パレードが始まる前に


   おまけ


人どおりのない時間帯なのだろう、
場末の街路は乾いた黄昏が照らす寂しげな茜色に満たされて閑散とした空気だけが漂う。
歩みをふと止め、何の気なし、外套の懐へと手を入れて、
そこにあったポケットから取り出したのは、
花札くらいという小さな小さなサイズだが、これでも手鏡で。
裏面には漆で盛るように描かれた、花びらの細い深紅の乱菊が艶やかに舞っている。
何とも華やかな意匠の小物を、
まだ大人の頼もしいそれとは言い難いが、それでも女性のような嫋やかさからは程遠い、
やや雑趣の強い手の中へと見下ろしておれば、

「敦くんに盗られてしまったね。」

何がとは続かなんだが、
見やっていた鏡を呉れた人のことを揶揄しているのは間違いない、
そんな口調の声が掛けられる。
手づから貰った折にそれが見えるところに居合わせたものか、
それとも彼の人が愛用していたものだと知っているからか。
色々と含みのある言いようへ、
言われようへもそんな声自体へも特にはっとしたような様子もなく、
落ち着いた顔を上げた芥川が その身をやや斜め後方へと振り向ければ。

 袖をまくり上げている外套の袖口から覗く包帯の白

砂色の外套をまとった随分と背の高い男が
少し長くなった冬の終わりの夕暮れ時の橙色の陽を浴びて、
掴みどころのない笑みを口許に貼りつけてこちらを見ている。
時折吹き来る風にそよぐ、まとまりのない長めの黒髪も、
額や頬へと遊ぶ髪の隙間から覗く、
やや憂いを秘めて甘い柔らかさをたたえた端正な顔立ちも、
均整の取れた長い四肢に引き締まった肢体も。
自分の前からすっかりと姿を消してしまった4年前とさして変わらぬ、
それはそれは蠱惑に満ちた印象的な存在。
なめらかな中に耳への馴染みのよい響きをまとう、
まろやかな声でそうと告げた彼は、
そのくせ、傲慢にも
返答があって当然という態度を崩しもしないし、
こちらもつまらぬ意地を張る気はなくて。

「盗られるも何も。」

最初から自分のものでなぞなかった人だと、
そこには痛手も感傷もないと端とした声を出す。
癇の強そうな、神経質そうな外見と裏腹、
それは面倒見のいい中也は、懐ろの深い誠実な男でもあって。

『泣いてんじゃねぇかよ。』

不束さを憎まれても疎まれてもついていくとしていた師匠が何も告げずに出奔し、
ああ自分は打ち捨てられたのだ、そのくらいの存在だったのだと愕然となり。
何でもないと、放っておいてと
本拠の裏のごみ溜めのような一隅でうずくまっているところに来合わせた彼の人は、
牽制に泳ぎ出た黒獣の頭を重力操作で地へ易々と叩き落すと
すぐ傍へとかがみこみ、こちらの頭をぐしゃぐしゃと掻き回し、

『好きなように寄っかかっていいからよ。』

辛い時だけ凭れるのでいい、
ちょっかい出されて鬱陶しいと突っぱねたが力足らずで転げたってことでいい。
だから、

『息の仕方を忘れちまいそうな、そんな泣き方はするな。』

痩せた背中を丸め、
せぐり上げる嗚咽が洩れぬよう、ぐうと息を押し殺し、
平気な顔を取り繕うべく、
弱さに連なる感情を全部その薄い懐へ掻き寄せ、もみ消そうとあがくような、
そんな辛そうな泣き方を叱ってくれて。

『傍に居るこっちまで力不足だと言われたようでむかつくんだよ』

だから止めなと叱りつつ、
あの小さな身で何でと思うほど、それは頼もしい懐ろへ掻い込んでくれた。
その後も何かにつけて目を配り声を掛け、
そのくせ独りになりたいときを絶妙に読めもして。

「この鏡は、振り返らずとも後ろを観ることが出来るぞと、
 そんな風に言われて貰ったんですよ。」
「……。」

任せたと託されてなぞいない、
だのに、育成半ばで放り出された鬼っ子を
型にはまった躾はせぬ奔放な構いようで
寂しくないよう凍えぬよう、見守り続けてもらっていただけのことで。

