月夜見 “あのね…?”


        1

 それは、とある昼下がりに端を発する。

  ――― !?

 不意な大音響にクルー全員が息を引いて動きを凍らせた。昼下がりのゴーイングメリー号は、いい日和の中、太洋のど真ん中を何事もなくのんびりと航海中だったのだが、そこへのこの炸裂音と地響きはまるで直下型地震を思わせる代物。うつらうつらと舟を漕ぎかけていたカルガモのカルーが、文字通り1メートルほども跳び起きてまで驚いていたりする傍ら、
「な…何事?」
「おいおい、スープの鍋がこけたらどうしてくれるんだ。」
 ナミが眉を寄せて立ち上がり、サンジが素早く火の元を確認する。キッチンを丸ごと震わせた振動は、丁度真下にあたる船倉からのもので、
「あ、あれはっ!」
 ビビが指差した先、キッチンの隅にある船倉への蓋扉の縁からうっすらと煙が上がっていたものだから、
「…まさか。」
 ナミとサンジはますます眉を寄せると…少し迷ってから、意を決して蓋扉を引き開ける。途端に、
「きゃっ!」
「うわっ!」
 その形のまま、堅い存在があるのではなかろうかと思わせるほど濃密な、黄粉
きなこ色の煙がもくもくと立ち上ったから堪たまらない。
「吸っちゃ危ないのかもしれないわ。ビビ、外へ出なさい。」
「あ、はい。」
 うろたえて走り回りかけていたカルーを連れて、速やかにキッチンから出る皇女を見送り、
「さてさて。救助隊を出したもんですかねぇ。」
 サンジが半ば呆れ顔で口許をひん曲げる。
「今、下には誰と誰がいるの?」
「恐らく張本人の長っ鼻と、倉庫の整理を言い付けられてたルフィにクソ剣士…。」
 戸口近くに屈み込むようにダークスーツの片膝をついて、指折り数えるサンジの眼前。煤けた顔をぬばっと突き出したのは、まずはウソップだ。
「げーほげほっ! 何だこりゃあよぉ、配合はあってた筈なのに、なんでまたこんなタイミングで煙がもくもくと…。」
 立て板に水な勢いの"口上"は相変わらずで、
「…無事なようね。」
 みたいですねぇ。お騒がせの張本人を、眇めた三白眼で見据えつつ、
「やっぱ、お前が元凶か。」
「…へ?」
 返事も待たず、手にしていたお玉でカキーンと頭を思いっきりこづいたサンジであり、その傍らからナミが訊く。
「ウソップ、一体これって何なのよ。」
「聞いて驚け、新しく開発中の火炎星。炸裂と同時に膨大な煙幕を放つ、名付けて"威風堂々"だ。」
 煙幕なのに、そのネーミングって…。煙の中を堂々と逃げるってか? この惨事にも胸を張る"履き違え"に呆れつつ、
「ルフィたちは?」
 ナミが重ねて訊くと、デンジャラスな発明家はキョトンとして見せる。
「え? 知らねぇぞ。何せ化学実験で危ねぇからって、チョッパーも外に追い出しといたほどだしよ。」
 一応気は遣っているのね。…と、そこへ、
「う〜、ごほげほ…。」
 何かしらの魔法で煙の中から呼び出されたかのように、やはり激しく咳き込みながらルフィがその童顔を床の戸口から突き出した。
「何だよ、これ。喉は痛てぇし、目に染みるし。」
 しょぼしょぼと目を瞑って窮状を訴えるルフィに、ナミが慌てて流し場までの道を空けてやる。
「ああ、ほら。早く顔を洗いなさい。ウソップ、この煙、人体への影響は?」
「大してねぇよ。単なる煙幕だかんな。ややこしい成分にする必要はないから、そこいらの湿った木を燃やしたのと変わらん煙だ。」
 ダイオキシンは一杯含んでいそうね、それ。船長殿が上へと上がり切るのへ手を貸してやったサンジが、
「おい、ルフィ。お前、ゾロと一緒に居たんじゃなかったのか?」
 訊くと、
「うん。」
 無造作に頷いて見せ、
「けど、この煙だったから何処に居るやら判んねくて。とにかく上だって思って出て来たんだ。」
「ふむ…。」
 いくら方向音痴だとはいえ、言わば"自宅"であるこの小さな船の中でまで迷子になってしまえる彼なのだろうか? 小首を傾げて顔を見合わせているサンジやナミであるのを見て、
「え? ゾロ、まだ出て来てねぇのか?」
 ルフィもやっと気がついたらしい。辺りを見回すそんな彼へ答えて…というつもりではなかったらしいが、
「…これって"迷子"になってるんじゃないのかもな。」
 顎に手を添え、つい呟いたサンジであり、
「どういうことだよ。」
 訊いたルフィへ、コック氏は思ったままを口にした。
「だから、お前を探してんのかも…、と。」
 慌てて"んんんっ"と咳き込むナミの様子に、ハッとしたがもう遅い。
「…俺んコト、探してる?」
「いや、だとしてももう出て来るってよ。」
 取り繕うように笑って見せたものの、心配げな船長の顔だとあっては既に手遅れという気配。気が回せず彼に不安を招いてしまったという失点を自覚したサンジは、吐息をつくと床に開いた戸口へとすとんと足から飛び降りた。
「え? …あ、サンジ?」
 まだ依然として色濃い煙が途切れない通廊。ルフィたちが燻し出されるように逃げ出したそこへ、わざわざその痩躯を飛び込ませた彼であり、そんな行為へビックリしたルフィの声へ、
「顔洗ってそこで待ってな。探して連れて来てやるからよ。」
 伸びのある頼もしい声がそうと返して来たのだった。

