月夜見

  蒼夏の螺旋 〜サマー・スパイラル A


        




 それからの夕刻のずっと、例の少年とは必ずと言って良いほどのほぼ毎日、同じ場所ですれ違うようになった。最初の何日かは目礼を交し合っていただけだったのが、ある日、
〈あ、あの、お帰りなさい。〉
 不意に彼の方からそんな風に声を掛けて来た。たどたどしい言葉に、またまた答えに困りつつ、
〈あ、ああ。気をつけて帰れな。〉
 声を返すとそれは嬉しそうに"ぱぁっ"と笑顔になる。ほとんど見ず知らずに近い相手へ、よくもまあ簡単に懐くものだと、可愛らしく思えて。いつしかこちらからも、その階段へ差しかかるのが楽しみになっていた。学校の制服だろう、半袖の白い開襟シャツに黒いズボン。あのデイバッグを片方の肩に掛け、いつも一人で居る。時間帯から見てクラブ活動には参加していない"帰宅部"なのだろうから、それで友人たちと一緒ではないというところだろう。あれほど人懐っこくて目につき易く、しかも物怖じしない少年に、友達がいないとは到底思えない。そんな奇妙な逢瀬が何日か続いたある日のこと。
"…まいったな。"
 同僚の入力ミスが原因で、膨大な資料の作り直しという突発的な仕事が終業間際に降って来て、2時間と少しほどの残業につき合わされた。モニター画面の見すぎで目はチカチカし、これは久々に疲れた模様。早く帰って風呂に浸かるのが一番だなと、溜め息混じりに駅に降り立つ。いくら夏だとはいえ、さすがにもうすっかりと空も暗く、ホームに灯された明かりが白々と乾いた色合いで妙に目映く、目に痛いほどだった。………と、
"………え?"
 いつもとは時間帯が違う。2時間以上遅くにずれ込んでいる。だのに、いつもの階段の頂上に、あの少年が居たのだ。あまりに疲れていて判断力が落ちているのではないか。それで、全くの別人を彼だと思い込んでいるのでは?
「…あ。」
 こちらに気づいてにこぉっと笑って見せる彼だったが、こちらはそれどころではない。
「こんばんわ。」
「あ、ああ…。」
 いつもの感覚で通り過ぎようとする彼のその二の腕を、気がつけば…咄嗟に掴んでいた。
「こんな遅いのに何だが、その…時間をくれないか。」

 駅ビル内の広々と明るい喫茶店の一角に座を占めて、こちらからますます引き留めておいて言えた義理ではないかも知れなかったが、
「お家の方へは連絡しなくて良いのかい? もう随分と遅い時間だけれど。」
 まずはそうと訊いた。行儀がよくて、しかもこんな人懐っこい子だ。家の人たちからだってそれは可愛がられているに違いなく、だとしたらさぞかし心配しているだろうにと思った彼だった。だが、
「大丈夫です。さっき電話したところだったですし、駅から近いんで遅くなっても人通りありますし。」
 4人掛けの席。傍の椅子に置いた例のデイバッグのポケットから、携帯電話が覗いている。それなら…とひとまず安心し、やって来たウェイトレスが、テーブルにコーヒーとアイスティーを並べて去るのを待つ。
「勘違いだったら笑ってくれて良いけど。…もしかして俺を待ってたんじゃないか?」
 さっき、目線が合った途端、見るからにホッとしたような顔をした彼だった。こちらの姿を認め、それでやっと階段の上、プラットホームから降りて来たという感があった。どう考えても…ほとんど見ず知らずも同然の彼を待っていたとしか思えない表情であり、仕草だった。そんな指摘を受けて、
「…えっと。」
 少年はどこか戸惑ったように、まだ袋から出していないストローを指先でもてあそぶ。そうならそう、違うなら違うと即答出来ることだろうに、何を迷っているのだろうかと、怪訝そうにかすかに目許を眇める。…と、
「あの、変な奴だなって思われちゃうかも知れないけど、お兄さんの姿、見ないと落ち着けないんです。」
 少年はそう言って小さく笑った。
「会社員の人なんだから、残業や出張だってあるんでしょうけど、これまではずっと同じ時間にすれ違えたから、それでなんだかそれが当然だって気持ちになってて。それが今日初めてなかなか会えなくて。」
 ちらっと顔を上げてこちらを見、
「俺より早い筈ないし、あ…でも営業の人だったら出先から帰るって事もあるのかなとか、平日だけどお休みなのかもなとか、いろいろ考えたんですけど…。」
 再び視線をテーブルの縁当たりへ落として、
「考えながら、ずるずると今まで居残ってたんです。」
 そうと言って…微笑った顔に、
"………っ。"
 目が釘付けとなった。どう誤間化しても疑いなく、やはり似ているのだ。幼馴染みの少年に。7年もの間、何かしらの折々や夏の初めには必ず思い出していた、愛らしかった従弟のルフィに…。


