小野寺氏の東北移住と広まりついて
1.【はじめに】
かの小野寺氏研究の大家である深澤多市先生は著書の「小野寺盛衰記」の中で出羽小野寺氏は二系統あったのではないかと考えられています。一つは稲庭にいた一族。もう一方は湯沢、横手を治めた一族。この説は小野寺氏が広大な領地を治める事が出来ない、また、多数存在する小野寺系図から出来たものと考えられます。しかし、わたくしは深澤先生の考えをさらに発展させ出羽小野寺氏は三系統あったのではないかと言う考えに至りました。もっと遡れば出羽小野寺氏三系統はいずれも宮城から入ってきたのではと言う考えです。宮城県登米市は小野寺氏に関係する史跡が多く、現在小野寺姓を名乗る方も多くいらっしゃいます。寺池城は小野寺氏の城と言う記録も残っており、龍源寺にはこの地方を治めた小野寺氏の系図も残されています。旧中田町には新田小野寺氏もおり、ここ一帯が小野寺氏繁栄の前線基地であったと考えるのです。のちにこの一族が伊勢・阿波・山形・岩手・秋田・福島などに一族を輩出し多くの小野寺氏の源になったと思われます。山形出身のわたしの先祖も古くは宮城と伝わっており、この系統に属すると考えてます。(2005.9.30掲載)
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| 初夏の下野小野寺(栃木県下都賀郡岩舟町) |
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2.【小野寺氏の東北移住と庶流】
さて、小野寺氏の東北下向に関してですが、下野小野寺→陸奥登米→出羽稲庭の順が正しいようです。ただ先述のように登米が小野寺氏繁栄の中心地で多くの一族は当地に残り、またその一部が出羽へ移住、土着したようです。なので出羽への下向はすべて登米あるいは宮城地方を経由してからと考えます。
登米は二代目小野寺道綱の奥州征伐従軍により賜ったものと伝わります。出羽はこれより少し後に恩賞として賜ったもの、あるいは遠方であったため小野寺氏の直接統治が遅れたのかもしれません。登米の新田には早い時期に小野寺庶流の小野寺(新田)重房や加賀野(河原毛)太郎が下向し居を構えました。これらは三代秀道の兄弟あるいは子であったかも知れません。
これらの庶流の人物が小野寺領地の開発に寄与したもの考えられます。
(2005.10.6掲載)
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| 登米大橋と北上川の雄大な流れ(宮城県登米市) |
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3.【小野寺惣領の登米移住】
小野寺嫡流と登米の関係について述べれば、明確な史料は残ってませんが、先述のように、鎌倉時代初期に庶流の新田氏、加賀野氏などに領地を与え、また惣領の領地(登米寺池など)には、やはり庶流の代官を派遣し間接的に支配していたものと想像されます。惣領家の登米入植に関しては、鎌倉時代の終わり頃に小野寺彦次郎入道道享という人物がおります。嘉暦二年(1327)平泉関山中尊寺の衆徒が陸奥国衙並びに鎌倉奉行所に上りて、諸堂朽壊の状を訴え、修造の資金を賜わんことを懇請する。このことが小野寺彦次郎と奥州沼倉村(現栗駒町)の豪族、沼倉隆経に命ぜられ、両人は協力して検見を成し遂げたとあります。また、この時期、安房国鋸山羅漢寺(日本寺)の洪鐘名に「下野州佐野庄堀米郷瑞龍山天応禅寺住持沙門大朴淳大檀那中務丞藤原通義(1321)」とあり小野寺彦次郎と小野寺道義は同一人物ではないかとの見解が示されています。小野寺氏と沼倉氏にこの平泉の調査依頼があったのは、幕府の有力御家人で本領がともに平泉と近かったからと考えられます。小野寺道義(彦次郎)は下野の小野寺所領を八郎系(3代目秀道の八男の家系)に任せて陸奥下向。そのまま登米に土着した可能性もあります。これは前述の史料が正しければ1321年から1327年頃のことと推測されます。
(2005.10.18掲載)