            ◇

 覚悟があって飛び込んだせいか、サンジの手際はすこぶる良かった。剣豪を探しながらあちこちの扉や窓を全て開いて回った彼であり、数刻もすると視界を奪っていた煙は何とか引いた。そして…通廊の奥で昏倒してうずくまっていたゾロも見つかった。意識のなかったところをサンジが担ぎ上げて大急ぎで医務室に運び上げ、人一倍匂いに敏感なために見張り台へと避難していたチョッパーがやはり超特急で呼ばれた。それぞれが心配そうなクルーたちが見守る中、診察を終えた船医殿の所見は、
「意識が戻らないと何とも言えないけれど、目もほとんど瞑ってたらしくて炎症はないし、呼吸も脈も正常だ。息が詰まって気を失ったんだろうな。」
 意識を失うと、切迫しているよりは呼吸のテンポも穏やかなそれに近くなるから、煙もさほど深くまでは吸っていまいとのことで、
「ただ、喉がかなり真っ赤なんだ。肺まで吸い込みはしなかったけれど、口を噤んでた訳ではない…ってことだろうね。」
 言葉を選ぶチョッパーだが、
「それって…俺んこと、ずっと呼んでたってことか?」
 先程からずっと、ルフィが項垂れたままでいる。それへと、
「う…ん。だと思う。」
 チョッパーとしても嘘はつけず、渋々という語調で肯定した。本来なら、こんな程度のアクシデントくらいとっとと回避出来るゾロな筈だ。方向を見失ったとしても、ルフィがそうしたように"上"を目指せば良いことくらい判ったろう。それをしなかった、それより優先したことがあったから、煙に巻かれて倒れてしまった彼であり、煙に喉を腫らすほど名を呼んでルフィを探していた彼だったというのは…状況を照らせばどう誤間化そうと明白なことだった。
「でも…変な言い方になるけれど、だから早く意識を失ったんだ。あまり息を吸わないようにって用心しながら呼んでたんだろな。そのせいで息が詰まるのも早くて…軽くて済んだんだよ? だから…。」
 幼い声で一所懸命に言いつのろうとするチョッパーの、赤い山高帽子をぽんぽんと叩いて、
「ありがとな、チョッパー。」
 ルフィは小さく笑って見せる。彼が自分へと気を遣ってくれているのがありありと判ったから。やさしく微笑う船長に、だが、チョッパーは、
「…うう。」
 言葉に詰まって、歯痒そうな困ったような顔になった。医者は患者が身体に負った疾病や怪我をただ回復させるだけが役目ではない。怖い想いをしたならそれを拭ってやらねばならないし、重荷を背負ったなら除いてやらねばならない。負けるなよと励ましもし、負担は極力減らしてやらねばならない。それらの配慮は患者にだけとは限られないものでもあり、そして…。そういった心やさしき、深くて豊かな感受性に即した配慮のあれやこれや。寂しい時期や苛酷な過去を自身に抱えていたチョッパーなればこそ、胸の奥底から振り絞るように相手へそそいでやりたいと構えてしまうものでもあるらしい。だというのに、この船長は。この、日頃何かと拙い少年は、判っているよと、ありがとうなと、逆にこちらを気遣いいたわってくれる。
「…それで? その喉には、何か問題があるのか?」
 彼ら二人の間に交わされた、ちょっぴり拙い"気遣い合い"の…邪魔をしたかった訳ではないが、そっちをはっきりさせた方が鳧もつくんじゃねぇかと、サンジが割って入る。チョッパーもそれで我に返ったらしく、
「うん。煙に大した毒性があった訳じゃないから、後を引きはしなかろうけど、それでもしばらくはヒリヒリ痛むだろうし、食べ物や飲み物も飲み下す時に染みて痛いかもしれない。それと…。」
 ちらっと再びルフィを見やり、言葉を濁す船医殿であり、
「? どうした?」
 促しかけたルフィの手を、横合いから掴んだ手があって、
「…え?」
 その温かさにそちらを…ベッドを見やった船長は、大きな眸をなお見開いた。
「ゾロ…?」
 大きな手の持ち主は、いつの間にか意識が戻っていた剣豪である。ついつい船医を真ん中にという車座になっていたため、主役である患者本人から注意が逸れていた。だが、それにしたって…いきなり手を取るとは彼らしくない。皆が皆、それほどはっきり背中を向けていた訳でなし、一声掛ければ誰かが気づいた筈で…。
「…あ。」
 何かに気づいたらしく、そっと…その手をもう一方の手も添えて包み込みながら、ルフィはそのまま、横になっている剣豪殿の顔近くへ自分の顔を寄せた。

