 (1999)

 5.原料品種の特性   化学と生物, 37(12), 784 (1999)

 6.国民酒の衰退と新世紀のライフスタイル   化学と生物, 38(1), 63 (2000)



1− 濃縮と希釈

 日本では空前のワインブームであるが,一方で日本酒(清酒)の消費量の落ち込みが業界で問題になっている.日本酒が日本人の新しいライフスタイルに合っていないとか,業界が古い発想から抜け出せないからだとか言われる一方で,ワインの消費量が増加した分清酒にしわ寄せが来ているのだとも言われている.ともあれ,このコーナーではワインと清酒を様々な観点から比較してみることにしよう.
 ところで筆者はワインしか飲まないと思っている人がいるが,そんなことはない.枕元にウイスキーやブランデーが常に置いてあるし,日本にいる限りは日本人の平均よりは多く清酒を飲んでいるのである.
 実は先日知人が往年の名酒の蔵を売ろうとしていた.買い取るくらいの金はあったので,そろそろ蔵元でもおっぱじめるかと考えたのであるが,その後の資金繰りまでは自信がなく断念した.
 閑話休題,ワインと清酒はどう違うか? 糖化の有無,平行複発酵・・・教科書に載っているようなことは書いても面白くない.勝手にポイントを絞って言わせて貰うなら,ワインは濃縮する酒,清酒は希釈する酒である.これは果実と穀物の違いを考えれば納得していただけるであろう.
 果実はなぜ甘いのか? 糖分が蓄積されているから.ではどうして糖分が貯まるのか? 浸透圧を高めて水分を導き,果実を肥大させるためである.収穫前のブドウ畑に水を撒いてはならない.水分が不足気味のブドウは糖分が濃縮され,その濃厚な果汁から良質なワインができるのである.また,果汁を濃縮することは一定の条件下で認められているが,希釈することは犯罪行為である(日本の酒税法では水の添加,すなわち希釈が認められているようであるが,ここでは触れない).
 一方,穀物は既にデンプンが濃縮されていて,そのままでは発酵しない.麹を使おうが麦芽を使おうが,充分な水を加えないと発酵が始まらない.また清酒は最初に濃く仕込み,あとで割水するのが一般的である.
 さらにはアルコールと水を添加して増量する(他の成分は希釈されていることになる)方法も一般的である.清酒は近代までは米と水と種麹だけから造られてきた.しかし戦時中,時局柄米を少しでも節約しなければならなくなり,アルコールを添加して増量することが始まった.さらに戦後の混乱期にはアルコールを大量に添加して増量し,糖類等を添加して味付けすることまでもが行われるようになったのである.そんなのは物のない時代の昔話だろうと思ったら大間違い,食糧事情が好転し,さらには米が余って困るような時代になっても相変わらず行われ続けている.これはコストの問題だけでなく,嗜好の問題にも起因している.流行の淡麗辛口とは酸も糖も少ない,要するに味がないということで,その究極の姿は甲類焼酎(アルコールを水で薄めただけの酒類)である.清酒を焼酎で割ったようなものをつくれば,それが淡麗辛口なのは当然であろう.
 逆に,ワインは味が濃いほうが上等であるし,最近の日本でも濃いワインのほうがありがたがられている.
 ワインは濃縮された酒であるというのは筆者の発明ではなく,昔から言われていることである.パリで飲み友達だった女性は,濃縮された酒を水や穀物の酒と一緒に飲んではならないと主張するので,二人でワインを飲むときには水,ビール,ウイスキーなどを一切口にしなかった.果たして筆者と彼女がどれくらい濃厚な関係であったのかは読者のご想像にお任せする.


