Moonlight scenery

                *独立パラレルです。すみませ〜ん。

 
          




 すすけた壁の向こうから、遠い喧噪がかすかに聞こえて来たような気がして。だが、まさかなと、ついと反射的に上げかけた視線を元に戻す。辺りに立ち込めるは、埃っぽくてどこか素っ気ない、空っぽの夜陰だけ。まだ宵の口だというのに、自分の身動きから出る衣擦れの音が拾えそうなほど静かだが、間違っても"閑静"とかいうお上品なものではない。場末も場末、廃墟寸前の廃ビルの一角。得体の知れない輩でさえ、気味悪がってそうそう寄りつかないほどに、何にもないし足回りも悪い不便な場所だ。ただ一つの取り柄が、よほど頑固な職人が手掛けたか、ちょっとやそっとでは崩れまい頑丈な作りであることで、安普請なアパートよりは保つだろうとそこが気に入って塒
ねぐらに選んだ。街灯などという気の利いたものなぞ勿論ないが、今夜は冴えた月光が辺りのあらゆるものたちを明暗くっきり白と黒に塗り分けていて。手前のガタガタなアスファルトの道を通る、男の横顔の輪郭をそのまま映して浮かび上がる影と、それが張りつく銀のスクリーンのような、コンクリートの無表情な壁の白。冷ややかな夜陰の中、無言のままに鬩せめぎ合うそのコントラストは、いっそ華やかでさえある。
「………。」
 長年の習慣から一切の音を立てずに歩みを運べるその足取りは、軽いでなく、重いでなく、機械的に彼を塒へと運び入れる。表からのドアを背後に綴じたその途端、まるでどこかから見張られてでもいたかのようなタイミングで携帯電話の呼び出し音が鳴った。室内の明かりも灯さぬまま、コートのポケットから小ぶりのモバイルを取り出す。短く刈られた髪は掻き上げる必要もなくて、
【ハイ。帰って来たわね。】
「あんたか。」
 裏の世界のエージェントたちに仕事を割り振る"窓口"を請け負っている女。生まれも年齢も含めてその素性は全くの不明だが、それはお互い様だ。少しハスキーな低めの声が笑みを含んで、
【こんなにお早いお帰りだって事は、出先からのとんぼ返りって訳ね。】
「まあな。」
 様々な危地に赴く"事情
わけあり"な人間に雇われる"ボディーガード"を本職にしている彼へと、報酬も莫大だが危険度も飛び抜けて高い仕事を気軽に回してくる女で、時折、それからはかなり掛け離れた仕事を持ち込むこともある。人ではなく高価な品物や貴重なデータファイルなどを守りながら運ぶ仕事や、敵地に捕らわれた人間を救い出すといったものを、だが、厄介ながらもこなせないものでなしと、これまでずっとコンスタンツに消化して来たことから図に乗ったのか、
【今回の依頼はお気に召さなかったようね。】
「当たり前だ。」
 どこぞの金持ちの令嬢の護衛。それも、要人の娘だの物騒な脅迫状を送りつけられたというものでもない、ごくごく一般人の、だ。
「ああいう仕事は表の人間に振りな。」
【あら。いつも上首尾で片付けてくれてお世話になっているから、ちょっとしたボーナスのつもりだったのだけれど。】
 報酬は確かにかなりのものだったが、それにしたって…彼には請け負うことが出来ない代物であったらしく、
【表の世界に顔を晒す訳にはいかない?】
「………。」
 揶揄するような、かすかに笑みを含んだ声。いつだってそんな声で、何かしら見透かしてでもいるかのような態度で接してくる女だ。こちらの素性へ全く詮索しないのは、する必要がないからだと言いたげな、目に見えない余裕を感じさせる雰囲気。今に始まったことではないのに、今夜のそれは妙に気に障った。常に輪をかけた無愛想な声で、
「当分は連絡を絶つ。」
 一言そうと告げると、
【そう。判ったわ。おやすみなさい。】
 短い応じをして、すぐさま。向こうからあっけなく切った。何の用があったのか、奇妙なことをする。だがまあ、詮索しても詮無いこと。携帯の蓋を閉じ、ポケットに収めながら顔を上げ、部屋の中を何げなく見回した。
「………。」
 しんと静まり返った室内。今回はほんの2日だけ空けていた部屋だが、それでなくともほとんど居着いてはいない、寝るためだけの塒で…人が住まう場所とは到底思えないほど殺風景なフロアである。天井には長い蛍光灯があるものの、灯されたことは一度もなく。埃をまとってグレーに沈んでいる。家具はといえば、壁際の隅に寄せられて、ただ放り出されているかのような、粗末なベッドと小さな脇卓があるだけだ。内装もはがれ落ち、セメントが剥き出しの壁には、あちこちよれたブラインドの降りた窓が一つと、観音開きの扉の取っ手も片方落ちた、作り付けのクロゼット。元は事務所用のビルだった名残りで、奥の方に一応の水回りとしてのトイレと洗面所がある、ただそれだけのワンフロアだ。
「………。」
 かつ…っと。靴音を響かせながら、ゆっくり近づいたのはクロゼット。膝下まである冬用のコートに、その下にはダークスーツという"いかにも"ないで立ちだが、何かを気取っている訳ではない。いわゆる"着たきり雀"で、汚れたり擦り切れたりすれば、そのまま新しいものに買い替えるという、何とも乱暴で思い切った着方をしている彼であり、なのにクロゼットへと歩みを運んで、


