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今朝方はたいそう晴れ渡っていて、正に“絶好の行楽日和”って感じだったのに、今は何だかどんよりと曇ってて、
“あれって鈍色にびいろっていうんだろな。”
向かいの本屋の二階の瓦屋根の上、グレーに緑を混ぜたみたいな何とも憂鬱な色の空を、展示ケースの上に載せた腕へ、頬をくっつけてぼんやりと見やる。そんなところへ“からころ…”と突っかけ下駄の音がして来て、
「あーあ。参ったね、こりゃ。」
いつもは全開にしているのを、今日はいつ雨が降り出しても慌てないでいいようにと、半分近く閉めた、ガラスのはまった引き戸。そこに…いつものように体の端っこをぼよんとぶつけてガタガタと、近所の住まいの方から戻って来た女将さんが入ってくる。旦那さんの実家から電報が来たんで慌てて戻ってって、電伝虫で確認を取ってたらしい。旦那さんは今、少しばかり遠い山里へ出掛けてる。秋の味覚の色々を、直接契約した農家さんに取りに行ってるの。
「ただいま、。」
「お帰りなさい。」
古い店屋でさして広い間口ではないが、3段あるガラス張りの食品用展示ケースの手前、人が何人か立っていられるほどの空間はあって。お客が誰もいない今は…ちょこっと体格のいい女将さんがう〜んっと身体を延ばしても構わないほど、十分余裕がある。
「お天気ですか?」
「それもあるけどサ。」
女将さんは忌ま忌ましいと言いたげに肩の向こうをちらっと見やって、
「今さ、電話で確かめたんだけど。ウチの人のお父さんが二階の窓からおっこちたって言うんだよ。」
「え〜〜〜っ! それって…っ。」
大変なことじゃあないですかと、大声を上げかけたあたしを制して、
「い〜や、大した怪我はしてないから大丈夫。」
小さく笑いながら女将さんは肩をすくめた。
「何しろ、元は“鳶職”さんだ。年は取っても勘は良いのさ。この雲行きとさっきのニュース聞いて、慌てて雨戸に板を張ろうって頑張ったらしくてサ。落ちどころは悪かなかったんだけど、持ってて一緒に落ちたげんのう…金づちが足の上へ落ちたらしくてね。」
さっきのニュースっていうのは、3時にラジオで流された国営放送のニュースのことだろう。事件や事故や、時事に祭事。株や為替の情報と一緒にお天気のニュースも流れるからで、朝と昼と晩に細かい長いのを放送していて、昼下がりの3時と夜中の0時には主に速報を流してる。
「電話に出たのは聞き覚えのない声の人だったから、怪我の容体はともかく、そんだけ慌ててることは確かみたいだったね。」
うわぁ、こんな時にそりゃあ大変だよ、うん。
「これ、台風じゃないそうですね。」
「あんたもニュース聞いたんだね。まったく、ややこしいもんが来てくれたよねぇ。」
大きな肩を揺すってカウンターの中に入って来て、女将さんはもう一度忌ま忌ましげにガラス戸の向こうを睨んで見せる。今日のこのお天気の崩れようは、本当に突発的なもので、自然発生する低気圧や台風ではないらしいとのこと。よって、気候やその日の天気やらに合わせてきちんと計算して、いつだってきれいに売り尽くせるようにと商品を準備しちゃえるウチの女将さんに、初めての黒星をつけようとしている憎たらしい奴なのだ。
「もしかしたら“能力者”かも知れないねぇ。」
「“能力者”…ですか?」
ついつい繰り返したあたしに、女将さんは鹿爪らしく頷いて見せた。あたしだって知ってる。公けにはね、そんなあやふやな非科学的なもの、居るなんて認める訳には行かないから、どこでも発表されてはないけども。このグランドラインで生まれたっていう、食べたら色んな力をもらえる悪魔の実ってのがあって、それを食べた人を“能力者”って呼んでいる。ホントに色々な力があるのだそうで、火を吹いたり変身出来たり、津波や嵐を呼んだりも出来るっていうから凄いよねぇ。
