月夜見 puppy's tail
 

  番外編 “夏休みにて”
 


           



 明るいリビングへさやさやとそよぎ込むは、緑の香りを帯びたそれはそれは爽やかな涼風。その誘いに目をやれば、大きく開いた大窓の外。天然石を張ったテラスの向こうに、丁寧に刈られて広がる芝草や木立ちのそれぞれの翠へ濃淡をつけて、夏の午前の健やかな陽射しが何とも心地良い。ここいらは少し標高があるせいか、それとも手つかずの豊かな自然たちの瑞々しさに囲まれているせいか、今時の季節にも うだるような暑さには ちと縁がない。都会の街中ではアスファルトが蒸されて独特の石油臭を放ち、エアコンの室外機が埃っぽい熱風を吹き出し、どこに居たって苛々とだらだらと気が滅入り。わずかな緑も何だか煤けていて、まるでピラフの皿の隅っこの、申し訳程度のパセリみたいに見えたもの。

  ――― こういう土地にいると都会には戻れないなぁ。

 喧
やかましいほどにぎやかな割に実体がなく空虚なばかりだからと、都会の喧噪がもともと嫌いだったゾロは、ここいらの穏やかな静謐がよほど肌に合うらしい。夏でも冬でも同じことを言っては、ルフィやツタさんを苦笑させている。でもそれって、街に居た時には全然気がつけなかったんでしょう? と、ルフィが一端いっぱしなことを言えば、苦笑しもって頷きながら、
『此処へ呼んでくれた親父に感謝感謝だよな。』
 そこは謙虚に頭を掻く彼なのが…何だか可愛くて、ルフィは大好きだったりする。


            ◇


 とある郊外都市の山の手へ奥まった別荘地。旧市街の奥向きに建つ、伝統的な欧州形式を丁寧になぞったのだろう古めかしい山荘風のお屋敷に、たいそう年若い青年と少年とが、優しいお手伝いさんに助けてもらいつつ、和やかに穏やかに暮らしていた。邸宅揃いの環境下で"お隣さん同士"が随分と遠いのと、あんまりお互いを詮索し合わない土地柄から、プライバシーを守られてのんびり暮らしている彼らだが、実を言うと とある"秘密"を抱えていて。詳細は本当に内緒の秘密なのだが、どうしてもお知りになりたい方は、当サイトの『puppy's tail』シリーズをお読み下さいませと、ズボラをこく筆者だったりするのである。
おいおい
 手短に はしょった説明を致しますならば、生業
なりわいの文筆業を初めとするしがらみ全てを放り出して失踪していた父から譲り受けたこの山荘に、遺産のおまけという形でゾロ青年を待っていたのが、それは愛らしい"ルフィ"という名の少年で。他に頼る身寄りもない彼を引き取ることを条件にこの屋敷を引き継いだゾロは、彼が普通の少年ではなく…とある精霊の末裔であることを程なくして知ることとなる。愛らしいシェットランド・シープドッグの姿に変化出来る彼は、他にも色々と人とは異なる特徴を持つ存在であったのだが、そんな苛酷な宿命に負けないようにと健やかで明るい伸びやかな気性に救われ、それでも覆い切れないでいたその寂しげな様子に胸を打たれ、青年はそんな自らの心からの求めに素直に従って、その生涯を彼と共に歩もうと誓ったのである。

  ――― そしてそして。

 二人の間には、この夏の初めに小さくて愛くるしい男の子が誕生した。海と書いて"カイ"と読む、それはそれは愛くるしい子で、ますますもっての充実を見せる"至福"を満喫している二人であり周囲であり、ちょいと風変わりなパラレルシリーズをまたひとつ抱えることとなってしまった『波の随に』であったりもするのである。…とほほん。
(笑)


            ◇


 夏催いの陽射しも目映いお昼前。海
カイくんの"ご飯"を済ませて、小さな愛しい赤ちゃんがくうくうと寝入ったのを見届けると、
「さってと。」
 まだまだ幼い奥方は、両手の拳を天井へと突き出しながら、撓
しなやかな背条を伸ばして"うう〜〜〜んっ"と大きく背伸びをし。同じリビングのソファーに座って、度の軽いメガネを掛け、何やらファイリングされた資料に目を通していた旦那様の傍らへと擦り寄りながら声を掛ける。
「なあなあ、ゾロ、そこらを走って来ても良いかな?」
「んん? 散歩か?」
 今日はお勤めのない日なので朝からのんびりとしていた彼であり、付き合おうかと腰を浮かし掛けたのへ、
「違うの。一人で走って来たいの。」
 ルフィにとってはシェルティの姿も人の姿もどちらも"本人"なのだけれど、どちらかの姿でばかりいると、何となく窮屈だったりもするのらしい。だが、
「大丈夫か? もう結構 人は多いぞ?」
 ここいらは旧の別荘地なので、さしたる見所もなく、部外者の観光客がずかずか入り込むということはあまりないのだが、それでも世間様は"夏休み"というシーズンに入っている。避暑休みを取るのに最も多い日程といえばお盆の前後だろうけれど、それでも早めの帰省客などがそろそろちらほらと姿を見せ始めていて。日頃は住人として此処に居ないような、若い人や子供なども居着く時期。となると、そこいらを駆け回っていたりすれば日頃以上に人目にもつくだろうし。放し飼いになってるだなんてあまり褒められることではなく、見とがめられやしないかと案じるような声を掛けるゾロだったが、
「ここいらの穴場や抜け道は俺が一番詳しいんだぜ?」
 滅多なことでは見つからないってと笑って見せて、
「それに首輪を付けてくから大丈夫。」
 立てた人差し指の先、輪っかにした赤い首輪をくるくるっと回して見せる。それならまあと頷首する旦那様の懐ろに乗り上がり、肩口へと顔を伏せ、軽く眸を閉じると………。

