ロロノア家の人々
     
笑顔の行方  “Tea time”より


          



 あれはほんの半月ほど前のことだったか。小学校に上がって早いものでもう数カ月。夏が近く、陽が長くなったせいもあって、いつもいつも迎えを出さねばならないくらい夕刻ぎりぎりまで遊んでいるものが、その日はまだ陽も高いうちから、子供たちが二人して帰って来たのを前庭で見かけた父上だった。彼女の大好きなユキヤナギが、鮮やかな新緑の茂みによく映える真っ白な花の房を幾つも幾つも、風に撓うように揺らしていた昼下がり。小さな妹が泣きじゃくっているのを兄である坊やがしきりと宥めながら…という様子が何だか只事ではなくて、
「どうした? 何かあったのか?」
 声をかけたところが、
「お父さ…、」
「ダメぇっ!」
 説明しかかった兄の言葉を妹が遮る。男所帯の中にあって唯一の女の子なせいか、親たちからまで"姫"と呼ばれて大切にされているとはいえ、芯の強い、そうそうは簡単に泣いたりしない子だ。それが、もうもう愛らしい瞳がとろけ出してしまうのではないかと心配になるほど、目許を真っ赤に腫らしてえぐえぐと泣き続けている。だというのに、兄が何をか話そうとしたのをこうまで強い語調で制したということは、どこかが痛くて泣いているのではなさそうで。動けば小汗をかく季節に合わせた、気の早い薄手の半袖・ミニスカートの手足にも、目につくお怪我はない様子。
「…みお。話してごらん。」
 師範殿は大きな身体を柔らかく沈め、すぐ傍らに屈み込み、小さなお顔を覗き込んで訊いてみたが、小さな姫はさらさらの黒い髪を肩先に散らすようにかぶりを振って、頑として口を割ろうとはしなかった。大好きな父にまでこれというのは尋常ではなくて、さくらんぼのような唇をぎゅうっと噛み締めて、頑迷そうに食いしばられた口許もまた、ひどく痛々しく見えるばかり。
「みお。お願いだから、聞かせてくれないか?」
「………。」
「じゃあ、お母さんになら話せるのか?」
「………。」
 やはり首を横に振る。どんな手ごわい武道家や海賊、夜盗たちにも余裕で相対することの出来る彼であれ、相手が彼女では無理強いも出来ず。これでは埒があかないなと、困ったように口唇を曲げる父上を見かねてだろう、
「あのな、みお。」
 坊やが横から言葉を挟んで来た。
「お前が話さないなら、お父さん、きっと村まで行って、ひよこちゃんとか、ちかちゃんとか、ちよちゃんにも話を聞いちゃうぞ? そしたら、やっぱりお父さん"話を聞いたこと"になっちゃうぞ? そんでも良いのか?」
 父親譲りの少ぅしきつい顔立ちをさも真剣そうに引き締めて、妹へ懇々と言い諭す彼だったが、
「…?」
 事情がさっぱり見えて来ない父には何ともややこしい言い回し。それでもお嬢ちゃんには十分通じたらしい。はっとしたような顔になって、そぉっと兄を見やり、小さな兄上が"うんうん"と頷首したのを見て、まるで大人のように"はふぅ"と小さな溜息をつく。ずっとしゃくり上げていた余燼から、ついた吐息が震えているのが何とも可憐で痛々しくて。それから、
「…あのね? 学校で今ね、皆がね、…。」
 ようやっとぽつぽつと、本人から語り始めてくれたのは、とある困った"流行
はやりもの"のことだった。
「………ふ〜ん。」
 全てを聞いた父御は、自分が子供の頃にもそういえば有ったよなあと思い出してか、くすぐったそうな顔になる。何年周期かで流行する詰まらないお遊び。よくある筋立ての怪談話の最後に、
『この話を◇日以内に、まだ知らない◆人に話さないと祟られるよ?』
というのが付け足されたもので、ある意味、口伝えの"不幸のハガキ"のようなもの。それを誰かから聞いてしまったお嬢ちゃんは、けれど自分が誰かに話したらその子が困るのではないかと思ったらしい。
