伝説との邂逅へ…

        〜ロロノア家の人々・外伝“月と太陽”より
 


        1

 海面にきらきらと弾ける陽射しが、船腹にまだらな網目のような光の模様を反射させている。小さなキャビンと小さな帆。せいぜい日帰り遊び用の小さなプレジャーボートが一艘、穏やかな波間にゆらゆらと揉まれて停留している。船端に腰掛けて海面へと釣竿を差し伸べ、釣りに勤しんでいる青年へ、
「まだぁ?」
 甲板にデッキチェアとパラソルを開いて長々と横になった少女が声をかけた。赤みがかった亜麻色の髪と大きな水色の瞳の、ちょっとばかり勝ち気そうな面差しをした女の子で、
「そう簡単には釣れないさ。」
「あら、パパならあっと言う間よ?」
 なのにあなたには出来ないの?と、さも不思議そうな顔になる。
「そりゃあ、おじさんは何でも上手だもの。それにおじさんの竿。あれってマニアが山のような金貨積んでまでして"譲ってくれ"って日参したくらい、物凄い竿なんだろ?」
「さあ、良く知らないわ。」
 一人娘である自分を誰よりも何よりも大切にしてくれる父が、だが、その竿にだけは触らせてくれない。

  『ごめんよ、ハニー。これはパパの宝物だからな。』

 昔の仲間が作ってくれて、別れ際に餞別だとプレゼントしてくれたものだと母が言っていた。
"パパもママも、昔の話って中途半端なところまでしか話してくれないしなぁ。"
 あんな冒険をした、こんな人に会った、そうそうあの島では大変だったわよねぇと、どんなお伽話よりもそれはわくわくするお話を沢山々々してくれて。二人の話は別々に聞いても大体ぴったり合うから、作り話ではない"ホント"のことらしくって。だのに、じゃあ何をしていた人なのかと訊くと、船乗りだったとか、冒険家、探検家、いやいや学者のアシスタントだったかなといつだって話を誤間化す。もしかして…何か後ろ暗いことなの?と訊くと、

  『全然恥じ入ることじゃないの。むしろ胸を張って話せることよ。』

 母は晴れ晴れとした顔で笑ってそうと言い、
『ただ…言葉そのままに受け取られると、きっと誤解されちゃうだろうことだし、それより何より、今は訳があって身を隠している仲間を守りたいのよ。だから、そうねぇ…ベルがもうちょっと大きくなったら、ちゃんと話してあげるわ。私たちがどれほど誇り高い人と一緒に冒険していたか。』
と、それこそ誇らしげに言い切ったものだ。
"大人の理屈かぁ。"
 そして、まだ話してもらえないということは、自分はまだまだ子供だということだろうか。