 出先からはまず掛けないだろうからと、携帯電話のメモリーへ登録してはいなかった電話番号を、それでも覚えていて空
そらでボタンを押してゆく。
「………あ、母さん? 俺。うん…読んだ。うん。…うん。
 それで…あのさ。ウチにルフィの写真ってあったかなぁ。」
 薮から棒に妙なことを訊くのねと言われ、まさか忘れたって言うの? あんなにあんたに良く懐いてた子なのにと斟酌なしな口調で責められて。それでも見つけたら送るからという約束を取りつけて切る。自宅に帰って幾刻か。もともとあまりテレビだのビデオだの観る方でなし、部屋の中はしらじらと静かで。隣りだか階上だかの、足音やら水音やら、重ねた食器を無理から引き抜くような物音が、随分遠いものとして時折届く。
"………。"
 最も安直な答えがあるにはある。他人の空似。鮮やかなまでに印象的な記憶というものまでは残念ながら残っておらず、そんなせいで…忘れては思い出し、またいつの間にか記憶の底へと沈む面影は、繰り返されるコピーと同様、少しずつ微妙に修正が施されて原形から遠い姿になっているのかも。ぶっちゃけた言い方をするなら、可愛がってはいた子だったが、あの少年ほどくっきり愛らしくはなかったのかも知れない。愛らしくはあっても、彼とはタイプが大きく違うのかも。………だが。
〈挨拶したら返してくれたでしょう? あれ、凄く嬉しかった。知らんぷりされても仕方ないのに。変な奴ですよね。あ…もしかして、気持ち悪くて迷惑ですか?〉
 自分の姿を見ないと落ち着かないと告げた後、ここに至って初めてそういう意味合いへも気がついたのだろうか、少し心配そうな顔になり、
〈お兄さん、凄く目立つ人だから。〉
 そんな風に付け足して、それが自分の身内か何かへの良い評ででもあるかのように、それは嬉しそうな顔をした。めりはりのはっきりした、表情の豊かな子で、だのに煙たいまでの煩
うるささはなく、むしろ…はしゃぐ可愛らしさを見やっているとこちらの眸が自然と和んでしまう。そんなこんなと話が弾んで、とりあえず、その場は1つだけ約束を取り交わした彼らだ。
『いつもの時間に逢えなければ、諦めて早く帰りなさい。』
 それから、
『俺も、出来るだけ寄り道はしないようにするから。』
 そうと付け足すと、気の利いたジョークだとでも思ったらしくて、嬉しそうに笑った彼だった。勿論、こちらには冗談のつもりなど欠片ほどもなかったのだが。ほんの30分ほどの会話だったが、目の前に据えてじっと見ることが出来た彼は、やはり…ルフィにそっくりだった。そして、これまでは面影だけ存在だけを思い出していたものが、こうなるとそれだけでは済まなくなる。笑顔や声に、仕草や癖に、付随する思い出がするすると蘇って来る。
"………。"
 早くに母を亡くした男所帯の、しかも男兄弟の下だったせいでか、小さい頃から腕白で。転んだりぶつけたりとよく怪我もしていたが、絶対に泣かなかった強情っ張り。ボール遊びの玉がすっぽ抜け、割れたガラスを頭から浴び、左目の下に跡が残るほどの傷を負った時も、大人たちが慌てふためく中、歯を食いしばってやはり泣き声一つこぼさなかった。ただ、
〈…兄ちゃん。〉
 病院での手当てが済んで、大人たちが辺りにいなくなった短い間合い。唯一傍らに付いていた自分の手をぎゅうっと握って来て、今にも泣き出しそうな顔を見せたのを思い出す。ホントは痛かったし怖かったのに、意地を張って泣かなかったルフィ。一番年齢の近い従兄の自分にだけ、気を許して…我慢の糸が切れたらしくて。
〈………。〉
 何と言ってやれば良いのか判らず、ぽんぽんと頭を軽く叩いてやると、何とか笑って力いっぱいしがみついて来たっけ。
"………。"
 不思議な再会。正確には別人なのだから、こんな捉え方はこちらの彼に悪いのだろうが、それでも…そんな気がしてならず、まるでルフィが自分のためにだけ戻って来たようだなと思った。だとすれば誰か神憑りな存在へ感謝せねばならないのだろうか。
"…あれ?"
 大きな手の中の携帯電話を見るとはなく見下ろしていて、ふと、今頃になって気がついたことが一つ。
"あの子の名前、聞いてなかったなぁ。"