   
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2− アル添

 「アル添」は清酒業界で日常的に使う言葉であるが,「ワイン講座」で編集部から「アルコール添加」と書くよう勧められたくらいで,一般の読者には馴染みがない言葉かも知れない.アル添とは前回述べたように清酒にアルコールを添加することであるが,これが日本酒の将来を左右しかねないほどの問題を含んでいる.
 アル添がピンと来ない人は実験してみよう.安物の純米酒か米だけの酒(米の削り方が少ないものは純米酒と呼ばない)と甲類焼酎を買ってくる.後者はアルコール度数を確認し,水で15容量%に薄めておく.この両者の味をそれぞれ確かめたら,これらを2:1に混ぜてみよう.好みによってはこれのほうが美味しいかも知れない.これがアル添酒で,原材料が「米,米麹,醸造アルコール」と表示されている比較的安価な清酒に相当する.次に両者を1:2にブレンドしてみると,さすがに味がない.ここにブドウ糖,あれば水飴を比重が0.997〜1程度になるように加えてみよう.かなり酒らしくなった.2lで千円位の紙パックはこのような3倍増醸酒である.
 もっともアル添は増量のためだけになされるのではない.フランスの最高級ワインの補糖と同様,酒の安定性や切れ味を追求すると,ごく少量のアル添は不可欠であるとの主張がある.逆に清酒は米だけで造るのだという意見も根強いが,江戸時代にも酒の安定化のために焼酎を加える技術があったとかで,それほど目くじらを立てるものでもなさそうである.実際,有名な大吟醸の多くはアル添している.
 アル添の程度を%で表すことはないが,アル添が一定以下であることの表示として「本醸造」がある.「吟醸」もアル添に関してはこれに準ずる.これらは白米重量の1割までしかアルコールを添加していないということであるが,白米からできるアルコールはもとの米の4割にも満たないから,実際には3割くらい水増しできる.大吟醸に添加する場合には遥かに少ない量であるが,本醸造のイメージで儲けるつもりならぎりぎりまで添加するに違いなく,非常に曖昧な表示である.
 アル添は酒の分類と酒税に関して問題となる.同じ蒸留酒の焼酎とウイスキーで税額が異なるのは不公平だと外圧が掛かって酒税額の改定が行われたが,清酒とワインの場合は逆にワインのほうが安い.これを清酒業界が不満に思うのは当然のことであろう.
 ここでワインのアル添について考えてみよう.日本の酒税法ではワインにもアル添できるが,アルコール度数が15%を超えるものは甘味果実酒という区分で蒸留酒並みの高い税額になる.そもそもアル添ワインは安定性を高めるためにアルコールを高くするのであり,安い税額のワインがアル添されていることは稀である.また,諸外国ではアル添ワインは日本の甘味果実酒同様,蒸留酒並みの高い税額になる.
 今,清酒はワインと同じ醸造酒であるから税額を同じにせよと主張するなら,純米酒あるいは米だけの酒をワインと同じ税額とし,アル添酒は甘味果実酒と同じにしなければ国際社会が納得しない.百歩譲っても,本醸造の基準を厳しくして安い税額を適用するのが精一杯であろう.また,焼酎に味付けしたような合成清酒というのがあって清酒よりも安い税額であるが,これなどは明らかにリキュール(甘味果実酒と同じ税額)に該当する.
 もしそんなことになったら日本の清酒消費量は半減し,合成清酒はほぼ消滅するが,これは必然の流れであろう.しかし悲観することはない.フランスでもワイン消費量が半減したが,高級ワインはむしろ増加している.真面目な蔵元の皆様は自信を持っていただきたいものである.
 余談であるが,先日ある有名な蔵元で素晴らしい3倍増醸酒をご馳走になった.話を聞いてみると,なんと普通の蔵元なら鑑評会用大吟醸にするような酒をベースにしていたのである.


