ちょっとした思い出
ふれあいの旅
ホンジュラス | ペルー | スロバキア | ベリーズ | ミャンマー | コスタリカ | ||
長距離バスの中で | ウェイター | 入国初日 | 華僑 | パッオゥ族 | 束の間のバス... | ||
メキシコ | 韓国 | キューバ | フィリピン | ニカラグア | グアテマラ | ||
トトナカ族の少女 | 空港で | 道を尋ねたら | ホテル | Es Amor? | 運転手 | ||
いろんな国で人々の笑顔や親切に出会った。 ちょっとした触れ合いが楽しくてまた旅に出たくなる。 旅をしていれば普通に起こり得るどこにでもあるような話。 私の旅で出会った人々の思い出を国ごとに紹介する。 似たような経験をしたことのある人がきっと大勢いると思う。 これらの話で、旅行経験者にちょっとした旅の記憶を 思い出してもらえれば嬉しいのだが...。 |
* ホンジュラス |
1993 長距離バスの中で |
長距離バスを乗り継ぎながらサンペドロスーラからコパンへ向かった。 席の周りの人々はみんな親日的だった。 バスの中でいろんな人が話し掛けてきた。 「一人で旅してるのか?」 「日本のどこから来たんだ?」 「俺、広島と長崎、知ってるぞ。」 「(『歩き方』を見て)綺麗な本だな。見せてくれないか。」 などなど。 バスは小さなバスターミナル毎に一時停車をする。 それらのバスターミナルで、地元の子供たちが バスの窓越しに菓子を売ろうとする。 子供たちは買ってもらおうとして声を張り上げる。 「おや、なんだろう。」 と好奇心の目で窓の外を見た。 すると隣のおじさんが私にその菓子を買ってくれた。 「有り難う。」 バスの乗り換えのときも、みんながいろいろ指示してくれる。 「コパンに行くんだったら次はあそこのバスに行くんだ。」 メキシコや中米でのバスの中では、 こんな感じが当たり前のようにある。 |
* ペルー |
1996 アレキパのウェイター |
アレキパのアルマス広場沿いの中華レストランで。 そのレストランは前日に続いて2度目だった。 もちろんウェイターは覚えていてくれていた。 注文した料理を待っていると、ウェイターは新聞を持ってきてくれた。 折角だけど、スペイン語の新聞なんて殆ど読めないのだった。 ウェイターはちょこちょこ私の方に話をしにやってきた。 ウェイターは言った。 「きょう、楽しみにしてたサッカーの試合があるんだ。 ペルーVSアルゼンチン! テレビ一緒に見ないか?」 折角の厚意だったので、そのテレビを見ることにした。 料理を食べ終わったあと、従業員室に連れてってもらった。 試合が始まると、従業員たちとトウモロコシを食べながら観戦した。 みんな一体となってペルーを応援した。 私は両方応援したかったが、ココでは当然ペルーを応援した。 試合が終わった頃、ウェイターも仕事が終わり、 途中まで一緒に帰ることになった。 別れるときは、どこどこの通りとどこどこの通りは強盗が多いから、 そこは避けて帰った方がいいとか忠告してくれた。 ペルーのあちこちに、日本好きな人が信じられないほど多くいたのだった。 **************************** (P.D.) 帰国後、手紙を出そうと思った。 しかしレストランの名前は覚えてないし住所も知っているわけがなかった。 とりあえず宛先は確かこんな感じにした。 「ペルー,アレキパ市,アルマス広場の西南(?)方向に面した建物の2階の中華レストラン御中 ウェイター様」(スペイン語で) 数週間後、ウェイターから返事の手紙が来た。 あんな宛先でも郵便は一応届くようだ。 |
* スロバキア |
1993 入国初日 |
スロバキアの首都ブラティスラバにバスで到着した。 すっかり夜になっていた。 本当は夕方には着いていたかった。 - この近くにホテルあるかな。 - - ここから街の中心部までどうやっていけばいいんだろう。 - とりあえず人に聞いてみることにした。 バスターミナルでバスを待っている人がいた。 - よし、あの人にあたってみよう。- 「すみません。英語話せますか?」 『話せる』との返事がきた。 「いまスロバキアに着いたばかりなんですが、どこかホテル知ってますか?」 その人は一緒にホテルを探してくれるとのことだった。 我々は歩いて街の方へ向かった。 彼は植物学の勉強をしている大学生だった。 11月のスロバキアの夜はやはり寒かった。 - 夜だし、寒いし、一緒にホテル探してもらって申し訳ない...。 - やっとホテルに到着。 しかし満室だった。 次のホテルも満室。 一緒にホテル探しをしてくれているその人に申し訳ないと思った。 「もういいよ。あとは自分ひとりで探すから。」 しかし、心優しきその人は次のホテルにも付き合ってくれた。 3件目のホテルにしてやっと空き部屋が見つかった。 ホッとした。 彼にお礼を言った。 ホテル探しに1時間以上も、見知らぬ外国人のホテル探しに付き合ってもらった。 なんて親切な人だったんだろう。 |
