都立大問題は終わっていない:行政の教育への介入と教育基本法 (2005.5.18)

 

都立大の危機 --- やさしいFAQ だまらん http://pocus.jp/damaran.html 

http://pocus.jp/05-2005/051805-g-kainyu.html 

 

都立大問題は終わっていない:行政の教育への介入と教育基本法[2005/05/18]

「だまらん」が(「たまらん」)とともに「『過去の総括』モード」に入ってしまっているのではないか、という指摘を頂いた。そう、確かにこれまで触れられてこなかった大学の内部事情を公開するというスタンスは確かにある。しかし、それは過去を振り返ることで、このような惨事を繰り返さないためにはどうしたらよいかを考える上で必要なことである。複数の原因があることは確かであり、その1つ1つをどうやって阻止できたかを検討することで、新たな犠牲者(犠牲大学)を作らないためには何をなすべきか考えることができると思う。その意味からも、 「都立大の廃止(と首都大の発足)によって『都立大問題』は終わった」という認識は間違っているということを、まず明示(manifest)しておきたい。

本日のお題は、いきなり『都立大 - 首大問題』の核心である。<行政の教育への介入と教育基本法>。まずは、教育基本法(一九四七(昭二二)・三・三一法律二五)の前文と第一条から。

 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育を確立するため、この法律を制定する。

第一条(教育の目的)
 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

「都立大の危機 やさしいFAQ」のG-3で中学校の教科書を引用したように憲法とは「国家を統制して国民ひとりひとりの人権を守る」ものであり、 PUBLICITY No.1150(2005/05/15/)で竹山 徹朗氏が言っているように、「国家への命令」としての性格を持つ。

 国の政治のあり方の基本を定めている法が憲法です。憲法は国の最高の決まり(最高法規)であって,憲法に違反する法律や命令などはすべて無効です。 憲法が大切なのは,とりわけ国家の権力を統制して,わたしたちの人権を守っているからです。
 日本国憲法も,権力を統制して人権を守ろうとしています。特に,戦前の天皇主権を否定して国民主権を確立し,また,人権の保障をいちじるしく強化しています。
(
「新しい社会:公民」  東京書籍,P.34より)

そして教育基本法も、同じように「国家への命令」として存在する。それが端的に現れたのが,以下の教育基本法第十条(教育行政)である。

第十条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。  教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

竹山 徹朗氏の説明の引用 PUBLICITY No.1150(2005/05/15/)

以下は、『11の約束──えほん教育基本法』(ポプラ社、800円+税)を推薦するにあたっての竹山 徹朗氏の解説である。特に、最後の部分に注目して頂きたい。

伊藤美好、池田香代子の二人が教育基本法を読みとき、沢田としきが絵を描いた。二人は『戦争のつくりかた』の製作協力にも名を連ねている。この二人にして、この一冊あり。まず、タイトルがいいじゃないっすか。

ウェブサイト。
http://smile.hippy.jp/ehon11/

だれにでもわかる言葉で教育基本法を読みといた文章とイラストに続いて、著者二人の対談「読みときをおえて」、それに教育基本法全文と参考文献が載っている。

本文の短さに比べた参考文献の多さでもわかるが、知恵を尽くして心を砕いて出来上がった本だ。

はるか昔、本誌で教育基本法を1条ずつ順番に読む連載をやったが、面倒になって3条くらいでやめてしまった。短い法律だから、続けときゃよかった、トホホ。

おさらいをしておくと、教育基本法は「教育の憲法」である。ということは、どういうことかというと、たしかに法律ではあるのだが、国民への命令よりも、「国家への命令」の性格が極めて強いっつーことだね。その性格を、変えようとしているわけだ。

憲法と教育基本法、いま改正作業が進められているこの二つの「法」は、両方とも本来、「国民から国家に対する命令」である。この二つとも変えようとしているところに、現在の政治情況が非常に明確にあらわれている。あまりにはっきり見えるので、逆にみんな気付かねえ。ニッポンという国家は、自分を縛る鎖を解き放とうとしている。

さて、著者の二人が読みといた文章が沁みるわけですよ。

第1条(教育の目的)の冒頭は、「教育は、めざします。/一人ひとりのうちにめばえたものが大きく育ち、/それぞれに花ひらくことを」と読みとかれている。倒置法が効いてますな。

原文は「教育は、人格の完成をめざし〜」と始まる。この「人格の完成」の一言には、「お国のために死ぬ人間」の完成をめざした愚行の反省が込められている。教育基本法の第1条は、教育の目的は「国家のため」ではない、「子どものため」である、という意志そのものである。その心が、この絵本では簡明かつ美しい言葉で表現されている。

この法律の眼目である第10条、これは全文引用。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
政府や官僚や政治家などが、教育を支配してはなりません。
教育とは、国ではなく、
わたしたちすべてにたいする直接の責任をもってなされるもの、
教える人と学ぶ人とのかかわりあいのうちに
あるものだからです。

国や自治体は、そのことをわきまえ、
施設や設備をととのえたり、予算をつけたりして、
人びとのもとめる学びをささえます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

10条の原文にある「不当な支配に服することなく」は、法案検討段階では、「政治的又は官僚的支配に服することなく」となっていた、というような大事な話も、二人の対談に載っている。

