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今から思えば、帰って来る前から既に訝おかしかった彼ではあったらしい。
◇
朝のうちにお掃除を済ませると、PCでの連絡業務の午前の部。その合間に、朝方ゾロへと話していた資格の資料をネットでも集めてみて。それから、メモを整理して、いざ参考書と日用雑貨と晩ご飯のお買い物。途中の喫茶店で同じマンションの気の置けないお友達とお茶したり、通り道の家具屋さんで新しい小物を物色したり。お家に帰ったら、洗濯物を取り込んで、アイロンをかけて片付けて。も一度、今度は午後の部のメール・チェックを済ませてから、さてとてお夕食の支度に取り掛かる。そしてそしてと、時間も過ぎゆきて…。
「………。」
いつもなら最後の電車に乗る前に、あの思い出深い乗換駅から電話をくれる。今から乗るからという短い一言。そこからは本当に"すぐ"なので、それが待ち遠しくてワクワクそわそわしてしまう夕方だというのに、
「………。」
今日は何故だか、このくらいの頃合いでいつもかけて来てくれるのにという時間を過ぎても音沙汰がない。急な残業なら、すぐにも連絡してくれる。夕ご飯は要らないからとか、チェーンだけ外しててくれれば良いからとか、先に寝てなさいとか、そういうことと一緒に、
『ごめんな。』
必ずそうと囁いてくれる。寂しくさせてごめんな、一人にしてごめんな、と。忙しいからこその残業だろうに、こちらのこと、ちゃんと思いやってくれるのに。突然の飲み会や接待でも以下同文な筈の彼であるため、
"もしかして何かあったんじゃないのかな。"
連絡して来られない何か。ダイニングの食卓の上に置いた携帯電話を見やっては溜息をついていたルフィが、壁掛け時計を見上げながらふと考えたのは、そんな不吉な代物だったが、
"…そんなこと、ある訳ないっ!"
ブンブンと頭を振ってイヤな想いを振り払う。心配し過ぎると、本当に良からぬことが影を差すという。誰に聞いたんだっけ。ああそうだ、サンジに教わったんだ。そうだよな、自分から悪い方に考えてちゃいけないよなと、気分を変えるべく立ち上がる。いつ帰って来ても良いようにと、夕ごはんの仕上げをするためだ。メインの一口ステーキは顔を見てから火を通すとして、ビールの補充をしながら、春雨と錦糸玉子とハムとキュウリの中華風甘酢サラダと、玉子とうふとを冷蔵庫に確かめ、付け合わせのニンジンのグラッセとさやえんどうのバターソテーをざっと温めて。たっぷりの千切り大根と油揚げのおみおつけのお鍋も温めかけて、ああ煮詰めちゃいけないんだったと手を止める。浅漬けのおナスとお隣りの奥さんからお昼にいただいたお土産の高菜漬けも刻んだし、昨夜の肉ジャガ、自分が食べるのに温めとこうかとレンジに入れたその時だ。
「………あ。」
ピンポンと軽快なチャイムが鳴って、
「ゾロっ?」
落ち着いててきぱきと運んでいた手順が一気に吹っ飛んで。矢も盾も堪らず、壁に掛けたインターフォンに飛びついたものの、
「ルフィ、こっちだ。」
玄関の方から直接の声がした。え?っとビックリしてそちらを見やると、防犯チェーン…鎖ではないので"セーフティ・バー"とでも言うのだろうか、それがかかっていて薄くしか開けられないドアの向こうにもうゾロがいる。
「あ、はいはい。」
何だかいつもとは順番が違い過ぎて、混乱しかかったルフィだったが、さすがに反応は早く、パタパタとスリッパを鳴らしてそちらへ向かう。ドアを一旦閉じて内鍵を外し、
「お帰りなさい。」
にっこり笑顔でお出迎え。いつもとは違う段取りに、文句を言うよりホッとした方の気持ちが大きかったから…の笑顔である。待っていたには違いなく、何かあったのかと心配だったし。それが全部"杞憂だった"なら良かったじゃないかと、そういう考え方をするルフィでもある。だが、
「…ああ。」
それだけやきもきさせてやっと帰って来たダーリンはと言えば、いつものように差し出された小さな両手へと書類用のブリーフケースを手渡したものの、何となく…口数が少ないような。
「ご飯、今日はお肉だよ?」
「ああ。あ、先、風呂入る。」
やはり言葉少なに応じると、寝室へさっさと足を運びながら、手際よくスーツを脱いで。ルフィが後から到着したのと入れ違うような手早さで、着替えを自分で適当に出してそのままバスルームへ向かうから、
