月夜見 puppy's tail
 

  月曜日 “仔犬のいる生活”
 

  ふと。何かしらの気配を嗅いだ。数多あまたの蔵書を壁一面を覆う書架に連ね、板張りの床が飴色の光沢をまとって落ち着いた色彩に沈む、それはそれは厳粛な空気の満ちた書斎の静謐の中。外からの物音はあまり響いて来ない部屋だが、
「………。」
 具体的な物音ではなかったからこそ、感じることが出来たものかも。食卓用ほどもありそうな大きなテーブルの上に広げて、目を通していた分厚い資料本を ぱふたんと閉じる大きな手。座り慣れた肘掛け椅子から立ち上がった彼は、書類にかかわる時にだけ掛けている、度の軽い眼鏡のつるを片手に取って。なめらかな仕草で外すと、シャツの胸ポケットへと無造作に突っ込みながら、静かな書斎を後にした。
"………雨か?"
 機敏に足を進めるのは、やはり板張りの長い廊下。白い漆喰塗りの壁には、床から腰辺りの高さまでに張られた"腰板"が連なり、古い教会や学校のそれを思わせるような雰囲気。丁寧に使われて来たがため、明るく清潔ではあるが、天井は高く、柱の太い、いかにもな風情の古い欧風家屋だ。廊下に等間隔で幾つか並ぶフランス窓から望むるは、群雲のように萌え始めの緑が広がる中へポツンポツンと様々な屋根が覗く閑静な風景。急ぎ気味の足を運んだ先、四畳半ほどもありそうな玄関の三和土
たたきに出ていたサンダルに足を突っ込み、重い樫材のドアを押し開ければ、
「…っ。」
 むっとした湿気を相当に帯びた温気
うんきが、顔や首条に迫って来た。目許を眇めつつ空を見渡せば、曇り空の下、やや強い風があり、まだまだ幼い若葉が萌え始めたばかりな樹々の梢をざわざわと揺らしている。足元を見やれば、南欧調の赤レンガ、テラコッタを敷いたエントランスポーチまでの小径に、ぽつんぽつんと茜のドット。雨粒が落ちて来つつある跡だ。
"こりゃあ…。"
 空気の中、かすかに鉄臭い匂いを感じて、

  「…ーーー♪」

 ぴーぴーぴー…と小刻みな口笛を吹く。呼ばずとも帰って来るのだろうが、迎えに出たぞ、玄関が開いてるぞという合図のようなもので。その余韻が消える間もなく、
「…お。」
 傍らの繁みが"がさがさっ"と揺れ、

   ――― …っ☆

 そこから勢いよく飛び出して来た"毛むくじゃらの塊り"が一つ。体のあちこちへ細かい木の葉をまとわりつけたまま"ばさぁっ"と飛び掛かって来て、結構高い位置にあった彼の胸板に"がっし"と飛びついた。わふわふ…と懐っこい様子のそれは、まだ幼い一頭の犬である。
「…お前なぁ。」
 幼いとはいえ、犬種は…白い地に黒模様という配色のシェットランドシープドッグ。まだ成年には満たない、一歳未満辺りの仔であろうか。それが、彼の胸板へ飛びついたまま"はうはうはう…vv"と少々荒い息のままに緋色の舌を出していて。きっちり受け止めたのが予測のあった男性だったからこれで済んでいるが、女性や子供が不意を突かれていたのなら、転がって怪我を負っていたかもしれないこと。溜息混じり、何か言い足そうとした彼だったが、
「…。」
 胸元から見上げて来るつぶらな瞳はわくわくと輝き、何とも腕白そうなお顔に見えるから。元気あり余りというこんな乱暴な行動にもまた、躾のために叱るより先…愛らしくてつい苦笑が洩れる始末。大きな手に抱えた小ぶりなその身を覆う、ふかふかの毛並みはまだ大して濡れてはおらず、
「早かったな、雷が鳴るとこだったぞ。」
 犬は、育った環境にもよるが概ね"雷"は苦手で、それが鳴り出しそうだった気配を察知すればこそ、表までの"お出迎え"をしてやった彼であったらしい。その広い胸板へ四肢を伏せさせる格好、所謂"子供抱き"で抱え上げたまま、踵を返して屋敷に入る。玄関わきの壁へと嵌め込まれた作り付けの戸棚からタオルを取り出し、毛並みのあちこちに貼り付けて来た細かい木の葉を軽く払ってやって。そのまま愛嬌のあるお顔を覗き込めば、尚更にパタパタと振られる尻尾がご機嫌がいいことを如実に示す。その尻尾から胴回り全体。ふわっと大きめのバスタオルでくるんでやって、
「飯の前に風呂に行こうな、ルフィ。」
 三和土から上がりつつ、そんな声を掛けてやれば。お元気な仔犬は…ふっと眸を伏せて大人しくなり、男の肩先へと小さなお顔を載せた。そして…。


