絶対安静注意報  〜蜜月まで何マイル?

 
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 海は至って穏やかだった。秋島海域が近いのか、青い空のその突き当たりが随分と高く感じられ、風もさらさらと爽やかで。船を浮かべて揺蕩
たゆたう海流にも何ら問題はなく、次の島までほんの1週間ほどという安穏とした航路。好天の続くここ数日、クルーたちは三々五々、船のあちこちに身を置いて。日常に割り当てられた仕事をこなす者もいれば、道具の手入れや日常品の補充に精を出す者、航海で得た大切な蓄積をこの静かなうちにと記録する者もいて。そういった"役割・役目"が特にはない者たちもまた、思い思いの何かしらに身をゆだね、のんびりと暇を数えるもよし、個人的な日常必須の習慣に精を出すも………。


   「だからっ。ダメだって言ったろ? 何遍言ったら判るんだよっ。」

    ――― おんやぁ?


 ちょっとばかし非難の籠もった、強い語調のそんな声がしたと同時。分厚い板張り甲板に"どごん"と低く響いた重々しい音と、がっちゃん…という、やはり重々しい、何か金属同士がぶつかり合ったような音がした。似た音と言えば…そうですね。ゆぅっくりと停車した、古めかしいタイプの列車の、連結部の音なんかいかがでしょうか。直径が1メートルはある、1個100キロというとんでもない重しを4つも5つも通した鉄の棒を、一日に千回万回も振るのを日課にしている人といえば。このゴーイングメリー号に限った話じゃなく、他にだってそうそうはいないと思うのですが。そんなとんでもないトレーニング用具をその手から取り上げて、鬼が構えた金棒よろしく、逆さまに"どごん"と置いて上になった柄の方を握っての仁王立ち、
「これは没収。包帯を外せるようになるまで、触っても駄目だ。他のダンベルやバーベルもだからな。」
 むんと口許を"への字"に引き絞って、そういうお説教を剣豪殿へとしかけた人物は、
「ルフィ、勘弁してくれよ。」
 おやおや、いつもの船医殿ではないらしい。他の人間が相手でのこの問答ならば、片方の眉を引き上げながら目許を眇めて"ああ"?"という一睨みで済まして終しまい。
(笑) そうそういつもいつも そこまでの…脅し半分の応対はしないまでも、恐らくは聞く耳さえ持たないでいるだろうものが、この船の中では小さなトナカイドクターの次に小柄な船長さんの、この"むむう"というお顔に対すると、どうしても腰が引ける彼らしいから何だか不思議。…まあね。体は小さくてもあっさりと、500キロはある件くだんの鉄アレイを取り上げることが出来るだけの腕力はあるんだしね。一目くらいは置いたって罰は当たらないって。(笑) という訳で…とりあえず。レベルが同じ高みにある者同士、すなわち、会話が成立する者同士だというのにも関わらず、いや、だからこそ、剣豪殿はずぼらをせずに言葉を紡いだ。
「お前だって知ってるだろが。こういう鍛練は、一日サボると何日分も後退するって。続けなきゃ意味がないんだよ。」
 なまもの、もとえ…生き物である以上、日々、体はどこかが生まれ変わっている。だからというのではないが、フレキシブルな肉体は日々の調整もそれは大切。どんなに無駄なく機能的に鍛えていても、ほんの数日でも怠れば"何もしなかった体"に戻ってしまいかねないそうである。ちょっとしたエキササイズでも、2、3日さぼればこなせる運動の難度が下がる。ましてや、彼、この麦ワラ海賊団の副長にして戦闘隊長でもある、ロロノア=ゾロ氏の鍛えようは半端なそれでない。先程麦ワラ帽子の船長さんが取り上げた、途轍もないセッティングの重しを、腰を入れてぶんぶんと。千単位万単位というとんでもないセット数、素振りしまくるという、およそ人間離れした鍛練を日課としている。そういう凄まじい代物であるがため、たった一日分の退歩停滞が、あっと言う間に数日分ものあれやこれや、筋力や感応力や反射や回復力、使い勝手という名の"勘"などなどを衰えさせかねない…と主張している剣豪さんであるのだが、
「そんでも、ダメったらダメだっ。」
 船長さんはその童顔を出来るだけ怖そうなそれに見せようとしてか。眉を顰め、口唇を尖らせて、聞き容
れてはくれなかったのである。