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藤原(小野寺)道義の名がある
日本寺の鐘(千葉県安房郡鋸南町) |
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4.【南北朝の登米小野寺氏】
その後の登米小野寺氏嫡流について述べれば、資料的なものは残されていませんが、寺池にあって引き続き登米地方の支配をしていたものと想像されます。この時期には小野寺太郎なる人物がおり、1333年に駿河国重須で行われた日蓮宗の日興上人の葬儀に参列してます。この葬送には新田小野寺日目(日目上人)をはじめとする新田一族も参列していることから、小野寺太郎は登米の小野寺氏で「太郎」という呼称から惣領の立場にあった人物と考えられます。
さて、鎌倉時代の終焉、室町時代の南北朝を迎え、小野寺氏が尤も影響を受けたのは、石巻の葛西氏です。鎌倉時代より奥州惣奉行としてその名を轟かせ、東北においても格別な存在でありました。南北朝時代この地域は北畠氏が多賀城に入り南朝の最前基地としての役割を果たしました。北畠氏が多賀城に入ったこと、また葛西氏、南部氏など有力武家が南朝方に加わったことを受けて、俄然南朝方の士気が高まり、登米小野寺氏も南朝方に加勢しました。この南朝小野寺氏を代表する人物として、小野寺八郎蔵人がいます。宮城出身と伝わり、各地を転戦。四国に渡り、阿波小野寺氏の祖となった人物です。宮城と書いてあるだけで、詳しい出身は記されていませんが、おそらく登米地方から南朝軍に加勢したと考えられます。また八郎という通称から、三代目秀道の八男の流れと考えられます。それと北畠氏に仕えた伊勢小野寺氏もこの流れに近い存在と考えられます。(2005.10.22掲載)
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寺池城址
(宮城県登米市登米町寺池) |
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5.【室町中期の登米小野寺氏】
満済准后日記(1427)に「奥小野寺上洛仕。御馬数疋進上。珍重珍重。」とあり、小野寺氏が馬を献じた記載が見られます。この「奥」に就いては「陸奥説」「出羽説」の二説があり、見解が分かれるところであります。陸奥であれば登米の小野寺氏であり、出羽と解すれば出羽小野寺氏であります。登米小野寺氏の隣接する地域で加賀野小野寺氏が治めた加賀野には河原毛という地名が残されており、文字が示すように馬産地であったこと伝わっています。しかし「奥」は広義で「陸奥」と「出羽」両国をさす場合に用いられたこと、また1430年には小野寺遠江守が将軍家に馬を献じており、この遠江守は出羽の人物と想像できることから「満済准后日記」の記載は出羽小野寺氏に関するものだと思われます。
その後の登米小野寺氏の動向はわかりませんが、小野寺氏は寺池に居を構え、一領主として登米地方を支配していたと考えられます。三迫では南朝北朝の両軍が激しい合戦があり、小野寺領は大崎氏、葛西氏の両雄の狭間にあって土地も民も疲弊していたと考えられます。一説に葛西氏は水軍を支配していたと言い、北上川の流域にあたる登米は大崎氏と対峙する重要な拠点であったと考えられます。葛西氏は石巻から登米の進出を企図。これにあたり小野寺氏惣領家は寺池城を明け渡し、その代わり客将として破格の扱いを受けたと伝わります。(2005.10.26掲載)
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寺池城址
(宮城県登米市登米町寺池) |
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6.【戦国時代の登米小野寺氏】