「ただし、こっちから振り向いてはいけない。
 もう十分独り立ちしているのだから、
 彼奴が正面から来たら対等な顔で見据えてやれと。」

とげとげと揮発性の高いばかりなそれと真逆、
それは穏やかな目で見やってくる彼は、
成程その風貌こそまだ少年の域を出ぬままながら、
訥々と語る口許や真っ直ぐ張った肩の線に、
何にも頼らぬでいられる、ピンと張った気概の芯のようなものが覗けもして。

「…そうか。」

一人で育ったわけではないこと、
片意地を張らずに口にできる余裕すら育んでくれたと、
あらためて思い知らされて。
ああ完敗じゃあないかと、こちらは喉奥が苦くなる。

「今更な言いようだが、君を連れ出したいと真に思っていた。」

余裕のない貧民窟で育った名残りか、
独断専行やその場で片付けば良しとする柔軟性のなさなどなど、
厄介な個性が異様な頑迷さで立ち上がっていたものを
折檻まがいの教育で完膚なきまで叩き崩して。
奸計から情報戦まで、賢い子なんだこなせるはずと、
さあここから基礎を立ち上げようという、
最低だが必要だった段取りの終焉と…
太宰自身の出奔の時期が重なったのが史上最悪のタイミング。

  不安定の極みにあった彼が、
  追っ手を撒きつつの逐電という状況に耐えられるのか

故人となった友からの“佳い人になれ”との助言で動き出していた自分には、
それ以上の無理強いが酷に思えてしょうがなく。
直前までの苛烈な折檻を知る人は多く、
そんな彼へ情など注いではないと解釈されるだろうことへと賭けた。
さりげなく窺っておれば、それもまた自身についた悪運の恩恵か、
処断を受けることもないまま中也の預かりとなり、
それが判った折はどれほど安堵したことか。

「こそりと君を見に来るたび、いつもいつも彼奴が傍に居た。」

氷雨の降る宵も、風の強い夜明け前も、
凍えぬよう飛ばされぬよう、彼らはいつも共にいた。
そんな在りようを誰へと誇示するでない、
互いを温め合うためだけに寄り添い合う様子に、

「安堵しつつも苛立ちを隠せなくて。」

いつだって偉そうにふんぞり返っていた大嫌いな朋輩の忘れ物。
勿論 根拠があっての威容であり、
この子への当たりのきつさも
深慮があっての対応であったろうと彼なりに判ってはいたろう。
いつか大成した少年が自分で意味のある躾だったと気付ける段取りに違いないと…。
だのに、何も言わずに中途で放り出すとは何事かと憤怒し、
そんなこんなから彼なりの報復を構えていたのかもしれぬ。
立派になって鼻を明かしてやれと、
根気よく刷り込むべくこの子の傍にいてくれたのかもしれぬ。
……と、やはりやはり物事素直に受け取れぬ性分の自分が、
様子見にと足を運ぶ気配をもしっかり拾っていて。
物陰から見やる姿、実はこちらもこの小さな鏡で窺ってましたよと、
そんな手妻の種明かしに頬笑む 愛し子の壮健さと、
それをじっくり育んだ朋輩の、極道の者らしからぬ廉直さよ。
乱暴者のくせに、脳まで筋肉のくせに、
さりげに尽くされていた彼からの手厚さを改めて思い知る。
勝手に見込んだのに、何も告げなかったのに、
それは見事に汲み取って完遂させてしまった
侠気あふれる朋輩への感慨を胸の内にて転がしておれば、

「僕はいつまで、あなたから打ち捨てられた遺児であればいいのですか?」

彼自身もけじめをつけられないものか、そんな言いようを差し向けられてドキリと胸が撥ねる。
こんな風に顔を出しては気持ちを弄ばれ、
振り回されているようでうんざりしている…にしては、真摯な表情には誠実な熱。
ああでも期待なんかしちゃあいけない、できる立場じゃあないだろうと、視線が下がる。