   
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3− 原産地呼称

 様々な酒類にはそれぞれ有名な産地がある.日本酒なら灘,伏見,広島,新潟,意外にも南国の高知,ややマニアックなところで但馬とか,知名度は異なっても,日本全国でそれぞれ特徴的な酒が造られている.しかし,商売を考えると有名産地が有利であることは否めず,例えばブランド力の弱い播州や泉州の酒を灘の大手メーカーのブランドで発売すれば売りやすいということは誰しも考えつくであろう.
 ワインでも同じことで,無名産地のワインをボルドーとして売れば売りやすいに決まっている.フランスではこういう不正を防ぐために早くから法律が整備されていて,ある程度上等なワインは原産地呼称統制Appellation d'Origine Controllee(以下A.O.C.)等の規則に従ってつくられる.例えばBordeauxというA.O.C.ワインはジロンド県内の指定された区域のブドウでつくられたものに限られ,栽培法や成分,できたワインの成分・特徴などが細かく規定されている.さらにボルドーの中でも上等なワインができる地区や村では独自のA.O.C.が定められている.A.O.C.といっても数県にまたがる広範囲のものから,数十メートル四方の小さな畑だけに限られるものまで様々である.
 いずれにせよ,これらは伝統ある名前を汚さぬため,領域,つくり方,ワインの特徴等を細かく定めたもので,この考え方はイタリアやスペインを初め,EU各国に拡がっている.
 では日本酒はどうであろうか.清酒の原産地表示に関する法律などは存在しない.しかし業界の自主基準は以前からあり,例えば灘のメーカーが別の地域の工場で造った酒に「灘の清酒」などと表示することは禁止されているようである.
 最近日本酒の世界でもワインのA.O.C.と同様の規程を作る動きが起こり,ある業界団体がS.O.C.(Sake Origin Control 原産地呼称日本酒)なるものを定めた.これは外国産清酒をブレンドした「日本酒」を防ぐために作られたとのことであるが,恐らくはワインのソムリエの入れ知恵でA.O.C.に拘り,また理想を追い求めて厳しすぎる基準を作ったため,実際にはほとんど機能していない.
 S.O.C.の酒は国内産の米を使用し,その地域内の水を使用して,その地域内で醸造・貯蔵する.さらに厳しい基準のT.S.O.C.(伝統的S.O.C.)ではその地域の米しか使用してはならない.ここまでは至極もっともである.また,T.S.O.C.では酵素剤による糖化や液化仕込みは禁止されている.
 問題なのは,「醸造アルコール,糖類,酸味料の添加の無きもの」,さらには精白歩合は70%以下,あるいはもっと厳しい,つまり米の3割以上は捨てろということになっている(捨てなくても米粉を和菓子屋に売ればよいが).これはいわゆる純米酒の規程である.純米酒はアル添しないだけでなく,米を贅沢に使っているから高価なのであるが,実は純米酒は清酒の5%程度しか作られておらず,現状では95%もの清酒がこの点でS.O.C.の資格がない.フランスのA.O.C.の地域内ではほとんどのワインがA.O.C.であることを考えると,S.O.C.は全く清酒の実状を無視した規程であり,実際S.O.C.参加蔵元でもS.O.C.は生産量のごく一部にしか過ぎないのである.
 また,新潟県の業界団体がN.O.C.なるものを定めた.これはT.S.O.C.と似たような規程である.地元で作った規定なので多少は普及しているが,やはり多くの醸造元が対応できなかった.米の3割以上を捨てては採算が合わないと言う人が多い一方で,大吟醸には兵庫県産の山田錦が不可欠だという人もいて,いずれにせよN.O.C.は新潟の大多数の酒の現状には合っていなかったのである.さらにはN.O.C.マークなんかつけても売れるものではないという人までいては身も蓋もない.
 ワインの真似をして難しく考えるからいけないのである.アル添の有無や精白の表示基準は既にあるから,「内地産米100%」とか,「○○県産米100%」とかの表示基準から順に整備してゆけばよいと思うが如何?


