月夜見 rehearsal of the tragedy

        *前半、ダークで痛いお話です。そういうのがダメな方はご用心。
         後半だけでも読みたい方は、ここから飛べます。おいおい

 

          



 静謐をたたえた暗幕の帳
とばりをさやさやと揺らして、間断なく繰り返されていた潮騒の囁きも。深みのある色合いの黒ビロードを思わせる波間の、その一面に浮かんでいた星影たちも。それはそれは清さやかにあった、夜陰のベールに包まれた厳粛なまでの静けさに満ちた、いつもと同じ夜だったのに。頼もしき力とやさしくも強かな絆に守護された安穏を一気に遠い幻として焼き払う。それはそんな勢いを伴った、信じ難い悪夢のような出来事だった。
「早くっ! 先の船に乗って逃げろっ!」
「子供の数を確認しろっ! 家族だけじゃあない、見知った子も確かめろ! 一人だって取りこぼすなよっ!」
 紅蓮の炎群がはためく毎、マストや帆、甲板に落ちた真っ赤な陰影がはたはたと躍り、まだ幼い子供が恐怖に泣き叫ぶ。夜陰を赤々と染め上げる炎と煙。ぱしんっと乾いた音を立ててキャビンの一角がはぜ、海面へ火の粉がほとぶ。船倉からの出火は、もはや人の手で制することが出来る段階を大きく越えていた。
「キャプテンはっ?」
「どうされたんですっ?!」
 幾隻もの船による"船団"を構成するまでになった、少なくはない仲間たち。お慕いする頭目と、一緒に居たい、自分たちも戦いたいと、姿の見えない彼を案じ、擦り寄せて来た船端から今にも飛び移って来ようとする新顔の仲間たちへ、
「馬鹿野郎っ、こんなのぁ戦いとは言わねぇんだよっ。」
 殊更に強い語調で言い放つ。
「いいな? お前らは先に行け。」
「ですが…っ!」
「こんな詰まらんことでお前らを無駄死にさす訳にはいかねぇんだよっ!」
 怒鳴ってから、だが悲痛に聞こえはしなかったかと気を取り直し、小さく、不敵に笑って見せる。
「キャプテンなら大丈夫。とっくに向こうっ側に回って敵船を睨み据えてるぜ。」
 何とか宥め賺
すかしては、こちらの船に乗っていた数人の面子たちも手際よく他の船へと捌いて乗せて。先へ先へと逃がす幹部たちのその統率力は大したもの。
「いいか、一人も怪我を負わすな、勿論見殺しにもするな。全員で逃げ延びることをこそ考えろ。」
 加わったばかりの顔触れには、女子供、家族同伴という者たちもいて。そんな彼らを一旦収容するために"隠れ城"へと戻る途中だった。よって、この陣営で戦う訳にはいかない。そんな英断を即座に下せる彼らでもあるからこそ、人望も厚く、その実力と余裕とに民衆からの人気も高く。そして逆に、鼻つまみな海賊共たちからは反感を買ってもいたのだが。
「頼んだぞ、ウソップ。」
「ああ。だが…。」
 一際船足の速い一番船にて、船医と夜に強い女参謀を連れて"脱出班"を先導する役目を負った砲撃の名手は、こうして言葉を交わす自分たちを包む炎の熱気に、悲壮な表情を隠そうとしない。そんな彼へと、
「…この船はもう保
たねぇ。お前には特に残念なことだろうがな。」
 赤く染まった金髪のその陰で、鋼の蹴技自慢のシェフ殿が低い声をかけた。甲板にまで火が上り、今にも焼け落ちんとする愛する船。その昔、旗揚げ直後の彼らへと、ウソップの幼なじみの令嬢が餞
はなむけに贈ってくれた小さなキャラベル。そのすぐ直後に仲間入りしたサンジであり、苦難も歓喜も共に乗り越え味わった、もう一人の頼もしき僚友だという感慨は深い。だのに、こんな形で失うことになろうとは。とはいえ、
「気にしちゃあいないさ。それよか、お前らこそ、」
 この途轍もない非常事態。感傷に浸っている場合ではないということくらいは、判ってもいるウソップで。それよりも…と続けかけたのをこちらも皆まで言わせず、
「ああ。奴らの鼻面を蹴散らしたら、すぐにも追っかける。」
 炎を背に負い、黒づくめのシャープな姿のその輪郭さえ、今は赤く染まっている彼の、だが、表情の冴えは日頃と変わらぬ自信に満ちていて。だから安心しなと、今度こそ余裕で笑って見せたサンジとウソップは、顔近くにまで上げた拳同士を軽くぶっつけ合った。さして危険のない筈の、穏やかな海域の真ん中に停泊していた彼らを襲ったとんでもない一大事。敵の卑怯な奇襲を受けての惨事である。



