ここでは、目の前に大きく立ちはだかる壁と言うべき存在、難関たる「奥州小野寺氏」に入る前哨として「小野寺私考」と称し、管理人が小野寺氏を調査していくうちに、気づいたこと感じたことをまとめ上げた私的見解を紹介します。拙掲示版に随時掲載されましたものを誤字脱字の訂正。あるいは文章の不具合に手を加えたため、一部オリジナル版と異なる部分がありますがご了承ください。





小野寺氏の東北移住と広まりついて




1.【はじめに】

かの小野寺氏研究の大家である深澤多市先生は著書の「小野寺盛衰記」の中で出羽小野寺氏は二系統あったのではないかと考えられています。一つは稲庭にいた一族。もう一方は湯沢、横手を治めた一族。この説は小野寺氏が広大な領地を治める事が出来ない、また、多数存在する小野寺系図から出来たものと考えられます。しかし、わたくしは深澤先生の考えをさらに発展させ出羽小野寺氏は三系統あったのではないかと言う考えに至りました。もっと遡れば出羽小野寺氏三系統はいずれも宮城から入ってきたのではと言う考えです。宮城県登米市は小野寺氏に関係する史跡が多く、現在小野寺姓を名乗る方も多くいらっしゃいます。寺池城は小野寺氏の城と言う記録も残っており、龍源寺にはこの地方を治めた小野寺氏の系図も残されています。旧中田町には新田小野寺氏もおり、ここ一帯が小野寺氏繁栄の前線基地であったと考えるのです。のちにこの一族が伊勢・阿波・山形・岩手・秋田・福島などに一族を輩出し多くの小野寺氏の源になったと思われます。山形出身のわたしの先祖も古くは宮城と伝わっており、この系統に属すると考えてます。(2005.9.30掲載)
初夏の下野小野寺(栃木県下都賀郡岩舟町)



2.【小野寺氏の東北移住と庶流】

さて、小野寺氏の東北下向に関してですが、下野小野寺→陸奥登米→出羽稲庭の順が正しいようです。ただ先述のように登米が小野寺氏繁栄の中心地で多くの一族は当地に残り、またその一部が出羽へ移住、土着したようです。なので出羽への下向はすべて登米あるいは宮城地方を経由してからと考えます。
 登米は二代目小野寺道綱の奥州征伐従軍により賜ったものと伝わります。出羽はこれより少し後に恩賞として賜ったもの、あるいは遠方であったため小野寺氏の直接統治が遅れたのかもしれません。登米の新田には早い時期に小野寺庶流の小野寺(新田)重房や加賀野(河原毛)太郎が下向し居を構えました。これらは三代秀道の兄弟あるいは子であったかも知れません。
これらの庶流の人物が小野寺領地の開発に寄与したもの考えられます。
(2005.10.6掲載)

登米大橋と北上川の雄大な流れ(宮城県登米市)



3.【小野寺惣領の登米移住】

小野寺嫡流と登米の関係について述べれば、明確な史料は残ってませんが、先述のように、鎌倉時代初期に庶流の新田氏、加賀野氏などに領地を与え、また惣領の領地(登米寺池など)には、やはり庶流の代官を派遣し間接的に支配していたものと想像されます。惣領家の登米入植に関しては、鎌倉時代の終わり頃に小野寺彦次郎入道道享という人物がおります。嘉暦二年(1327)平泉関山中尊寺の衆徒が陸奥国衙並びに鎌倉奉行所に上りて、諸堂朽壊の状を訴え、修造の資金を賜わんことを懇請する。このことが小野寺彦次郎と奥州沼倉村(現栗駒町)の豪族、沼倉隆経に命ぜられ、両人は協力して検見を成し遂げたとあります。また、この時期、安房国鋸山羅漢寺(日本寺)の洪鐘名に「下野州佐野庄堀米郷瑞龍山天応禅寺住持沙門大朴淳大檀那中務丞藤原通義(1321)」とあり小野寺彦次郎と小野寺道義は同一人物ではないかとの見解が示されています。小野寺氏と沼倉氏にこの平泉の調査依頼があったのは、幕府の有力御家人で本領がともに平泉と近かったからと考えられます。小野寺道義(彦次郎)は下野の小野寺所領を八郎系(3代目秀道の八男の家系)に任せて陸奥下向。そのまま登米に土着した可能性もあります。これは前述の史料が正しければ1321年から1327年頃のことと推測されます。
(2005.10.18掲載)

藤原(小野寺)道義の名がある
日本寺の鐘(千葉県安房郡鋸南町)



4.【南北朝の登米小野寺氏】

その後の登米小野寺氏嫡流について述べれば、資料的なものは残されていませんが、寺池にあって引き続き登米地方の支配をしていたものと想像されます。この時期には小野寺太郎なる人物がおり、1333年に駿河国重須で行われた日蓮宗の日興上人の葬儀に参列してます。この葬送には新田小野寺日目(日目上人)をはじめとする新田一族も参列していることから、小野寺太郎は登米の小野寺氏で「太郎」という呼称から惣領の立場にあった人物と考えられます。
 さて、鎌倉時代の終焉、室町時代の南北朝を迎え、小野寺氏が尤も影響を受けたのは、石巻の葛西氏です。鎌倉時代より奥州惣奉行としてその名を轟かせ、東北においても格別な存在でありました。南北朝時代この地域は北畠氏が多賀城に入り南朝の最前基地としての役割を果たしました。北畠氏が多賀城に入ったこと、また葛西氏、南部氏など有力武家が南朝方に加わったことを受けて、俄然南朝方の士気が高まり、登米小野寺氏も南朝方に加勢しました。この南朝小野寺氏を代表する人物として、小野寺八郎蔵人がいます。宮城出身と伝わり、各地を転戦。四国に渡り、阿波小野寺氏の祖となった人物です。宮城と書いてあるだけで、詳しい出身は記されていませんが、おそらく登米地方から南朝軍に加勢したと考えられます。また八郎という通称から、三代目秀道の八男の流れと考えられます。それと北畠氏に仕えた伊勢小野寺氏もこの流れに近い存在と考えられます。(2005.10.22掲載)

寺池城址
(宮城県登米市登米町寺池)



5.【室町中期の登米小野寺氏】

満済准后日記(1427)に「奥小野寺上洛仕。御馬数疋進上。珍重珍重。」とあり、小野寺氏が馬を献じた記載が見られます。この「奥」に就いては「陸奥説」「出羽説」の二説があり、見解が分かれるところであります。陸奥であれば登米の小野寺氏であり、出羽と解すれば出羽小野寺氏であります。登米小野寺氏の隣接する地域で加賀野小野寺氏が治めた加賀野には河原毛という地名が残されており、文字が示すように馬産地であったこと伝わっています。しかし「奥」は広義で「陸奥」と「出羽」両国をさす場合に用いられたこと、また1430年には小野寺遠江守が将軍家に馬を献じており、この遠江守は出羽の人物と想像できることから「満済准后日記」の記載は出羽小野寺氏に関するものだと思われます。
 その後の登米小野寺氏の動向はわかりませんが、小野寺氏は寺池に居を構え、一領主として登米地方を支配していたと考えられます。三迫では南朝北朝の両軍が激しい合戦があり、小野寺領は大崎氏、葛西氏の両雄の狭間にあって土地も民も疲弊していたと考えられます。一説に葛西氏は水軍を支配していたと言い、北上川の流域にあたる登米は大崎氏と対峙する重要な拠点であったと考えられます。葛西氏は石巻から登米の進出を企図。これにあたり小野寺氏惣領家は寺池城を明け渡し、その代わり客将として破格の扱いを受けたと伝わります。(2005.10.26掲載)

寺池城址
(宮城県登米市登米町寺池)



6.【戦国時代の登米小野寺氏】

葛西家内での登米小野寺氏の地位を示す史料は「平家奉賀帳」(大永年間1520年頃)です。その中には小野寺上野守道俊、小野寺甲斐守道成、不動丸などが記され、彼らは小野寺氏の惣領家一族のように思われます。ただ、残念なことにこの地域に散在する小野寺氏の系図にはその名が見られません。この「平家奉加帳」の記載から小野寺氏惣領家は葛西氏の麾下にいたこと。また藤原氏出身の小野寺氏が他の葛西系平氏を差し置いて、上位に記されていることから先述した客将並みの待遇を受けていたことが窺えます。葛西氏が登米に入植するにあたり、小野寺氏を配下に据え置くことにより、民を支配しやすいと考えたのではないでしょうか。こののち登米小野寺氏は一関(岩手県一関市)賜ったとも、またあるいは石越(登米市石越)に移住したとも伝わります。これにともない多くの一族は離散したものと想像できます。これらの領地替えが現在の小野寺氏の東北地方繁栄に繋がっていると考えられます。(2005.11.2掲載)

旧登米小学校
(宮城県登米市登米町寺池)



7.【登米小野寺氏と庶流1】

登米地方の庶流に就いて述べれば先述の新田氏、加賀野(河原毛)氏、で新田氏は日蓮宗の高僧日目上人を輩出した。伊豆国田方郡にも所領を持っていたことから、移住した一族もいたようですが、新田に残った一族として、「平家奉加帳」の新田行盛、蔵松丸がいます。さらにこの別れとして登米氏がいます。記録に残されているのは登米行賢で、彼は血気盛んな人物だったようで、葛西氏を滅ぼそうとし、縁戚の山内首藤(桃生)氏と与み、永正八年(1511年)と九年に葛西氏を攻撃し敗退。同十二年には逆に葛西氏の先頭となって山内首藤氏を敗亡に追い込みました。
また、加賀野氏は最初、河原毛(登米市加賀野河原毛)を領し河原毛氏を称しました。のちに加賀野に改姓、最終的には飯塚と称しました。こちらも新田氏と同様日蓮宗に帰依し、僧を輩出してます。飯塚氏からは石森(登米市中田町石森)に分家を出し石森氏を称してます。石森氏の居城は現在の笠原城と考えられます。古伝に「猪塚修理」なるものがいたとされているので、「猪塚」は「飯塚」を指しているのでしょう。
余談ですが、「仮面ライダー」や「サイボーグ007」などを執筆した、かの有名な漫画家石ノ森章太郎氏の本名は「小野寺章太郎」で登米市石森で生まれました。このためペンネームを「石ノ森章太郎」としたとあります。
さてさて話は戻って石森氏に近い存在として石森の二ツ木城主である二ツ木氏がいます。またこの隣接の小塚城の小塚氏も二ツ木氏と組んで戦っているので縁戚であったか可能性があります。二ツ木、小塚は石森城(笠原城)を守る重要な拠点であったようです。(2005.11.10掲載)

http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=38.42.54.662&el=141.12.49.026&la=1&fi=1&prem=0&sc=3
(登米市中田町石森。右上を押すと二ツ木。二ツ木から右で小塚)

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/nazo-3.htm
(加賀野氏の謎に迫る)

石ノ森章太郎ふるさと記念館
仮面ライダーと愚息(維丸と惟丸)たち
(宮城県登米市中田町石森)



8.【登米小野寺氏と庶流2】

その他には畑崎氏(登米市米山町桜岡畑崎)、西野氏(登米市米山町西野)、などが小野寺氏庶流と推測されます。
登米市は現在、中央に迫川が流れていますが、中世頃は旧迫川が本流で地続きであったものと考えられます。現在の登米市の西側は小野寺氏が支配したものと想像されます。
西野氏は登米市米山町西野の西野館の館主で古くは「田原藤太(藤原秀郷)が居城」と伝わってます。「葛西氏家臣団辞典」にも「西野氏は藤姓か」との記述があり、小野寺氏との関連が想像できます。「石畑小野寺氏系図」にも小野寺氏から西野家に嫁入りするなど間接的な関係も窺えます。
畑崎氏は登米市米山町の畑崎館の館主で「葛西奉賀帳」に「玄蕃」「行忠」「行業」の名が見え藤原姓であることがわかります。新田小野寺氏の前に掲載されていることや、「行」の通字から小野寺氏の流を汲む一族と考えられます。また畑崎氏は後世移住し桃生町永井の永井館主となったと伝わります。
小野寺氏は領内に登米本城の押さえとして、新田、加賀野、飯塚、石森、二ツ木、登米、西野、畑崎など多くの庶族に土地を分与し広まっていったと考えます。
(2005.11.17掲載)

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/komonjyo3.htm
(葛西奉賀帳)


畑崎付近
(登米市米山町桜岡畑崎)



9【登米小野寺氏と庶流3

奥州四本松の石橋氏の四家老に小野寺久光が居たとあります。石橋氏は別称塩松氏とも呼ばれ、福島県岩代町を治めた南奥州の名族です。石橋氏の先祖を遡れば源姓足利氏で、南北朝の折り北朝足利方の武士として奥州多賀城に下向しました。のちに四本松(塩松、福島県安達郡岩代町)に移住。戦国の末、家臣の大内氏の反逆に遭うまで当地の領主として君臨しました。
落城後、小野寺久光は佐竹氏に仕えたと伝わっていますが確認がとれません。
この家臣である小野寺久光の先祖も宮城県北部地域から主家の移住に伴い同行した小野寺氏と考えられます。
 さて、話は少し飛んで江戸時代になりますが、三春藩主秋田氏(福島県三春町)の家臣で小野寺氏が居ります。秋田氏はもともと出羽国の名族で、戦国時代に出羽小野寺氏と何度も合戦を交えています。秋田家の家臣に小野寺氏が居るというのは、系統は違いますが小野寺と秋田氏の因縁と言うべきでしょうか。
 この三春小野寺氏の出自は、宗家では伊勢が本国で関ヶ原の折り伊勢安濃津城に籠城した蔵田(二階堂)行充と伝わっています。また江戸時代の末、三春小野寺氏の分家、小野寺順司の家系は源氏。小野寺慵斎の家では北畠氏と伝わっており、先祖は皆同じはずでありながら各々の家に正しく伝わっていないようであります。
(2006.2.2掲載)

