月夜見
  
   
暮色落葉 A "蒼夏の螺旋"番外編


          



 さすがに陽が落ちると、コートやせめてスタジャンクラスの装備がなくては背条を伸ばしてはいられないほどの寒い季節になって来た。とはいえ、去年ゾロに見立ててもらった格子柄のキャメルのダッフルコート…を着るにはまだちょっと早いかなと、それでも生地のしっかりした、ミルクティ色のデザインコートを引っ張り出して。
「何にするね。」
「うっとねぇ…。」
 こちらも、スーツ姿からシャツとセーターにカジュアルなボトムというラフな格好に着替えた上へ、ハーフコートを重ねたゾロが訊く。ここいらはどちらかといえば住宅街寄りではあるものの、駅の周囲には結構しゃれた店が連なっているし、近くに大学があるせいもあってか、喫茶店や食べもの屋も案外とはやっていて数も多い。ほてほてと駅までの小ぎれいな舗道を並んで歩いて。やがて駅前の商店街に入れば、暖かな街灯に照らされた、陣幕の薄い雑踏が二人をやさしくくるみ込む。3階建の小さな駅ビルを中心に伸びる、ちょいと小じゃれた商店街。電車が着くたび、駅から出て来て足早に、今自分たちが来た方向へと去ってゆく人が一番多いが、学生さんや女性の二人三人連れという辺りは、駅ビルの一階に連なるショーウィンドーを覗き込んだり、笑いさざめきながら喫茶店に吸い込まれて行ったり、まだまだ帰宅には運ばないクチだろう人たちも多い。そんな人込みの中、傍目にはたいそう仲のよい兄弟か、もしかしたら…親子かな?
(笑) とさえ見えるバランスの二人は、されどあまり目立たないでいるようで。周囲へは欠片だけでも洩らすのが勿体ないとばかり、互いに相手一人にだけ関心や注意を向け切っているせいだろう。そんなムードで歩きながらメニューのお伺いを立ててみると、奥方は小首を傾げて、だが。
「う〜ん、何でも良いからゾロが決めてよ。」
 そんなことを言い出す。
「何言ってんだ。」
 旦那様は苦笑して、
「これが食べたいってもの、ないのか?」
 今夜は炊事をお休みにしたのだから、当然ルフィのリクエストを優先すべきだろうと、そういうお声を掛けるのだが、
「だから、ゾロが食べたいもの。俺もそれで良い。」
 この小柄な体躯によらず、結構食いしん坊な彼なのに。何だか遠慮がちな言いようをするのが少々腑に落ちず、
「ここいらの店って入ったことがないから、俺にはよく判らんのだ。」
 まだ会社の周辺なら、何とか和洋中華それぞれ1軒ずつのご贔屓もあるのだが。そういう事情を正直に話すと、一方のルフィもまた、
「俺だって。入るのは喫茶店止まりだもん。」
 遠慮をしているのではないらしく、やっぱりよく判らないから、ゾロが決めてくれと言い出した彼であったらしい。それでも一応は一通りをぐるりと見て回った二人だったが、
『ここはどう?』
『う〜ん。なんかルフィが作ったのの方が旨そうだしな。』
『そんなこと言ってたら決まんないよう。』
 和食に洋食、イタリアンに中華にエスニック。どんなメニューを眺めてみても、お互いにピンと来るものがないらしく、
『じゃあ、簡単にカレーとかお蕎麦とかにする?』
『それもなぁ。だったらインスタントでも良さそうな気がするし。第一、ルフィがちょちょいで美味しいのを作れるだろうと思うとなぁ。』
 さりげなくノロケております、この旦那。バックスキンのミトンに包まれた小さな手を、いつの間にやらその大きな手の中へ、すっぽりと隠し込むようにつないでいて、
『う〜ん…。』
 困ったなぁと眉を寄せる愛しい人のお顔を隣りにこっそりと見下ろしては、仄かに微笑んでいるところを見ると。あれも今イチ、これも何だかなと、煮え切らないのはもしかして…こうやっている間こそが のほのほと楽しい、所謂"デート気分"を満喫してますね、もしかして。
"…可愛いよなぁ。"
 真剣に考えもせんと やに下がってるとは…こ〜や〜つ〜は〜〜〜。
(笑) とはいえど、
「ねぇ、決めようよ。何かお腹空いて来たし。」
 焦らすにしても事が事なだけに限界というものがあって。出掛けた時はそうでもなかったルフィも、さすがに空腹を自覚しだしたらしい。そんな彼へと、
「あ、そうそう。思い出した。」
「なぁに?」
 白々しくもそんなことを言い出した旦那様は………。




