月夜見

  蒼夏の螺旋 〜サマー・スパイラル D


        




 空気の中に、目には見えない何かを感じる。辺りに漂うのは肌触りの良い無音、沈黙。だが、カーテンの向こうにうずくまる"朝"の気配は隠しようがなく、街中だのに何の鳥だろうか、妙に甲高い声できぃーききぃーと鳴いて遠ざかるのが、空の高みに張られたガラスを、飛びながら引っ掻いてゆくようにも聞こえた。
"………。"
 いつからか"人の懐ろの中"という、飛びっきりの特別な温もりの中で目が覚めるのが習慣になった。やさしい温みとさわさわと心地いい感触。時々吸っている煙草の匂いや、ちょっぴり甘いのは趣味の料理で使う香辛料の匂いだろうか。色んな良い匂いのする温かい腕の中で、充分寝足りて目を覚ます。
"………。"
 見上げると、長い前髪の陰に伏せられた眸。昼間に遠目で見る横顔は、欧州人ならではの彫りの深さのめりはりが、時に翳りに沈んで気難しく尖り、人を拒絶しているかに見えたりもするが、こうやって間近で見る顔は…逆にどこか寂しげで。じっと見ていると何だか切なくなる。もしかしたら、ずっとずっと自分に対して"贖罪"にも似た気持ちを持ち続けている彼であるのかもしれない。消えかかっていた生命へ手を差し伸べてくれた彼だが、その代わり、苛酷で辛い生き方を勝手に強いたという解釈も出来る。明るくはしゃぐルフィを殊更眩しげに見やるのは、そんなせいも多分にあるのかも知れない。
「…ん。」
 こちらからの凝視が刺激になったのか、喉の奥で小さな咳をしてから長い吐息を一つつき、どうやら目を覚ましたらしい気配。胸元近くまでボタンを外していたパジャマの襟の角が、顎の先に当たってくすぐったそうで。目を瞑ったままで顔を左右に避けようとする、どこか子供じみた仕草に、ついついクスクスと微笑ってしまう。
「サンジ。」
「ん〜?」
 声をかけるとやっと目を開け、胸元からの声の出どころを探し、こちらの眸へぼんやりと微笑いかけてくれる。
「よく眠れたか?」
「うん。」
 瞬きで頷く少年の黒い髪を、まるで犬でも撫でるように、ぱさぱさと毛並みを掻き分けるようにして自分の胸板の上で掻き回し、
「あはは…。やめろよ、くすぐったいよぉ。」
 胸にしがみついて声を立てて笑うルフィを、愛惜しくてしようがないという眼差しで見やる。一人で居た頃は、馴れも手伝って怖いものはなかった。冗談抜きに切っても突いても死なない身だし、社会的な地位なんてものは目立ってしまうから必要なかったし。与えられた長い時間を手のひらの上でころころと転がしている内に築けていた、経営コンサルタントという"隠れ簑"もあったせいで、そこそこ見苦しくはない生活を営む素振りを保ちつつ、それでもどこか惰性で生きていたようなものだった。………そこへ"彼"が飛び込んで来た。
〈じゃあ、サンジは大人なんだ。だって…俺の保護者だもん。〉
 屈託のない笑顔には溌剌とした生命力が滲み、頓着なくまとわりついてくる懐っこい態度の幼さが何とも言えず愛惜しい。最初はどこか…彼の身の上を歪めてしまった義務感から傍に居て目を配っていたものが、今ではそんな彼が愛惜しくて愛惜しくてたまらない自分に気づく。そう、彼を失うのが何よりも怖くて恐ろしい。再び独りに戻るなど、考えるだけでも辛くて堪らない。今回の段取りは、純粋に彼を喜ばせてやろうと思って仕立てたものだったが、泣きながら自分の懐ろへと戻って来た彼に、心のどこかで秘やかに安堵したのも間違いのない事実だった。