   
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4− 名酒のブランド

 最近は色々な地酒や世界のワインが手に入るが,最高のワインはロマネ・コンティで,最高の清酒は○○○梅と思っている人も多いだろう.後者だけ伏せたのは,前者はフランスの法律で規定されたものであるのに対し,後者は一個人企業の商標名に過ぎないからである.この両者を比較すればワインと清酒の現状が分かるかも知れない.
 ロマネ・コンティとは何か.これはA.O.C.法で定められた畑名であり,そこで法律どおりに栽培・醸造されたワインである.これはブルゴーニュ地方で最高の畑とされ,そのワインも最高のものであるということに関して異論は少ない.醸造元は他の高級ワインとセットでこのワインを販売するが,ロマネ・コンティ単独で,異常な高値で転売されるのが実状である.ロマネ・コンティが最高のものであるとされるため需要が高く,品質の差以上に高値を呼ぶのである.金ならいくら出してもいいから最高のものを飲みたいと思う人は世界中にいる.年産数千本のロマネ・コンティが高くなるのは当然であろう.
 では○○○梅とは何か.近年特に関東地方で人気の高いN県の,ある熱心で真面目な醸造家の商標である.首都圏で1万円近くで売られている○○○梅の希望小売価格は実は2千円足らずである.蔵元を出るときは恐らく千円ちょっとであろう.蔵元は,○○○梅はあくまでもN県の地酒で,地元の人や旅行者に飲んで貰うために地元の酒屋にしか売らないと言う.ところがどういうわけかこれが最高の日本酒だという,デマにも近い情報が全国を駆け巡り,地元の酒屋から横流しされて東京で数倍の値段で売られるのである.挙げ句の果てに偽物まで作られたと聞いては,さぞかし蔵元も迷惑に違いない.○○○梅は優れた地酒には違いない.しかし蔵元が日本一優良な米や水を独占しているわけでもなければ,日本一の設備や他社には真似のできない技術があるわけでもない.すべての点で平均よりはかなり優れているだろうが,そのような蔵元は全国にあるのであって,運命のいたずらで最高の酒に祭り上げられてしまったに過ぎない.
 ロマネ・コンティが世界最高のワインの一つであることは間違いなく,常に高い価格を保ち,現在数十万円するようであるが,それでも愛飲する人がいる.一方,○○○梅の蔵元には時折,1万円も出したのに美味しくないと筋違いの苦情が来るそうである.○○○梅の本当の良さが分かった上で1万円出す人もいるだろうが,大抵の人は名前と値段で買っている.だからちょっと酒の分かる人なら1万円の酒でないことは飲んでみればすぐに分かるのである.
 ところで筆者個人としては○○○梅は好きではない.現地に旅行したときになら地元の料理と一緒に楽しみたいし,きっと美味しいに違いないが,首都圏では1500円でも買わない.筆者が好きな酒とはタイプが全然異なるのである.筆者が最初に感激した酒は兵庫県の山中にあるが,これは京阪神でも入手困難で,さらに2時間ほど電車を乗り継いで買いに行くしかない.しかしそこでも地元の人が灘の酒を飲んでいたりで,酒の好みは人によって様々なのである.
 最近関東でいい酒を見付けた.これも地元でしか買えないが,ここなら休日に簡単に買いに行ける.忙しいときには蔵元にお願いして送って貰ったこともある.ここだって全国新酒鑑評会で金賞を取ることもある蔵であるが,まったく無名なので,いつでも安く入手できるのである.
 ここで筆者がうっかり,これは北関東の有名な稲荷神社の御神酒だなどと書いてしまっても,焼き物で有名なK市の中心部が休日に酒を買いに来た他県ナンバーの車で大渋滞になったり,M線の電車が「○緑」の袋を提げた観光客で一杯になったりするような心配はなかろう.
 あるときそのK市内のデパートで○緑の大吟醸を買ってレシートを見ると「○○○リョク」と印字されていた.本当は「○○ミドリ」と読むのだが・・・.