三春城本丸跡
(福島県田村郡三春町)



10登米小野寺氏と庶流4

この伊勢国を本国とした背景には、赤穂浪士と呼ばれた小野寺十内秀和の家が影響しているのではないかと考えます。十内の家は伊勢小野寺氏で、この一族は伊勢津城に籠城して、西軍からの攻撃を防いだとあります。赤穂藩浅野家は甲斐国→真壁→笠間→赤穂。秋田家は土崎湊→宍戸→三春と転封しています。浅野家の真壁藩(茨城県真壁町)時代は1606〜1622年。笠間藩(茨城県笠間市)時代は1622〜1645年。一方、秋田家の宍戸藩(茨城県友部町)時代は1602〜1645年。ともにほぼ常陸国で過ごした期間は重複します。ただ三春小野寺氏は1643年に浪人となって、宍戸藩秋田家に仕官しているのでわずか1年強の間ではありますが宍戸藩、笠間藩ともに隣接する同姓の武士として交流があり、系図の情報交換が行われたかも知れません。
 三春藩小野寺氏の始祖とされる小野寺重忠は会津藩の分家、三春藩主加藤明利に仕えた後、明利の死により浪人となりましたが、秋田家が宍戸藩(茨城県友部町)時代に小野寺重忠を呼び寄せ仕官させました。重忠の仕官の背景には、秋田家の三春転封が内々に確定しており、加藤家時代に三春を治めた重忠の手腕を見込んでのことと想像できます。重忠以前の動向は不明でありますが、もともとこの地域に縁があった小野寺氏ではないでしょうか。あるいは石橋家の家臣小野寺久光の一族でなかったかと考えます。

(2006.2.9掲載)

三春城遠景
(福島県田村郡三春町)



11【奥羽永慶軍記を糺す?】

さて、話は出羽小野寺氏へと遷ります。
奥羽永慶軍記は東北地方の戦国史を研究する上で避けて通れない軍記物語です。
殊に小野寺氏に関しましては多くの記載がなされてます。「小野寺中宮助討るるの事」に「下総国古河城主小野寺前司太郎道綱は(中略)その四男四郎重道、・・・」とあります。「下総国古河城主」の古河城主は誤りでありますが、戸部正直が軍記を書いた江戸時代、小野寺氏発祥の地は古河藩の支配下におかれていました。それゆえ「下総国古河」という表現があらわれたものと想像できます。古河と言えば小野寺義道の従兄弟に当たる鮭延(佐々木)愛綱は、最上家の改易により古河藩土井家に預けられました。義道は配流の津和野で、最上家改易の報を聞き、鮭延の行方が掴めず、母の実家である佐々木の名が途絶えてしまうのに憂慮し、出羽に残してきた次男に佐々木の姓を継ぐよう書状を送っています。現在古河市には鮭延寺が残されています。ともに運命的なものを感じざるを得ません。

(2006.3.20掲載)

雪の稲庭城
(秋田県湯沢市稲庭)



12【出羽小野寺氏二系統説】

1のおさらいになりますが、小野寺氏研究家の大家である深澤多市先生は、小野寺氏二系統説を唱えられました。一つは稲庭を治めた一族。もう一つは湯沢・横手を治めた一族です。深澤氏は前者を経道。後者を重道とし、二系統説を掲げています。
 奥羽永慶軍記では、「小野寺遠江守義道流罪並先祖の事」には小野寺四郎重道がキツネを助け、出羽を賜った伝説が書いてあり、重道が最初に出羽に入植した小野寺氏とのスタンスをとっています。また同項目には「小野寺の一族に同国(出羽国)大泉の庄司六郎経道が末葉・・・」とあり、戸部正直も重道と経道を別系と考えていたようです。
出羽小野寺氏の始祖は果たしてどちらなのか、一方は実在で一方は虚像か、あるいは両方とも実在したのか、それともどちらも虚像か。広大な雄勝、平鹿、仙北の三郡を支配するには、小野寺一族の協力が必要だったはずです。わたくしは出羽小野寺氏は三系統あったのではないかと推測します。

(2006.6.19掲載)

稲庭城天守閣からの眺望
(秋田県湯沢市稲庭)



13.【二系統は?】

貞和5年(1349)12月29日の「陸奥国先達檀那系図注文」に「出羽国山北山本郡いなにハ殿、かわつら殿、此人々ハ大弐殿先達申し候、常陸法眼房弟子の大弐房にて候、」とあります。
「いなにハ」は「稲庭」。「かわつら」は「川連」で両者は小野寺氏を示し、小野寺氏の雄勝郡支配をあらわす外部の初見史料として認識されています。二代目小野寺道綱の死より約130年後の1349年には既に小野寺氏は出羽国仙北地方を治めていたこと、二系統あったことが判かります。また、この二家はこの文書よりだいぶ前に当地へ入植したものと推測されます。文書が出された頃には地域を完全に掌握し、熊野を信仰する余裕もあったのでしょう。この稲庭氏と川連氏が出羽小野寺氏の二系統です。(2006.9.14掲載)

雪解け水を運ぶ皆瀬川
(秋田県湯沢市稲庭)



14.【経道系稲庭小野寺氏

出羽に最初に入植したとされる小野寺経道は、三代秀道の六男であると考えられます。多くの書物に鎌倉時代中期に出羽大泉(山形県鶴岡市)に入り大泉六郎と称し、のちに出羽雄勝に入植したと書かれています。ただこの頃出羽大泉には武藤氏(のちの大宝寺氏)がいたので、経道が出羽大泉に入り「大泉六郎」と称する余地はなかったと考えます。ここで言う「大泉」は陸奥国登米の大泉(宮城県登米市登米町大泉)を指しのではないでしょうか。陸奥大泉は先述の登米小野寺氏の領内にあります。経道はこの地に大泉城を築いたと考えます。現在も大泉地区には小野寺姓の家が多数あり、また近隣の岩手県日形村の小野寺氏系図には始祖として経道の名が書かれています。あるいはこの家系は経道やその一族が陸奥大泉滞在中に当地に根付いた子孫たちかも知れません。
大泉と経道の関係を示す直接的な史料は存在しませんが、「大泉」のキーワードから判断すると経道は下野より陸奥大泉に下向、のちに出羽雄勝の稲庭に入り稲庭氏を称したと考えます。これが出羽小野寺氏三系統説のうちの一系統になります。
(2006.9.30掲載)

大泉城跡
(宮城県登米市登米町大泉)



15.【重道系川連小野寺氏】

つぎに小野寺重道です。この人物も出羽小野寺氏の始祖とされています。奥羽永慶軍記には小野寺道綱の四男「弥四郎重道」として登場します。稲川町史にもこの人物が始祖であるという旨が書かれていたのですが、当初わたしはこの人物は実在の可能性が低いのでは?と考えていました。しかし、先日稲庭川連訪問の際に町並みをに触れ、実在の人物である可能性を感じてきました。当地は川連漆器の名産で知られていますが、漆塗りは小野寺重道の弟道矩が始めたという伝承が根強く残されているのです。それに加えて宮城県栗駒郡(現栗原市)に残された「小野寺弥四郎」の記録です。
 この「小野寺弥四郎」の記録は安永風土記に残されているもので、宮城県栗駒郡金成町の普賢堂城に「小野寺弥四郎」がいたとのことです。諱といつの時代の人物かは特定できません。もしこの人物が「弥四郎重道」であるとすれば、重道の足跡が見えてきます。重道はおそらく三代秀道の四男「四郎道時」の子で、「弥四郎」と称したのではないでしょうか。重道は庶流であったため領地を東北に与えられ下野国から陸奥国へ下向。さらに山を越えて出羽国雄勝に移住したものと考えます。先の小野寺経道と重道は叔父と甥の関係になります。経道は稲庭に入ったのに対して、重道は川連にはいり川連氏を称したと考えます。川連氏関連の史料を申しあげれば、先述の1349年の文書の他に、1379年に「かハつらのいやし郎」の名が記された熊野関連の古文書が残されてます。川連氏の嫡流は代々「弥四郎」を称したようです。ここでも下野−陸奥−出羽のラインが完成されます。この川連氏が出羽小野寺氏の二系統目です。(2006.11.9掲載)


「川連こけし」表情が愛らしいです。
川連に住む小野寺さんの作品です。



16.【出羽小野寺氏嫡流】

最後の一系統は、登米から入ってきた小野寺氏本家筋の一族で、長兄は登米にあって嫡流を守り、弟は出羽の領地を与えられ移住したと考えられます。この弟の流が出羽小野寺氏で関ヶ原の戦いで改易になった小野寺義道の直系の先祖になると考えられます。
 この出羽小野寺氏は室町時代初期に支配権が確認できるので、移住は鎌倉末期頃には完了していたと考えられます。鎌倉中期にあらかじめ稲庭、川連両氏が雄勝郡の地頭代として支配を確立していたので出羽小野寺氏の入植、その後の雄勝郡支配は容易であったと考えられます。
 南北朝期において出羽小野寺氏は北朝に与し、将軍家より京都御扶持衆(実質的な守護大名)としての地位を得ます。時には京に在りて醍醐寺三宝院や将軍家に貢馬や貢ぎ物をし友好関係を築き、本領や恩賞で賜った丹後国倉橋郷の支配権の安堵を得る。また稲庭氏、川連氏は雄勝に残り、出羽小野寺氏の留守中には代官として隣国の情勢や領土の保全、領民の支配に専念する。雄勝帰ると、三家は活動をともにし、ときには兵を率い、またときには京都御扶持衆の地位を誇示して近隣の小中勢力を懐柔し被官化とたものと考えられます。この三系統の小野寺氏の協力体制がのちに「雄勝・平鹿・仙北」の三郡を支配に至ったと伝わる小野寺領地の拡大路線を押し進めたと考えます。(2007.4.3掲載)


サクラ咲く横手城
(秋田県横手市城山町)



17.【奥羽小野寺氏系図】

小野寺義寛─秀道┬道業(長男)─行道┬道義─肥後守…【登米小野寺氏】
            │           └道景─道親…  【出羽小野寺氏】
            ├道時(四男)─重道…          【川連小野寺氏】
            └経道(六男)…              【稲庭小野寺氏】

各一族の概略をまとめれば以下の通り。

【登米小野寺氏】
保呂羽城主(宮城県登米市寺池道場)。小野寺氏の嫡流で下野小野寺より下向。南朝を支持。
北畠顕家差出し小野寺肥後守宛の文書あり、
1500年代初頭に葛西氏の登米入植により城を譲り、寺池城倉庫番役を務めたのち、石越町や一関(岩手)に移住したと伝わる。

【出羽小野寺氏】
登米小野寺氏の分流。稲庭氏、川連氏が先に入植していた出羽雄勝領に鎌倉時代末期に入植する。北朝を支持。足利将軍家関係の文書あり、京都御扶持衆となり、雄仙平の三郡を支配し戦国大名の道を歩む。関ヶ原の戦いにおいて改易となる。

【川連小野寺氏】
下野−金成(宮城県栗原市)−雄勝郡川連へ下向。

【稲庭小野寺氏】
下野−大泉(宮城県登米市中田町)−雄勝郡稲庭へ下向。

(2007.4.6掲載)

霧に煙る保呂羽城跡
登米小野寺氏の居城
(宮城県登米市寺池道場)



18.【保呂羽信仰と出羽小野寺氏】

出羽小野寺氏の領内に「保呂羽山」があり、その山頂に「波宇志別神社」(秋田県横手市大森町八木沢)が存在します。小野寺氏はこの神社を厚く信仰しました。両者の親密な関係を示しているものとして、天正年中小野寺氏は「波宇志別神社」に五百石を付与しています。またこれに対し「波宇志別神社」の保呂羽衆徒は度々小野寺氏出陣の際に多数が参加しています。
 「保呂羽」という言葉についてですが、アイヌ語で「大きな霊山」を意味すると言われています。保呂羽山も道中険しく途中、鎖場(鎖を伝って山を登る)が現れ、修験者の修行の場であった事が想像されます。「保呂羽」という地名はアイヌ語を語源とするだけあって東北地方に多く存在します。
「保呂」をキーワードとして地名を調べてみると、現在残っているのは15カ所です。そのうち10カ所が東北地方にあります。
同義語の「母衣」は9カ所。そのうち東北は6カ所。
「幌」は圧倒的に北海道で、東北に3カ所だけあります。
その他「法領」「宝領」「法量」「宝量」「法呂」「法両」なども「保呂」に関係があると考えられます。
ちなみに、雄勝郡(現湯沢市)には「院内法領館」という城があり三浦氏が拠点としたと伝わっています。
さて、「保呂」が確認できる最西端に「与保呂」があります。この地は京都府舞鶴市にあり、山間の土地です。ここから出づる川は「与保呂川」と名づけられ10キロほど経て舞鶴東港へと流れ込みます。
 さて、この「与保呂」ですが、じつは出羽小野寺氏が室町幕府に恩賞として賜り地頭として任命された丹後国倉橋郷の一部とされています。「保呂」という言葉を通して繋がるのは単なる偶然でしょうか?
(2007.4.6)

保呂羽山波宇志別神社本殿
(秋田県横手市大森町八木沢)