"…汚ないよな。"
 心を引き裂くほど酷く傷つけて、他に頼りの無い身だと思い知らせて。自分から離れられない彼なのだと、あらためて念を押したようなものなのかも。
「なあ、サンジ。…サンジってばっ。」
 ベッドの上で身を起こしたまま、どこかぼんやりと考え事でもしている彼に、ルフィが少しばかり焦れたような声をかける。
「あ。何だ、どうした?」
 我に返って見やると、ベッドから降りて大窓のカーテンを一気に引き開けたその勢いのままに歩みを運んだクロゼットを開け、ハンガーに掛けられた服を、裾を引っ張って外して回っている少年で。吊るされているバーに手が届かない訳ではない。単にずぼらなだけで、余計なシャツまで引き摺り降ろしたルフィに、サンジは"こらっ"という眸を向けた。やんちゃも過ぎればただの悪戯。叱るべきものは手厳しく叱って来た彼であり、肩をすくめたルフィは、落としたシャツを渋々ながら元のハンガーに掛け直した。そして、
「どうしてサンジ、女っ気ないんだ?」
「はあ?」
 大きな窓から降りそそぐ朝の光の中、今日着る服とやらを抱えてベッドまで戻って来ながら、ルフィは続けた。
「だって街とか歩いてても、女の人の半分以上は、サンジのこと振り返ったり見つめたりしてくんだぞ? 外国人が珍しい日本じゃ無くて、欧州
あっちに居ても。」
「…お前ね。」
 まだまだお子様で鈍
トロいと見えて、その実、妙なことへは目聡いし耳年増だ。構えて教えることより余計なことの方が、関心や好奇心が高いせいで吸収も早いというところか。
「俺がいるから邪魔なのか? 外でのデートなら関係ない筈だぞ?」
 もしかして彼なりに何か遠慮しているのだろうか。だとしたなら、物凄く見当違いな誤解なのだがと苦笑をし、
「最後まで付き合ってやれんのに酷だろうが。」
 Tシャツの上に羽織ったシャツの、小さめのボタンに苦戦しているのを手伝ってやりながら、短くそうと応じた。奇矯な身の上の自分が一般女性と結婚出来る筈はなかろうと、遠回しに言う。こんな風に言葉を省いたやりとりは、もうすっかり常のものになってはいるが、
「…古い人間なんだな、サンジって。」
 交際イコール"結婚まで責任を持つこと"だと思っている彼へ呆れるルフィであり、
「悪かったな、古い人間で。」
 目許を眇めつつ、女性週刊誌だけは読ませまいと、改めて心に刻む保護者殿である。

            ◇

"だけど、俺、知ってるんだ。"
 普通の人間には関心がない、興味を寄せるだけ時間の無駄だと、そんな言い方をし、実際にもあまり目を向けはしないサンジだが、時々、ふ…っと視線を奪われている対象がある。短めの髪、それも燃えるような赤い、いや、オレンジがかった亜麻色の髪の女性にだけは、ついつい目を奪われていると、さすがは一番近くに長いこと居るだけあって、気がついていたルフィだ。それが"本人"ではないような眺め方ではあるが、ということは、その上へ別な誰かの面影を重ねている彼なのではなかろうか。
"知ってる人に似てるからかな?"