"…疲れてるのかな。"
いつも元気なゾロだのにな…と、大きな背中を見送りながら少しばかり不審を感じた。のべつまくし立てているような"饒舌な"タイプではないものの、いつもルフィから気を逸らさず、いちいち構ってくれるのに。疲れてるなら余計に元気に振る舞おうとする彼であり、ルフィに心配させるようなことは、やらないし見せないのになと、ちょこっと怪訝な何かを感じた。心配していた余燼から、何かしら鋭敏になっていたせいもあろう。小首を傾げ、しばし、バスルームの方を所在無げに見やってしまったルフィだった。
風呂から上がって来たゾロは…やはり様子が変だった。
「………ビール、お代わりは?」
「いや、もうご飯で良い。」
「うん。…はい。」
「サンキュ。」
「あのね、これ、お隣りの奥さんがお土産ですって。ご実家が九州なんだって。」
「ふ〜ん。」
「そいでね、向こうでは大きいおむすびをこれで巻いてお弁当にするんだって。」
「ふ〜ん、そうなんだ。」
「………。」
突っ慳貪で冷たいという訳ではないのだが、ちゃんと応対はしてくれるのだが、同じような相槌しか打ってくれないのがやはり気になる。しかも、気がつけば話題はルフィの方からしか繰り出してはいない。いつもだって似たような調子ではあるのだが、それでも"ああそういえば…"と関係のありそうな話を時々は振ってくれるのに。他愛のない茶々を入れたりして、話の枝葉を広げてくれるのに。今夜の彼は、食事以外へ口を開くのが億劫そうにさえ見えるから、
「………。」
しまいには、ルフィの方からも何だか気後れして話しかけられなくなってしまったほどだ。そして、
「ごちそうさん。」
そんな静かな食事だったせいでか、いつものほぼ半分近い短さで早々と夕食は片付いてしまった。そのまま居間の方へと足を運ぶゾロであり、テレビの音がしたから、
"何か観たい番組でもあったのかな。"
それで上の空だったのかもしれないなと、手早く食器を流しの方へ下げて、後片付けに専念する。食器や鍋を洗って、残り物をしまって。明日の朝食の下ごしらえをして、さあと居間へ入ると、
「ルフィ、何か用事あるのか?」
ソファーに腰掛け、N○Kの衛星放送だろうか、何かドキュメントっぽい番組を観ていたゾロは、そんな風な声を掛けてくる。
「え? あ、えと。10時に、最終連絡のメールチェックしなきゃいけない。」
見上げた時計はもう少しでその10時になりかかっていて。
「そか。じゃあ、俺、先に寝るわ。」
「………え?」
聞き返した声があまりに小さくて届かなかったか、ゾロはソファーから立ち上がると、寝室の方へ行ってしまう。いつもなら待っててくれるのに。夜陰のしんとした雰囲気が何だか怖いルフィだと知っているから、お風呂に入って上がって来るまで、この居間で何かしら時間を潰しながら待っていてくれる彼なのに。
「えと…。」
ちょっと変だ…が"とっても変だ"へ塗り替わる。お話しをする隙を全く与えてくれない。そう。食事時は逃げようがなかったから相槌を打っていたが、ホントは口を利きたくはないんだと。あまりに素っ気ない"ぶっきらぼうさ"がそんな風に見えなくもない。こんなにも取り付く島のないゾロだなんて…これまでになかったことだから、
"えと…。"
正直なところ、何だか心細くなって来たルフィだったが、
「風呂も。」
「…え?」
居間の入り口近くに立ち尽くしている彼へ、
「風呂も、早く入れよ? 部屋のスタンドは点けとくからさ。なら、怖くはないよな?」
ちゃんと気遣いはしてくれるようだから、ルフィは自分の胸元を押さえると小さな息をつく。
"きっと疲れてるんだ、ゾロ。"
早く休みたいのに、さっさと寝たりしたらルフィが怖がるから。だから…あれこれと家事や仕事をルフィが片付けるのへぎりぎりながら付き合ってくれてるんだ。そうと思えば、やっぱり優しいなと、何となく安堵出来る。なんだ、いつものゾロじゃないかと。疲れているのに、優しいんだなと。それで…先に寝室へ下がる彼を見送ってからテレビを消して、PCの前へと向かい、事務所や自宅勤務、出向社員たちからのメールを確認し、指定された先への転送をこなす。ルフィ経由になる案件やメールは、それなりの格付けがなされる情報であるらしくて。だがまあ、その辺りの事情は知らされていないので、さして気にせぬままに処理を済ませて、
"えっと。"