  「もしかして、ゾロ…、声、出ないのか?」



        2

 チョッパーが危惧した通りだった。喉の炎症は、あの煙の中で声を出していたがために齎
もたらされたものだった見返りであるかのごとく、ゾロから声を奪っていたらしい。これはまた、途轍もない一大事なのではなかろうかという、不安げな視線が集まったものの、
『大丈夫だ、心配は要らない。風邪ひいた時の喉荒れと同じで、何日か安静にしていれば元通りに戻るよ。』
 小さな名医は大真面目にそうと太鼓判を押し、
『それどころか、風邪と違って病気やウィルスで腫れてる訳じゃないからな。ちゃんと消毒して手当てして、安静にしてるだけで良い。擦りむいた怪我と一緒だ。無理さえしなきゃあ、まず今以上に酷くはならない。時間が過ぎればすっきり治る。』
 病気には縁のないルフィたちへ、怪我を持ってくるという判りやすい説明をした船医殿で、
『…そっか。』
 他の誰でもない、ルフィが安堵の声を出したことが、その場にいたクルー全員を落ち着かせたのだった。


 喉が痛むくらいで後はどこも何ともない。それでもまあ、ゆっくりしていろ、そこらをウロウロしているとつい用事だとか言いつけかねないし、そしたらつい答えなきゃならなくなろうから…と、ゾロは寝ていることを皆から強制され、その傍らには"見張ってろよ"と言い置かれたルフィを配置。
『どうせ、いつだって昼寝してるだろうが。甲板よりも寝心地のいいベッドに居ろって言ってんだ。ありがたく羽伸ばしゃあ良いんだよ。』
 少々乱暴な言いようだったが、サンジの一言へ他の全員が大きく頷いて同意の姿勢を見せた以上、逆らったところで無駄だったろう。
『それとも何か? お前、太陽電池で動いてんのか?』
『………。(怒っ)』
 これも余裕か友情か、一体何を言い出すやら。それはともかく。
「………。」
 いくらでも寝てて良いよというこの環境下では却ってなかなか眠れないものならしく、横になったまま、じっと…傍にいる看護人の顔を見上げてくるゾロであり。何も言えない身であることを、だが、さして困ったり不便がったりしてはいない様子。現に今も全く焦ってはおらず、ややあって、
「うん。俺は何ともないぞ。」
 視線を受けていたルフィが"応じて"見せる。
「ハシゴの傍に居たからな。すぐに上がれて、あんまり煙、吸わなかったんだ。」
 そうと訊いたらしいゾロの、くっきりと形の良い口許がほんのわずかに動いたのを見て取って、
「うん。びっくりした。火事かって思った。火事んなったらどうすんだっけ。海からの水で消せるのかなぁ。」
 小さく笑ったゾロに、ルフィも笑って、だが、ちょっと項垂れる。
「俺、声出せば良かったんだよな。ここに居るぞって。もう外に出たぞって。そしたら、ゾロ、捜し回らなくてすぐ出て来れたのに。」
 しょげかかる彼の、ベッドの縁に置かれた手へ、大きな手が重ねられ、ひたひたと軽く叩かれた。
「…そんなこと言ってもサ、やっぱ気にするよ。」
 見やった先にやさしい翠の眸。戦闘の只中における、殺伐と凍って恐ろしいそれしか知らない者には、同一人物の持ち物だとは到底思えなかろうほど暖かな光を宿した眸が、慈しむように小さな船長へと向けられている。それをじっと見つめていて、
「…うん、ごめん。大丈夫。」
 ルフィは小さく、ほっこりと微笑い返した。