19.【保呂羽山と登米小野寺氏】

もう、お気づきの方が居るかも知れませんが、「登米小野寺氏」の居城の名は「保呂羽城」です。こちらは宮城県登米市寺池道場で草飼山の中腹にあります。葛西氏入城の際にかなり大きく手が加えられて、大規模で立派な城になったと、その遺跡から想像されます。現在は「保呂羽城跡」と言う名前のみで、「保呂羽」の地名は残っていませんが、いにしえは「保呂羽山」と呼ばれていたのかも知れません。現在、山の入り口には登米神社が残されています。
 また、新田小野寺氏の城跡である新井田城跡(宮城県登米市中田町宝江新井田)には「保呂羽神社」が残されています。周囲に山はほとんどないので、こちらは信仰の対象として祀られたものと想像します。
 さて、ほかの保呂羽山は?いうと、岩手県東磐井郡藤沢町に「保呂羽山」があります。こちらもやはり山頂付近には保呂羽山神社があります。小野寺氏との関係を見れば、山頂から南東側の尾根にかけて要害館B遺跡があります。この城主は室町時代に岩手県県南を支配していた葛西氏の家臣にあたる小野寺主計(かずい)が居城していたと伝わっています。保呂羽山の麓には小野寺姓が見られます。
 その他の「保呂羽」を挙げれば、宮城県本吉郡南三陸町志津川町上保呂毛に保呂羽山、同志津川町藤浜付近に保呂羽山があります。後者の保呂羽山の麓には小野寺姓が見られます。また岩手県奥州市衣川区に「高保呂」があり、こちらも小野寺姓が見られます。(2007.4.9掲載)


保呂羽山神社
(岩手県東磐井郡藤沢町保呂羽)



20.【修験道と奥羽小野寺氏1】

さて「保呂羽信仰」は山岳信仰で修験道との関係があります。前にお話ししたように小野寺氏には熊野信仰の文書が数多く残されており、修験者との関係が見え隠れします。
修験道の修行の場を「道場」と書き、一般には「どうじょう」と読ませるようですが、地名においては「どうば」と読ませるようです。読んで字の如く、修験道の道場があった地名と考えます。
しかし、「堰(せき)」があった地名も「堰場(どうば)」と読ませるので、同音異地名として注意が必要です。「堰場」が「道場」に転化したり、またその逆の場合も考えられます。
近年の開発や地名の統合によって多くの「道場」という地名が失われてしまった可能性も否めませんが、現在残っている「道場」の地名は全国各地に67カ所(「○×町下道場」「○×町上道場」など重複地名を除く)確認できます。そのうち東北地方6県に注目すると、宮城県、岩手県、福島には存在し、青森、秋田、山形には見あたらないようです。
岩手に6カ所、宮城に11カ所あります。

そのうち「道場」周辺に小野寺姓が確認できる地域を挙げれば以下の通りです。

岩手県一関市舞川道場    
岩手県奥州市胆沢区小山道場 
岩手県奥州市前沢区道場   
岩手県奥州市水沢区佐倉河道場  
岩手県胆沢郡金ケ崎町西根道場  
岩手県東磐井郡藤沢町藤沢道場  

宮城県栗原市金成大原木道場   
宮城県登米市石越町東郷道場
宮城県登米市登米町寺池道場
宮城県石巻市桃生町永井道場

岩手県6カ所、宮城県4カ所になります。
とくに奥州小野寺氏の本拠地となった登米小野寺氏の保呂羽城は、「保呂羽」=「道場」の結びつきから小野寺氏と修験道の関係が色濃かったと考えます。(2007.4.10掲載)

修験道の修行の地と考えられる道場
宮城県登米市石越町東郷道場



21.【修験道と奥羽小野寺氏2】

「道場」について、岩手、宮城、福島の三県のみで青森、秋田、山形の3県では確認できませんでしたが、「道場」という地名のない3県では代わりに「道地(どうじ)」という地名があり、これが「道場」の代わりをなす地名と考えます。やはり修験道の修行の地の意と考えます。現在、日本全国27カ所(重複地名は除く)あります。これも川の堰の「堰場」と同じく「堰地」との混用が注意されます。青森3カ所、岩手5カ所、宮城2カ所、秋田7カ所、山形3カ所、福島2カ所です。そのほかに「堂場」や「堂地」「同地」も「道場」や「道地」と関連があると考えられます。
「道地」については、まだ詳しく調査に到ってませんが、一例を挙げれば山形県鶴岡市荒俣に「道地」が残されています。旧藤島町で市町村合併により鶴岡市になりました。荒俣は羽黒町との境界地になり、出羽修験道の聖地羽黒山から約13キロの地にあります。この集落に小野寺姓が見られます。じつを申せば、私の先祖の出身地になります。当家は「丸に木瓜」の紋を用い、いつの頃かは不明ですが、宮城より山を越えてこの地に移住したと伝わっています。
私の知る限りでは農業を生業としていたようです。江戸時代に農民の移住は、原則認められていなかったので、それ以前の移住か、あるいは修験者であり山を越え羽黒山に近い当地に居を構え帰農したのかも知れません。古くは登米方面に住んでいたのではないでしょうか。
荒俣地内にある「道地(どうじ)」「谷地(やち)」「昼田(ひるた)」「小糠田(こぬかだ)」の地名が気にかかるところです。(2007.4.11掲載)

石越道場の脇にはひっそりと
山の神が祀られている
(宮城県登米市石越町東郷道場)



22.【修験道と鉱物1】

修験者は修行をおこなうために入山したので鉱物に精通していたと伝わります。
鉱山に関連するキーワードを『北方風土49』の「鉱山関連用語 佐藤真基夫」より引用します。

「黄金」「粉金」「金」「猫(根子)」「芋(妹)」「糠」「小奴可(おぬか)」「蕪」「鶴」「鉉(つる)」「立(たち・たて)」「百足」

伝承・地名等から見る関連用語
「刈」「軽」「曲」「長者伝説」「朝日」「金売吉次」「炭焼き藤太」「芋掘り藤太」「小野」「尾野」「尾能」「沖野」「鬼」「大人」「巨人」「蛇」「戸」「アシ・アソ」「ユリ」「小椋」「笛吹」「鶏」「麻(サ・ソ)」「サビ」
「船」など。(2007.4.12掲載)

タタラ製鉄の地と伝わる足田(たらだ)
(秋田県雄勝郡羽後町足田)



23.【修験道と鉱物2】

修験道と鉱山、鉱物は関係あったのではないか?「道場」「保呂羽」の周辺の地名から探っていきたいと思います。

宮城県登米市登米町寺池道場(保呂羽城跡)
「金沢山」「銀山」「金谷」「銅谷」などあり。

岩手県一関市舞川道場
「小戸」「谷地「」昼沢」「小倉沢」

岩手県奥州市胆沢区小山道場
「油地」「谷地」「昼沢」「徳岡」「恩俗」「赤斉美(アカサイミ)」「赤堰」

岩手県奥州市前沢区道場
「赤生津」「赤坂」「赤面」「徳沢」「谷地」「大曲」「金揚」

岩手県奥州市水沢区佐倉河道場
「宝龍田」「谷地」「丑子」「舟塚」「熊野堂」

岩手県胆沢郡金ケ崎町西根道場
「赤稲田」「油地」「大曲」「金谷」「谷地」「鶴ヶ岡」「鶴ヶ沢」「舟久保」

岩手県東磐井郡藤沢町藤沢道場
「保呂羽」「赤畑」「丑子沢」「舟木」「口船」「金山沢」「苅萱」「黄金山」「金越沢」

宮城県栗原市金成大原木道場
「金成」「金附」「油田」「金沼」「真似牛」

宮城県登米市石越町東郷道場
「谷地」「糠塚」「黄金山神社」「赤谷」「赤坂神社」「蕪木」 「今堂(金藤)」 「金鶏山」 「芦倉」 「金峯神社」「金草」「鬼の目」

山形県鶴岡市荒俣道地
「谷地」「小糠田」「昼田」「宝徳」「赤川」「金森目」「鬼薮」
「金清水」「金谷」「金峯山」「黄金村」「赤川」「湯殿」の地名あり。
(2007.5.19掲載)

保呂羽館跡の下にある登米神社
(宮城県登米市寺池道場)



24.【修験道と鉱物3】

●「赤」は鉱物に関連していると考えられています。「赤生」と「丹生」は同義語で水銀などの鉱物と関係がある。「丹生神社」などが有名です。

●「油」は「湯」と同じ、地中から湯が出た地で鉱物と関係があると考えられます。

●「谷地」は「やち」と読ませます。日本全国に多く湿地を意味します。
「水辺の植物の根に沈澱堆積した褐鉄鉱ないし鉄砂の存在を推測せしめるに足ることになります。」(『出羽国と古代鉄文化』 真弓常忠)

●「徳」は「恵みや恩恵」も意味します。「宝徳」→「宝の恵み?」「徳沢」→「恵みの沢?」か

●「昼」は動物の「ヒル」の意と言われる「昼沢」→「ヒルが生息する沢」。「昼田」→「ヒルの生息する田」か?ヒルは淡水に生息するというので水がある土地か?
あるいは全く逆の「干る」や「乾る」(読みはいずれも「ひる」)で乾いた土地か?

●「牛」は牛頭天王社など修験道に関係があるという。アイヌ語では「〜が生えた」とか「〜 がある」を意味します。(2007.4.12掲載)

黄金山神社
(宮城県登米市石越町北郷中沢)



25.【道場と小野寺】

以上のように、「道場」と言う地名の周囲には金、銀、銅、鉄などの鉱物の所在を示したり、あるいはそれを想像させる地名が、多く残っています。単なる偶然とは少し考えにくいです。
登米にいた小野寺一族の中でも修験者として技能に長けていた者達が、これら東北各地の鉱物埋蔵地を求めて、移住したものと考えます。
小野寺氏の修験者としての一面は、下野貞瀧坊小野寺氏の事跡より明らかで、その他には岩手県西磐井郡花泉町油島上油田に、羽黒派修験者の小野寺氏がいました。宮城県気仙沼市釜屋敷には加賀(石川県)から来住した修験者と伝わる小野寺家があり、また、宮城県大崎市三本木町に初代行蔵院を名乗る小野寺氏がいました。この家は当山派の修験者で元亀年間に道場を開いたといいます。
 その後の調査で栃木県岩舟町小野寺にも「道場」と言う地名があるのを発見しました。読み方は不明です。現在は正式な名称として残されてはいようですが、小野寺石橋地区にあり、小野寺山大慈寺の南東約1キロ、小野寺城趾からは北東数百メートルの地点にあります。ここが大慈寺の道場であったのか、それとも別の寺の道場であったかは不明です。現在当地には五輪塔が残されています。

(2007.6.6掲載)

小野寺石橋道場にある五輪塔
(栃木県下都賀郡岩舟町小野寺)



26.【登米市石越町北郷中沢周辺を例として1】

●宮城県登米市石越町北郷中沢にある「遠流志別石神社」に以下の記述があります。

「遠流志別石神社縁起」
遠流志別石神社縁起は登米郡石越町北郷字中澤に鎮座し、延喜式内社栗原七座の一つと言われて古くから石神様と呼ばれ広範囲に亘って篤く崇拝されてきた神社である。
古書によると景行天皇の皇子日本武尊東征に際し伊勢の御姨倭姫が天照皇大神より伝わる明玉を尊に「之を頭上に戴き赴くべし」と授けた。やがて東国を平定するに及び明玉は霊石と化したのでこれを祀った。この霊石が子石を産み五十の数に別れた故にこの地を石子石の里と名付け後に石越となったこれが石神社の起りとされ石越の名の由来となっている。
 これとは別に神社の東方の丘から産出する礫岩が風雨に晒される事により小石塊を周囲に散らしあたかも石が子を産んだ様相を呈するのを見て自然崇拝であった当時の住民はこれを神として祀ったものと推察されるという説もある。
 遠流志別=オルシベツ=とはアイヌ語で「大きな川の流れの側」を意味している。
 古代石越丘陵の北面一帯は大河の如く中田方面に向けて蛇行していたものと思われその流れの側にある富崎周辺の地名になったものと想定される。
その根拠として続日本紀巻七に霊亀元年十月陸奥蝦夷のオルシベツの君宇蘇弥奈(遠見邑=富崎=に住む住民の長で爵位第三等)が香河村(岩手県胆沢町か)に移り住むことを願い出て許されたという記載がある宇蘇弥奈が移住した後も遠流志別石神社として信仰されて来たものであろう。
 文治年中社殿荒廃し伝承の文書も失いただ石神明神と称してきたが安永年中仙台藩儒者田辺希元の調査に依り遠流志別石神社と判明した。天明六年中澤の住人小野寺新右右衛門社殿を再興し寛政七年社地を献納文化元年拝殿を造営した天保十一年正一位に明治六年郷社に列せられたが昭和二十一年社格は廃止され今日に至っている。ここに改めて縁起のあらましを記して後の世に伝えんとするものである。
(2007.6.8掲載)

小野寺新右衛門再興の
遠流志別石神社
(宮城県登米市石越町北郷中沢)



27.【登米市石越町北郷中沢周辺を例として2】

「遠流志別石神社」と言う名称は秋田県横手市大森の「波宇志別神社」と似通っており、その関係が気にかかるところです。
縁起に記されているように、天明六年(1786)、登米市石越町北郷中沢には小野寺新右衛門がいました。小野寺新右衛門は1786年遠流志別石神社の社殿を再興し、1795年社地を献納、1804年拝殿を造営しました。
往古、付近の中沢砂子には砂子館跡あり、ここには登米寺池保呂羽城に居た小野寺美濃守が葛西氏の登米入植の際に当地に異動したと伝わり、新右衛門はその子孫と考えられます。
菅江真澄の「はしわのわかば続(仮題)」の天明六年(1786)八月十三日条には
「村の長なりける、小野寺なにがしのかきねの中に、はこいし、又石神と唱ふは、遠流志別石神といへばまうでぬ。風のさと吹き来れば、よみて奉る。 たてまつるぬさはいづこにさそはれしやま風おろし石わけの神」とあります。また遠流志別石神社の門前には、黄金山神社が祀られており、北東約一キロには「道場」も存在します。周辺には「金草」(「鉄滓」カナクソの転化か?)と言う地名もあり、おそらく往古は鉄や金の産地として栄えたものと想像されます。
「はしわのわかば続(仮題)」の七月十八日条にも「大島にあがりて、ここの長なる、小野寺なにがしのもとにつく。」とあります。こちらは気仙沼市の小野寺さんのようです。
菅江真澄はこののちに出羽に赴き「月の出羽路」や「雪の出羽路」を書き記し、出羽小野寺氏関係の記述を残すのでした。
(2007.7.4掲載)