            



 十代半ばという若さで…いや"幼さ"で、単身で海に出てからさして歳月を必要とすることもなく、海賊としての最高峰"海賊王"の地位に上り詰めた我らがお元気船長は、その名を世界へと轟かせたとほぼ同時、荒
すさむばかりで暗黒の魔海とまで呼ばれていた"偉大なる航路・グランドライン"を照らす一条の光明として、普通一般の人々から"新時代の英雄"としての絶大なる支持を受けていた。それまでの常識だった"非道卑怯で残忍で利己的な海賊たち"とは大きく違い、弱い者や一般の民人には決して手を上げず、威嚇睥睨の素振りも見せず、義に厚く、屈託がない。ちょいと呑気でおおらかな彼のみならず、彼の回りを固める幹部たちの頼もしさや人性もまた注目を受けた。両手の指で足りるほどの少人数でありながら、そして全員があまりに若すぎる年齢でありながら、絶妙なコンビネーションにて艱難辛苦をくぐり抜け、山のような苦難を踏破した彼らは、それだけで充分に人々からの関心や憧れを集める存在で。奇想天外な数々の冒険譚が誰からともなく語り継がれ、楽しいおとぎ話のようにあっと言う間に広まった。若き海賊王に直接出会ったことがある者たちは、皆して誇らしげに彼の功名を喜んだものだった。


 来る者を拒まない船長の気性もあって、その所帯も大きく拡大していた一行だが、名が知れ渡ると共に当然のことながら敵も増えた。過去に衝突して敗北を帰した者、英雄気取りを鼻持ちならないと思う者、彼に取って代わって王座を狙おうという者。海賊だけでなく、公安関係者たちにとっても決して面白い存在ではない。自分たちが"悪"と断じている非合法な輩が一般人たちから讚えられているということは、理念の点で自分たちの正義を覆されたも同然。彼らが所謂"ピース・メイン
(良い海賊)"とやらなのだという事情も聞いてはいるが、だからと言って捨てて置いては面子が立たない。


 【ピースメイン;peace main】

 悪辣非道な海賊をのみ相手
(カモ)にして冒険を続ける海賊のこと。無法な略奪行為を行うには違いないが、弱者ばかりを狙うような悪質な"モーガニア"だけが相手であり、それを結果として成敗しもするので、明らかな"正義"かどうかは微妙ながら、ある意味"正義…の味方"くらいではあるのかもな…というところかと。おいおい



 よって"公的"には立派なお尋ね者。直接的に関係者ではない一般市民であっても、彼らを匿ったり手助けをすれば、それなりの罰を受けもする。その辺りを重々切々と布告してもなお、彼らを讃える声は一向にボルテージを下げず、ならばと懸賞金を上げても却って彼らの格を上げるばかり。それだけ、人々は悪辣な海賊たちによって苦しい目に遭っていたのであり、尚且つ、救世主として、正義の番人としての海軍を頼り
アテにしてはいなかったのかもしれない…とするのは、あまりに言い過ぎであろうかしらん?おいおい そういった事どもを考え併せると"絶対根絶"の必要性も論じられかけたらしいのだが、

   『まま、奴らの仲間内で勝手に大掃除をしてくれてると思や良いことだろうさ。』

 自分たちだとて"王下七武海"という輩たちを、公認のものとして事実上"抱えて"いるようなものなのだし。それほど目くじらを立てることもなかろうと、豪気に構える上層部もいなくはなくて。海賊同士で角突き合わせているのであるなら、しばらくは様子を見ようかいと、海軍サイドではこれまで以上の大仰な警戒態勢を取るのは差し控えて"様子見"に入っていたという。



            



 ある意味で"別口の七武海"。いつぞやこの船長本人が口にした"八武海"として、世界政府直轄の海軍から暗黙の内に公認されたことで、皮肉にも海賊世界ではますますその存在が際立ってしまった彼ら。とはいえ、腕っ節の落差は歴然としていて、文字通り世界を統べるのも時間の問題だろうと、実力・格の高い海賊たちからは苦笑混じりながらも目されていたのだが。そんな彼らとのあまりの実力差に業を煮やしたその揚げ句、利害が一致する者たちが一同に顔を合わせたというのもまた、想像するにさして難しい条件を必要としないこと。そしてその凶牙は、巧みな企みを海面下に忍ばせつつ、音もなく擦り寄って。星の綺麗なとある夜、いきなり彼らの喉笛へと食らいついたのだ。