「みおが話したら、もう、このお話知らない子がいなくなるの。そしたら、最後の子は…可哀想でしょう?」
 こんなに小さい子なりに、それはそれは必死の決意を張ったは良いが、やはり…怖くて。体がすくむほど怖くて。様子が変だなと気がついた兄に、仲良しさんたちが顛末を教えてくれて、だが、強情を張る彼女に自分たちでは埒があかなくて。あんまり泣くものだから早めに帰って来たという訳だ。………ちなみに、これは男の子・女の子という区別なく広まっているものらしいのだが、兄御は聞いてないと言う。学校から帰ると道場へ直行する日が多い子なのと、額を寄せ合ってこしょこしょと話をする間も惜しんで駆けっこだの鬼ごっこだのと駆け回るような、気ざっぱりした子たちとばかり仲が良いからだろう。そして今も、どうしてもお兄ちゃんは聞いたらダメという妹御の主張を通してやって、先に家の中へと追いやられてしまった彼だ。今さっきの帰り道で、
『なら、まずは俺に話しな』
 ずっとそうやって言い聞かせ続けていた兄へ、いやだとかぶりを振り続けていた、これまた手ごわいお嬢ちゃんである。さてさて、父御はどうするのかと言えば。
「そっか。みおが"最後"で良いって思ったか。」
 何とも天晴
あっぱれな心意気よと、その健気さに比類なきほど感動した父上は、だが、表面上は出来るだけ淡々とした様子を装って、
「…なあ、みお。それ、お父さんにも話してくれないか?」
 そうと持ちかけた。途端に、
「ダメっ。」
 またぞろ"ぶんぶん"と首を横に振るのへ、
「良いから聞きなさい。」
 細っこい両の二の腕をそっと掴むようにして言い諭す。
「そんな話は嘘だ。ちゃんときっちり何人かずつへとリレーをして話していったらな、半月もしないうち、この和国全部の人が話を聞いたことになる。あっと言う間に、もう話す相手がいなくなるんだ。」
 だというのに、どうして無くならないのでしょうか、チェーンレターとかマルチ商法。…じゃなくって。
「いつから流行り始めたんだ? 昨日や今日からじゃあないんだろう? だのに、こんな小さな村でまだ聞いて無さそうな子がいるのはおかしい。きっと、皆が皆、お話を伝えた訳じゃあない。お父さんだけじゃなく、大人は皆、そんなのインチキだって知ってるからな。家族に話して"そんなもの信じちゃいけない"って叱られた子もいると思うぞ?」
 大好きなお父さんの言葉だから聞いてはいるが、内容へは…まだ幼くてついていけないのか、それとも信じがたいのか、娘の表情はあまり変わらない。どこか不安げなそれのままだ。子供に合わせた話し方を選ばないのは常のことだが、今日は特に、大人同士であるかのような話し方をする父であり、
「誰も、その話の祟りとかが原因で苦しんでる人はいないんだろう? それとも誰かホントに呪われた人がいるのか?」
 それへは、娘御もぷるぷると首を横に振る。
「だったらお父さんにだけ話しなさい。お父さんも誰にも話さない。そうすれば、みおと条件は一緒だろ?」
「?」
 お話が上手く飲み込めないのか、少しばかり怪訝そうに首を傾げるお嬢ちゃんへ、
「そのお話、決まった人数の誰かに話さないと怖いことが起こるんだろ? お父さんも誰にも話さないから、もしインチキな話じゃなかったなら、みおだけじゃなくお父さんも同じ"怖い目"に遭う。」
 ここまでは判るか?と言葉を区切り、お嬢ちゃんがこくりと頷いたのを見て、
「だから、何日後なのか、その日までって言われてるその時に一緒にいて、その怖いものをお父さんが追い払ってやるさ。」
 にっこりと、だがいかにも不敵そうに。男臭い顔をほころばせ、それは頼もしく笑った父上だったから。お嬢ちゃんはようやっと納得してくれて、たどたどしい口調ながら、問題の"お話"を語ってくれたのだった。