  ――― くぅ〜ん。

 メタモルフォーゼは瞬く間に完了。小さなコリーのような、だが、丸ぁるいお顔も愛らしく、長くてふかふかの毛並みを膨らませるように"ふるふるっ"と体を振るって、ついでに着ていた洋服一式をふるい落とす彼に、どらと首輪をつけてやろうとしたゾロだったが、
「あれ? お前、これ、金具が取れかけてるぞ?」
 ベルトを通して、爪を穴へと差し込んで固定するタイプの首輪の、そのベルトを通す金具を縫い付けている辺りがほつれている。きゅう?と顔を上げたルフィは、だが、そのまま"ぱたぱたぱた…"と尻尾を盛んに振って見せ、
《大丈夫だってばvv
 そうと言いたげに、早くつけてという催促の仕草。前脚を胸板に引っ掛けるようにまでして、愛らしいお顔のままに"わふわふvv"と嬉しそうにしているものだから、
「ホンっトに気をつけろよ?」
 重々と念を押してから、注意深く首輪を止めてやる旦那様であるのに、小さな小さなシェルティくんの側は、
「♪♪♪」
 いつもと何ら変わりない様子にて。ふさふさのお尻尾を旗のようにぱたぱたと振りながら、ソファーを降りてテラスに向かい、とたたんっと濃緑の戸外へ駆け出して行ったのであった。








            ◇



 ルフィには"るう"としてのお気に入りの遊び場所というポイントが、広い広いご町内のあちこちに幾つかあった。別荘地として有名ながらも旧市街にあたる鄙びた土地柄なせいか、その歴史が古いがために、不用心な空き地や雑草が生い茂って見苦しい更地などというものは少ないが、それでも随分と由緒のある古色蒼然とした邸宅も少なくはなく。そして、そういうお屋敷は、管理人しか置いていないという"空き家同然"な物件もまた少なくはない。由緒があるせいで高価であるのと手入れが必要であるのと、そしてそして、もっと便利でお手軽な価格の別荘地が都心寄りの隣町に分譲されたため、こちらへ新規転入なさる方がこの何年かほとんどないという状態だし、持ち家がある方もお忙しかったり高齢になったりして、なかなかこちらにまでは足を運ばなくなったりしていて。よって、そういった理由からほとんど"空き家"となっている別荘の、広くて少々草の背も高いお庭を駆け回って遊ぶのが、一人で出掛けた折の"るう"のお散歩ルートにおける習慣になってもいるのである。

  《♪♪♪》

 今日も今日とて、お気に入りの一つ、広いお庭に遊歩道みたいな散歩道が連なっている別荘のお庭にもぐり込む。そのお家はさほど古めかしくはないのだが、やはりこの何年かはずっと無人だったもの。ただ、去年の初めに手直しの大工さんやお庭の職人さんたちが出入りを始めて、お屋敷はとっても綺麗に修復がなされた。それから、管理の人だろう、初老のご夫婦が時々掃除や点検にとやって来るようになり、どうやら新しい買い手がついた模様。そうして、夏と秋に何回か、オーナーさんらしき人が逗留にと来ていたらしかったので、ルフィも遊びに来るのはご遠慮したのだが、
"あんまり沢山は来ない人みたいだな。"
 来ないのか来られないのか。とりあえず、本宅は別の土地にあって、長いお休みになると来るというタイプのオーナーさんであるらしい。ゾロやツタさんに訊けば、もっと詳しいことも分かるかもしれないが、住んでいる人には特に関心もないのだし。
"ふふんvv"
 鉄の槍のような棒の柵が均等に並んで取り囲むお庭へ、その下の隙間からよじよじと身を伏せて潜り込む。まだ仔犬の体つきなればこそ出来る潜入方法であり、小さな全身が入り込むと、そのまま柵のすぐ傍らに連なるように植えられたツツジの茂みの根元に伏せて、お庭をぐるりと眺め回した。確か一昨日にも管理人のご夫婦がいつもの点検に来ていた。その時、植木屋さんたちが何人か同行していて、この茂みや他の植木もざっとながら刈り込まれたらしく、辺りにはまだその青々とした香りがする。季節の変わり目にお庭のお手入れをするのは特に珍しいことでもなく、ルフィも"ああ、今日一日は遊べないや"と思って諦めた。そんなことが間近にあったということは、
"来週まではお留守の筈だよな♪"
 それが"いつものこと"だから。それ以上の何かを考えたりはしない。
"それよりもそれよりもっ♪"
 テラスのポーチの先に広がる、それは綺麗に整えられた芝草の、萌え初めの頃よりは落ち着いた柔らかそうな緑の色合いが"さあ、私の上で転がってご覧なさい"と誘って来るようで堪
たまらない。
"よっし♪"
 周りの道にも通行人の気配はなし。ではでは、たっぷり堪能させていただきましょうかと。ルフィの"るう"くん、ツツジの茂みから出てゆき、ふかふかの芝生の上へ"たかたかたか…"とダッシュをかけたのであった。






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