 

 敵襲を察知して戦いが始まった。相手の数はこれまでにないほどの莫大なものだったが、それでも臆するに足らず。幹部たちの内の"凄腕"戦闘担当者と、彼らを補佐する腕利きが何人か。そんな彼らが受けて立つなり、相手方になだれ込むなり、獅子奮迅に立ち回れば、それがよくよく統制の取れた軍隊の一個師団であれ数十分と保たないほどに、圧倒的に強い彼らであったのだが、今回は弱者が多いためそうも行かない。逐電するに限ると、作戦も早々に固まって、
「ルフィっ!」
 日頃は船長が、そして幹部たちが乗っている主幹船ゴーイングメリー号。この船が仲間たちの船を庇うように殿
(しんがり)を務めるのはいつものこと。退路を見事に切り開く、凄腕狙撃手の乗った先導船に付き従うよう、計算された隊列を整えて。大所帯の船団は敵陣営の囲い込みから順調に脱出しようと構えていた。武力的には不安でもあるが、だが、相手の狙いはいつだって彼らではない。そうやって弱い者たちを先に逃がすため、一番最後まで居残る"頭目"、若き海賊王の首である。
『逃げたりなんかするもんかよっ!』
 負ける気がしねぇからなと、意気軒高、陣頭に立ってこちらから飛び込んで行きかねないほどな相変わらずさに、いつも通りに各自で段取りを進めていた幹部たちだったのだが。だが、今回は…安心し切っていた"背後から"の影が差した。幹部以外の顔触れを他船に割り振ったその途端、選りにも選ってこの船から、突然炎が吹き上がったのだ。
「…ルフィっ!」
 これに浮足立った皆を必死で宥めたサンジが甲板で仲間たちを見送っているその最中、炎群の中からなかなか上がって来ない船長と副長に不審を感じ、黒煙白煙渦巻く中を船首真下の船室まで降りて行った航海士長のナミは、そこで信じがたい光景を見た。昔よりは幾分か広げられたとはいえ、船長の居室にしてはえらく粗末で、船首などという極めて危険な場所にあるその部屋で、
「ぐ…っ。」
 ベッドの傍ら、床に膝を落とし、必死の形相で踏ん張って何とか立ち上がろうとしているルフィと、その傍ら、慣れぬ刃物を震える手で握って立つ少年と。
「な…っ、何をっ!」
 選りにも選って身内の中に裏切り者が出たのだ。それも、柔順で気立ての優しい子供。海賊に親を殺されて独りぼっちだというのを見かねて、ルフィが弟のように可愛がり、連れ歩いていた、まだ年端の行かない幼い少年。そんな彼が…誰に何を吹き込まれたか、
「だ…だってっ! ルフィがボクの父さんを殺したんだって…っ。」
 海賊王こそその仇だと誤解して。ルフィ本人へ動けなくなるようにと薬入りのジュースを飲ませてから、敵の陣営へ合図を送り、しかもいよいよの対峙というその瞬間にGM号に火を放ったというのである。
「何てことを…。」
 愕然としていたのも束の間、素早くルフィの傍らへと駆け寄って。その身を自分の体で覆うように抱き込むと、肩越しに少年へと怒鳴りつけた。
「あんたのホントの仇はね、○○○っていう別の海賊よ。仇討ちなんて空しいばかりだから、それを話さなかっただけ。」
「でもっ、あの大尉はっ!」
「海軍の誰かに吹き込まれたみたいね。お聞きなさい。この情報はあたしも海軍から入手した。あんた、手柄ほしさの誰かさんに良いように騙されたのよ。」
「…っ!」
 驚愕に立ち尽くす少年だったが、その様さえ、気の毒というよりいっそ滑稽に見えて、
"滑稽…か。"
 こんなに脆く突き崩された安穏へ、そしてそれへとヒステリックに振る舞う自分へも、ナミは滑稽さを感じて苦しい笑みを頬に浮かべてしまっていた。そういえば昔はこういう急転直下はセオリーだったなぁ。緊張感だとか価値感だとか、いつも肝心な何かがすっぽ抜けている我らが船長が、事態を最悪な方向へばかり転がしてくれたものよねと、それをふと思い出してしまったのかも。そんな場へ、

