月夜見
  
 
朝露虹梁 @ “蒼夏の螺旋”より

        *このお話は当サイトのパラレルシリーズ『蒼夏の螺旋』の後日談です。
            設定の説明を多きにズボラしておりますので、
            今回お初にお読みとなられる方は
            ご面倒ではございましょうが、そちらから先にお読みください。
    

 
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 さわ…と最初の風が吹いたのが梢の先を小さくなぶり、それを"先触れ"に、緑の色濃いヒイラギや野ばらの茂みや、林檎、海棠の木々をざわざわと揺すってまとまった風が吹きすぎる。宵の凪の時間がそろそろ終わり、海からの風が陸からの風に切り替わる頃合いだと気づいて、窓から庭先を眺めてやる。そろそろ夏の盛りも終わる。気が遠くなるほどに何度も何度もやって来ては去っていった、以前ならどうという感慨も薄かった筈のそういう季節の移ろいが、今はどんなにささやかな兆しであれ、眸に心に鮮やかで心地いい。
「いい風よね。」
 執務用のデスクにて、ファミリーレベルに於ける今月の経費や来月の予定、催し事への招待客リストなどなどの整理をミス・ロビンと二人してまとめていたマダム・ナミは、う〜んと伸びをしながら相棒へとにっこり微笑んで見せる。夫は若くして余裕のエグゼクティブ。一応"その筋"での大物ではあるが、広くあまねく有名な人ではないせいで、社交界だの政財界だのとの堅苦しくも華やかなお付き合いは一切ないのだが。セレブリティ・ライフを意識しない気さくな若夫婦には、ご近所や旅行先などで気の置けないお友達があっと言う間に増えてしまって、その楽しい交流が嬉しい忙しさだったりもするらしい。何しろこれまでは、外部の人々とは一切縁を結んではならない身だった。それを不幸だとは思わなかったが、人々のただ中にあってもぽつんと独りで居るかのような薄ら寒い想いを、常に抱いていなければならなかったのはなかなか辛いこと。その切なさとの縁が切れた途端、本来の人懐っこい性分が顔を出した二人であって、
"…あら。もとからの性分だった訳じゃなくってよ?"
 はい?
"それはそれは可愛い誰かさんからの感化のせい♪"
 ははぁ、成程。あの、屈託のない黒い眸の男の子、ですなvv
「…それでは。」
 書類をまとめたロビン女史がやわらかな会釈と共に部屋から退出してゆく。それへとこちらも会釈を返した視線の先、入れ違うように入って来たメイドの娘さんへ"ああ…"と気がついた。
「明かりを灯
ともしますね? 奥様。」
 もう秋も近い。ましてやここいらは緯度が高い。陽が落ちるのも早くなったなと、不意に実感したマダムである。メイド嬢が躾けられた身ごなしで、広いフロアの大窓と大窓の間に据えられたスリムなデザインのスタンドライトのスイッチを入れてゆく。そのくらいのこと、ナミにでも出来るだろうにと思ってはいけない。広い広いお屋敷、これからの一時に旦那様・奥様のお使いになられるお部屋や広間、お廊下だけへの明かりであれ結構な数で、こういうことへもロビン女史がキチンと采配を取って、無駄のない指示を出しているのだとか。………と、
「おや? ベルはどうしましたか?」
 刳り貫きになっていた戸口から、リビングを覗き込んだ夫の声にそちらを振り返った奥方は、
「さっきナニーに預けたばかりよ? ほら、今日はお昼寝しなかったでしょ? 今頃になってウトウトしだしたものだから。」
 やわらかく微笑いながらそうと告げた。その途端、
「そう…ですか。それじゃあ…。」
 入って来ぬまま歩み去ろうとする夫の長身痩躯へ、
「こ〜ら。どこ行くのかな? サンジくん。」
 ちょっとばかり叱るような口調の疑問形で声をかける奥方だ。多分、予測はあったのだろうが、どこか…コントの合いの手のようで、引き留めた本人であるマダム・ナミ本人からして既にクスクスと吹き出しかけている。
「いや、どこって。」