 だが、サンジはあまり自分のことは話してくれない。
〈お前が生まれるより前の古い話しか出ては来ないから、聞いたってお前には判らないことばっかだよ。〉
 今朝の問答ではないが、いつだってそんな言い方をしてはぐらかす彼であり、結局自分にまつわることは何も話してはくれない。こんなに間近い自分にさえガードが固いということか、それとも…口にしたくはない何かしら、辛い過去でもあるのだろうか。
「お待ち遠さん。」
 フロントでチェックアウトして来たサンジが戻って来たのを見計らい、ロビーのソファーからぴょこっと立ち上がる。胸元に手描きの模様が入ったTシャツの上へ赤いストライプの半袖シャツを重ね、ボトムはカーキー系の膝までのゆったりした七分パンツ。足元は白いソックスにスニーカーと来て、ともすれば女の子でも着ていそうな夏向きの格好だが、童顔と細身の肢体とに良く似合っている。肩にはあのデイバッグを引っかけてはいるが、中身は大して入っていないらしくて、空気の抜けた風船のように萎
しぼんでいる。
「このまま空港?」
「ああ。車は向こうまで乗ってく。忘れ物は無いな?」
「うん。」
 次の滞在地は再び海外だが、手荷物は殆どない。サンジにしても薄いブリーフケース一つを手にしているだけだ。服だの小物だの、送れるものは先に送ってあるし、もともとあまり持ち歩かない。それどころか、愛用品というものをほとんど持たない二人だ。今や何でもレンタル出来る時代だし、長い長い歳月に渡っての流浪の身には、物への執着が却って浮かばないものである。とはいえ…ホテルを点々とする生活にも慣れたものだが、そろそろ久し振りにしばらく居着く家でも探そうかなぞと話していたりする彼らでもある。
「…なあ、ルフィ。」
 初夏という季節に合わせた生地の、だが、色味は濃いスーツを隙なく着こなす長身痩躯。直毛のハニーブロンドを長めに垂らした髪形に、宝石の透明感をたたえた青い眸、透けるような白い肌とすっきりと整った欧州系の顔容と来て、どんなに地味にシックに拵
こしらえをまとめても、辺りを照らすような印象は拭えずにいる。並んで歩いているとちょっぴり誇らしい、そんな保護者から掛けられた声に、
「んん?」
 気安い応じで答えると、
「あいつ…お前の大好きな従兄だがな。」
「…うん。」
「引き入れるって手もあるぞ?」
「………。」
 意味が判らなかった訳ではないし、それはサンジの方でも…うつむき加減になったルフィの表情に変化のないことから、意表をつかれた訳では無さそうだと察してもいよう。何とも答えない彼に、
「不幸にするからイヤか?」
 先んじて答えを出すと、途端に唇を尖らせて言い返して来る。
「俺は不幸なんかじゃないぞ?」
 でも、だけど。決して素晴らしいことでもない。現在のゾロが身を置き、日々を送っている充実した生活を捨てさせる権限は、自分たちはおろか、どこの誰にだってないのだ。
「もう良いんだ、ゾロのことは。会えただけで充分。」
 ルフィは淡々とした声で言った。ほんの数日前のことを、随分と昔のことのように思おうとしている。
「ちょっと混乱させちゃったのが気の毒だったけど、忙しくなればいつの間にか忘れるだろし。」
 エントランスホールから正面玄関を出ると、見慣れたレンタカーがロータリーを回って来た。ここに滞在中、彼らが使っていた車だ。ドアマンが預かった鍵を返しながら運転席のドアを開けてくれ、もう一人がルフィのために助手席のドアを開けて待っている。二人が乗り込むと、
「サンジェスト様、お気をつけて。」
 ここに居た間、サンジが使っていた偽名で、丁寧に送り出してくれる。結構長く居たホテルなので、それでなくとも客の顔はその日のうちに覚えるのが当たり前な一流ホテルマンたちに、彼らはさぞかし印象的なエトランゼとして映っていたことだろう。そんな彼らにサンジは小さく会釈をし、ルフィも無邪気に手を振って、車を出す。
「次って何処だったっけ。」
「シンガポールだ。エコノミーネットのメインホストたちが主催する会合があって、新規カテゴリーの情報とやらを得ておかなきゃならないんでね。一般顧客になりすましてもぐり込む算段が出来てるんだよ。」
「ふ〜ん。」
「それが済んだら、しばらくは何処にいても良いようになるから、そうだな…イタリアの南海岸にでも行くか? これからバカンスのシーズンだぞ? ナポリやカプリ島なんてのも良いが、フランス寄りのサンレモとか…いっそフランスのニースかコートダジュールにするか?」
 危なげなくハンドルを操りながら、楽しげにまくし立てるサンジに、
「仕事の前って、どうしてそうやって休みの話を並べるんだ?」
 ルフィは呆れた。いつもの事であるらしく、
「そんなに気を遣わなくたって、もう留守番にだってとっくに慣れたから、不貞たり愚図ったりなんかしないさ。」
「すおぅかぁ〜〜〜?」
 途端に妙なイントネーションで疑問符を投げるサンジで、
「…なんだよ。」
「こないだの留守番では、コンドミニアムのフロア中をハリケーンが通ったかってくらい散らかし倒してくれてたろうが。今まであんなことはなかったぞ?」
 今までなかった…ということは、元からの彼の性分から出たものではないということであり、
「………だってさ、あん時は5日も、電話もメールもくれなかったじゃないか。」
 ぷっくり膨れる彼に、
"…それのどこが慣れたって?"