   「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと逃げろっ!」

 突然天井からそんな怒声が降って来て。見上げればそこには、いつの間に空けたものなのか、上甲板へと素通しになっているよな穴がぽっかり。炎に縁取られた夜空が仰げるそこから飛び降りて来たのは、
「…ゾロ?」
 そういえば、なぜ彼がこの部屋にいなかったのだろうか。ルフィがその裸の身さえ安んじて任せるだろうほどに、誰よりも信じている凄腕の戦闘隊長。ルフィが海賊の世界の頂点へと上り詰めるより少し前、彼もまた世界中の剣士たちの最高峰へと上り詰めていて。下手な武装の何百倍も頼りになる腹心として、必ずその傍らに居たものが。そんな彼が、何故、この騒動の最初、キャプテンの傍らにいなかったのか。
「あんた、この非常時にどこへ行ってたのよ。」
「甲板だ。」
 その頭に真剣勝負用のあの黒バンダナを巻きつけた彼は、実に端的に応じて、そのまま彼女とルフィの傍らへと歩み寄る。二十歳はとうに過ぎたというのに、それでも細いその肩には。つい先日誂えたばかりの、真っ赤なキャプテンコート。最新の手配書に載ってる姿は何故だかこれを着ている彼で、大方、仕立て屋がこっそりと撮っておいて海軍へご注進に及んだのだろう。そのコートをルフィの肩から引き抜いて、
「な…。ゾロ?」
「おい。」
 どうするつもりだ?と怪訝そうな顔になるナミや、後から降りて来て、室内の情景へ眉を寄せているサンジへと顔を上げ、にやっと笑って見せる。そして、

   「悪りぃ。」

 その肩先で短く囁いて次の瞬間、

   「が…っ!」

 間近に見つめたルフィの…肩の付け根、殴打すると息が詰まる箇所へ、思い切りの手刀を振り下ろしたゾロだったから、
「ゾロっ?」
「どういうつもりだ、てめぇっ!」
 一瞬で意識を失って、そのまま床へと崩れ落ちたルフィをそっと抱え上げ、名残り惜しげに顔を見やってみたのもほんのわずかなこと。すっくと立ち上がり、大切な船長殿を、積年の諍い仲間の腕へと託した。そして、

   「麦ワラのルフィは、相手が…詰まらん遺恨からの喧嘩友達でもない限り、
    そうそう敵前から逃げ出したりはしない勇者だろう?」

 そうとだけ言う彼に、サンジがはっとする。
「お前。」
 身代わりになるつもりか? 声には出さなかったが、
「そういうことだ。」
 雄々しいばかりに逞しい、歴戦の勇者はあっさり頷首したものだから、
「…千里眼かよ。」
 相も変わらず日頃は何かというと剣突き合う間柄で、なればこそ培われた呼吸の合いようから読まれた胸中。そうだというのへ苦々しげに笑うサンジへ、
「お前はこの3人を連れて逃げてくれ。特にルフィをな、殺すんじゃねぇぞ。」
「そんなこた判ってるよ。」
 見交わす真摯な眼差しは、慣れぬ者には恐ろしいまでの、裂帛の気合に満ちていて。先程、選りにも選ってナイフを構えた少年を、身動き出来ないルフィの傍らに置いたままで席を外していたのも、この眼光で睨み据えての"呪い"をかけた上でのことだと、後日にナミは本人から証言を受け取ることとなる。だが、それは今はどうでも良いこと。
「サンジくん?」
 二人のやり取りを息を詰めて見守っていたナミだったが、
「行こう、ナミさん。」
 ルフィを大事な淑女のようにその腕へと抱えたサンジから促されては、さすがに躊躇の気配を見せた。彼らの会話は聞いていたが、その内容だって理解出来ていたが、
「だって…。」
 そうだ。だが、ゾロだって仲間なのに。この、私たちの愛すべきルフィが一番最初に仲間にし、掛け替えのない半身だと思っている男であるのに。それをこの場へ置いていけと? そこへの理解が追いつかない。聡明な彼女だ。実はちゃんと判っているのだが、あまりに辛くて苦しくて、その真意をどうしても見たくないのであるのかも? そんな躊躇に身を竦ませている美しき航海士長へ、サンジは殊更に落ち着いた声を掛けていた。
「癪だが此処はこいつに任せよう。」
 炎に包まれたこの船は間もなく落ちる。いくら男気あふれる海賊王であれ…船がなくては沈むしかない"悪魔の実"に呪われた身である。そうなる最期を恐れてぎりぎりの最後に飛び出すところを、皆で一斉に取り囲んで捕まえようという気で待ち構えているのならば、
"この炎の中、誰か抗戦している人影があれば、それへと連中の目を引きつけておける。"
 誇りよりは財宝や名誉、そしてそれらよりは命が大事だろうに、命より意気地が大事だと言って憚らない小生意気な若造だ。その命知らずなところから、形勢逆転されて倒された経験を持つお歴々には苦いほど刷り込まれた"事実"であろうから、そんな麦ワラのルフィが…まさかこのような命懸けの"囮"を立てるとは思うまい。だからこそ、他の仲間たちの脱出には手も出さないで虎視眈々、じっとこちらの動向を遠い円陣の輪を描いたままに見守っている敵たちなのであろうから。
「…っ!」
 いつだって癪なことばかりしでかす男たち。どうしてこうも、良い男には馬鹿野郎が多いのだろうか。ナミは顔を上げ、
「…簡単に死ぬんじゃないわよ?」
 せめてもの言葉をゾロへと掛けたが、相手は余裕で笑い返して来た。
「ああ。せいぜい時間を稼いどいてやるよ。」
「そういう…っ。」
 意味じゃないと言いかけて、だが、太々しい笑みに声を無くした。最後までそんな顔が出来るなんて狡い。強かで頼もしくて、ちょいと遊んで来るぜと言いたげな気張らない笑顔。
"死に急がないで。…お願いっ!"
 誰よりルフィが哀しむからと、言葉にならない悲壮な一瞥を投げて、やっとナミは一番古い仲間へ、背中を向けた。二度と振り返ってはならないものとして…。