   「……………。」


 その戸前に立ち止まる。高めの天井のその近くまであるだろうか。背が高く、事務所には場違いなバランスのクロゼット。ブラインドの隙間から忍び入る月光の白が、無味乾燥な室内に唯一の生気を思わせる、ガタガタな光の帯を敷いているだけの、時間さえ止まったような空間に。恐らくは彼が戻ってくる前から立ち込めていたそれと同じ沈黙が垂れ込めて…幾刻か。

   「……………。」

 ポケットに両手を突っ込んだまま、塑像のようにじっと立ち尽くす彼だったが、


   「…どうしたよ。刺さねぇのか?」


 声をかけたその語尾の響きが消えかかったその間合い。

    かた…。

 クロゼットの中から小さな小さな物音がして。だが、

   ………。

 しばしの沈黙。


  「俺がお前の気配を嗅ぎ分けられないとでも思ってんのか?」

  ……………。

  「約束を破ったから。それで追って来たんだろう?」

  ……………。


 やはり動かぬ空気を読んで、肩を落とすと男の方から扉に手をかけた。慣れているのか取っ手がないのも支障ではないらしく。きぃと夜気を引っ掻くように小さく軋んだ扉は、両方ともがあっけなく開いて。そして…そこから正面に立つ男の懐ろへ、倒れ込むように飛び出して来たものがある。
「…っ。ゾロっ!」
 引き吊れて掠れかけた、少し甲高い声。伸ばされて来たのは、小さな手だ。足元にかつんと堅い音。何かが床へと蹴り出され、くるくる回って壁まですべってゆく。だが、そんなものには脇目も振らず、ハーフコートにくるまった小さな肢体で思い切り、しゃにむにすがりついて来たその人物は、
「逢いたかった…。ずっと…ずっとだ。逢いたかった、ぞろっっ!」
 その小さな手での精一杯の力を込めて、飛び込んだ男の胸元へとしがみついて離れない。舌っ足らずな幼い声。涙によれてか、微かに高く歪んだそのまま、言葉に詰まって続かないその声に、男の側も、
「………ルフィ。」
 絞り出すような声で一言。そうとだけ応じて、小さな背を抱き締めかけたが、
「…っ。」
 くっと息を詰めると。幼い骨格でまだずんと細い肩に置かれた大きな手が、ぐいっと相手の体を引きはがす。
「どうして此処に居る。」
 膂力とリーチがあるせいで、易々と引き離された少年は、だが、
「や…やだっ! ゾロっ!」
 童顔をくしゃくしゃにしながら、懐ろへと戻りたがって、しきりと腕を伸ばしてくる。まるで…暖かな母親の胸元から無理やり引き離された仔猫のように懸命に。そんな彼へと、
「答えな、ルフィ。」
 ゾロは重ねて訊いた。彼はこんなところに居るべきではない人物だ。それをそれと気づかないほど行き届いた厳重な警護の中、他愛ないことに屈託なく笑いながら、ぬくぬくと伸び伸びと過ごすべき高貴な身の人間だのに。それが今、こんな埃だらけの廃墟で、自分のような人間の前にいるなんて、現実にはあってはならないこと。短いながらも鋭い口調で訊いた、ゾロからの声が聞こえている筈なのに、
「いやだっ! なあ、ゾロっ!」
 一向に聞き入れず、このままでは呼吸さえ出来なくなると訴えるように、必死の形相で相手の懐ろへ戻ろうとしたがる彼に代わって、
「探したからに決まってんだろが。」
 冷ややかに冴えてよく澄んだ、そんな声がして。見やると、壁際の床から、先程少年が蹴り飛ばした何かを拾い上げている人物がいる。足元へと手を伸ばすべく、優美な動作で折り畳まれた長身痩躯。顔を上げると顎先まで伸ばされた金色の髪が、ぱさんと左側の目許と頬を覆う。
「久し振りだな、護衛隊長。」
「………。」
 その手にあるのは細身の短剣。クロゼットの中で、万が一、目的の"彼"ではない誰かが近づいて来たなら容赦なく振るえと、護身用に少年に渡しておいたもの。扉越しの声で彼だと判った筈だが、感極まって…体が凍って動けずにいた少年なのだろうと、それへくすんと笑って見せてから、
「それでも一国の王子だぞ? そんな対し方はよろしくないんじゃないのか?」
 綺麗な指先で剣の銀の柄をくるくるともてあそぶ。薄汚れた夜陰の中に、沈んだ色を滲ませている金の髪。地味に作りながらも隙のない着こなしが相変わらずだなと感心しながら、
「その一国の王子を、何てところへお連れあそばしてんだよ、隋臣長。」
 かつての同僚だから口利きにも容赦がない。単調なそれを不遜とするよりも、むしろその軽口が懐かしくて、
「判ってんだろ? 鬼ごっこはもう終わりだ。いや、隠れんぼかな?」
 薄い緋色の口許へ小さく苦笑を浮かべつつ、そうと言葉を継ぎ足せば、
「そうだぞっ! 3年もかかって見つけたんだ。だから、俺の勝ちなんだからなっ!」
 真下から怒鳴ったその弾み、上背のある二人が頭の上で言葉を交わし合っているその隙にと、つっかい棒のように邪魔だてしている男の手を振り切って、ばふっと再び、相手の懐ろへ頬を埋め直した少年である。
「もう…もう絶対に離れない。約束したんだからなっ! ずっと一緒にいるってっ!」
 まるでそのまま、そこから相手に染み込んでしまいたいような勢いで、広い胸板へと ぎゅうとしがみついて。ルフィと呼ばれた少年は、まだ少し震えている吐息を深々とつくと、その大きな眸を…やっと安んじて眠れるというような表情を浮かべながらゆっくりと閉じたのだった。




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