 ほんのつい昨日、ちょっとした戦闘があった。大した相手ではなかったのだが、それでも、この"グランドライン"で海賊として今日まで泳いで来られただけの裏書きは持っていて。素早く接舷して来てこちらの船へと躍り込み、大人数でさんざん暴れてくれたのを、こちらも男性戦闘班全員という手厚いメニューでお相手することとなった。

   ――― そして、ゾロが怪我をした。

 刀を握る腕に負った怪我だった。無駄なく鍛え上げられた全身、これ傷だらけな彼で、例外として背中だけは無傷に綺麗。それはイコール、彼が矜持としている信念の"敵に背を向けない、敵から逃げたりしない"という姿勢の現れであると同時、敵に隙を見せないという気力や集中力の強さを物語ってもいる結果である。そんな彼だが、だからといって"一太刀も浴びない"という訳にはまだまだ行かず、これまでに出会って来た手ごわい敵たちとの手合わせによるものや、若しくは…卑怯卑劣な手合いの姑息な策によって切りつけられたり、抉られた傷の数々はなかなかに痛々しい。それだけならばまだ良いが。(…良いのか?)そういった、所謂"勲章"のような傷の他に、背を向けるくらいならと、刃を避けずに真っ向から受け止めたという格好で負った、言ってみれば"自損もの"という信じられない代物もあって。美学たらいうものは良く知らないが、通したい意地みたいなもんがあったからだと本人が言うのへ、ナミが腹の底から呆れたと眉を吊り上げていた"それら"。

   『…っ! ルフィっ!』

 特に義務とか割り振りというものが定められているでなく。だが、戦闘となれば船長ともども先頭に立って敵陣営へ躍り込み、迎え撃ち追い払うのが役目だとばかり、一気呵成、豪快にして峻烈に暴れ回る頼もしき闘士。剣の使い手なれど腕力・体力も半端ではなく、怪力無双でしかも岩をも砕く石頭。素手でも十分、壮絶なまでの破壊力を発揮出来るこの男、その頑丈さで"防御"の壁になることもしばしばある。我らが"麦ワラ"の船長は、別名"ゴムゴム"の船長でもあって。ここグランドラインで生まれたとされている"悪魔の実"を食べたがために、全身がゴム状になり、打撃攻撃はその衝撃のすべてを吸収してしまうため一切効かない。また、ゴムの瞬発力を生かして、とんでもなく撥ねたり飛んだりも出来、それらを活かした攻撃や防御にも長けた、言ってみれば"戦い慣れした"少年ではあるのだが、それでもそこは人間で…絶対の"完全完璧"に、とはいかないもの。戦いの流れだとか敵味方の配置、いわゆる"戦局分析"というものもしっかり把握出来る彼である筈が、巧妙非道な策略にはずんと脆い。卑怯なものには全く考えが及ばないせいもある。よって…息を潜めて忍び寄り、仲間の窮地も視野に入れずにただただタイミングを待ち続け。ここぞという隙を狙い定めた末に、間近から躍りかかって来た"伏兵"のかざした大太刀の真下、
『…あ。』
 左右にも上下にも逃げるタイミングを逸した少年船長に、全身全力で躍りかかった男の蛮刀が振り下ろされた。麦ワラ帽子ごと真っ二つに裂かれるかと、それを目の当たりにした者たちが思って疑わなかった情景であったものが、