洗いおきの下着やパジャマは風呂場の脱衣場にも置いてあるので、そのままパタパタとバスルームへ向かう。テレビの音や何かが聞こえない、しんとした中で一人でお風呂に入るのは、実を言うと少し怖いのだが、家の中に誰もいない訳ではない。居間にいるか寝室にいるかの違いじゃないかと、それでも…かなり手早い"カラスの行水"で出て来て、髪を乾かすのもそこそこに、照明を落とした室内を急ぐと寝室へ飛び込んだ。
"……………。"
約束通り、ベッドの脇にある背の高いスタンドの小さい方の電球は確かに灯されていた。だが、その仄かな光に照らし出されたベッドの中、先に横になってた存在は、戸口の方に背を向けていて、何だか…お前なんか知らないよと強く意識してそっぽを向いているように見えた。
「…えと。」
小さな肩に羽織って来たバスタオル。その両方の端っこを胸元へと掻き寄せる。
「………。」
何でだろう。今夜はずっと、挫けそうになる何かが鼻先にいきなり現れる。それも…何だか形がはっきりしない、曖昧な存在みたいなものだ。はっきりしない何か。はっきりしない? それとも…はっきりさせたくなくて、見ないでいようとしている自分なのかな? そうと、気づいた途端に、まだまだ寒い筈はない季節だというのに、何だか肩口が冷たくなったような気がしたルフィだったのだが。
「…っ。」
意を決して、ベッドまで歩みを運ぶ。これでも時々は喧嘩だってする。いつも大抵はルフィが拗ねてそれをゾロが宥めるのがパターンなのだが、
"………ゾロ、何かに怒ってるのかな。"
思い当たる節はないのだが、もしかしたら。気がつかないところで何かやらかした自分なのかもしれない。大人げないから直接咬みつくような形では怒っては見せないゾロだが、それでも何かしらムッとしていて。それでつい、こんな態度になっているのかも。
「………なあ、ゾロ。」
声を掛けたが応答はなくて。ベッドに乗り上がり、ちょっとためらって、だが、高い肩に手を掛けて、ゆさゆさと揺さ振ってみる。
「ゾロ。もう寝たんか?」
起きてはくれないのだろうか。それとも、いよいよムッとして、彼にはめずらしく怒り出しての雷が落ちるのかも? そう思うとなんだか怖くなって。それで手を放したそのタイミング。
「………あ。」
まるで動かなかった筈の背中が静かに起き上がった。それから、肩越しにこちらを見やったゾロは。吐息混じりにちょっとばかり首を前へと倒してから、おもむろに体をこちらへと向けて、ルフィと真っ向から向かい合う。そして………。
「あのな、ルフィ。お前ももうちょっと…ちゃんとした話し方とか態度とか、そういうの考えないといけないぞ?」
唐突にそんなことを言い出すではないか。
「………えと。」
唐突ではあったが、決して的外れなことではない。それだけに、ルフィはたじろぐように言葉を失った。そんな彼へ、
「お前、いつも"子供じゃない"とか"子供扱いするな"とか言ってるだろ? それに、今朝だって自分で言ってただろうが。資格取って子供らにちゃんと教えたいって。」
「…うん。」
「ただでさえ、お前、小さくて、子供に近い姿をしているんだ。それには事情があるにはあるんだけど、それでも"子供じゃない"って言い張るんなら、せめて大人らしい言葉遣いだとか考えないとな。理屈がおかしいってもんだろう?」
「………うん。」
きちんと首尾一貫した言いようだった。それこそ、子供を相手のお説教ではなく、同じくらいの立場の人間への"もの申す"という言葉遣いであり態度であって、
「…判った。気ぃつける。」
声が震えていないか、それを精一杯、気をつけて応じたルフィである。叱られている訳ではないのだからと。正しい意見をもって、注意されただけなのだから、泣いたりしたらゾロが気を悪くするだろうと。そんな返事をしっかと聞いたゾロは、それで気が済んだらしくて。
「まだ起きてるか?」
「…ううん、俺ももう寝る。」
「そうか。」
俯いたまま"ぱふっ"と横になると、ぱちりと消された明かり。たちまち、薄闇に沈んでしまう世界。ゾロはそのまま、向こうを向いて横になって。
"………。"
暗さに目が慣れるにつれ、ぼんやりと見えて来たその背中に、容赦なく突き放されたような気がした。
"……………。"
ゾロは大人で、それにとても落ち着いていて。昔からゾロがこうだと言ったことに間違いはなかった。知識があってのことは元より、理屈を見通し、誠実に事を進めて成し遂げる彼だったから。その頑迷なほどの生真面目さは、決して鮮やかではなかったがたいそう堅実で。大人たちからでさえ頼りにされていたほどだった。だから………。