葛西家内での登米小野寺氏の地位を示す史料は「平家奉賀帳」(大永年間1520年頃)です。その中には小野寺上野守道俊、小野寺甲斐守道成、不動丸などが記され、彼らは小野寺氏の惣領家一族のように思われます。ただ、残念なことにこの地域に散在する小野寺氏の系図にはその名が見られません。この「平家奉加帳」の記載から小野寺氏惣領家は葛西氏の麾下にいたこと。また藤原氏出身の小野寺氏が他の葛西系平氏を差し置いて、上位に記されていることから先述した客将並みの待遇を受けていたことが窺えます。葛西氏が登米に入植するにあたり、小野寺氏を配下に据え置くことにより、民を支配しやすいと考えたのではないでしょうか。こののち登米小野寺氏は一関(岩手県一関市)賜ったとも、またあるいは石越(登米市石越)に移住したとも伝わります。これにともない多くの一族は離散したものと想像できます。これらの領地替えが現在の小野寺氏の東北地方繁栄に繋がっていると考えられます。(2005.11.2掲載)
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旧登米小学校
(宮城県登米市登米町寺池) |
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7.【登米小野寺氏と庶流1】
登米地方の庶流に就いて述べれば先述の新田氏、加賀野(河原毛)氏、で新田氏は日蓮宗の高僧日目上人を輩出した。伊豆国田方郡にも所領を持っていたことから、移住した一族もいたようですが、新田に残った一族として、「平家奉加帳」の新田行盛、蔵松丸がいます。さらにこの別れとして登米氏がいます。記録に残されているのは登米行賢で、彼は血気盛んな人物だったようで、葛西氏を滅ぼそうとし、縁戚の山内首藤(桃生)氏と与み、永正八年(1511年)と九年に葛西氏を攻撃し敗退。同十二年には逆に葛西氏の先頭となって山内首藤氏を敗亡に追い込みました。
また、加賀野氏は最初、河原毛(登米市加賀野河原毛)を領し河原毛氏を称しました。のちに加賀野に改姓、最終的には飯塚と称しました。こちらも新田氏と同様日蓮宗に帰依し、僧を輩出してます。飯塚氏からは石森(登米市中田町石森)に分家を出し石森氏を称してます。石森氏の居城は現在の笠原城と考えられます。古伝に「猪塚修理」なるものがいたとされているので、「猪塚」は「飯塚」を指しているのでしょう。
余談ですが、「仮面ライダー」や「サイボーグ007」などを執筆した、かの有名な漫画家石ノ森章太郎氏の本名は「小野寺章太郎」で登米市石森で生まれました。このためペンネームを「石ノ森章太郎」としたとあります。
さてさて話は戻って石森氏に近い存在として石森の二ツ木城主である二ツ木氏がいます。またこの隣接の小塚城の小塚氏も二ツ木氏と組んで戦っているので縁戚であったか可能性があります。二ツ木、小塚は石森城(笠原城)を守る重要な拠点であったようです。(2005.11.10掲載)
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=38.42.54.662&el=141.12.49.026&la=1&fi=1&prem=0&sc=3
(登米市中田町石森。右上を押すと二ツ木。二ツ木から右で小塚)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/nazo-3.htm
(加賀野氏の謎に迫る)
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石ノ森章太郎ふるさと記念館
仮面ライダーと愚息(維丸と惟丸)たち
(宮城県登米市中田町石森) |
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8.【登米小野寺氏と庶流2】
その他には畑崎氏(登米市米山町桜岡畑崎)、西野氏(登米市米山町西野)、などが小野寺氏庶流と推測されます。
登米市は現在、中央に迫川が流れていますが、中世頃は旧迫川が本流で地続きであったものと考えられます。現在の登米市の西側は小野寺氏が支配したものと想像されます。
西野氏は登米市米山町西野の西野館の館主で古くは「田原藤太(藤原秀郷)が居城」と伝わってます。「葛西氏家臣団辞典」にも「西野氏は藤姓か」との記述があり、小野寺氏との関連が想像できます。「石畑小野寺氏系図」にも小野寺氏から西野家に嫁入りするなど間接的な関係も窺えます。
