(3)大使短信

     -55 カブース国王即位40周年の祝賀祭典

オマーンの国祭日は、カブース国王の誕生日である11月18日です。例年この日には、軍最高司令官であるカブース国王による国軍の閲兵式典が毎年国内で場所を変えて行われるのですが、そこには外交官も招かれます。その時期には、全国各地で祝賀のための記念式典や国民マーチも開催されます。  

40周年という節目の年を迎える本年は、例年と異なり、より大規模に祝典行事が執り行われました。11月18日の誕生日を内輪の祝賀会で迎えたカブース国王は、犠牲祭の休暇を間に挟んで月末にエリザベス女王を国賓として迎えました。同女王にとってオマーン訪問は1979年に次いで2度目です。英国サンドハースト王立陸軍士官学校に学び、英国に倣った近代国家を目指して国造りに励んできたカブース国王にとって、英国の国家元首からの直々の祝意は何物にも勝る喜びだったことでしょう。  

エリザベス女王がオマーンを後にした11月29日から12月4日までほぼ一週間、カブース国王の即位40周年祝典行事が盛大に執り行われました。初日の29日は、ナショナルデー・フェスティバルです。夕刻からマスカット市内のアル・ファター・グランドで国軍最高司令官としてのカブース国王が閲兵式に臨みました。ロイヤルガード、陸海空3軍、警察の音楽隊が会場に入って準備を整えた後,国王が入場しました。

            

21発の礼砲と共に国歌吹奏があり、その後、国王は音楽隊のマーチに合わせて行進する軍および警察の制服に身を包んだ兵士を閲兵します。興味深かったのは、これら近代的な服装の軍隊行進に続く、昔ながらの装束に身を包んだフィルカ(Firqat)と呼ばれる部族別の非正規戦闘部隊の行進でした。フィルカはカブース国王に忠誠を誓い、南部ドファールで内戦が続いた際、騒乱を平定する上で大いに力となった部族の人々です。全国各地からやって来たこれら民兵の数は国軍兵士の数よりも多く、服装も部族によってそれぞれ個性がありました。全員が行進を終えてグランドに整列した数は1万5997人にのぼり、その様子は圧巻でした。

    

    

 翌11月30日は、アル・アラム宮殿でカブース国王主催の茶会が催されました。国賓を招いて行われる晩餐会の会場には何度も入ったことはあるのですが、外見の色鮮やかなアラム宮殿に入るのは私にとっても初めての経験でした。昔はマスカット湾の波が宮殿の裏口まで押し寄せていたそうですが、今では一部が埋め立てられて大きな庭園になっています。茶会はその庭で、日射しが宮殿を囲む岩山で遮られる頃合いに始まりました。メインテーブルにはカブース国王が前日の式典にも参加したジョルダンのアブダッラー国王やエジプトのバドル教育大臣、ザワウィ外交担当国王顧問などと共に着席します。他のテーブルは王族席として一部指定されていますが、あまりルールにこだわりはなく、我々外交官も閣僚に入り混じって、豊富に取りそろえられた茶菓を頬張りながら夕暮れまで和やかな歓談のひと時を過ごしました。会場ではあちこちに配置された軍楽隊がバックグランドミュージックを奏でました。

 12月1日は、夜に入ってから今度は王立警察最高司令官としてのカブース国王が臨席の下、軍楽隊行進(Tattoo)が挙行されました。  

     

 式典は軍楽隊の行進に加え、叙事詩形式で国造りに貢献する国軍及び王立警察の活動が示され、アクロバットや軍事演習の実演を交えながら観衆を魅了していきます。途中で友情出演によるヨルダン軍の行進参加もありました。

      

 圧巻は、行事も終わりに近づいて夜空を飾った仕掛け花火でした。次から次へと打ち上がるこれだけ大規模で色鮮やかな花火を私はこれまで経験したことがありませんでした。折から、オマーンを訪問中の広島オマーン友好協会の一行もバドル外務省事務総長の計らいでこの式典に参加しましたが、心に深く残る思い出になったものと思います。  

 

 一連の行事の締めくくりは、12月4日にファハド副首相の主催によりスルタンカブース・スポーツコンプレックスで開催された若人のページェントです。

          

     

 全国の若者が参加して、教育、芸術、科学、遺産文化といったテーマごとにマスゲームを展開するのですが、カブース国王治世下の学術や文化の発展をうまく表現した鮮やかな出来栄えのものでした。  

      

 以上全ての行事は、いずれも見る者にとって印象的なものでした。とりわけ、各行事に参加した人々の生き生きとした表情が心に残ります。誰からも尊敬され、感謝されているカブース国王への国民の思いを凝縮したような出来事の続く1週間はあっという間に過ぎてしまったように思われました。