キミが望めば 月でも星でも
      〜かぐわしきは 君の…

 “腕の中”  



他でもないこの浄土での、更に禊斎
(みそぎ)に用いるような。
そうまで清らかな泉であるにもかかわらず、
険しい奇岩に取り囲まれているせいで、
底が見通せぬほどの瑠璃の濃色をたたえる、それは深い深い淵もあれば。
空と同じほどに広々と果てしなくどこまでも連なる若草の海が、
風の軽やかな遊び場になっているような、
幾重にも重なって現れては消える虹たちと、明快な光の満ちる草原もあり。
丹念に刻まれた階
(きざはし)が恐らくは頂上まで延々と続く、
それだけでちょっとした山のような、それは大きな自然岩の楼閣では。
下ってこられた如来や菩薩といった聖人たちが、
擦れ違う格好となる折に、それは品よく腰をかがめ、
双手を合わせての丁寧なご挨拶をして下さり。
見様見真似でイエスも手のひらを合わせる神妙な様子の拙さが、
黒々したお髭さえいっそ可憐に映っての何とも愛らしいと、
居合わせた浄土の人々の皆へ、ほっこりという柔らかい笑みを誘ってやまぬ。

 「まあ、あれがメシア。」
 「もっと荒らぶるお方かと…。」
 「私としては、思っていた通りの…」

神の子という仰々しい肩書や、
先だっての強引な亜空転移という荒業とから連想された、
雄々しくも冴えた印象のする偉丈夫を想起されていた方々が多かったようで。
そんな格好で、多分に噂ばかりが先行していた天乃国のメシアだが、
実際はといえば、線の細い風貌やら、まだまだ若々しく大人しい物腰と来て。
あまりに落差が大きいところが逆にウケたか、
何と愛らしい、何と繊細可憐なと、
うっとり見ほれておいでの皆である気配がひしひしと伝わって来るほど。

 “そうさ、素敵な人でしょう?”

それが我がことのように誇らしくも嬉しい反面、
限りなく玲瓏透徹な希有なる存在、
この“特別な”青年の姿を、
いろいろな人から やたらと覗き見られるのが、
何故だか ちくちくと腹立たしくもある複雑さを感じてしまうブッダ様。
ああそういう気持ちは、醜い煩悩は捨てねばならぬ。
でなければ、この、
たいそう清廉で何事へも真摯な彼には釣り合わぬ。

 「ブッダさん?」
 「ああ、ごめんなさい。疲れましたか?」

居城…は大仰だが、自分の住まいである僧房“瑠璃の宮”は、
城塞のように頑健な、この岩屋の上にあり。
鍛練を積んでいる自分には何てことのない路程だが、
不慣れな彼には辛かったかも知れぬと、
この慈愛の如来様には珍しく、
今 気づいたほどに気もそぞろだったようで。
ああ何だったら
彼だけでも瑞鳥に頼んで運んでもらってもよかったかなと、
細い指を恭しくも掲げ持って先導しつつ、
その内心でかすかに後悔しておれば。

 「いつもこんなに鍛えておいでなのですね。」

やはりやや大変そうな、呼吸を弾ませての言いようではあったけれど、
淡い光をたたえた玻璃の瞳をやんわりたわめ、
何か楽しいことのように訊いて来るイエスであり。

 「あのような おっかない鍛練をいつも積んでおいでなのですか?」
 「ああ、はい。いつもというのではありませんが。」

錫杖での対戦をこなすこともありますよ?
戦うことを否定しているあなたには信じ難きことかも知れませんが、
邪悪頑迷な存在への教化や調伏、
明王だけへ任せて腰が甘くなってはなりませぬゆえ、と、
誇らしくも覇気に満ちて語る彼なのへ。
あああ、何て頼もしいことかと、
荒らぶる仕儀に背条凍らせ、恐れ慄いたのはどこのどなたか、
今はもううっとりと陶酔の眼差しでいらっしゃる、
ヨシュア様の現金さよ。

 「ショムジョという球技もありますよ。
  あれならば、イエスさんでも怖がらずに参加出来るかも。」
 「あ、怖がってなんかいませんよっ。///////」
 「え? そうでしたか? これは失礼を。」