遠流志別石神社縁起
(宮城県登米市石越町北郷中沢)



28.【再び「道場」論と、ここまでのまとめ】

再び道場の話に戻ります。最近角川地名大辞典宮城県を購入して見つけたのですが、「筒場」と言う地名があります。読みは「どうば」で「道場」と一緒です。「筒場」東北地方にしか見つからず、宮城に6カ所、青森に1カ所あります。小野寺氏関係で探れば2カ所が挙げられます。
1つ目は宮城県登米市米山中津山筒場で「筒場埣(ソネ)」と「筒場内」に分けられます。
もう一つは宮城県栗駒市瀬峰筒場です。米山の筒場に小野寺姓は見られないようですが、瀬峰は小野寺姓が多い地域です。

さて、18〜28まで「小野寺」「保呂羽」「道場」「道地」というキーワードをもとに東北地方に広まった小野寺姓を推論してきました。
 往古、陸奥国登米に拠点を置いた小野寺氏は、武士と修験者の二面性を持ち得、新たなる鉱物を目指し霊山として祀られた「保呂羽」や修験道の修行の地であった「道場」に一族を送り込んだものと考えます。

これらにより、東北各地に広まった小野寺氏の移住を、「修験道」という一面から調査、推論し、その概要を掴めたような気がします。しかし、今回はあくまでも「小野寺」「保呂羽」「道場」という点においての調査の途中結果であり、線という強固なもので繋がるかどうかは、更なる研究調査が必要と思われます。
(2007.12.9掲載)

細倉マインパーク、旧細倉鉱山社宅
(宮城県栗原市鶯沢南郷)

ここは、「三丁目の夕日」・・・
ではなく、
「東京タワーオカンとボクと、時々、オトン」
のロケ地になりました。旧史によると、この周辺にも
「保呂羽神社」があったらしいです。



29.【神尾町遺事廿七箇条1】

「中世の小野寺氏」より

一、抑々小野寺と申し候は、下野大慈寺と申す処に候て、古足利庄に篁という人の其の地に寺を建しにて、それより小野が氏寺とて小野寺とは申すめり。近代家号堀江を恃み入りて、其の地より没落の族をば堀江、河内守さまに愁訴して女をあて、一門になして之を養う。そのたしかなる文とて数多所持せるなかな、下野国都賀郡の内、小野寺七村、同国佐野庄の内小中堀米郷、足利庄の内河崎三ヶ村、同牧野庄十二ヶ村は小野寺重代相伝所領云々とて応安辛亥古譲状など見参らせられ候えば、たしかなる血筋にて候ぺし。是よりさき明応三甲寅のとし中務大夫某その比当主にて候いけるが、山内扇谷両度の合戦に参陣仕り候処、常州小田と申す地にて不運にも討死を遂げられ侯。その子□□丸堀越御所と申す御方にすがりて上洛、将軍に御仕え申し侯。将軍御座所の近仕なり。年長じて帰国せんと思えども、其の本国は中務大夫景綱継ぎ申し候上、隣国は佐野長尾等の勢強く候て、到底入り難く、たとえ入国仕り侯とも、一家を立て難く思えりしに、たまたま出羽国晴道どのより御馬献上のお使到着、公方への御覚えいとめで度く、之に依て御声掛りにて晴道どのを恃み侯て仙北へ下向、晴道どのいろいろ御思案めぐらされども、御諚なれば詮方なくて沼館の城をあてがわれ侯上、丁重にもてなされけり。沼館どのと申すなり。それより間もなく本国より大慈寺名跡うつして谷地に一宇を建立されてけり。是れ小野寺が大乱区逃(苦闘か)のはじまりに候。(2007.12.10掲載)

沼館城遠景
(秋田県横手市雄物川町沼館)



30.【神尾町遺事廿七箇条2】

一、然るところ、此の沼館どのと申さるる仁は暴戻の人にて、晴道どの卒去せられ侯いしより、逆心おこされ侯。本国の血筋をひけらかすにし、同族何れも此の沼館どのを心よく遇せず侯。さすがに晴道どのには頭の垂れ侯いけれども、今になりては本国下野の回復も叶うまじければ、さらば仙北切り取って己がものにせんと野心を企て、将軍の寵をかさに濫りに御諱を冠し侯て、御恩命なりといつわり申し、数年の御恩をも顧みず、稲庭殿に合戦を仕掛け侯。斯りければ、泰道晴道二代仙北屋形とて威をほこりける小野寺の家も、稲庭殿と沼館と二派に相分れ、互に死傷数多の争戦にやすき日も之なく、不意に仕掛け侯故、はじめの程は沼館の兵ども勢強く、稲庭敗績しきりにて、援を隣境に請うと雖も、なかなか俄かに合戦の事わけ知り難く侯につき、諸将徒らに時日を過し侯。中書は由利党をば逸早く味方に引き入れ侯て、遮に無に松岡湯沢増田の城に取掛り侯て、次々とおとし、それより横手も手に入れて、さて稲庭を攻めんとて是亦隣境募兵の御触出なり。此の時田村庄司と申す者、晴道の義弟なり。横手を回復せんとて色々に画策しけれども力及ばず、却って本領を退かれ侯故、是非なく河内守どのを頼る。増田は追われて楢岡に戸沢(実は相馬なり。淀川に本領之あり)の助力を乞うて馳せたり。土肥は太田に追われ、水梨など稲庭一門の者多く此の時に討死、跡立ち行き難きほどに子弟死に侯。是皆沼館が悪心にて、利を以て由利和賀の衆を語らい、兵を入れ侯にて侯。六郷の二階堂入部して日浅く侯しかども、さすがに三郡奉行家の裔なれば筋目正しく侯て、其の沙汰には堀江を以て戸沢本堂を説き候上、秋田に戸蒔を以て委細を申し入れられ、横手を討伐せしめせれ侯。田村先導を勤められ侯。沼館遺児母の実家大梵を頼り、由利の徒党にまもられ落去りし侯由、河内守どの追討禁止の命を下され侯故、戦畢りぬ。其の後、一族相図り沼部大夫道縄どのを宗主に立て侯て、隣境に披露、しばらく境目静謐に侯。(2007.12.12掲載)

沼館城趾、蔵光院の門
(秋田県横手市雄物川町沼館)



31.【神尾町遺事廿七箇条3】

一、其の後、大梵寺羽黒□を以て御使者を立てられ候のみか、秋田最上より手を廻し候て頻りに詫言仕り候につき、道縄どの一門は申すに及ばず、河内守殿初め本堂戸沢どのにも御相談遊ばされ候て、沼館の帰参を許され候、遠江守景道と申され候。横手と沼館とを領され候ところ、稲庭どの此の時御目付とて大宅に堀江、横手に本堂一族、金沢には稲庭どの御舎弟を置かれ候。田村は旧の如し。大宅田村金沢は河内守どの御因縁なり。その上和野と申す処には戸沢の宿老を置き候。
(2007.12.13掲載)

沼館城趾
(秋田県横手市雄物川町沼館)



32.【神尾町遺事廿七箇条4】

一、稲庭どの道縄と申し候は、篤実の長者にて領内風波立たざるところに、永禄末年みまかれ候。それより一族家督をうかがい候て、乱麻の如くに相成り候に乗じ、真室自立を企て申し候。然りと雖も今に及んでは稲庭之を抑うるあたわず、或いは大梵寺に援を請い、最上に取り捌き方願われけれども、真室もさるものなれば、いろいろに計り申し候て、庄内に和し候ては最上に通じ、最上と大梵寺との不仲を巧むなどの事どもして、時に掌を返し、一向に埓明き申さず候処、却て鮭延より沼館を誘い由利と通謀して稲庭を弱め申す仕儀をこしらえ候。由利の矢島このためずい分働らき候。遂に稲庭どの真室を手ばなし候て、其の地最上に従うように成り候とき、上浦もまた横手の権威まさり候て、稲庭につく者少なく、横手の下知に左右され候如くなり、横手は事毎に稲庭を見下し、被官扱いなされ候。横手己れ野州小野寺本保の血脈にてある上に、今はその野州ほろぼされ候ける故、小野寺の跡目立てばやとて暴威につのり、いよいよ無二無三に事を構え候て、四境に兵を出さんと計り候こそ無惨なれ。それより兵つかれ百姓ども年貢に困しみ候て、怨嗟村々にみち候。稲庭、六郷の機略を恃み候て、如何にとも今一度屋形を名乗りたき念願せられ候けれども、身不肖にして甲斐なし。それより横手と六郷とは、事毎に仲悪敷く成り行き候て、紛争絶えず、本堂も横手より手を引き候。稲庭どのは六郷殿を筋目の人とて丁重に遇れしをば、山城守殿も忘れ給わず、如何にもして稲庭どのの末相立つよう計うべしと仰せられ、内々最上殿と其の事私議遊ばされ候趣き也。横手に対しては宗主晴道の跡に叛ける者とて
誅伐の名分を用意なされ、稲庭どの擁護のためとて回文なされ候。一体二階堂の一門は、横手を歯牙にも掛けられず、小わっぱと吐き捨てに申されけり。よくよく沼館以来、忘恩の振舞を忌ませけるにて候。(2008.1.20掲載)

沼館城趾の桜と大築地
(秋田県横手市雄物川町沼館)



33.【神尾町遺事廿七箇条】の要約1 

赤=小野寺(沼館)中書派
  青=小野寺(稲庭)晴道派


中書(沼館殿)は小野寺家の本筋にあたるが、わけあって上洛し将軍家に近仕していた。
長年の奉仕を経て本国下野への帰国を望んだが、その本国下野は小野寺景綱が領有していたため、中書が下野で武家として家を復興するのは困難に思えた。
そうしていたところ、出羽から同族の
小野寺晴道が上洛してきた。
その話を聞いた晴道は同情し、中書を仙北へ連れて帰った。いろいろと思慮を巡らせた結果、
中書に沼館城を宛った。

中書は下野国より小野寺と古くからゆかりのある大慈寺の名跡を遷し、谷地に建立した。
沼館殿(中書)晴道殿には礼節を以て接していたが、実は横暴な人物で、晴道殿が死去した後、本家の血筋をひけらかし、将軍の諱を冠した。
数年の恩顧も顧みず、
稲庭殿に合戦を仕掛け、泰道晴道と二代仙北屋形とて威勢を誇った小野寺の家も、沼館(中書)稲庭の二派に分裂してしまった。
沼館勢由利党を味方に付け、優位に戦いを展開し、横手まで進軍し奪取した。
稲庭勢は晴道の義弟、田村庄司が横手回復を志すも力及ばず、やむを得ず河内守殿を頼った。また三梨など稲庭一門は家が立ちゆかなくなるくらい悉く子弟を失った。

稲庭殿六郷、戸沢、本堂、秋田の援助を得て横手を奪取し、 沼館殿(中書)は討死。その遺児は由利勢に守られ母の実家である大宝寺(武藤)氏へ逃亡。河内守殿が追討禁止の命令を出して戦いは終わり、一族は沼部(稲庭)道縄を惣領に立て落ち着きを取り戻した。 (2008.2.14掲載)

稲庭城天守閣からの横手方面を望む
(秋田県湯沢市稲庭)



34.【神尾町遺事廿七箇条】の要約2

その後、
大宝寺に逃れていた中書の遺児は、稲庭道縄殿に沼館の帰参を許され、遠江守景道と名乗り、横手と沼館を領有した。
真室(鮭延氏)が自立を企てた際に、
稲庭殿はこれを制止しようと大宝寺氏に援助を請うたが、真室(鮭延氏)なかなかの者にて大宝寺と和睦しつつ最上に通じて、最上殿と大宝寺殿の対立を企図するなど、稲庭殿が付け入る隙を与えなかった。かえって、真室(鮭延氏)は沼館(景道)由利を誘って、稲庭殿の弱体化を図った。これにより稲庭殿は真室の回復を諦めざるおう得なかった。
横手(景道)の権威は隆盛を極め、稲庭殿の命に従う者は少なくなり、横手(景道)稲庭殿を見下し被官扱いするようになった。横手(景道)は四方に兵を出し、兵や百姓は疲弊していった。稲庭殿
六郷に援助を申し入れ、横手(景道)六郷の仲は事ごとに険悪なっていった。稲庭殿六郷殿を丁重に接したので、六郷殿は最上殿と話し合い、稲庭殿の面目を保つようにと、晴道に背いたものとして横手(景道)追討の名分を用意し、これを擁護したが、六郷勢横手(景道)に手も出せず「小わっぱめ」と吐き捨てる程度に留まった。 (2008.3.5掲載)

稲庭城天守閣からの宮城県栗駒方面を望む
(秋田県湯沢市稲庭)