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5− 原料品種の特性

 5年前に「カベルネ・ソーヴィニョンって知ってますか?」と尋ねたら、多くの日本人は知らないと答えたに違いないが、現在ではこの名前を知らない人のほうが少ないかも知れない。これは赤ワインの原料として世界中で栽培されているブドウ品種の名前である。一方、白ワインならシャルドネ。これらはフランスの高級ワイン産地の代表的なブドウが他の国々にも広まったもので、今や世界のワインの半分以上がこの2種類のブドウからつくられるのではないかと錯覚するほどに広まっているが、他にも優良な品種が無数にあり、それぞれに違った香りと味わいがあって楽しい。ワインはブドウにほとんど何も加えずにつくられるから、原料品種の特性がよく現れるのである。
 カベルネしか知らない人はピノ・ノワール、シラー、あるいはネッビオーロを飲んでみるといい。同じ赤ワインでもこんなに違うものかと驚嘆するであろう。ブドウは品種によって香気成分やポリフェノール等の組成が大きく異なるため、非常に多様な味わいがあるのである。また、醸造用ブドウが小粒であるのは、これらの成分が果皮や種子に多く含まれるため、果皮や種子の重量比率の高い小粒のブドウが適しているからである。十分な糖度と適当な酸があり、香気成分やポリフェノールをバランスよくかつ十分に含むブドウが優良品種として残ってきた。しかし、これらのブドウは小さくて食べにくいし、食べて美味しいブドウとは成分のバランスが異なっているのである。
 では米の品種はどうであろうか。やはり米飯用の米と醸造用の米では特徴が異なる、というよりも、しばしば逆の性質を持っている。米飯用の優良品種として有名なコシヒカリ、ササニシキ、ひとめぼれなどは概ね小粒で比較的窒素分が多い。ササニシキで酒を造るとちょっと荒々しい面白い酒ができるが、コシヒカリでまともな酒ができたという話はあまり聞いたことがない。醸造用の品種は米飯用とは逆に大粒で窒素分が少ない。そして中央に心白と呼ばれるデンプンの固まりをもっていることが多い。有名な山田錦などはこの代表であるが、これは魚沼産コシヒカリよりも高価である。フランスでワイン用のブドウが生食用よりも高いのと同じことである。
 さて、大吟醸などの上等な酒では米を磨いて削って半分以上を捨て、真ん中の部分だけを使う。こうすると米の窒素分が減り、雑味が出ないのであるが、ワインの場合とは見事に正反対である。こうすると原料米の特徴はあまり出てこないので、日本晴のような米飯用の比較的大粒の米でもそこそこの酒ができる。酒は米の特徴よりも水と酵母、杜氏の技術・・・と考える人も少なくなかろう。しかし、最近これが全くの誤りであることを思い知らされた。
 愛媛県のある蔵元へ遊びに行ったときのこと、無造作に3本の大吟醸を並べられた。どれも1万円札1枚では買えない代物である。一つは松山三井という地元の米飯用の大粒米を25%まで精白したもの、あとの二つは瀬戸内海の対岸の両雄、山田錦と雄町をそれぞれ30%まで精白したものであった。どれも同じ但馬杜氏の名人の作品で酵母は協会9号と、筆者の好きな酒の条件が揃っている。酒の分析値はどれもたいして違わない。3本とも上品できれいな造りのすっきしりた酒だろうと漠然とイメージして利いたら、一瞬絶句してしまった。松山三井は上品で繊細、悪くいえばやや個性に乏しいすっきりした酒でイメージ通り。ところが山田錦はこれぞ山田錦でございと主張しているかのごとく、この米特有のコクがしっかりと感じられた。一方雄町は更にコクがあるというか、独特のクセがあり、これまた雄町以外の何者でもないのである。
 日本酒も米の品種で大きく異なったものができる。今までメーカーがこれを主張してこなかっただけなのである。最近は徐々に品種名をうたった酒が出てきている。今後に期待することにしよう。
 子供のころ、田舎から小粒の米を送ってきた。これはきっと特殊な米だ、きっともち米だろうと母が電話で尋ねると、コシヒカリだから炊いて食えという。米というと日本晴が当たり前だった時代の話である。
   
