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フェンスの一角、引き込み線を導く扉には、真っ赤に錆びた南京錠。線路も幾らか残ったままで、整備用の大きな作業場の建物や事務所らしきプレハブに、ゴルフの打ちっ放し練習場やテニスコートなどにあるような夜間作業用の照明塔までと、操車場だった頃のほぼ元のままに施設の数々が居残っている。線路上には廃棄された貨車やコンテナ車も連なっていて、どうかするとまだ機能し使用されているように見えもするが、近くまで寄ればそれらが等しくサビに侵食されていることが分かる。十数本と枝分かれし、雑草が縁取るばかりの線路たちを貼りつけただだっ広い構内は、人の気配もないまま初夏の乾いた陽射しに晒されて、都会の真ん中とは到底思えない、まるで荒野の只中に広がるゴーストタウンのように見えた。フェンスの金網の脆そうなところを突き破り、砂利を蹴立てるように構内へと突入したサンジらの車は、そこここに積まれた線路用の資材やドラム缶の山の間を縫って、追っ手からの距離を稼ごうとしたが、
「…ちっ!」
程なくして線路の川に前方を遮られた。それでなくとも舗装されていないここは、よほど重さのある車体ででもない限り足回りが悪すぎる。
「ルフィ、来いっ!」
車は見切って、障害物が多いこの構内に潜入することを選ぶ。先んじて待ち構えていた手勢はいないと踏んだ。誘い込む自信はあったようだが、待ち伏せしていたクチがいたなら連携のための連絡を取り合う筈で、
「…何の反応もないよ。」
ルフィが耳元に当てていたのは、一見すると何の変哲もない携帯電話だが、近辺を飛び交う様々な電波を探知出来る機能も備えた優れもの。彼らの知己の中、妙な発明品をもっぱら裏の市場で流通させているウソップという男の自信作だ。
「やっぱりな。」
待ち伏せ陣営がいるのなら、今追い込んだとか、どっちへ向かっただとか、そういう連携をトランシーバーなりPHSなりで取る筈だ。揃えるのにさほど手間やらコネやら要るものでなし、そういう基礎的な準備がないなぞ、あのごっつい外車を数台もレンタルしたほどの資金がある連中のやることではない。
「行くぞっ。」
「うんっ。」
彼らを追う"猟犬"たちは、自分たちが直接用向きがあって追跡している訳ではないらしいながらも、一応はこういう"仕事"に慣れた男たちであるらしく、全部で十人ほどだろうか。黒スーツこそ着揃えていず、目立たない服装ながら、短髪頭に屈強そうな体躯という、見ようによっては"特殊な自由業"のお兄さんにも見えかねない男たちで、分かれて乗って来た車を降りると"標的"の動きを目で追った。標的の二人がまず向かったのが、何故だか線路たちの大河の向こう。辿り着いた建物の、これも何故か周辺を遠回りに巡ってから中へと入ってゆく。追ってみると、天井の馬鹿高い建物の中、舞台の天井に設けられたキャットウォークのようになった、無骨な鉄骨で組まれた階上足場へと逃げた二人である様子。
―― 上へ逃げれば、
出入り口を塞がれてあっさり追い詰められると分からないのか?
相手の戦術の甘さに、素人はこれだからと言いたげな、蔑視の笑みが男たちの口元へと浮かぶ。それから、リーダー格らしき男がそれぞれの配置を即決した上で、無言のまま、身振り手振りで指示を出し、向かわせる。二人が駆け込んだ施設は列車の点検に使われる作業工房で、船で言うところのドック、いわば巨大なガレージのようなもの。天井の頑丈そうな鉄骨には、様々なクレーンの設備が走っていて、太い鎖に下がった大きな大きな釣り針のような鉤が、巨大な死神の鎌のようにも見えた。…と、
「…なに?」
不意に、機械の駆動音が構内に鳴り響き出したのだ。そして、死神の鎌がゆっくりと縦方向へと滑ってゆき、次には横へ流れて、
「おわぁっ!」
奥まったそちらから、鉄骨のステップを上りかけていた連中を無表情に薙ぎ払う。急に方向が変わったことで、鎖の支点から遠心力に乗ってぶんっと振り子のように大きく揺れながら吹っ飛んで来た大鉤で、こんなものの直撃を受けたらまず生命はなかろう。
「どうして…。」
無人の廃墟。電気施設だって使えないよう、それなりの封がなされている筈なのに、どうして設備が動き出したのか。何とか大鉤を避けた連中へは、
「おがっ!」