畑崎氏は登米市米山町の畑崎館の館主で「葛西奉賀帳」に「玄蕃」「行忠」「行業」の名が見え藤原姓であることがわかります。新田小野寺氏の前に掲載されていることや、「行」の通字から小野寺氏の流を汲む一族と考えられます。また畑崎氏は後世移住し桃生町永井の永井館主となったと伝わります。
小野寺氏は領内に登米本城の押さえとして、新田、加賀野、飯塚、石森、二ツ木、登米、西野、畑崎など多くの庶族に土地を分与し広まっていったと考えます。
(2005.11.17掲載)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/komonjyo3.htm
(葛西奉賀帳)
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畑崎付近
(登米市米山町桜岡畑崎) |
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9【登米小野寺氏と庶流3】
奥州四本松の石橋氏の四家老に小野寺久光が居たとあります。石橋氏は別称塩松氏とも呼ばれ、福島県岩代町を治めた南奥州の名族です。石橋氏の先祖を遡れば源姓足利氏で、南北朝の折り北朝足利方の武士として奥州多賀城に下向しました。のちに四本松(塩松、福島県安達郡岩代町)に移住。戦国の末、家臣の大内氏の反逆に遭うまで当地の領主として君臨しました。
落城後、小野寺久光は佐竹氏に仕えたと伝わっていますが確認がとれません。
この家臣である小野寺久光の先祖も宮城県北部地域から主家の移住に伴い同行した小野寺氏と考えられます。
さて、話は少し飛んで江戸時代になりますが、三春藩主秋田氏(福島県三春町)の家臣で小野寺氏が居ります。秋田氏はもともと出羽国の名族で、戦国時代に出羽小野寺氏と何度も合戦を交えています。秋田家の家臣に小野寺氏が居るというのは、系統は違いますが小野寺と秋田氏の因縁と言うべきでしょうか。
この三春小野寺氏の出自は、宗家では伊勢が本国で関ヶ原の折り伊勢安濃津城に籠城した蔵田(二階堂)行充と伝わっています。また江戸時代の末、三春小野寺氏の分家、小野寺順司の家系は源氏。小野寺慵斎の家では北畠氏と伝わっており、先祖は皆同じはずでありながら各々の家に正しく伝わっていないようであります。
(2006.2.2掲載)
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三春城本丸跡
(福島県田村郡三春町) |
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10【登米小野寺氏と庶流4】
この伊勢国を本国とした背景には、赤穂浪士と呼ばれた小野寺十内秀和の家が影響しているのではないかと考えます。十内の家は伊勢小野寺氏で、この一族は伊勢津城に籠城して、西軍からの攻撃を防いだとあります。赤穂藩浅野家は甲斐国→真壁→笠間→赤穂。秋田家は土崎湊→宍戸→三春と転封しています。浅野家の真壁藩(茨城県真壁町)時代は1606〜1622年。笠間藩(茨城県笠間市)時代は1622〜1645年。一方、秋田家の宍戸藩(茨城県友部町)時代は1602〜1645年。ともにほぼ常陸国で過ごした期間は重複します。ただ三春小野寺氏は1643年に浪人となって、宍戸藩秋田家に仕官しているのでわずか1年強の間ではありますが宍戸藩、笠間藩ともに隣接する同姓の武士として交流があり、系図の情報交換が行われたかも知れません。
三春藩小野寺氏の始祖とされる小野寺重忠は会津藩の分家、三春藩主加藤明利に仕えた後、明利の死により浪人となりましたが、秋田家が宍戸藩(茨城県友部町)時代に小野寺重忠を呼び寄せ仕官させました。重忠の仕官の背景には、秋田家の三春転封が内々に確定しており、加藤家時代に三春を治めた重忠の手腕を見込んでのことと想像できます。重忠以前の動向は不明でありますが、もともとこの地域に縁があった小野寺氏ではないでしょうか。あるいは石橋家の家臣小野寺久光の一族でなかったかと考えます。
(2006.2.9掲載)
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三春城遠景