ぷいとそっぽを向く幼さへ、ブッダは心の奥からの甘いくすぐったさを感じ。
一方で当のイエスはイエスで、何でだろ、つい甘えてしまうのは…と、
お顔をあさってへと背けたのをいいことに、
真っ赤になった頬を何とか静めようと必死になっておいで。
そんな彼らの頭上を さあとよぎった大きな影があり。
雲がかかったにしては、何とも素早い動きで駆け去ったのが尋常ではなく。
何だ何だと二人でお顔を上げたれば、
空の高みからくるりと帰って来た影の主が キケィッと鋭い鳴き声を上げる。

 「あ…。」
 「ああ、怖がらないで。大丈夫、いい子ですから。」

その羽ばたきに広げられた両翼の尋が、
優に10m以上はあろう、
それは大きな、そして優美な、麗しい姿の聖鳥であり。

 「普段は此処へ近寄らないよう言い聞かせているのですが。」

あらゆる生き物から過ぎるほど懐かれておいでの釈迦牟尼様。
だが、端から端までいちいち相手をしていてはキリがないし、
寵を得ようとする小競り合いも起きかねないため、
可哀想だが、それこそ公平にとなるよう、
簡単な結界を張り、近寄れないよう柵の代わりとしてある場所。
それに、この子は人の意志を読めるほど賢い子なので、
簡易な咒なぞ本来ならあっさりと破れるだけの存在だが
何故そんなことをしたブッダかを察してだろう、
大人しく入って来ぬようにしていたのにね。
そうか、日頃ならとうに登り終えているもの、
今日はいつにはなく難儀している様子を見せたので、気になったのだねと。
仄かな苦笑で口許を小さくほころばせたブッダ様。
ちょっと考えてから、おいでという手招きをすれば、
虹色の長い尾から光の粒を撒き散らかしつつ、
従順そうな大人しい着地で彼らの傍らへと降り立った大きな鳥へ、

 「イエスさん、この子に乗ってみませんか?」
 「え?」

実はまだ、これで半分という距離と高さであり、
慣れぬ彼にはキツかろうと判断してのこと、
今日だけ、お客様を運んでくれる?と、
大きな聖鳥の、ヒスイのようなつぶらな瞳へ囁きかければ、
くるるる…と甘い声で喉を鳴らして、
岩屋の上へ身を伏せて、
翼を平らに広げ、さあお乗りという姿勢になってくれる。
それへ さあさあと背中を押しての跨がらせてから、
自分の額へ揃えた人差し指と中指をあてがい、何かしらを念じれば、
ブッダがその身へまとっていた武装具の中、
右腕をおおっていた籠手がするりと変化(へんげ)して、
聖鳥の首回りへゆるく巻きつき、手綱のような装備に変わる。

 「落とされないよう、掴まってるんですよ?」
 「え?え? わあっ!」

ばさばさばさっという軽やかな羽ばたきで、まずは真上へ飛び立った聖鳥を、
朗らかな笑顔で見送ると、
人の背丈より大きな岩をこそ、階段のように軽々と踏みしめ飛び越して、
頂上にある瑠璃の宮をたったかと目指す、
さすが運動神経も人並み以上の釈迦如来様だった。




岩屋の上へそれは泰然と据えられた宮は、
ブッダの性格や好みをよくよく判った作りになっており。
一見、さほど華美な外観でないが、
よくよく凝った装飾が あちこちにさりげなくちりばめられていて、
それに気づいた人へだけ、
かすかな優越感を与えてくれる小癪さがひそんでおり。
大量の書物を保管できる書庫や、
沐浴と水中瞑想のための深い水窟などが備えられ。
身の回りを世話して下さる方々のための
住まい長屋や庫裏などなども揃えられていての、
広々としているが、それをそうと感じさせない、
それは静かで実用優先の、まさに“僧房”という佇まいの宮で。

 「はぁ、凄かった…。」

岩屋の上なはずなのに、瑞々しい緑滴る広々した庭が真ん中にあり、
そこへと、やさしい着地をしてくれた聖鳥の背に
へばりつくようになっていたイエスだったのへ、

 「大丈夫でしたか、イエスさん。」
 「え…?」

確か。穹高く舞い上がる自分たちを
その眼下に居残ったまま見送ってくれた人が。
鍛練用という武装を脱いで、
沐浴もしたものか、螺髪から水の匂いも仄かにたたえ、
柿色の衲衣姿で出迎えのお声を掛けてくれた不思議よ。

