月夜見
  
   
暮色落葉 "蒼夏の螺旋"番外編

        *このお話は同シリーズの後日談ですので、
           ご面倒ではございましょうが、そちらから先にお読みください。
 

 
          



 秋の陽は釣瓶落し、とは、よく言ったもの。秋分をすぎると陽の入りは加速をつけるようにどんどんと早くなる。日本は東西にも長い国なので地方にもよるが、10月の末ともなれば、5時を待たずに陽は没し、暮れなずむ余光の茜色と紫が絶妙なグラデーションを織り成しつつ、その中へと背の高い木々や高層ビルのシルエットをくっきりと浮き上がらせて。つんと冷たい風の中にそれはそれは美しい風景を披露してくれる時節でもある。

   "………。"

 都会でもビルの遠景を見惚れるほどの芸術品に仕立て上げてくれる秋の夕暮れだというのに、そんなものなんか一向に眸に入っていない人物がある。乗っている電車の扉の窓から、外の風景へと視線を向けてはいるものの、その視界の中には何もないも同然で。片手に抱えたブリーフケースを、胸元へと引き上げようとしかけては、だが、
「………。」
 待て待てと思い直しているらしく。電車の中で携帯電話を使ってはいけないと、気になりつつも思い直しの繰り返し。そんな風な、どこか不審な…いかにも気が急いているらしき動作がなくとも、何となく。周囲から人の眸を引く人物である。まず、何と言っても上背がある。今時の男性は170センチ強あれば基本というが、それより優に10センチ以上は高く、しかも体格がすこぶるいい。カチッとしたスーツや秋物のコートの引き締まった肩や背中のシャープなラインによってシェイプされ、着痩せして見えてはいるが、胸の厚さは結構なもので。前合わせを開いた薄手のコートから覗く、その胸元の何とも広いことよ。大きな手や長い手脚とのバランスも良くて、何か実業団系のスポーツ選手ででもあるのだろうかとついつい勘ぐってしまうほど。こちらもそうと思わせる、ほんのり陽に焼けた横顔は、だが、よくよく見ると別な意味合いから、やはり眸を奪われるほどに印象的だ。ぴしっと引き締まった顎やおとがい、首条のラインが何ともセクシーで、鋭角的な目許口許は野性味にあふれて男臭いのだが、間近に寄ってよく見れば…深色の光を宿した眸は涼やかで、口角のはっきりした口唇は凛々しい限り。撫でつけるでない短くすっきりと刈った髪形と相俟って、いかにも機敏そうな闊達な雰囲気を感じさせて。だが、今日だけでない、毎夕の彼を秘やかにウォッチングしている"バイト先経由 帰宅部"所属の女子高校生たちの言うところによれば、

 『いつもならもっと優しいお顔なんだけどね。』
 『そうそう。あれはきっと彼女が待ってるのよ。』
 『彼女かなぁ。そんならもっとこう、ニヤニヤとかしてない?』
 『そうじゃないからカッコいいんじゃない。』
 『でもなぁ。何かもっと身近な、うん、子煩悩なお父さんみたいな顔じゃない?』
 『やぁだ、やめてよぅ。あたしの"窓の君"を勝手に子持ちにしないでよぉ』
 『あんたこそっ。勝手に"あたしの"なんて言わないでっ』