「行政は、教育環境を整えろ。しかし、教育の中身には口を出すな」、これが教育基本法の根本の精神である。で、改正したがってる人は、要するにここを変えたいわけです。ということは、これまで何度か書いてきた。これからも何度も書く。

「行政は、教育環境を整えろ。しかし、教育の中身には口を出すな」、これが教育基本法の根本の精神である。 というまさにその点を無視した形で行われたのが「都立の大学解体と首大設立」だった。そして,横浜市大でも同じことが起こっている。

学問の自由と大学の自治の危機問題 のページによると横浜市大の場合は、「中田宏横浜市長が,去る45日の横浜市大入学式において新入生を前に,『市長として、市大の中味に口を出したことは一度たりともありません』と大ウソの祝辞を述べ」,質問状に対しての回答では、「市長の市大大学改革に係わる指示といたしましては、あくまで改革の方向性や進め方に関する基本的な考え方を示したものであり、大学改革の詳細な内容について指示をした経緯はありません。」としらばっくれているようだ。

都立大学の場合には、2000(?)に都庁から送り込まれてきた川崎事務局長が、着任早々「私は設置者である」と宣言したところから始まっている。「だからどうした?」と思っていたら、<設置者は、自分達が主体となって大学改革をする>という態度を明確化し、都立短期大学を設置者権限において強行に廃止してしまった。この時、「行政の教育に対する不当な介入である」として、断固抗議して戦うべきだったと思う。組合も抗議しているが、あっという間(実際は数ヵ月経過したが、決定は知らない内に終わっていた)のできごとだった。都立大B類(夜間部)廃止も、同じような経路をたどった。

教育機関の設置者である行政当局(都立大の場合には、東京都)は、「教育環境を整える」という設置者権限しか持たないはずなのに、大学管理本部を設置し、東京都側(都知事側とも言う)のお気に入りの教員だけ(他大学の教員を含む)を集めて「東京都という行政機関のために奉仕する大学」構想を秘密裡に作り上げた。「なぜそんなことが可能だったのか?」と問われれば、<設置者権限を濫用した>からということになる。つまり、設置者である東京都(知事 and/or 大学管理本部)が「大学教育の内容に教員を再配置し、新たなでっちあげ学部と<空っぽの理念>を押し付ける形で介入した」ということに他ならない。一年たった後で、実現化のために多くの教員の手助けを求めたが、それは、最終的実務作業であり、教員が協力して大学構想を作ったということではない。最終的に「首大」が発足し、「こんな大学どこにもない!」と設置者が思い通りになったことを喜ぶ結果になってしまった。この点では、横浜市長は、『市長として、市大の中味に口を出したことは一度たりともありません』とオオウソをついたらしいから、カワイイものである。石原都知事は、胸をはって<喜びの思い>を表現している!

問題点を整理してみよう。
(1)
教育機関の設置者権限は、「教育環境を維持したり改善したりする」ところに中心がある(たとえ、設置する時に権利を行使したとしても)。教育機関の設置者には、大学組織を自分が気に入ったように(学部、学科などを)作り替える権利はない。
(2)
「お気に入りの教員だけしか入れずに行政当局が大学構想を作った」のは、不当である。大学構想を作る主体は、大学教員、大学生、大学職員である(大学の自治)。
(3)
学長、評議会、教授会、そして組合は、団結してこの介入に断固戦うべきであったが、団結力が足りなかった。

では、これらの問題点を解決するにはどうしたらよいだろうか?
答えは簡単であるが、「言うのは易し、行うは難し」である。
(1)
不当な設置者権限の解釈をする政治家(=都知事)を解任させる。
(2)
行政当局の教育への介入は、教育基本法に照らして違法であると裁判をおこす。
(3)
このような事態が、他の公立大学で起きたら、団結して拒否する。
抜け駆けして、「自分は協力します」というような教員がでないように万策を尽くすことが大切。
反対であるとの声明を出すだけでは、戦いにならない。(経験則)
署名を集めるなら、群馬大のように数十万の単位の署名が必要だろう。(経験則)
反対運動には、現代にあった実力行使が必要だろう。(今どき、昔ながらのデモをしても、その効果は怪しい。自分の生活を守るのに精一杯の教員や学生をどうやって行動に駆り立てるか、大きな課題である。)
(4)
公立大学の場合、地方議会の議会工作をする。
大学を守るために戦う議員を議会に送り込む。
ロビー活動をする。(そんなことができるだけの時間のある教員はいないか?)
議会選挙の際、都立大の事件のように「行政の介入」を許さないという態度で望む議員に投票する(議会選挙の際には、議員に公開質問状を送るのがよい。)

教育基本法を改正するなら、第十条(教育行政)の「教育は、不当な支配に服することなく」の部分を、むしろ「政治的又は官僚的支配に服することなく」と変えてもらいたい。教育を支配する政治家や官僚ほど手をつけられないものはない。「片寄った世界観」を次世代を担う子供達や若者に植えつけることは、未来の社会を危うくする。「真理の追求」という学問の本質を忘れ、行政(例えば地方自治体)に奉仕することしか考えない教育機関は、大学ではない(せいぜい、「自治体付属社会人養成所」である)。学問は自由である。憲法第二三条の本当の意味を軽視するような政治家を選んではいけない。