 金髪碧眼の長身痩躯。まるでどこぞの有名なモデルか俳優ばりに整った容姿をした彼こそは、世界市場という規模の経済界を牛耳ることだって出来るという、その筋では知らぬ者はいない、凄腕経済エージェントのMr.サンジェストこと、サンジ氏である。彼の手腕によって風前の灯火から立ち直った企業は数知れず。逆に、由緒ある歴史を誇り、人脈・立場を笠に着て悪辣さで鳴らしていた巨大企業を、そ〜れはあっさり仕留めて息の根を止めたことでも秘かに有名。その雰囲気に落ち着きを帯びるのが早い欧米人とはいえ、三十代にまだ手は届いていなかろうという若々しい見目に油断をするとえらいことになるという、この世界での"ビッグネーム"なの…だが。そんなご本人のすぐ身辺の今日この頃はといえば、只今生後3カ月の愛娘にぞっこん岡惚れ中の、絵に描いたような"親ばか"さんにすぎない、お若いお父さんでもある。まま、よくある微笑ましいエピソードではあるのだが、ただ…一つばかり"問題"があって、
「ダメよ。また無理から起こしたって愚図られて、大声で泣き出されても良いの?」
 そう。お父上からのこの溺愛がどういう訳だか上手く伝わらず、相変わらず下手に突付くと容赦なく愚図られてしまう相性にある父娘なのである。………ちょっとお気の毒。
「だからと言って顔を合わせないでいては何にもならないでしょう? 今はただひたすら、馴染んでもらわにゃあ。」
 彼の仕事柄というものにも問題がある。その殆んどの執務を在宅にてこなす代物なだけに、一日中家族と自由に過ごせると誤解されがちだが、例えば大きなプロジェクトを一旦始動させると、昼も夜もない状態で世界中の市場の動向を睨みつつ、丁々発止のやり取りをひたすら続けるような状態に入る。それが数日、下手をすればすれば半月ほども続いたりし、同じ屋根の下にいながら数日ほどまるきり逢えないという事がざらになる。1日で大人の数ヶ月分ほども成長する赤ちゃんであるベルちゃんにしてみれば、数日の空白はそのまま何週間に匹敵するほどの空白に等しく、結果、なかなか馴染めないという訳で。とはいえ、
「それに、ここ何日かはずっとご機嫌さんなんですよ?」
 ご本人は全くめげてはいらっしゃらない。不屈の騎士たる彼のこと、最愛の愛娘を相手にいちいち臆してはいられないのだろう。にっこりと微笑む彼に、困った事ねと何とも言えない苦笑を返した奥方ではあったが、そんなところへ。奥まったパソコン用のデスクから、軽やかな電子音が流れて来た。
「あら。」
 発信元や送られて来たメールの形状別にメロディ設定は決まっていて、だが、あまり聞き覚えのないメロディが流れて来たものだから、
「これは…確か"ヴィジフォン"だったかしら。」
 動画によるリアルタイムの双方向通信。しかも特別な光ファイバーを利用した、超ADSL。手っ取り早く言うなら、一種の"テレビ電話"である。
「そうでしたっけ。」
 だとすれば急ぎの連絡、それも担当責任者本人だと証明するための鮮明画像によるもの…ということだろうに、気持ちがほぼ愛娘の方へと向かいかけていたサンジは、どうかすると"これ幸い"という体であり、
「お任せして良いですか? ナミさん。」
 そんなことを言い出す始末。彼女がそちらへかかっている隙に、ベルちゃんの傍らへ向かおうという魂胆が見え見えであり、
"仕事上では、策士なんだけれどもね。"
 普段は打って変わって分かりやすい人よねと、苦笑したマダム・ナミは、だが。
"でも…この曲って、確か。"
 その苦笑の半ばほどにて、とある事へも気がついていた。何はともあれ、モニターの前に着席し、帆船が軽快に海原をゆくデモ画面を切り替えて着信画面を呼び出すと、

   【………、っんく。】

 小さな小さな、今にも泣き出しそうな声が先に聞こえて来て。それから画像が・んぱっと映し出される。
"…やっぱりね。"
 業務連絡などではない。バリバリのプライベートにして、サンジのみならずナミもまた最優先でキャッチしましょうぞと常から構えているところの相手だ。
【………ナミさん?】
「ええ。どうしたのかしら? ル」
「ルフィ、どうした。そっちはまだ朝早いんだろうに。」

   す、素早い。
(笑)あんた確か刳り貫きの向こう、廊下を進みかけてなかったか?