            ◇

 結局、名前はお互いに告げていないし聞いてもいない。改めて聞くつもりも何故だか涌かなかった。ただすれ違って会釈をし合い、短く言葉を交わすだけ。時には連れ立って喫茶店でちょっと話をしたりということもあるにはあったが、ただそれだけ。名前を聞き、住まいを知り、彼の彼たる輪郭がはっきりすることは、そのまま彼を"ルフィ"ではないと少しずつ認めることにもなるだろう。それが間違っているという訳ではない。むしろそれこそが正しい接触、お付き合いというものなのだが、この場合は…そうすることが自分の中の"ルフィ"を確実に死者として葬ることにつながるような気がして、何だかひどく気後れしたのだ。まだ少し恐れがある。いや、恐れというよりは未練、だろう。やっぱり忘れられないのだ。あの可愛らしかった従弟が。不意な別れに何か言い忘れたままになっているような気がして、ずっとずっと忘れられなかった小さな男の子が。少しずつ思い出すものが増えるにつけ、ますます手放せなくなってゆく面影に、もう少しあと少しと、それこそ未練がましく付き合っていたかった。幸いというのか、こちらの彼もまた、名乗ろうとしなかったし、こちらの名前を聞こうともしなかった。彼の側からもまた、そこまでのお付き合いをしたいというほどではないのか、メル友のようなもので、その場でだけのお付き合いというドライなものに馴らされている"今時の子"だからなのか。それにしては、
「じゃあ、えっと…月曜に。」
 そろそろ夏休みの筈だろうに、だとすれば授業だって短縮されてもっと早く帰れる筈だろうに、やはり…会社員の帰宅時間に合わせてでもいるかのように、いつもの時間に駅で姿を見せる少年であり、金曜の常になりつつある"お茶"とお話を一緒に楽しんでから、改札前にて別れることとなった。今日は青年の方に駅前の銀行へ立ち寄る用件があったため、構内から一旦出る彼だったから。
「じゃあな。」
 軽く手を挙げて会釈を送り、自動改札を通って外へと出る。乗り換え駅ならではな賑わいがある駅前で、駅ビルもそうなのだが"駅前文化教室"をテナントに持つ2、3階建てほどのビルが額を寄せ合っていて、その地上部分、一階の舗道沿いにはちょっとしたショッピングモールが連なっている。それらの手前、タクシー乗り場やバスのターミナルになっているロータリーは、回遊航路のように、もしくは陸上競技のトラックのように、駅ビルを縁取っている少し広めの舗道の一部に沿って、ぐるりと楕円を描いている。その回遊路の外側、大通りへと通じている出入り口からは、本当は進入禁止な筈の一般の乗用車が時々入り込んでいる。駅まで誰かを送りにやって来たというクチなのだろうが、時折タクシーからのクラクションを受け、あたふたと出て行く車もあれば、図々しく舗道につけたそのまま、降ろした知己とずるずると話し込んでいる熟年ドライバーもいる。そういう車の内の一台が、選りにもよってバスの進路を塞いでいたため、一際大きなクラクションの音がして。当事者には不意なことだったのだろう、慌てて発進させた車が前方をよく確かめていなかったものだから、踏み込まれたアクセルの勢いも加減させぬまま、ロータリーを唯一渡れる横断歩道へ突っ込む形となった。その路上に今まさに踏み出しかかっていたのが………、

  「…ッ! ゾロっっ!」

 咄嗟のものだろう、それはよく通った声にハッとして足が止まる。暴走車がすんでのところで間際を抜けて走り去る。周囲の人々からも安堵の気配が起こり、だが…本人はそれどころではなく、
「………。」
 舗道の縁で立ち止まったその位置から振り返り、自分の足を止めさせた声を放った主を食い入るように見つめた。間違いなく自分の、それも苗字ではなく名前を叫んだ人物。名乗っていないし、銀行員でもなければスーパーの店員でもない彼は、日頃からも名札の類はつけていない。だのに何故、彼の名前を"彼"が知っていたのだろうか。
"どうして…。"
 そして…そんな彼の見せた表情の意味が、相手にも伝わったのだろう。
「あ…。」
 距離があるにもかかわらず、見て判るほど大きく動揺し、踵を返すと構内の奥へ向かって駆け出したから、
「…っ!」
 こちらも体の向きを変え、改札口へとって返したゾロだった。