 今更私の下へおいでなんて虫のいいことは言えないよ。
 じゃあ何故、今ここへ姿を見せたのです。

中也が離れたことで傷心してやないか、
そこへ付け入ろうなんて気持ちも正直なところ多少はあって。
大人の汚いところをなりふり構わず踏板にして、何とか意気地を振り絞ったのに、
肩を落とす理由なんてないと、あっさりと畳まれては続けようがない。
今更だ今更。
ああなんて臆病な私。これ以上嫌われ疎まれるのが怖い。
影ながら見守って来たのだって、
彼の側からの拒絶がただただ恐ろしかったから。
力づくの無理強いやら、小理屈や策を弄して搦めとる術もないじゃなかろう、
だが、そんなことをして何になる。
いくら当人を略取できても、
怨嗟と向かい合って砂を咬むような思いを堪能したいとするほど悪食ではない。
合理的なら何でも正しいとばかり、
ちょっと我流にひねた理屈も並べ、そりゃあ傲慢でいられた常の強腰も今は萎え。
真っ直ぐ伸びて柔軟強靭な教え子の、真っ直ぐな眼差しにたじろいで目線を伏せれば。
彼の足元からざりという靴音がし、其方の側から歩を進めだす気配が拾えて。
呆れてこの場から去ってしまうのかと落胆半分覚悟をすれば、

“…え?”

足音も気配も、去るどころかどんどんとこちらへ近づいてくるではないか。
彼の黒外套の表面の、
外気を吸ってつるんと冴えた冷たさが下ろした手の甲へ伝わるほどに。
実は柔らかい手触りな髪のやや撥ねた輪郭が、
黄昏の茜に光るのが鼻先にようよう見えるほどに。
そうまで近くへ寄ったところでやっと立ち止まり、
だが、手は下ろしたまま、視線もやや下ろして立ち尽くす彼で。
視線で急くでなし、むしろ最後通牒でも待つような決意を飲んで、
文字通り此処まで歩み寄ってくれたというのに、

「……。」

嗚呼、総身が凍って動けない情けなさ。
虫が良すぎる、情けないと、
体の側線へ下ろしたままの両手を握りしめ、
だが、かつての頑迷さかそれとも培った我慢強さか、
じりとも動かぬいとし子の頬が覗けて、
ああ、そういえば最後に触れたのって、
殴りつけてという格好ではなかったかと不意に思った。
慈悲がないにもほどがある、そんな仕打ちをした男へ。
ついてくれば強くしてやると約した誓いを反故にした男へ、
それでも許そうと歩み寄ってくれていて。

「……。」

それを思うともう止まらなかった。
寒さに凍ったかぎこちなくしか動かぬ腕を、その先の手を持ち上げて、
かつてよりは背丈も伸びたがそれでもまだまだ細い背へと伸ばす。
くるりと抱き込み、余った腕の先を頭へ回し、
変わらず柔らかな髪ごと懐へ掻い込めば、

「っ。」

その刹那、ひくりと震えた痩躯が、だが
凍ったように固まって、立ち尽くしてから。

ゆっくりとゆっくりと

「…。」

ゆっくりと腕を伸ばしてきて、
こちらの二の腕の下から背中へ手が回され、ぎこちなくしがみつく。
もう何処へも行かないでとすがるように思えたのも一瞬。
ああでもそんな弱い子ではなくなったのだなと噛みしめる。
お互いの冬物の着衣の仰々しさが邪魔なような、
そんなもどかしさごと、温みも震えも、小さな嗚咽も、
何一つも取りこぼさないように抱きしめれば、

「太宰さん。」
「…うん。」
「太宰さん。」
「何だい? 芥川くん。」
「太宰さん…。」

声に出して呼べなかった4年分。
本人へ掛けられなかった4年分。
何度も何度も呼ばれるのへ何度も何度も返事して。
時折焦れたようによじれたり、嗚咽に掠れるのも愛しいと、
咳き込めば背中を撫ぜてやりつつ励まして。
ああ、勝手に生き急がなくてよかったと、
恐らくは生まれて初めて実感した太宰だった。



   〜Fine〜  17.03.23.〜03.31


 *中也さん以外が微妙にヘタレ揃いなお話になりました。
  僕(やつがれ)くんの口調が最後まで分からなくて安定しませんでした、すいません。
  そもそも、ようつべで“あんねくらいね”という文スト動画を見て胸打たれて書き始めたのですが、
  鏡花ちゃんが出てこないでこんなキャスティングになったのはひとえに私の歪んだ思考から。
  中也さんが好きすぎて、苦手だったMMD動画まで観ている最近です。


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