"…確かに。"
 肩口辺りからいきなりサンジに割り込まれたナミは、だが、今更なことよねと本当に小さく笑っただけで済ますことにした。この少年に関してだけは、愛娘よりも優先…するかも知れないサンジだと、こればっかりはナミも重々了解していること。(現に今もそうだし/笑)彼の永遠の孤独を唯一埋めてくれた愛らしい存在。何事にも懸命で、健気で一途で。人をよく思いやり、一緒にいるだけで元気にしてくれる、屈託のない笑顔が愛らしい、そんな…今時には奇跡のような少年なのだ、このルフィは。………とはいえ。
「どうしたんだ? ルフィ。何か怖い夢でも見たのか?」
 モニターに映し出されているのは、DVD並みの高画質の、しかもほぼ地球の反対側からやって来たデータであるとは思えぬほどに滑らかな動画画像。なればこそ、大きな眸が常以上の潤みをたたえていることや、唇の震えを懸命に押さえ込もうとしている健気なわななきが、すぐ隣りのスタジオからの映像であるかのような鮮明さで伝わって来ていて、
「…ルフィ?」
 モニターへと食いつきかねないほど近寄りかかったサンジの目の前、俯きかかった小さなお顔がとうとう"くすん"と鼻を鳴らして、
【サンジぃ。俺、俺…どうしたら良いんだろう。ゾロがね? ゾロが、口利いてくれないんだ。】
 それはそれはか細い声で、そんな風に訴えたものだから。


   「あの野郎、とうとうルフィを泣かしやがったなっ!」


 相変わらずに愛くるしい幼い姿ではあるが、中身は微妙に違うのだ、彼は。見た目のせいで"子供"として扱われて過ごしたとはいえ、7年間もの流浪の生活を余儀なくされていて。そして、その間にその身で受けた様々な経験から、深くて豊かな感受性を身につけた子だ。逢いたい人も帰りたい家もあったろうに、それらをすっぱりと諦めて。寂しくても辛くても、サンジの前では屈託なく笑って見せていた我慢強い子。それをこうも苦しげに…恐らくはまだ眠っている"本人"に気づかれまいとしてだろう、声を押し殺して泣かせるほど追い詰めるとはっ! 語気も鼻息も荒々しく、怒りを込めてそう言い放ち、
「待ってろ、ルフィ。今夜…今日中にそっちに着くから。」
 向こうは今から一日が始まるのだということで、言い直すだけの余裕があるらしいのは認めるが、
「サンジくん、ちょっと待った。」
 部屋から飛び出して行きかねない…そして恐らくはそのままこの国の某国大使館へ駆け込んで、有無をも言わさず最新鋭の戦闘機の発進許可をもぎ取って、遠い極東の島国の、横須賀ベイスに着陸…なんてな恐ろしいプランを即日で実行出来るだけの人だから堪ったものではない夫を、素早く襟首掴んで引き留める。
"戦闘機の飛行中の凄まじいGにだって、死ぬ気で耐えてしまうのでしょうしね。"
 そりゃまた凄い…。さすがは元工作員だったマダムで、素早く伸ばした手で夫を引き留めつつ、
"大体、とうとうってのは何。"
 夫の言葉をちゃんと分析する辺り、あくまでも冷静な人である。そうよね、とうとうっていうのは予測があって出る言葉よね。あの娘婿
を信頼してなかったんかい、あんた。
「ねぇ、ルフィ。もっと細かいところを説明してくれないかしら。」
 ナミは画面の中の頼りなげなお顔でいる少年へ、出来得る限りのやさしい笑顔を見せて、そうと促したのであった。



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 *42000hitを踏まれた岸本礼二様からリクエストいただきましたキリリク作品でございます。
  で、例によって、またまた分割UPでございます。
  何でこう、長くなるんでしょうかしら。
  えと、これで1/3というところでしょうか。続きは書きあがり次第UPさせていただきます。