月夜見 puppy's tail 番外編
          *もしかして…R−10くらいでしょうか。
           具体的な描写はありませんがご注意ください。
 

  土曜の宵に… “内緒だよ?”


          



 よく手入れされて黒光りのする焦げ茶の柱や窓枠と、それらがそれはくっきりと際立つ、漆喰壁のアイボリーの色合い。小綺麗な庭や周囲の緑にいや映える、古い二階家の欧風山荘は、その昔、政財界でも相当に名のあった郷士の別宅であったらしい。当時はパーティーなども開いたらしく、天井の高い大広間や来客用の個室も数間ほど抱えつつ、外観はあくまでも清楚にして端麗。趣きのあるその佇まいは、よほど頑丈に丁寧に作らせたからだろう、築百年近くは経っている筈だのに、さして補修の必要もないままに揺るぎなく健在。あでやかな桜と萌える若葉から始まって、夏の濃緑に秋の紅葉、冬の雪中の静謐…といった、四季折々の風を感じつつ、代々に様々な主人たちに愛でられて。そして今は。これまでの主人たちの中で最も年若いだろう闊達そうな青年が、愛らしい坊やとともに住まわっている。


 そんなお家からこっそり出て行こうとまで思い詰めていた小さなルフィ。シェットランドシープドッグというもう一つの姿を持つ、不思議な精霊であり、そんな自分がいるだけで大好きなゾロに不自由を強いていると苦しんで。彼をそうまで追い詰めたのはひとえに自分が悪かったのだと、重々思い知らされたゾロであり。照れや気恥ずかしさから…というよりも、過ぎるほどに甘美な安息の日々に耽るあまり、お互いを大事に想う気持ちは言わずとも伝わっていると、共有出来ていると思い込んでいたがため、何も告げぬままでいた怠慢から、無邪気な彼をそうまで不安にさせたと心から詫び、何とか宥めて抱き締めて。

   ――― どこにもやらないし、誰にも渡さない。

 青年は自分のこの幸せを、彼があってのものなのだと告げ、その想いを…包み隠さず、一切飾らぬ心からの言葉と真摯な声にて囁いて。

   ――― 絶対絶対、幸せにするから、覚悟しとけよ?