 ………だそうです、はい。
(汗) そうこうする内にも、電車は目的の駅へと滑り込む。此処へ着いてしまえば、自宅まではすぐだから。もう携帯電話のことは忘れた。黄昏の中に色彩が沈みゆく人の波を軽快な足取りで駆け抜けて、
"…っ。"
 辿り着いたのは小ぎれいなマンション。コンビニ横のエントランスへ飛び込んで、まずはルームナンバーを入力してからチャイムを押してみたが反応がない。
"…どうしたってんだ。"
 胸騒ぎに焦りを覚えつつも、そんなこんなと思いながらの逡巡や躊躇はない。ポケットから取り出した鍵を差し込んで、オートロックを解いて住居棟の中へ。エレベーターを待つのもまどろっこしいとばかり、階段のホールへ直進し、足早の延長の二段飛ばしで駆け上がって、やっと辿り着いたのは…今朝方出て来た我家のドア前。
「………。」
 鋼鉄製の無表情なドアと向かい合い、何故だか今頃になって…ためらいが喉元へ迫
り上がって来そうになった。どうしたものかと足元を見下ろし、だが、ここまで来てそれもなかろうと意を決して、横バータイプのドアノブに手をかける。ガツンという手ごたえがあって施錠されていると判り、改めて鍵束を取り出して…さて。
「………お。」
 錠は当然開いたが、ドアを引いてみると開き切らないようにと咬ませておくセーフティバーが掛けられていない。ということは、家人は不在だということだろうか。
"こんな時間にか?"
 それに、だったら尚のこと、出先に必ず持ってゆく携帯電話に出る筈だろうにと感じつつ、三和土(たたき)に入って靴を脱ぐ。
「…ルフィ? 帰ったぞ?」
 肩幅のある彼には、やや細く見える廊下。突き当たりが主寝室で、途中にサニタリーやキッチン、居間、予備室へのドアが向かい合う、窓のない納戸部屋付きの2LDK。歩幅のある彼なら5歩も進まぬうちにリビングへの刳り貫きの戸口に到達出来る。一番手前のキッチンの照明が落とされていたので、真っ直ぐに居間にまで足を運んだ彼だったが、ここもやはり明かりは灯されてはおらず。だが………、
「………驚かすなよな。」
 天井の蛍光灯を灯そうと壁のスイッチへ這わせた手がつと止まり、その大きな肩を落とすくらいの吐息をつきつつ、薄暗い室内、慣れた足取りでソファーの傍らへと向かった彼である。カーテンを引かぬままな窓からの外光も既に心もとない、たいそう暗い室内だったが、お昼寝用の毛布にくるまっている、何とも小さな存在に気がついたから…。
「………。」
 長い脚を折り畳み、ソファーのすぐ傍らに膝を落として、愛しい人の寝顔を覗き込む。もうすぐにも家に着くよと、いつもの携帯での連絡を乗り継ぎ駅から掛けたものの、うんともすんとも応答がなくて。もしや、事故にでもあって倒れでもしているのではなかろうか、それとも…まさかまた、何かにヘソを曲げての家出か?と(『碇星寒昴』参照)ひどく心配したのだが。見慣れたまろやかな寝顔には陰ひとつ曇りひとつなく。顔を間近まで寄せずとも、いかにぐっすりと寝入っているのかは一目瞭然。寝息の穏やかさはいっそ清々しいほどだ。
「…ルフィ?」
 こうまでよく寝ているのを起こすのは忍びないが、浅い午睡だ、抱き起こせば目を覚ますに決まっている。このままここで寝かしておく訳にもいかないしと、すぐ傍のフロアライトの白熱灯を灯し、やわらかな光の中、そっと小さな肩を揺すってみると、
「ん………。」
 深呼吸のような深い息を一つついて。眩しそうに1、2度しばたたかれた目許が、目の前にいる誰かに気がついて。誰なのかを見定めようと、懸命に瞼を上げていようと頑張っている様が何ともかわいい。だが、そんな覚束無さにも徐々にピントが合ってくる。
「あ…。」
 ごそもそもそと。毛布とむくむくの毛糸のカーディガンという武装の中に埋もれている身を、億劫そうに懸命に起こそうとしている彼の、幼い手をこちらからも掴み取り、
「ただいま。」
 胸元へ引き寄せたぬくぬくの身体。間近になった小さなお耳へと囁きかければ、
『おかえりvv』
 ふにゃっと まろやかに笑って、甘いトーンの声がそうと返してくれる筈だったのだが。
「…ッ! ゾロっ?! え、なんでなんで? 今何時なんだっ?! ……………っ、6時過ぎっ!」
 なんて早く帰ってくる旦那様なんでしょうか。相変わらずの"伝書鳩"なんだねぇ。
"………おい。
(怒)"
 あ、いや。そうじゃなくって。
(笑)
「どどど、どうしようっ!」
 旦那様の腕の中で慌てふためき、文字通り頭を抱えてパニックを起こしているルフィに、
「どうした、ほら、落ち着け。怖い夢でも見てたのか?」
 くるみ込んでいた長い腕の輪をそっと縮めて、あやすように抱き締めてやる。だが、幼い奥方はぶんぶんと首を横に振り、
「違うんだ。あんな、あの…。」
 声にくすんという湿っぽい響きまで滲み出したのへ、んん?とお顔を覗き込めば、
「あのな、俺、うっかり寝てて…晩ご飯の支度、何にもしてないんだ。」
 今にも泣き出しそうな切羽詰まった声で言う。どうしようと、ごめんなさいとが入り混じった、何か途轍もない失態をしでかしてしまったと言わんばかりのうろたえようだもんだから、