   『………がっ!』

 次の瞬間、信じられない光景で受け止められている。少しばかり離れたところで刀を振るっていた剣豪が、いつの間にという素早さで蛮刀と船長の間に割り込んでいて。しかも、額のすぐ前辺りへ差し上げた腕に、直に相手の刀を受け止めている。
『…ゾロっ!』
 自分の肉体も同じというほど鮮やかに扱っていて、時に楯の代わりもさせている"刀"で受け止めるには、だが、さしもの瞬発力も間に合わなかった、間に割り込むので精一杯だったというところだろうか。鋼
はがねのように鍛え抜かれた筋肉の束は、しっかと敵からの刃を受け止めていて、
『…残念だったな。』
 にやりと。頭に巻かれた黒バンダナの下から、凄みを帯びた眼光に睨まれた伏兵は、両腕を差し上げてすっかり空いていた胴体へ、思いっきりの蹴りを正面から叩き込まれて、
『はがぁっっ!!』
 文字通り、宙を飛んで海へと消えた。その大きな背中による楯の後ろ、しっかと守られた船長さんは当然のことながら無傷であり、そんな判り切ったことを確かめもしなかった剣豪は、その場が無人になったせいか、そのまま"すたすた…"と他の残党どもがまだ居るらしい、別な甲板の方へ向かってしまったのだが。

   『……………。』






 大した怪我ではないと、本人が軽く布を巻いて終しまいにしていた傷だったのに。選りにも選って助けた対象のご本人から、何がお気に召さなかったのか、ずっとこの調子でお叱りを受け続けている剣豪殿で。負傷したことを心配してのご意見はごもっともなれど、もっと凄まじい怪我でも平気な男である。そして"そういう彼だ"ということを、ルフィの側でも重々心得ている筈なのだ。かつて、サメ魚人のアーロンとの対峙の場で失血も激しく全身ずたぼろになった彼を、知ってか知らずか、空の彼方へ"ゴムゴム"で吹っ飛ばしたことだってあったのに。
(…笑) 急な方針転換としか思えない船長殿のこの変わり身へ、だが、
"………。"
 その理不尽さに腹を立てるところが、あの大きな眸で何かしら責めるような凝視でもって見つめられると、どうにも抗
あらがえない剣豪殿であるらしく。

   "…何だって言うんだかな、ったくよ。"

 せめて。納得した上でのことならば、呑み込みようもあるのだがと思う。相変わらずに破天荒で向こう見ずで。発想も奇抜なら、そういう独創的なものに限って行動力や機動力も破格という、まったくもって困った船長。これまでにだって理解し難いあれやこれや、後から意味が分かって苦笑した覚えが幾つもあったと同じように、今回のこの、どこか妙な"安静にしてろ"発言にも、彼なりの想い・思惑があってのことなのだろうが、
"………。"
 結構気が合うと…何にでもツーカーで、言葉にして示し合わせなくとも相手の腹の底が分かると思っていたのに。そして、それが何だかちょこっとばかし嬉しかったのに。こんな風に全く読めないと、何故だか…少し嬉しかったその何倍も苛立たしくなるから困ったもの。
"………。"
 せっかく空は青いのに、せっかく海は穏やかなのに。甲板の定位置へ横にはなったものの、いつもの昼寝にもなだれ込めぬまま、剣豪殿はその分厚い胸板を大きく上下させると、それはそれは深々とした溜息をひとつ、空に向かって放ったのであった。