 「あ、えと。」

んん?と小首を傾げるブッダへ、
あ、そうだと、まずは訊かれたことへのお返事を紡ぐ。

 「平気でした、はい。
  怖がらせないよう、
  ゆっくりふんわりと浮かんでくれましたし、
  それに私、時々天使に頼んで、
  抱えてもらって空を急ぐこともありますから。」

自分では余程に念を込めねば“身を浮かす”以上の浮遊は無理だが、
それでも慣れはあったことだと、ほわり微笑って告げてから、

 「あのあの、ごめんなさい。」
 「? 何がですか?」
 「ブッダさん お一人だったなら、
  此処への帰宅に、こんなにも時間が掛かりはしなかったのでしょう?」

いきなりやって来て、
しかもそのまま足手まといになってしまってと
体力のない身をひたすら恐縮するイエスなのへ。

 “あ…。”

先に帰っていたブッダだという事実へ手妻のようなと驚かず、
すぐにもそんなところへ察しが届く人だというのが、
甘い熱となってブッダの懐ろを そおとくすぐる。
くるんと大きな双眸を、やわらかにたわめ、

 「そんな言い方はしないでくださいましな。」

  私のほうこそ、
  あなた一人ならこの腕で抱えてだって帰れたところ。
  ですが、それではあまりに無礼かと思い、
  この子へ託すというずぼらをしました。

 「だから、ごめんなさいは私のほうです。」

ふっくらした口許を、サクランボのようにほころばせ、
この子と言って、やさしい御手にて
飾り羽根が愛らしい聖鳥の頭を撫でてやるブッダを見やり、

 “……あ、いいなぁ。////////”

何でかそんな感慨に襲われ、
聞こえていたなら“ちゃんと話を聞いてましたか”と苦笑されそうな
微妙に見当違いなことを思ってしまったイエス様。
当然といや当然ながら、
この頃はまだ、口には出せぬ想いのほうが沢山あって
次々に浮かぶそれらを押し殺すのが、
お互い様で大変だったお二人だったようでございます。





     ◇◇◇



巡り合わせのいいことに、
今日本日は武装鍛練以外のお務めはないブッダだったようで。
それでも この宮へ戻れば戻ったで、
書庫に籠もって思う存分、研究書を貪り読んだり、
地下の水窟の深みに潜って、
冷たい水中での瞑想という行に身をゆだねたりをしかねぬ、
少しでも暇になると修行苦行へ走るのがお好みならしい御主なため。
どんな仕様に入られてもいいようにとの準備を携え、
いつもの如く、やや緊張しつつ ご帰宅をお迎えすれば…。

 『お庭からの失礼を、どうかご容赦くださいまし。//////』

確かに、いくら奇想天外が日常レベルな天界だとはいえ、(おいおい)
唐突にも程がある手段での来訪ではあったが、
それを相殺して余りあるほど神々しいお方がおいでになられ。
しかもしかも、御主、ブッダ様ご自身が
手づからのおもてなしを務めたがる客人の来訪だなんて、
いかな突然のそれであれ、家人の皆様にはいっそ嬉しい突発事態。
それがたとい、人はどうして苦しむのか、という、
いつもの問答で始まった真面目な内容の対話であれ、
型に嵌まった、お行儀のいい応対ではなく、
やや肩から力を抜いておいでの、
それは親しげなお声での会話が聞こえるのも珍しいこと。
なので、これはよほどに大事な客人に違いなしと、
どれほど振りだろかという感嘆に
声を押し殺しつつも嬉々と喜び合ってののち。
御主の顔を潰すまいとの団結も固く、
品のいい甘みの蓮の実の饅頭や、杏子の仁から作った水菓子などを
こそりとながら実は自慢のお庭を望める
一番居心地のいい広間においでの彼らの元へ甲斐甲斐しくも運び入れ。
あとは呼ばれぬ限り そおっと知らぬ顔という、
これも主人の呼吸をようよう心得た構えでの接待態勢を取った瑠璃の宮。
そんな特別級の歓待を受けたとも知らぬ、
御主とそのお客様はといえば。
必要なものだけという、数は少ないが落ち着いた調度に、
板の間へじかに敷いた格好の、座り心地のいい大きな座布団という、
これまた簡素だが、実用には十分居心地のいい居室にて、
何やら滔々と、止めどなく語り合っておいでの模様であり。

