月夜見

  蒼夏の螺旋 〜サマー・スパイラル C


        




 あれから3日が経つ。あの駅にも二度と少年は現れず、何が何やら、未だに判らないことが山ほどあって。翻弄されたままなような曖昧な気分は、彼からしばしば集中力を奪い、今日はとうとう、彼には珍しい小さなミスをしでかして、上司の首を傾げさせもした。
〈張り切り過ぎて疲れが出たのかも知れないね。君ほどの男なら、どんな仕事にでももう余裕で当たって良いんだから、根を詰めないでもっと大きく構えなさい。〉
 何を勘違いしたか、そんな励ましのお言葉までいただいてしまったほどだ。
"………。"
 一体何がどうなっているのやらと混乱してばかりもいられない。ただの白昼夢だったと無理から割り切って忘れるか、それとも…。
「…チッ。」
 それが出来る性格ではないのは、自分で重々判っているゾロだ。

 〈この国じゃあ、一端
いっぱしのビジネスマンが子供を吊るし上げるのかい?〉

 あの男。彼が全ての鍵を握っているのではなかろうか。金髪碧眼で、そのくせ流暢に日本語を操り、車を自分で運転してもいた。ルフィが消息を絶った国の人間で、だが、日本にも馴染み深い人物。日本に在住していればともかく、そうでないならレンタカーな筈で、車種は…と、幾つかの手掛かりからの割り出しようはあるのだが、いかんせん、一般人には限度もある。刑事のように訊き込みが出来る訳ではない以上、絞り込む要素を幾ら数えられても意味がない。
"………。"
 ルフィ…らしき少年を連れて走り去った車。それを見送った場末の駐車場についつい足が向いた。あれが最後になってしまうのだろうか。彼は本当にルフィ本人だったのだろうか。だとしたら、何故あんな段取りを仕立ててまで自分と会ってくれたのか。
"ルフィ…。"
 こんな曖昧なことで、彼の実家に連絡を取る訳にもいかない。第一、ちゃんと実家へ戻っているなら、こんなややこしいことはする必要などない筈だ。ゾロをからかいたかったのか? それにしては、あの最後の悲愴な顔は何を意味しているのか。
"………。"
 あれほど人懐っこい顔を何日も続けて見て来たというのに、思い出すのは最後に間近で見た、それは辛そうな苦悶の顔だ。掴み取った腕を振り払う直前の、今にも泣き出しそうだった幼い顔。目許の傷を作った時や、ああそれよりも、あれは留学の話を受けた方が良いと勧めた時の顔に似ていたかな。何がそんなに嫌だったのかと、気になりはしたが、学校の行事が立て込んで忙しく、ついついこちらからは連絡を取らなかった。自慢じゃないが、こちとら濃
こまやかな機微には昔から疎い。言ってくれなきゃ判らない。あんな悲しそうな顔をした記憶を残して、またぞろ、いつまでも消えない、辛い思い出になってしまうのだろうか。
「………。」
 此処に居たって何が拾える訳でもないのに、ほんの2、3台しか停まってはいない車や煤けたフェンスをぼんやりと眺める。笑顔を見ると気持ちの和む、愛惜しい子供。いつだって溌剌と元気で、無邪気なところを誰からも必ず好かれて。そういうところを並べると、自分とは重なるところの少ない、ともすれば正反対な気性や性格をしていた彼だのに、一緒にいるのが楽しくて心地よくて、彼から"遊ぼうよ"という連絡があるのが、実はこちらでも楽しみだった。今にして思えば…今回の奇妙な再会の発端からこっち、ずるずるとあの少年に付き合っていたのも、そういう懐っこさを感じてのことだった。どうしてその辺りで気づかなかったのだろうか、いや、まさか当時のままの姿でいるとは思わないさと、実りのない自問自答を心の中でついつい繰り返してしまう。
"………。"
 どうにも踏ん切りがつかなくて、夕映えの始まる中に立ち尽くす彼に、
「…そこのあなた。」
 不意な声が掛けられたのは、辺りに初夏の黄昏独特の淡いベールが降りかけた頃合い。振り返ったゾロの視野へと飛び込んで来た声の主は、薄く暮れなずむ中に突然舞い降りた神憑りな使者のような毅然とした表情をした、だが、ゾロにはまるきり覚えのない、一人の女性である。すらりと締まった細身の身体に、デザイナーズブランドらしき、品の良いスーツを着こなしていて。サングラスのせいで年の頃は判りにくかったが、さほど年嵩というほどでもない、うら若き日本人女性である。…日本の町外れで外国人に出会うのは、それが東京や横浜、神戸などといういかにもな土地であっても結構珍しいこと。だのにわざわざ"日本人女性"と描写したのは、彼女の髪が見事なまでに赤い亜麻色だったからで、初見の人間へいきなりこういう口を利くところも、どこか日本人離れしていると思ったからだが、
「この街で妙な徘徊をしていたこの二人をご存知ではないかしら。」
 セカンドバッグから取り出した二枚の写真を差し出して示す。他人の人探しに関わっている場合ではないのだがと、思いはしたが言い出せず、ややもすると機械的な動作で写真を受け取った。………が。
"…っ! これは…っ?!"
 今まで微睡んでいたものを叩き起こされたような気がした。そこに写っているのは、一枚に一人ずつのバストショット…上半身を収めた被写体たちで、どちらも隠し撮りらしく顔は明後日の方を向いている。片やは真っ直ぐなプラチナブロンドの前髪を鬱陶しくも顔の半分へと垂らした男で、何かしらの作業途中なのか、ネクタイを緩め、カラーシャツを腕まくりにしていて。少しばかりシニカルな無愛想顔で写っているのが、丁度ゾロの記憶にある"彼"と見事に合致した。もう片やは隣りの誰かの肩口に頭を預けてうたた寝をしている黒髪の日本人少年で、これも間違いなく、あの子ではないだろうか。愕然として見せる彼の様子に、
「やはりご存知なのね。」
 彼女は最初から確信があったような口ぶりでいて、小さく微笑むと呆然としているゾロから写真を取り返し、
「どうかしら。これから私と…私の話と付き合って下さらない?」
 意味深な響きのある言い回しだ。こちらが不可思議な"彼ら"という存在を知っていればこそ、その言い方の奥にこの女性が何かを知っているのではなかろうかと想起させる、そんな風な言い回し。
「………。」
 どんな手掛かりや糸口でも良いから欲しかったところだ。ゾロは頷くと、彼女の挑むような眼差しを真っ直ぐに受け止め、むしろこちらからもきつく睨み返していた。

