雨がやんだら… 〜蜜月まで何マイル?


 外の夜陰の漆黒を透かす窓ガラスには、いつの間にまた降り出したのか、幾条もの雨垂れの跡があって。どこでか灯されている常夜灯代わりの篝火だろう、わずかな光に銀色の落書きを浮かび上がらせている。さすがに今日は昼間の晴れ間に窓もきれいに拭われているが、初日の晩を過ぎた朝は砂をまぶしたような案配で見られたものではなかったのを思い出した。
"…初日、か。"
 今夜で3つ目の夜を数えているその最初の晩は、全員が泥のように深い眠りを貪った。生死を賭けた凄絶な戦いと、事態の転変が織り成す凄まじい緊張を乗り越えてのこと。疲れ果てた体も張り詰めていた心も、安らかな眠りの中へそのまま形も残さず蕩けてしまうのではなかろうかと思ったくらいに深々と眠った皆であり、昼間からのずっと、降り続いていた、切れ目のない雨の音さえ、心地いい子守歌になった。
"………。"
 皆それぞれに半端ではない怪我を負っていたが、日頃のきちんとした豊かな食生活の賜物か、それとも若さの成せる技か。はたまた"怪我慣れ"していて体の方の感応力や回復機動力が良ろしすぎるのか。皆して傷の治りは驚くほどに早い。ましてや、彼らには"名医"がいる。体質改善のための補助食品から即効薬まで、持ち前の野生の直感と幅広い知識と、数年にも及ぶ実践を経て叩き込まれた技術とで、天然の素材から的確な調合をこなせるトナカイドクターのチョッパーが、それぞれの怪我や疲労に適した薬を調合し、初期の手当てをきっちりと施したお陰様で、ああまでの死闘をほんの昨日こなした者たちとは到底思えぬ回復を見せ、なんと翌日にはもう、床からも離れられる状態になった面々だったから物凄い。

   ………だが。

 彼だけはさすがに、即座に回復するという訳には行かなかったらしい。何しろ、受けたダメージが大きすぎた。レインベースでの戦いで腹に貫通創を負い、熱砂の中で数時間を過ごし。王宮では全身から水分を奪われ、葬祭殿ではクロコダイルからサソリの毒を受けた。それでも壮絶な戦いを続けて勝利し、精も根も尽き果てた筈だのに。そんな体でありながら、深い岩盤の奥底から二人もの人間を背負って飛び出したという。アルバーナ以降の戦いぶりは、唯一の目撃者だった国王が語ってくれたものであり、砂漠の民としての備えがあって、毒への対処はすぐさま取られたそうではあるが、毒というもの、ただ単に血清で中和すれば良いというものではない。例えば、ハブの毒。体力のない子供やお年寄りならばほぼ確実に死に至り、大人でも放置すれば生存の確率は低いとされる猛毒で、こちらも確かに血清があるにはある。だが、その投与が遅れれば、毒が回った体組織は壊死し、たとえ命は取り留めても泣く泣く手や腕、足を切断することとなった例は枚挙の暇がない。そこで、沖縄や奄美大島などの周辺孤島での被害者へも速やかに対処出来るようにと開発されたのが、常温で長期保存が可能なフリーズドライによる粉末状の血清だそうだ。


   ――― 途轍もなく高い熱が出る。


 彼らの頼もしい専属医が杞憂したのは、まさにその点に関してだった。激しい戦いを続行したせいで既に回りかけていた筈の毒へ、体の方が反応を起こす。自然治癒能力が発揮されてのことであり、ものが猛毒だったのだから、その防衛態勢も半端なものではなかろうとのことで、毒を中和した体を、選りにも選って自身の治癒力が痛めつける運びとなる。(拙作『
眠れる君へ…』参照)
『ルフィは体力もあるし、回復も早い方だから、そんなに心配する必要はないと思うんだけど…。』
 怪我には縁があっても、病には馴染みのない身。しかも、壮絶な連戦をこなした直後なだけに、ただならぬ疲労にまみれて身も心もクタクタな筈の彼だ。恐らくは緊張の糸も切れ、これ以上はない無防備状態にあるそんな身体が、凄まじい高熱に耐えられるのだろうかと、小さな船医はたいそう心配していたのだが。果たして…一晩明けてもただ一人眸を覚まさなかった船長殿は、チョッパーの不安が的中してとんでもない高熱を出し、そのまま昏々と眠り続けたのである。