 「本当に驚きました、あの四聖諦の論には。」

仏陀が仏教の根本理念として、人生における4つの真理(諦)を説いたもので。
人の生涯に大きな陰を落とす“苦”を説き、その原因を説き、
対処となる悟りへの道とその修行法を説いているのだが。
イデアや概念を徒に 若しくは綿々と振り回すのではなく、
整然精緻に分析解説された論旨の展開は画期的であり、
東洋の哲学や思想は分かりにくいと一蹴して来た西域や欧土の学者らも、
これには舌を巻いて感嘆するばかりだったというのがイエスにもようよう判る。
そして、そんな素晴らしい叡知を持つ人と、
こうしていろいろ語り合える機会を得られたのが、
自分の身のうちの知的直観をくすぐられて、たまらなく心地いい。
論理で浚うのでもなく、かといって感性だけによる印象の羅列でもなく、
いわば超感性でのとしか言いようのないほどに瞬発的な、
なのに的確な理論を負うた確たる見解の応酬を、
こうまで丁々発止と、それも心地のいい品格の中で続けられる人なぞ、
賢人を山ほど集めてもそうはいないだろうにね。


 これは 固定観念からだと、

  そう仰ると思いました。でもね、

 う〜ん、そういうの有りですか?

  えっと、うまく言えないのが自分でも焦れったいのですが、

 ああ、判ります、そういうときはネ?

  あ、それいいですね♪

 いつでも使っちゃあダメですよ?

  ええ〜?

 だって、そう、取っておきなんですから……(笑


お堅い話のはずだったのに、
何故だかオチがついたらしく、
そんな流れと即妙さとへ あははと軽やかに笑い合う。
趣味のいいお香の匂い、ほのかに甘いお茶。
談笑の邪魔にはならない、でも目に瑞々しいお庭の拵え。
窓辺に提げられた更紗の天幕を押さえるチャームが、
ふわり揺れた風を撫でて涼やかな音を立て、
それに誘われて窓へ眸をやれば、
少し陰った空はそろそろ黄昏が近い色合いを示しており。

 「……あ、いけない。」

思わぬ長居をしたことを、天乃国からの客人へと知らしめる。
大きな綿入れから腰を上げ、
貴重なお時間をいっぱい、どうもありがとうございましたと、
覚えたてのご挨拶を、精一杯の礼儀作法として紡ぐ幼子みたいに、
ぎこちなく口にするイエスなのへ、

 「そう、ですか…。」

ああそうですね、あなたもお忙しい身だ、
引き留める理由がないなんてと、残念に思うことこそ我儘ですねと、
ブッダがかすかに沈んだ笑みを口許へ亳く。
だがそこへ、

 「ブッダ様。」

扉のない刳り貫きの戸口の向こうからの声が控えめに掛けられて。
傍づきの家令のそれだったが、
何か用向きがあっても
まだ客人のいる間にこんな風に無作法をするなんて珍しいと、
それで無視も出来ぬと立って行ったブッダが、
イエスの視野の中、戻ってくると雰囲気がやや変わっており。
渡されたものだろう、その手には一枚の書状。
それを愛でるように視線で撫でると、
何故だかそのままイエスへと差し出してくる。

 「??」

何だろおと、それでも受け取り、素直に視線を落とせば、

 《 申し訳ありません、天国の門は今宵門限を迎えてしまいましたので、
   神の御子様には、明日のご帰還をとお伝え願えませんでしょうか。》

丁寧で几帳面な筆記体による綴りようだが、内容はとんでもない一文で。

 「な…っ。////////」

ペトロめ、こんなふざけたものをどうして…と、
とりあえずはブッダへの恥ずかしさから顔が赤くなったイエスだったのへ、

 「何かご事情がお在りのようですね。
  どうでしょう、このままお泊まりになられては。」

そうと薦めるブッダが ちょっぴり愉快そうなお顔だったのは。
決して揶揄するつもりなんかじゃあなく、
イエスと、出先の彼へ恐れもなくこんな書面を寄越した、
恐らくは天国の門の門番との相関が判らぬままながら、
だが…思わぬ僥倖と思しき流れへ心から喜んでおいでだったから。