 鼻先で笑ったサンジだと察して、その横顔へ"い〜〜〜っ"と自慢の歯並びを披露するルフィだったりする。サンジと二人きり、向かい合った自分たちだけしか見ない、知らないで過ごす永遠。これまでの7年間があっという間だったように、これからの何年、何十年もまた、あっという間に過ぎるに違いない。まだ少しは心のどこかが痛むけれど、忘れなければ限
きりがない。それでなくたって、自分たちは皆から置き去りにされる身だ。皆がそれぞれに成長し、年老いて、やがては去ってゆくのを、こちらはいつまでも変わらぬ姿で永らえながら見送らねばならない。流れの速い川の岸辺。あっと言う間に遠ざかって見えなくなってしまう小舟たち。それを追えない身である以上、いつまでもこだわっていても、ただ自分が切ないだけなのだ。
「………。」
「…サンジ?」
 ふと、急に口を噤んでしまった彼だと気づいた。
「どうしたんだ?」
 訊きながら、だが、ルフィにも気がつくものがあった。幅の広い国道を快適に疾走していた筈が、難しい顔になっている彼で、それもその筈、4、5台の…恐らくは同じ仲間内のものだろう車たちに、巧妙に周囲を囲まれている。がっしりした車体の外車で、それがこの数で揃って走っていたとはなかなか物々しいだけに…他の車たちもさぞや"するする"と気前よく道を空けて避けてくれたに違いない。
「これって…?」
「ぬかったな。油断していたよ。」
 サンジが舌打ちをし、突破口を探そうとアクセルを踏んで前方を塞いでいる車に迫る。
「ルフィっ。」
「なに?」
「もしかして怪我の幾つか抱えるかも知れんが、構わないか?」
 すぐに治るとはいえ、痛いのに変わりはない。だからわざわざ聞いた彼であるのだろう。そして、
「うん。我慢する。」
 以前にも何度かこういう危機にまみえたことはあった。サンジの仕事のクライアント絡みだったり、どうやって察知したのか自分たちの秘密へ関心を寄せる科学者だか軍部系統の諜報員だかだったり、その時その時で相手は様々だったが、あらぬ襲撃や暴力的な構われ方をしかかった経験は、有り難くないながら枚挙の暇がない。力技でかかって来られる分には…こちらには究極の奥の手が使えるので、さほど手古摺るという印象はない。手足がもげるほどのものでもない限り、どんな大怪我でも再生出来る。それに、そんな最悪な結果になったことは、今のところまだ一度もなかった。喧嘩と呼ぶには壮絶すぎるようなカーチェイスや襲撃の数々にあっても、サンジはその全てを軽々とクリアして来た。それも、物慣れぬルフィを庇いながらだ。一体元は何をしていた人間なのだか、基礎体力もかなりのものだし、武道にも似た鮮やかな身のこなしで襲撃者たちを一蹴して来もした。
「このまま行くと、操車場の跡地に出るか。」
 某国有鉄道が財産整理のために新地
さらちにしかけていたものの、地価の暴落から売るに売れずで整地作業も中途なそのままになっている荒れ地。都会の真ん中でありながら、フェンスに囲まれた広大な…ある意味で盲点的な場所。カーナビでそれを確認し、
"こいつらの目的地もそこらしいな。"
 相手の車体のごつさには勝てず、どうでも逃れることは出来そうにない。怪我を覚悟で事故を起こし、逆に人々の目を集めて相手を辟易させて追い払うという手も無くはないが、自分だけならともかくルフィもいる。さっき覚悟の程は訊いたが、それでも余計な"痛み"は与えたくはない。
"仕方がないか。"
 ご招待に乗ってやろうじゃないかと、不敵そうな笑みを見せながら覚悟を決めたサンジである。




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