月夜に躍る


 
          



 濃紺のインクを吸い上げた色ガラスのような夜空には、ぽつんと大きな下弦の月。人々が寝静まった夜更けの町角。どこか遠くで、誰かが蹴っ飛ばした空き缶の転がる、あっけらかんとした空虚な音がした。冬という季節ではあるが、この辺りは雪が降るほどまでには気温が下がらない。確かに風はぴりひりと、透明な薄氷のような感触をはらんで冷たいが、空気は乾き切り。この中を行こうものなら、まるで冷えたびろうどの暗幕を掻き分けるような肌触り。
「…ちっ。」
 場末も場末、居並ぶ古びた建物たちに誰かが住んでいるような気配や温もりがまるで感じられないほどの町外れの夜陰の底に、どこからか軽やかな足音が聞こえて来た。たかたかとどこか楽しげな、ステップでも踏むような速足の足音。こんなにも人気のない夜更けには何とも不似合いな、幼い子供が遊び場にでも出掛けるようなリズミカルな駆け足の音。それだけでも充分に不審なのに、それを追う気配も続くからますます不審だ。
"ったく、何の恨みがあってっ。"
 追っ手もまた、結構な健脚ではある。しかもこちらは、どういう技だか、まるで足音がしない。見やればごくごく普通の、いやいや…かなりがところ一所懸命な駆け足だのに、特別な靴でも履いているのか、それともそういう修行を積んだ胡散臭い人物なのか。すたたた…とも、かっかっかっ…とも、何の響きもないものだから、幽霊が追っているように見えるかもしれないほど。健脚同士の深夜の駆けっこは、なかなか差が縮まらない好ゲームではあったのだが、
「…あ。」
 先を逃げていた側がひょいと飛び込んだ路地の突き当たり。行く手に立ち塞がったのは、2メートル以上はあろうかという金網フェンスである。寂れた場末に残されたものにしては頑丈そうで、穴もほころびもない代物だけに、
"しめた。"
 追っ手の側が、この高さでは到底越えられまい、小柄な相手をやっと追い詰めたと思ったのも束の間、
「えいっ。」
 フェンスの際からその真上へ、ぶんっと振られた腕の先。薄闇の中にちかりと光った何かが夜陰を撥ね上がり、遠くで"かつん"と微かな音が。くいぐい引いて手ごたえを確かめた少年は、そのまま体重をそちらに任せ…ひょいっと軽快にジャンプ一番。眼前の菱形金網を四辺で固定している一番上のフレームの上まで、一気に飛び上がったから堪
たまらない。
「あっ、このやろっ!」
 往生際が悪いと言おうか、どこまでも逃げて躱し続けられる機転が…憎たらしいまでに周到だと言おうか。彼の手にあるのは警棒くらいだろう、短めの特殊な竿が一本。途轍もなく丈夫な釣り糸を仕込んであるそれで、どこか高みへ鈎ぎ金具を引っかけてそれを手掛かりに2メートルもの高さをものともせず、垂直に飛び上がった彼であるらしい。あっと言う間に駆け上がったフェンスの頂上から、やはり軽快に飛び降りて。網越しの向こう側、ブンッと再びスナップを利かせて手首を振って見せ、ワンアクションで長く繰り出した釣り糸を鮮やかに引き戻す。それから、
「どしたの? 疲れちゃった?」
 うくくと笑みを含んだ声でわざわざ訊いてくる意地の悪さよ。大きな眸に表情豊かな口許。此処は夜更けの場末であるというのに、遊んでもらってでもいるかのように、いかにも楽しげな言いようをする少年。こんなに間近にいるというのに、鋼鉄製のフェンスが阻んで捕まえられない歯痒さに、牙を剥きかねないくらいにギリギリと憤懣の籠もった顔をして見せる男へ、
「じゃあ、今夜の獲物も、俺が貰っちゃうからね。」
「…っ!」
 小さな手の先、ぴんっと宙へ弾かれたのは。こんな薄暗がりでもそれと分かるほどの綺羅らかな光を放つ、随分と大ぶりなオーバルカットのサファイアだ。落ちて来たそれをぱしっと横ざまに握り取り、
「じゃあね。大怪盗の"剣豪"さんvv」
 バイバイと幼い仕草で手を振って。くるりと背を向け、去ってゆく。早く帰らなくちゃお母さんに叱られるからと続きそうな、あっさりとした口調なのがまた、いっそう腹に据えかねて、

   "あんのクソ餓鬼〜〜〜っ!"