「そんな奴が来てるってことですか?」
「そうとしか考えられないよ、こんないきなりでさ。どういう企みがあってのことか、単なる気まぐれか。まあ、あたしらには直接関係ないんだろうけどさ。」
こんな信じられないお天気になるだなんてねと、やるせなさそうな溜息をついて商品を見回し、
「まあ、これじゃあ今日は商売の方も上がったりだろうしね。早じまいと行こうかね。」
「え? でも…。」
こんな天気だからこそ慌てて帰って来た人とかが買って帰りませんか?と思ったあたしに、
「こんな天気だからこそ、お店へ寄る間も惜しいくらい早く帰ろうって勢いで、皆急ぐもんなんだよ。ご飯を炊くならそのまま握り飯にする。そうでないならレトルトとかインスタントの買い置きで済ます。」
「そういうもんなんですか?」
あたしはキャリアってものが少ないから、まだ今一つそういうのがよく分からない。だが、女将さんは“うんうん”と頷いて見せ、
「店に寄るなら、そうさねぇ。そのままお腹を満たす、ハンバーガー屋かチヂミ食堂辺りに行くだろさ。」
「女将さん、レストランチヂミですって。」
「はんっ。あんなとこ、食堂で十分だよ。」
鼻息荒く言ってのけた。あはは、まあ気持ちは分からないではないけどもね。
「そういや、こないだあすこのご主人がこの店覗いてたそうですよ。」
忙しい時間帯のことだったからあたしは気がつかなかったんだけれど、後になって乾物屋のおばさんが教えてくれたのだ。それを聞くと女将さんはますますうんざりとした顔になり、
「何を企んでいるんだか。良いね、。あんたも気をつけなよ? 何か言って来られても、あたしを通してくれって言っときな。何か無理強いされそうになったら、ここいらの者は皆んな事情に通じてるからね、助けてくれるから頼りな。」
「はい。」
何だか話が嵐からチヂミ食堂の方へ縒れてっちゃったみたいだなぁ。え? 何か遺恨とか縁とかありそうだって? まあ、時間があったら後で話してあげるよ。
「さて。じゃあ、悪いけど後は任せて良いね? 。こないだ閉めたのと一緒だよ。あたしは今から義父さんのお見舞いに行ってくる。やっぱ、顔出さないと悪いだろうしね。そうだね、もしかして泊まりになるかもしれないから、あんたは戻らずこの店で寝た方が良いかもね。」
「あ、はい。」
今はあたし、女将さんの家に同居させてもらってる。でもって、この状況下でそこに一人で帰って一人で寝るってのは確かに不用心だし、あたしも怖い。この嵐がなんだか夜中にここいらを通過するらしいって聞いたからで、
「あんな広々と空っぽな家より、声出しゃあすぐにも誰かに聞こえる此処の方がマシだろうさ。」
慣れた様子で小さめの整理ダンスから財布やら何やらを手提げカバンに移した女将さんは、割烹着を脱いでそのままカウンターを出ると、
「そうだね、あと1時間くらいかね。5時近くになっても人通りが見えなきゃあ、もう大戸を降ろして閉めて良いよ。あと、商品の方は、まあ…勿体ないけど仕方がない。教えた通りに処分しておくれな。」
「あ…。」
そうだ、それがあったんだ。
「こんな沢山ですか?」
あたしが情けない顔になったのが、仕事の多さへではなく、純粋に勿体ないと思ってるからだと判っているからだろう、
「仕方がないよ。明日に持ち越さす訳には行かないしさ。あんたの晩ご飯にいくらか食べて、後は、分かるね?」
女将さんも何だか寂しそうな顔になり、
「良いね、。ちゃんと始末するんだよ? たまにはこういうことだってあるさね。悔しきゃあ二度とないように頑張るしかない。良いね?」
重々念を押して、女将さんは引き戸を鳴らして外へと出て行った。う〜ん、これも修行かぁ。でも、勿体ないよなぁ。
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