(福島県田村郡三春町) |
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11【奥羽永慶軍記を糺す?】
さて、話は出羽小野寺氏へと遷ります。
奥羽永慶軍記は東北地方の戦国史を研究する上で避けて通れない軍記物語です。
殊に小野寺氏に関しましては多くの記載がなされてます。「小野寺中宮助討るるの事」に「下総国古河城主小野寺前司太郎道綱は(中略)その四男四郎重道、・・・」とあります。「下総国古河城主」の古河城主は誤りでありますが、戸部正直が軍記を書いた江戸時代、小野寺氏発祥の地は古河藩の支配下におかれていました。それゆえ「下総国古河」という表現があらわれたものと想像できます。古河と言えば小野寺義道の従兄弟に当たる鮭延(佐々木)愛綱は、最上家の改易により古河藩土井家に預けられました。義道は配流の津和野で、最上家改易の報を聞き、鮭延の行方が掴めず、母の実家である佐々木の名が途絶えてしまうのに憂慮し、出羽に残してきた次男に佐々木の姓を継ぐよう書状を送っています。現在古河市には鮭延寺が残されています。ともに運命的なものを感じざるを得ません。
(2006.3.20掲載)
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雪の稲庭城
(秋田県湯沢市稲庭) |
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12【出羽小野寺氏二系統説】
1のおさらいになりますが、小野寺氏研究家の大家である深澤多市先生は、小野寺氏二系統説を唱えられました。一つは稲庭を治めた一族。もう一つは湯沢・横手を治めた一族です。深澤氏は前者を経道。後者を重道とし、二系統説を掲げています。
奥羽永慶軍記では、「小野寺遠江守義道流罪並先祖の事」には小野寺四郎重道がキツネを助け、出羽を賜った伝説が書いてあり、重道が最初に出羽に入植した小野寺氏とのスタンスをとっています。また同項目には「小野寺の一族に同国(出羽国)大泉の庄司六郎経道が末葉・・・」とあり、戸部正直も重道と経道を別系と考えていたようです。
出羽小野寺氏の始祖は果たしてどちらなのか、一方は実在で一方は虚像か、あるいは両方とも実在したのか、それともどちらも虚像か。広大な雄勝、平鹿、仙北の三郡を支配するには、小野寺一族の協力が必要だったはずです。わたくしは出羽小野寺氏は三系統あったのではないかと推測します。
(2006.6.19掲載)
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稲庭城天守閣からの眺望
(秋田県湯沢市稲庭) |
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13.【二系統は?】
貞和5年(1349)12月29日の「陸奥国先達檀那系図注文」に「出羽国山北山本郡いなにハ殿、かわつら殿、此人々ハ大弐殿先達申し候、常陸法眼房弟子の大弐房にて候、」とあります。
「いなにハ」は「稲庭」。「かわつら」は「川連」で両者は小野寺氏を示し、小野寺氏の雄勝郡支配をあらわす外部の初見史料として認識されています。二代目小野寺道綱の死より約130年後の1349年には既に小野寺氏は出羽国仙北地方を治めていたこと、二系統あったことが判かります。また、この二家はこの文書よりだいぶ前に当地へ入植したものと推測されます。文書が出された頃には地域を完全に掌握し、熊野を信仰する余裕もあったのでしょう。この稲庭氏と川連氏が出羽小野寺氏の二系統です。(2006.9.14掲載)
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雪解け水を運ぶ皆瀬川
(秋田県湯沢市稲庭) |
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14.【経道系稲庭小野寺氏】