       うんvv 覚悟しとくvv

 愛らしい精霊一族の末裔は、止まらない涙に…それでも頬を染めながら。温かい懐ろの中、やっと幸せそうな笑顔を見せてくれたのだった。





            ◇



 朝から降り続くこぬか雨の音はまだまだ途切れそうもなく、この山荘の周囲の木立ちや茂みを重く濡らしてはサーサー…という淑
しめやかな響きを伝えてくる。それだけでも気が沈みそうになる中で、
「………。」
 心配そうに気を揉んで、ダイニングで一人待っていたツタさんが、
「…っ。」
 二階から下りて来た二人の気配にハッとする。この館の主人である背の高い青年に、まるで支えられるように いたわられるように、そっとエスコートされて居間までやって来た幼い少年。
「ルフィ坊っちゃま。」
 瑕一つない琥珀色の宝珠を思わせる、大きくて愛らしい生き生きとした目許。その縁を、だが今は…見るからに痛々しいほど真っ赤に泣き腫らしていて。ちょっとした行き違いから傍らにいる青年と喧嘩になってもさほど泣いたりしない意地っ張りで、それは負けん気が強く、何より"気ざっぱり"していて明るい坊やなのに。それがこうまで泣いたとは よほどの何かがあったのだろうと容易に忍ばれて。顔を上げた彼に、ついのこととて声をかけると、
「ツタさん、ごめんね。」
 歩み寄って来たそのまま ぱふんと。胸元に顔を埋めるよにして抱き着いてくる。自然なスキンシップの大好きな甘えん坊。華奢な肩も細っこい腕も、幼いままな小さなお顔も、舌っ足らずな甘い声も、それはそれは愛らしくて、
「ご飯食べないって心配してくれてた。ごめんなさい。」
「良いんですよ、そんなこと。お元気になられたのなら、もう…。」
 またぞろ涙声になりかかるのを、よしよしと柔らかく髪を撫でてやり、ふんわりと抱きしめる。ツタさんもどちらかと言えば"純和風"な人なのだが、くっつくのが好きな甘えん坊の世話をしていて慣れたのか、こうした方が落ち着くのだともっともっと小さな…赤子を相手のような構い方をしてくれる。
"…お母さんみたいだ。"
 微妙なところで"父と母"というものの概念がずれている筈のルフィだが、知識としての感覚が、この…柔らかで落ち着ける、限りない慈愛と優しさに満ちた両腕
かいなの中を、そんな風に思わせた。そして、
"………。"
 そんな二人の様子に、ゾロはふと、ルフィがいかに寂しがり屋な魂の持ち主かを痛感した。何も人前に出て誰ぞに認知されることばかりが"陽の当たる場所"でもなかろうが、それでも…今の現代社会においては、出来るだけ人目を避けて過ごさねばならない存在だ。戸籍や何やという形で人間がきっちりと管理されている時代に於ける、人間とも、姿の似ている犬の側とも、根本的なところで相容れられない存在の精霊。例え誰かに認知され理解されても、その人格をこそ友として恋人として求められても、いつかどこかで齟齬や思わぬ支障は出るだろう。公的な場に接すれば"何物か"と問われることだってあるやもしれない。そんな時。自己防衛のため、そして今回のように大切な相手のためにと、そっとそっと静かに姿を消して来た彼ら。人の傍らを犬たちの間を擦り抜けるようにして、孤独のまま その生涯を過ごす存在。
"…驕
おごったことは言えない俺だがな。"
 守ってやろうとか庇ってやろうとか、そんな偉そうなことは言えないし言うつもりもない。彼の無垢で明るい心持ちに、ただただ救われて癒されて。自分の中ではもうすっかりと、彼のことが…愛惜しくて離れ難い存在になっていて。土下座してでも懇願して、傍にいて欲しいと思って止まないのはこちらの側なのだ。
"大事にしないと罰が当たるよな。"
 もう既に自分のせいで泣かせてしまった可愛い人。その小さな胸にキリキリと、深くて消えなかろう傷を負わせてしまった自分は、とんでもない大馬鹿者だから。何に替えてでも彼をこそ守らねばならないのと同じくらい、もう二度とあんな理由で泣かせないと、心の奥底、あらためて深く誓ったゾロであった。






            ◇



 落ち着いたら何だかお腹が空いちゃったと、恥ずかしそうに微笑ったルフィへ、ツタさんはさっそくにも温かい晩のご飯を並べてくれた。ウズラ玉子をゆでたのをミンチで包んでフライにした小ぶりのスコッチ・エッグが大皿にてんこ盛りになっていて、付け合わせは さっと炒めたモヤシとニンジンのグラッセ。ガラス鉢にはグリーンアスパラとハムのマスタード・サラダ。鱚
キスのテンプラ、朝掘りタケノコの炙あぶりもの、きぬさやと高野豆腐の玉子とじに、アサリのお味噌汁という献立で。一日中しょげてて食べなかった分まで取り戻す勢いでたくさん食べた坊やであり、それはそれは幸せそうな"御馳走様"のお声には、ついついゾロとツタさん、二人してくすくす笑いが止まらなかったほど。とはいえ、いつものように手際よく後片付けを済ませたツタさんだったが、それでも随分と遅い時間になってしまった。普段は晩の食事のお給仕までは約束の中に入っていないため、夕方には帰ってしまうのが常であり、
「遅くなったし、送って行くよ。」
 車を出すからと言い出したゾロだったが、
「いえ、構いません。まだバスはありますし。」
 雨も小降りになったようですし、それより何より、