 一体誰が信じるだろうか。これで、今夜で7件目。天下に名を馳せた有名怪盗の鼻を明かして、あんな小さなお子様が世界に名だたる秘宝や宝石を片っ端から横取りし倒していようとは…。



            ◇



 とりあえず、存在感のある男だ。今時の若造たちには在り来り
(ありきたり)なものと解釈されるのをいいことに、染めているのだと誤魔化している緑の髪を短く刈って、左の耳朶には3連の棒ピアス。グレーのジャケットはもう随分と着込まれた古びた品らしく、中に着ているトレーナーも襟ぐりが伸びかかった、ある意味で"年代物"。ボトムは黒地のワークパンツに、こちらも古ぼけた傷だらけのワークブーツという、流行も何もないくらい、それはそれは地味に拵こしらえているのに。そしてそういう格好こそが、このどこか寂れた場末の町角には"天然迷彩"のごとく馴染みやすい服装でもあるのに。何かの拍子、顔を上げた彼の眸と視線がかち合った者は…よほどの大馬鹿な世間知らずででもない限り、慌てて顔を背けるほどの、強靭な威圧をその雰囲気の中に秘めている。あまり動かぬ表情。刃そのもののような、冴えて尖った瞳の色。体つきも生半可なそれではない。着ているものが型の崩れかかった古着なせいで分かりにくいが、見る者が見れば…いかに無駄なく絞られた見ごたえのある体躯なのか、いかに屈強強靭か、ハッと目を奪われるほどに見事な肉置き(ししおき)をしているということが、ありありと判る。意志の強そうな、その割に表情を浮かべないかっちりした口許、シャープなラインのおとがいと首条に、頼もしい肩。長い手足との均整の取れた胸板は隆々と逞しく、ジャケットの下に力強く盛り上がった二の腕や広い背中は、今の季節ではそうそう見ることも適わないが相当なもの。着痩せして見える大きな要因だろう すっとした面差しや、ゆったり構えつつも背条の伸びた切れの良い動きが、そんな肢体を持つ彼であることを巧妙に隠していて…実はどれほどの瞬発力を秘めている男なのかの、丁度いいカモフラージュにもなっているというところか。
「………。」
 そんな彼の足が停まったのは、濃色ブロンズグラスのドアを構えたとある店。間口はさして広くはなく、通りに面した土塗りの壁には窓もない。明るいうちから"営業中"の札が出ているが、有名な酒造会社の銘柄酒の宣伝ステッカーがドアの下の方に貼られているところを見ると、夜にはバーだかクラブだか、別な商売も営んでいるらしい店だ。
「よう。」
 きぃっと、扉を微かに軋ませながら開くと、入ってすぐに見通せる奥の正面のカウンターから、いかにも気安そうな伸びやかな声がかかった。
「お早いお目覚めだな。」
 壁には窓がないものの、天窓が設けられているのと、色々と凝った作りにもなっているのだろう、店内は案外と明るい。そんな店内の最奥の壁際。腰高なカウンターの向こうに立っているのが。細身の体に吸いつくような印象の、黒いベストスーツと腕まくりをしたペンシルストライプの青いシャツ。腰には長いカフェエプロンを巻いていて、一見するとそうは思えないが結構上背がある男だ。空に満ちた光をそのまま凝縮したような、冴えたアイスブルーの眸に、前髪を長く伸ばしたストレートのハニーブロンドの伊達男で、食べ物や飲み物を扱う位置に立っていながら、火の点いた煙草を斜
はすに咥えている。本人はそこまで意識していないのかもしれないが、男臭く見せようとするアクセサリー代わりなのかも知れない。そんな彼からの気安い声に、こちらからはと言えば、
「うるっせぇな。」
 いかにも喧嘩腰、咬みつくような低い唸り声を返すが、特に今日だけ機嫌が噛み合わないのではない。これもいつものやりとりだ。他には客もいないテーブル席が8つほど並んだフロアを真っ直ぐ通り過ぎ、カウンターのスツールへと腰掛ける彼へ、
「いつもので良いな。」
「ああ。」