   ――― ……………。


 窓の外には雨。3年越しの恵みの雨。淑やかに、だが連綿と降り続ける雨。二晩目の宵には一旦降りやんで、今日一日はよく晴れたものが、今夜遅くに再びしとしとと音もなく降り出して、今に至っている。そして…そういった空模様の変化も知らぬまま、一向に目覚めぬルフィである。
「………。」
 密度の高い石作りの建物だからか、雨が齎した外気の湿気も温気も伝えずに、部屋の中は程よくひんやりとして過ごしやすい。こういう灼熱の砂漠地域に窓ガラスというのは実は珍しい。強い陽射しさえ遮ることが出来れば、風は乾いて過ごしやすいため、風が強い日の防砂と夜間の防寒に備えた厚手のカーテンを下げるくらいで、窓も戸口も開放されているものだが、そこはやはり"王宮"ということで。警備や衛生面での必要から用いられているものと思われる。そんな作りの部屋は独特の機密性も高めているらしく。室内はあまりに静かで、どのくらいの時刻なのかも判らない。看病のために一晩中起きている者のための明かりが、多少は柔らかなものながら、それでも周囲には眩しいだろうからと、このベッドの回りに夜の間だけ巡らされてあるのが、香木の枠に綾絹を張った衝立(ついたて)で。離宮や泉、小鳥たちの姿など、庭園の風景が織り出された絹地の上に、いかつい男のシルエットが微動だにせず映り込んでいる。
「………。」
 昨夜付いていたチョッパーに代わって、初日こそ何となく寝付けなかったが二日目はよく眠ったからというビビが付いていようと申し出たのだが、それを遮ったのが、
『…Mr.ブシドー?』
 彼女からの相変わらずの呼び方を、とうとう変えてもらえなかった剣豪殿であった。


            ◇


 日頃の彼らの間柄にしては妙に距離を置くのが妙だなと、皆も気がつかないではなかったが。だからと言って、いつものように徒らに揶揄の言葉を投げられるような雰囲気でもなかった。此処はいつもの船上ではないし、彼は剣士で"医師"ではない。専門家のチョッパーが大丈夫だと断言し、手を尽くしている以上、自分には何も出来ないのだからと、何につけきっぱりと割り切って固執は見せないその潔い判断力が働いて、それでの振る舞いかと思われていた。ただ、待っているだけというのはさすがに性に合わないらしくて。チョッパーがルフィに付きっきりなのを良いことに、いきなりハードなトレーニングを開始してもいたらしい彼のその割り切った素振りは、らしいといえばらしくて、だが、らしくないと思えばそうとも取れるような、何とも微妙な代物で。そんな彼が、
『今夜は俺が付いてるから、お前は休め。』
 チョッパーとビビへそうと告げた時には、何となく…収まるべきものが収まるべき処へしっくりと収まったというような気がして、小さな骨が喉に閊
つかえていたような気分でいた皆としては、妙に落ち着いたものである。それへ対して、
『でも、まだ安心は出来ないし…。』
 信用していないという訳ではないが、何となく…医療関係者として素人にバトンタッチして良い頃合いかどうかが微妙だと、答えを迷うチョッパーへ、
『お前らだって本調子じゃあないんだ。そんな二人だけが交替で徹夜の連続じゃあ、身が保
たないだろう。』
 落ち着いた響きのいい声がそうと紡ぐ。心配された高熱も何とか下がりつつあり、それより何より…寡黙なこの男にしては珍しい"申し出"だと思ったが、成程、ちゃんとした…合理的な理由というものがくっついていて、
『この晩を越えてもまだ目が覚めなけりゃあ、それこそ俺みたいな素人にはどうすることも出来ねぇからな。』
 冷静な状況分析によるものだという、素っ気ない言いようなのがいかにも彼らしい。とはいえ、こちらだって伊達に"仲間"ではないのだ。そんな言い方の中に、実はさまざまな思いやりの籠もった申し出なのだと、それこそちゃんと気が回って、
『じゃあ、お願いしちゃいましょうか。』
 気を利かせてそう応じつつ、ビビが肩に手を置いて覗き込んだ小さなドクターのお顔は、
『………。』
 まだちょっと不本意そうではあったものの、
『何かあったら起こすんだぞ? いいな? ホントだからな?』
 厳重に言い置くだけにしては、にこぱーっと笑顔目一杯だったのが、何となく…剣豪をたじろがせてしまったようでもあった。


