小野寺氏概説





【小野寺二代目、道綱の墓】
小野寺道綱の墓
左後方に見える、コンクリートの壁は東北自動車道。
ジャンクション建設の予定地に含まれ、
近々工事が始まるという。
行く末が案じられる・・・。
平成15年12月、
県内の方の善意により道綱の墓がこんなに立派になりました。
雨風をしのげ、道綱公もさぞかしお喜びのことと察せられます。
感謝感謝。
平成18年11月、
高速道路の側道建設のため立ち入り禁止になってしまいました。
中央に見える黒い影がお墓です。
道はお墓に向かって真っ直ぐ延びているので、
立ち退きは必至のように思えますが・・・・。


岩舟町に確認致しましたところ、
お墓はこのままで移設はないとのご回答をいただきました。
ホッと一安心。







【小野寺氏とその一族】


古くは「大化改新」中臣鎌足。武家の台頭の契機となった「源平合戦」宇治川先陣争いに登場する小野寺道綱。鎌倉幕府が衰退する中、「日蓮宗」大石寺第三世となった日目上人。日本を二分した「関ヶ原合戦」で、西軍に荷担したとされ改易された小野寺義道。松の廊下事件で切腹した主の仇を討った「赤穂浪士」小野寺重内秀和明治維新への流れを加速させた「桜田門外の変」に関係し自刃した小野寺慵齋。「日米開戦不可ナリ」と「太平洋戦争」開戦に強固に反対した小野寺信。また「戦後初の首相」となり、敗戦の処理に追われた鈴木貫太郎(母が小野寺氏)。
その血は脈々と受け継がれ、歴史の裏方として節目節目にその蔭を残した。






【小野寺の地名と由来、そして小野寺氏】


下野国都賀郡小野寺の名称は、元来「小野」という名の地に
大慈寺が建立され「小野寺」となったと伝わる。平安時代の末、京都で滝口の武士を勤めていた藤原義寛が源為義に従い
坂東の地を転戦、その恩賞として小野寺の地を賜ったという。
現在、全国各地に広がる小野寺氏は皆この流れと伝わる。






【小野寺の通字】

二代目「道綱」をはじめとして広く小野寺氏は「道」もしくは、「通」の字をその諱に用いた。吾妻鏡では「道綱」、「通綱」の両方が使われているが、ここでは、『住林寺本尊胎内銘』に記されている「道綱」を真として「道」にすべて統一し用いた。






小野寺氏分布図





小野寺氏の分類
分類 時代 説明
鎌倉小野寺氏 鎌倉 始祖義寛を祖とし、御家人として鎌倉幕府に仕えた一族。
新田小野寺氏 鎌倉〜室町 二代目道綱が勲功により賜った奥州新田(宮城県)の地に入った一族。
出羽小野寺氏 室町〜戦国 将軍足利家に仕え京都御扶持衆となり、下野より出羽に入り戦国大名化した一族。
下野小野寺氏 室町〜江戸 始祖義寛が与えられた土地(栃木県下都賀郡)に留まった一族
仙北小野寺氏 鎌倉〜江戸 経道を初代とし、仙北地方(秋田県南部)を中心に、関ヶ原の戦いまで戦国大名として末代小野寺義道まで連綿した一族
伊勢小野寺氏 南北朝〜     南北朝時代、南朝北畠氏に仕え、西へ上っていったと見られる一族
阿波小野寺氏 南北朝〜    南北朝時代、阿波国朽木庄を領した八郎蔵人を祖とする一族。
奥州小野寺氏 鎌倉〜   鎌倉小野寺氏の移住。新田小野寺氏の一族、また、仙北より山を越えて宮城・岩手に土着したと見られる一族
近世の小野寺氏 江戸〜   江戸期に全国諸家の大名に仕えた一族
その他小野寺氏   伝承・出自不明・他家の系図に見える一族


騎将

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