 「そ、そんなワケにはまいりませんっ。」

それでなくとも、突然の訪問となった不躾なこと。
これ以上の無作法はと言いかかる声へかぶさり、
今度はやや慌てているような足音が駆け込んで来る。

 「し、失礼致します、」
 「? どうしました?」

先程の家令の気の利かせようとは一転して、
今度は若い僧侶が駆け込んで来ての、
とにかく取り急ぎ…というのがありありする所作で、
震えつつその腕を窓へと延ばした彼であり。
何だ何だと、ブッダのみならずイエスもそちらを見やってみれば、

 「…っ☆」
 「あ。」

イトスギや槙など、深い緑を宿した木々や、
イヌツゲやサツキなどやはり常緑の茂みを配した庭のそのすぐ外苑。
高いものではないがそれでも厳然とした塀が巡らされていたその上縁に、
毛並みの美しい獣やら姿の麗しい鳥たちが、
一応は行儀よく大人しく、だが、こちらを甘えるように見やっての佇んでおり。
その数があまりに多いことへ、
不穏を覚えてご注進にと駆け込んで来た彼なのだろう。
そして、

 「そうですか、先程の葵鳥との一部始終を見たのでしょうね。」

困ったように、だが、苦笑するブッダが、
庭の側へと大きく刳り貫かれた窓のほうへ進み出る。
いちいち構えないよとする暗黙のさだめを、
ブッダの側から緩めたのが、あっと言う間に広まったらしく。
それっと集まった彼らがどれほどのこと、
この慈愛の如来様を慕っているのかが忍ばれて。
ああ、素敵な人ですものねと、
これにはイエスも先程のような微かな悋気を感じることもなく、
むしろくすぐったい想いを抱くばかりだったのだが、

 「すみませんね、ちょっとだけ話をして来ますから…」

待ってていただけませんかと、振り返った先、
まだ室内側にいたはずの客人の姿が、残像のみ残して幻のようにさあっと消える。

  …………え?

彼とて聖人、しかも神の子だ、奇跡の術を使えても不思議はないが、
こんな出先で、しかも断りもなく
どんな共鳴が起こるやも判らぬのに
唐突にそれを発動するような不作法な人ではないはずで。
何が起きたかを一瞬把握出来なんだブッダが、だが、

 「…っ。」

わあっという悲鳴のなり損ないが、風にちぎれてはらはらと届いたその欠片。
奥行きのある庭の、その奥向きへと去りゆく気配へ気づくと。
はっと我に返ったそのまま、桟の敷居がえぐれたほどの力込め、
思い切りの跳躍で、その気配の軌跡を追って飛び出している。
視線ではなく、いつぞやイエスを亜空で追った意識追随を働かせ、
そうまでせねば捕まらぬ相手の大きな背中、
逃さず把握しての追跡をする彼で。

 「あれは…っ。」

注進にと飛び込んだまだ若い僧侶がぎょっとしたのへ、
引き返して来たのだろ家令が冷静に応じてのいわく、

 「猩猩
(しょうじょう)です。」

朱雀や水龍、麒麟などという聖獣とは微妙に異なるが、
それでも地上には居なかろう、幻の獣。
狒々
(ひひ)が歳長けた末に化したものとも言われる巨大な猿猴(さる)で、

 「………え?」

優しい時間を文字通り、横殴りに薙ぎ払われて。
イエスの方でも何が起きたかがしばらくほど判らずにいた。
総身をくるむ何かの毛並みと、生暖かい圧迫感と。
時折きゅうきゅうと絞め上げられるのが判り、
だが、そのまま押し潰されることはない加減をされている。
肩より上だけが、はみ出してか風に晒されていて、
途轍もない速さで滑空しているのか、正面を向くと ぐうと息が詰まるほど。
密に茂った木立を力任せに圧し破って突き進む何物かに、
自分はどうやらひと掴みで攫われたらしく。

 「お待ちなさいっ。」

人の力ではそうはなるまい、
樹齢を重ねた大樹が根元からという大きなたわみようをしたがための、
ざざんっっという大波のような木葉擦れの音を立てた中。
凛と張られた声が、この大きな手の持ち主の暴走をあっけなく止めてしまう。