   「………。」

 ゾロまでそんなルフィの様子に合わせてか、一瞬声を失ってしまったが。
「…あのな。」
 そんな大層な…と思いかけて、はたと気がついたところは、さすがさすが。ここで"飯くらいのことで"なんて言ってはいけないのだ。確かに、命を取られるほどの大したことではないながら、だがだが、毎日の家事というお仕事の中、ルフィが大好きな旦那様のためにと、一番に気を遣い、頑張って腕を振るってくれている代物を"そのくらいのこと"扱いしちゃあいけない。
「どうしよう…。ご飯のスイッチも入れてないよう。」
 もう随分と慣れたこと、今から取り掛かれば1時間とかからずに まあまあのものが作れるだろうに。ついうっかりが原因で、きっちり準備万端の態勢で待ち受けてることが出来なかったと、こんなにも…涙目になりながら、この世の終わりくらいの焦燥ぶりを見せてくれる可愛い人。そんな彼を、
「ルフィ。」
 広い懐ろの奥にと引き寄せて。そっとキュッと抱き締めて。旦那様は耳元近くで穏やかな声をかけた。
「そんなにしょげなくていい。そうだな、今夜は外に食べに行こうか?」
「…ぞろ。」
「どうしても今夜作らなきゃっていう、何か予定があったのか?」
 下ごしらえの途中なもの、下味ソースに漬けてあるもの。そういうのがあるのかなと問えば、
「…ない。」
 ふりふりと黒髪を揺すってかぶりを振る。
「じゃあ、出掛けよう。たまには良いだろ? いつも大変なんだ。たまにはさ、準備も後片付けも無しって晩ご飯にしよう。…な?」
「ん、でも…。」
 そんな申し出にすぐさま"ラッキーvv"と応じられるような子ではないから、こんなに慌てふためいたのだ。それに…、
「………。」
 やっぱりそこはちょっと複雑。そんな言い方はしていないゾロだが、やっぱり"そんなにも慌てるほどの大事ではない"という扱いをされたような感触が、もぞもぞと沸いて来たのかも。物言いたげな上目使いになったルフィへ、
"うわっ、その顔は卑怯だぞ。"
 内心、非常に"どきぃっ"としたゾロだったが、
「ここんとこルフィだって忙しそうだったじゃないか。今日のお昼寝だって、昨夜また遅くにPCの前にいたせいだろう?」
 ふと目を覚ますと腕の中にいないルフィだという夜がこの何日か続いていた。様子を見に行くと、大概は…慌てて電源の入ったPCの前から立ち上がる彼だった。よもやこっそりと未明までお友達と"なりきりチャット"をしていた…訳ではなくて
こらこら、よくは知らないが…あの金髪碧眼のお兄さんのWeb事務所の連絡員の仕事が立て込んでいるものと思われる。何しろ時差がある相手。日頃は一日に朝と晩だけの連絡で済んでいるよなルフィまでが頼りアテにされているような、ちょいと忙しい事態が起こっているのかも。だとしても、自分は口出しが出来る立場ではないから、せめて………。


   「だから。骨休めのデートだ。いいだろ? さ、コートを着ておいで。」






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