 ここは近年発見されたばかりの、東西南北四つの海域全ての魚介類が集う海"オールブルー"だ。海のコックたちの間で、ずっとずっと伝説上のものとして語り継がれていただけだった"幻の漁場"を、しっかりと海図の上でのポイントとして確認し、その近海にてそれは大きな海上レストランを開いたのが、今や世界一のシェフとの誉れも高い、元"戦うコック"のサンジという男。ただでさえ強烈な磁場と気まぐれな気候のせいで航行が困難なその上、一昔前までは"一つなぎの秘宝・ワンピース"を求める血気盛んな海賊たちが闊歩往来していた、とんでもなく危険な航路であった"偉大なる航路・グランドライン"。その只中に身を隠すように存在していたこの奇跡の海を、ほんの一桁の仲間たちとの航海にて発見したうら若きシェフ殿は、航海仲間の優秀で美しい女航海士と結婚し、船から降りてこの場所にレストランを構えたという訳で。
「いくら"オールブルー"だからったって、季節に合った魚しかいないんじゃないのかな。」
「どうかしら。聞いて来れば良かったわね。」
 四つの海すべての魚介類が生息するというそんな場所柄なせいか、気候も一年をかけてそれぞれくっきりした四季が巡る海だ。お待ちかねのやさしい春、待ったなしの激しい夏、伸び伸びと豊かな秋、そして、厳寒を耐えるために沢山の暖かい知恵を生み出す冬。いまはワクワクとした気分を誘う爽やかな風と陽射しが日に日に輝きを増すばかりな初夏で、
「でも、あたしはどうしても"マルマルブリ"が食べたいの。」
「だから、それは冬の魚なんだってば。」
「食べたいったら食べたいの。頑張って釣り上げてよ、ね?」
「ったくもう。口の肥えたお嬢さんなんだからなぁ。」
 それもその筈、海上レストラン"バラティエU"のグランシェフであるサンジの一人娘、それがこの少女・ベルである。レストランが浮かぶ海域の素晴らしさ、すなわち、素材の素晴らしさは言うまでもないが、それに加えて、調理を施すシェフ殿の腕前もまた格が違う。二十歳を待たぬ若さで既に東の海"イーストブルー"でのナンバーワン・シェフという称号を得ており、その頃にはもう、長年の夢であったこの"オールブルー"を求めて大海に旅立っていた彼で。様々な冒険の旅の末、仲間と別れてこの海域に錨を降ろした彼は、手に入れた夢の漁場を更に有名にすべく精進を重ね、今や"命は惜しくないから、是非とも彼の手になる料理を口にしたい"という、これまでとは明らかにカラーの違う命知らずな冒険者たちが、グランドラインを目指して急増中でもあると言う。そんな父君に一番の情熱を込めた料理でもって育てられたお嬢さんなものだから、ベルの舌はそりゃあもう肥えていて当然で。しかも、水の飲み分けや岩塩のなめ分けまで容易にこなせるミラクルな味覚センサーの持ち主だとか。
『食料危機なんてのに襲われたら、真っ先に餓死しちゃうわね。』
とは、母上の抱えた彼女への最たる心配のタネである。………と、
「………おっ。」
 船端から釣り糸を垂れていた青年が、ふと、何かに気づいたような声を出す。穏やかな海面へ水紋の輪を描いて、糸をツンツンと引く手ごたえがあったようで、
「何かかかったぞ。」
「え? ホント?」
「ああ。…っとっ!」
 グラスファイバー製なのだろうか
おいおい、真新しい竿が折れんばかりに撓しなって物凄い引きであることを示している。
「マルマルブリなの?」
「さあっ、どうかなっ! マルマルブリも、大きな魚だからっ、このくらいは、引くんだろうけどっ!」
 獲物の抵抗に振り回されながらの応対だからだろう。青年の声はところどころでぶつぶつと途切れている。結構体格のいい彼の頼もしい両腕で、ぐいっと力強くあおりながら引きつけては、リールをしゃにむに巻き上げて。何度も何度も繰り返されるその動作が、だが、
「…………あっ!」
 突然、文字通り糸が切れたのだろう。拮抗していた力がふっと立ち消えたがために、後ろざまに吹き飛ばされ、青年は甲板へ無様に尻餅をついてしまった。
「痛たたた…。」
「なぁ〜に? バラしちゃったの?」
 少女の側には責めるつもりなぞ毛頭なかったのだが、この場面でのその一言はちょっとキツイ。それでという訳でもなかったが、
「何だか妙なんだ。」
「妙?」
 小首を傾げる少女を振り返り、
「ただ切れたって感触じゃなかった。急に引きが何倍にも大きくなったような…。」
 中途から千切られた糸を垂らしたままな竿を両手で構えて見せて、先程受けた感触を説明しかかっていた青年は、だが、海面に何かを見て、
「?」
 船端へと寄った。染料を溶かし込んだような、鮮やかに明るい海の色。浅瀬でもないが透明感があって、降りそそぐ陽射しを吸い込んだ浅い青に塗り潰された海のすぐそこを、何かの陰が"さぁっ"と走って行ったように見えた。空からの陰だろうか? いや、ここいらは大洋の中程だから、よほど珍しい大鳥でもない限り、上空を通りはしない。
「…クラレンス?」
 不審に感じたらしい少女が声をかけながら青年の傍らへ寄る。ちょっとおっちょこちょいだが、気のいい幼なじみ。ベルのお嬢様然とした態度や物言いに、適当にいなしつつも付き合ってくれている彼は、滅多なことでは少女を放り出すような行動は取らない。見つけたものがあれば真っ先に知らせてくれるし、思ったことは包み隠す暇もあらばこそ、やはりそのまま話してくれる。それが、何かへと注意を奪われたままでいるのは、よくせきのことだ。
「どうしたの?」
「…ほら、あれ…。」
 ふわっと、海底から浮き上がって来た黒っぽい影。ブルーのゼリーの中に沈められたプルーンのようにも見えたが、
「…………えっ。」
 一気にその大きさが拡大し、小山のように、丘のように海面が盛り上がる。プレジャーボートは横波を受けてぐらぐらと大きく揺すぶられ、
「あれって…。」
 だが、ベルは悲鳴も忘れて船端の手摺りをきつく掴んだまま海面を見据えている。驚きが大きすぎて目を離せない。というのが、