            ◇

 この辺りでは一番高級なホテルの最上階フロアを丸ごと借り切り、ボディガードらしき屈強な男性たちをエレベーターホールに数人待機させてという、いやに物々しい滞在をしていたその女性は、リビングへと導いたゾロにソファーを勧め、メイドにアフタヌーンティーの用意をさせた上で、やっと自分の名を"ナミ"というのだと名乗った。それ以上は語らず、だが、
「あなたを標的にするために、彼らが自分たちの背後へさしたる用心もせずこの町に滞在していてくれたのは、私にとっても好都合でした。その意味から言えば、あなたには感謝しなくてはなりません。」
 きびきびと話を進めてくれた方が、ゾロにはいっそ余計なことを考えずに済むのが大助かりで。それに、
「その写真の男は一体何者なんです。」
 彼女の正体よりも、彼らのことの方を知りたい。一方口の…相手のいる事象への片方の立場からだけの情報というものの危険性はよくよく知ってはいるが、肝心な"相手"の行方を追いたいのだから、今はどんなに偏った情報でも彼には貴重だった。
「私が長年追っていた男。名前はサンジといって、何かしらの犯罪者である訳ではないのですが…。」
 ここで彼女は言葉を止めた。
「あなたはどこまで知っているのかしら。私なりに調べた限りでは、あなたはあの、彼と一緒にいた子供と関わりがお有りなようだけれど、それにしてもどういう繋がりなのかは判らなかったわ。」
 さすがに何もかもを知っている訳ではないのだろう。知らないことがあったからこそ、直接ゾロに接近したとも言えるのかも。どこか探るような、油断のない目をする彼女に、
「今更警戒するくらいなら、こんなところまで連れて来ないこったな。それとも…自分の勘に自信がなくなったのか?」
 ゾロはゾロで、少しばかり強い語調で言い放った。こういうことへの駆け引きめいたものに強い彼ではなかったが、だからと言って優柔不断でもない。むしろ妙に…下手をすれば偏屈なまでに頑固な一面もあって、あの少年へ無防備なほど気を許したかと思えば、この彼女へ構えたように警戒心を尖らせる事だってある。それにこの場合、相手にばかり優先権を認めて鼻面を引き回されるのは危険かも知れないと、日頃の堅実さが顔を出したまでのこと。情報が欲しくてついて来るには来たが、いくら唯一の鍵だとはいえ、正体を明かさない怪しい相手へ何もすっかり委ねて下手に構えることはないのだし、体よく利用されるのは矜持のような何かが許さない。あの男といいこの女といい、自分はどうやら得体の知れない何かに関わってしまい、ともすれば彼らの仕立てたステージの上へ知らぬ間に誘い込まれて、踊らされていたのかも。それも…自分でも気づかなかった、自分の心の中で最も脆くて柔らかな部分であった"ルフィ"という弱点を衝かれて、だ。となれば、落ち着いて来れば来るほどに、無性に腹立たしくなっても来る。………と、
「…判りました。」
 ここまで妙に居丈高だった彼女だったが、
「あなたに声をかけたのは自分の勘で決めたこと。確かに、ここまでお連れしておいて今更疑うのは理屈がおかしいのかも知れません。」
 ゾロの言いように、反駁のしようのない正当性を認めたのだろう。小さく息をつき、譲歩の様子を見せる。初対面の、しかも見様によっては恐持てがするほどの体格のいい成人男性を、ともすれば有無をも言わせず引っ張って来た凛とした態度や強い意志を滲ませた強気の眼差し。それらは…世間や怖いものを知らぬ、ただの利かん気から発しているものではなく、彼女自身が構築した強かなまでの自負があってのものだったらしい。だからこそ、自分に非があれば認めもするし、相手の声を聞き、冷静な判断による理解を寄せもするのだろう。
「ただ、執拗に警戒するのは已を得ないということを理解していただきたいんです。私たちは長い間、人の目から逃れるようにして生きて来た。そう…彼も私も同類なのです。そして恐らくはあの少年も。」
 そうと言ってついと上げられた視線。ここまできりりと毅然としたそれだったものが、初めて…どこか悲しげな寂寥の気色を帯びて見え、
「………?」
 ゾロは自分が関わることとなった事象の、何とも言えない輪郭のようなものの複雑さをひしひしと感じたのだった。



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