 「悪ふざけが過ぎますよ、その方をお返しなさい。」

少し離れた、やはり大樹の枝の上に
危なげなく立っているブッダなのが目に入る。
あんなに速く翔ったのだ、相当遠くへ離れてしまったはずなのに、
少しも遅れずに追随出来る切り替えと能力はさすがで。
冷静な声といい、凛然とした態度といい、

 “ああ、わたしではとてもではないが…。”

それが大切な人を奪還するためでも、
ただ呆気に取られているしか出来ないなと。
ただの客人をさえ、こうやって守れる彼なのへ、
なんと素晴らしい人かとあらためて賛美するしかなくて。
そんな想いに浸り、現況をぼんやりと見入っていたイエスだったが、

 「ぐ……。」

彼もまた、この心優しい如来様に構ってほしかった存在か。
騒ぎを厭う彼なのを察し、大人しく気配だけを察するしかない自分だというに。
見慣れぬし匂いも異なる何物か、
図々しくも間際に進み出て温かなひとときを織り成すのが妬ましかったか。
だったらそれを取り上げたなら、
それこそ我だけを一心に、追って来てもらえるとでも思うたのだろ。
そんなこんなという、うまく表せぬ想いに歯痒く焦れていたものが、
とうとう勘気を起こしたか、その雄々しい腕をぶんと振り上げたものだから、

 「わ…っ。」

さすがにこの突然の無体は堪えたのだろう、
たなびく髪の陰で、驚嘆からだろ大きく見張られていたイエスの玻璃の双眸が、
眩しげにたわめられたそのまま力なく閉じられる。
総身からも力が抜けて、どうやら意識を失ったらしく、
そんな事態だと素早く察した追っ手の彼の姿が、
不意に…弾けるように光を帯びて。

  《 ようもそのような呵責を、その方に与えましたね……》

灼熱さえ放ってのこと、
生まれたての恒星もかくやとの輝きようを示したのへは。
猩猩のみならず、庭やその区画にいた生き物すべてが怯えての身を縮め。
木々は嘆いて身をよじり、
泉はうねり、風は涙をそそいでしまう。
そうまでの激しい怒りの発露は、
途轍もない強さと勢いで凄まじい意志の奔流をあふれさせ、
ずんと遠くにあった聖人らまでが目を見張り、
何事かと慌てて立ち上がってしまったほどとなり。

 《 こちらへお返しなさい、さあ。》

延べられた手へ、だが、うろたえるばかりの野生の猿猴なのを、
一体どこでどこから見ていたものか、

 「まずはその怒りを静めなさい、シッダールタ。」

落ち着き払った男性の声がした。
視線を向けた先、ほんの間近へ現れた彼の双手が
否応無しという速やかな所作で左右のこめかみへと当てられると、

 「…っ。」

一瞬、強い稲妻のような光が走ってののち、
彼がまとっていた恒光や灼熱がほどけるように消え失せる。

 「梵天さん?」

さすがにこの急変には目眩いでもするものか、
傍らの幹へ手をついて問うブッダが、何とか平生の声なのを確かめると、

 「まずはイエス様を取り戻すのが先でしょうに。」

ようよう練れた大人の落ち着きで、悠然と笑みを浮かべたまま、
その身を向けもしないままでいた巨大な猩猩へちらりと斜に視線を投げれば。

 「…っっ!」

そちらもやっと我に返ったか、手元の獲物を足元へ怖々と置き、
そうまでの巨躯でも怖いものは怖いか、
悪夢から逃げ出すようという風情で、
その場からあっと言う間に逃げ去ってしまった。

 「…っ、イエスさんっ。」

逃げる弾みで枝がたわんだのさえ、彼への障りになりはせぬかと。
他へは目もくれずに駆け寄るブッダへこそ、
微笑ましいことよという苦笑を向けて。
甲斐甲斐しい介抱にかかる彼に後は任せ、
外苑一円に凄まじい圧で振り撒かれた謎の念が為したいろいろの修復へと、
速やかに動くことにした守護神殿だったが。
そんなことさえ、彼には意の外、
自分の膂力にはたいそう軽く、
それがまた頼りなさすぎて不安を招いてならぬ、
繊細で華奢な客人の身を大切に大切に抱えると、
来たのと同様 高い枝を渡って、宮へと駆け戻るブッダであり。