  「私よりも。坊っちゃまに付いててあげて下さいませ。」

 さらりと。言って、にっこり笑う優しい人だ。玄関まで見送りに出たゾロの背中にどこかおどおどとくっついて来た幼(いとけ)ない坊やにも、それは愛しげな眼差しを向けて会釈をし、優しくて頼もしい家政婦さんは淡い緋色の傘をポンっとさして、そのまま帰途についてしまった。
「…ゾロ。」
「ん?」
 小さなお声で坊やが囁く。
「ツタさん、俺が半獣だって分かったらサ、怖がるかな。」
 前は"それでも仕方ないね"と、そんな淡々とした言いようをしていたものが、この呟きには…どこかしら、それこそルフィの側の恐れのような感情が滲んでいるように聞こえた。優しくて大好きな人。他の、こちらからもどうとも思っていないような人ならいざ知らず、そんな大切な人から受ける拒絶がいかに手痛いか。語尾の掠れたか細い声音に、ゾロは思わず少年の小さな肩を長い腕でギュッと抱き、
「そんな筈、ないだろうが。」
 当たり前だろと、そんな語調で言い返してやる。こんな弱音、彼の口からは今の今まで一度として聞いた事がなく。それだけナーバスになっているのだと、このゾロにでさえ知れて、それがひどく痛々しい。ゾロの大きな手には余るほどに小さな肩と、いかにも幼い薄い胸。守ってやらねばと見下ろしていると…ルフィは"えへへ /////"と小さく笑い、ゾロの胸元へぐるんと、頼りない両の腕、精一杯に回して来て。
「ツタさんもゾロも大好きだよvv」
 淑
しめやかに降る霧雨の鬱陶しさなぞ寄せつけぬほど、柔らかに笑って見せてくれた坊やであったのだった。










          



 静かな広い屋敷に二人きりになったと。そんな意識が音もなく這い上がって来たのだろうか。
「…あのなあのな、ゾロ。」
 居間に戻ってソファーに腰掛けるゾロの、お膝にいつものように乗り上がり、そのまま きゅうと抱きついて来て。おでこをこしこし、しきりと胸元に擦りつけてくる。今日一日、ずっとずっと不安なままに過ごした彼だ。途轍もない不安から一気に安堵へ、その気持ちが端から端へという物凄い勢いで反転したものだから、その反動も大きくて。緊張から解放されたそのまま、気持ちが高揚し、甘え掛かりたくて仕様がないのだろう。今は人の姿だのに、どこか仔犬モードのそれのような仕草を見せている、そんな微笑ましくも可愛い興奮状態を受け止めてやりつつ、
「どした?」
 ソファーの背に引っ掛けてあったブランケットを取って、小さな肩と背中に掛けてやる。宵となってますます気温が下がったようだと気遣ってのことだったが、
「あのな。なんか、お尻尾がないのがもどかしいんだ。」
 何だか体がうずうずとする、わくわくとする。そこまで"嬉しい"が高じたその時に、あのシェルティの姿でいたならば、千切れるほどに振るふさふさの尻尾。それがないのがもどかしいとは、成程、彼ならではの言いようで、
「じゃあ"るう"になりゃあ良いじゃないか。」
 簡単なことだろうにと、頼もしい腕で包み込むように抱き締めてやりつつ言い返せば、
「それはヤダっ!」
 すぐさまという勢いのお返事が飛び出した。
「"るう"になったら、お喋り出来ねぇもん。」
 ゾロはかなり読み取ってくれるけど、そんでももどかしいだろからヤダと、ぶんぶんとかぶりを振って見せるから、
「じゃあ、どうしたら落ち着くんだ?」
 可愛らしい我儘に"くつくつ"と笑い、焦れったそうなお顔を覗き込むゾロへ、たじろいだように"うう…"と唸ってから、
「うっと…分かんないっ。/////
 身体中から発散させたい、そうしないと爆発しちゃいそうなほどの大きな気持ち。嬉しいっとか、ゾロのことが好き好きっとか、そういう温ったかい気持ちの"最大級"なやつが、胸とかお腹とか、腕や足、背中の真ん中や髪の毛の一本一本にまで、身体のどこもかしこにも一杯いっぱい詰まってて。一番聞いてほしい人が目の前にいるんだのに。やさしいお顔で、ほら言ってごらんと気長に待っててくれてるのに。知ってる言葉では全然ゲインが足りなくて、だから発散させられない。それが何とももどかしくて堪
たまらない。言葉に出来ないもどかしさを、せめて行動で示したいのか、やわらかな頬をゾロの首条、おとがいの下へと、埋めるようにもぐり込ませて。
「うう〜〜〜。」
 広い懐ろの深みにて、ふにふにと小さく唸りながら擦り寄ってくるのが、ゾロにはどうにも擽(くすぐ)ったい。お日様みたいに元気で腕白、可愛らしくて屈託のない、小さな小さな坊や。こんなに小さな身なのが見ていて切なくなるほどに、沢山のこと抱えているのに、普段はそれを忘れさせるほど、あどけなくって無邪気な少年。
「ほら、ルフィ。」
 ちっとは落ち着けと、向かい合った格好で抱きついたままな少年の、小さな背中をわしわしと撫でてやる。日頃このごろ、もう子供じゃないもんねなんて言いたそうな、澄ましたお顔にだってなるくせに、これじゃあ説得力がないってもんだと苦笑が洩れる。だが、