 で。余程安心したせいだろう、結局、娘御自身も"その日"をすっかりと忘れていたほどで。一応、気を遣って…夜中に思い出して眠れなかったら可哀想だと、一晩中廊下で張り番をしてやった父御を、
『お父さん? こんなところで寝ていたらお風邪をひくのよ?』
 朝方起き出して来ての開口一番、おしゃまな口調でそう窘
たしなめたほど、それは"けろっ"としていたのが、大人たちの苦笑を誘ったのは後日の話。


            ◇


 時折ざわざわと、頭上の梢が風に煽られて波打つような音を立てる。小さな娘はずっとずっと父御の大きな手を握ったまま、黙りこくって歩き続けている。兄は兄で、少しばかり前を歩きながら、だが、距離が空くと父御に短く呼ばれて立ち止まり、二人が追いつくのを待つというのを繰り返している。本当ならこの子らは留守番に回されかけていたのだが、どうしても一緒に行くのだと言って聞かず。ならばと、道に迷いやすい父御と一緒に、麓近い辺りを隈無く見て回る、ローラー作戦班に割り振られた。あまり深いところにまでは入らないように、腰にロープを結わえつけられ、それがピンと張ったら一旦入り口まで戻ってくる。これを様々な入り口から敢行して、木の陰、岩陰、沢に崖、一寸刻みで綿密に丹念に見て回るというものだ。

  『あのね、あのね、お母さんがねっ。"会わずの林"に入って行っちゃったのっ。』

 お嬢ちゃんが珍しくも道場へと駆け込んで、父御にそうと叫んだのが昨日の昼下がり。"会わずの林"というのは通称で、この村の裏手にあるかなり広大な林のことだ。後背に聳えるそれは高くて険しい山脈の尾根へと続いている、最初の小高い山への取っ掛かり。広い広い林のその入り口近くまでなら、山菜採りだの薪拾いだの、村人たちも出入りをするが、その奥ともなると、大人でさえ大層な装備をせねば、迷い込めばそう簡単には戻っては来れないほど深い。一度迷ったら二度と逢えなくなるかもしれないから"会わずの林"と呼ばれていて、ただでさえ迷子になりやすい性分の奥方だったから、絶対に入るなと、これ以上はないくらいの厳命として夫から言い置かれ、これまでの数年、ちゃんと守って来た筈だったのだが、

  『あのイノシシが来たのっ。』

 この春先頃から、山から迷い降りて来たらしい猪の話を聞くようになった。冗談めかした比喩でなく、本当に小山ほどもありそうなほど随分と大きな、年経た猪であるらしく、とはいえ、そのものの姿を見た者はなかなか現れず、夜な夜な畑を荒らしていたのを、最初は流れ者の仕業だと思い込まれていたほど。土の掘り方、抉った深さなどが尋常ではなかったからで、人間が鍬や何かを使ってやらねばこんな荒らし方は出来ないと、夜回りの自警団を組んで幾日目か。がさがさと畑を掘り返す物音に駆けつけた若い衆が見たのが、何とも大きな猪だったことから、今度は急遽"山狩り"が始まった。出来れば元居た山奥へ帰っておくれという追い込みだったのだが、興奮した猪は逆に村の方へと向かったらしく、

『川の傍の土手の道を物凄い勢いで走って来たの。ぶつかりそうになったのは、ぴょんって飛んで避けられたんだけど、そのまま村の中まで入って行きそうだったからって、お母さん、イノシシの背中に掴まって、耳とか引っ張って林の方を向かせて、それでそれで………っ!』