ステップを上から転がり落ちて来た資材や何やが襲い掛かって、やはり思うように進めずにいる。素早くそちらの端まで到着していた"標的"たちが、追っ手の足元を封鎖するべく、置き去りにされてあった資材や道具などなどを投げつけ蹴落として、下から来た者らを一気に薙ぎ倒そうとしていたのである。しかも、
「そぉ〜らっ!」
クレーンの大鉤を先程の携帯電話型電波探知機で操作して、片っ端から追い回してはすっ転ばせる。ただ電波を探知するだけでなく、データをインプットさせた遠隔操作にも対応出来る、言わば"万能リモコン"としても使える代物らしい。どうやら…彼らが最初に遠回りをあえて承知で建物の周囲を回ったのは、施設内電源の配置を確認するためだったようで。これもウソップ博士謹製の"発電装置"を主電源を取り入れる配電盤に設置してある。一番近場の電線や変圧器などといった電力供給関係機器から、空中で強引に電流を横取りしてしまうという摩訶不思議な性能があって、ただし、15分ほどしか使えない上に安全性と安定性に少々問題があるため、やはり真っ当な流通には乗っていないのだとか。
"逃亡生活の長い人間を甘く見てもらっちゃあ困る。"
これでこちらから回り込もうとしていた5、6人を昏倒させ、にんまりと笑い合った二人は鉄骨製のステップを余裕で降り始めた。
「チッ!」
焦ったのは、そちらの陣営たちと挟み撃ちを目論んでいた残りの顔触れたちだ。相手を"戦略も未熟な素人だろう"と甘く見たことが仇にもなった。用心していたなら、もう1グループほどを何人か割さいておいて出入り口を固める班に残しただろうからで、
「待てやっ!」
追って来た中の先頭の男が乱暴に怒鳴るのへ、サンジに送り出されて先にステップを降りかけていたルフィが振り返り、左腕をすいっと伸ばした。
「…?」
何の真似か…はすぐに判った。
「火炎星っ!」
その手に構えられてあったのはスリングショット、所謂"競技用パチンコ"だったからで。すぐ後ろのサンジを避けて放たれた弾は、狙い違たがわず追っ手の先頭の男の腿に当たり、弾けて火玉になったから、
「うわあぁっ、熱ちちっ!」
突然の炎というのは結構怖くて慌てるものだ。立ち止まって焦りながらバタバタと服をはたいて消そうとする彼が通路を塞ぎ、
「だぁーっ! 邪魔だ、どかねぇかっ!」
残りの面子たちの足も封じた。ちょっとの間の時間稼ぎ程度だが、俊敏な逃げ足を誇る身にはそれでも充分な代物なのだ。
「…どこへ潜り込みやがった。」
彼らの乗って来た車も自分たちが乗りつけた車も、まだ構内にある。見失ったのはほんの数分。いくらはしこい身であっても、要領を得ない幼子連れの足ではすぐに追いつかれてしまうのは目に見えていて、結構奥まったこの辺りから、線路の大河という見通しの良すぎる平地を横切って逃げるほどの馬鹿でもあるまい。すぐ隣りには、こちらの作業場よりは小振りな作業用車庫がある。小振りとはいえ、列車が引き込み線に乗って編成ごと入れる規模ではあって、どうやら洗車や簡単な定期点検のための設備であったらしいことが窺える。
「ここか?」
覗いてみると、こちら側と向こう側の向かい合う壁面同士がぽっかり開いていて、トンネル状になっている。無論、車両は置かれておらず、ガランとした屋内は照明がないと寒々しいほど薄暗い。先程居た隣りの作業場には、天井に明かり取りの天窓が幾つか取ってあったからまだいくらか見通しも利いたが、こちらにはそういうものもない。手勢がほんの4人ほどとなってしまって、用心深く固まって中へと踏み込んだ彼らだったが、
「…っ!」
かんかんかん…という、鉄骨を堅い靴底が蹴立てるような足音が頭上から響いて来たのへギョッとする。
「また上かっ!」
今度は用心にと二人だけが手近なステップを駆け上がった。先程は巨大な施設を使われるという不意打ちに遭ったが、こちらの車庫には、せいぜい洗車用の大きなローラーブラシを据えたトンネルアーチが引き込み線路上に設置されてあるくらいで、大した道具立ては揃っていない。直接の掴み合いなら、あんなひ弱そうな男、あっさりひねって捕らえられるだろうと踏んだ彼らだ。………が、
「ぎゃあっ!」
「うがあっ!」
野太い悲鳴とも絶叫ともつかぬ声が上がって、
「?」
残っていた最後の二人が顔を見合わせる。薄暗い天井近くの鉄製の足場は、ここからでは様子さえ窺えず。だが、今の声は聞き覚えのある仲間のものではなかったか?