* ベリーズ |
1992 華僑 |
ベリーズ・シティーは華僑が多かった。 私が見た限りでは街の10%くらいが華僑のように思えた。 ある事情があってUSドルをベリーズ・ドルに両替しなくてはならなくなった。 まず宿泊していたホテルの人にお願いしたが、細かい金はもっていなかった。 ホテルの近所にチャイニーズ・レストランがあった。 別にそこで食事をしたわけではなかったが、 同じ東洋人のヨシミに期待して両替のお願いに行った。 中には華僑の女の子がいた。 中国語で話しかけらた。 大学では第2外国語が中国語だったが全く話せない。 「我是日本人」 と言うのが精一杯だった。 そのあとは英語の会話になった。 (ベリーズは英語が公用語) そして両替をしてもらった。 アメリカ諸国で華僑に会うと親近感が湧いてくる...。 |
* ミャンマー |
1999 パッオゥ族 |
インレー湖のニャウンシュエからトレッキングに出かける旅行者は多い。 私もトレッキングをしようと思い、ガイドを雇った。 しかし、風邪を引いてしまったらしい。 熱もあるようだ。 それでも折角ニャウンシュエに来たんだからと思い、トレッキングは中止しないことに決めた。 ガイドと私の二人で山道を登った。 やはり足が重く呼吸も苦しくなった。 (風邪さえ引いていなければ、このくらい楽勝なのに...。) やはりどうにもならない。 これ以上登るのは無理なようだった。 頂上はもうすぐというところだったのだが。 そこで近くの山岳民族・パッオゥ族の家を訪れた。 その家の人は快く中へ入れてくれた。 パッオゥ族の家の中を見せてもらえて嬉しかった。 ガイドと私は、ガイドの持ってきてくれた果物や菓子等で昼食にした。 あまり食欲がなかったが、絞りたてのレモンジュースはごくごく飲めた。 その家に住んでいるパッオゥ族のおばさんは元英語教師で英語が話せた為、ガイドの通訳なしでも会話ができた。 私は風邪を引いている上に山登りをして、気持ちが悪くなっていた。 熱があるのは確実なようだった。 そこで、1時間半くらいそこの家で寝かせてもらう事にした。 おばさんは掛け布団を持ってきてくれた。 「有り難うございます。」 とお礼を言い、さらに 「熱があるようなので、できればもう一枚...。」 と甘えてしまった。 この家の人は親切な人だった。 体力がやや回復したので山を下りることにした。 ガイドから 「お世話になったのでチップを渡した方がいい。」 と言われた。 全くその通りだと思った。 私はお金を渡そうとした。 するとその家の人々は、 「そんなの要らないよ。」 とお金を拒否した。 しかし結局受け取ってもらったが。 |
* コスタリカ |
1994 束の間のバスの中で... |
ムカツク都市・サンホセ。 人々は東洋人を「チーノ」とか「コチーノ」とか言って馬鹿にする。 しかしこんな街でも、たまには友好的な人もいた。 バックパックを持ちながらバスの中にいた。 若い女の人が隣の席に座ってきた。 「日本人ですか?」 驚いた。 中国人かと聞かれずに日本人かと聞かれたからである。 もちろん日本人だと答えた。 お互い名前を名乗って親しくいろいろ会話がはずんだ。 - サンホセにも友好的な人はいるもんだ。 - 彼女から小さい果物をもらった。 その果物はたしか『ホコーテ』とかいう名前だった。 「わぁ、美味しい。 これ日本にないよ。」 あっと言う間に目的地に着いてしまった。 わずかな時間だったが、彼女に会えたお陰で、サンホセの印象は最悪を免れたかも...。 |
* メキシコ |
1993 トトナカ族の少女 |
パパントラ方面行きの夜行バスの中。 隣の席はトトナカ族の17歳の女の子。 1993年といえばメキシコでは日本人なんてそれほど珍しくもない存在になっていた。 しかし、彼女の住むエル・タヒン付近のような田舎では、日本人はまだ珍しがられているようだった。 彼女の家は農家で馬を飼っており、私を翌日馬に乗せてくれると話してくれた。 馬には乗ったことがなかったので喜んだ。 『(私がエル・タヒン遺跡を見終わりそうな時間の)翌日のPM3:00頃に彼女の家に電話する』という約束をした。 翌日...。 エル・タヒン遺跡見物をした。 遺跡見物が終わったときは、もうPM3:30になってしまった。 - 約束の時間を過ぎちゃってる! - - すぐ彼女に電話しなきゃ。 - 公衆電話を探したが見つからない。 どんどん時間が過ぎていった。 散々歩いてやっと電話を貸してもらえる店に辿りついた。 もう4時を過ぎていた。 電話は繋がらなかった....。 帰国後、彼女にお詫びの手紙を書いた。 遺跡見物が遅れた上に、電話がなかなか見つからずやっとの思いで電話を架けたが繋がらなかったことを書いた。 すっぽかしたのではなく、電話をするつもりはあったことを強調しておいた。 日本人のイメージを『いい加減』なものにしたくないと思ったからだ。 その手紙と入れ違いに彼女からも手紙が届いた。 その後1年くらい手紙のやり取りが続いた。 |