   ――― ……………。


  するすると。バスタオルの中から伸びやかに育つ四肢がある。
  ふかふかだった毛並みは消えて、若々しくもなめらかな肌に包まれた、
  それは…紛
まごうことなき少年の身体。
  撓やかな腕は、抱えられたそのままに男の首っ玉に回されてしがみついていて。
  未成熟な薄い胸元を相手の頼もしい胸板へくっつけて、
  どこかうっとりと伏せられた瞼に前髪の陰が落ちる。


  「………。」

 バスタオルの中での、仔犬から少年へのメタモルフォーゼがすっかり済むと、毛並みの名残りか、ふわふかな黒髪が殊の外によく似合う、幼い顔立ちがすぐ眼下にてにこりと笑った。


  「お風呂、早く行こうよ♪ ゾロ。」


 愛らしいお顔にそれは相応しくもよく馴染んだ、伸びやかで甘い…少々舌っ足らずなお声がそうと紡げば。それを優しい表情にて見下ろしていた青年が、いかにも愛おしいと言いたげに、凛としたその涼しげな目許をついつい緩めるのである。








            






 緑も多く閑静な別荘地として有名な郊外都市の、由緒ある旧市街の奥向きにポツンと建つ、なかなかに趣きのある邸宅。この古い洋館仕立ての屋敷は…全寮制の高校への進学と共に実家から独立してからはあまり交流のなかった亡き父が、青年へと遺した遺産の一つだったりする。この一人息子以外に近しい親類もない男であった父は、相当に人間嫌いであったらしく、早くに愛妻を亡くしたその頃から、僅かにあった知己たちとの交際もほとんど断って、生計を立てていた執筆業になおますの没頭ぶりを示した。けれん味こそないがどこかしら魅力のある個性的な文章は、どんと華やかに売れこそはしなかったが随分と層の厚い支持を受けていて。数々の受賞歴もあるものの、表立った場には一切出席しない。そんな…極度の孤独を好む、ちょいと風変わりな作家という横顔も、その洒脱で魅惑の作品群という実力の前には疵にもならず、コンスタンツに売れている作家としての名を馳せていたのだが、数年ほど前に著作も途絶え、それと前後して不意に行方が知れなくなって。連絡が取れないことへはさすがに心配しつつも、小さな子供じゃああるまいし…と、さほど躍起になって探すでなく、どこか他人事のように構えていた息子の元へ、

  『先生の遺言をお持ちしました。』

 青年が子供だったころに見た覚えのある、今はもうすっかりと年老いた男性弁護士が現れたことで、父の失踪事件はその終止符を打ったのであった。そして、その弁護士殿が取り急ぎ来るようにと場所を知らせて来たこの別荘には、この…ルフィという少年が、何日も泣き腫らした赤い眸のままに、ゾロが来るのを待ち受けていたのであった。