            ◇


「……………。」
 寝息も寝顔も穏やかで、当初、皆が息を飲みそうにまでなった苦しげな容態からは、既
とうに脱しているのだなと素人目にも判る。この二日、すぐ傍らに居ながらも寝顔を覗き込むほどには近づきはしなかった。そんな自分を皆が"らしくない"と訝いぶかしんでいるのは何となく気づいていたが、そういう解釈をされる"下地"へと今更照れが出て、結果、意固地になっていた…というような、大人げのないことでは勿論ない。必ず持ち直すとはいえ、今現在ひどく衰弱している彼だという現実に向かい合いたくはなかったせいもあるし、クロコダイル戦の余燼というか置き土産というか、そういう高熱と"戦っている"彼であるのなら、自分も"やり残し"とこそ向かい合わねばと、そう思ったからだ。着るものがお釈迦になっていたため、寝間着よりは丈夫な黒っぽいここいらの装束を借り、腰に下げた三本の刀を供に外へと出てみた。

   ――― 今度はダイヤでも斬るつもりか?

 まだ怪我の癒えない身体でありながらも、あの"鋼鉄を斬った感触"を忘れたくはなくて。手持ち無沙汰な身を持て余し、気晴らしも兼ねてトレーニングに出て行った…ものの、何だか集中しにくくて。それはやはり、この彼のこの状態のせいらしいと気がついた。
"…信じていはするんだがな。"
 ちゃんと約束通り、彼は宮殿へ姿を現した。砂漠での第一戦では、口惜しいかなクロコダイルに負けたけれど、今度こそは負けないと言い切った。


   ――― 終わりにするぞ。全部っ!!!


「……………。」
 それからも、今度は爆弾相手の時間との競争という戦いがあり、息をも付かせぬ事態の転変に追いつ追われつという状態だったので、真剣にそれどころではなかったが。実を言えば…落ち着き次第、殴ってやろうと思っていたゾロだった。勿論、ルフィを、だ。

   ――― ビビをちゃんと家まで送り届けろよっ!

 ルフィがレインベース付近の砂漠にて、捕まりそうになったビビを庇うように、ヒッコシクラブの背から飛び降りた格好になったあの時。腹の底から何かが飛び出しはしないかと思ったくらいにギョッとした。不言実行? そんなじゃない。ああいうのは"突拍子もない無鉄砲"って言うんだ。相変わらずな奴だよな、まったくよ。先にちゃんと説明してから行けよ…等々と。いつものようにそう思い、だが。どうせ制止は出来ぬこと、了解を取ってからも何もない。結果は同じだ。そう思うと、次にやって来たのが"決断"である。奴はああした。ならば自分は?

   ――― 俺も後から行く。

 自信満々なその上で、こちらの陣営を…仲間を信じて取ったルフィの行動。だったら、こっちはどうすれば良い? 答えは簡単に手繰り寄せられた。ただ…理屈と眼前の現実と。つないだ上で実行に移すには、多大な覚悟も必要だった。彼が後から来ると言うならそれは本当だろうさ。信じている。これまでだってそうだった。自分がやるだけやってやり遂げたそれと同じほど、若しくはもっと手ごわい相手を試練を、彼はいつだってきっちりと乗り越えて来た。二人掛かりで当たる必要などない。むしろ当たった相手が気の毒だよなと、高笑いしてのけられるほど、当然なことと信じている。…だが、

   ――― ………。

 ほんの刹那のこととはいえ………躊躇したゾロだった。ああそうかいでは済まなかったのは仕方がなかろう。ゾロは実のところ、アラバスタの内乱自体にはあまり関心がなかった。ナミほど損得を考えた訳ではない。何の罪もない人々の生活や生命が蹂躙されるだろう大変なこと、それもとある人物の欲望により扇動されたという、何とも言いようのない非道な一大事には違いないが、世界中のどこかで当たり前のように起こっていることだくらいの、そんな気がしていただけだった。情に流されるような甘い人間ではないとばかり、少々冷めたところのある性分がなくはない彼であり、話を聞いた時もそういう気分が頭を擡
もたげかけていたのだが、ルフィがあっさりと承諾してしまったがために付き合うこととなった…という観がある。そう、ルフィが手をつけ、ルフィがやり通そうと決めたことだから。誰かに聞かれたなら"船長命令だったから自分も参画したのだ"と、そう言って憚らないつもりだった。こんな大冒険に付き合っているのからして、元を辿ればルフィが居てこそのもの。彼がやり遂げたいことならば、よし判った、叶えてやろうかいと、そんな参戦だった。だから…彼の力量や信念を今更疑う訳ではないが、こんな形で、しかも大ボスの眼前へ、置き去りにして行って良いものかと大いに迷った。何より、彼の意志にしたがっていただけな自分だったという気構えが、こんなところでの躊躇という形でゾロをたじろがせたのだ。…そして、

   ――― 何がなんでも生き延びろ。
       この先、ここにいる俺たちの中の、誰がどうなってもだ!