「凄いわねぇ。ちゃんと"会話"してるわ。」
「…ナミさん。」
 そろそろ夕暮れで、暮色がひたひたと広がりつつある甲板のキャビン前。甲板からの医務室へのドアに耳をくっつけて中の様子に聞き入る航海士へ、ついて来た皇女様が"何と言って良いやら…"という苦笑を見せる。わざわざ聞き耳を立てに来た訳ではない彼らで、入るタイミングを探ろうとしたまでのこと。彼女らに同行して来たコック殿が、
「そういや、元々あんまり喋る奴じゃありませんものね。」
 どこか感慨深げな声を出す。そう。日頃のゾロの口は、ほとんど…売り言葉に買い言葉的にしか動いてはいなかったような。何しろ、口が達者で油断も隙もない"お友達"の多い船であり、根本的なところでやさしくはあるが決して優柔不断ではない彼のこと、口答えはちゃんとするから(ついでに突っ込みも忘れないから
って、おいおい)、その結果、無口だの寡黙だのというフレーズがなかなか思い浮かばなかったナミやサンジであったらしい。言葉少ななのは…警戒している時を唯一の例外に、心やさしい"和なごみ"の時間だけの話であり、そういう場面に一番同座するルフィにのみ、そういう印象を与えていた彼であるのかも。
「さって。今なら入っても良いですかね。」
 トントンとドアをノックするサンジに、ナミは慌ててその場から離れる。
「…ナミさん?」
 ポニーテイルを揺らして、釣られるように彼女を追ったビビが声をかけると、キッチンまで辿り着いてから航海士嬢はやっと立ち止まり、肩をすくめて微笑って見せた。
「心配してる、なんて知れたら、ちょっと癪じゃない。」
 ペロッと小さく舌を出すナミに、ビビは少し驚いたように眸を見張ってから、ややあって小さく苦笑を返すばかり。一方で、
「ルフィ、晩飯が出来てる。今だけ代わってやるからお前はキッチンで食って来い。」
「ええ〜? 俺もここで食う。」
 コック氏の言葉にさっそく駄々をこねる船長だったが、
「ダメだ。チョッパーが言ってたぞ? いくら病人だからって、皆と違うもんを食べなきゃなんないのって、結構辛いんだって。」
 そう言いながらサイドテーブルに彼が置いたトレイには、二枚の皿が乗っていて、片方には澄んだスープ。もう一方には…3センチ角くらいずつにカットされた、淡い褐色のゼリー状の、つるつるとろとろとした何かが載っている。
「…これ、何だ?」
「煮凝
にこごりの一種だよ。魚のタンパク質のゼラチンで、栄養のあるスープを固めてあるんだ。」
 簡単に説明し、
「ま。離乳食や老人食みたいなもんだ。」
 こらこら。
「喉に障るかも知れんそうだってんで、こういうのにしてみたがな。これで大丈夫だったら、もう少し固形で腹に溜まりそうなのに変えてやるぜ。」
 さすがはどんな料理もお任せのシェフ殿で、喉を傷めた症例への病人食ということなのだろう。ベッドの上、上体を起こしたゾロの膝辺りへ配膳台を出しながら、
「ほら、お前はとっとと食堂に行って飯食って来いっ!」
 サンジに尻を叩かれかねない様子で追い立てられて、ルフィは不服そうな顔をしながらも渋々とドアへと向かった。
「ったく、元気な人間が手ぇかけさせんじゃねぇよ。」
 溜息混じりに呟いて、さて…と"病人"の方を見やれば、やはり滲
みるのか、口許をきつく閉じて思い切り眉を顰めている様子。
「どっちが滲みたんだ? スープの方か? ゼリーの方か?」
 訊くと、煮凝りの方をスプーンの先で示す彼であり、
「う〜ん、そっか。まだ形のあるもんはキツイのか。」
 これは研究の余地ありだなと唸ったコック氏をちらっと見やり、
「…ん?」
 不意に小さく笑って見せるゾロだったから、
「…なんだよ、急に笑いやがって。」
 怪訝に思ったところへ、
「たっだいまっ!」
 おおうっと。付き添い人がだかだかと走って帰って来た。
「早いぞ、お前もっ。」
 まったくである。何分と経ってはいないのだから、往復して帰って来ただけではなかろうかという速さである。口許をへの字にひん曲げて、
「ちゃんとお代わりしたか?」
 訊くと、
「したぞ。」
 大威張りで胸を張る。そうそう嘘をつける奴ではないし、食べ物に関しては尚更で、サンジもそれ以上の追及は止して、
「まあ良いか。なあ、こいつ、何が言いたいんだ?」
 紙に書かせるという手もあったが、通訳出来る人物がいるのだからと訊いてみる。訊かれたルフィは、
「んん?」
 ちらっと"患者"を見やって、だが…途端に唇を尖らせた。
「ダメだぞ、そんなの。チョッパーだって怒るって。」
 おお、やはり分かるのか。これはまた物凄い以心伝心だねぇ。
「何だって?」
「うん。同じ痛いなら酒の方が良いって。ダメに決まってるよなぁ? サンジ。」
「…良く分かるのな、お前。」
 そういえば、アニメでは物言わぬ千年龍の気持ちを汲み取れた人である。いや、一緒にしてどうするよな例えですが。