出羽に最初に入植したとされる小野寺経道は、三代秀道の六男であると考えられます。多くの書物に鎌倉時代中期に出羽大泉(山形県鶴岡市)に入り大泉六郎と称し、のちに出羽雄勝に入植したと書かれています。ただこの頃出羽大泉には武藤氏(のちの大宝寺氏)がいたので、経道が出羽大泉に入り「大泉六郎」と称する余地はなかったと考えます。ここで言う「大泉」は陸奥国登米の大泉(宮城県登米市登米町大泉)を指しのではないでしょうか。陸奥大泉は先述の登米小野寺氏の領内にあります。経道はこの地に大泉城を築いたと考えます。現在も大泉地区には小野寺姓の家が多数あり、また近隣の岩手県日形村の小野寺氏系図には始祖として経道の名が書かれています。あるいはこの家系は経道やその一族が陸奥大泉滞在中に当地に根付いた子孫たちかも知れません。
大泉と経道の関係を示す直接的な史料は存在しませんが、「大泉」のキーワードから判断すると経道は下野より陸奥大泉に下向、のちに出羽雄勝の稲庭に入り稲庭氏を称したと考えます。これが出羽小野寺氏三系統説のうちの一系統になります。 (2006.9.30掲載)
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大泉城跡
(宮城県登米市登米町大泉) |
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15.【重道系川連小野寺氏】
つぎに小野寺重道です。この人物も出羽小野寺氏の始祖とされています。奥羽永慶軍記には小野寺道綱の四男「弥四郎重道」として登場します。稲川町史にもこの人物が始祖であるという旨が書かれていたのですが、当初わたしはこの人物は実在の可能性が低いのでは?と考えていました。しかし、先日稲庭川連訪問の際に町並みをに触れ、実在の人物である可能性を感じてきました。当地は川連漆器の名産で知られていますが、漆塗りは小野寺重道の弟道矩が始めたという伝承が根強く残されているのです。それに加えて宮城県栗駒郡(現栗原市)に残された「小野寺弥四郎」の記録です。
この「小野寺弥四郎」の記録は安永風土記に残されているもので、宮城県栗駒郡金成町の普賢堂城に「小野寺弥四郎」がいたとのことです。諱といつの時代の人物かは特定できません。もしこの人物が「弥四郎重道」であるとすれば、重道の足跡が見えてきます。重道はおそらく三代秀道の四男「四郎道時」の子で、「弥四郎」と称したのではないでしょうか。重道は庶流であったため領地を東北に与えられ下野国から陸奥国へ下向。さらに山を越えて出羽国雄勝に移住したものと考えます。先の小野寺経道と重道は叔父と甥の関係になります。経道は稲庭に入ったのに対して、重道は川連にはいり川連氏を称したと考えます。川連氏関連の史料を申しあげれば、先述の1349年の文書の他に、1379年に「かハつらのいやし郎」の名が記された熊野関連の古文書が残されてます。川連氏の嫡流は代々「弥四郎」を称したようです。ここでも下野−陸奥−出羽のラインが完成されます。この川連氏が出羽小野寺氏の二系統目です。(2006.11.9掲載)
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「川連こけし」表情が愛らしいです。
川連に住む小野寺さんの作品です。 |
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16.【出羽小野寺氏嫡流】
最後の一系統は、登米から入ってきた小野寺氏本家筋の一族で、長兄は登米にあって嫡流を守り、弟は出羽の領地を与えられ移住したと考えられます。この弟の流が出羽小野寺氏で関ヶ原の戦いで改易になった小野寺義道の直系の先祖になると考えられます。
この出羽小野寺氏は室町時代初期に支配権が確認できるので、移住は鎌倉末期頃には完了していたと考えられます。鎌倉中期にあらかじめ稲庭、川連両氏が雄勝郡の地頭代として支配を確立していたので出羽小野寺氏の入植、その後の雄勝郡支配は容易であったと考えられます。