 少しばかり駅からは離れた辺りの、雑貨屋と酒屋の隙間の路地みたいな細い道に入って行った突き当たり。二人が辿り着いたのは、少し古びた雰囲気の、レンガの壁の小さな洋食屋さんだった。
「ここ?」
「ああ。今のマンションをな、譲ってくれた先輩さんが教えてくれたんだ。」
 樫材だろうか、チャコールの落ち着いたドアを押し開けると、頭上で少し大きなドアベルが"ころろん"と鳴って。白熱灯の間接照明が黄昏色に染めている店内を、静かな音楽が耳を澄ませば聞こえるくらいの音で流れている。ボックス席が8つくらいと、カウンターの10席くらいという、小じんまりとしたお店だ。
「いらっしゃいませ。」
 優しい笑顔の…恐らくは店主夫人だろうエプロン姿のご婦人が応対にと出て来たのへ、
「あの、予約とかは入れてないんですが、構いませんか?」
 ゾロが尋ねると、
「ええ、勿論です。お二人ですね? こちらへどうぞ。」
 柔らかな会釈で彼らを奥まった席まで導いてくれた。二人掛けのテーブルには生麻のランチョンマットと籐カゴに入ったナイフ&フォークというカトラリー。コートを預かってくれた入れ替わりに、席に着いた二人へメニューを渡して、夫人は一旦ドレスルームだろう奥へと引っ込んで。
「えっと。」
 どこか物慣れない様子で、メニューとお向かいの連れの顔とを見比べるルフィへ、
「何でも美味しいぞ、ここのは。」
 優しい声をかける旦那様だが、
「ゾロは何にするの?」
 初めてのお店。どうやら煮込み料理がお得意らしいメニューは一応全部判るものの、味の方は当然判らない。
「そうだな。俺は…タンシチューのコースで良いかな。」
「じゃあ、俺も同じのにする。」
 戻って来た夫人へと二人分のオーダーを告げ、飲み物はライトビールとルフィにはカシスジュースを。承りましたと、やはり物柔らかな会釈を見せて、夫人はカウンターの奥の厨房へと姿を消した。二人きりになると、物音がよく聞こえて。厨房からの調理の音、食器の触れ合う音。店内に流れる音楽は、どうやら落ち着いたジャズかなと、あまり詳しくはないがそんな風に感じつつ、
「そういえば、ゾロって大学に進学したその年から、塩竈出てあそこに住んでるって言ってたよね?」
「まあな。」
 ルフィは"う〜む"と腕を組んで、
「伯父さん、そこまでお金出してくれたの?」
 ルフィが覚えているゾロの父上は、さすがは武道をたしなむ家柄の人らしく、筋の通った厳しい人だったから。勿論、必要最低限の援助はしてくれるだろうが、あのマンションみたいな贅沢な住まいの家賃までとなると、それはちょっと"???"なことだよなと。今頃になって"おややぁ?"と疑問が浮かんだ辺り、何かと繊細な割に結構のんびり屋さんなルフィである。ゾロは可笑しそうに笑って、
「まぁな。授業料だけは仕送りしてくれたけど、生活費や家賃にはここまでっていう制限を掛けられたさ。で、高校時代の先輩さんが、不動産屋の跡取りだったんでな、安い物件はないかって訊いてみたら。」
「あそこを売ってくれたの?」
 結構立派な分譲マンションですよ? ワンルームじゃないし、駅に近くて便利な環境だし。そうそう手軽に学生が買える代物ではない筈で、ビックリしているルフィにくすくすと笑い、
「まさか。買うなんてとんでもない物件だったさ。ただ、自分の家の家作だからって安く貸してくれてな。それから今度は就職が決まった時に、就職祝いだって言ってやっぱり破格の安さで売ってくれたんだ。」
「売って…って。だって…。」
 大学を出たばかりでは、まだ資金だってないのに? ひょこんと小首を傾げるルフィへ、
「勿論"ローン"で、だよ。まだ支払い中。」
「あ、そっか。」
 やっと納得。きっと保証人とか必要なのさえ大目に見ての、飛びっ切りの優遇をしてくれたのだろうと忍ばれて、だが、
「………。」
 それまで穏やかだったものが不意に。少ぉし俯いて、お口を噤んだルフィだったから。
「?? どした?」
 今度はこちらが小首を傾げたゾロへ、ちょろっと上目遣いの目線を寄越しつつ、
「その先輩さんて。」
「んん?」
「……………随分ゾロに優しかったんだね?」

   ――― はい?