            ◇


 ルフィが"安静にしてなきゃダメだ"と言い放ったのは、問題の戦闘が終わった直後から。大した怪我ではないと本人は主張したのだが、
『そんなことないっ!』
 庇われた本人が、そうと言って聞かず、しまいには…ちょいと突き出していたその唇を、ふるふると戦慄(わなな)かせ、その大きな眸に涙まで浮かべかかったものだから。ゾロが"う…っ"とたじろいでいる隙に、周囲が諸共に船長の側へと加担してしまったのである。忍耐もまた修行の内だろうだとか、融通の利かない男ね、日頃昼寝している蓄積を前倒しにしてるって解釈を持って来なさいよだとか、それこそ無茶苦茶な理屈を持ってくる女傑もいて。…ルフィ可愛さプラス、剣豪が困る様が可笑しいから加担しているというのが見え見えではあったが、それにしたって。
"…う〜ん。"
 例のニコ=ロビン嬢の加入からこっち、見解の相違から孤立しがちな剣豪殿である。突飛なことを主張しているつもりはなく、彼が訝しいんなら船長だって同類というケースが多かったものが、このところ。何だかどうも彼一人常識的な判断を下して他が破天荒…というケースがたまにあり、分が悪い立場にばかり縁があるような気がする剣豪殿である。まま、彼本人としては。副長としての責任感なぞ意識しちゃあいない、ただ単に自分(とルフィ)の周囲への警戒を怠らないだけの話なのだけれど。
「だからな、こんくらい、手当ても要らねぇ掠り傷だっての。」
 いっそここは"負傷"と"治療"の専門家である船医殿に公正な判断というものをしてもらいたくて、午後の包帯交換にと傷を診に来たチョッパーに諦め悪く愚痴ったゾロだった。縫いぐるみのような小さな獣人体型も愛らしく、だが、お仕事には真剣真面目。外した包帯の下から現れた傷を検分し、消毒をした後で"ちょんちょん"と塗り薬をつけ直した彼は、
「うん。今回のは俺もそうかもって思うよ。」
 これまでに経て来た数々の死闘によって彼が受けて来た壮絶な大怪我を、チョッパーは船医として診て来て知っている。"怪我"だなんてお上品で控え目な表現を使ったものなら、単純骨折は"逆剥け"程度の扱いになるぞというような重傷状態にあっても、翌日には床から離れて歩き回り、包帯は外すわ、傷に響くどころではない…健康体であっても常人には到底不可能なほど常識を越えた鍛練を開始するわと、こちらの医学的な知識や常識をことごとく蹴飛ばしてくれてるとんでもない男だということも重々々々知っている。それらを踏まえた上で見て。確かに…物凄い状況下で、相手の渾身の力を込めた一撃を受け止めて出来た傷であるものの、そこはやっぱり鍛え方が違う。とんでもない馬鹿力を発揮出来る彼の筋肉は、瞬発力をつかさどる柔軟性を十分に内に秘めつつも…いっそ非常識なほど頑丈で。
おいおい あんな手入れの悪そうな剣なんぞ、大して喰い込ませもしなかったため、傷はさして深くもない。そうということくらい、チョッパーにだってちゃんと判ってはいる。
「だったら…。」
「でもね、ルフィがああ言うんだもの。」
「………。」
 この船の船長だから、とか。本気でバトルロイヤル形式の喧嘩になったら…もしかして一番強そうだから、とか。そういったことではなくて、何となく。ルフィが言うなら、ルフィが望むのならというのが、いつの間にかこの船のクルーたちに一番納得のいく説得の台詞と化している。現に今も、そうと言われるとゾロの不平も引っ込められて、
「言ってみれば、ルフィが多少なりともショックを受けたことへの治療も兼ねてるって訳。」
 チョッパーはそうと続け、青いお鼻をひくひくと動かしてにっかり笑って見せた。
「ルフィのためのっていう我慢なら、出来るよね? ゾロ。」
「う………。」
 結局はナミやサンジが言っていたことと何ら変わりない内容なのだが、こうやって穏やかに筋道立てて説明されると、奇妙なもので従わなければならないもののように思えてくる。内容への感触が変わったこともあるが、それ以上に、そうと語ったチョッパーを残念がらせて傷つけるのは忍びないと、そう思えてしまうからで。…さすがはお医者様、技あり、いやいや"一本勝ち"というところかも。そして、
"…ちっ。"
 そうと感じたのは自分だから仕方がない。無頼ぶってはいても、実は心根の優しい彼のこと。これはもう逆らうことも適わないと、剣豪は苦虫を噛み潰したような顔になって、抜けるような青空を頭上に振り仰いだのであった。


 


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