 追いついたのは繁華街から随分と離れた駐車場。別の改札口から飛び出した彼だった辺り、ここいらの地理にも詳しいらしいが、ゾロの方も会社と自宅の往復くらいしかしなくなった社会人とは思えぬ足回りと体力の持ち主で、立派な体格は伊達ではなかったというところか。
「待てって…!」
 二の腕を捕まえて振り向かせ、有無をも言わせずその顔に大きな手のひらをあてがうと、親指の腹で左目の下をぐいっと擦る。するとそこには、
「…っ!」
 目立たぬ化粧で隠されてあったのは、覚えのある古い傷痕。ガラスで切ったために消えない代物で、だが当人は全く気にしてはいず、周囲も一度聞けば後は目に入っても見えないものと化して気にしなくなった特徴だ。それだけ本人自身が個性ある楽しい少年だったからだが、何故…何もかもがこうまで同じなのだろう。彼がルフィだったとして、だが、少しも成長しないまま現れたというのはやはり大きく矛盾してはいないか? 混乱を覚えながらも、
「何でだ。何で俺の名前を知ってる。…何で、お前、あいつにそうまで似てるんだ。」
 問い詰めるように訊くと、
「本人だからだ。」
「…っ?!」
 あらぬ方角からの声がかかった。
「この国じゃあ、一端
いっぱしのビジネスマンが子供を吊るし上げるのかい?」
 不意を衝かれたゾロの手を振り払って少年が駆け出す。
「…っ!」
 そのまま向かった先には、一台の車が停まっていて、ドアが開いていた後部座席に飛び込んだ彼を確かめてから、
「この子はあんたが思ってるその通り、あんたの従弟のルフィだよ。」
 運転席の窓からこちらを見やっていた男が、そうと言い放った。
「気がつかないままでいてくれれば良かったんだがな。判ってしまったんじゃあ仕方がない。懐かしい夢はこれで終しまいだ。」
 見知らぬ男にそうまで言われて、思わずカッと頭に血が昇った。
「な…、どういうことだっ! 一体、お前は誰なんだっ!」
 ごくごく自然なイントネーションの日本語を使ってはいるが、金髪に青い目の外国人。薄暗い車内に照り映えるほど白い肌をした顔立ちはすっきりと整っていて、こちらを見やる眸がやけに挑発的だ。だが、それにしてはどこかしら生気が薄くも見えた。自分と同い年くらいだろうその男は、
「さてね。名乗る名前も忘れたよ。ロロノア=ゾロさん。」
 気障ったらしくそう言うと、口許を歪めるように小さく笑って車を出す。
「あ、待てっ!」
 声をかけたが初速が違った。さほど小型でもない車だのに、切り返しも鮮やかに細い側道から素早いアクションで真っ直ぐ大通りへと出て行ってしまう。あっと言う間に取り残されて、
"…どういうことなんだ、一体。"
 一気に降りかかって来た様々な事ども。そんなものがあろうとさえ思わなかった、意外な舞台裏。それらに体よく翻弄されたまま、その場にただ立ち尽くすばかりのロロノア=ゾロである。


 一方の…見事に駆け去った車の方では方で、後部座席にうずくまっていた少年が、こちらもやはり苦しげな顔をしている。まるで…胸か腹を刺されでもして、その上"とどめ"をさされかけていたすんでのところを助けてもらえたかのようにも見えて。シートに突っ伏すように身を丸めていた彼だったが、
「…ごめん、サンジ。憎まれ役、させた。」
 ようよう絞り出したという声で、そんな風な言葉を紡ぐ。それに気づいて、
「良いよ、気にすんな。」
 運転席の男は仄かに伏し目がちとなり、先程とは打って変わった静かな声で、いたわるように少年へと話しかけた。
「泣きたきゃ泣きな。我慢すると頭が痛くなるぞ?」
「…うん。」
 そうと返事をした途端、どんなに喰いしばっても耐え切れず、大粒の涙が堰を切ったように両の眸の縁からあふれ出した。随分と長い間泣かずにいた反動か、涙の止め方が判らない。すっかり諦めたつもりだったのに、まだこんなにも未練があったんだなと、そんな自分が切なくて哀しくて。折り曲げた指に噛みつくようにして、少年は…ルフィは声を圧し殺すようにして泣き続けた。


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