 「ブッダ様っ。」
 「旦那様っ。」

やっと戻った主人の、だが、張り詰めた様子へ、
家人らが不安がるのを、壮年の家令がややもすれば力づくで引き返させて。
静かになった居室の中ほど、
介抱に要るだろうと用意されてあった、厚みのある床へとイエスの身を横たえる。
瞼を伏せたままの彼は、表情を無くすとたいそう辛そうな面差しに見えてならず。
ああそうだ、あのときの
必死でこの腕を払おうともがいた彼を思わせるのだと、
それに気づくと総身が凍える。
コキュートスへ飛び込もうとした彼を引き留められたは重畳だったが、
意志から行動から力づくで無理から押さえ付けられた彼の
悲壮な取り乱しようはいつまでも忘れられなくて。
あの折につけられた傷のどれよりも、
あの慟哭があの瞳こそが思い出されることで胸が痛い。

 「…イエスさん?」

そっと声を掛けたが、そのくらいでは届かぬか。
乱れた髪を整えて、
薄い頬に触れ、額に触れ、それでもひくりとも動かぬ彼で。

 「イエスさん? 聞こえます?」

揺すってはならぬとは思うが、
だがでは…どうしたら届くのだろか。

  あなたを案じるこの想いは。

これが他の場合なら、もう少し落ち着いていたならば、
様子を見るという当たり前の切り替えも出来たろが。
意識の真ん中に彼を据えてしまった今のブッダには、
そんな悠長な選択は出来ぬらしく。

 「イエスさん?
  …イエス、起きてください、聞こえているなら起きて…っ。」

揺すぶり掛けてしまう手を押さえ、せめて届けと声を張る。
それだって本当はいけない刺激かも知れなかったが、
何より安静にした方がいいのだろうが、
そんな基本さえ見えなくなっていて。
早く目を開けて、この声に応じてほしい。
私をその玻璃の瞳へ再び映して、
ちょっぴり恥ずかしそうだった笑みを見せてと。
そればかりを餓えたように求めてのこと、
真摯な声を掛け続けていたブッダであり。

 だから…

くふぅと微かに長い吐息をついた彼が、
口許を震わせ、ゆっくりと瞼を上げたのへは、
どんな苦衷からの解放以上でも敵わぬほどの、
胸が絞り上げられるよな喜悦を感じたし。

 「…ぶっだ、さん?」

力が入らぬか、それでも手を伸ばそうとする彼へは
更なる愛しさが込み上げて仕方がなくて。
ゆらゆらと落ち着かない玻璃の双眸を夢見るように見つめつつ、

 「怖かったでしょう、ごめんなさい。」

あの子も私に甘えたかっただけなのでしょう。
でも、だからといって許せることではありませんと。
後れ毛の落ちる額を頬を撫でつつ紡げば、その手を捕まえられてしまい、
見下ろしたヨシュアが小さくかぶりを振る。

 「いいえ、許さねばなりません。」

あのものの愛に気づいているなら尚更に。
確かに乱暴はいけませんが、と
彼なりの説法が紡がれて。
あっ、と。
ブッダもやっとのこと我に返って、それから

 「……でも、怖かった?」
 「…………………はい。///////」

ほうとついた吐息の震えが、
正直すぎての可愛らしいやら、やはりやはり愛しいやら。
ともあれ、

 「やはり泊まっておゆきなさい。
  いや、そうしてくれなければ困りますよ? イエス。」

まろやかな笑みを浮かべるブッダなのへ、
あややと含羞みのお顔で肩をすぼめたヨシュア様。
この時点では双方ともに気づいてはいなかったけれど、
この日から少しして、
イエスの側からもお友達に敬称をつけなくなるよになり。
以前よりも頻繁に、
…といってももっぱらイエスの方からばかりではあったが、
何かと逢う機会を作っては、
親交をどんどんと深めていった彼らだったのでありました。







    〜Fine〜 13.10.14.〜10.15.


  *わくわく動物ランド in 瑠璃宮。(おいおい)
   仏の顔が尽きたら、
   このくらいは軽々と怖いのではなかろうかと思いまして
   ついでにやってみました。
(こらこら)
   あああ、楽しかったぁvv


              『
不自由な大人・無邪気な天使』 へ


めーるふぉーむvv ご感想はこちらへvv


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