35.「奥羽永慶軍記」「小野寺中宮助討たるるの事」1

〔小野寺輝道(稙道)の悪逆〕下総国古河城主小野寺前司太郎道綱は、大職冠@の末葉、秀郷には、八代道義の孫、義実(寛)が子なり、昔年、鎌倉右大将頼朝公に仕えて勲功を尽くし、勇名四方に轟ける。其の四男四郎重道、父が箕裘(ききゅう)Aを失はず、君に仕へて忠あり。頼朝公、平家追罰し給ふ時、軍功に依て、羽陽B雄勝Cを賜り、稲庭の城に居住す。重道十六代の孫、小野寺中書(孫四郎か?)、稲庭より同州平鹿沼舘Dの城に移り居す。将軍義晴(義尚または義稙か?)公の時にして上洛す。世上戦ひ止むときなく、賊徒国々に満ち、通路なりがたし。自国の妻の方より音づるるゝ事もなく、命を洛土にに終る。都に在りし時、八幡の旅宿主の娘に契りて、男子をひとり設く。その子、弘治元年義輝将軍(義稙か?)の時、幸いにして君辺にめされて、輝の字を賜ひ、小野寺中宮助輝道(稙道)と号す。東(本)国に下りて其の武威を振ひ、同国大曲・苅和野・神宮寺・角舘等の要害を攻落し、増田の城主小笠原信濃次郎光冬Eを討ち、松岡の城主柴田平九郎を討ち、由利十二党、最上・置賜郡間室の庄も悉く随ふ。家臣小野の城主姉崎四郎左衛門尉を故なくして誅戮し、彼が城を己が三男に与ふ。其の政邪にして、悪逆超過す。
 時に郎等三春信濃、湯沢の城に居住せしを、我城に移し替らんとせられけれども、三春敢て其の下知に随はず。終に彼を討て湯沢の城にぞ住しける。之れに依り、仙北金沢の住、役氏(えんし)金乗坊といひし者、忽ち逆心を企つといへども、己が力に及びがたきに依て、密に横手佐渡守を語らひ、大将となし、数万の軍兵を率し、既に中宮助を討んとす。中宮助是を聞て安からぬ事に思ひ、是を討んと天文廿一年六月大勢を率し、横手の城に取懸り、散々に攻む。城の内より飯詰と金乗坊一番に駆出で防ぎ戦ふ。湯沢勢悉く敗北す。此の時、増田・浅舞心替りして横手に一味すれば、輝道(稙道)いよいよ後れをとり、人数過半討たれ引退く。其の時、横手佐渡守はげしく追駆攻ければ、小野寺の内に八柏大和守謀を廻らし、君の旗をさして手勢三十余人、進藤原に控て、指し詰、引詰、散々に射かけ、主の命に代て終に討死しけり。中宮助危き所を免れ、湯沢の城に引きけり。嗚呼臣として忠に死すと云ふ古人の教を守り、主のために大和守が命をあやまちけること神妙なれ。同舎弟孫七 十七歳、人の耳目を驚かす程の働して、其身手負ひ、是も湯沢に引退く。其の軍功を感じて、中宮助の嫡子景道(輝道)の世に至て、小野寺を許し、湯沢の城主と成しにけり。
其の後、横手佐渡守・金乗坊二人心を合はせ、金沢・六郷・楢岡・角舘・本堂・堀田・白岩の勢を催し、山北の人民を語らひ、其の勢三万余人を率し、数日を廻らさず湯沢の城に取懸り散々に攻(う)つ。同七月六日には、輝道(稙道)身づから駆出し防戦すれども、叶はずして流矢に中りて、終にそこにて討れにけり。
(2008.4.17掲載)

金沢八幡宮
(秋田県横手市金沢)



36.「奥羽永慶軍記」「小野寺中宮助討たるるの事」2

〔小野寺四郎丸羽黒を頼る〕
嫡子四郎丸既にかうよと見えし所、其臣八柏兄弟・関口・落合が謀にて、稲庭に落しけり。猶も敵追駆しに、八柏が二男二郎止踏(ふみとどま)りて、大将四郎丸と名乗りて、主の名に代て討死す。八柏太郎、四郎丸を伴ひ奉りて、小野の里より八口内Fに忍び出て、有屋・金山を打越し、合海の津Gより船にのり、最上川を下りて清川Hより陸に上り、日数十余日に同国羽黒山に入夫して、三年の春秋を送りける。
去程に、横手佐渡守は中宮助父子を思ひのまゝ討取り、威をふるひ、領内を随へんとしけれども、随ふ者一人もなく、己々が心となるこそうたてけれ。小野寺の郎党等に、角舘・大曲・白岩・堀田・神宮寺・進藤・金沢・関口・山田・黒沢・増田・西馬音内・稲庭・河連・三梨・沼舘・浅舞・大森等の城主も、面々に引きわかれ、常に戦ひ止む時なく、人民おのづから安き心なく、我栖家(すみか)を捨て、深山幽谷にぞ住みにける。かくて羽黒山に在りける小野寺四郎丸、父が敵を討たんとて、近郡の兵を語らふにぞ、悉く同心す。其の人々を数ふるに、庄内大山住武藤左京大夫晴時・同大梵字の住二郎晴安・酒田の六郎・仁賀保小笠原大和守安重・松根・黒川・藤島・小国・苅川・野沢・余目・一条・三世・由良・五十川・矢島・芹田を始めとして、羽黒の衆徒三百人都合其勢、五千余人二手に成りて、一手は最上路を経て八口内より押寄る。又一手は、由利を廻りて、石沢・玉前の切所を歴て、大沢表より押懸たり。されば、日比(ひごろ)、佐渡守が下知に背し小野寺の郎等、爰をかしこより、馳集り、四郎丸の勢に加はり、手痛く攻たりける。横手・金沢の両勢爰を専途と防戦へども、今は分国中皆四郎丸が手に属せば、早や所々の攻口を破られ、金乗坊も横手城につぼみけり。此時、前田薩摩守・楢岡三郎・六郷父子・堀田治部丞・本堂六郎、一千余騎金沢を攻破り、四郎丸が加勢として、横手源正坂に陣を張る。四郎丸は庄内・由利勢を率し、吉田・赤坂・八幡の間に陣をとれば、先手は馬倉・増田・山田・関口・岩崎・深堀等七百余騎、川を渡し、横手町溝に攻入り、関町に放火すれば、石町・本町・荒町数百軒余烟天をかすめ焼亡す。今は叶ふべきやうもなく、横手を始め金乗坊、討残されたる兵五、六十騎を率し、大勢に駆入縦横にきり立て追廻し、今を最後にと戦ひしが、小勢の事なれば、爰かしこにて隔てられ、一騎も残らず討たれにけり。夫より四郎丸は湯沢の城には矢(八)柏孫七を据置、小野寺の家名をゆるし、我身は横手を居城とし、其名遠江守景道(輝道)とぞ名乗りける。

@藤原鎌足A遺業B出羽国C秋田県雄勝郡D秋田県平鹿郡E三又(秋田県平鹿郡増田町)城主小笠原義冬の後裔。横手市金沢八幡蔵、貞治二年(正平二十年)の写経銘によれば、義冬は甲斐国山中住と自書しているから、南部氏と同じ甲斐小笠原氏の流れであろうF役内(秋田県雄勝郡雄勝町)G山形県新庄市本合海H山形県東田川郡立川町清川

金沢城本丸跡
(秋田県横手市金沢)



37.「奥羽永慶軍記」「小野寺中宮助討たるるの事」〔小野寺稙道の悪逆〕要約

赤=小野寺稙道・輝道派  青=横手佐渡守・金乗坊派 緑=その他


小野寺重道の十六代の孫
小野寺中書は、将軍足利義晴公の時に上洛し都で死した。八幡の旅宿主の娘との間に男子ひとりを設けた。その子は義稙に仕え、小野寺中宮助稙道と号した。東国(出羽)に帰り、武威をもって周囲の豪族を悉く従えた。なかでも小野城主姉崎四郎左衛門尉を理由もなく殺害し、稙道の三男に与えた。稙道は湯沢の城に移ろうと企図したが、湯沢城主三春信濃がこの命に従わなかったため、三春を討って湯沢城に移った。これを聞いた金沢に住む役氏金乗坊横手佐渡守を大将として数万の兵を率いて稙道を討とうとした。これを聞きつけた稙道は横手と金乗坊を討とうと大軍を率いて横手城を攻め立てた。しかし金乗坊飯詰の防戦により稙道の軍勢は悉く敗北を喫した。さらにこの折り、増田・浅舞が心変わりをして横手勢に味方し、稙道はますます劣勢となり、手勢の半分以上が討たれて引き退いた。この時、横手佐渡守は更に激しく攻め立てたので、危うく感じた小野寺家中の八柏大和守が計略をめぐらし、自らが稙道の身代わりとなり討たれた。稙道はこれにより湯沢城まで退却した。
その後、
横手佐渡守・金乗坊のふたりは心を合わせ、金沢・六郷・楢岡・角館・本堂・堀田・白岩の軍勢を招集し、仙北の領民を引き入れ、その軍勢は三万余人を率いて、数日経たないうちに湯沢城に散々に攻撃しかけた。稙道自ら応戦したが、思うようにもならず流れ矢に中り討ち死にした。
(2008.4.27掲載)

明永山熊野神社
(秋田県横手市明永町)



38.「奥羽永慶軍記」「小野寺中宮助討たるるの事」〔小野寺四郎丸羽黒を頼る〕要約

稙道嫡男四郎丸も討たれてしまいそうな所であったが、家臣の八柏兄弟・関口・落合の計略にて、稲庭に落ち延びた。さらに敵の追捕をうけ、八柏の次男二郎が踏み止まって「我こそ、大将四郎丸ぞ」と名乗って主に代わって討ち死にした。八柏太郎は、四郎丸を引き連れて小野から役内に忍び出て、有屋・金山を峠を越し、本合海から船で最上川を下り、清川で上陸し、十日程して羽黒に入り三年の月日を過ごした。
さて、
横手佐渡守稙道親子を討ち取り、武威を振るい領内を支配しようとしたが、これに従う者はひとりとしていなかった。小野寺の郎党であった角舘・大曲・白岩・堀田・神宮寺・進藤・金沢・関口・山田・黒沢・増田・西馬音内・稲庭・河連・三梨・沼舘・浅舞・大森等の城主も、引き分かれ、常に戦い止むことなく、人民も戦いを避けて家を捨て、山奥で生活するようになってしまった。こうして羽黒山の小野寺四郎丸は父の敵を討とうと、近隣の城主を説得すると皆これに賛同した。庄内大山住武藤左京大夫晴時・同大梵字の住二郎晴安・酒田の六郎・仁賀保小笠原大和守安重・松根・黒川・藤島・小国・苅川・野沢・余目・一条・三世・由良・五十川・矢島・芹田を始めとして、羽黒の衆徒三百人都合其勢、五千余人二手に成りて、一隊は最上路を経て役内より押寄り、一隊は、由利を廻りて、石沢・玉前の切通しを経て、大沢表より攻めかかった。
そうすると日頃から
横手佐渡守の命に従わなかった小野寺の郎党たちはあちらこちらから集まり四郎丸のもとに馳せ参じ、激しく攻め立てた。横手・金沢勢はここが踏ん張りどころと防戦するも、国中皆四郎丸に属し、あちらこちらを攻め破られて金乗坊も横手城に引きこもった。此時、前田薩摩守・楢岡三郎・六郷父子・堀田治部丞・本堂六郎、一千余騎金沢を攻破り、四郎丸が加勢として、横手源正坂に陣を張った。四郎丸庄内・由利勢を率い、吉田・赤坂・八幡の間に陣を張った、先手は馬倉・増田・山田・関口・岩崎・深堀等七百余騎、川を渡り、横手町溝に攻入り、関町に放火すると、石町・本町・荒町数百軒余烟天をかすめ焼失した。
もうこうなっては思い通りになる訳もなく、
横手、金乗坊は残った手勢五、六十騎を率い、これが最期と縦横無尽に切り立て追い回すも多勢に無勢、一騎残らず討ち死にした。
それから
四郎丸は湯沢城を八柏孫七に与え「小野寺姓」の苗字を許し、自身は横手を本城とし遠江守輝道と名乗った。(2008.5.15掲載)

夜桜と横手城
(秋田県横手市城山町)



39.「神尾町遺事廿七箇条」と「奥羽永慶軍記」の比較と中書、中宮助

さて「神尾町遺事廿七箇条」(以下「廿七箇条」と表記)と「奥羽永慶軍記」(以下、「軍記」と表記)を記してきました。「神尾町遺事廿七箇条」には時代や背景に錯誤が多々あるようです。
ここでの中書と中宮助は同一人物のようで最近の研究では小野寺輝道の父である稙道と比定されています。稙道が討たれるまでの過程は異なりますが、共に悪逆で横暴な人物であったことが共通しているようです。その子輝道が山形県鶴岡の大宝寺に逃れたと言うことも共通しています。どちらかが底本となった可能性もありますが、「小野寺一族内で争乱があり稙道が討たれたこと」「輝道が大宝寺に逃れ、羽黒や周囲の協力により、旧領を回復したこと」は事実と考えられます。この争乱により小野寺氏は多くの史料を失ったとされています。江戸時代に入り、小野寺保道が石見国に配流の父義道に対して系図と提出を依頼したところ、「ひなうしない」との記述があり、「ひいおじいさん(保道から見て)の時代に失った」と記しています。


湯沢城跡の裏門
(秋田県湯沢市裏門町)