「………。」
恐怖と不安では不安の方がストレスは高まる。恐怖には何となれば開き直れるが、正体の解らないものとの対峙ほど、神経に来るものはないのだそうで、こつりこつりといやに怯えた足取りで鉄製のステップを上まで昇り切る。何両編成かはある車両が入る施設なだけに、直線コースはなかなかの長さで、地上以上に天井が迫ったこのキャットウォーク部分はそれだけ暗さも増していて、向かう先の終着地点が闇に煙って見通せないほどだ。砂混じりの埃がざりじゃりと靴の下で軋み、鉄板の上を歩む独特な足音が、静まり返った屋内に反響する。
「…っ。」
少し先に黒っぽい塊が折り重なって倒れているのが透かし見えた。やはり、倒されたのはこちらの手勢。あれほどひょろひょろとしていた優男が一体どうやって…という、納得の行かない不合理さもまた、得体の知れない不安となって彼らの胸中を締め上げている。息を殺してどこに潜んでいるのか、陰も気配も見えない。…と、
「…っ!」
再び"かんかんかん…"という靴音が響いて来た。それも"背後"からこちらに向かってだ。一体、いつの間に後ろに回ったのだろうか、それもまた彼らの恐怖心を煽った。
「あわわ…。」
片やの男はここまでの緊張感に耐えかねてパニックでも起こしたのか、逃げ腰になり後ずさりを始めている。それに気づいて、
「ちっ、だらしねぇなっ! しゃんとしやがれ。」
もう一方の、こちらがリーダーだったのだろう、一番年嵩だった男が通路の真ん中に足を開き気味に身構えると、靴音の持ち主の到着を待ち構えた。
「………っ。」
薄闇の中なら程なく滲み出して来た人影は、正しくあの青年だ。ハリウッド映画の俳優のような、すっきり優しげな顔立ちに、風に躍る金の髪。相変わらずの徒手空手のまま、凄まじい勢いで駆けて来る。真っ直ぐに駆けて来て、そのまま体当たりでも仕掛ける気かとこちらの男はにんまり笑う。速ければ速いほど突っ込んでくる角度に変化が出なくなるからで、それでなくともこの狭い通路では右にも左にも避けようがなかろう。横薙ぎに掻っさばいてやろうと思ってか、ズボンの後ろポケットから掴み出した大きなシーナイフを構えた彼だったが、そのほんの手前で、サンジはとんでもない手を取った。
「…っ。」
踏み込んだ外足に力を込め、砂埃を"ざざざっ"と蹴立てて、スライディングを思わせるようなブレーキをかける。それと同時に、逆に力を抜いた内足をそのまま曲げることでぐっと身を沈める。突然のブレーキと、低くなった姿勢に、
「………っ!」
正面で待ち構えていた追っ手の男がつんのめってたたらを踏み、体を宙に泳がせた。横へ薙ごうとした体勢が見て取れたから、縦方向へという切り替えをやってのけた彼であるらしく、振り下ろそうとしていたなら、また別のバリエーションがあったらしい。耳障りな堅い金属音がしたところをみると、握っていたごついシー・ナイフを空振りして、すぐ間際だった手摺りのパイプにでも打ちつけたに違いない。一瞬、気が逸れたろうその隙を逃さず、
「…っ。」
床にすれすれの低い位置で水平に、まるで見えないテーブルがあってその天板を行儀悪く脚で拭いているかのように、くるんと巡らせた開脚蹴りを鋭く撓しならせると、
「うわっっ!」
体格が大きかった分、重心も上だったか…それにしたって相当の力は要った筈だが、見事な足払いが決まって、男が"どうっ"と倒れ伏す。その巨体に背を向けて、屈み込むことで溜めていたバネを一気に解放し、跳ね上がるようにジャンプすると軽々と後ろ向きに宙へと舞った彼であり、所謂"後方宙返り"もしく"オーバーヘッドキック"のその着地の場に選ばれたのは、当然の攻撃目標のど真ん中。何しろ、高々と宙へ舞った身体ごと、杭のように容赦なく落ちてくるのだ。全体重をかけ、加速もついた強烈な一蹴は、相手の分厚い胴体の真ん中、みぞおちへ深々と食い込み、
「がぁっ!」
男は何とも形容し難い響きを帯びた声を放って白目を剥いた。足払いを食ってから、いやいや、ナイフが空振って手が痺れた辺りから以降の、自分の身に降りかかった一連の流れを、彼は恐らく把握出来なかったに違いない。この強烈な足技を食って、先の二人も次々に伸のされたに違いない。…と、
「サンジっ!」
地上から、そこで隠れて待っていたルフィが、注意を促すような声を上げた。彼の見やる方向、自分の背後を肩越しに振り返ると、先程後ずさりを見せた居残り者が猛烈な勢いで突っ込んで来るところ。これ以上はない手薄で、当初の予定だった"挟み撃ち"も侭ままならず、とはいえこのまま逃がしてなるかと焦ってもいるのだろう。ところが、
「…っ?!」
背を向けて逃げを打つと思った標的であったサンジは、何を思ったか、男の方へと向き直ったままでいる。そして、手摺りを両手で掴むと足元を強く踏み切って、
「…っ!」
手摺りの上へ見事な倒立姿勢になって乗り上がる。それから、一気に向こう側へと身を倒した。丁度、手摺りの上で見事な側転を見せたようなもの。何をするのかが判らないという不審も加わって、加速を止められずにいた男の突進と、
「な…っ!」
タイミングがぴたりと合った。突っ込んで来かけていた男の、ちょうど頭上から踵が降ってくる格好になったのだ。
「ぐがっ!」
再びの、全身の重みを乗せた"踵落とし"が後頭部に決まって、男がずだだんと倒れ伏す。それをひょいっと跨いで通り過ぎ、悠々とステップから降りて来たサンジに、
「…あ。」
やっとホッとしたように笑って見せたルフィだった。
『蒼夏の螺旋 〜サマー・スパイラル』Fへ
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