  「…俺、此処に居ても良いの?」

 ぽつんと。何だかどさくさに紛れさせるような唐突さで、坊やが呟いたものだから。

  「ルフィ?」

 丁度自分の胸板の上の方。あまりにも間近に、しかも"きゅうぅ"と両手でしがみついているがため、こちらからは覗き込めないような位置に顔を伏せての、どこか切ない一言で。はしゃぐ気持ちのすぐお隣りに、まだ少し、不安がうずくまってもいた彼であるらしい。打って変わってじっと動かない少年の、ふわふわの猫っ毛に長い指を差し入れて、

  「決まってるだろう?」

 ゾロは静かな声で囁いた。
「此処はお前の家だ。お前と俺と、ずっとずっと暮らしてく家だぞ。」
 普段も心地の良いその声音が、囁く時は響き方が変わるゾロの声。穏やかに低く響いて心地の良い声。髪を撫でてくれながら、やさしく囁くその声が、
「今度あんな風に出てくなんて言ってみろ。絶対切れない頑丈な鎖を買って来て、俺と手錠か何かで繋いじまうからな。」
 何だか理不尽な、身の束縛を強いるようなとんでもない言いようをしたのだったが、

  「………うん♪」

 そんな傲慢な言葉にさえ、そこへとまとわせた熱さが嬉しいと思えたルフィだ。出て行くなんて承知しないと、こうやって抱いたまま離さないと、そうまで誰かに求められる切ない嬉しさ。しかもそう言ってくれたのは、
「ゾロ…。」
 小声でその名を呟けば、んん?と目顔で覗き込んでくれる優しい人。大好きなゾロ。

  "…どうしよう。"

 すっかりと大人びた、男臭いお顔に見つめられながら、だが、ルフィはますますと落ち着けなくなっていた。

  "何か…変。"

 何だかおかしい。身体のうずうずが止まらない、全然静まってくれない。お出掛けから帰って来たゾロに飛びつく時よりも、御馳走が一杯ある時よりも凄くワクワクしてて。何かが追っかけて来るみたいな、怖いくらいのドキドキが止まらない。好きだよって言ってもらったのに。此処にいても良いよって、ううん、出てくなんて許さないって、ゾロは言ってくれたのに。なのになんで? 何で落ち着けないの?

  「ぞろ。」

 苦しいの。ねぇ、どうしよう。こそりと見上げたお顔が少し曇った。何だか様子がおかしいって、気がついてくれたみたいだ。
「…ルフィ? どうした?」
 萎えたように枝垂
しなだれかかって来た坊やを、彼の方からギュッと抱き締め、項垂れる顔をのぞき込む。
「な、んか、変。………くるしい。」
 切れ切れの声を拾って、ギョッとしたように身を強ばらせたゾロであるのがルフィにも分かった。
"…なんで?"
 こんなに幸せなのに、これからは何も心配要らないよって言ってもらえたのに。ああ、体が浮かんだ。ゾロが抱えたままで立ち上がったからだな。きっちりと腕の中、抱き上げてくれてる。嬉しいな。苦しいけど嬉しい。このままでいられるなら、俺、どうかなっちゃっても良いかな………。






TOPNEXT→***