40.「小野寺中宮助稙道」について

いままで稙道は系図上と物語上の人物で実在が疑われていましたが、以下の史料により、実在の人物であると言うことが、最近の研究で明らかになりつつあります。
@天文二年(1533年)七月「伊勢加賀守貞満筆記」の「小林寺左衛門佐」が稙道とされいます。「小林寺」は本来「小埜寺」で、文書は縦書きでされるので「土」を誤って一つ書き落としてしまったされ、正しくは「小野寺左衛門佐」ではないかとされています。同文書には奥羽諸大名の「伊達」「湊(秋田)」「大宝寺」「芦名」「南部」「葛西」などの名前が記されています。
稙道の官途名は本来「中宮助」で疑念もありますが「左衛門佐」が当初の官途名であったかも知れません。
A天文年間前半頃(天文十年か?1541年?)に伊達稙宗から小野寺中宮亮に送られた文書が江戸期に南部家に仕えた小野寺伝八家に伝えられています。この「小野寺中宮亮」は出羽小野寺氏と奥州小野寺氏の二説存在しますが、小野寺伝八家の先祖は輝道の六男吉田(小野寺)陳道(秀道)とされています。
B高野山清浄心院所蔵仙北三郡過去帳、中書(中宮助)とされる稙道の過去帳が掲載されています。横手市史に掲載され資料的にはかなり信用できるものです。
その中に「天厳道性」仙北小野寺中宮介建之、永禄五年六月六日とあり、1562年に輝道が父稙道の位牌を造立しています。これと同じ内容が秋田県公立文書館蔵の小野寺系図(この系図では中宮亮惟道)に書かれており、この系図が正しいとすると稙道は天文十五年(1546年)八月十四日に死亡したことになります。仙北三郡過去帳からは天文十五年六月六日死亡と推定され、永慶軍記では天文二十一年(1551年)七月六日死亡としています。系図と位牌は月日が異なるものの1546年という点では一致しています。

これらのことから、稙道の死は1546年であり、子の輝道の幼さから、壮年期の死であったことが推測できます。

※「介」「亮」「助」はともに「すけ」で同じ位を表します。

横手城跡牛沼
(秋田県横手市城山町)



41.「神尾町遺事廿七箇条」が語るもの

再び「神尾町遺事廿七箇条」を思い出してください。小野寺中書という人物は、下野小野寺本家の人物であるとし、出羽小野寺氏は分家としています。下野の小野寺本家が出羽に来たことにより、内乱がはじまります。
ここで申しあげたいのは、出羽小野寺氏は京都御扶持衆としてその地位を築き上げましたが、実は小野寺の分家で、後世別の土地から、惣領小野寺氏が何らかの事情で出羽へ移住してきたのではないかということです。
 まず論拠は「平家(葛西)奉加帳」です。「小野寺上野守道俊」「小野寺甲斐守道成」が記されています。この人物は出羽小野寺氏ではないかとされていますが、「奉加帳」の氏名を見るとほとんどが奥州内の葛西氏一族あるいは葛西家臣にあたります。この小野寺両氏も葛西家臣であったと考えるのが自然でしょう。つまり、道俊は葛西家臣として、奥州に居た人物だったのではないでしょうか。
 ただし1525年に、稲庭地区の熊野三社に奉納した懸仏に「稲庭上野守道俊」の記載があります。「小野寺上野守道俊」と「稲庭上野守道俊」は同一人物と考えるべきでしょう。
つまり、奉加帳の記された年は、奥州に居し、1525年には稲庭に居たことになります。
道俊は、奥州登米の惣領小野寺氏で、何らかの事情により、出羽稲庭に移住してきた人物ではないでしょうか。「廿七箇条」には人物の名前や時代に錯誤がありますが、この惣領登米小野寺氏移住と稙道の死による跡目争いが、これに書かれている内容であると考えます。
(2008.11.13掲載)

小沢の熊野神社
(秋田県湯沢市稲庭町)



42.「神尾町遺事廿七箇条」をもとに小野寺惣領を論じる1

ちょっと話が前後しますが、
この惣領である登米小野寺氏は寺池保呂羽館を拠点としていました。当初は下野から庶子を移住させ支配していたものと想像できます。
 鎌倉末期の1327年、小野寺惣領とされる小野寺彦次郎入道道享が奥州栗駒の御家人沼倉隆経とともに幕府から平泉中尊寺の建物の状況報告を命ぜられています。登米という所領の立地と幕府からの厚い信頼を得て指名されたものと推測されます。
 のちの1329年には「小野寺虎王麿」が日蓮宗の日興上人の弟子であるとの記載があり、
日目上人譲状1327年、与民部日盛書にも「虎王」の記述が見られます。
また1333年、富士山麓の重須で行われた日興上人の葬儀に「小野寺太郎」という人物が新田小野寺一族と共に参列しています。
この「虎王麿」=「虎王」と「太郎」はともに同時代の人物のようです。二人の間には関係があるのでしょうか。
「虎王麿」は「とらおうまろ」(「麿」=「丸」)で、元服前の幼少期の呼称を示します。「虎」と「王」の字が示すように、子供のたくましい成長を祈願して付けられたものでしょう。一方の「太郎」は嫡男を表します。「とらおう=toraou」と「たろう=tarou」は意味が異なるものの、同じ韻を踏む同音語で、「虎王」の名には、たくましい成長と共に嫡男を意味する「太郎」の文字が隠れていたと考えられます。
つまり、「虎王」と「太郎」は同一人物で、その呼称から、登米小野寺氏で惣領にあった人物と考えられます。
(2008.11.22掲載)

保呂羽館南方にあった瑠理光山医王寺跡
慈覚大師の創建と伝わる
(宮城県登米市豊里町山根)



43.「神尾町遺事廿七箇条」をもとに小野寺惣領を論じる

16に関連。

 こののちの南北朝期の1336年には「小野寺肥後守」がおり、南朝北畠顕家に出羽(秋田)領内の中尊寺領の回復を出羽平鹿郡の地頭、平賀四郎左衛門ともに命ぜられています(北畠顕家袖判陸奥国宣)。
当時出羽小野寺領にも、鎌倉時代中期に下野から庶子が送り込まれていましたが、鎌倉時代末になると、登米の惣領小野寺氏から近い人物が移住して支配していたものと考えます。
「小野寺肥後守」はその文書の内容(出羽国内平泉領の回復)から、一般に出羽小野寺氏の当主と考えられていますが、出羽小野寺氏関係の系図や文書には「肥後守」の記載は見あたりません。
その一方で、奥州小野寺氏の系図には時代的に錯誤するものも見受けられますが、小野寺肥後守と名乗る人物が多く見られます。
また、出羽小野寺氏は2年後の1338年に足利尊氏から北朝に忠誠を尽くすものとして認められ、文書に小野寺摩尼珠丸の名前が見えるので、南朝方に接近するとは考えにくいです。これらを考慮すれば、この文書は南朝勢力が強かった奥州側にいた小野寺氏、つまり、登米に居た惣領小野寺氏方に発布されたもので、1336年当時、出羽小野寺領は、惣領であった登米小野寺氏が実質的な支配権を持っていたと考えます。この文書が正しく履行されたかどうかは不明ですが、のちに出羽小野寺氏が北朝に加担したことを考えれば、惣領家は出羽小野寺方へ伝えたが、履行されなかったと考えるのが自然でしょうか。同時期に下野でも、下野小野寺顕道が北朝方に所領を安堵されるなど、惣領家の領地支配は南北朝を境に徐々に形骸化していったものと考えられます。南朝・北朝の二派に分かれて戦ったのは、武家の習いとして、その血脈を残そうと意図的になされたのかもしれません。
先述のように出羽小野寺領は1338年に「小野寺摩尼珠丸」が足利尊氏ら北朝の安堵を受け、惣領家の支配から完全に独立していったものと考えます。

この「小野寺肥後守」と「太郎」はその時代や差出人から考慮すれば同一人物と考えられます。
つまり、
1329年「小野寺虎王麿」=1333年「小野寺太郎」=1336年「小野寺肥後守」

元服、のち官途で「肥後守」を名乗ったものと考えます。
「肥後守」は小野寺惣領として登米の保呂羽館に居た小野寺彦次郎入道道享(道義)の子であったと考えられます。

行道┬道義(入道道享)─虎王麿(太郎・肥後守) 惣領登米小野寺氏
     └道景─道親─摩尼珠丸(尾張守)          出羽小野寺氏

(2008.11.24掲載)

雪の横手城
(秋田県横手市城山町)



44.「神尾町遺事廿七箇条」をもとに小野寺惣領を論じる3

南北朝の折り出羽小野寺氏は、北朝方に参陣。足利将軍家より
出羽小野寺領の安堵状を受けて惣領の支配から完全に独立し、親足利将軍家としての京都御扶持衆の称号を得ます。一方の惣領家である登米小野寺氏は南朝に与しましたが、こののちの行動は史料に残されていません。おそらく自領周辺で南朝軍と北朝軍の合戦が繰り返され、疲弊していったものと考えられます。
1520年代に葛西氏が石巻より登米へ入城により、臣下となりました。登米小野寺氏は葛西領内の小城を転々したと伝わります。「平家(葛西)奉加帳」は葛西氏の登米寺池入城の際にその支配の確立を祈念して奉納したものかもしれません。
登米小野寺道俊は1525年に出羽小野寺稙道(自身は沼舘城へ異動)に出羽稲庭移住を勧められ、稲庭に入城、その領地支配の祈念として熊野三社に懸仏を奉納し「稲庭上野守道俊」名乗ります。道俊は本領の登米を葛西氏に譲り、家名は衰退してしまいましたが小野寺嫡家としてのプライドもあったでしょう。1546年出羽小野寺稙道が討死した後に、一族内で当主を幼少で出羽家嫡流の輝道を当主とするか、あるいは小野寺惣領家で移住してきた登米小野寺上野守道俊をその地位につけるのか、大きな論争があったものと考えられます。
結局、登米小野寺道俊が足利将軍義晴から偏諱を受け、小野寺晴道と改名し、稙道亡き後、幼少であった輝道へ中継ぎの役割を果たしたものと考えます。系図に依れば1550年死去とあるので、出羽小野寺領支配は数年であったと考えられます。
小野寺系図に書かれた晴道は稙道の弟になっているものや、稙道の二男になっているもの、あるいは稙道のおじになっているものなど一様ではありません。
「神尾町廿七箇条」は稙道亡き後の一族、家臣たちの動揺や対立抗争の一部を真実とは多少異なるかもしれませんが物語っている気がしてなりません。

行道┬道義(入道道享)─虎王麿(太郎・肥後守)・道俊(上野守・晴道・出羽稲庭)
     └道景─道親(遠江権守)─摩尼珠丸(尾張守)・・・稙道─輝道・・・

(2008.11.27掲載)

雪の横手城下
(秋田県横手市城山町)



45.小野寺山大慈寺と谷地の大慈寺1

慈覚大師は794年に、のちの小野寺氏領内となる三毳山(みかもやま)の麓である下津原で生を受けました。慈覚大師と言う名は没後に天皇より贈られた名で、名を円仁といいます。円仁の父は三毳の関の役人であった壬生氏とされており、幼少時に円仁は天台宗小野寺山大慈寺で修行し、比叡山に登り天台宗の第三世となりました。また唐に渡り「入唐求法巡礼行記」を記し、国内では東北地方を巡り、数多くの寺の開祖としてもその名が残されています。
下野小野寺山大慈寺は739年行基によって創建された名刹で、小野寺氏の名前の由来となった寺でもあります。小野寺氏の初代義寛は大法師と名乗り、小野寺保(荘)の領主であり、この寺に関係する僧であったと考えられます。
さて、「神尾町遺事廿七箇条」の話ですが、内容は登場する人物などから1525年〜1550年くらいの話と想像できます。29「神尾町遺事廿七箇条1」の文末「本国より大慈寺名跡うつして谷地に一宇を建立されてけり。是れ小野寺が大乱区逃(苦闘か)のはじまりに候。」とあり、中書が大慈寺を下野から出羽に遷移したことが小野寺氏の争乱のは始まりとあります。
しかし、出羽大慈寺のおこりには「長和2年(1013)に密教寺院として創建されました。元々は沼館付近の今宿にありましが、何度か場所が移り、江戸時代に入ると藩主である佐竹氏一門である佐竹東家の庇護の元、50石の寺領を受け、宝永元年(1704)に現在地に移り東家の香華所としました。」とあります。
http://www.akitabi.com/bohi/daijiji.html  (『秋田県WEB観光案内所: 大慈寺』より引用)

(2009.3.16掲載)


慈覚大師生誕の地
(栃木県下都賀郡岩舟町下津原)



46.小野寺山大慈寺と谷地の大慈寺2

現在の大慈寺は横手市大森町にあります。元々あったとされる今宿から何度か遷移して大森に至りました。今宿は沼館城に隣接する地区にあります。
文中の「(下野小野寺から)大慈寺名跡うつして谷地に一宇を建立」というのは、横手市大雄大慈寺谷地(旧大雄村)のことを言っているものと考えられますが、現在は「大慈寺谷地」と言う地名のみが残されているだけで、大慈寺は存在しません。「大雄村史」によると、谷地の大慈寺は大森町に移転したというので、沼館今宿→大雄谷地→大森と遷ったものと考えられます。
大慈寺に伝わる1013年建立が事実とすれば、中書が大慈寺を下野より遷したというのは、誤伝になります。
また、沼館にいた稙道(中書)が、わざわざ沼館から10キロあり、遠く離れた大雄谷地に大慈寺を遷移したとは考えにくく、中書は雄物川町今宿にあったものを厚く庇護したと考えるのが自然でしょう。「神尾町遺事廿七箇条」では大慈寺の位置や年代に錯誤があったものと考えられます。

大慈寺マップ
(2009.3.25掲載)


大慈寺山門
(秋田県横手市大森町)



