月夜見

  蒼夏の螺旋 〜サマー・スパイラル
         *現代の日本を舞台にしたパラレルものです。


        




 従弟のルフィが行方不明になったという知らせを受けたのは、梅雨が明けたばかりの夏休みも間近い頃だった。俺は高校に上がったばかりで、奴はまだ中学生で。通っていた学校の交換留学生とやらに選出されて、一年間だけ海外の提携校へ留学していて、あちらの学期末にあたる夏休みには一時的に帰ってくるとか言っていたのに。
『何でも、下級生が溺れかかってたところを助けてやったそうだ。』
 泳ぎは得意な奴だったのに。
『だが、流れの急な河の、海へと注ぎ込む河口近くで、しかも大潮で水嵩が増していたらしくてね。』
 何もかも間が悪かったということか。助けた下級生を岸にいた知人に託すと、見る見る波間に呑まれてしまい、救助隊が出たが1週間たっても見つからなかったという。そのまま海へ押し流されたとして、北の極海に近い土地。この時期でも水温は低く、まずは助からないという話で。
『可愛い子だったのにねぇ。』
 結構仲が良かった従弟で、盆暮れには父親や兄に伴われて遊びに来たし、中学へ上がってからは、外で待ち合わせて野球やサッカーの観戦だの遊園地だのにも時々出掛けた。学校の友達は沢山いたようで、それでも日曜祭日前には電話をかけて来て、遊ぼうとせがんだ。留学の話が持ち上がって、先々のことを考えたら受けた方が良いと勧めると、泣き出しそうな顔になり、しばらく連絡が来なくって。やっと会えたのは出発の日で、
〈夏休みには帰って来るから。〉
 まだ出掛ける前だというのに、もうそんな約束を残して発った彼だった。


 夏が近づくとどうしても思い出した。色々な学生の大会があったり、それでなくとも昼日中からあのくらいの年頃の子らが、夏休みを前に街にあふれるからだろうか。
『七回忌があるから帰って来なさい。』
 母からの電話に、だが、仕事が詰まっているからと言い訳した。まったくの嘘ではない。大学を出て、社会人になったばかりの身だ。盆の休みに必ず墓へは参るからと、そうとだけ言って電話を切った。だが、これまで一度も墓参に足を運んだことはない。何だか、そうすることが彼の死を認めてしまうような気がして億劫だったのだ。まさかに"生きている"とまでは思っていない。もう7年。無事なら何らかの連絡がある筈だ。だが、もう居ないのだと、そう認めるのが何だか…辛くて。ホントの兄より懐いてくれた、大きな眸の人懐っこい少年のことが、どうしても心のどこかに居着いたまま、忘れられなくて。
「…っと。」
 会社帰りの乗り換え駅。朝とは違って、皆が皆、一斉に帰宅する訳でないせいか、あれほどのラッシュで混み合うのが嘘のように、この時間帯は人影もまばらだ。目的のホームまで楽に移動出来るため、身体を動かすのが好きなものだから、急ぐ必要もないのについつい足早になってしまう。構内に立ち込めるのは、独特の響きを帯びた案内放送と、輪郭のぼやけた雑踏のざわめき。意外に話し声よりも靴音が勝るのは、無言のまま歩いている人々の方が多いという場所柄のせいだろうか。そんな通廊を通ってプラットホームへと登る階段に差しかかると、電車が線路を軋ませるブレーキ音や、外へと開けた構外からの車の音などが、人々のざわめきの外側に沿って入り混じる。
「お…っと。」
 沢山の人々に踏みしめられることで独特なつやの出た、幅のある石の階段を上っていた途中、降りて来た誰かのカバンがブン…と顔近くへ飛んで来た。デイバッグを左肩から右肩へ持ち替えたタイミングとかち合ってしまったらしく、咄嗟に右手を軽く差し上げてガードすると、
「あ、すいませんっ!」
 バッグの主だろう、学生らしい若い声がした。伸びやかな、少しばかり舌っ足らずな少年の声。
「痛くなかったですか? うっかりしてて。」
「あ、いや。大丈夫。」
 今時には珍しい。女の子ならともかく、男の子は照れもあってか目礼だけが良いところで、どうかすると"そんなトコに居るのが悪いんだよ"と睨みつけて来たりもする。その少年はわざわざ立ち止まると、バッグを足元に降ろし、こちらを真っ直ぐ見やって来ての詫びを告げた。ぺこっと下げた頭にはぱさぱさの黒い髪。大きな眸に、成長過渡期らしき、細くて長い手足。
「じゃあ、ホント、すみませんでした。」
 再度再度頭を下げて、階段を降りて行った少年に、だが、何だか…妙な既視感を覚えた。

   …どこかで逢ったことはないか?