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6− 国民酒の衰退と新世紀のライフスタイル

 日本酒の消費量が減少していることは初回にも述べたが,世界中で国民酒すなわちその国の伝統的な酒類の消費量の減少が問題になっている.フランスを始め西欧各国のワイン,イギリスのスコッチウイスキーなども消費量が大きく落ち込んでいるのである.国際化が進んだ世の中であるから,先進国ではどこでも世界中の様々な酒類が入手できるようになり,またライフスタイルも変化して様々な酒を飲むようになったわけで,昔から飲んでいた酒,言いかえれば昔はそれしかなかった酒の比率が低下するのは当然のことといえよう.一方で若者が上の世代の人間のようには酒を飲まなくなったことも見逃せない.例えばフランスの中高年ではワインなしでは食事ができない人も少なくないが,若者はビールか水かコーラで済ませてしまう.日本の団塊の世代までのサラリーマンは仕事帰りの一杯が何よりの楽しみであったが,若者はもっと別の楽しみを色々と知っているのである.
 しかしよく見ると,これらの酒が一律に減っているのではないことが分かる.フランスで水より安いワインなどは既に存在しないが,得体の知れない安いワインもどんどん減少している.しかしやや高級から超高級ワインまでは好調で,特にやや高級なワインは大きく増加している.スコッチウイスキーも安価なブレンディッドウイスキーが減り,プレミアムもの,特にシングルモルトは好調である.我らが日本酒の世界でも三倍増醸酒は激減し,純米酒や吟醸酒が絶好調−−と言いたいところだが,残念ながら全体に減少しているようである.しかし,高級酒が話題を集め,着実にファンを獲得していることは間違いない.
 ところで,様々な個性を持った高級ワインや高級清酒が出回っているのは大変結構なことではあるが,これらが完全な主役になるのは如何なものであろうか.一部のマニアは酒を重んじ過ぎるあまり,その楽しみ方を見過ごしているような気さえする.酒は食事を楽しむための脇役,百歩譲っても人生を楽しむための手段の一つに過ぎないであって,それ自身が目的であろう筈がない.『バラの騎士』の音楽
(1)のようなものではなかろうか.
 人生を十分に謳歌し,その中で食生活をゆっくりと楽しむためには,日本人のライフスタイルの変化が必要となろう.昼休みが短いのは今のご時世致し方ないとしても,明るいうちに帰宅できず,1週間程度しかない夏休みに大混雑の中を帰省したりでは食生活を楽しむ余裕などなかなか生まれないのである.21世紀に日本人の生活様式がどう変化するかによって,日本における清酒とワインの飲まれ方が大きく左右されることは間違いない.
 賢明なる読者の方々は既にお気づきのことと思うが,筆者はかなり以前からワインは「つくる」,清酒は「造る」と書き分けている.ワインは基本的にその土地に根ざした「農作物」であるが若干の「醸造」技術も必要であり、「作る」と「造る」を兼ねて平仮名で書いているのであるが,一方,清酒は良質な水のあるところへ米を持ってきて「製造」するものと考えるのである.その証拠に欧米のしかるべきワインの多くはブドウ農家自身の手で醸造されているのに対し,清酒メーカーで自社所有の水田の米を使う例は少なく,兵庫県産米を使った新潟の酒がまかり通っているのが現状なのである.
 しかし清酒が「造る」ものであるということは,それだけ「創造性」を発揮する余地が大きいということでもある.日本人の人生観がどう変化しようとも,その中で楽しめる新しい時代の日本酒を創造してゆけば,決して完全にワインに置き換えられるようなことはなかろう.現に多くの蔵元は創造性を発揮している.吟醸酒の評価については議論の分かれるところではあるが,そもそも筆者が子供のころは吟醸酒など見たくともなかったではないか.
 筆者は科学者崩れの技術者崩れのヤクザなワイン講釈師であるが,自分の酒をつくりたいという願望はなかなか捨てられなかった.フランスのブドウ畑の買収などは大それた話としても,清酒の蔵元の買収・乗っ取りを数回企て,ことごとく失敗してしまった.既に野望は捨て去ったが,情熱ある人々が一所懸命につくったワインや清酒を飲むのが何よりの楽しみである.(完)

1) 『バラの騎士』が初演された翌日,作曲者のリヒャルト・シュトラウスの家に熱心なファンが押し掛けてきて,ストーリーや舞台について散々賞賛したが,彼は音楽については一言も触れなかった.たまりかねたシュトラウス夫人が「で,音楽はどうでしたか」と訊くと,「音楽? 全然気が付きませんでした.」これを聞いたシュトラウスは思わず「ブラボー」と叫んだという.


   
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