47.もう一つの大慈寺

「下野小野寺大慈寺」、「横手大森山大慈寺」のほかにもう一つ大慈寺があります。
「法輪山大慈寺」で場所は宮城県登米市東和町米川町下にあります。
東和町史に「この寺は永享元年(1429)後花園天皇の御代黒石村正法寺四代中山良用大和尚の開基で曹洞宗の古寺である。この寺はもと藤原秀衡が奥州三十三観音の十四番目の札所として建立され諏訪山大慈寺と称し、天台宗の寺であったという。今の蒲の沢から登った一七〇メートル位の高さのところにあった寺が、その後荒廃して中段まで下ったところへ再建された。このてらは数度にわたって火災にあい、古い記録も宝物も今はなく詳細な由来は不明であるが、先に述べたように中山良用大和尚が曹洞宗の寺として開山したものである。正法寺には最多のときには千四百余の末寺があったといわれている。その中特に寺格の高い寺が八ヵ寺あって、大慈寺はその一ヵ寺になっていた。当寺は曹洞宗大本山能登国総持寺の輪番寺であった。輪番寺というのは全国に五〇ヵ寺あって、輪番寺の住職は一ヵ年間交代で大本山に登り大本山の寺務をみるのである。この役目は天皇の御倫旨による。この御倫旨の箱だけが残っている。黒漆塗で長さ六〇センチの箱で表には一六菊の御紋章があり、左右にはひもを通す菊の紋章のついた金具がついている。大慈寺は奥州三十三観音の十四番目の札所であったので、西行法師が諸国行脚中に当寺で詠まれた歌が伝えられている。(以下略)」とあります。
火災で古記録を失ってしまったというのは残念でなりません。登米地方には慈覚大師が建立したと伝わる寺が数ヵ寺あります。「大慈寺」という名前と「天台宗」を考慮すれば、創建には慈覚大師が関連しているかもしれません。またのちにこの大慈寺に触れることになります。
(2009.3.26掲載)

米川の大慈寺方面を望む
(宮城県登米市東和町)



48.僧日道書状

旧冬十二月廿四日ノ御札、二月十三日到来、委細拝見候了、
抑御使交名事、三迫ニハ下妻九郎岩崎地頭、柳戸保ニハ米谷八郎、後藤壱岐八郎ト、御教書ニハ成候也。加賀野からハ廿里にて候、
一迫ニハ大掌甲斐守、大掌周方九郎左衛門為広、登米郡ニハ■渕孫三郎行宗、此人々そよく候へく候、仰かたしけなく候つるよし、御披露あるましく候、
一 去年度々連歌会紙給候事、何よりも恐悦無極候、猶も可給候、
一 大坊への御請ケ取ハ如仰申て候、墨の未進ハ、今度の土産ニ進候、
一 今度思立て候つるを、あまりにあまりに人々留られ候間、逗留仕て候、
  来八月の御まちくし候也、李陵様のもの持参すへく候、諸事期後信候、恐々謹言、
二月十三日     僧日道(花押)

謹上 民部阿闍梨御坊
          御返事


(2009.6.28掲載)


日目上人日道上人生誕地の碑
(静岡県田方郡函南町畑毛)



49.登米郡の■渕孫三郎行宗を探る1

日道は本姓小野寺で大石寺の第四世です。彼は新田小野寺氏の伊豆国の所領で生誕しましたが、一族は陸奥国新田郡も領有していたこともあり、頻繁に両領地を行き来したようです。
この書状には日道の支援者として奥州御家人の名が記されていて大変興味深い文書です。
「三迫ニハ下妻九郎岩崎地頭」「柳戸保ニハ米谷八郎、後藤壱岐八郎」「一迫大掌甲斐守、大掌周方九郎左衛門為広」「登米郡ニハ■渕孫三郎行宗」とあります。
下妻九郎は栗駒町岩ヶ崎に居た御家人で、茨城県下妻市を領した藤原姓小山氏流の下妻氏の一族と考えられます。
「柳戸保」の地名は現在見あたりませんが、「柳津」が比定されます。「戸」と「津」はともに港あるいは船着き場を意味し、同意と考えます。米谷氏は東和町米谷城の千葉姓亀掛川氏族とされています。米谷八郎が米谷城にありながら支配権を持っていたのでしょうか。戦国期に柳津の高森城には柳津通継という千葉姓とされる武将が居ました。「柳戸保」は当時米谷を含む広範囲だったかもしれません。
後藤氏に関しては不明ですが、大石寺文書に後藤佐渡三郎基康や葛西奉加帳に五(後)藤治部少輔尚資などが見受けられます。大掌氏は一迫にいた狩野氏とされています。

ここで注目したいのは登米郡の「■渕孫三郎行宗」です。■の字は、欠けているのではなく、文書の解読者によって異なります。考えられるのは「桁」「柳」「枡」の三文字で、それぞれ「桁渕」「柳渕」「枡渕」となります。いずれのくずし字も似通っており、それにより解読が難しくなっているようです。

(2009.7.3掲載)

伊豆国新田館跡遠景
(静岡県田方郡函南町畑毛)



50.登米郡の■渕孫三郎行宗を探る2(三説の概要)

「桁渕説」
姉歯量平氏の書かれました「中世における日蓮宗奥州布教と登米氏の究明」では「桁渕」と解されています。「桁渕」は登米市登米町寺池の龍源寺の山号で「桁渕山龍源寺」と称します。

「柳渕説」
登米市米山町中津山字柳渕が挙げられます。この周辺には、城跡がいくつか残されており、近隣の米山町西野には西野秀隆(筆者は登米小野寺一族と比定)が居た近辺になります。

「枡渕説」
登米市東和町米川にある鱒渕(ますぶち)と比定します。江戸時代に鱒渕村がありましたが、行政地区の統合により現在は地名としては残ってません。現在その地名は鱒渕川と鱒渕小学校という名称で残されています。

(2009.7.6掲載)


奥州新田城址
(宮城県登米市中田町宝江新井田)



51.三説の検証1 桁渕(けたぶち)氏説

「桁渕山龍源寺」に関する記載は、紫桃正隆著「私本奥州葛西記」の中に詳細に記されており、「龍源寺」はもともと桃生郡河北町中島の南数百メートル、牧ノ巣山の北麓にありました。のちに登米寺池に移され葛西氏の菩提寺となりました。桃生の中島には山内首藤氏が治めた中島城跡があり、その西北に大沼があって桁渕沼と呼ばれていました。これが龍源寺の山号「桁渕山」の由来です。
 鎌倉から室町時代にかけての武将たちは自分に与えられた一所懸命の土地の地名を姓に負うことが多くありました。これを考慮すれば、「桁渕」の名乗りはありうるものと思われます。
しかし、現在桁渕沼は埋め立てられて、本来の姿を見ることが出来ません。「桁渕」の地名も見つかりません。現在小字にもなっていない沼のしかも狭い土地の名を当時、或る御家人が苗字として名乗るというのは考えにくいです。また文書には「■渕氏」は「登米郡」にいたというのが明記されていますので、桁渕氏が仮に存在したとして「桃生郡」に居ると所在に矛盾が生じます。
「桁渕氏」が登米寺池に遷移された「桁渕山龍源寺」の山号に因んで「桁渕」を名乗ったとも推測できますが、龍源寺が桃生から遷移されたのは文書が出されてから約二百年後の1500年代のこととなます。また文書が発出された時より前に桁渕氏が桃生から登米に移住したとも考えにくいです。「■渕孫三郎行宗」は「桁渕」ではなかったと考えます。

(2009.7.9掲載)


桁渕山龍源寺
奥州葛西氏の菩提寺
(宮城県登米市登米町寺池)



52.三説の検証2 柳渕(やなぎぶち)氏説

登米市米山町中津山字柳渕には柳渕姓が存在します。当地は「登米郡」の条件も満たしています。ただし、史料的に柳渕氏=「■渕氏」を史料的に裏付けるものは見つからないようです。
この地域は登米中津山氏が居り「葛西氏家臣団事典」によると戦国期には「十文字内記、八郎左衛門という兄弟がおり、米山町西野の専興寺は元亀二年千葉長門守、伊勢守の兄弟が開基した。家紋は九曜である。(一部要約)」とあり、十文字兄弟は千葉氏流と考えられています。
周辺には先述のように登米小野寺氏の支流である西野氏も支配していたようです。戦国期には大崎氏と葛西氏の境界線で多くの戦いが行われた地域です。それ故大小の城や館跡が多数存在する地域ようですが、「柳渕説」の可能性は低いように思われます。

(2009.7.15掲載)


柳渕付近のチューリップ畑
道の駅米山
(宮城県登米市米山町西野)



53.三説の検証3 枡渕(ますぶち)氏説

古川市史掲載の「僧日道書状」には「杵(きね)」と訳してあるものを訂正し「枡」のルビが振られています。もともとの出典である「宮城県史」には「杵」で書かれていたのかも知れません。
これら三説の中ではこの「枡渕」の説が一番有力のように考えられます。
「枡渕」の地名を調べましたが、同じ表記の地名は見つかりませんでした。しかし音を拾って調べると、登米郡東和町米川の鱒渕が挙げられます。もちろん現在、「枡渕」=「鱒渕」を示す史料は見つかっていません。
角川日本地名大辞典によると、「鱒渕の名前の由来は鱒渕川に多くの鱒が生息していたため」といい、また「馬渕・魔渕に起こるともいう」となっていて、先述のように江戸時代には鱒渕村が存在しました。明治には米川村の字名になりましたが、昭和31年に米川村と錦織村が統合し、日高村になったため、「鱒渕」の地名は消滅し、通称となりました。現在は小学校と川の名前として残されています。 「ます」は本来、魚の「鱒」を示すのではなく、往古は「枡形(正方形)の渕」が存在し「枡渕」と記していましたが、いつの間にか字が「鱒渕」に変化したものかも知れません。鱒渕には「城ノ内」「館の下」という地名が残されており、鱒渕城があったと言います。「■渕孫三郎行宗」は「枡渕孫三郎行宗」で登米市東和町米川町鱒渕の領主であり、また小野寺日道を支援した御家人と推測します。
(2009.7.23掲載)


鱒渕川の清流
(宮城県登米市東和町米川)



54.鱒渕城のこと。

紫桃正隆著の「史料仙台領内古城・館」による

一、位置
登米郡東和町鱒渕(旧米川村)西郡街道の飯土井、即ち今の役場のある集落より進路を東にとり、沢ぞいに南の山中に向かって入ると鱒渕と言う所に横たわる細長い小山全体がそうである。

二、規模、構造
この小山の西北端が最も高い。この付近には杉の巨木が密生し、林をつくる。その下には及川家の神社が鎮座している。勿論、ここが本丸のあとである。本丸のまわりは巾の広い土壇が一段だけ見られるのみで他はすべて急な崖となる。ここから南に尾根沿いに細長い平地がひらけ、五〇メートルも進むと第一の空壕につき当たる。ここまでが本丸の遺構である。空壕を越えると再び平地となる。ここからが二の丸の部分であるが、ともかく、観音の岡の地続きの部分まで二カ所、都合三カ所に空壕が切られ、この細長い城郭が区分されているのが鱒渕城の大きな特長と言えよう。全体的に評するならば、東西三〇メートル、南北二五〇メートルと、極端に細長い連郭式山城。しかも、両側が物凄い断崖となるのがこの城の真価でもある。「仙台領古城書上」に「山鱒渕城」として、東西十三間、南北四十間とあり、筆者の推定とほぼ合致を見る。

三、歴史
「古城書上」に城主、及川紀伊守とある。
気仙沼市「加藤文書」によると−城主及川紀伊頼貞、天正十八年没落。其の子孫つまびらかならず、村中、及川を称する者、数家あれども、是皆家中の者にして、家系相続者にあらざるなり・・・・・・云々とある。別項にも書くが、ここの及川氏は、気仙高田市の蛇ヶ崎城主、及川綱重の一族の者だとも伝わる。「及川系図」によると天正十九年、鱒渕城主、鱒渕彦三郎重倫(しげみち)(別名、及川刑部)が伊達家の手にかかり桃生郡須江山で殺害され、及川一族は滅亡している。

また同氏の別書「葛西氏家臣団事典」には、鱒渕及川氏の先祖は源姓といわれ、大永三年(1523)に上沼(登米市中田町上沼)から鱒渕へ移住したと伝わるとあり、戦国期には及川氏が鱒渕の支配者となっていたようで、それ以前は別の領主が居たと考えられます。(2009.9.22掲載)



鱒渕の風景
(宮城県登米市東和町米川)



55.枡渕孫三郎行宗は小野寺氏か?1(「行宗」から考える)

日道書状での岩ヶ崎の地頭「下妻氏」は藤原姓小山氏族、一迫の「大掌氏」は藤原姓狩野氏族、柳戸保の「米谷氏」は平姓千葉氏族亀掛川氏、「後藤氏」は藤原氏と考えられます。では、鱒渕の「枡渕孫三郎行宗」の出自は何氏であったのか気にかかるところであります。これは室町初期の登米地方の勢力を探る上でもとても重要な鍵になってくると思います。
名前の「行」の字を基準に推定すると、小野寺系登米氏あるいは同系新田氏に「行」の通字が多いことは以前に申し上げました。「新田行道」「新田行時」「新田重行」「新田行盛」「登米行賢」などがあげられます。だだし同じ藤原南家流の二階堂氏も「行」の字を用いた人物が多かったようで注意が必要です。この近辺の登米市中田町浅部と言うところに「二階堂平内」(諱は不明)と言う人物が居たと伝わっています。他に登米地方には葛西氏庶流千葉氏庶流を名乗る国人も多いですが、葛西氏系は「重」「清」、平姓千葉氏には「胤」の通字が多いようです。(2009.10.17掲載)


鱒渕城跡
(宮城県登米市東和町米川)


56.枡渕孫三郎行宗は小野寺氏か?2(大慈寺のこと)