 ビビへというより自分へ言い聞かせつつ、あらためて気がついたことがあった。当たり前のことのように、自分たちを見送ることが出来たルフィは。仲間に無防備に背を預けたり、指針を任せることが出来る、仲間を疑うということを知らない彼は。時に危なっかしいがそれでもやはり、自分たちの"船長"なのだと。
「………。」
 何度も倒れ伏しながら、それでも諦めないで粘って粘って。結果的には素手であのクロコダイルを、天下の大海賊"王下七武海"の一角を叩きのめしたルフィだ。相変わらず、堂々と胸を張っていい戦果を重ねた彼だ。
「………。」
 体力や能力、センスなどといった実力、もしくはその兆しや芽のようなものが、元来の彼の素養の中に既にあったのだ、だから可能だったのだと。言われればそれまでではあるが。そういったものものがきっちり揃っていれば、どうでも成せることでもない。強靭な意志の力。彼独特の粘り強い頑迷さが支える"信念"があればこその凌駕である。


   ――― アルバーナで待ってるからっ!


 ビビの悲痛な叫びが告げた"約束"を、ルフィは守った。恐らくは、それへ向かって、それを強く意識して奮闘したのではなく、当たり前のこととして順を追うようにして辿ったまでのことという順番なのだろうなと判る。いつだって彼はそうだ。出来ることしか言わない。その出来ることとは、今回のような奮起せねば無理かもしれないぎりぎりの高みにある場合もあって、だのに"頑張らねば"という悲壮なまでの"力み"はない。彼にとっては頑張って当たり前、張り詰めさせていて当たり前、なのだ。わざわざ手を伸ばすでなく、その視野の中に当たり前に睨み据えたもの。だから、心が、体が自然なこととしてそれを目指す。駆け出す。全力で挑む。彼にとっては"絶対"も"永遠"もその手の中にあり、約束は儚くも崇高なものではなく、必然で頑健なもの。


   ――― ビビをちゃんと家まで送り届けろよっ!


 俺もすぐに行くからというおまけ付きの"船長命令"。ゾロには当然、その"おまけ"の方こそが大切であり、それを口にした彼自身が守るべきことなのに、自分へ対しても鋭く響いた文言なように思えた。そう…船長命令だったからではなく、信じていたから。信じたかったからこそ、ならばその真っ直ぐさに負けたくないと感じたからだ。
「………。」
 ルフィの真っ直ぐさは、単なる"素直"や"廉直"ではない。日頃の暢気さや屈託のなさから飛び出したものとは到底思えないまでの、唐突・突飛に見えるほどの勢いがあって幻惑されるが、その根底にはいつだって同じものが頑迷なまでに居座っていると知っている。自分の正しい信念が望みに届かぬ筈はないという、強い強い意志と迷いのない心。これほど強靭な推進力はない。
「………。」
 それらに支えられた毅然としたその態度に、自分もまた負ける訳にはいかない。七武海の一角へと立ち向かい、それを倒したルフィ。だったら自分は何をすればいい? 一度は敗北の苦汁を飲んだ"鷹の目の男"との再戦を目指し、もっともっと強くならねばならない。決死の戦いの中で身につけた、新しい境地。まずは不可能だとされている、刀で鋼鉄を斬る呼吸を体得した。だが、果たしてそれは本物か? あの窮地だったればこそ、後のない尖った神経が察知させた、奇跡的な代物だったのではなかろうか。確実に取り込んで自分のものにしなければと、もう日付の変わった一昨日と昨日と、頑張ってみたがどうにもまだるっこしくて。振り払い切れない何かが邪魔をして、集中出来ない自分に気がついて…観念してこうして誰かさんの寝顔なんぞを監視している次第である。
「…う…ん。」
 熱はもう随分と引いている。ゴムの収縮力が傷口をきつく綴じてでもいるのか、彼の底知れぬ回復力は、腹の貫通創さえ既に塞いでいるから物凄い。丸い額から滑り落ちたタオルを拾い上げ、汗だかタオルの水気だかで、前髪が貼りついた小さなおでこを、その大きくて無骨な手のひらで拭ってやると、