「ぷっは…っ。」
 湯気の中にこもって響く物音が、何だか長閑なお風呂場にて。広めの洗い場で向かい合っていた少年が、ぷるぷると首を横に振って髪からの水気を飛ばす。それを、シャワーノズルを片手に見守って、
「ほら、もう一回流すぞ。」
「おうっ。」
 小さな頭を項垂れさせるのを見届けると、最後のすすぎにシャワーの湯を髪へと掛けてやる。節の少し立った長い指で髪を梳いてやりながら、
「1〜、2〜、3〜、4〜、5っ。」
 間延びさせたリズムにて数え終わるとシャワーを離し、大きな手を顔へとすべり込ませて、額に貼りついた髪をぐいっと一気にすくい上げてやる。
「よし、終わりだ。」
 細い質の髪。あれほどふわふわだったのに、濡れてしまうと容積がぐんと減ってしまい、漆黒の絹のスカーフのように ぺたりと小さな頭に貼りついて。彼の童顔をますます子供っぽい面差しに変えてしまう。
「浸かったら上がって良いんだよなvv」
 弾んだ声でそう言って、湯船に勢いよく足を突っ込んだ彼に、だが、いつものやんちゃだ、それほど眉を顰めることもなく、青年は自分も簡単に髪を洗い始める。その横合いから、
「ゾロ、お湯、掛けたげようか。」
 屈託のない声がかかったが、
「良いよ。お前、容赦ないからさ。」
「あはは♪」
 古風なモザイクタイルの張られた広めの浴室は、だが、シャワーや浴槽は今時のものに取り替えたので、何だかちょっと不思議な空間。小さな旅館や合宿所などの、7、8人は入れるような風呂場。渋い色調の細かいタイルの床や壁に、妙にピカピカなステンレスの浴槽なのがちょっと何だか浮いているかも。その縁に両腕を載せて、
「………。」
 青年が自分の短い髪に指を立て、ごしごしと頭を洗っている様子をじっと眺めていた少年だったが、
「…なあ、ゾロ。」
「んん?」
 シャワーを使い出せば会話は出来なくなる。手を止めた青年へ、
「あのなあのな。佐久間さんトコのベル、来週にも"結婚"するんだって。」
 ちょっと急くように言い、
「へえぇ、あのチビさんがな。早いなぁ。」
 感心するような響きの相槌へ、
「だよな。まだやっと一歳だってのにさ。」
 何へか少々不機嫌そうな顔になったのが声でも分かって、
「お前の方がずっとお兄さんだのにな。」
 くくっと笑いながら、ゾロはシャワーコックをひねった。ザーッと驟雨を思わせるような勢いの湯がほとばしり、
「………。」
 少年は再び黙りこくって。泡を流す動作につられ、大きな肩や背中が躍動的に動く様を、飽きる事なく眺め続けている。短い髪はあっと言う間に洗い上がって、
「どした?」
 先程の坊やの真似ではないが、ザッと首を振って髪から水気を飛ばしたゾロが訊く。さっきからじっと凝視されているのへ気がついてのことで、
「うん…。ゾロって大人なんだよな。」
「? ああ、まあな。」
「俺もさ、大人んなったらゾロみたいに筋骨隆々っての? がっしりした体になれるかな。」
 少しばかりのぼせたのか、真っ赤になった頬をひしゃげるほど腕へ押しつけながら、そんなことを訊いてくるルフィであり、いかにも子供が大人へと尋ねるような質問だった幼
いとけなさへ、ゾロは堪らず、小さく吹き出してしまった。
「何だよう。」
「いや…悪りぃ。」
 小馬鹿にした訳ではないと、一応は謝ってから、
「俺は"大人になったから"ってこういう体になった訳じゃねぇからな。大人でも細い人やら小さい人はいるだろう?」
「う…ん、そっか。」
 ちょっと脇へ避けなと目顔で促し、浴槽の空いたスペースに身を沈めるお兄さんの方を向き、
「じゃあサじゃあサ、ゾロがやってるみたいなトレーニングをやればサ、俺でもでっかくなれるのか?」
「まあ、多少は。」
 重ねて訊いて来るのへどこか曖昧に答えてから、
「何だ? 体を鍛えたいのか?」
 こちらから訊くと、うう"と小さく唸って見せる。
「だって俺ってサ、子供なんだか大人なんだか、はっきりしないじゃん。」
 まだまだ幼い外見。だが、彼の"お友達"の中では一番の年長さんという立場。
「それで? お友達にからかわれでもするのか?」
「そういうことは今んトコないよ。ここいらの皆、俺んコト"お兄ちゃん"って頼ってくれるし。けどサ…。」
 何だか何だか、奥歯に物の挟まったような言いようをする。うまく言い表せる言葉が見つからないのか、それとも言葉という形にすることで、それを意識していると認めてしまうのが何となくイヤなことなのか。どちらにしてもいつもサバサバしている彼には珍しいことで、
"…そろそろ"そういうお年頃"なのかもしれないな。"
 先程話題に上らせた"お友達の結婚話"を思い出し、微妙な"思春期"というやつにやっと差しかかった坊やなのかも…なんて、今頃になって気がついて。そうと思えば…保護者の肩書を持つゾロとしては、ちょいと微妙な感慨を覚えてしまう。何しろ彼はごく普通の坊やではない。
「………。」
 黙りこくってしまったゾロと、しばしの睨めっこをしてから。だが、
「…ああ、腹減って来た。」
 坊やは不意に、突然という勢いで立ち上がり、洗い場へと這い出した。
「俺、先に上がるよ。」
「ああ。…あ、ちゃんと頭、拭くんだぞ。」
「おうっ。」
 ばちゃばちゃ賑やかに脱衣所へと出てゆく彼で、浮かないお顔はどこへやら。わざわざ口にしたということは、まだ性質
たちの素直な悩みや鬱屈なのであろうが、
"………俺も初心者だからなぁ。"
 相談されても判ることと判らないことが有るからなぁと。いきなり"父親もどき"になってしまった我が身を、だが、嘆くというよりも愉しそうな、ちょいと擽ったそうな顔になって。そんな苦笑の浮かんだお顔で、しみじみと感慨深げな吐息をついたゾロだったのであった。




   *何だか妙なお話が始まりました。(笑)
    あーでもないこーでもないと、考え考え書いてますので、
    いつにも増しての変則更新となります。
    まま、ごゆっくりとお付き合い下さいませvv


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