  「かっ、海王類っ!」


 その大きな影は"全身"ではなかった。浮かび上がって来た巨大な生物の頭頂部というほんの一部分。空を舞う竜と種を異にし、その住処
すみかから"海の龍"との異名を持つ巨大な海洋生物で、その巨体を維持するために決して食わず嫌いはしない肉食性の怪物。
「ど、どうしようっ!」
「どうしようって…。」
 この海域では目撃情報もなく、ベルも両親や店のコックたちなどから聞いた"お話の中の怪物"としてしか把握してはいなかった化け物。実物がこんなに…鯨並みに巨
おおきいとは思ってもみなかった。
"山のようにって言われても、あたし、山なんて見たことないものっ。"
 驚きのあまり、かなり混乱している。日頃から何かにつけては、男勝りの豪胆さを苦笑混じりに褒められて来たこの自分がだ。
「とりあえず逃げましょうっ!」
「あ、ああ。」
 あまりの巨大さに息を飲んで呆然としていた青年に叱咤の声をかける。そうすることで自分をも奮い立たせようとしたベルだ。とはいえ、
"…でも、きっと逃げ果
おおせられない。"
 何せ大きさが桁外れだ。海面下にはどれだけの胴体が沈んでいるやら、頭だけでもちょっとした島ほどはある。ほんの深呼吸ひとつで、こんな小さな船くらい易々と口の中へ吸い込めるのかも。チョウザメのような長い鼻先を振り立てて、頭を完全に海面の上へと浮かび上がらせたその海王類は、金色の真ん丸な目を横向きに開閉させるような"キロッ"とした瞬きを見せて確かにこちらを見た。
"あああ、あたしはこれで一巻の終わりなんだわ。パパ、ママ、ごめんなさい。マルマルブリなんてどうでも良かったの。最後にパパの作った蜂蜜のシフォンケーキとオレンジのババロアが食べたかった…。"
 なんとも女の子らしいお念仏?を唱え始めてしまったベルは、波を蹴立てて向かってくる気配に、思わずぎゅっと眸を閉じ…ようとしたのだが、


  「……………え?」


 太陽の中から飛び出して来たのではないかと錯覚したほど、海面よりも高く高く、宙空へと舞い上がった誰かの姿があった。ベルのいた位置からは丁度逆光になっていて、相手の影しか捉えることが出来なかったが、


  「哈っっ!」


 ここにお嬢ちゃんのご両親がいたなら、逞しい肩や背中と、野獣のように冷たく冴えた鋭い眼光。三本の日本刀を鮮やかに駆使して敵を叩き斬る、とある男の姿を思い起こしたことだろう。しゃりん…っという涼やかな金属音がなめらかにすべり出し、
「呀っっ!」
 腹の底からのものだろう、力強い気合いと共に強い風のようなものが走って、辺りの空気ごと瞬断されたような気がした。素人であるベルがそう感じたほどの剣勢は、それは見事に、巨大な山を思わせる海王類の…長い鼻を叩き斬ったのである。被害者の方は、

  「▼*◎†〓※●…っ!」

 何とも言えない絶叫を残して頭を海面下へと引き込んだ。その頭を追いかけるように、長い長い胴が"するするする…っ"と水面へ現れては引き込まれるようにと流れてゆき、最後に浮かび上がって来たのが巨大な扇のような尾ビレ。その巨大な扇が、海面を真っ二つに割るかという勢いで"だぱ〜〜〜ん"と叩くと、高々とした津波のような波を蹴立てて"ご本尊"が逃げ出したものだから、
「きゃあっ!」
 またもや大きな横波に遭って船が揺れた。危うく転覆だけは逃れたその船端にしがみついて、ベルの大きな目が見やった先には、やはり大波に大きく揉まれている粗末な帆掛け船と、その船上に立つ誰かの背中がある。しゃんとしたその背中は、特に慌てもせず波を楽しんでいて。やがて波が落ち着くと、海域は麗
うららかな陽射しを受けたまま、何事もなかったかのような穏やかさを取り戻した。そんな中、
「大丈夫だぞ〜〜、その鼻は半月もしたら元に戻るからな〜〜。」
 逃げ去った海王類へのものだろう、悠長に見送る声の若さに、やっと我に返れたベルである。我に返ったその途端、
「…ちょっと、クラレンス。」
「な、なに?」
「いい加減、離れてくれない?」
 連れの青年が、恐怖の余り、自分の胴回りへ"ひしっ"としがみついていることにも気がついた訳だが。言葉と共に、拳で"げいんっ"と殴りつけ、改めて見やった先、
「うん、まあまあだな。」
 小さな小船の上にそれは長々とした"獲物"を引っ張り上げて、うんうんとうなずいている少年へ視線を向けた。


   "………誰?"


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