 


「………。」
 仲間たちが立ち去って、辺りは轟々と炎が逆巻く音だけとなった。結構頑丈な船だなと、燃え盛る室内を見回して呑気な感慨にひたる。それから…さきほどルフィの肩から引き抜いた、真新しいキャプテンコートを手に、
"………。"
 何を思ってか黙り込んで、ほんの数瞬。
「らしくもねぇか。」
 振り切ると、脇卓に脚を掛け、よっとばかり。さっき降りて来た天井の穴へと飛びついて、片腕だけの懸垂でその大柄な体を持ち上げると、片手倒立の態勢になり、勢いをつけて上甲板まで飛び上がる。やはり火の粉と煙が充満した甲板ではあるものの、少しは涼しい夜気がその身を包み、風下、船尾をちらっと見やれば、数隻の船があたふたと離れて行くのが見送れた。最後の船影。あれにルフィも乗っている。本人の姿が見える訳でもないのに、どんどんと生じる距離感を胸の奥底にちりちりと感じる。
"………また怒るんだろうな、あいつ。"
 自分こそ、いつぞやは勝手に生きることを放棄して、笑って断頭台の露となりかかったくせをして、戦闘中にゾロが少しでも庇うような働きをすると、恨みがましげな顔をしてプリプリとそれは怒って見せたもの。
『俺はゾロんこと、俺を守ってほしくて仲間にしたんじゃねぇっ!』
 その豪快にして冴えのある、素晴らしい刀さばきを一番の間近で見たいから、だから仲間にしたのにと、自分のせいで大剣豪になれなかったら腹を斬らなきゃならないんだぞと、何だか良く分からない怒り方さえして、いつもこちらを辟易させたものだった。
「………っ。」
 ひゅんっと風を切って飛んで来た石弓。それを1本だけ持って来ていた"和道一文字"で弾き飛ばす。得意技の"三刀流"では、あっさりと正体が割れてしまうからという配慮だ。せっかく羽織ったキャプテンコートも、彼には少し小さかったが、
「まあ、遠目には判らんことだろう。」
 敵の攻勢の風向きが、こちらへとその照準を絞りつつあると判る。最後に離れて行った船影を、だが、配下の者たちのみの、小者たちの船だと見送った連中であるのだろう。
「…ルフィが一人きりってのは、もしかして不自然だったかと思ったんだがな。」
 彼の傍らにはいつも必ず、頼もしき"双璧"がいたのに。状況から已を得ずバラバラにされたことがなかった訳ではないけれど、此処一番の、しかも向こうからやって来た急襲というこの事態。だのに、ルフィをたった一人居残らせる幹部たちだというのは怪しいとか、そういう方向で訝しいと思われやしないかと、そうと思ったその当てが外れたのへと小さく苦笑。怪しまれない方が良いに決まっているのに、何故だか肩透かしを食らったような気がして。
"………ルフィ。"
 最後に見た姿が、力なくサンジに担がれていた横顔というのは少々やるせない。何を目指しても、何を誇っても良いとしながらも、大きな怪我を負うたびに…自分に断りもなく勝手に死ぬなと、それだけはいつだって念を押して来た小さな暴君。自分たちの破天荒な野望や夢を、すべて"現実"の"地続き"のものとして叶えさせてくれた、太陽のような海賊王。成り行きから離れ離れになっても、全開の笑顔で再会を喜んでくれた。傍らにいなくとも信じていてくれた、誰をもすげ替えることの出来ない、掛け替えのない愛しき半身。崇拝に似た感情さえ抱いていた相手だったが、
"…最期くらいは、好きな死に方くらいは選ばせてくれよな。"
 海からの風が強くなる。コートの裾が翻り、煙ばかりの甲板の上、仄かな甘い香を鼻先まで届けたかと思った瞬間、
「…っ!」
 風を孕んで主帆のように大きく膨らんだ、そのコート目がけて、雨のように強弓の矢が降りそそいだ。
「く…っ!」
 刀を振り回し、1本残らず払い飛ばす。砲弾は飛んで来ない。あくまでも仕留めた"海賊王"の遺体を確認したいからだろう。すかさず、第二陣、第三陣と矢の群れは降って来て、
「…っ!」
 それは何陣目だったか。その中に混じっていた細みの槍。柄が長かった分、叩き切っても長さは余って、