 さぞや怖かったろうし、お母さんがどうなったのかとそれだけでもあまりに大きすぎる不安材料な筈。だというのに、一緒に居たその目の前でこれだけのことが起こったという一部始終を、パニックも起こさず、ちゃんと見ていて伝えられたお嬢ちゃんも大したもの。さすがはロロノアさんちの、と、誉めそやされる武勇伝が増えたが、それはまたしても後日のお話。この一大事に、さっそくにも家長殿を頭に探索が始まったのが昨日のお話。林全体を網羅する探索は昨日の夜から始まっていて、最初のうちは道場の門弟さんたちが頑張ってくれたのだが、夜だったこともあってなかなか捗らず。そのうち、山狩りをしていた村人たちがこちらの話を聞きつけて、
『そりゃあ済まないことをした、自分たちにも責任はあるし、何と言っても奥方の身が心配だ』
と、翌朝から協力を申し出てくれて。子供達のアイドルにして、気は優しくて力持ち。実はお母さんたちからも好かれているロロノアさんチの奥方は、もうすっかりとこの村になくてはならない人物と認可されているのだなと、師範殿がしみじみしたのもこれまた後日のお話。ともあれ、迷子のお母さん捜しは、今や村中参加の"ロロノア家の奥方大捜索"へと大発展を遂げていた。あまり人が立ち入らないせいだろう、林の中にまともな道はほとんどない。縦に鋭い芒種の生い茂る薮や、濡れた木の葉が降り積もったズルズルの斜面。油断すると足元を掬われたり、葉の剣に肌を切られたり、それはそれは大変な探索だったが、痛かったり怖かったりするのなんか平気だと、それよりもお母さんに早く会いたいと、幼い子らは泣き言ひとつ言わず、たいそう頑張ってついて来る。………と、
「お母さん、怖がってないかな。」
 ふと、坊やがぽつりと呟いた。珍しくも作業服っぽい上着とズボンという格好の父が、それを聞きとがめて、
「? 大丈夫だろう?」
 心配は要らないぞと、落ち着いた声をかけてやる。怪我をしたとか道に迷ったとか、これを一番恐れていたのだが池に落ちたとか。そういう心配ならともかくも、あの天衣無縫の向こう見ずが、たかだか一昼夜ほどの野宿でへこたれたり、何か怖がるとは到底思えなかったからだが、坊やは父と同じ、柳の葉のようにすっと切れ上がった緑の瞳を陰らせると、心配そうな顔を上げて見せ、
「だって、お母さん、お化けとか幽霊のお話だけは大嫌いだもの。こんなとこって、そんなのが出そうだから、怖いようって助けてって泣いてるかもしれないもん。」
 おや。お子様たちもご存知なんですか。兄の言いように妹までが怯えたか、掴まっていた父の手のひらをついついギュウと握ってくる。とはいえ、そんな二人にゾロは小さく笑って、
「大丈夫だよ。」
 殊更にしっかりとした響きのある声で言い置いた。
「随分と前に、お父さんが"この村には幽霊はいない"って言っておいたからな。だからずっと"平気だ"って言ってたぞ。」
 すると子供たちはホッとしたように笑って、
「良かったぁ。」
 肩の力を抜いて見せるから素直なものだ。今まで嘘なんかついたことのない父の言だ。彼らにはこれほど信用のおけるものはないのだろう。そして確かに、その場しのぎの嘘なんかではない。この地に来て、大嫌いな舟幽霊はいないからと安んじていたルフィだったが、海とは違う陸らしい闇と気配というものへ、ちょいと不安がって見せたことがあって。山の霊気や木々の囁き、幾重にも重なった闇の、まるで生き物のような気配。数々の修羅場を乗り越えたことで研ぎ澄まされた感覚は、そういったものも易々と嗅ぎ取ったり拾いあげたり出来るものだから、ある意味、痛し痒しというところだろうか。まま、それはともかく。そういった気配を感じてか、何となく怯えたように擦り寄って来ることが多くなったその時に、ゾロが大威張りで、
『この村には幽霊はいないんだ。でっかい神社があって、村の人達も揃って信心深いからな。』
 ちょこっと筋違いな大見得を切ったところが、それであっさり納得したらしい。この単純さは、先日のお嬢ちゃんと通じるところがあるのかもしれないが。
(笑) 背に負った大きめのデイバッグをひょいと揺すり上げ、
「さあ、もう少し先へ行ってみような。」
 彼らにとっては何物にも代え難い"宝"を探す探索の道行きだ。結構歩いて来た筈だが、まだ小さな子らはどちらも音を上げず、黙々とついて来る。その頼もしさと、それだけ一途なまでに心配している心情とを察しつつ、さあ進もうと歩き出しながら、

  "………そういえば。"

 ふと。話題になった"幽霊"には、思い出すことがあった父上であった。



          2


 娘御を怯えさせた嘘っこの怪談話には覚えがあった。ゾロが子供だった頃にも、忘れたころに何度も繰り返し流行っては、子供たちを震撼させた代物で、だが、負けん気が強かったゾロは、
『そんな嘘っこ、誰が信じるもんか』
 やはり大見得を切って信じようとはしなかったし、次の誰かに伝えることもしなかった。だが、実のところ、最初にその話と遭遇した時は…一割くらいは信じていたような気がする。何しろ子供だったから無理もないにも関わらず、だのに、やせ我慢をして"平気だ"と伝言ゲームに付き合わなかった。結果としては当然何事も起こらなくって、凄いなぁ強いなぁと仲間たちから誉めそやされたものだったが、本当を言うと…問題の期日の夜は、一睡も出来ないくらいドキドキして過ごした彼だったのだ。そんなこんなで"強い子"の称号を沢山頂いたゾロは、村でもめきめきと頭角を現し、喧嘩では誰にも負けない腕白が高じて"剣術"たらいうものへも関心が向いた。ここいらで一番強いのは誰かと訊くと、誰もが隣村の道場の師範だろうと答えたので、それを負かしてやろうと思っての道場破りを仕掛けたのだが、結果は…妙に取り澄ました顔の、たいそう華奢な少女にあっさりと倒されて見事に鼻っ柱をも叩き折られた。だがだが、負けず嫌いなところは全く打ちひしがれず、ならまずはその少女を倒してやると、道場に通うことになって………。