 返事を待つまでもなくという動きで、カウンターにいた男が動く。手入れの良さそうな白い手がてきぱきと働く。サイフォンにコーヒー粉を仕込み、冷蔵庫から取り出したのはハムの固まり。まな板は使わず、手元に抱えたままナイフで厚めに2枚をスライスし、軽くフライパンで炙り始める。脂の香ばしい匂いが香り立ち、縁がカリッと焦げかけるまで焼けたところで、やはりスライスしてあった2枚のフランスパンの上に載せ、オーブンに放り込む。
「ほれ。モーニングA、上がり。」
 エッグスタンドには半熟卵。小振りの鉢に盛られてあるのは、アスパラガスやトマトも添えられたグリーンサラダ。ここにオレンジジュースもついていて、モーニングサービスセットにしてはなかなか手の込んだ盛りの1人前。それらをトレイに載せて"ほい"と出すまでにかかった時間がまた短くて、なかなかに手際の良いマスターらしい。コーヒー待ちのそれへと、
「ん。」
 短い相槌で会釈を振って、まずはとハムトーストにかぶりつく。店内に入ってからは…安心してなのか、外での尖った雰囲気と違い、どこか緩慢な様子がありありとしていて。ぼんやり顔で食事を咀嚼している彼へ、
「その顔じゃあ、もしかしてまた出たのか? 少年義賊。」
 マスター氏がそーれはすっぱりと訊いたものだから、
「………う。」
 男はどんどんと分厚い胸板を拳で叩いて、喉に閊
つかえかかった食事を飲み下す。おやおや、ということは…と眉を上げたマスターだったが、
「どうやら図星みたいね。」
 実際に投げられたのは彼とは別の新しい声だ。カウンターを挟んで向かい合っている二人の横手、店の裏方にあたる事務所のドアが開いて、登場したのは女性である。
「おはようございます、ナミさん。」
「おはよ、サンジくん。」
 丁寧な会釈を見せるマスターに、こちらも優雅な会釈を返し、客である男から3つほど間隔を取ったスツールへと腰掛けた女性。赤みの濃い褐色の髪を軽快なショートカットにし、アーモンドのような形の大きな瞳にちょいとベビーフェイスな若々しい面差し。
「まったく、しようがないんだから。いっそ"剣豪"の看板下ろしたら? ゾロ。」
「うるっせぇよ。」
 痛いところを二人掛かりでつつきやがってと、ますますの仏頂面になるこの男。先程から、いやいや昨夜の少年からも呼ばれていた"剣豪"という字名を世間様から頂いた、希代の大盗賊。本名はロロノア=ゾロという。何でまたそんな懐古的な字名をもらっているかと言えば、今時には当たり前だろう拳銃やら爆発物やらいう物騒な武装も、コンピューターへの侵入という先進の手管やらも一切使わず、その身一つで侵入し、どうしても一戦交えねば躱せないような警備陣を相手にする時は、一体どこに隠しているやら、大太刀一振りを青眼に構えて、それは鮮やかに打ちすえて立ち去るからだとか。この稼業を始めてからまだ数年という短いキャリアであるものの、確実な腕前と、無益な殺生は一切しないスマートな仕事ぶり、加えて…報酬からだろう多額の寄付を様々な場に投げ込んでいることから、現代の義賊として一般市民の方々からの人気もこっそりと高い。………と、そんな彼であるのにのに。
「7件よ? 7件。ナイルのしずくに始まって、アルハンブラの夕陽、白夜の六芒星。昨夜のサファイアに至っては、予告状まで出した"マドンナの瞳"っ! あれはあまりにも有名な宝石なのよ? ちょっとやそっとの模造品で誤魔化しようがないくらいにね。」
「おいおい、誰が誤魔化し仕事をやってるって?」
 とうとう眉を吊り上げてまで怒らせるほど、彼に対して"愉快な他人事"のような言いようをしている彼女だが、
「新聞ではあんたの仕業だって事になっているからね。依頼人がうるさいのよ。早く渡せって。」
「うるせぇなっ。無い袖は振れねぇんだよ。」
 そこをつつかれると返す言葉もこれしかないらしいゾロだ。どうやら彼の"お仕事"には依頼人があって、その中継…もとえ、仲介をしているのがこの女性であり、連絡を取り合うのがこの店であるらしい。サンジと呼ばれた男も彼の素性はよくよく承知しているらしく、やり込められているゾロにくつくつと笑いつつ、
「それにしても。一体どこの誰なんだろね、その"釣キチ三平"ちゃんは。」
 半ば感心したような声で感慨深げに呟いた。