"…ゾロの言う通りだよな。"
とっても分かりやすくって。そして、それだけに…今までの甘えたな自分がゾロの眸にはどう映っていたのだろうかと思うと、身が竦むような想いがした。
"……………嫌、だったんだ。ゾロ。"
胸の奥が何だか痛くて。眸の縁やら鼻の奥やら、つきつきと痛くて。でも、聞こえたら、気づいたら、ゾロ、もっとげんなりするだろうから。唇を口の中へ巻き込むようにギュッと噛んで、早く寝てしまおう、眠ってしまおうと、念じるようにして必死で眸を瞑ったルフィだった。
◇
結局は眠れなかった。違う違うと思おうとし続けたけれど、それでも否定し切れない。それどころか…見ないように気づかないようにしていた、辛い方の想定たちの、何と馴染みの良いことか。口を利くのも嫌だから、顔も合わせたくないから。子供っぽいのは苦手で、甘えられるのは鬱陶しいから。そして、
【やっぱりさ、男と同居してるの、嫌になったのかな。
誰かに何か言われて、恥ずかしい想いでもしたのかな。】
涙に掠れそうになる声で、だのに…あくまでも自分の方に何か落ち度があったのかなと、最初から最後までのずっと、そんな健気な言い方をし続けるルフィに、
【…俺、もうどうしていいのか判んないよぉ。】
先程から苛々としかけてはそれでも何とか押さえ込んでいたらしいサンジが、とうとう堪らず。何かに衝き動かされたように声を出していた。
「そんなことは気にしなくていいっ。」
少々強い語調になったのへ、ビクッと肩を竦めるルフィであり、
【…でも。】
「良いから聞きなさい。」
自分まで怖がらせてどうするかと、そこはサンジも反省して息をつき、あらためて穏やかな声を出す。
「お前はそのままで良いんだよ? お前みたいに良い子は、そうはいないんだからな。素直で思いやりがあって、屈託がなくて、いつも何にでも一生懸命で。俺もナミさんも、そういうお前のことが大好きだよ?」
PCに向かうための椅子に座っているナミの背後からモニターを覗き込んでいる格好のサンジであり、その肩口から妻を"そうですよね"と見やれば、
「勿論よ。」
マダム・ナミもまた、しっかりと頷いて見せる。頼りにしたのはルフィの側からだが、それでも…十分過ぎるくらいやさしい言葉と暖かい眼差しはやはり胸に沁みたのだろう。我慢していた、堰せき止めていた涙が、またぞろ新しく涌き出して来そうになった彼であるらしく、
【…サンジ。】
すがるような顔をする愛しい子。ああもうダメだと、サンジは限界を感じた。理性派の妻が静観すべきだと制しようが構わない。振り切ってでも迎えに行こうと思ったほどに。彼にとってのこの少年は、もはや信仰的な崇拝に近いくらいの次元で、崇高で大切で何にも代えがたい存在なのだから。それがこんなにも傷ついているのを知って、どうして黙って放置出来ようか。
「いきなりの勝手をやらかしてんのは向こうなんだからな。奴が何を言おうがどんな素振りをしようが、お前は気にしなくて良いんだ。もしも奴がこれ以上困らせるんなら、我慢なんか遠慮なんかしなくて良い。………そうだな、とりあえず。いつも俺が使ってたホテル、覚えてるな? そこに今から部屋を取るから一旦そっちへ移りなさい。すぐにも迎えに行くから。な?」
それはてきぱきとした指示を出す彼に、
【でも、サンジ。】
ルフィは真っ赤に腫れた目許も痛々しい顔を上げると、
【俺、そんでもやっぱり、ゾロのこと好きだし。】
まだそんなことを言いつのるものだから。
「…ルフィ、眼を覚ましな。そんなまで辛いのに、なんで其処にいなきゃならない。」
【でも、サンジっ。勝手なことしたら、ゾロ、もっと困るから…。】
「奴の都合や気持ちなんざどうでもいいんだよ。」
こればっかりは、今度ばっかりは、いくらルフィ自身が拒んでも聞いてやらないと、そこまでの覚悟を決めたサンジであるらしく、
「良いな、すぐにも荷物をまとめろ。どうしても手放したくないものだけで良いからな。」
くっきりきっぱりと言い放ったお兄様である。
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*おおお、これは本気だ。
寝てる場合じゃないぞ、婿殿。それとも弁明の余地なしか? |