「ルフィ?」
「もしかして女の人?」
 おいおい。一体何を深読みしてるかな。あなた無くしては生きてゆけないんじゃなかろうかという勢いで、日々を送ってる旦那様だというのに。
(笑) さて、ルフィ本人への気配りはかなりこなせるようになったものの、そんなに深く考えないという点では相変わらずの朴念仁。ゾロの感じようはいたくあっさりとしていたらしくて、ルフィの…どこか邪推混じりな訊きようへ、
「男だよ。剣道部の先輩だった人だ。」
 あっけらかんと応じたその答えへ、
「男か。でもなぁ…。」
 それでも安心出来ないよなぁと、う〜んと唸って見せる小さな奥様に、
「あのな。」
 やっとこ、相手に下心があったのではと心配しているらしい彼だと察したらしい。
「そんな人じゃないって。」
 …そんな人ってどんな人だろう。
(笑) いやいや、そうじゃなく。今やっとルフィが何を心配しているのかが判ったと同時、彼の頭の中に浮かんだのが、

   ――― 女房が 心配するほど モテはせず

 正確ではないが、こういうような川柳があったのをふと思い出した。夫の浮気を案じる癇性な妻へ、そうまで心配するほど女性に魅力的なご亭主じゃあないわよと窘めるような内容なのだが。
「だってゾロってカッコいいんだもん。」
「はあ?」
「しかもそうだってこと、全然判ってないんだもん。」
 テーブルの縁、小さな手の指先をチョコンと引っかけて。身を前に乗り出し加減になって懸命に言いつのる。愛らしい奥方の言い分を、だが、こればっかりは"でれっ"と聞き流している場合ではなく。そりゃあお前、勘違いだってばと反駁しかかったそのタイミングへ、
「お待たせ致しました。前菜とお飲み物でございます。」
 先程のご夫人の手で運ばれて来たのが最初のお料理。新鮮なお野菜のドレッシング和えに取り囲まれて、赤ちゃんの拳くらいの大きさの小さなパイが一つ。丁寧にセッティングされ、
「キドニーパイでございます。」
 やさしいお声での説明と物腰やわらかな会釈に釣られて、ついついこちらまでが…座ったままにて揃って頭を下げてしまって。
「…えと。」
 夫人が去ってから、微妙な沈黙へ顔を見合わせ、
「………ぷふっ☆」
 どちらからともなく、可笑しくて吹き出してしまった二人である。なんでそんなことで喧嘩腰になりかかったのか。大好きな人への独占欲は認めるが、今頃穿
ほじくり返しても何にもならない話ではなかろうか。ペロッと小さく舌を出し、
「ごめんね。」
 謝ってくる奥方へ、
「いや…。」
 そんなまで心配するほど好きなんだよって、改めて言われたようなもの。ゾロは照れ臭そうにがりがりと後ろ頭を掻いて見せて…、
「食べよっか?」
「うんっ!」
 いやはや、御馳走様ですことvv


 次々に手際よく運ばれてくるお料理は、どれも手の込んだ逸品ばかり。かわいいラビオリに、風味の豊かなエビのすり身を浮かせたコンソメスープ。甘鯛のポワレに温野菜と来て、いよいよ登場のメインディッシュ、牛タンシチューはといえば。
「…あ、凄い。」
「だろ?」
「お肉がホロ〜って蕩けてって、あっと言う間になくなっちゃうの。だのに、ちゃんとお肉の噛みごたえとかあるし。」
 こうまで柔らかくじっくりと煮込む料理は、そうそう家庭では作れない。
「ソースもなんか…そこいらのデミグラスじゃないみたいだ。」
 見かけは子供だが、これでもこのルフィ、決して薄っぺらな"グルメ"ではない。途轍もなく腕の立つ名コック氏と共に過ごし、その上、本場欧州で本物の名店にも足を運んだそのせいで、舌が相当肥えている身なのである。それだけにこの味わいは随分と衝撃的だったようで、あまりの美味しさにうっとりと眸を細めてしまったから、
「此処に決めて良かったろ。」
 にっこり笑いつつも我が手柄のようにちょいと威張ってるご亭主へ、
「うんっvv」
 素直に頷いてこちらも"にっこりvv"のお返し。穴場としての評判は高いお店らしくって、判りにくい場所にあるというのに、気がつけば店内はそれなりにお客様で埋まっている。きっと昼間のランチタイムは、奥様のグループだの女子大生だので賑わってもいるのだろう。口直しとしての、ライスペーパーで包んだエビとレタスと香草の生春巻きを食べたその後に、
「デザートはケーキとシャーベットがございますが。」
 そうと訊かれて、
「じゃあ、別々のを。それと、コーヒーも一緒にお願いできますか?」
「はい、かしこまりました。」
 やがて運ばれたデザートを両方ともルフィの前へと押しやったから、
「じゃあ、ゾロはコーヒー2つね。」
「おいおい。」
 お茶目な会話も暖かく、思わぬディナーは幸せなままにその幕を閉じたのであった。







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