   「………うにゃ?」


 静かながら、だが、唐突に。ルフィが小さな声を出し、うっすらと目を開けた。
「…ルフィ?」
「ぞろ、か?」
 焦点の定まらぬ様子から、はっきりとした覚醒ではないことが窺える。とはいえ、あまりに呆気なかったものだから、
「………。」
 チョッパーを呼ぶのも忘れて、幼い顔につい見とれた。そんな剣豪へ、小さな船長さんはぼんやりと、輪郭のぼやけたような笑い方をし、
「ぞろ。」
 呂律も怪しい、甘い声で名を呼ぶものだから、
「なんだ?」
 静かな声で応じてやると。
「なんか、かわったな。」
「何がだ。」
「ぞろが、だ。」
 はにゃんと蕩けそうな顔になって笑い、
「なんか、つよくなった、きがする。なんでだ?」
 それへか、それとも、それへと気づけたことへか、余程のこと嬉しいのだろう。にまにまと笑ってじっとこちらを見やるものだから、
「…馬〜鹿。」
 ゾロはつい、軽く悪態をついていた。
「そう簡単に教えられっかよ。」
「ずりぃい。」
「ああ、そうさ。狡いんだ、俺は。」
 とろとろと眠たげな幼子を相手に、ややムキになって言い返し、
「そのうち勝手に気がつくさ。」
 だから、も少し寝てろと、枕に散った黒髪を梳き上げるようにしてやると、
「ふにゃん…。」
 ワニを殴り倒した仔犬は、だのに仔猫のような吐息を洩らして、再びその瞼を降ろしてしまう。大きな手の温もりに安心したらしい、先程までよりずっと穏やかな寝顔になっている。
"安心…か。"
 仲間なのだから。最も信頼を置かれているのだから、当たり前のことではあるのだが、その"当然"によって、真剣に集中せねばならない油断の出来ぬ相手だと、真っ向から挑まれることはまずないというのが、時々残念でもある贅沢者。今だって、無事に目覚めた彼を前に、愛しい気持ちばかりがあふれ返って何とも落ち着けなかったりする。
"…明日は朝一番から特訓だな。"
 あっさり浮上している辺り、何とも現金な剣豪様であることよ。
「…ん?」
 気がつけば雨の音も途切れていて、窓の外には満月に少し足りない上弦の月。明日はまた朝からよく晴れるに違いない。それを斜
はすな角度で見やった男の頬に、やっとのことで浮かんだ小さな笑みが、これで全てへの方かたがついたのだということを無言の中に表しているようで。この夜を打ち壊す"お日様"を一刻も早くお迎えして、思う存分体を動かしたいような。だがだが、もうしばらくは誰の邪魔も入らぬまま、月光に照らされて屈託なく寝入る少年を独占していたいような。そんな贅沢な二者択一に、やはり頬が緩みそうになる剣豪殿であった。


   ――― 次の波乱はすぐそこだけれど。
       今はただ静かに、
       まだ生まれてもない明日のことを考えても良いだろう。



  〜Fine〜  02.9.16.〜9.18.


  *カウンター45000hit リクエスト
      なべサマ 『"蜜月"設定で、ルフィの男意気に惚れ直すゾロ』


  *今更なシチュエーションで済みませんです。
   沢山の素晴らしい方々が
   素晴らしい作品を世にお出しになられている設定で、
   私のような拙い者が書かなくとも良かったのですが、
   アニメが丁度この部分。
   今を逃したらもう書けないのでは…とか何とか思いまして。
   でもって、出来上がってみたらば『
長い夜』のアラバスタVer.。(とほほ)

  *02年9月中旬現在、
   本誌では空島(スカイピア)にて
   『神の試練』という代物に対抗中の麦ちゃんたちで。
   試練を踏破する側と生贄陣営とに分かたれた彼らだそうなのですが、
   それぞれに不在な面子のことなぞ念頭にないのではなかろうかと思うほどの
   晴れ晴れとしたマイペースで行動しているのだとかで。
   恐らくはそれでこそ彼ららしいのでしょうね。
   ただ心配してたって始まらないのだし、
   自分がクリア出来る難儀ならあいつも何とかしているだろうからと、
   まずは自分に出来ることへ全力で当たる。
   目の前に立ち塞がるものを蹴倒すことへ集中する。
   それが総てへの近道だと。
   う〜ん、男前だなぁ。

  *でもって。
   今作品の中「………。」は幾つあったでしょうか?
   ………じゃなくって。(殴)
   どの辺が"ルフィの男意気に惚れ直すゾロ"なんでしょうか?
   このところ、妙に甘えん坊なルフィばかり書いてたせいですか、
   男意気って何? という有り様でございました。
   ううう、ごめんなさいです、なべさま。(泣)


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