   「………っ!」

 冗談のようにすんなりと、刀と腕の防御を掻いくぐり、その胸板へと刃が吸い込まれてゆく。遠方から飛来した重い加速を乗せて。
「…がっ!」
 奇妙なまでに静まり返ったその一瞬。いつの間に振り仰いだのか、頭上の夜天穹がいやに間近に見えた気がした。激痛より先に衝撃が身を凍らせた。息が詰まった。胸が熱い。何が起こったのか、すぐには分からなかった。
「…しくじったな。」
 出来るだけ時間を稼ぐと威張ったくせに、これではさほど粘れなかったか? 熱風吹きすさび、灼熱の籠もった甲板へと膝が落ちかかるのを、歯を食いしばって耐え、何とか踏ん張って堪えたところへ、
「………っ!!」
 今度は小槍ばかりが放たれてくる。どうやら特別仕様の砲台であるらしく、
「そんな、もんまで…準備して、くれるたぁ。豪気な、こっ、たよな。」
 動きが緩慢になっていた。その上…もう避けるつもりさえなかったから。
"…なあ、ルフィ。"
 思い出す、沢山の笑顔や姿。いつまでも子供で、いつまでも無邪気で。そしていつでも胸を張って笑っていた、出来ることなら自分だけのものにしたかった、小さな王様。街角で吟遊詩人がその勇姿を唄うほど、世界中の人々がその名を知るところになってもなお、屈託なくこの胸へと飛び込んで来ては、笑ってくれた愛しい人。出会う前の、感覚も凍りついた魔獣に成り下がっていたこの身に、人らしい想いと温みを蘇らせてくれた、絶対のお日様。
"忘れて良いぜ、こんな甲斐性なしのことはよ。"
 その全身をもって、燃え盛る炎の中へと投じられたような気がした。重さの乗った拳が幾つも幾つも飛び込んで来て、当たった箇所から次々に紅蓮の炎が吹き出す。視野の真ん中に、冥い夜空。いつの間にか、後ろざまに倒れ込んでいたらしい。そういえばいつだったか、流れ星に願い事を唱える話を彼としたことがあったっけ。自分は"流れ星は誰かの魂が召された知らせだ"という話しか知らなかったが、逆にそちらを全く知らなかったところが、屈託のない彼らしいことだと笑ったのを覚えている。
"今の寝言がうまく流れ星に乗りゃあ良いんだが…。"
 そうでなければ、せめてこれだけ。彼だけはいつまでも幸せに、いつもいつも仲間に囲まれて幸せにいてほしいと、ただそれだけを、どうか叶えておくれと、夜空に念じて、
"……………ダメだ…、眠い…。"
 徐々に薄れる意識の端。誰かが自分を呼んだような気がしたが、もうそれを確かめる気力さえ涌かないまま、三刀流の海賊狩り、血に飢えた魔獣とまで呼ばれた男は、静かにその眸を閉じたのであった。








TOPNEXT→***