        ◇

 寝る前にチョッパーが診察と直接塗る薬を投与しに来て、さて…。
「俺もここで寝るからな。」
 壁にはめ込みになっている戸棚から敷パッドや毛布を引っ張り出すと、ソファーに広げて寝支度をするルフィだ。いやに手際が良いことへか、前以ての断りもなくそういう運びになったことへか、
「…?」
 首こそ傾げてはいないものの、物問いたげな顔になる剣豪へ、
「だってよ。何かあった時、今のゾロ、誰も呼べねぇじゃん。」
 帽子を傍らのサイドボードの上へ置き、クッションを枕にボフッと横になる。
「ほら、用がないんならもう寝ようぜ。寝てる間に一杯治ってくんだからな。」
 部屋の中を照らしているのは、ゾロのいるベッド脇のサイドテーブルにある枕灯。それを消せと言いたいらしいルフィであり、さりげなく仕切っているところが…何とも幼くて可愛いものだと、ゾロは小さく苦笑する。大きめの、だが、柔らかな光を開いていたランプは、芯を調整されると簡単に消えて。それでも、船窓から月光が忍び入るせいだろうか。室内は全くの闇ではなく、壁紙やシーツの白が夜色に青く染まっている。


   …………………………。


 夜陰の沈黙はやがて、潮騒や波に揉まれる船の軋みを縁取りに、ひたひたと室内を満たし始める。
(…ぎしっ)
 古いソファーのスプリングが軋む音がして、毛布が擦れる衣擦れの音。環境が変わったくらいで眠れなくなるような、そんな繊細な自分ではなかった筈だのになと、ルフィは毛布の中で首を傾げた。ふかふかし過ぎていて落ち着けないのだろうか? あんまり寝返りを打っては、同室の病人にやかましいだろうからと、眠くなるのを我慢して待つべく、うつ伏せ加減の姿勢なまま、じっと息を詰めていると、
「…あ、あやや?」
 いきなりふわっと身体が宙へと持ち上がってビックリする。くりくりっと身体が回されて。仰向いて落ち着いたのは、
「ゾロ…?」
 いつの間にベッドから降りて来たのやら。相変わらず足音をさせない剣豪殿が、軽々と腕の中へ抱え上げてくれたのであるらしい。一体どうするつもりなんだろうかと見上げていると、
「………。」
 そのまま自分がいたベッドへ戻って、腰を下ろし、実に自然な…いつものことであるかのように、子供を抱っこしたまま布団に入る親のように、ルフィを掻い込んだまま再び横たわってしまうから。
「…えっと。」
 混乱したままなところ、上掛けにくるまれ、ぽんぽんと背中を叩かれて、
"………あ。"
 ゾロの温かい匂いを間近に感じた瞬間、何だか緊張していたのが、ふわっとほどけたような気がした。そう。寝付けなかったのは、自分でも気づかないでいた緊張のせい。何だかえらいことになって、頑張らなきゃいけないと、肩に妙に力が入っていたせいだと今になって気がついた。慣れないことへの気負いから、柄になく緊張していたということか。
"あやや。逆に気遣われちゃったな。"
 まあ、まだ初日だし。こうしているとゾロの方だって落ち着くのだろうと納得し、ルフィは目を閉じて…今度はそのまますんなりと眠りについたのだった。

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