 あれ以降、幽霊だのオカルト話だのを、怖いと思ったことは本当になくなった。幽霊になってでも戻って来てほしい奴が出来たから尚更に。幽霊はホントに居るのか居ないのかという話が持ち出されると、話の輪に加わりはしないながらもついついそうと思ったものだった。
『馬鹿だねぇ、ゾロは。幽霊になっちゃったら刀は握れないんだよ?』
 鼻先で嘲笑いつつそんな憎まれを言いそうな少女だったが、それでも良いからと思ったゾロだった。やがて歳月が流れゆき、故郷を離れて旅に出て。いつの間にか…人の生命を刀の露として屠(ほふ)るようなとんでもないことが、日常の中、身近なことになっていて。自分の生命を守るためというより、降りかかる火の粉を振り払う力が余ってという感が強かった。勿論、望んではいないことながら、だが…已ないことという冷めた割り切りが確たるものとして心の中にはちゃんとあった。そういう世界に自分から踏み込んだのだ。強くなりたいなら、世界一の剣豪に出会いたいなら、どんなことへでも怯んではならない、少しでも怖じけてはならない。そうして過ごすうち、誰からも恐れられている自分を意識し、ますます幽霊たちが身近になったような気がした。まだ一度も会ったことはなかったが、いつでも迎えに来いやと思っていた。自分の生命を投げていた訳ではない。負ける訳には行かない、死ぬ訳には行かないといつだって思っていたが、その反面、いつの間にか"死"を恐れなくなっていたのは確かだった。覚悟とはまた別な、取り留めのない、なのに抗
あらがい切れない奇妙な感覚。血飛沫を上げて倒れ伏す海賊や賞金首たちも一つ間違えればお仲間だ。そう思うと、何だか笑えた。どうすることも出来なくなった人間は、泣くか笑うかするしかない。気づかぬうち、徐々に…夢に食われ始めていた頃だった。


            ◇


 不思議と、その幽鬼たちの中にあの少女を取り混ぜて思うことはしなかった。思い残しは多いだろうに、それでも…未練がましく現世に現れはしなかろうと、何故だか思っていたからだ。自分と同じ負けず嫌いだったから、かも知れないし、それとも、彼女が向かったのは清らかな浄土だといつしか決めてかかって、そうと片付けていたからなのかもしれない。

   『"怖い"と思うのは悪いことではありませんよ?』

 思い出したのは、いつだったか師範がそんなことを話してくれたこと。特に自分へと言うのではなくて、道場に通っていた子供たち全員へだったが、
『要は、後込みしたり後戻りしたり、逃げたりしなければ良いのです。立ち止まったままでいないで、何とかしようと踏み出す心の力さえあれば良い。それが出来るなら、苦手や怖いものが幾つあっても構いません。』
 立ち向かえるのなら、その時点で"怖いもの"ではなくなっているのではなかろうか。そうと聞いた子供へは、
『そうでしょうか? 怖いけれど我慢出来るものってないですか?』
 ああそうかと、納得させて、だが、
『怖いものなんて一つもない。そんな人はいません。口では言い切る人がいるかも知れませんが、それこそ"やせ我慢"をしているか、それとも、自分でも気がついていないだけなのでしょうね。』
 こうと続いたものだから、途端に、子供たちがまたまた怪訝そうに顔を見合わせた。ここに来ている子供たちは、皆"強く"なりたくて日々の習練に勤しんでいるのに。それこそ"怖いもの知らずな剣士"を目指しているのに、怖いものがない人はいないだなんて言われても、そうそう納得出来なかった。
『自分の怖いものを知るのは、とっても大切なことです。例えば限界であったり、弱さであったり。そして、それへの克己心を持つのはもっと大切なことです。』

『だから、怖いものがない、なんて言い切る人は、大切なことに気がついていない"うっかり屋さん"なんですよ。』


            ◇


 あまりに遠い野望しか見えなくなっていて。血に汚れた穢
けがれのあまり、後戻りの出来ない身だと決めつけて、故郷への帰り道と一緒にいつの間にか忘れていたその話を思い出したのは、師範が言った"うっかり屋さん"という手合いに、ひょんなことから出会ってしまったからだった。いきなり現れて"自分の仲間になれ"と煩くまとわりつき、揚げ句の果てには、まるでゾロを庇うための盾のように、放たれた銃弾の前に堂々と立ち塞がった少年。しかも、胸を張って言い切った大望が、


   『俺は海賊王になる男だっ!』


 ………野望にも限度があるぞと、誰か他人へつくづくとそう思ったのは、それが初めてなゾロだった。

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