 【釣キチ三平;turikichi-sanpei】

 週刊少年マガジンに、随分と昔に連載されていた釣り漫画。作者は矢口高雄さん。確か秋田県出身の方で、銀行員だったのにどうしても漫画を描きたいからと脱サラなさった、小椋桂さんみたいな人である。
 主人公は三平くんという、お元気で明るい気性の、釣りの天才少年で。渓流、湖、磯、キャスティング(投げ釣り)、フライ、ルアーなどなど、場所もジャンルもターゲットも何でもござれの名勝負を、野生の勘と感性で次々に制覇する大活躍ぶりが描かれていた。物凄い長編作品で、山合いや海、清流など、背景となる自然の描写も巧みで素晴らしく、当時というとバス釣りなどという"スポーツ・フィッシング"がまだかけらほどもなかった頃だったのに、安定した人気を保っていたものである。(でも、今だと、このタイトルは…少々問題があるかもしんないね。)
 で、この三平くん。よほど極寒の地にでも行かない限り、殆どいつでも"麦ワラ帽子に裾の擦り切れたGパンと草履ばき"といういで立ちをしていた。まんがの主人公の服装は、よっぽど環境が変わらない限り、ついつい同じになりがちで、これは作画がアシスタントたちとの分担作業である以上、仕方のないこと。とはいえ………どっかで聞いたぞという服装であるのが、ちょうど今、何だか楽しい。
(笑)


   ――― すいません、ドえらく外れた脱線をしてしまいました。
       またまたついて来られる人はいないだろうなぁ。
       ここから本筋へ戻ります。どーもです。


 初回はどこか誤魔化していたゾロだったらしいが、こうまで続くと不器用な彼には適当な辻褄合わせも出来なかったらしくって。結局は正直に…どこの誰だかも判らない、幼い坊やに釣り技を繰り出され、横ざまからお宝を掠め取られ続けているという事実を白状させられたという案配で。
「子供に出し抜かれてるだなんて、誰も信じやしないって。」
 こっちにだってこういう世界なりの"信用"ってもんがあるんですからねと、打って変わってむっつりと目許を眇めて見せるナミであり、
「とはいえ、こいつがそんな気の利いた嘘をつく筈がないですしね。」
 ゾロにはコーヒーを、ナミにはホットレモンを出しながら、サンジは新しい煙草に火を点ける。
「でも、ただの子供が追従出来る仕事じゃないのよ?」
 ナミが言うのももっともな話で、
「獲物や場所の情報をどうやって入手してるんだかも不思議だし、それに、有名なお宝はそれなりの金庫なり鍵システムの守りの中にあるってのに。」
 まったくもって謎だらけの困った事態。だからと言って、こういう事情ですのでと、尻を割るのはプロとしての意地やら見栄やら何やらと、色々立たないものがある。
「故買屋筋には出てないんでしょう? その獲物の数々。」
“故買屋”とは、盗品専門のディーラーのこと。そうと判っていての商売は当然ご法度だが、盗まれたものでも欲しいという需要の口がある限り、そういう窓口はなくなりはしないのだ。サンジの問いかけへ是と頷いたナミであり、
「その子、一体どういうつもりなのかしらね。」
 お宝を換金する伝手がないということだろうか。そうまでのアマチュアに手玉に取られるほど、こっちは素人ではないのだが。訳が判らないことだらけな現状だが、このままでいい筈はないのも重々承知
「判ってるよ。」
 ゾロは溜息混じりに大きな肩を落とし込み、
「次の仕事で決着はつけるさ。心配すんなって。」
 大きな手にはおもちゃのように見えるデミタスカップを片手に、ゾロは何やら目算でもあるのか、そんな言いようをしてお仲間二人を見回したのであった。



TOPNEXT→**


 *カウンター62000番 リクエスト
  YUKI様『パラレルで、かっこいいルフィとゾロのお話』