 この春から一人暮らしを始めたマンションへと辿り着き、メイルボックスを確かめると、さまざまにカラフルなダイレクトメールたちの中に、手書きの白封筒が大人しやかに混じっていた。携帯電話やパソコンへのメール全盛という今時に、わざわざ封書で手紙をくれるとなると、故郷の母くらいのもの。裏を返せば果たして送り主はやはり母で、部屋へと上がってスーツを脱いで、ザッとシャワーを浴びた後、冷蔵庫から出したスポーツドリンクのペットボトルを片手に戻った居間で"どれどれ"と封を切ると、先の電話を曖昧な返事と解釈したのか、ルフィの七回忌が営まれる日時や場所や何やという詳細が綴られてあり、生きていれば二十一で大学生だったのにねと、あらためて悼むような言葉が続いて…。
「………。」
 胸の裡で、澱のようにわだかまった何かがあった。背は何とかあったが童顔で、殊に黒々とした大きな眸が愛らしく、人懐っこい笑い方をする向日葵のような少年。

  “………。”

 つい先刻、あの乗り換え駅ですれ違った少年を、何故だか思い出す。舌っ足らずな声。懐っこい眸。細いと見えて、だが、バネのありそうな印象のある身体つき。中学生くらいだったろうか。電車通学ということは、小柄な高校生だったのかも。…とはいえ、
"………。"
 何を考えているのだろうかと、脳裏へと浮かんだ想いを振り払うように首を揺する。7年前に行方が分からなくなった従弟。遠い異国の大河に呑まれた少年。年齢からして同一人物である筈がないのだ、馬鹿な妄想だと一笑に伏す。死んだと未だに認めていなかったくせに、そんなワケないと、もう彼はこの世にはいないのだからと自分へ言い聞かせる。窓の外には、陽が長くなった遅い黄昏。
"………。"
 こんな形でそれを認めることになろうとは。一人で居る時で良かったなと、漠然と思った。ガラス窓に映った顔が、何とも情けないほど力のない代物だったから。どこかで誰かが蹴ったのだろう。空き缶の弾かれる空虚な音が、薄い宵闇の底で乾いた名残りを滲ませて消えた。

            ◇

 そんな些細なことは一晩寝たらすっかり忘れていた彼で、いつものように会社に出向き、デスクに向かい、パソコン画面に集中した。まだ新米もいいところなので、企画会議などにはそうそう口を挟めないが、着実・堅実・誠実な仕事ぶりへの評価は高く、愛想が良いとはお世辞にも言えない、社会人としてはかなり大きな"マイナス・ファクター"を持ちながらも、上司や先輩たちからの受けも良い。対人においては少々無骨で不器用だが、根本的なところでやさしいというところを早々と見抜かれて、女性陣にもこっそり人気はあるらしく、そっちの方面には当人の関心が全く向かない、そんなストイックなところがまた良いと、人気のほどは密かに赤丸急上昇中。かの如く、順風満帆、先々が楽しみだねぇと周囲からも認められつつある、エリート候補のビジネスマン。それが"彼"である。自宅や職場、知己たちからの評という、生活圏、テリトリー・サークル内ではそのような評価を受けつつも、もっと広いエリアに於いては、ごくごく平凡なサラリーマンに過ぎない、若い男性。

"…ん?"
 帰りの乗り換え駅に着いて、ふと、昨日のシチュエーションを思い出した。上司や先輩からの付き合いというものがあまり強制されない昨今。さほど趣味も無いせいで、寄り道もせず同じ時間に同じ電車で帰る彼で。昨日と同じ時間にホームへの上り階段に差しかかり、何げなく見上げた視線が…人込みの中に見覚えのあるデイバッグを捉えた。持ち主がこちらに気づいて、口が丸く開いたところを見ると、あっと口から声が洩れるほどのインパクトで向こうでも思い出したのだろう。小さく頭を下げるような会釈を見せる少年に、あいにくと愛想笑いというのが苦手なものだから、何を返せば良いのやらと戸惑って。それでこちらも小さく頭を下げて見せると、ちょっと驚いてから…眩しそうにニコッと笑った。その間、双方とも立ち止まっていた訳でなく、これらの一連のやり取りをし、少年が微笑を見せたところですれ違った二人である。別に振り返りはしなかったが、
"やっぱり、似てる…かな?"
 そういえば写真の一枚も持っていない。こうまで長いことブランクがあったせいか、存在は忘れなくとも詳細までは案外と覚えていないもので。印象が同じなだけで、確かめたら実は全然似てないのかも知れない。そうと思ってから、
"………。"
 どうしてこうも囚われる自分なのだろうかと我に返る。母からの電話や手紙で強く思い出していたところへ、かの少年と出会ったそのタイミングのせいだろうか? 気を取られたことで自然ゆるくなる歩調が、いつも乗り込む電車を見送らせた。
"何やってんだ、おい。"
 会社や環境にようやく慣れて来た気の緩みが、そんな事を考えるまでの余裕を呼んだのだろうか。それとも、自分が傷つきたくないばっかりに、長い間触れずにいたことへの後ろめたさが我知らず沸き立ったということか。
"………。"
 吐息をついて、だが、苦笑を洩らす。
"…そうだな。良い機会だから、今年こそ墓へも行ってみるか。"
 どっちつかずな宙ぶらりんにされては、ルフィだって落ち着くまい。気持ちに鳧をつける良い機会なのかもと考えて、ホームの屋根と屋根の狭間から覗く、まだ仄かに明るい空を振り仰いだ。電車の架線が縦横に細かく区切っている空へ、早夏の淡い暮色が滲み始めていた黄昏時であった。


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