「47.もうひとつの大慈寺」でお話ししましたが、再度ここで取り上げます。
大慈寺と小野寺氏はつながりがあるように思えます。「下野小野寺大慈寺」「横手大森山大慈寺」この二つは小野寺氏と縁があるお寺です。そして、登米市東和町米川の「法輪山大慈寺」も関係があるのではないでしょうか。最初に下野小野寺を訪問した際、道に迷い地元の方に小野寺氏のことを調べに来た旨を告げると「小野寺氏は慈覚大師に従って東北に広まった」と教えていただきました。あくまでも伝承で史料的な根拠はありませんが、その足跡をたどれば不思議と合致するような気がします。
(2009.11.8
掲載)

大慈寺の山門
(宮城県登米市東和町米川)



57.枡渕孫三郎行宗は小野寺氏か?3 (合ノ木の小野寺氏のこと)

東和町史に以下のようにあります。
「東和町合ノ木の小野寺宅の系図であるこの家は登米葛西の一族で、天正十八年葛西・大崎が秀吉の軍に攻められたとき、幼少の葛西信篤をその家臣小野寺源五郎宗重がかばって入谷に逃げ、さらにこの合ノ木まで来て隠れ住んでいたもので、本来なら葛西を名乗ってよい家だが、家臣の小野寺の隠居屋として住んだので現在は小野寺を名乗っている。この小野寺家の葛西の系図は岩手県の系図の系統である。初代から九代までは全く同じで九代満信の子二人が書かれている、兄は持信、弟が信敏である。この兄持信の子孫になっているのが岩手県にある系図で、弟信敏の子孫が合ノ木の小野寺家である。合ノ木の小野寺家の葛西系図は三十余年前までは、門外不出で他見を許さなかったという。それだけ元のままの姿の系図であると言えるだろう。」

別の項にも書かれていて、要約すれば葛西信篤は家臣小野寺重宗に従い身を隠すために合ノ木に住み小野寺姓を名乗ったようであり、その後も葛西への復姓をしなかったというのが意味するところである。
当地方には、これ以外にも葛西氏が母方の小野寺姓を名乗ったと書かれた系図を残す葛西系小野寺氏が数家あります。
葛西氏出身で同氏家臣とされる合の木の小野寺源五郎重宗は枡渕孫三郎行宗と関係があるかもしれません。(2009.11.21掲載)


登米名物油麩丼
(宮城県登米市東和町道の駅林林館)



58.枡渕孫三郎行宗は小野寺氏か?4(総括)

「大慈寺」「行の通字」「合ノ木小野寺氏」から判断すると小野寺氏であった可能性が高いです。
「枡渕孫三郎行宗」は登米郡の鱒渕(登米市東和町)にあって、小野寺系新田氏の大石寺第四世日道上人支援した御家人で小野寺氏庶流と考えられます。のちに何らかの事情で鱒渕城を追いやられ、その子孫は合の木小野寺家と関係があったのではないでしょうか。(2009.12.1掲載)


鶴丸城趾 下妻氏の居城か?
(宮城県栗原市栗駒町岩ヶ崎)



59.二迫氏に迫る1 計須見館(かすみ・保呂羽館)へゆく

鶯沢町と栗駒町の町境に計須見館(かすみ・保呂羽館)があります。
まずは「ほろわをゆく」の保呂羽神社の調査で当地を訪問致しました。数年前から当地の計須見館(保呂羽館)の跡に保呂羽神社がかつて祀られていたという情報は入手していましが、場所の特定ができずにいました。栗駒町と鶯沢町(文字)境の山中ということは判明していたので、ひとまず現地に行ってから探索することにしました。結局自力では見つけられず地元の方にお聞きして到達することが出来たのですが、訪れるまでは特別に小野寺氏との関係は、あまり感じることはありませんでした。しかし保呂羽の呼称、城の広大さと、山の険しさに驚かされ、しかも保呂羽の石祠の台座に刻まれた多数の奉納者の氏名の中に小野寺の姓を刻まれているのを見つけて、この城が一体誰のものであったのかと気になりました。帰ってから町史などを調査していくうちにある小野寺氏との関係が見えてきました。ちょっと大げさかも知れませんが、しかも私の説が正しければ、自分が考えていた小野寺氏の通説が変わるかも知れません。
(2009.12.29掲載)

計須見館趾の麓を流れる二迫川
(宮城県栗原市栗駒町文字)



60.二迫氏に迫る2 計須見館(かすみ・保呂羽館)の概要

紫桃正隆著の「史料仙台領内古城・館」による

一、栗原郡鶯沢町中山(旧鶯沢町、文字村)
正確にはここは鶯沢町と栗駒町の境界線、三角点上に位置している。
ここに登るには栗駒町側からのほうが判り易いかも知れない。二迫川沿いの山中集落のうち、数軒の民家が点々する西風なるところに登山口がつく。山頂に石神が祭られているからそれを目ざして登るとよい。

二、規模、構造
高さ約一五〇メートル、北面は二迫川を俯瞰する断崖絶壁となる。山頂には東西、南北ともに三〇メートルの方形平場あり、一隅に石神が鎮座する。ここが本丸でもあり、城郭のすべてでもある。不完全ながらまわりには二段の土壇が見られる。城郭は岩頭上にあるわけで、無双の天嶮なるは言うをまたないが、一面ここからの展望はまことに絶景、視界をさえぎるものは何もない。
この城館は城制としては古代のものに近い。「風土記」、「仙台領古城書上」ともに、鶯沢村分として記録されていて、霞ヶ岡の「計須見館」として、東西三十間、南北六十間とある。

三、歴史
「古城書上」には、城主二迫某とある。中世に入っても、物見台、ノロシ台として諸豪族に重用された城砦なのであろう。

さて、記述の中に「古代のものに近い」とあります。私も現地を訪問し、城跡を確認致しましたが、中世の地方の一国人のものとは思えないほど、とても大きく堅固なものであったことが想像できます。記述の通り、往古は古代の城で、無冠太夫伯元がというものがいましたが、安倍貞任より滅ぼされ、中世になり、二迫某が入植し当地を支配したものと考えられます。当地は御前山とも呼ばれ、西風という地名は「ナライ」と読ませます。「ナライ」は強風が吹く土地をそう呼称するそうです。計須見館は古くから強く風が吹く場所だったと想像できます。 (2010.5.16掲載)


計須見館趾
(宮城県栗原市鶯沢町中山西風)



61.二迫氏に迫る3 史料に見える二迫氏

城主とされている二迫氏の名は「薄衣状」にみえます。「抑上形・富沢方不顧不肖之身、為私二迫彦次郎切腹、」とあり、後にも先にもこの一度だけで「二迫氏」の名前は見ることが出来ません。二迫氏は上形・富沢の両氏により切腹に追いやられたことが判ります。史料に見える二迫氏・富沢氏・上形氏はそれぞれ一所懸命の地の地名を名に負った在地勢力で本姓はそれぞれ別にあったもの考えられます。
栗駒町誌では薄衣状を明応七年(1499)としていますが、近年の研究(古川市史)で文明元年(1469)のものとした方がよい。とあり、これに従い話を進めます。「二迫氏」の推定に関しては栗駒町誌に詳しく記されています。
まず、二迫氏はこの前年である1468年10月頃、岩ヶ崎の富沢氏、尾松の上形氏の両氏に攻められて滅亡しました。同書によると「ことの発端は、上形氏と富沢河内守は共謀して、自分ごとのために二迫彦次郎を切腹させてしまった。実に過分の間が僻事である。ところが、富沢河内守は古川氏(大崎氏一門)の計略で罪を赦され、そのため大崎氏に懸命に奉公していた。しかるに柏山伊予守重朝(胆沢郡大林城主葛西一門では最大の豪族)は、それを不満とし(富沢氏は葛西一門なのに大崎氏についていたので)金成氏、黒沢氏(葛西一門)と計って富沢河内守を殺害してしまった。」とあります。
これを機として奥州はもとより出羽にも大争乱は及んだといいます。
(2010.8.21掲載)

二迫氏関連マップ


計須見館趾から栗駒山方面を望む
(宮城県栗原市鶯沢町中山西風)



62.二迫氏に迫る4「てんきう」典厩(富沢氏の祖)と「しゆさん」(上形氏の祖)の蜜月の話

「余目旧記」鶯沢町史より

吉良氏と畠山氏が争っていたころ、葛西れんせい(葛西八代満長(良カ)の法名が蓮昇であるのでこの人に擬せられている)の子に右馬助(唐名で右典厩)といって、所領を全く持っておらず意気のあがらない者がおった。また、戒名を「しゆさん」とよばれ、これまた一軒の年貢を納める農家も持たないが、内力な(富有実力がある)ものがおって、領土を奪いあって戦いをしている世の中に、侍となって身代を立てないことは残念なことだ。ということで「しゆさん」が質にとっていた馬、具足を身につけ、戦場におもむいたが、二人で同じ側について勝てば、二人とも勝ち、敗れれば二人共敗れることになるから、別々の側について、どっちかが勝てば負けた方についた者を助けようと相談して、「しゆさん」は畠山方につき長田城に、「てんきう」は吉良方について駒崎にそれぞれ入城した。その後「しゆさん」は、ひそかに「てんきう」をおとずれ、今晩、城の柵を十本位切って攻めやすくしておくからと教えた。翌日吉良方は長田城を総攻撃したが、「てんきう」はすでに切られている柵から一番のりをし、吉良方の大勝利となって畠山氏は海路をおちのび、二本松に逃げ、二本松畠山氏となってしまった。
その時の忠節によって、「しゆさん」(ウハ形、上形)には二迫三国郷、「てんきう」(富沢)には三迫とみさわの郷を給った。それから両氏共威勢がいやまして、余目旧記が書かれた、永正十一年(1514)には上形氏は二迫、栗原、小野松二十四郷。富沢氏は三迫高倉庄七十三郷、西磐井郡三十三郷にまで所領が拡大している。
鶯沢は小野松(尾松)庄内にあるので、この頃すでに上形氏の所領に入っている。
ところで、上形、富沢両氏成立の契機になった吉良、畠山両氏の二度目の合戦の年代は非常に不明確であって、確かな年代はわからない。
一度目の合戦は観応二年(1351)でこの時負けた畠山氏には後国詮と名のった子供がおって、会津にのがれ、勢力を増してから再び吉良氏と争った時であることは確かである。(2010.8.25掲載)


岩ヶ崎(鶴丸)城からの眺望
(宮城県栗原市栗駒町岩ヶ崎)


63.二迫氏に迫る5「富沢氏」のこと

富沢氏は栗原市北部の三迫岩ヶ崎城主で、戦国の世は葛西氏の「近習衆」として仕えていたようです。
出自について余目旧記には「葛西れんせい十番目の子、右馬助」としていますが、江戸時代の系図には、姓藤原氏家紋は丸抱鹿角と葛西氏族の片鱗を見ることが出来きません。
応永七年(1400)に栗原郡にいた奥州探題宇都宮氏広が葛西・大崎・石橋の連合軍に攻められ敗亡しました。石橋氏は宇都宮旧領の福島四本松へ、栗原郡は葛西・大崎両氏に分与され、二迫(上方郷)は上形氏、三迫は富沢右馬助に与えられました。岩ヶ崎は葛西氏と大崎氏の境界にあたり、富沢氏は当初葛西派であったがのちに大崎に与しようと葛西氏と天正七年(1579)に一戦交えている(富沢兵乱)が敗れ降参しました。戦国の末には主家葛西氏を無視して伊達政宗と接近するなど、半ば独立した存在でありました。のちに伊達家を見限り、上杉家に与した後、南部家へ仕えています。世渡り上手で勢力拡大を遂げたようで、永正十一年(1514)には三迫高倉庄七十三郷、西岩井郡三十三郷を支配しました。
富沢の姓は、岩ヶ崎城の北に「鳥沢」があり、これが転訛したものとする説や、もともと岩手県の流荘富沢出身とする説など出自は定かでありません。
富沢兵乱では大崎氏と最上氏の支援を受けて、葛西領西磐井郡流荘に攻め込んでいることから、旧領である富沢を回復しようと企図したものとも考えられます。
奥州藤原氏の時代の「磐前村印」が平泉から発見されており、この印は「岩ヶ崎(いわがさき)」を指すとされ、これが事実であれば岩ヶ崎は古くから栄えた地域と想像できます。
また、前に紹介しました日道書状の岩ヶ崎地頭藤原姓下妻氏との関連も気に掛かるところです。
本丸へ登る道の途中にはには上行寺という日蓮宗の寺院があります。「小身延山」と刻まれた石碑があるので、山梨県の身延山を彷彿とさせるのでしょう。
紫桃氏の稿によると、のちに葛西族柏山伊予重朝に殺された富沢河内守について、薄衣状の主、薄衣清胤(美濃入道)の三男で三迫城を嗣いだ富沢重氏に比定して矛盾はないが、明応初めは年齢的に重氏では若過ぎるので、その養父、中務大輔重隆と見るのが妥当であろう。ともあれ息子あるいは息子の義父が殺害されたとあれば、薄衣入道が怒って蹶起するのも当然であろう。としています。
富沢氏はもともと葛西氏の家臣であったが、領地が葛西氏と大崎氏との境界地であったため独立勢力的な存在でありました。上形氏と共に大崎家臣二迫氏を私的な事で攻め滅ぼしたが、大崎氏からの報復を恐れたために、葛西家から大崎家への恭順の意を表しました。しかし、この鞍替えに対して不満を抱いた葛西重臣たちは富沢河内守を殺害しました。子孫はのちに南部家へと仕えました。(2010.9.6掲載)

岩ヶ崎(鶴丸)城の堀と郭
(宮城県栗原市栗駒町岩ヶ崎)