南北朝期において出羽小野寺氏は北朝に与し、将軍家より京都御扶持衆(実質的な守護大名)としての地位を得ます。時には京に在りて醍醐寺三宝院や将軍家に貢馬や貢ぎ物をし友好関係を築き、本領や恩賞で賜った丹後国倉橋郷の支配権の安堵を得る。また稲庭氏、川連氏は雄勝に残り、出羽小野寺氏の留守中には代官として隣国の情勢や領土の保全、領民の支配に専念する。雄勝帰ると、三家は活動をともにし、ときには兵を率い、またときには京都御扶持衆の地位を誇示して近隣の小中勢力を懐柔し被官化とたものと考えられます。この三系統の小野寺氏の協力体制がのちに「雄勝・平鹿・仙北」の三郡を支配に至ったと伝わる小野寺領地の拡大路線を押し進めたと考えます。(2007.4.3掲載)
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サクラ咲く横手城
(秋田県横手市城山町) |
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17.【奥羽小野寺氏系図】
小野寺義寛─秀道┬道業(長男)─行道┬道義─肥後守…【登米小野寺氏】
│ └道景─道親… 【出羽小野寺氏】
├道時(四男)─重道… 【川連小野寺氏】
└経道(六男)… 【稲庭小野寺氏】
各一族の概略をまとめれば以下の通り。
【登米小野寺氏】
保呂羽城主(宮城県登米市寺池道場)。小野寺氏の嫡流で下野小野寺より下向。南朝を支持。
北畠顕家差出し小野寺肥後守宛の文書あり、
1500年代初頭に葛西氏の登米入植により城を譲り、寺池城倉庫番役を務めたのち、石越町や一関(岩手)に移住したと伝わる。
【出羽小野寺氏】
登米小野寺氏の分流。稲庭氏、川連氏が先に入植していた出羽雄勝領に鎌倉時代末期に入植する。北朝を支持。足利将軍家関係の文書あり、京都御扶持衆となり、雄仙平の三郡を支配し戦国大名の道を歩む。関ヶ原の戦いにおいて改易となる。
【川連小野寺氏】
下野−金成(宮城県栗原市)−雄勝郡川連へ下向。
【稲庭小野寺氏】
下野−大泉(宮城県登米市中田町)−雄勝郡稲庭へ下向。
(2007.4.6掲載)
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霧に煙る保呂羽城跡
登米小野寺氏の居城
(宮城県登米市寺池道場) |
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18.【保呂羽信仰と出羽小野寺氏】
出羽小野寺氏の領内に「保呂羽山」があり、その山頂に「波宇志別神社」(秋田県横手市大森町八木沢)が存在します。小野寺氏はこの神社を厚く信仰しました。両者の親密な関係を示しているものとして、天正年中小野寺氏は「波宇志別神社」に五百石を付与しています。またこれに対し「波宇志別神社」の保呂羽衆徒は度々小野寺氏出陣の際に多数が参加しています。
「保呂羽」という言葉についてですが、アイヌ語で「大きな霊山」を意味すると言われています。保呂羽山も道中険しく途中、鎖場(鎖を伝って山を登る)が現れ、修験者の修行の場であった事が想像されます。「保呂羽」という地名はアイヌ語を語源とするだけあって東北地方に多く存在します。
「保呂」をキーワードとして地名を調べてみると、現在残っているのは15カ所です。そのうち10カ所が東北地方にあります。
同義語の「母衣」は9カ所。そのうち東北は6カ所。
「幌」は圧倒的に北海道で、東北に3カ所だけあります。
その他「法領」「宝領」「法量」「宝量」「法呂」なども「保呂」に関係があると考えられます。
「保呂」が確認できる最西端に「与保呂」があります。この地は京都府舞鶴市にあり、山間の土地です。ここから出づる川は「与保呂川」と名づけられ10キロほど経て舞鶴東港へと流れ込みます。
さて、この「与保呂」ですが、じつは出羽小野寺氏が室町幕府に恩賞として賜り地頭として任命された丹後国倉橋郷の一部とされています。「保呂」という言葉を通して繋がるのは単なる偶然でしょうか?
(2007.4.6)
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保呂羽山波宇志別神社本殿
(秋田県横手市大森町八木沢) |
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