* 韓国 |
1992 空港で |
ソウルの空港へ到着した。 宿泊しようと思っていたホテルがあった。 しかし、そのホテルの名前はわかっているものの所在地が殆ど不明だった。 空港内のホテル紹介カウンターのホテルを見てみると、知っているホテルの宿泊料と比べて料金は高かった。 多くのホテル紹介カウンターの人にそれぞれのホテルを勧められたが、「高いから」と言って断った。 そんな中で、カウンターのスタッフの一人に「それでは、ほかにもっと安いホテルを知っているのか」と訊かれたので、知っていたホテルの名を告げた。 その人はかなり驚いた様子だった。 その人の話では、そこはかなりオンボロなホテルであるとのことだった。 私としては、今までメキシコや中米で多少汚めなホテルに泊まったことがあったので、オンボロについては泊まってもそれ程気にならないだろうと思っていた。 しかしどうしてもそのホテルに泊まりたいわけでもなかったし、翌日帰国なので金銭的にも格安なホテルに泊まらなくてはならない理由はなかった。 しかも、そのホテルの所在地もわからないので、そのホテル紹介カウンターでホテルを紹介してもらった。 ホテルが決まったあと、そのホテル紹介カウンターの人といろいろ話をした。 その人は、どうして私が例のオンボロ・ホテルを知っていたのかと、不思議そうに質問してきた。 実は、韓国に到着する前にメキシコにいたが、その韓国の格安ホテルはメキシコのホテルで集めた情報だった。 また、ソウルに来るのは予定外で、東京に帰る際にソウルで一泊しなくてはならない事は、リコンファームするときに初めて知ったのだった。 そのため、韓国のことは全くわからない。旅行前に韓国のことについて日本で何も事前情報など収集していなかったのだった。 実はこの旅行は、生まれて初めての海外旅行だった。 私は、上記のことをその人に話した。 その人は、韓国1泊2日滞在の私にいろいろアドバイスしてくれた。 両替はいくらくらいしておくべきかとか、帰国の際のお土産は何が良いかとか。 そして、ホテルに荷物を置いたあと、一緒に飯を食べることになった。 ホテル紹介カウンターのスタッフにこんなに親切にしてもらえるとは思わなかった。 |
* キューバ |
1999 道を尋ねたら |
朝、サンティアゴ・デ・クーバの街外れにある公園へ散歩に出かけた。 「あれ、この道でいいのかな。」と思ったところで女の人を見かけた。 その女の人に道を確認した。 その人は丁寧に教えてくれた。 無事に公園にたどり着くことができた。 その帰り道、さっきの女の人とまたすれ違った。 「さっきは有り難う。」 そして立ち話になった。 暫くすると、話が変な方向へ行ってしまった。 「アタシを買わない?」 と誘われて驚いた。 その女の人は娼婦だったらしい。 私は断った。 「東洋人のあそこ見てみたいなぁ。」 「ノー。」 何度も断ったが、その女の人は引き下がらなかった。 「おまわりさんに捕まっちゃうぞ。」 「黙ってれば大丈夫よ。」 「でもCDRに密告されるよ。」 「見つかる訳ないじゃん。」 「日本に彼女がいるんだけど、 彼女が悲しむから駄目。」 「黙ってればいいじゃない。」 「駄目だよ。日本人は真面目な生き物なんだ。」 その人は、呆れたように、やっと納得してくれた。 |
* フィリピン |
1998/1999 田舎の某ホテル |
フィリピンの田舎町にて。 宿泊しているホテルの従業員は親切な人だった。 町を案内してくれたり、彼の実家に連れて行ってもらいご飯を食べさせてもらったり...。 また、彼はホテルのレストランのウェイトレスたちと仲がよく、私は彼のお陰でウェイトレスたちとおしゃべりすることができた。 しかし、このホテル従業員、やたらと気持ち悪いくらいベタベタしてくるのだ。 さて、帰国が近づいてホテルを去るとき、彼から写真の送付を頼まれた。 そして、ここで撮った写真を日本で現像したら送付するという約束をした。 帰国後その写真を、お世話になった感謝の気持ちを込めて、そのホテル宛に送った。 約2〜3週間後(2月中旬)、そのホテル従業員から返事が来た。 その手紙には『Valentine Letter』と書かれていた。 「・・・・。」 ウェイトレス達からのものだったら大喜びしていたのだが、男からでは....。 そっちの方の趣味は無いので、その手紙の返事は出せなかった。 |
* ニカラグア |
1998 Algo... (Es amor?) |
アルゴ... |
* グアテマラ |
1992 運転手 |
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